2017年2月10日金曜日

<抜粋「俳句通信WEP」96号> 三橋敏雄「眞神」考9 戦火思望俳句と敏雄  / 北川美美



敏雄は『眞神』の上梓に於いて『まぼろしの鱶』から一気に作風を変えたと読者に印象付けた。実際に『まぼろしの鱶』に見られた新興俳句の姿は『眞神』においては影を潜め、句集全体に俳諧の印象が残ることに拠ることが大きい。具体的には『眞神』において新興俳句時の「戦争」を想起させる句は存在するが、例えば〈昭和衰え馬の音する夕かな〉を例に取れば解るように、馬が軍馬であるかどうか明らかでないのと同様、それは朧げに戦争かもしれない、という読者の脳裏に浮かぶ予測を頼りにするものに過ぎない。『眞神』における作風転換の動機、俳句に対する敏雄の思想はどのようなものだったのだろうか。私はそこに戦火想望俳句からの脱却と回帰があると強く推測する。

〈脱却〉とは、戦火想望俳句が非難され続けたことを払拭する行為であり、〈回帰〉とは、想望して無季俳句を作る、逆に無季は想望でしか作れないということを『眞神』で示したといってよいだろう。それは戦争に行かずして想像により作品を制作した手法と変わらない。〈絶滅のかの狼を連れ歩く〉が写生によって作られたものではないことは明らかだろう。

射ち来たる弾道見えずとも低し 昭和十三年 敏雄  
嶽を撃ち砲音を谺に弄らする 
砲撃てり見えざるものを木々を打つ 
そらを撃ち野砲砲身あとずさる

敏雄は戦火想望俳句を振り返り〈無季俳句成立の兼合の秘密を探る純粋に文学的な目標への挑戦〉だったという。これは『弾道』後記に残る五〇〇〇字以上に及ぶ戦火想望俳句についての記述の一節である。私は、後の作風転換の理由を、当初、敏雄が戦火想望俳句を世に出したこと、書いてしまったことに対する後悔から生まれたものと推測していた。しかしそれは大きな誤読だった。

戦火想望俳句は敏雄にとって生涯を賭け無季の芸術性を突き詰めるきっかけとなる発表であり、はじめて無季に没頭した群作だった。その戦火想望俳句が受けた非難、そして新興俳句弾圧、壊滅の経験が以降の敏雄の作風転換の原動力だったと見る方が正しいだろう。

戦火想望俳句に対するアンチテーゼを払拭する無季作品が『眞神』同時期制作の『鷓鴣』には散りばめられる。戦火想望俳句の制作は敏雄の〈想望の門出〉でもあったわけである。

敏雄がはじめに世に出たのは、戦火想望俳句を山口誓子に激賞されたことにはじまる。動詞の終止形・連体形による止めを用いるスタイルは新興俳句の指導的存在であった誓子の句を手本としたとみてよいだろう。

学問のさびしさに堪へ炭をつぐ  大正十三年 誓子
かりかりと蟷螂蜂の皃を食む   昭和七年
ほのかなる少女のひげの汗ばめる 〃  
夏草に機缶車の車輪来て止まる  昭和八年
夏の河赤き鉄鎖のはし浸る    昭和十二年

 当時のことを渡邊白泉は次のように振り返っている。

これらの作品を含む「戦争」と題する数十句を鷲つかみにして、或る日いきなりのわたくしの前に現れたのが、敏雄氏であった。その時のことを、わたくしはありありと思い浮かべることが出来る。色の浅黒い痩躰長身の美少年が眼光鋭く、句稿を読みすすむわたくしの前に坐していたその日のことを、わたくしは多分一生わすれないであろう。
 「これをまとめて発表したいの?」というわたくしの問いに、敏雄氏は、昂然と面をあげて答えた。「そうです」
 わたくしは腹を定め、他の同人に一言も相談せず、「風」という当時のわたくし達の俳誌に、その数十句を一挙に掲載した。すぐれた作品は、一日も早く発表されなければならないと考えたからである。
 (中略)それにしても、犀利な感覚であり、作句構成の技量も十八才や十九才の少年とは思われない卓抜きさであった。「砲音を谺に弄らする」「野砲砲身あとずさる」の二句の如きは、山口誓子氏の作品と、そっくり同じ手法と、音韻とを帯しているではないか
 すなわち、三橋敏雄氏は、山口誓子をしっかりと踏まえて出発した俳句作家である。

(「俳句研究年鑑」昭和四十一年)

(中略)


当時を振り返り、斎藤茂吉の戦火想望短歌に影響を受けたことを本人が語っている。

私の場合は、どうしてつくったかというと、斎藤茂吉が当時いわゆる戦火想望短歌をつくっていたわけです。斎藤茂吉は前線に行っていませんが、みずから銃をとって前線にいるような短歌が当時たくさんありますね。茂吉もやっている。だからいいだろうという一つのきっかけになったことは確かです。
 (中略)個人的にいいますと昭和何年かに陸軍大演習がありまして、軍隊が相模湾かどこかに上陸して北上する。その途中の八王子にいてわたしはまだこどもだったからその大演習にくっついてあるいていたわけです。(中略)だから私の戦火想望俳句はそういう大演習の事実をみた記憶から触発されたということもあります。

(アサヒグラフ昭和六十三年 楠本憲吉と対談)

しかしながら、戦火想望俳句は、批判・否定を突き付けられ、さらに新興俳句弾圧という不遇な道を辿る。

(中略)

