2016年5月6日金曜日

【短詩時評 18にゃあ】竹井紫乙×柳本々々の猫川柳ワンダーランド-『ことばの国の猫たち』とわたしたち-




【吾輩はあいまいな猫である】

柳本々々(以下、Y) こんばんは。やぎもともともとです。さいきん〈猫ブーム〉と言われていますが、川柳界では木本朱夏さん監修で『猫川柳アンソロジー ことばの国の猫たち』(あざみエージェント、2016年)という猫をめぐる川柳のアンソロジーが出ました。そこできょうは川柳作家の竹井紫乙(たけい・し おと)さんと猫の川柳をめぐって少しお話してみたいと思います。しおとさん、よろしくお願いいたします。

竹井紫乙(以下、T) よろしくお願いします。

 で、さっそくなんですが『ことばの国の猫たち』に掲載されているしおとさんの猫の川柳を引用してみたいと思います。

  謹んで厳しい顔の猫でいる  竹井紫乙

  ガラス越し猫が私を見張る庭  〃

  猫はもう猫の気配を消している  〃

この猫川柳アンソロジーには、

  猫と私の境界線があやふやに  浮千草

という〈あいまいな魅力〉としての猫観がある一方で、
しおとさんの猫観ってこの三句をみていると、〈きびしい猫〉たちですよね。決してあいまいではない。それがおもしろいなと思って。なんていうのかな、境界を曖昧にさせないぞと思っている。馴れ合いをしないよっていうかね。それが面白いなと思ったんですよね。
猫ってまずふたつの方向性があって、ひとつは〈境界〉を溶かす。たとえばこんな句のネコバスなんかもそうかもしれませんね。

  ネコバスで走る運動会の真ん中  今井和子

これもひととネコの境界を走っている。で、もうひとつに、ぎゃくに猫がはっきりと境界をつくる場合もある。そんなふうにこの猫アンソロジーを読んで思ったんだけれども、しおとさんはこのアンソロジーを読んでいかがでしたか。

 猫がテーマでこんなに沢山のバリエーションのある句が揃うとは思っていなかったので、新鮮でした。この猫川柳アンソロジーのなかで一番心惹かれたのは、野沢省悟さんの句だったんです。野沢さんが書かれる猫は、生息場所が異次元のようです。

  欠伸していたら白猫になった  野沢省悟

  人間を止めよう猫に抱かれている  〃

  ほしいのだ猫のみつめている空を  〃

私には、野沢さんの猫こそ、境界をあやふやにする魔力を持っていると感じますね。

 そうですね、猫と人が容易に行き来している感じがしますよね。「あくび」って人間がコントロール不可能なアクションじゃないですか。ちょっとミステリアスな。それが猫の入り口になっているのがおもしろいですね。
この野沢さんの句ってひとつおもしろいなって思うのが、猫が好きとか嫌いっていう話じゃないんですよね。猫とひととの関係性の問題が川柳になっていて。で、猫川柳っていうのはそういう〈関係性〉のとりかたがさまざまに出てくるのかもしれませんね。

T 同じ地面の上に存在しているんだけれど、次元の相違を感じてしまう関係性ですね。だから、空も違って見えている。(だろう)という妄想が成立してしまう。

 猫とわたしの関係性といえば、

 わたくしを跨いで猫が出て行った  木本朱夏

という句もただそのままの情景的意味合い以上の象徴的な意味合いがあるようにも思います。〈わたくし性〉を超越する〈ねこ性〉というか。

 確かに、この句はそうですね。わざわざ、この「わたくし」を跨いで行く(笑)。大事なはずの「わたくし」が平然とないがしろにされている。でもなんか、笑える、という。

 ああ、「ないがしろ」ってたしかにそうですね。〈わたくし性〉のないがしろっておもしろい。その意味では猫と短詩の関係って深いのかも。ちなみに德永さんの猫川柳もあいまい猫たちが出てきますね。

