(前略)
・・・・まず一般論で言えば、作家がいかなる作者的本質を持っているにせよ、それが作家をめぐる肉体の変化、社会環境の変化で変身することは不当ではない、従って「変身」とは一概に批判している言葉ではない。慥かに私の時評における書き方は舌っ足らずではあったが、変身は、深化であろうと、成長であろうと、劣化であろうと、「変化」と見る本質は変わらないからである。では何が違うかと言えば、氏が兜太の「社会性俳句の深化」であるとする見方に対し、私もそうした変身・深化は人間としてあるべきことだろうとは思うが(当時の兜太が威勢良く白か黒かの割り切りをしている点は揶揄しているが)、しかし、むしろ大事なのは「社会性の変化」――当時の、と言うより、平成二十八年の我々による社会性の再定義なのではないかと考えている点である。あの時代と現在とでは、同じものが違って見えるのである。
兜太の作家の本質については多分論者によって余り評価がずれることはない。例えば兜太の代表句の過半は誰があげても重なることから、評価が分かれているとはいえないのである。じっさい私が読んでみたところ、兜太を批判している草田男だろうが、狩行だろうが、その評論で、煎じ詰めれば同じようなことを言っている。しかし、(兜太が邁進した)社会性俳句に関して言えば千差万別であり、論者百人いれば百の説が成り立つ。岡崎氏のそれも、川名大氏のそれも、私のそれもずれている。その上で兜太の考えを読んでみると、私は、冒頭述べた「社会性はふたりごころである」と言う定義がもっとも素朴ではないかと考えている。もちろんそれを時代の文脈に合わせて「社会主義的イデオロギー」に言いかえても、もう少し普遍的に「態度」と言いかえても悪くはない。しかし「社会性はふたりごころである」とすれば、山本周五郎の人情小説であっても、浪曲のやくざ(例えば大前田英五郎)の世界であっても、自由民権運動(秩父困民党事件)であってもよいはずで、それらの包含を否定は出来ないのである。社会性俳句・前衛俳句のシュトルム・ウント・ドラングが過ぎ去った後、しみじみ回顧すれば「社会性はふたりごころ」と言う兜太の心理はごく自然に理解できるからである。
余談となるが、「社会性俳句」は当時の「社会性俳句」の定義の下で論じられている。赤城さかえの「戦後俳句論争史」もそうであろうし、それ以降の俳句史も同じ文脈で語られている。しかし「社会性俳句」以外の社会性に関わる俳句は、当時、ほかにも沢山あったのではないか。拙著『戦後俳句の探求』ではその一例として地域医療を詠み続けた相馬遷子(「社会性俳句」よりももっと長く二〇年以上に亘って地域医療の現場を詠み続け、しかも明らかに「社会性俳句」として一度も取り上げられたことはない)を取り上げたし、岸田稚魚など当時の鶴や馬酔木系の作家たちはおおむねこうした傾向をもっていた。ホトトギスや石楠系で検証はしていないが、全くなかったということもあるまい。だから私の関心には本論冒頭に掲げた兜太や太穂らの「社会性俳句」の一部の作家を含めても良いが、一層私が関心を持つのは、それ以外の社会性を詠んだ埋もれた俳句作家たちである。彼らは昭和二八年にあって自らを「社会性俳句」と呼ばれたいなどとは毛頭思わなかったであろうし、平成二八年にあって私も彼らを「社会性俳句」作家であったと再定義するつもりも全くない。しかし、兜太の視点に立ち返って――「社会性はふたりごころ」の視点から――何故彼らが社会性に関心を持ったかをたどることは価値があるのではないかと思っている。というか、こうした原初的な社会性がなくて、「社会性俳句」が頭の中から生まれたと考えること自体がおかしいと考えるのである。
前回も述べたように、もちろんこれは印象論にすぎない。造型俳句論のような緻密な分析を進める材料がないからである。そしてさらに印象論をつけ加えれば「ふたりごころ」と「ひとりごころ」という対概念は、造型俳句論を総合化する過程での兜太郎一流の反省ではないかと思っている。造型俳句論は、やはり何と言っても「ひとりごころ」であった。もちろんそれは兜太の周囲の社会性俳句作家・前衛俳句作家に共通しているものであり、兜太だけの問題ではない。ただ、「ひとりごころ」の造型俳句論に兜太がつけ加えるものがあるとしたら、それは乗り越えたと思った社会性俳句に残してきた「ふたりごころ」だったはずである。
その後の兜太の主張を眺めると、実はこんなものも総合化の過程で生まれた対概念ではなかったかと思う。
①孤心・連帯[寒雷三五〇号安東次男対談「孤心と連帯」]
②くろうとのたのしさ(澄雄)・しろうとのたのしさ(兜太)[「熊猫荘寸景」]
③挨拶・滑稽[海程三〇周年記念講演「現代・滑稽と挨拶」
④造型・即興[第一二句集『両神』あとがき]
⑤かたち・自己表現[海程三五周年記念講演「〈かたち〉と自己表現」]
もちろんこれは部外者の無責任な印象記と思って貰って良いのであるが、こうした概念が出てくる直前の(ひとりごころ)と(ふたりごころ)を対概念にして俳句の総合化を図ろうとする戦略は、極めて重要である。それは一直線に造型俳句論で既成俳壇に向っていった若き兜太の戦略と違っていることは間違いない。これは兜太の変身であり、深化であり、変化である。そしてまたそこには、今後の俳句のために、芭蕉を否定し、一茶―兜太という文学路線を形成しようとする(アカデミックに対する)暴力があったのである。
※詳しくは「俳句通信WEP」93号をお読み下さい。
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