2016年11月11日金曜日

【部分転載】座談会 「震災後の言葉の行方~詩・俳句・短歌における表現の可能性をめぐって」(1) 筑紫磐井


[まえがき1]

3・11以後の詩歌の表現をめぐって、詩人の広瀬大志氏、歌人の加藤英彦・松野志保・桜井健司氏、司会江田浩司氏と行った座談会がある(「Es」第29号<光の繭>「特集・ジャンルを超えて」2015年5月)。1年余り経つが、余り反響もないので備忘のためにここで私の発言部分を掲載しておきたい。わりと長文の発言が多いし、詩人・歌人に対し俳句の特性を意識しながら発言する機会はあまりないので、言い過ぎのところもあるが逆に私の考え方を自分で再発見したところもあった。 
座談会から部分的な発言を引いても十分ではないかもしれないが、他の発言者の発言についてはそれぞれの著作権もあるので省かせていただく(質疑の都合で若干引用させていただいたところもある)。

【以前と以後――何が問題か】

筑紫:・・・わたしの場合は俳句という花鳥諷詠に近い、そういう世界が身近に迫っているものですから、随分詩や短歌の世界の方々とは違う感じを持っています。でも、できるだけ詩や短歌の方々との相関を感じ取りたいなということで、今日はこの場に参加させていただいたということです。

来るにあたって悩ましかったのは、わたしも震災詠らしきものは詠んだりはしていますけれども、俳句でいうと一周年、三周年は震災大特集がありましたけど、四周年は何も行われていません。法事と同じで、都合よい数字しかマスコミというのは取り上げないものだろうと思っています。

現実の問題は、一周年であろうが四周年であろうが六周年であろうが、変わらずにやるものではないか。そうした連続した中で考えてみると、地震が起きた瞬間と、今現在、あるいは十年後とでは少し違うのかなという気がしております。地震直後の瞬間は当然、存在するものは地震の被害で、その状況を詠んでいるわけですけれども。今の時点ではわれわれの周りに膨大な震災作品ができてしまっていて、いったいこれをどう評価するかというところで必ずしも軸が揃っていない。

詠んだから良い、上手い俳句だから良いとか、そういうことだけで単純に言えるのかどうか、それを考えてみたいと思います。

 昨年[2014年]暮れに五十嵐進さんという方が出された『雪を耕す~フクシマを生きる』という句文集ですが、わたし自身は非常に考えさせられたというか、問題提起があるなと思ったので、この問題を冒頭で紹介させていただきたいと思っております。

いろいろ論じられていることの当・不当あるかと思いますけれども、五十嵐さんの考え方は一見矛盾はしているけれども、設定した軸というのはそんな間違っていないと思う。

一つは、いま五十嵐さんは福島に住んで農業をやっている、まさにセシウムとかに囲まれたなかで農作業をやっている。問題設定が非常に大事だと思うのは、彼は「その現場に、はだしで立った者にしか告発は許されない」(石原吉郎)というのです。

たくさんの作品と批評や反論があったけれど、多分そのうちの九十九パーセントは、彼のこの軸で「意味がない」と一旦はなってしまうのではないかなという気がわたしはします。わたしが作った俳句なんて全然現場に裸足で立っていませんから、非難されてもしょうがないというところがあります。

つまり、これは五十嵐さんの評価基準で言えば沈黙を強いる、苦しみを負っていない者は詠んじゃいけない。じつはわたしも、例えば角川の「俳句」で「震災俳句を三十句作って下さい」というのが流行しているのにはやや批判的なもので、そういう一種の忘恩のような、もう恩義を忘れるような作品はいかがなものかなというのを書いたんですけど。しかしそんなことを言いながら石原と違うのは、五十嵐さんは、今度はそれを採り挙げて、時間の中でどんどん風化してしまうから、忘恩の作品になっても声を上げることは大事であると、逆のことをいうのです。


 要するに「沈黙せよ」と「発声せよ」という二つを、相矛盾した要請として提示しているんです。これは、震災後詠まれてしまった俳句を考えていくにあたり大事な基準かなと思いました。

この二つの軸を据えれば、あまり滅茶苦茶に対立することもないかと思います。詠んだ以上、先ほど言ったように、現場福島で放射能に囲まれながら農作業をしている人たちに批判されてしかるべき俳句になるべきなのかと思います。だから、ある意味では詠んだ作者も傷つく。傷つかない作品、それで世の中で何か賞を獲ったりする、そんな俳句はどうもおかしいんじゃないかということです。逆に、その人が作者として傷つく以上、どれだけ見当ちがいな作品を詠んでも、それがその人にとって大事だと思うなら、作者としての必然性はあるんだろうなと思います。

わたしの俳句を正当化するんじゃないんですけれど、傷つくためにそういう作品を作る、そう意図して作っている俳句なのかどうかというのが、「詠まれてしまった」俳句を「読む」ときに、照らし合わせるべき基準なんじゃないかという気がしていますね。

一般的な社会的大事件を詠む、それで後世に残る俳句ができるというのと、今回の東日本大震災はちょっと違った捉え方をすべきではないかなという気がしました。五年、十年経ったらまた変わってしまうかもしれないんですが、今の時点で「詠まれてしまった」俳句をどう「読む」かという基準ですね、この時点、この場所での基準というようなものを思っています。