  猫といる影をぼんやりさせながら  德永政二

  猫はまた遠いところを嚙んでいる  〃

 德永さんの猫はあの世とこの世の境目に存在していますね。もともとさんのおっしゃる通り、溶けている最中というか。あやうい置いてきぼり感が漂っています。

 ああ、ちょっと生死の境界に猫が介入してくるのも猫を考える上では大事かもしれない。


【猫耳と挫折】
 そのひとがどんな猫へのバイアスをもっているかでわたしと猫の〈関係性〉も変わってくるとはおもうんだけれど、たとえばしおとさんの猫川柳はきびしい境界的存在としての猫が描かれていますが、しおとさんにとって猫ってどういう存在ですか?

 私は猫が好きなのですが、猫は私になつきません。でも、いたずら心を刺激される存在であることに昔も今も変わりありませんから、お互い近づきすぎないのがいいんでしょうね。
一時期、お隣の猫がよく家に遊びに来てたんです。10年くらい前の話ですけど。よくベランダで遊んであげていたのですが、なかなかの凶暴猫で背中に触れよ うとしたとたんに本気でひっかかれました。猫は大人には情け容赦ないんですねー。めっちゃ痛かったです。だからと言って、全然嫌いになれませんでした。
まさに、猫って貴族ですね。野良でも飼い猫でも。猫の前では私は平民の下僕です。だからもともとさんの指摘する境界は、私と猫の間には、はっきりとありますね。

Y なるほど。今ね、しおとさんの猫のお話をうかがっていて思ったんだけれど、たぶん猫ってどれだけ人間がこちらから歩み寄ってもふいに〈そこから先は入れないよ〉っていう質感を出すことがあってそこがたとえば犬と違う点だと思うんですよね。
だから今ちょっと思ったのはひとはそんなふうに猫の領域に入れないから逆に必要以上に猫の領域に同化しようとして〈猫耳〉とかをつくってひと=ネコにしよ うとしたんじゃないのかな。犬耳はないけれど、猫耳はありますよね。あれって不思議だったんですが、でもひとが猫とのはっきりした境界を必要以上にわかっ ているからこそ、その挫折の裏返しとして、猫耳っていうネコ化するアイテムをつくったっていうことはあるかもしれませんよね。同化することができないこと の裏返しとして。
だから猫耳ってネコに対してのひとの挫折の形象なんじゃないかな。

 「猫耳」ね! あれを挫折と呼ぶならば、かなり屈折した欲望ってことになりますね。

 そう、屈折ですね(笑)

 バニーガールっていうのもうさぎの耳を付けてますけど。あ、あの人達は尻尾も付けてるか。そういえば、うさぎの耳は長くてゆらゆらしていて、人間の手で掴めますよね。猫の耳って、掴むには短いものね。
洒落じゃないけど、つかみどころがない存在って、挫折感を喚起しやすいのかも。

 ウサ耳って言葉が定着しなかったのもポイントじゃないでしょうか。なぜ、猫耳は定着したのかとか。ウサ耳はバニーガールとセットでないとつけられない理由はなんだろうとか。
猫耳の方が記号的に自由ですよね。猫耳だけで使えちゃうので。記号的に自由だっていうことはその裏返しの絶対的な近づけなさがあるのかなって。
このアンソロジーに、

  猫に石投げて当たったことがない  新家完司

という新家さんの句がありましたが、私はこれって猫に対する〈絶対的な近づけなさ〉だと思うんですよ。
どれだけ猫を対象化しても対象化できない。じぶんのものにすることができないっていう。猫はひとにとっていつまでも〈不在〉でありつづける。所有することすら、できない。だから逆に猫耳をつけて、人間のほうが猫に所有されてしまう。

 いっそ所有されてしまおう、と。それ、面白い(笑)。新家さんのこの句は、そう読むと、切ないですね。石を、物質としての「石」とは読まないで、想い として読む。また違った景色が広がるような気がします。そう読んだとしても、新家さん独特の「おかしみ」は全く損なわれませんね。

