2013年4月12日金曜日

赤尾兜子の句【テーマ:場末、ならびに海辺】/仲寒蝉

暗い河から渦まく蛇と軽い墓   『虚像』

川が汚くなったのはいつ頃からだろうか。江戸時代には、例えば吉原のお歯黒どぶなどはあったがあれは川とは言えまい。幕末に日本を訪れた外国人の記述などを見ると町の中は汚くとも川を流れる水はまだ美しかったと思われる。

河川の汚染が問題となるのは歴史的には足尾鉱毒事件以後だろうか。これは古河鉱業による足尾銅山開発に伴い渡良瀬川に有毒物質が垂れ流されて深刻な環境問題を引き起こしたもので、1878年頃から鮎の大量死などが起こり1891年以降田中正造が国会で質問してクローズアップされた。戦後になると所謂四大公害病のうち水俣病、イタイイタイ病、第二水俣病の三つまでもが工場排水による水質汚染に起因するものだ。1970年の水質汚濁防止法制定後は徐々に工場排水などの規制が強まり、最近では河川の汚染原因の70%以上は家庭用雑排水だとされる。いずれにせよこの句の作られた昭和30年代は最も川の汚かった時代と言えるかもしれない。

かの道頓堀川のBOD(生物化学的酸素要求量)を見ても1970年をピークに1990年代にはかなり改善している。それでもやはり道頓堀は汚いという印象が強い。カーネルサンダースの呪いで有名な1985年の阪神タイガース優勝の時に道頓堀川に跳び込んだ人たちが大勢いたが、汚泥のためにカーネルのぞうが発見できなかったほどだ。況してや兜子の頃の大阪の川はもっと汚かったであろうことは想像に難くない。以前にも話題にした映画『泥の河』に登場する土佐堀川のような雰囲気だ(尤も映画の撮影は1980年代の名古屋市の中川運河で行われた)。

さて、その時代の暗い河から「渦まく蛇と軽い墓」が現われ出るという。この蛇は「音楽漂う岸」を飢えつつ進んでいた例の蛇であろうか。ここでは川の中にいて渦を巻いている。「から」なので渦を巻きつつ沈んでゆくのではなく出てくる所と考えるのが自然であろう。蛇は泳ぐことができるのでこのような光景もあると納得できる。問題は「軽い墓」の方だ。いくら軽くても水底から墓が出て来ると言うのは異様である。これは何かの象徴なのかもしれない、とも思ったが「兜子の俳句は基本的にどんなに不自然な組合せであっても彼が目にし体験したことを詠んでいる」という単純な事実に基けば、やはり墓が渦巻く水とともに水底から浮き上がって来たのである。ちょうどカーネルを引き上げようと試みられたとき自転車などのガラクタが浮き上がって来たように。その混沌がまことに大阪らしく、また戦後らしいと言える。

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