2016年7月8日金曜日

【短詩時評 二十二鬼夜行】現代妖怪川柳の宴-鬼、河童、巨眼、コロボックル、妖精、悪魔一家、その他妖怪の皆さん-  柳本々々


  妖怪は個人の歴史を共同体の歴史に転換し共有する装置なんです。普遍化するのではなく地域化するというか。妖怪は生活圏で共有することによって安心するために作られた。

    (京極夏彦「妖怪たちのいるところ 水木しげる以降の文化のゆくえ」『ユリイカ』2016年7月)

   では私のシツポを振つてごらんにいれる  中村富山人 
 (『川柳新書』第三集、川柳新書刊行会、1955年)



2016年7月号の『ユリイカ』で「ニッポンの妖怪文化」と題して妖怪特集が組まれました。


この『ユリイカ』ではまず民俗学者の小松和彦さんと小説家の京極夏彦さんの〈妖怪〉の定義と誤用をめぐる対談があったのちに、 ライトノベルやマンガ、文学、美術、歌舞伎などさまざまなジャンルを横断する〈妖怪〉へのアプローチが試みられているんですが、それでは短詩における〈妖 怪〉はどうなっているのでしょうか(ちなみに今回の時評では〈妖怪〉の定義をかなり幅広くとりますが、今回の『ユリイカ』を読むと〈妖怪〉はまずなにより も〈定義〉をめぐる存在であることがわかると思います。妖怪をどう〈定義〉してきたかにひとつの〈妖怪史〉が浮かび上がってくるのが〈妖怪〉です)。


大きなくくりで短詩と〈妖怪(的なもの)〉をめぐる関わり合いについて考えてみると、たとえば短歌では、東直子さん・佐藤弓生 さん・石川美南さんによる『怪談短歌入門 怖いお話、うたいましょう』(メディアファクトリー、2013年)が、俳句では、倉坂鬼一郎さんの『怖い俳句』 (幻冬舎新書、2012年)や、石原ユキオさんの「妖怪俳句アンテナ」『別腹』(VOL.8、2015年5月)、佐藤りえさんの連載「人外句境」『およそ 日刊「俳句新空間」』があります。

ちなみに石原ユキオさんの「妖怪俳句アンテナ」が掲載されている飯田有子さん発行の『文芸すきま誌 別腹 VOL.8』は「人外」特集になっており、松本てふこさんの「わたしの雪女」、佐藤りえさんの「人外歌境」、イイダアリコさんの「for Beautiful Nonhuman Life」、佐藤弓生さんの「生きもの図鑑」など〈人外〉と短詩をめぐるコンテンツが充実しています。川田宇一郎さんの「人外考-一般論の王国へ」も忘却 された〈人外〉の定義から出発する興味深い論考になっています。

そもそも現代の視点から〈妖怪〉を考えるときにどのような視座が有効なのでしょうか。批評家の石岡良治さんは、「妖怪」とは何よりも〈メディア的存在〉であると指摘しています。

  妖怪は、単一メディアに決して閉じえない。むしろ自身のイメージ化を通じてさまざまな媒体に取り憑いていく、もう一つのメディアなのだ。 
 (石岡良治「水木しげるの新しい学」『「超」批評 視覚文化×マンガ』青土社、2015年) 


これは水木しげるのゲゲゲの鬼太郎が漫画、アニメ、グッズ、歌、イヴェント、実写、映画、ゲーム、フィギュア、食玩、図鑑、パ ロディー、シーズンごとの更新(声優やキャラクターの入れ替え)などさまざまなメディアミックスのもと多重的に(どれもが〈本篇〉=真実ではないかたち で)生産されていったことを思えば想像しやすいのではないかと思います。

妖怪は、メディアを渡り歩きながら、メディアそのものに取り憑きながら、生きていく。実は妖怪がいる現場とは〈闇〉ではなく、〈ホットなメディア〉そのものなのです。

そしてこのメディア的存在としての妖怪をもっとも旺盛に展開したのが水木しげるでした。

たとえば水木しげるはいったんもめんを「白色」設定ではなく、容易に「赤色」設定にしてしまうときがありました。私は一反もめ んが好きだったので真っ赤、というか〈どピンク〉の一反もめんをみたときは子ども心にかなり衝撃を受けました。いったいなにを信じればよいのかと。もちろ んそうしたキャラ設定の曖昧さは水木しげるの他の妖怪にもあって、たとえば塗り壁が一つ目バージョンのものもありました。

でも石岡さんの指摘をふまえて今考えてみると、それは〈異種〉としてあったのではなく、妖怪が〈メディア的存在〉であるからこ そ、そのメディアによって容易に形態を変える視野を水木しげる自身が持っていたからではないかと思うんですね。〈ほんとうの一反もめん〉はなくて、各メ ディアに応じた〈一反もめん〉がそのつど語られる。そのつどメディアに応じてキャラ設定されている。

