2016年9月16日金曜日

【短詩時評 26軒目】「仕遂げて死なむ」ことの不可能性ー第五十九回短歌研究新人賞候補作・小坂井大輔「スナック棺」からー  柳本々々


  放課後の夏服ひかり満ち満ちていつかあなたの死ぬ日がいやだ  武田穂佳
   (「いつも明るい」『短歌研究』2016年9月)


  ……何かを奪われている。
  わたしはそれを文化と呼ぼう。
  わたしたちは文化を奪われている。
  日々の労働、日々の消費、管理によって、
  何かを奪われている。
  街から公園から学校から労働から生活から。

   (杉田俊介「フリーターリブのために」『無能力批評』2008年、大月書店)

短歌研究新人賞の作品にはたびたび〈死〉の表象が、それはときにとても奇妙な〈死〉の表象がみられます。今回の次席、候補作品から少し引用してみます。


  木造は感じがいいね また地震きたら死ぬかね ふたりで かもね  山階基
   (「長い合宿」前掲)

  ふたをしてカップヌードルシーフード墓標のやうなロゴのあをさよ  門脇篤史
   (「梅雨の晴れ間に」前掲)

  (遺影用トレースのため残業をする人が食べる)どら焼きふたつ  和田浩史
   (「an」前掲)

そのなかでも特異な〈死〉の表象をしていたのが、小坂井大輔さんの候補作「スナック棺」です。

選考委員の穂村弘さんの選評があるので引用してみたいと思います。

  無職で金がない〈私〉の日常が「わたくしは三十五歳落ちこぼれ胴上げ経験未だ無しです」のように戯画化されつつも、生々しく表現されている。特に後半、内面の崩壊が加速してゆく様子に引き込まれる。
  (穂村弘「選考座談会」前掲)
この小坂井さんの連作は「スナック棺」というようにたえず〈死〉が潜在的に描かれています。たとえば〈死〉をめぐる三首。

  あれ 声が 遅レテ 聞こえル 死ヌのかナ だれ この ラガーシャツ の男ハ  小坂井大輔
  棺のなかはちょっとしたスナックでして一曲歌っていきなって、ママは  〃
  わたしのなかの進路指導の先生が死ぬなと往復ビンタしてくる  〃
   (「スナック棺」前掲)

こうやってあげてみるとわかってくるのが、〈死〉が〈個人の内面〉のなかで自己完結せずに、〈余剰〉として〈わたし以外の誰か〉とともにあぶれていくということです。考えてみるとその意味で、「スナック」と「棺」が接着されているのはもっともだとわかります。「棺」は〈ひとり〉しか入れない個人的なものですが、「スナック」はひとが集まり飲み食べ歌う〈わたし以外の誰か〉との場です(〈他者〉ではなくて)。それが結びついている。「棺のなか」は自己完結する場ではなくて、「一曲歌っていきな」の〈開かれた場〉です。

〈死〉がせりあがってきた瞬間、わたしが孤絶的に自己完結していくのではなくて、「ラガーシャツ の男」や「スナック」の「ママ」や「進路指導の先生」が〈わたし〉をむしろ押しのけてせりあがってくる。穂村さんは小坂井さんの連作の「内面の崩壊」を指摘されましたが、わたしはこの〈わたしの死〉がもはや〈わたしの死〉として回収されえないところに語り手の「内面の崩壊」のようなものを感じるのです。

つまり、「内面」が壊れることとはどういうことかというと、わたしの死を自己完結できないことなんじゃないかと思うんです。わたしがわたしの死を感じた瞬間、そこに「スナック」のように誰かがやってくる。「スナック」でも「棺」でもない「スナック棺」的な〈死〉。

この「スナック」(開かれる)感覚と「棺」(閉じる)感覚はこの連作においてたびたび変奏されて浮かび上がってきています。

  サファリパークみたいに祖母が窓に手をかけて話をやめてくれない  小坂井大輔
  次のかたどうぞ。の声に「あいっ」と言う 壁に気色の悪い蛾がいる  〃
   (「スナック棺」前掲)

たとえば車の窓を閉めても「祖母」は「窓に手をかけて」〈サファリパーク性〉をもたらしてくるので〈閉じる〉ことはできない。「次のかたどうぞ」と〈開かれ〉ても語り手は「壁」をみて〈閉じ〉ている。むすんでひらいて、のように閉じたり開いたりしている。