 うん、この「石」は石じゃないなって気がします。想いなのかもしれない。まなざしとか。石=意志/意思ですもんね。
ちなみにしおとさんにはこのアンソロジーに掲載されている以外の猫川柳にこんな句があります。

  ぱったりと隣の猫はもう来ない  竹井紫乙

  でっぷりと神の使いの前に猫  〃

  襖絵のふざけた猫が見せる牙  〃

  少しずつ細い目になり去った猫  〃

  叱る事ためらう猫の美しさ  〃

これらも猫に対する〈近づけなさ〉だと思うんですよね。

 そうですね。これらの句は猫と対峙していますね。


【猫をあきらめる】

 もともとさんはこのアンソロジーではどの句が魅力に思われましたか?

 これは以前から松岡さんの句集『光の缶詰』を読んで好きだった句ではあったんだけれど、

  美しき夜たれ猫の鈴外す  松岡瑞枝

がすきなんですよ。それってわたしと猫をもう関係のないものにしようとしてるきがして。
猫っていかにわたしと関係があるか、深いかが語られがちだと思うんですね。わたしはこれだけ猫が大好きだよ、って。もちろん、猫を通して絶対的な喪失感が 語られる村上春樹の小説とかもあるんだけれど、でもたいていは基本的には猫との関係性が語られる。でもこの句って、猫がいかにわたしと関係なくなるかが語 られていると思うんですよね。さようならが美しいっていう。
このさよならは美しいってある種、松岡さんの川柳のテーマにもなっているのかなとも思うんだけれど、そういう猫との関係性が喪失する現場を川柳にしている のがちょっとおもしろいなとおもって。猫とわたしが関係なくなってしまう、猫への諦念(あきらめ)を表現にするっておもしろいなって。

 この句はなかなか色気がありますね。猫自体の姿そのものがもう、色っぽいんだけれど。エロスは限定された自由の中に存在していますから、外された鈴はまた付けられるものでもあるんじゃないかな。可能性として。

 ああその読み方もおもしろいですね。鈴って付け外し可能だから、美しさが一時的なものとしてありますね。でも一時的な美しさだからこそ、美しいっていうのもあるかもしれないし。しかもどこかで鈴をつけるわたしと鈴をつけられる猫っていう非対称の立場みたいなのが語られているのもいいなって思うんですよ ね。この「美しさ」っていうのは人間側の恣意的なものかもしれないなっていう。そういうのって動物をめぐる表現にはかならず出てくる問題だと思うから。も しかしたらひとと動物の問題ってそれに尽きるんじゃないかという気すらする。

 美しいさようなら、或いは美しい諦念、というのはエゴイスティックな面もありますよね。もともとさんの言う「猫がいかにわたしと関係なくなるか」というところを考えれば、どのように関係性を喪失するかということは、一種のスリルということになりませんか?

 スリルというより、喪失感なのかな。ひとが《どう》なにかを失ったり喪失したりするのかを考えることって表現にとってはとても大事なことのように思うんですよね。短詩にはよく《遺失物》って出てくるけれど。
喪失って、表現の核になっている気がするんですよ。ひとは喪失を言語で埋めようとするから。でも実は喪失っていうのは言語で埋められないんですね。失恋と か別離もそうだと思うんだけれど、どれだけじぶんに《いいわけ》してもなかなか埋まらないものってあるんじゃないかなって思う。ひととの《別れ》ってそう いう言葉を尽くしても、ぜったいに埋まらないところがあるから。でも言葉でしかぎりぎり近づいていけないのもまた喪失だとおもう。
ただそう考えている一方でもしかしたらこんな句をみると喪失を埋めるのは言語じゃなくて猫なのかもしれないとも、おもうんですよ。