「戦火想望」という言葉は、はじめ「戦争俳句」と言っていたのが、火野葦平のベストセラー『麦と兵隊』に便乗した「俳句研究」による誌上企画作品に日野草城が「戦火想望」という題をつけたことにより後に戦争フィクション俳句として一括りに使われるようになる。しかしこの名称は、すぐさまそれまでの戦地に行かず戦争を題詠にする全ての作品が非難を浴びることになる。タイトル命名により火の矢が飛んできたということだ。『弾道』後書に拠ればそれは新興俳句内部からも発せられ、〈戦場に立たぬ者が、戦場に在るかのように装って机上に表現を弄ぶ、素材主義の態度〉が不謹慎だ、という道義的観点による非難を受ける。いわば、表現としてではなく国民感情の非難に立たされる。恐らくそれは、草田男、楸邨の後に人間探求派と言われた俳人からの発言を指しているだろう。具体的には「俳句研究」の座談会における以下の発言が相当する。

私が何よりも不思議に思ふのは―身自ら、戦争に行ってゐるかの如き一種の錯覚的想像力を極度に発揮してみるやうな俳句作品を、どうして作らねばならぬのか、といふことなのです。(中村草田男) 
戦争を芸で行くとふのが、自分はこの芸をやつてゐるから、この芸の上の必要上意地でも、戦争をとりあげといふのでは困る。(中村草田男) 
僕もそれを感じてゐるのです。(加藤楸邨) 
われわれの俳句といふものを通してうたつた場合には、切実な、もっと、われわれの肉体を通して、直ぐにうたはれるものがあるんちゃないか―。(加藤楸邨) 
自分としては、自分の生活を先頭に関係のある部分だけを、ひたむきに出すことが用意ならざる問題になつてきてゐるんです。(加藤楸邨) 
戦線の弾丸飛雨のなかに生命を投げ出してゐる人がゐる時に、ただ作品の上だけで想像力だけで戦線を描いてみる、これではゆるされないと思ふんです。(中村草田男) 
(座談会「戦争俳句その他」/「俳句研究」昭和十三年八月号)

川名大『新興俳句表現史論攷』二一二頁

当時を知り得ない私が感じることは、昭和二十年代までの生年世代に人間探求派と呼ばれる師系と新興俳句を継承する師系(新興俳句は弾圧により壊滅した筈ではあるが)の微妙なる過去の対立が残っているように感じられる。いずれも先の座談会に出席している俳人から直接、生の声を聴いている世代であり、それだけ縦社会の風潮が残る世界であることを思う。

座談会で最も否定的なのは草田男であるが、気になるのは加藤楸邨の〈切実な、もっと、われわれの肉体を通して、直ぐにうたはれるもの〉という下りだ。これに対して白泉は「作者の肉体の傍らにあるものを詠うことが、最も、よく実感を捉え得るものである、というなら不賛成」と答えている。肉体を通しての作をよしとするのであれば、その後の敏雄には肉体を通しての作が極めて多い。〈晩春の肉は舌からはじまるか〉〈撫でて在る目のたま久し大旦〉〈泳ぎつつ舌に廻るや水の海〉〈老い皺を撫づれば波かわれは海〉…さてどうでしょうか、と楸邨の提言に作品を差し出していよう。

更に高柳重信の記述に拠れば、周知の弾圧により、新興俳句運動に加わった俳人の検挙のみにとどまらず新興俳句自体が総合雑誌から排除されていくことが記されている。

こうして新興俳句運動は完全に弾圧されてしまい、このあとの俳壇は、いわゆる人間探究派の手に渡ってゆくのである。たとえば山本健吉が、
わたしはひそかに新興俳句に対して不満を抱き、それがいたづらに文学臭に走って、俳句固有の目的と方法とから逸脱してゐるとしか思へなかつたので…・。
などとかたりはじめると、加藤楸邨も、
現在俳壇に動いてゐる一つの形をとつた人々の傾向に比較すれば、少なくとも私の求めようとしてゐるものなど、丁度カオスの状態だ、すでに出来上がった俳句的なものの中から一句にまとめるのでなく、今まですてられてゐた俳句になつてゐないところから切りとりたい。
なとど、早速、これに和してゆくのであった。
(中略)
この時期に人間探求派の影響を強く受けた新人たちが、あの敗戦直後の俳壇において、いわゆる社会性俳句への傾斜を一様に示し、その一部の俳人が、更に、いわゆる前衛俳句運動へ転身しようとしたことは、当時の人間探求派の俳句が何を顕著に欠落させていたかを、側面から検証するものであったろう。
 

高柳重信『現代俳句の軌跡』(永田書房/昭和五三年)88頁

どうも新興俳句側は楸邨の発言が尾を引いているような印象が残る。『眞神考』を書く以上、資料は三橋敏雄とその周囲に関する文献が中心になるため、事実を正確に把握するにはいささか偏りがあると思うが、人間探求派、伝統派が新興俳句ひいては無季俳句をどう見ていたのか、あるいは現在も大多数の歳時記に無季の項がないことにどのような思惑があるのか、今後も見ていきたい。

ここに引用する過去の発言は過去を再燃しようとすることではなく、何故敏雄が『眞神』において、作風の転換を図ったのか、何故生涯無季に拘ったのかを検証していく過程であることを申し上げておきたい。


(後略)

※くわしくはWEP俳句通信96号をご覧ください。




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