少し間をおいたが、連載を再開することとしたい。話題は子規のライバル落合直文に戻る。
[落合直文年譜②]新体詩~新派短歌時代
●明治21年(28歳)、皇典講究所(國學院大學)教師。また言語取調所(後の東京帝国大学事業となる)を上田万年らと創設。新体詩「孝女白菊の歌」(阿蘇の山里秋更けて、眺めさびしき夕まぐれ)を発表し、一世を風靡する。
[子規21歳]野球に熱中。
●明治22年(29歳)、一高講師(後に教授)、早稲田専門学校講師。「国民之友」付録「於母影」を森鴎外らと共編、日本の新体詩の草分けとなる。
[子規22歳]喀血する。→翌年(23年)、文科大学に入学。
[その他]陸羯南、2月11日「日本」を創刊。
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●明治24年(31歳)、「日本」への寄稿が始まり、近代的短歌グループ「浅香社」を創設する。
[子規24歳]→翌年(25年)、執筆した小説を幸田露伴に示すが拒否される。「獺祭書屋俳話」を「日本」に掲載。学年試験に落第し、大学を退学。家族を呼び寄せ、日本新聞社に入社する。
●明治26年(33歳)、「桜井の決別」(青葉茂れる桜井の)発表。また、シベリア横断のナショナリズム的叙事詩「騎馬旅行」発表。
[子規26歳]「日本」の文苑に俳句欄が出来る。「芭蕉雑談」掲載。
●明治27年(34歳)、(与謝野鉄幹「亡国の音」を発表。)
[子規27歳]「日本」の別動紙「小日本」(2月11日創刊、7月15日廃刊)の編集を担当。
近代文学史に先に登場するのは子規ではなく、落合直文である。直文が新体詩「孝女白菊の歌」(明治21年)、「於母影」(明治22年)という作品で知られたのに対し、子規は「獺祭書屋俳話」(明治25年)という批評からスタートした。一見活動時期は二、三年のずれにしかみえないが、年を食っていた直文を考えると、実は明治の異なる教育システムを二人は背負っていたのである。
直文には、森鴎外、陸羯南、国分青崖の友人がいたが、子規にとってこれらはすべて頭の上がらない先輩であった。だから、直文たちが維新後の第一世代とすれば、子規は第二世代に当たる。決して、直文と子規は世代内対立していない、下克上なのである。そして子規が短詩型文学で本当に世代内対立したのは、直文に師事した与謝野鉄幹だったのである。
上の年表から、具体的な直文の初期の活動を、同時代の文芸思潮と対比して感想を述べてみることにしよう。
(なお余計なことをいえば、落合直文も正岡子規も、その職業は現代では歌人・俳人と信じて疑わないがこれは間違っている。この時代、直文は国文学者(勤務形態でいえば一高教授)であり、子規はジャーナリスト(勤務形態でいえば日本新聞記者)なのであった。歌人・俳人と言う偏狭な肩書は彼らの活動を誤解させるものがあるがこのことは後に述べよう。)
【年譜②感想】
子規が漢詩から始まり俳句にいたるまでの文芸の総合的な体験の中で俳句と短歌に集中していったように、実は落合直文は新体詩・短歌・国文学研究――或いは広く新国文といってもよいかも知れないが、これらを常に併行して行っていた。明治のこの時期の書生達は、決して自分たちの活動を絞りきっていなかったのである。そして直文の最も重要なる契機は新体詩にあったのである。
(1)孝女白菊の歌
日本における詩作の開始は、『新体詩抄』(明治15年8月)の刊行に拠るが、「泰西のポエトリー」に倣い、帝国大学教官のゝ山外山正一・尚今矢田部良吉・巽軒井上哲次郎同撰により編まれたものである。外山は文学部教授だが社会学の専攻、矢田部は理学部教授、井上のみ文学部助教授で漢詩をよくした。だから、文学について見当違いの多い彼らの編んだ『新体詩抄』は子規のみならず後世の多くの詩人から、官学者の作った駄作としての評価が定まっている。
新体詩の完成は、子規が書いた如く島崎藤村を待つのであるが、その過渡として「孝女白菊の歌」(明治21年2月)は一応読むに堪え得る新体詩と見なされ、また広く普及したのであった。新体詩の評価が微妙なのは、この詩が唱歌として普及したことにもよるらしい。耳に快い直文の調べは唱歌に向いていたことは、同じ直文作の「青葉茂れる」(桜井の別れ)で広く歌われていたことからも推測される。これは決して直文の不名誉ではあるまい。
実際、「孝女白菊の歌」はドイツ語、英語にまで翻訳され、日本で最初に海外に紹介された「詩」となったのである。『新体詩抄』と直文の新体詩を比較してみよう。
抜刀隊 外山正一(ヽ山居士)[新体詩抄]
吾は官軍わが敵は 天地容れざる朝敵ぞ
敵の大将たるものは 古今無双の英雄で
これに従うつわものは 共に剽悍決死の士
鬼神に恥じぬ勇あるも 天の許さぬ反逆を
起こせし者は昔より 栄えし例あらざるぞ
敵の亡ぶるそれ迄は 進めや進め諸共に
玉ちる剣 抜き連れて 死する覚悟で進むべし
孝女白菊の歌 落合直文[孝女白菊の歌]
阿蘇の山里秋ふけて
なかめさびしき夕まぐれ
いつこの寺の鐘ならむ
諸行無常とつけわたる
をりしもひとり門に出で
父を待つなる少女あり
袖に涙をおさへつゝ
憂にしつむそのさまは
色まだあさき海棠の
雨になやむにことならず
父は先つ日遊獵(カリ)に出で
今猶おとづれなしとかや
粗雑な『新体詩抄』と比べれば、甘ったるくはあるが「孝女白菊の歌」の方が詩には近い。
もっとも、「孝女白菊の歌」には原作があり、『新体詩抄』の編者井上哲次郎が明治17年1月に郵便報知新聞に発表した404行の漢詩(7言詩)「孝女白菊詩」を翻案したものであるという。井上は、『新体詩抄』の理念に倣い、泰西の思想を漢詩に導入したものだと言う。これは十分成功したようで、井上の詩が普及したわけではないが、直文の新体詩が井上のこの考えを具現化したと見てよいであろう。要は、表現なのである。
そしてこうした直文の新しい国詩は、初めて新体詩を知る当時の人・時代に叶い、1年間に17雑誌に転載されたという。後世にまで歌いつづけられたのである。
(2)『於母影』
『新体詩抄』に対する「矢田部と外山等の新体詩は詩に非ず」(森鴎外)「かの無味たる、かの蕪雑なる新体詩を斥けむ」(落合直文)と言う志から生み出されたのが「於母影」であった。「孝女白菊の歌」の成功により一躍有名となった落合直文を加えて、森鴎外らによる『於母影』で新体詩の姿がはっきり見えてくるのである。
勸學の詩 尚今居士(矢田部良吉)訳[新体詩抄]
昔し唐土の朱文公
よに博學の大人ながら
わが學門をすゝすめんと
少年易老の詩を作り
一生涯は春の夜の
夢の如しとは嘆きけり
國の東西世の古今
人の高卑を問はずして
學の道に就くものは
いかに才能ありとても
同じ多少の感慨を
起こさぬことのあるべしや(後略)
笛の音(シェツフェル作) 落合直文訳[於母影]
少年の巻
その一
君をはじめて見てしとき
そのうれしさやいかなりし
むすぶおもひもとけそめて
笛の声とはなりにけり
おもふおもひのあればこそ
夜すからかくはふきすさべ
あはれと君もきゝねかし
こゝろこめたる笛のこゑ
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