【社会詠  当事者とは誰か1】

筑紫:戦後すぐに、昭和二十年代の末から社会性俳句というのが出てきました。

当時基地、講和条約とかいろいろ社会的な問題があって、社会性俳句というのが湧き上がったんだけど、駄目になったというのが通説なんですね。なぜ社会性俳句が起こり、なぜ駄目になり、どう変わったのかというのは、あんまり過去のものだから論じられていないんです。俳人というのは器用ですから、みんな次々に転進していってしまい、その痕跡が見えないんです。

そもそも、この社会性俳句というのはマスコミが作り出したもので、昭和二十八年ごろ角川書店の編集者が社会性俳句を特集し五年以上にわたって一斉に量産させました。しかしではその前にはなかったのかと思って見たら、じつは山ほどあるんですね。

それがマスコミで系列化されて「社会性俳句」といわれる括弧つきのものになる。たとえば戦後ただちに俳句を詠み始めた人の句は、配給とかストとか娼婦とか随分と社会性に溢れ返っていたわけで、それを系列化したのがマスコミだったというのがわたしの仮説なんですね。

面白いのは、なんで社会性俳句が流行ったかというと、これは素人がキーパーソンですね、素人が、素人の目でまず詠んだんです、配給米のこととか基地闘争とかで。それが、マスコミが社会性俳句という俳句の価値体系を作った途端に、プロである青年作家たちがそこに飛びついて、彼らがマスコミの監督の下に社会性俳句を詠み出した。

だから、今回の震災俳句がマスコミとの関係でどうなっているのかは非常に関心があるところです。末路を言いますとね、社会性俳句の展開は三種類あって、

①終始一つのテーマを追求して行った人、
②次から次へ社会性の新しいテーマへ飛びついて行った人、
③抽象性や難解性を追求して前衛俳句になっていった人、です。

①の人は意外に少なく、②の人はうまく伝統俳句に転身し、③の人が前衛俳句になっていった。

こうして五年ぐらい栄えたんですが、皆飽きが来てしまった。これがある程度の歴史的な法則だとすると、今われわれが詠んでいる機会詩なり、まさに東日本大震災ってどの道を辿っているのかというのは、何かデジャブのような感じがしなくもない。

(司会:そうすると、機会詩という名の下の一過性を超えることがやはりできないという、それは要するに表現の限界として考えてもいいのでしょうか。)


筑紫:戦後世代は知恵が出なかったので、第四の道というのを現在の新しい人たちが建てられるのかどうかでしょう。


【社会詠  当事者とは誰か2】

筑紫:・・・五十嵐さんの考え方については同じ被災者同士でも批判があって。たとえば距離や飛散の方式の違いで、福島よりも実は茨城の特定地域のほうがもっと悲惨だったという人もいます。

しかし江田さんが言うように、五十嵐さんの言葉の読み方は、むしろ自分自身に対してすべての人がこの言葉をも負い目とすべきだということなのかなと思います。要するに何キロ圏何キロ圏で基準ができていて沈黙の程度が違うというのではなくて、言葉を発出してしまう人間は「裸足で作っても、告発は許されない」ということかと思います。彼の言葉の中で、それに適合する人は本来いないんじゃないかなというふうに思いました、死者は別ですけれどね。

じゃこれから何をするのかという話になってきたときに、先ほどの題詠の話にもどして、もっと題詠が進んでいる(?)のが俳句です。俳諧・俳句とはもう江戸時代から題詠の塊のような文芸ジャンルであったわけです。九十九パーセントは題詠と言っていいと思うんです。そういう本音のところから遠いところにある文芸ジャンルというものが存在することは議論の前提として認めておいていただいたほうがいいのかなと思います。

 例を挙げると、阪神大震災のときに友岡子郷さんという方が「倒・裂・破・崩・礫の街寒雀」という句で非常に評判になりました。これはこれで非常に分かるんですけれど。実はこの句が入ったのが『翌』という句集なんです。

ただ、もしこの句集に主題を設けると何なのかということですね。私が思うのは「阪神大震災の風化及び記憶喪失」、作家自身が地震が起こった瞬間は「倒・裂・破・崩・礫の街寒雀」と詠んだけれど、どんどんそれが稀薄化しているプロセスが、句集には如実に出てきます。

定型詩の機能のせいではなくて、句集・歌集というものの性格から、自己反省、あるいは次の何か自分が作り出していくようなものとは別に、ジャンル全体に引きずられていってしまう傾向があるということです。定型詩集の宿命みたいなものです。

例えば、歌集・句集という器のなかで、そうした緊張が最初からおしまいまで続くような歌集・句集、そういうものを作る方もいらっしゃるかもしれません。しかしやはり歌集・句集というのは十年間のその人の生涯が出てしまったときに、衝撃が一貫化していかない、感動・衝撃は一瞬でしかないと思います。それにもかかわらずガラッと作風が変わっていってしまうようなものがあれば、それこそが本当の震災俳句として価値があると思うんです。




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