をあきのかぜと書く 裂け目 福田若之
(「書き出し あるいは始まるかという問いの欠如に伴う頭からの墜落」『オルガン』3号・2015年11月)
葛からの不在の屋敷からの道 鴇田智哉
(「目」前掲)
対岸を呼ぶ声落つる秋の水 生駒大祐
(「秋」前掲)
檀の実空が斜めになり了る 宮本佳世乃
(「みのり」前掲)
こおろぎの上五に夜のメモリあり 田島健一
(「風上差分」前掲)
ここに登場する92人は、皆名前が Fall で始まります。未知の暴力的出来事を調査する委員会から発行された名簿の名を拝借しました。名簿にある1900万人の中から代表的な人々を名簿同様ABC順に挙げます。本作品は92言語で表されており、これは最新の英語版です。
(ピータ・グリーナウェイ「ザ・フォールズ/THE FALLS」1980年『ピーター・グリーナウェイ初期作品Vol.2』紀伊國屋書店、2005年)
3時間余りの映画を見ての一般的な意見はこうです。鳥類学または鳥がもしくはさらに重要な重力による死と空を飛ぶ夢がこの現象を作る原因だというものです。どちらかというと人より鳥に関わる現象です。
(ピーター・グリーナウェイ「クリエイティブプロセス」前掲)
今回考えてみたいのが『オルガン』(3号・2015秋)の福田若之さんの「書き出し あるいは始まるかという問いの欠如に伴う頭からの墜落」からの一句です。
これはそもそも『オルガン』のなかの「テーマ詠・上五」に基づいた連作なんですが、その〈上五〉が「●●●●●」と欠けているところから始まっているというおもしろい一句です。
タイトルわきに「あるいは始まるかという問いの欠如に伴う頭からの墜落」という詞が添えられていますが、出だしから読み手はとつぜん〈墜落〉を強いられるのです。
「X(上五)」をあきのかぜと「書く」のその「書く」が、上五の不在によって失調して、〈書く〉行為が遂行しえない句になっています。目的格が不在のままなんです。
でもその一方で〈書く〉行為を遂行しえてもいるというふしぎな句になっています。「あきのかぜと書く」と語られているので、「あきのかぜ」とは書いているわけです。だから「XをYと書く」のXが不在なんだけれどもYは確定している。半ば記述しそこねつつ、半ば記述している。
【2、コンスタンス・O・ファラバー(Constance Ortuist Fallaburr)】
ズッカーマイアー語を話す中年の女性的女性です。長年、飛行に興味を抱いてきましたが、VUEで尾骨が肥大して徐々に飛べなくなりました。鳥の責任論には常に疑問を抱き、過度に重力を重視して飛行を避けています。
【25、アードナウアー・ファラッター(Ardenaur Fallatter)】
VUEから17年目の記念日に亡くなりました。VUEで身長が伸び9つの命を得ました。4つはガボンで崖からダイブしVUEの自殺者救出に使用。残り5つの命は伝記によれば、連合アフリカ会議の所有に。会議はジャンプを公開するよう彼を説得。彼は大麦畑に飛んで9つ目を失いました。チェシャーでのVUE飛行大会です。遺体はガボンで最後の望みを果たしました。崖から投げられたのです。
(グリーナウェイ「ザ・フォールズ」前掲)
で、わたし、いつも思っていたんですが、俳句でも川柳でも短歌でも出だしの5音が始まったら走り出さなくちゃならないですよね、さいごまで。
それがいつもちょっとふしぎで、これはなんなんだろうと。〈そうする以外にありえないだろうか〉といつも思っていて、でもこの句をみたときに、不在の上五というのはありうるんだろう、とおもったんです。それは任意のnでもないわけですよ。そこにはなんにも書かれていなかったわけだから。
だからこれはこういう上五に対する意識が〈不在〉や〈墜落〉となってあらわれている句なんじゃないかとおもうんですね。
【9、マシャンター・ファラック(Mashanter Fallack)】
英語は彼女にとって、鳥の学名の品位を落とす言葉でした。カナリア諸島生まれを一時は否定しました。父親は鳥小屋を作る建築家で、医者の母はプールで溺死しました。代謝が活発になり、眠れぬ夜は鳥の文学を研究、鳥用語の理解推進運動も始めました。好きなトルス・ルーパー作品は「スズメ週間」。
【26、アグロピオ・ファラヴァー(Agropio Fallaver)】
