2015年3月6日金曜日

【俳句時評】 山本たくやの分かりやすさに関して / 堀下翔



山本たくや(1988-)が第一句集を出した。『ほの暗い輝き』(2015年/一粒書房)。「船団」「ふらここ」所属の若手作家で2011年には鬼貫青春俳句大賞を受けている。

もとより独特の文体で奇想を書く作家と思っており、句集になってそれらをまとめて読むことができるのを楽しみにしていたのだったが、収められた句を読んで筆者は、それらがあまりにも分かってしまうことにいささかの戸惑いを覚えた。一見突拍子もないことを書いているようであり、一読してその世界に胸が躍りつつ、しかし一方心の中のどこかで、これらが言っていることがよく分かるような気がした。

理科室で待ってて花火をあげるから 山本たくや

理科室と花火、という組み合わせがまず分かる。この二物を一直線上に置くことができる文脈がどこかにある。花火は化学反応の組み合わせで出来上がっているから、たとえば科学少年にとっての花火は理科室と結びついているのだ、といったふうな。それだけではない。理科室と「待つ」ということが組み合わされるのもまた分かる。筒井康隆の『時をかける少女』が理科室から始まり、少女が少年を待つ場面で終わった、ということを挙げてもよい。小説の影響があると言いたいのではない。ただ、理科室と「待つ」ということを並べて置きうる一直線をもまた、われわれは持っている気がするのだ。

われわれは無数の文脈を知っている。理科室と「待つ」ことの文脈だけではない。これがたとえば音楽室と「待つ」こと、理科室と「帰る」ことなどであっても、きっとわれわれはそのことについて何がしかを知っているような気になるだろう。

夏休み終わる!象に踏まれに行こう!

夏が終わることと象という組み合わせには類想感といって差し支えないほどの強い文脈がある。それから、象と「踏む」といえば、サンスター文具が1960年代に放送していた「象が踏んでも壊れない」という筆入のテレビCMが思われて、そうなるとそれは夏休みの少年性ともイメージを共有することになる。

一句があって、それに心が躍ることには、ほんらい、その一句がどこまで行っても完全には分かりきらないというあきらめがついて回ると思う。おどろくべきことをどれほど的確に描いているにしても、その一句自体はあらゆる文脈から切り離されていて、ゆえに得体がしれない。『ほの暗い輝き』に筆者が戸惑ってしまったのは、つまり、収められた句の多くが、文脈を明らかにしたうえで生まれているように見えたからだ。

分かることが悪いことではないと思う。ただそこにプロセスがあるかどうかということが分かれ目としてある筈だ。このような理由でこのことが分かる、ではなく、ただ直感として、分かる。そこには「なぜ分かるのかは分からない」という不可知があって、だからこそ一句が一句でありえている。

月仰いで唾ぺってもっとぺってぺってする

そういった意味でこの句には分からないという安心感があった。この「ぺって」している人間がどこかにいるだろうな、という気はする。しかし「ぺって」することが執拗に繰り返される理由は分からない。

句集あとがきに山本はこう記している。

昨年、親友が亡くなりました。自殺でした。それがこの句集を作った一番の動機です。/生きることは、歯痒いことの連続だと思います。実力とは違うところで、出身や結社の如何で、チヤホヤされる若手の俳句界もそう。/それでも、這いつくばっていれば、いつかはきっと、報われるんじゃないかと信じています。もう手遅れですが、その親友に伝えたかったことです。(中略)/こんな小さな句集ですが、いつか誰かの励みになれることを、切に願います。

若手の俳句界でそんなことが起こっているのかはよく知らないが、さておき、これを読んで筆者には本句集のイメージがすこしちがって見えるようになったものだった。親友の死と句集出版との関係性は自分には知りえないと思ったからだ。俳句を通じて感じた歯痒さに耐えることが親友の死への思いと結びつけられてはいちおういるが、その関係性は山本自身によって見つけ出され、密かに納得されたものにすぎない筈である。筆者にはそれ自体が山本の感じた歯痒さと同じものであるように思われるのだがどうだろうか。山本があとがきでことさらに記したその歯痒さは、彼の第二句集への布石として予感された。


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