2015年3月20日金曜日

【俳句時評】 「復興」する日本で『小熊座』を読む  / 外山一機



高野ムツオが『萬の翅』(角川学芸出版、二〇一三)で読売文学賞や蛇笏賞などを受賞し俳壇内外から注目されたのはちょうど一年前のことであった。『萬の翅』は震災詠ばかりを収めた句集ではないが、少なくとも審査員らの評言を読むかぎり、この句集に対する高い評価がその震災詠に対する評価と密接に結びついたものであったことは間違いないだろう。高野の主宰する『小熊座』がこの「吉報」を報じたのは、二〇一四年三月号の「編集後記」におけるそれが最も早いものであろう。この記事は高野の読売文学賞受賞について報じたものであったが、しかしながら、そのわずか三ヶ月後の同じ「編集後記」に次の言葉のあったことを僕は知らなかった。

今号では第七回佐藤鬼房顕彰全国俳句大会の嘱目の結果と参加記を掲載した。大会の嘱目句では選者全員の公開審査の結果、塩竃市の堀籠政彦さんの〈海底の大きな歪み浮かれ猫〉が佐藤鬼房奨励賞となった。震災詠である。今回の大会でも多くの震災句を目にした。われわれにとっては普通のことであると思う。しかし、選者のお一人である星野椿氏は、主宰誌である『玉藻』の近号で、大会での震災句の多さに「吃驚」したと述べている。鎌倉在住の椿氏にとっては率直な感想であったようだ。被災地である東北とその他の地域の間には、大震災を受け止める温度差が厳然とあることに気づかされた。 
(渡辺誠一郎「編集後記」『小熊座』二〇一四・六)

 『萬の翅』が脚光を浴びているちょうどその時、一方にはこうした状況があったことを忘れてはならないだろう。むろん、執筆者の渡辺は星野を批判しているわけではないし、僕もまた星野のこうした態度を批判するのは違うと思う。しかしこの一文は何より、『萬の翅』を読むことと東日本大震災の記憶を忘却することとが僕たちにおいて決して矛盾することではなく、むしろ同時に成立する行為であったということを今さらながら僕たちに気づかせてくれる。もっとも、このような態度を早晩僕たちがとるようになるだろうことは、すでに渡辺の予期するところであったようだ。この記事に先立って、渡辺はすでに次のように記してもいたのである。

東京に7年後のオリンピック開催が決まった。東日本大震災の地から見ると東京がまた遠い存在になったように思える。被災地への「絆」の結び目が解れて5つの輪が現れた。オリンピックはなぜか眩しすぎる。 
(「編集後記」『小熊座』二〇一三・一〇)

東日本大震災から早いもので三年が過ぎた。私の住む塩竃には、今なお仮設住宅が立ち並んでいる。被災地においては、震災遺構を保存する話も遅まきながら始まった。記憶の風化を防ぐために、津波の到達地点に桜を植えたり、記録の石碑を建立する動きもある。一方被災地のことが、全国的な話題の中から少しずつ遠くへ押しやられつつあるような気もする。時は人の記憶を薄くさせるものだ。 
(「編集後記」『小熊座』二〇一四・四)

さて、この『小熊座』は他の多くの結社誌と同様その巻頭に主宰である高野の作品を掲載している。『萬の翅』上梓後も、高野はここに少なからぬ数の震災詠を発表している。

寒夜無限地底の放射能無限(「堅雪」二〇一四・四)
疎開児童避難児童も春夕焼(「初桜」二〇一四・五)
花万朶被曝をさせし我らにも(「紙屑」二〇一四・六)
鬱金桜の鬱金千貫被曝して(「蕗の下」二〇一四・七)
西瓜の皮その先は闇原子炉も(「奥歯」二〇一四・一〇)
児童七十四名の息か気嵐は(「冬鷗」二〇一五・一)
蓬莱に盛れ汚染土の百袋を(「仙台白菜」二〇一五・三)
冬眠の心臓原子炉より熱し(同前)

 『萬の翅』では「車にも仰臥という死春の月」など震災を生々しく詠んだ句が目立ったが、最近の作品では震災の記憶や原発を詠んだ句が多いようだ。ここに挙げたのはほんの一部であって、震災詠とはっきり断定できないものまで含めればその数はもっと多くなる。正直に言えば、僕は高野が今なおほとんど毎号のように震災を詠み続けていることに驚いている。いったい高野はいつまで震災詠を続けるのだろう。震災を詠み続けることが今後ますます困難になっていくであろうことは容易に想像がつく。僕たちはきっと震災を忘れていく。仮に今から十年の後、いったい誰が東日本大震災を詠み続けているだろうか。震災発生直後、あれほど震災詠に躍起になっていた僕たちだけれど、僕たちにとっての東日本大震災の耐用年数など結局その程度のものなのではないだろうか。またそれにくわえて、僕には―高野がこんなふうに詠み続けることに眉をひそめる読者が出てこないとは思えないのである。たとえば僕は、こうした句を東北で農業を営む人々がどのように受け取るのか知らないし、想像もつかない。けれども、本来東北で震災詠を続けるということは相当に覚悟の要ることであるはずだ。