  誰もいなくて猫がぞろぞろ出て来たよ  小島蘭幸

 私も、言語だけでは喪失を埋めるのは難しいと思います。この句が象徴的なのは、猫の体温の高さですね、ぞろぞろいる。肉感というか。それもセクシャル な意味ではなくて、体感と言った方がいいのかな。動物の体温は概念よりも力強い。でも、その埋められないものの隙間に入り込んだり、欠落部分を浮かび上が らせたりするのは、やはり言葉の役割だとも思います。


【猫(わたし)は恋をする】
T ちょっと考えていたんですけれど、猫に対するスタンスは恋に似ているけれど、犬は愛かもしれない、って思いますね。

 ああ、猫と恋ってしおとさんのおっしゃる通り似ているかもしれない。実は今まで猫について語ってきたものを恋愛に置き換えてもそう不自然じゃないって いうか、むしろ自然なようにも思うんですよね。猫と恋は質量や構造として等価というか。恋って片思いと両思いがあって、ひじょうにはっきりした境界をひく 形式(片思い)と、境界が溶けて同化していく形式(両思い)があるじゃないですか。
猫と恋って形式的に似ている気がするんですよね。猫も恋もたぶん境界に向き合う行為だと思うんですね。ここまではよくて、ここからはだめだみたいなずっと そういう境界とのつきあい方が続いていく。だからひとは恋という境界的段階をやめて愛にモードを変えたり、〈結婚〉という様式的モードにしたりするのかな とも思うんです。猫的な不安をひとは捨てて、いずれ犬的な安泰にモードチェンジしようとするというか。

 「猫的な不安」って、うまい言い方ですねー。不安定さに耐えられなくなるんですね。まあ、その状態を「不安」とか「不安定」と捉えればそうでしょう。個人的には、その「猫的な不安」状態は、一番面白い状態だと思うんですけどね。

 〈結婚〉ってたぶんひとつの絶対境界だから非境界でもあると思うんですよね。暫定的な絶対性ではあるんだけれども、そのことによっておそらくは境界の ゆらぎがひとまずはなくなってしまうから。絶対的な境界って、もうゆらぎがないから境界的じゃなくなる。ゆらゆらしているのが境界ですから。ゆらがなくな ると境界は消えてしまう。でも猫はずっと境界的な揺らぎが続いていく。だからこそ、

  長グツをはいてる猫とお茶を飲む  むさし

っていう句がわたしには面白く感じられたりするんですよ。

 これはあやふやに対する肯定の句ですね。私も好きな世界観です。

 猫とわたしの〈あやふや〉をきちんと〈場所〉として明示している句のように思うんですよね。猫と人間が対等になるとき、そこには〈恋〉や〈境界〉に還 元できないような〈場〉が生まれる。「お茶を飲む」行為ってまさにそうですよね。お茶を飲むってわたしとあなたの場所が明示化される行為でもある。あなた とわたしの場所が「お茶を飲む」ことを通してつくられていく。恋ではないけれど、そこには会話があって、親密さがあって、お茶っていう行為がそもそもそう であるように宗教的な一体感もある。もちろんお茶ってカフェインも入ってるからアリスの〈狂ったお茶会〉のようなトリップするマジカルな感じもありますよ ね。恋に限りなく似ているんだけれど、恋ではないひとと猫との向き合い方がこのむさしさんの句にはあるような気がして。

 ちょっと話がずれるようだけど、お酒の席と、お茶会って、違いますものね。酒宴での無礼講って、単なる滅茶苦茶だったり、意外と建前で終わったりもす るけれど、お茶会の場合はものすごく意識的に相手との距離を測るところがある。アルコールと違って、お茶で酔うには相当頭を使います。

 それがたぶんお互いに〈場所〉をつくっていく行為なんだと思うんですよ。酒席の渦のような心地よさとは違って、渦にならないような場所のゲームを参加 者たちでやっていく。それがお茶をいっしょに飲むっていう行為なのかな。その意味では、マッドではあったけれど、アリスの狂ったティーパーティーって〈正 しい〉と思うんですよね。いかれ帽子屋や三月うさぎはそのつど規則を立てていたから。場所のゲームを。
むさしさんの句を私はいつも『おかじょうき』で拝読しているんですが、むさしさんの句には〈対等〉って主題がいつもあるように思います。それは人間と自然との〈対等〉だったり、人間と老いや病、死との〈対等〉さだったり、人間と暴力との〈対等〉だったり。

