周知の通り、今回の芝不器男俳句新人賞大石悦子奨励賞に、西村麒麟さんが選ばれました。
おめでとうございます。
以前に第1回石田波郷新人賞を受賞されているということもあり、今回の結果は、なんというか実に「麒麟君らしいなあ」という気がしました。
そして、当日ご本人に初めてお会いすることができました。
奥様もご一緒で「ああ、この方がA子さんか」と。
麒麟君には、初対面にもかかわらず思いっきり関西弁で話しかけてしまい、失礼しました。
以前「スピカ」での同僚さん(?)だったということもあり、こちらがどれだけ連載に力を注いだかという事実を縷々懇切に述べようとした途端、別の方が挨拶に来られて話が中断。
「仕方ないな」と、手元の唐揚げをもしゃもしゃと頬張るわたくし……。
それはともあれ、『鶉』について。
しかしながら、この「‐BLOG 俳句空間‐」でのキャッチコピー「虚子に1ミリ近付いた男!」というのは、一体何なのでしょうね。
よく意味がわからない……。
まあ、キャッチコピーなんて「そんなもの」なのかもしれませんが。
なにかしらのニュアンスが伝わればそれで充分というか。
『鶉』には、飄逸味のある作品が目立ちます。
これがまずベースとなっています。
あと、大景の句の存在がいくつか見られるのは、やはり「古志」だな、と。
また、「古志」ということなら、やや散文性の要素が強いのかな、という感じも。
1冊を通して、全体的にゆったりとした時間が流れている、といった趣き。
若くして、老いを演じているところがあるわけですが、時折「青春性」の要素が垣間見える部分があります。
絵が好きで一人も好きや鳳仙花
いくつかは眠れぬ人の秋灯
晩秋や小さき花束なれど抱く
ポケットに全財産や春の旅
学生でなくなりし日の桜かな
東京を離れずに見る桜かな
青梅や孤独もそつと大切に
青年期過ぎつつありぬソーダ水
ここに見られるのは、やはり20代の「青年麒麟」の姿ですね。
若さゆえの感傷や切なさが少なからず感じられます。
忘れがちの事実ですが、麒麟君は、実際に青年であり(現在30歳)、これは「青年の句集」なんですよね(それこそ20代の集大成といえるはず)。
あと、本句集における大きな特徴としては、「ユートピア的な世界への憧れ」を伴った作品がいくつも見出せるところがあります。
へうたんの中に見事な山河あり
我が庭は小さけれども露の国
鈴虫の籠に入つて遊ぶもの
秋惜しむ贔屓の店を増やしつつ
永遠の田園をゆく冬の蝶
冬ごもり鶉に心許しつつ
鉄斎の春の屏風に住み着かん
ひさご苗桃源郷でもらひけり
隋よりも唐へ行きたし籠枕
冷酒を墨の山河へ取りに行く
「へうたん」、「我が庭」、「鈴虫の籠」、「贔屓の店」、「永遠の田園」、「冬ごもり」、「鉄斎の春の屏風」、「桃源郷」、「唐」、「墨の山河」。
いずれも「安息の場所」というか、ひとつの理想郷のイメージを思わせるものがあるといえるはず。
「青年麒麟」が、なによりも欲しているのは、こういったユートピア的な場所(空間)なのではないか、という気も。
いま「ユートピア的な場所」と書きましたが、本句集において、他にもそれと同じような感じで描かれている場所があります。
それは、作者の生まれ育った「尾道」です。
初風やここより見ゆる海の街
初電車子供のやうに空を見て
坂の町尾道の子へお年玉
どの島ものんびり浮かぶ二日かな
夕焼雲尾道は今鐘の中
どの部屋に行つても暇や夏休み
夏の果さつと出て来る漁師飯
いずれも尾道の風景が、ひとつの理想郷のように描出されています。
やはり作者にとっては当然ながら、この生まれ故郷に対する思いは、大変強いものがあるといえるはず。
そして、本句集の最後の頁には、この故郷「尾道」をテーマにした作品が据えられています。
この意味は、きわめて大きなものといっていいでしょうね。
結局のところ、『鶉』は、飄逸味のある愉快な作品集であるということは勿論なのですが、それと同時に、生まれ育った尾道から巣立っていった青年麒麟の、新たなユートピア(居場所)を求めようと模索する物語が、その裏側にはひそんでいる、という風にもいえそうです。
雀の子雀の好きな君とゐて
すぐそこに蟹が見てゐるプロポーズ
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