かつてNHKBS2で放送された『BSマンガ夜話』の「悪魔くん千年王国/水木しげる」を取り上げた回(1998年8月27 日)で興味深い指摘がなされていたんですが、それは、水木しげるは〈作者〉ではなく、〈語り部〉なのではないかということでした。つまり、〈作品〉をつく る〈作者〉ではなく、各メディアに応じて、即興的にそのつど変奏しながら妖怪を語る〈メディア〉のような〈語り部〉というわけです。

そこには一反もめんは「白」くなければならない、塗り壁は二つ目でなくてはならない、といった作品観がありません。だからたと えばアニメの『ゲゲゲの鬼太郎』にしても『ドラゴンボール』のように孫悟空は野沢雅子さんが声をあてなければいけないといった近代的な〈作品観〉がそこに はない(今は水田わさびさんの声が定着していますが、不思議なのは『ドラえもん』の声も一時期〈こう〉でなければならないという〈作品観〉がみられたこと です。鬼太郎はそれに比べて声優が交代しても受容されやすい。その違いはなんなのかは興味深いテーマのように思います)。

鬼太郎は野沢雅子さんが声をあてることもあれば戸田恵子さんがあてることもあるし、ねずみ男は富山敬さんがあてることもあれ ば、千葉繁さんが、野沢那智さんが、大塚周夫さんが、高木渉さんがあてることもある。それは〈鬼太郎〉がなによりも〈メディア的存在〉である妖怪だからだ と思うんですね。作られる鬼太郎ではなく、メディアを通して語られるさまざまな異本(バージョン/ヴァリアント)が存在する鬼太郎です。

ところで妖怪がこうした〈メディア的存在〉としてそのつどその取り憑くメディアに応じた〈変態〉をみせる以上、〈定型〉や〈川柳〉というメディアにもその特有さをもって取り憑き、渡り歩いているはずです。

〈現代川柳〉と〈妖怪〉のかかわり合いは今どうなっているのか。前置きが長くなってしまいましたが、今回はこの一点から少し考えてみたいと思います。

それでは具体的に現代川柳の〈妖怪〉たちをみてみましょう。任意でカテゴリーに分けてみました。先ほども述べましたが、〈妖怪〉として扱う範囲を〈人外〉も含めてあえてかなり広く取ってあります。

【出会ってしまった系(切断)】

   コロボックルを縛ったりしてどうするの  小池正博
     (『転校生は蟻まみれ』編集工房ノア、2016年)

   コンビニの冷蔵棚の奥の巨眼  飯島章友
     (『恐句』2016年)

   水掻きのある手がふっと春の空  石部明
     (『セレクション柳人3 石部明集』邑書林、2006年)

   たちあがると 鬼である  中村冨二
     (『中村冨二集』八幡船社、1974年)

   それも百体 人形が目をひらく  時実新子
     (『Senryu So 時実新子2013』2013早春』)

   ぬりかべに閉じ込められた水木しげる  本多洋子
     (『川柳北田辺』64号・2016年1月)


【思いを馳せる系(叙述)】


   河童月へ肢より長い手で踊り  川上三太郎
     (『孤独地蔵』1963年)

   走りたい逢いたい痛い人体図  きゅういち
     (『ほぼむほん』川柳カード、2014年)

   妖精は酢豚に似ている絶対似ている  石田柊馬
     (『セレクション柳人2 石田柊馬集』邑書林、2005年)

   悪魔一家の洗濯物がひるがえる  広瀬ちえみ
     (『セレクション柳人14 広瀬ちえみ集』2005年)

   五月晴れ小鬼が屋根をとび跳ねる  熊谷冬鼓
     (『雨の日は』東奥日報社、2016年)

   白昼快晴喉もとに棲むフランケンシュタイン  普川素床
     (『現代川柳の精鋭たち』北宋社、2000年)

   人吐いて家ふわふわと野に遊ぶ  倉本朝世
     (前掲)

   妖精はいつもあさって!!と叫ぶ  松永千秋
    (『セレクション柳人18 松永千秋集』邑書林、2006年)

   空からはきっとUFOしか来ない  くんじろう
     (『川柳北田辺』62号・2015年11月)

   ひるも夜も天人なれば空をゆく  所ゆきら
    (『川柳新書』第四十集、川柳新書刊行会、1958年)

   かまいたちというブランド鉄橋の向こう  酒井かがり
    (『川柳北田辺』65号、2016年2月)


【対処する系(能動)】

   たましいが這い出しそうで爪を剪る  樋口由紀子
     (『容顔』詩遊社、1999年)

   叶えたいことなくなって魔女になる  泉紅実
     (『シンデレラの斜面』詩遊社、2003年)