92番目の言語は彼以外話し手がおらず、彼の死で消えました。中年の女性的男性でファラヴァー語の話し手。
(グリーナウェイ「ザ・フォールズ」前掲)
で、この福田さんの〈墜落の句〉からもうひとつ思うのは、〈進化論的ベクトル〉の否定というか、実は俳句や短歌や川柳っていうのは〈進行=進化〉しかないように思える表現形態なんだけれども、〈遡行〉ってかたちがありうるのではないかっていうことなのではないかとおもうんですね。
たとえばひとは俳句や川柳なら上五→中七→下五と読んでいくし、短歌なら上の句→下の句と読んでいくわけだけれども、出だしが欠如していた場合、タイトルにもあるように「頭から墜落」していく以外にないわけです。意味的墜落というか。墜落しながら、中七や下五から〈遡行〉していくしかない。
そういう短詩の〈読み〉としての進化論的ベクトルを否定している句なんじゃないかとおもうんです。ベクトル自体が任意化されている句なんじゃないかと(〈墜落〉というのは進行方向=ベクトルを失うことですよね)。
瀬・手・音・舳・眼などをあらわす秋の声 福田若之
(「書き出し あるいは始まるかという問いの欠如に伴う頭からの墜落」前掲)
任意について考えた場合、たとえば同じ連作内にあるこれも「秋の声」を〈任意〉としてとらえた句なんじゃないかとおもうんですよ。それは「瀬」でも「手」でも「音」でも「舳」でも「眼」でも「n」でもありうるかもしれない。でもその〈どれ〉でもない。〈どれで《も》〉ありうるのだけれども。
福田さんの句は上五の〈不在〉なのだけれども、こうした〈不在〉及び〈墜落〉はたとえば茨木のり子のこんな詩にも見いだせるんじゃないかとおもいます。
わたしが一番きれいだったとき
街々はがらがら崩れていって
とんでもないところから
青空なんかが見えたりした
わたしが一番きれいだったとき
まわりの人達が沢山死んだ
工場で 海で 名もない島で
わたしはおしゃれのきっかけを落してしまった
(……)
だから決めた できれば長生きすることに
年とってから凄く美しい絵を描いた
フランスのルオー爺さんのように
ね
(茨木のり子「わたしが一番きれいだったとき」『茨木のり子詩集』思潮社、1969年)
最終連の最後の二行の「ルオー爺さんのように」の「に」から「ね」までの〈圧倒的な不在=墜落〉。
このときこれまで「わたしが一番きれいだったとき」と必ず連の頭で入っていたリフレインの音律と速度が崩れ、「わたしが一番きれいだったとき」という〈時間〉がもう誰にも(言語でさえも)埋めがたいということが、わかる。ここで音調や音律がつまずくことによって、墜落することによって、これまで順調にきた言葉の律動が、「とんでもないところから」「がらがら崩れてい」く。
「わたしが一番きれいだったとき」は戦争によってもう戻らない。その〈戻らなさ〉を〈語る〉ことで埋めるのではなく、語り〈え〉ないことで、埋め(ないかたちで埋め)る。埋められないものとして。誰も埋められない。語り手本人が埋められるわけでもない。福田さんの句の上五のように〈不在=墜落〉としてしかここは語りえない、生者も死者も語り得ない空白になっている。ここで、読み手は、墜落せざるをえない。
【11、カルロス・ファラントリー(Carlos Fallantly)】
6月12日のVUEの夜、妻の脳卒中で夫の愛は七面鳥へと移行。彼は温室に住み、七面鳥会社を経営。
【12、ミュージカス・ファラントリー(Musicus Fallantly)】
ダ・ヴィンチのメモをVUE歌の歌詞に適用。飛行のパイオニア92人を称える合唱曲も書きました。とても複雑で物語的要素が多く、飛行の種類を列挙します。主な登場人物はパイロットや飛行家、それに操縦士、ガラーなどです。ガラーはアラウ語で水上を飛ぼうとする人です。イカロスも、それでした。合唱曲はヴァン・リカールに捧げられました。1889年にエッフェル塔から身を投げたフランス人です。
(グリーナウェイ「ザ・フォールズ」前掲)
ちなみにこういう言語の墜落や失墜は、俳句や詩だけでなく、小説にもあらわれているとおもうんですね(それぞれの表現形態にあわせながらいろんなところに Fall はあらわれているのではないか)。
たとえば〈なんにも言うべきこともない空間〉を言語で構築するのがうまかった内田百閒に「件」(大正十年一月)という短篇があるんですが、「私」がとつぜん予言する半獣妖怪「件(くだん)」になってしまう物語です。