 『不思議の国のアリス』の世界に登場するウサギや、『長靴をはいた猫』の猫を、もともとさんのおっしゃる「対等」に置き換えて考えるといいのかもしれ ないですね。そうすると、この句はあやふやさを肯定しているだけではなくて、その得体の知れない存在との緊張感も含まれていると読むことができます。「対 等」というのは本当に難しくて、「対等」を保つには絶えず神経を使わねば成立しない、一種の緊張状態なのではないかとも思いますね。

 そうですね、その緊張感を思い出せるか思い出せないかってすごく大事なことですよね、たぶん。〈猫に緊張をする〉っていうこと、〈動物に緊張をす る〉ってことが。それはひいては、〈あなたに緊張をする〉、〈わたしに緊張をする〉っていう〈共‐生〉や〈共‐苦〉っていう大事なテーマにつながっていく と思いますね。


【少し犬の話もしよう】

 しおとさんが去年出された句集『白百合亭日常』はしおとさんが飼っておられる犬の写真が表紙に使われていたんですがしおとさんの犬に対する感情は猫とはどのように違ったものですか?

 我が家の犬はりりーという名前で、句集のタイトル「白百合」はこの名前に由来します。第一句集『ひよこ』後の年月を共に過ごしてきた犬です。私にとっ ては特別な存在ですが、犬はあくまで犬であって、人間のように扱うべきではないという考えです。一度夢の中で、犬が私にむかって「私だって、何でもできま す。お布団の上げ下ろしも手伝うし、お買い物の手伝いもできます。」と言いました。犬のままで。目が覚めて、何だか妙に胸が痛みました。夢、なんですけ ど。
犬は人間との距離を縮めようとして、テリトリーもどんどん広げる。けれども、当たり前に決して人間にはなれない存在です。この当たり前の現実が何だか、かなしい、と思う私はおかしいのかな。
言葉が通じなくて、良かった。と思います。存在としての境界はあるけれど、心がとても近しい間柄になってしまうのが犬。簡単に言えば、猫とは緊張感も距離もあるけれど、犬は愛です。ってことになるかな…。

 《言葉が通じなくて、良かった》ってすごく重みのある言葉だとおもいます。それもたぶんひとつの大事な点なんでしょうね、わたしたちと動物たちとの《あいだ》をかんがえるさいの。
猫と犬の違いをしおとさんのお話に沿って少しまとめてみると、猫はひととの距離感の取り方が独特というか謎めいているから恋に似ていて、犬はこちらに距離 をつめてくるので愛に近いということになるでしょうか。これはしおとさんの犬をめぐる川柳にもその風合いが出てきますね。少し紹介しましょう。

  折り返し過ぎた荒れ地で犬と寝る  竹井紫乙

  仕方ないだって私は犬だから  〃

  みんないる森には死んだ犬もいる  〃

さっきのしおとさんの猫の川柳とちがって、犬の川柳は語り手が犬といっしょに渦をまきながら〈いっしょに〉なにかをしている感じがよくでていますよね。そこでは生死もいっしょにうずをまいています。
さっきしおとさんがおっしゃっていた猫に対するのは恋、犬に対するのは愛っていうのは、もしかしたら、猫にたいしてひとは個的な態度をとって、犬にたいしては集団的な態度をとるということなのかもしれないなともおもいました。いや、親密の度合いがちがうのかな。犬って笑ってるでしょう。でも猫は笑わないか ら。なにかこう親密度が、クローズかオープンかという違いがあるきがするかもしれません。猫はクローズな親密度で、犬はオープンな親密度。そんな気がしま す。犬をめぐる散歩文化というのも公共性とかオープンネスに関係しているのかもしれませんね。

