2018年12月7日金曜日

新連載/寒極光・虜囚の詠~シベリア抑留体験者の俳句を読む~① のどか


 ~寒さに凍えたものほど太陽の暖かさを感じる。人生の悩みをくぐった者ほど生命の尊さを知る。~ウォルター・ホイットマン(1819~1892年/アメリカ)

目次(予定)
第1章 シベリア抑留への歴史と抑留体験者の話
第2章 シベリア抑留俳句を読む
第3章 戦後七〇年を経ての抑留俳句
第4章 満州開拓と引き上げの俳句
第5章 シベリア抑留俳句・満州開拓と引き上げの俳句を読んで


第1章 シベリア抑留への歴史と抑留体験者の話

Ⅰ はじめに

 父がシベリア抑留の体験者であることに、気付いたのは、高校3年生。初恋の先輩の影響で、社会批判に関心を持ち始めた頃だった。先輩は、思春期の若者をターゲットにした民主青年同盟の活動に傾倒し、東京である政党のボランティアをしながら自立を目指していた。
 その頃の私は、その先輩との文通や、ラジオの深夜放送等の影響で生意気な事を言っていた。インターネットメールやライン等ない時代なのである。
 そんな私を見かねて父は、「社会主義の国に憧れているようだが、自由のある国が良いと思うよ。社会主義の国で暮らしたことがあるが、一生懸命働いても働いても搾取されたし、その国の人達も幸せでは無いようにみえた。今の日本では、頑張って働いたら働いた分を自分で手にすることができる。」と話してくれた。
 その話を深く理解することも無く、それきりになり、私は進学して家を離れた。
 社会人に成り、嫁に行き、初めて身籠り、帯祝いに父が来てくれた日の翌日、病院からすぐに来てほしいと呼び出された。
病院に着くと息を引き取ったばかりでまだ温もりの残る父が、ベッドに横たわっていた。享年60歳であった。
 父は、農業と酪農をして生業を立て、家族を養ってくれたがシベリア抑留のことを子どもに話すことは無く、毎日冗談を言って人を笑わせるような明るい人であった。
 もっと長生きしてくれたら、シベリア抑留の話を聞かせてもらうことが出来たかも知れないと思うと心残りである。
 子育てが一段落し、インターネットでシベリア抑留の事を調べ始めたのは、三年前になる。
 現在(平成30年)、戦後73年の時が流れ、大正14年生まれの父も生きていれば、93歳である。当時19歳~20歳で徴兵された若者も齢90歳を迎え、砂時計の砂は落ち切ろうとしている。満蒙開拓青少年義勇軍で満州の開拓民になった方は、もう少し若い。
 シベリア抑留を調べ始めた時に出会った、1冊の抑留俳句選集『シベリア俘虜記』(昭和60年刊行)。小田保氏(海程)が戦後40年目に戦争体験や抑留体験の風化を危惧して、編纂した句文集である。 
 その後の資料収集にて、俳人協会の図書室で、『続シベリア俘虜記』平成元年8月15日刊行)にも出会うことが出来た。
 それに関連する俳句集を集める一方で、シベリア抑留体験者の話を伺うため、新宿にある「平和祈念展示資料館」や「戦場体験放映保存の会」で行われる、語り部の会へ足を運んだ。
 シベリア抑留とは、第2次世界大戦の末期に戦争が終結したにも関わらず、約57万5000人の日本人がシベリアを始めとする、旧ソ連(1922年から1991年まで存在した、マルクスレーニン主義を掲げたソビエト連邦共産党による一党制の社会主義国家)やモンゴルの酷寒の地において、乏しい食料と劣悪な生活環境の中で過酷な強制労働に従事させられたことを言い、寒さと食料の不足などにより約5万5000人が亡くなったとされている(『戦後強制抑留シベリアからの手紙』平和祈念展示資料館作成)。
 抑留中の俳句は、日本語の本や資料が没収されたことや、帰還の際に持っているのが見つかると帰還が遅れるとの心配から焼き捨てられ、俳句を暗記したり、当時の新聞の余白に書き込み紙縒りにし衣類に縫い込み持ち帰ったり、二重袋にしたリュックに隠して持ち帰ったりされた物の他、帰国後に当時を思い出して詠まれたものが殆どである。
 戦後73年を経て、戦争体験者の貴重な体験を次の世代に伝える事が、難しく課題となる中で、小田保氏が残した、『シベリア俘虜記』『続シベリア俘虜記』は、とても貴重な資料であり、その功績は大きい。
 ここでは、シベリア抑留体験者の話と抑留俳句を読むことで、シベリア抑留を追体験し
するとともに、極限状態で俳句は抑留者をどう支えたのかという視点から俳句の持つ力を確かめていきたい。

0 件のコメント:

コメントを投稿