   妖精が書いた記事だと思います  竹井紫乙
     (『白百合亭日常』あざみエージェント、2015年)

   似てるんじゃ無くてネズミ男なの  一帆
     (『はじめの一歩2016』2016年)

   そういう訳で化物に進化した  筒井祥文
     (『セレクション柳人9 筒井祥文集』邑書林、2006年)

   たましいにときどき塩をふっている  赤松ますみ
     (『セレクション柳人1 赤松ますみ集』邑書林、2006年)


【言語システム系(形式)】

   追っ掛け 朧夜 鬼 嗚咽  渡辺隆夫
     (『亀れおん』北宋社、2002年)

   狼尾男の触る∞  兵頭全郎
     (『n=0』私家本工房、2016年)

   …早送り…二人は……豚になり終  川合大祐
     (『川柳カード』7号、2014年11月)

   背後霊の部屋にハイルヒットラー  飯田良祐
    (『実朝の首』川柳カード、2015年)


【人外さん系(混沌)】

   ひし形の人が電車を降りてくる  久保田紺
    (『大阪のかたち』川柳カード、2015年)

   首のない背中が人をかかえこむ  佐藤みさ子
    (『呼びにゆく』あざみエージェント、2007年)

   人間に戻ってしまう急がねば  弘津秋の子
    (『アリア』あざみエージェント、2008年)

   ともだちがつぎつぎ緑になる焦る  なかはられいこ
    (『川柳ねじまき』第2号、2015年12月)

   泣いている自然界にはない声で  丸山進
    (前掲)

   少し狂って少し毀れてラジオ体操  加藤久子
    (『矩形の沼』かもしか川柳社、1992年)

   からだからぽろぽろこぼれおちる種  守田啓子
    (『おかじょうき』2015年12月)

   リカちゃんのすじにかみつくリカちゃんのパパ  榊陽子
    (『川柳北田辺』65号、2016年2月)

   生っぽい話だ血がしたたり落ちている  岩田多佳子
    (『川柳北田辺』63号、2015年12月)

   かもしれない人がひゅんっと通過する  瀧村小奈生
    (『川柳ねじまき』第1号、2014年7月)

   鰓呼吸のころから膝を抱いていた  八上桐子
    (『くねる』Vol.3、2009年秋)

   1ミリの時空のズレを掴むチャコ  山田ゆみ葉
    (『川柳カード』4号、2013年11月)


【人外さん系(交遊)】   

   飛び跳ねて人を消す毬「ありがとう」  倉本朝世
    (『あざみ通信』第4号・1996年7月)

   夜はよろこんで窓から出ていった  徳永政二
    (『くりかえす』あざみエージェント、2014年)

   眼は泥の中にある 呼んでゐる  松本芳味
    (『川柳新書』第六集、川柳新書刊行会、1956年)

   UFOキャッチャーで掴んで持ち上げられた  大川博幸
    (『川柳の仲間 旬』205号、2016年5月)

   ゴジラの鼻をダブルクリックしてしまう  むさし
    (『おかじょうき』2015年5月)



もちろんこれはほんの一握りの句で、これ以外にも現代川柳にはほんとうにたくさん妖怪(的な)句があります。また〈解釈〉によって〈そう〉なるものもあります。

今回あえて多少〈暴力的〉にカテゴリーにわけてみたのですが、たとえばこうして暫定的に妖怪川柳マッピングをしていくことで、大きくいくつかわかってくることがあるようにおもうんです。

まず一つ目として、妖怪と〈出会ってしまったこと〉そのものを〈出会ってしまったそのもの〉として《だけ》描くという視点があ ります。その《だけ》が効果的な不気味さをうんでいる。つまり川柳における妖怪はなにが〈怪奇〉なのかといえば、川柳定型に生じる〈切断〉なのです。

川柳定型は17音で容赦なく切断されますが、その〈切断〉がそのまま出会ってしまったことの〈説明不可能性〉につながっていくわけです。「コロボックルを 縛った」あとどうするのか。「冷蔵棚の奥」に「巨眼」を見ちゃったけれどどうしたらいいのか。それは誰にも、語り手にも、読者にも、定型自身にもわからな いわけです。だから川柳にとって怪奇なことは〈怪奇なもの〉が現れていることではなく、怪奇なものが現れた《にもかかわらず》、17 音で《終わってしまう》ことなのです。それが現代川柳の《妖怪性》のひとつです。

二つ目の現代川柳の《妖怪性》は妖怪に主体を与えることです。現代川柳は事物の組成を組み替えることを得意としますが、それを 妖怪に適合する。たとえば「人体図」に「走りたい逢いたい痛い」という〈内面〉を与えることで「人体図」自身に主体を与え、組成を組み替えていく。これも ひとつの現代川柳の〈妖怪性〉だと思います。実はそもそもが事物(水や椅子やバス停)に主体性を与えようとするアニミズム的な世界観を得意とする(世界の 事物すべてが発話する世界の)現代川柳はこうした〈妖怪〉に〈内面〉を与えることが得意なようにも思うんです。