 それは本当にそうですね。犬は集団行動に向かっている生き物ですが、猫は個人的な態度を貫きますから。それに対して、人間というのは人それぞれの方向 性というものがあるので、犬や猫に対峙した時に、独特の〈わたくし性〉が浮かび上がってしまう。〈わたくし性〉って、結局はそれぞれの人の生き方や人生観 なんだと思います。

 その猫や犬を通して出てくる〈わたくし性〉っていうのがとても大事な気がしますね。わたしを通したわたくし性ではなくて、めいめいのプリズムをもった 猫や犬をとおしたわたくし性が。犬や猫をとおして〈わたくし性〉みたいなものがでてくるんだけれど、でもそれって犬か猫でちょっとちがった〈わたし〉とし てあらわれてきますよね。それがおもしろいなと思うんですよね。猫や犬はわたしに〈わたし〉の境界(ボーダー)を問いかけてくるから。

 その問いかけは、実感としてありますね。実際に生き物と暮らしていると色々ありますから、自然と考えさせられる事柄が沢山あります。


【私性と私事】

 それにしても「わたしを通したわたくし性」っていうのは、つまらないですね。広がりがないというか。犬と猫に限定しなくてもいいんですけど、色んな意味でのボーダーラインについて意識するには、どうしたって自分以外の存在が必要ですものね。

 そう、石部明さんや石田柊馬さんが〈わたくし性〉と〈わたくし事〉は違うって書いておられたけれど、そういう違いがあるんじゃないかな。わたし以外の ものを通してわたくしが出てくると逆説的だけれどはじめてそこに〈わたくし性〉が出てくる。だからわたくし性はいつも〈外部〉にあるっていうか。この外部 にネコとルビをふってもいいんですけれど。

 あはは。そのルビはいいなー。(笑)結局、自分で把握出来得る自分なんて、たかが知れている、ということですね。

 短詩って定型が大事だと思うんですが、いつも〈そこ〉を通して〈そこ以外〉の場所にたどりつく感覚だとおもうんですよね。短詩の根っこにそういう定型をとおした不思議な〈導かれ〉があるんじゃないでしょうか。
短詩の〈わたくし性〉がヘンというかフシギなのは定型があるからですよね。でもこの定型の不思議な形式ってちょっと猫の形式にも似ているようにも思いますね。定型も猫もどちらも躍動的で、静かで、謎めいていて、境界的で、リズミカルですから。
あと猫も定型も身体的ですね。とっても。さきほどお話に出た石部明さんの有名な猫句では、

  縊死の木か猫かしばらくわからない  石部明

があってこれなんかは猫の謎めいた身体的要素が「縊死の木」に連絡されていく、猫の身体の越境の句だとおもうんです。

 この句は境界どころか、全部の要素がどろどろに溶けて、混じりあう直前、みたいな状態ですね。かろうじて猫かも、みたいな。

 あっ「全部の要素がどろどろ」ってほんとそう。仏教で「山川草木悉皆成仏(さんせんそうもくしっかいじょうぶつ)」って言葉があるけれど、たとえばす べてのものには仏性があるっていう立場にたてば、ひとやモノなんて分別できなくて全部おなじなわけですよね。ひとも草も木も猫もみんな仏だから。そういう 立場にたった句だとおもう。
猫の身体句といえばわたしはとても好きなんだけれどこんな筒井さんの句もあります。

  こんな手をしてると猫が見せに来る  筒井祥文

筒井さんの猫の川柳なんかは〈わたくしの手〉を猫が問いかけているんじゃないかと思うんですよね。おまえの手はなんだ、と。俺の手はこうだ、と。でも、そ もそも〈手〉ってなんなのかと。ひとの境界、猫の境界、動物の境界、手の境界、身体の境界、認識の境界、関係の境界。そんなふうに境界のバイアスのかかり かたが動物によって試される。しおとさんが犬や猫との接し方がちがったように、変わってくる。そういういろんなボーダーがこの筒井さんの句には埋め込まれ ているように思うな。