こういう閉じたり開いたりの〈舞台〉的な空間がたえず用意されてるのが「スナック棺」の空間装置のありかたです。そのとき〈死〉は所有されるものというよりは、そうした閉じたり開いたりする空間をいったりきたりするものとしてある。

たとえば上であげた「スナック」の歌も「スナック」の「ママ」は「一曲歌って《いきな》」と、いずれはこの「スナック棺」をも〈立ち去る〉ことをそれとなく言い含めているわけです。「棺」なのに。つまり、この空間では「棺」さえも〈一時的〉な立ち去る場所としてしか機能していない。

それがこの「スナック棺」に描かれた表象としての〈死〉だと思うんです。そこにはたとえば近代短歌にみられるような〈死〉が所有される感覚がない。

  こころよく
  我にはたらく仕事あれ
  それを仕遂(しと)げて死なむと思ふ  石川啄木
    (『一握の砂』1910(明治43)年)
「死なむと思」えるのは〈わたしの死〉がみずからの手に所有されてある実感です。だからこそ、死がエンド(目的=終局)になりうる。死が人生の大トリを立派につとめられる。たとえどんなに職が〈なく〉ても金が〈なく〉ても「死」だけはじぶんのものとして〈ある〉。

ところが小坂井さんの短歌は、〈死〉がじぶんのものにならず、スナックのような共同空間になっている。

批評家の杉田俊介さんは『無能力批評』において「貧困」的状況を「私には、それをすることができるのかしないことができるのか、そのこと自体がわからない、判断が《できない》」限界状況としましたが、「あれ 声が 遅レテ 聞こえル 死ヌのかナ」は「無職で金がない〈私〉の日常」によって〈死〉が象徴的に〈貧困〉化し、その死ぬことができる/できないの「判断」さえ奪われてある状況のように思えるのです。

だとしたら、

  わたくしは三十五歳落ちこぼれ胴上げ経験未だ無しです  小坂井大輔

この「三十五歳」で「落ちこぼれ」ていることの、ほんとうの疎外感とは、わたしの死すらもわたしの死として所有できないということではないかと思うんです。ほんとうに〈無い〉のは職でも金でもなくて〈わたしの所有する死〉なのではないか。

人間の基本的な〈自信〉は、①自己受容、②社会的地位、③他者からの承認、のどれか或いは複合から生まれると言われますが、もし「落ちこぼれ」という自覚から脱し(①自己受容)、「我にはたらく仕事」がちゃんとあって(②社会的地位)、そして「それを仕遂げて死」んだとしても(③「胴上げ経験」的な他者からの承認)、その「死」は所有できずに、「スナック」化し、「ママ」がでてきて、「一曲歌って」さあ「いきな」と《安っぽく》追い出されてしまうかもしれない。わたしの死なのに。
「仕遂げて死なむ」ことの不可能性。

今、社会で「落ちこぼれ」ることはもしかしたら「死ぬことの可能性」へと身をおくことではなくて、「死ぬことの不可能性」に身をおくことかもしれないという《死の象徴的な貧困化》。というよりも、「声が 遅レテ」きこえてくるような、判断がたえず留保される「自分が十分に努力したかどうか、それがわからない」(杉田俊介)ような《判断の貧困》性へと身をおくことなのではないか。そしてそれこそがが「スナック棺」の語り手が置かれている状況そのものじゃないかと思うんです。

先日、日本財団が「依然として日本の自殺率は先進7カ国で突出して高く、若年世代(15歳~39歳)の死因第1位が自殺であるのは日本だけ」として自殺意識に関する調査を行いましたが(http://www.nippon-foundation.or.jp/news/pr/2016/102.html)、わたしたちは現在、〈死〉を〈わたし〉の〈なか〉でだけでなく、或いは〈そと〉で、或いは〈なか〉と〈そと〉が交通した場所で、どんなふうに意識しているのかが小坂井さんの連作では問われているように思うんです。


もっと具体的な〈死〉への意識のひだのありようが。いや、「意識している」とはじめから成立させてしまうのではなく、その意識はどういったかたちで〈ある〉だけでなく、どういったかたちで〈ない〉のか、ということも含めて。死への意識はどこにあるんだろう、だけでなく、死への意識はどこにないんだろうというかたちで。


  無くなった。家も、出かけたまま母も、祭りで買ったお面なんかも  小坂井大輔

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