三つ目に《積極性》をあげることができるでしょう。筒井さんの「そういう訳で」という因果を語る語り口や樋口さんの「爪をき る」という対処の仕方は妖怪/怪異に対する語り手の《積極的かかわり合い》を見いだすことができます。「魔女になる」や「ネズミ男なの」と妖怪や怪奇なこ とにみずから積極的に関わっていき、その積極性を定型におさめていく。

四つ目に定型詩においては大事な点だと思いますが、渡辺隆夫さんの句の「鬼」のように〈お〉の頭韻だけで共通性をもった言語存 在の「鬼」も出てきます。これは頭の音が「お」だけで共通している言葉のなかに埋め込まれた「鬼」ですが、しかしそのことによって「鬼」の概念を言語の側 面から払拭=相対化しているわけです。そういう言語のシステム/カオス=坩堝から新しい〈鬼〉がうまれだす。また全郎さんの句では「狼男」に言語アレンジ が加わり、「狼尾男(オオカミオオトコ)」という言語存在になっています。そういう〈くちびる〉から妖怪をとらえていく。

五つ目に、現代川柳は〈人外〉としての〈名づけえぬもの〉や〈名づけえぬこと〉を描くことが非常に得意です。これはもしかした ら川柳が季語という楔を打たないことから生じているのかもしれません。季語という〈いま、ここ〉が測位可能な装置が17音定型のなかに不在である川柳は、 逆に測位不可能なものを積極的に描くことを得手とすることになった。〈名づけえぬモノ・コト〉を17音で積極的に描く。なかはられいこさんの「ともだちが つぎつぎ緑になる焦る」という〈どこにもない場所〉の〈なんともいえない出来事〉を描く(ちなみに同じなかはらさんの句に「非常口の緑の人と森へゆく」と いう〈緑〉が共振しているような句があります)。 

以上まとめてみるとわたしが考える現代川柳における〈妖怪性〉は少なくとも五つあります。

ひとつめは、定型による〈切断性〉。

ふたつめは、川柳的世界観における〈アニミズム性〉。

みっつめは、川柳の主体的語り手による怪異への積極的介入。

よっつめは、言語システムからの妖怪の形式的生成。

いつつめは、名づけえぬもの・ことへの接近と親近。

これらを総じてあえて言ってみるなら、現代川柳は〈妖怪〉を語る〈文法〉を生成しているのではないかと思うんです。

〈妖怪〉の内実を検討・吟味するのではなく、〈妖怪〉のタームを埋め込んだ構文や文法をいろんなかたちでつくりつづける。それ は妖怪と短詩をめぐる関わり合い自体にも通底していると思うんですね。詩のなかの、短歌のなかの、俳句のなかの文法的妖怪にも。文法の冒険としての妖怪、 です。それが短詩が妖怪を引き受けるときの特徴なのではないか。

『ねずみ男の冒険妖怪ワンダーランド』でねずみ男がこんなことを言っていました。

  人生はそれでいいんだ……………この世の中にこれは価値だと声を大にして叫ぶに値することがあるかね。すべてがまやかしじゃないか 
    (水木しげる『ねずみ男の冒険 妖怪ワンダーランド1』ちくま文庫、1995年)
「すべてがまやかし」をふまえた言語世界で、妖怪に向けて文法からの形式的冒険を繰り返すこと。それは内実を与えられない〈妖 怪〉的な語彙に文法の組み替えという側面からつねに向き合いつづけることだと思うんです。語彙の境界で。そもそも〈妖怪〉とはつねにその定義が、境界が、 問われる〈境界的存在〉なのですから。

「これが価値だ」という〈価値〉そのものを相対化しつつ、ねずみ男のようにつねに事物を境界化し、その境界にいつづけることを 耐え抜くこと。もちろん「ねずみ/男」だけではない。「鬼/太郎」や「目玉/親父」も半妖怪/半人間的な境界的存在であるはずです。そしてそのたえず境界 化する事物と言語の往還にこそ、現代妖怪川柳の行列が続いているようにも思うのです。

   電球の中へお葬式の行列  我妻俊樹
    (「ストロボ」『SH3』2016年5月)
  それで、わたしは妖怪千体説を唱えたんですよ。同じようなものがいて、結局、その時代にはっきりと顕在化しているのは三百 位で、陰にかくれているのを入れるとだいたい千体ぐらいいるんだろう。そのことをわたしは実証しようと思って、いろいろと像を集めているんですがね。
  (水木しげる『水木しげるのカランコロン』作品社、1995年)

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