2016年11月25日金曜日
【部分転載】座談会 「震災後の言葉の行方~詩・俳句・短歌における表現の可能性をめぐって」(2) 筑紫磐井
[まえがき2]
この座談会の中でもっとも大事だと感じたのは広瀬大志氏のこんな発言であった。
「話は飛びますけれども、今から書かなければならない詩というのは、実は次の厄災に向けて対峙し得る詩を運でいかなければならないのかなと思います。よく引き合いに出されるアドルノのアウシュビッツの譬えがありますよね。「アウシュビッツ以降は詩を書くことは野蛮だ」という文言。それはそもそも文明・文化というものが精神的な止揚によって作られているものであるのに拘わらず、その効率性を追求した結果としてアウシュビッツが起こってしまったという、文化・文明の宿命を負っているんですね。その歴史的事実のあとで、どうやって書いていくかというところにぼくたちは常に力点を置くべきである、文化・文明が更新される限りは。「沈黙せよ」と五十嵐さんはおっしゃるかもしれないんですけども、また新たな厄災は起こります。次の体験のためにいかに強度にぼくたちの自我を鍛えるかというのがひとつの道かなと、ぼくは思っています。」
筑紫:・・・「沈黙せよ」が結論じゃなくて、「沈黙せよ」と「声を上げよ」がセットになって。・・・
(広瀬:そうです、セットなんですよね、まさに。)
筑紫:そこが本当にポイントだと思うんですよね。
【事実と真実――表現の問題】
筑紫:わたくしの場合、俳句を三十年、四十年ぐらいやっていると、やはり何か自動的にある思考回路ができてくるんです。それで俳句というのは、詩や短歌とはちょっと違うのかなというふうに思いますね。思想が言葉を作り、操作するんじゃなくて、言葉が思想を作る。はみ出ちゃった言葉が後からいわば新しい思想になるとかね、もちろん詩や短歌でもそういうことものあると思うんですけど。俳句は題詠でスタートするわけですからよほどそれが強烈です。題詠で何かの思想の下に俳句を詠んで、碌なものができる筈がない。高浜虚子が花鳥諷詠が思想だと言っているのは、思想を排除しないだけでなく言葉が思想となっている、蓋を開けてみると、その言葉がとんでもない思想を作っているのではないかなと思うのです。そういう訓練を受けてくると、感じていることが幾つかあるんです。俳句の場合はテクニックの観点から見ても言語空間が極めて小さいなと思う。テクニックがはだいたい見当がつくことが多くて、そうするとやっぱり新しい思想のためにはとんでもない課題設定をするしかないのかなあという気が致します。
今おっしゃられたような観点からいくと、何かもっと俳句も短歌も、詩も(長いものもありますけども)、非常にコンパクトなことをしているわけですから。もともと言葉の選択感から誤解を受けやすいという特徴を持っているわけです、それならばそれが何か世の中を変えるようなものでないといけない。今度の福島の原発もそうですし、湾岸もそうでしたけど、(散文が語るような)普通の倫理であってはいけないと思うんです。例えば子どものために良い思いをさせたいとか、医療を受けさせたいとか、それが積もり積もって原発で色々なエネルギー源としての電力が欲しいとか。人間存在というよりは、子どもを愛すること、妻を愛すること、親を愛することは当然良いことなんだと、でもどっか一カ所でそれは悪に繋がっているというような、これはちょっと言い過ぎのところもありますけれどね。そういうのを片隅にもっていないといけない、無条件に良いことだと言っていると多分アメリカが全世界を制覇するような楽天的アメリカンスタンダードの人間が世界を覆っていくことになる。私はネガティブなところがありどちらかというと、人間が存在することが悪なんだとか、生きていくことは本当は他人に対して悪なんだとか、そういう反省的なところがどこか必要な気がしている。
筑紫:子どもを愛し、妻を愛し、親を愛するというのは、実はその思いが国家を作っている。国家の悪を皆がやっぱり加担してはいると思うんですよね。
(司会:じゃ、どうなんですか。免罪符としての表現をしないためには、何が必要なんでしょうね?)