 「手」というのはコミュニケーションのツールとして、とても重要ですよね。それをいちいち見せに来る、と。やっぱり、大きく言えば外部との関係性の問題ですね。境界って。

 しかも境界はたえず液状化しているんですよね。犬や猫はわたしと接しつつも彼ら自身がイレギュラーにランダムに行動してくるから犬や猫を通したわたく し性もたえずアメーバのように液状化している。そこにわたしがわたしをぬけていく面白さというかわたしの潜在的可能態みたいなものがつねにあるように思い ます。わたしがわたしを越えてどこにむかうのかわからない面白さのようなものが。

 「どこにむかうかわからない超えかた」、ですか。それって短詩やってる人の多くが覚えのある快感というか、感覚なんじゃないでしょうか。私の場合だ と、句を書くたびにそういう感じになれるわけではありませんが、うまくいったときにはそういう感覚になるんですね。これは当然、動物の句を書く、動物と接 するということには限定されない感覚ですが。


【私は(ねこ/ひよこ)である】

 川柳では動物がたくさん出てきますが動物と相対している句すべてに〈不思議な導かれ〉はあるかもしれないですね。しおとさんの第一句集のタイトルの『ひよこ』もたぶんそういう意味が多分にあったんじゃないかな。〈ひよこ〉というひとつの大きな導きですよね。

 タイトルというのは句集の世界の導入部ですからね。ひよこ、といえばイメージもある程度限定されます。お菓子のひよこ、縁日のひよこ、あっという間に 死んじゃうひよこ、にわとりになって食べられるひよこ、未熟者のひよこ。『ひよこ』のポイントのひとつは、書き手が女性で、20代から30代の年齢で書き 上げた句集であるという点です。だからあのタイトルでもぎりぎり、許される。例えば40代以上の書き手の句集だとしたら、ちょっと問題ありです。潜在的可 能態として、未来あるひよこを考えるにしても、あれがおじさんの書いた句集だったら、かなり怖いですよ。(笑)

 なるほど(笑)。ひよこのイメージって考えてみると豊かですね。やっぱり、動物だからですよね。わたしたちは人間とはいっても、でもどこかでいくつに なってもじぶんの〈ひよこ性〉や〈動物性〉を動物たちから教えてもらわなければならないのかなって思います。わたしたちはたぶん人間でなく、まず動物なの かもしれないので。その意味で、動物たちは私たちのずっと〈先輩〉なんですよね。荻原裕幸さんの短歌の言葉を借りれば、

  三十代に悟るべきことでもないが虹と猫とのノイズだぼくは  荻原裕幸

なのかなと思います。そういうさまざまな観念(虹)や動物(猫)が渦を巻いたノイズとして〈わたし(ぼく)〉はできあがっていることに〈中年(三十代)〉にさしかかってようやくに、きづく。そういうことなのかなって。

 動物たちから教わるという態度は大切ですね。

 それじゃあ最後にしおとさんの動物川柳を紹介してお別れしたいと思います。ちょっとした〈川柳動物園〉になっていると思います。
しおとさん、ありがとうございました。また多くの動物たちにも感謝したいとおもいます。ありがとうございました!

 こちらこそ、ありがとうございました。


  鳥になるおでんの匂いする路地で  竹井紫乙
  折り方が間違っている鶴の首  〃
  長いこと祖母は私の象だった  〃
  しとやかなオランウータン檻の中  〃 
  私より高い所に奈良の鹿  〃
  マンモスとマトリョーシカは無表情  〃
  今日からは私のものになるパンダ  〃  
  ゆっくりとインクの染みが馬になる  〃




【竹井紫乙(たけい・しおと)】
川柳作家。1970年大阪府生まれ。2005年句集『ひよこ』、2015年句集『白百合亭日常』上梓。


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