件の話は子供の折に聞いた事はあるけれども、自分がその件になろうとは思いもよらなかった。からだが牛で顔丈(だけ)人間の浅間しい化物に生まれて、こんな所にぼんやり立っている。……あんな仕構えをして、これから三日の間、じっと私の予言を待つのだろうと思った。なんにも云う事がないのに、みんなからこんなに取り巻かれて、途方に暮れた。(内田百閒「件」『ちくま日本文学001 内田百閒』ちくま文庫、2007年)
で、人々から予言しろ予言しろとせまられるんだけれども、けっきょくなにひとつ、〈言うことができない〉。最終的にこの物語は予言をひとつもできずに「大きな欠伸(あくび)」で終わるんですが、〈あくび〉という言語化/意味化できない〈非言語〉によって言う/言わない/言える/言えないの折衝が行われた物語が幕を閉じる。言語的墜落によって終わるわけです。
月が黄色にぼんやり照らし始めた。私はほっとして、前足を伸ばした。そうして三つ四つ続け様(ざま)に大きな欠伸(あくび)をした。何だか死にそうもない様な気がして来た。(内田百閒「件」前掲)
言語的墜落によってさまざまな〈裂け目〉が出てくる。ある場合には、それは茨木のり子の詩のように〈戦争下の非言語〉として出てくるかもしれないし(ひとは喪失を語れるのか)、内田百閒の小説のように〈強制される発話への抵抗〉として出てくるかもしれない(ひとは何かを語らなければならないのか)。また、それらふたつを含んだ〈非言語的発話〉としての空白から始まる福田さんの句のように、〈始めてしまうことの拒絶〉としてあらわれるかもしれない(ひとは始めることを始めなければならないのか)。
【15、スターリング・フォーランクス(Starling Fallanx)】
ベレー帽や鳥帽子、厚紙の箱のコレクターで、歌手で花火ファン、放浪者、ナイチンゲールの権威です。マニホルド渓谷に行く途中の籔でVUEに遭遇。どのVUEにも付き物ですが、彼女も不死を感じました。疑いなく娘より長生きするでしょう、孫娘や、その娘よりも。血縁関係が薄くなり絆を求められなくて、また放浪して別の家庭を持つのです。再出発の機会は無数です。ジャズ・クラブなどに行く間、彼女はかかしを探します。VUE被害者が鳥との関係を断てる唯一の場所です。
【36、カステル・フォールボーイズ(Castel Fallboys)】
VUE前は有能なパイロットでした。1階の戸口をふさぎ屋根からしか入れなくして、飛行のため筋肉の成長を抑え、足を使わずムクドリのような足取りにしました。天気が変わるとひどく不安になり、秋の夜は渡り鳥について海まで行き、いつも渋々引き返しました。(グリーナウェイ「ザ・フォールズ」前掲)
〈始まり〉の不在(或いは言語の失墜=墜落)という構造によって〈終わり〉の時間や速度さえも変わってくる場合がある。始まりがないということは終わりを意識しなければならないし、終わりから始めなければならないから。でも、不在のままの〈始まり〉は始まることはできない。始めることができないなら、終わることもできない。墜落しつづけるしか、ない。
短詩には始めから定型に内在された時間や速度が自動的に埋め込まれているのかもしれないけれど、それを構造的にズラすことはできる(〈墜落〉という未知の暴力的出来事を通して)。
福田さんの句は、そういう句なんじゃないかとおもうんです。というよりも、構造を自覚し(てしまっ)た短詩は時間や速度からズレていくしかないのではないか(読み手をも、ゆるやかに、突き飛ばしながら。墜落をゆっくりと示唆しながら)。
そうして、墜落しながらも、Fall しながらも、なんとかそこに暴力的に言葉を這わせ、沿わせていく。言葉は速度に追いつかないけれど、言葉そのものが速度をうんでいくように。おちながら。
ながれぼしそれをながびかせることば 福田若之
(「書き出し あるいは始まるかという問いの欠如に伴う頭からの墜落」前掲)
【92、アンシア・フォールウェイスト(Anthior Fallwaste)】
多くの不死のVUE被害者ができなかったことを達成。鳥威嚇地に埋葬されたのです。鳥との関係を断ちたい人々の伝説の聖域です。
(グリーナウェイ「ザ・フォールズ」前掲)
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