筑紫:・・・別に免罪符にするつもりはないんだけれど何か次のメッセージ、メッセージと言っていいかは分かりませんけれど、人を動かすようなものを作るためには、今みたいなもの(意識していない悪)をベースにして言わないといけないのかなという気がしますね。
【言葉から生まれる思想①――共苦とは何か】
筑紫:・・・最悪の予言というところで、手っ取り早くアニメを例に採らせていただくと。わたしにとって代表的なアニメは、「鉄腕アトム」と「攻殻機動隊」。ただ時代の違いが如実に表れていて、鉄腕アトム[の前提としているの]はエネルギーなんですね、あそこでイメージしている最先端科学[というものは]。
筑紫:これに対して「攻殻機動隊」は生命科学と情報が最先端科学です、多分わたしは今の原発よりもっと大きな災害が起きるとしたら、これだけあまねく進んでいる生命科学、例えば全人類の遺伝子が損傷を受けるような事態、それから情報なんていうのはもっと巨大な被害が起きるかもしれない。科学の影響はそういうごくありきたりのフィクションの中で少しずつ浮かび上がってきているような気がする。そこでの責任の問われ方という場合に、まだ生命科学とか情報とかっていうのは、何が起きているか実際よく分からない。原子力で言うと、あれが起こったのはそう複雑ではないかなという気もします。・・・それらを含めてまだもっと知の責任みたいなものが本来はあるんじゃないかなと思うんです。権力が悪いと言っちゃったら、それ止まりなんだけど。その権力を支えているいろんな知の構造が全体を作ることになるという、そういう中で、やっぱりある種の責任の回避が積もり積もってこういう事態になっているんじゃないかなあと思います。だから次の生命科学と情報で大災害が起こるとしたら、例えば生命科学は沢山のお医者さんとか大学の研究者とか、あるいはわれわれ医学のメリットを受ける者の知に対する無関心・無責任から生まれてゆく。さっきの子どもが大事、親が大事という話と、そんなところで繋がってくるんです。そういう意識を少しずつでも各人が持っていない限り、もっと大きな災害禍というのは起こりかねないんじゃないかなという気がしますね。
【言葉から生まれる思想②――詠む以上は作者として傷つくべきだ】
桜井:そのときにさっき傷を負った、傷つくべきだということを筑紫さんは[いう]、詠んだ人間は作者として、詠む以上は作者として傷つくべきだ[という]。
筑紫A:少なくとも、まず評価されようとすること自身がおかしいんじゃないか。表現した以上絶対こういう批判は起こることは分かっているんだからそれは覚悟の上でやって、そこを経たのち初めて会話が成り立つと思うんですね。傷つくことによってどんな世界が広がるかは分からないけれど、よい作品を作ることが目的じゃなくて、傷つくことが目的のほうが震災俳句は真っ当じゃないかなと思うんですね。やっぱりわたしだって、詠めば詠むほど叩かれますよね。特に被害者でなければ告発は許されないのかといったら、本当にもう声は出ない筈なんだけれど。五十嵐さんが言うのはやっぱり声を上げろと、何のために上げるのかと考えると、そこに落ちていくのかなと思いますね。
筑紫B:さっき社会性俳句を例で挙げたけど、なんで失敗したのかと言うと、〈個〉が連帯して社会化しようとしていたせいではないかと思うんですよ。要するに手段化してしまうというのかな、社会性俳句という一派は。だけど社会化の方途はまだあるんで、先ほどの分類でいえば第1番目にあたるのが相馬遷子というあまりメジャーでない作家で、自分だけ長野県の地域医療に悩んで俳句をひたすら作っていく。これは誰も相談しないで自分自身に攻めて行く。確かに狭い、狭隘な俳句ではありましたけれど、個の社会化というものの一つの回答でもあると思うんです。また「社会性俳句」が生まれる前にも沢山の社会性を素材にした俳句は生まれたのであって、弾圧されましたから、そんな俳句は詠まないんですけれど、そのかわりに戦争に召集された人たちは、兵士は何もすることがないからやたらと俳句がはやったんですよね。何とか連隊の句会というのがね。そういうところで俳句ができると九十九%は花鳥諷詠でしょうけど。目の前で人が死んだり、手足が吹き飛んだり、結構驚くようなリアリズム俳句もが花鳥諷詠派から出るんですね。もちろん戦争で負けてしまったから皆内地に引き上げるんですが、そういうのが下地にあったからこそ戦後、社会性俳句というのは生まれたと思っているんです。そうじゃないと戦後になったからって、いきなり原爆の俳句が作れるのかというと詠むべき必然性がないわけです、従軍俳句はリアリズムという点でいうと相当熾烈です。
(司会:俳句として、それはあるんですね。)
筑紫C:あるんですね。だから高柳重信系の人たちが評価するのは、富沢赤黄男とか特定の人たちだけですけど、むしろ無名の俳人たちで捕虜を殺したとか少年兵を拉致したとか、そういう句が時折混じっています。やっぱり人間はそういう環境に投げ込まれてしまうと、そういう俳句も作らざるを得なくなる。余儀なく作らされる。まさに今日と比較すると、余儀なく長谷川櫂のように震災俳句を詠んだということは悪いことかというと決してわたしは悪いことではないんじゃないかなという気がこの頃はしているんですけどね。
筑紫D:わたしが感じたのは、詩だから何行の詩で、短歌だから三十一文字、俳句は十七文字でという固定観念から入らないで、何を訴えるべきかを問うべきです。わたしが思うのに、「五・七・五」、「五・七・五・七・七」、「詩」、いろいろあるかもしれないけども、もうちょっと本質的な哲学的なものが何かを知る――それによってコアを捕まえる努力というのが、それぞれの持ち味で異なるだろうという気がします。俳句は俳句に向いている仕方が、短歌は短歌であるし、詩は詩であるのだと思う。いくら事実をコピーしてもそれだけで世の中、特に詩人・歌人・俳人以外に訴えるというのは極めて難しい。やっぱり普遍性を得るような哲学みたいなものを引きずり出すために、たまたま俳句という、短歌という、詩という形式(もの)があるのかなという気がしているんですがね。
登録:
コメントの投稿 (Atom)
0 件のコメント:
コメントを投稿