僕は震災詠を続けていることが良いことだとか、やめてしまうことはいけないのだとかいいたいのではない。もとより高野にしても―震災は重要なテーマにちがいないであろうが―決して震災を詠むことばかりにこだわっているわけではないだろう。高野のこれまでの仕事を見るかぎり、その作家としての本懐はむしろ東北における人間や生きもの、あるいは海や山といったあらゆる存在の生と死を、ときに時空さえ超えながら見つめ続け詠い続けるということにこそあるように思う。したがって、高野における震災詠とは、その本懐を遂げるうえで必然的に選択されたもののひとつであり、二〇一一年から今日にかけてはその比重が他よりも圧倒的に大きかったのだと捉えたほうが適切であろう。実際、高野の最近作二〇句(「仙台白菜」『小熊座』二〇一四・三)のうち、震災詠とはっきりわかるのは二句だけなのである。そして、それでよいのだと思う。高野は震災後のみを生きているのではない。高野は震災の前から生きていたし、震災後も生きているのだ。そのような高野であればこそ、その震災詠がたしかな射程を持ちうるのではなかったか。

とはいえ、こうした句を詠み続ける高野はいまや特異な存在と化しつつあるのではないだろうか。そして高野だけでなくこの一、二年の『小熊座』は、震災の記憶が早くも風化しつつあるなかで震災と向き合い続けることの困難を抱え続けてきたように思われてならない。

たとえば『小熊座』には「小熊座の好句」と題された高野の連載記事がある。これはその名の通り高野がいくつかの句をとりあげ、その鑑賞文を綴ったものである。巻頭の高野の句が『小熊座』というコミュニティで共有される俳句作品の代表であるとすれば、この鑑賞文において披瀝される高野の俳句観や美意識もまた『小熊座』の共有するものであろう。震災後の「小熊座の好句」を辿っていくと、高野が自身の置かれた困難な状況と対峙しているさまが垣間見える。それを端的に示しているのは「行く夏のからとむらひか沖に船」(栗林浩)についての一文であろう。高野はこの句について語るとき、次のような言葉から始めなければならなかった。

 東日本大震災から三年半過ぎた。この間、復興が声高に語られ、瓦礫撤去や整地、建造物再建もそれなりに進められてきた。これに景気高揚との威勢のよい掛け声も加わって、ともすると、震災からの復興は、もう果たしたのだという錯覚に陥る人も多いようだ。しかし、それは情報社会がもたらす陥穽であって、例えば、津波被災の沿岸部を垣間見るだけでも、復興はまだまだだと誰もが納得するだろう。まして、目には見えない部分、例えば、一家庭、一家族の有り様やその未来への不安や課題に焦点を充(ママ)てれば、私も含め、当事者以外に入る(ママ)込むことができない闇をたくさん内包している。まして、汚染水の処理一つに未だ綱渡りの福島原発被災の未来はまったく展望できないわけで、これ以上深刻化する可能性もある。ことに精神面の復興は、むしろ、より被災が深まりつつあるのではないか。(略)東日本大震災後もまた、人の心が抱える闇は、これからも長く、深く広まっていくと覚悟しなければならないのである。そして、そのことに俳句はどう向き合うことができるか。課題はあまりにも大きくて重い。 
(『小熊座』二〇一四・一〇)

高野はこれに続けて「句の関わりのないことを書きつらねたように見えるかも知れないが、掲句もそうした問題意識を持って生まれた作品であると感じたので、あえて書かせていただいた」と記している。高野にとって俳句を読む行為とは、たとえば先の句とこのように向き合うということなのである。僕たちはこうした高野の読む行為の切実さにどこまで想像力を及ぼすことができるだろう。僕は、このような読みかたが適切であるとか、このような読みかたが栗林のこの句にとって幸福なことであるとか、そういうことをいいたいのではない。ただ僕は、このような高野の読む行為を高野と僕たちとがいずれ共有できなくなるであろうと予想される寂しい未来のとば口に立っているひとりとして、せめて今だけでも高野の読む行為に対して謙虚でありたいと思うのである。

たとえば高野は「日高見の小吹雪光伴ひて」(関根かな)に対し「日高見は下流一帯のことだから、そのまま東日本大震災の被災地に重なる。それゆえ『小吹雪』を自然現象の吹雪としてのみならず、津波で亡くなった幼子の化身とも想像してしまう」と書き、また同じ筆で「白木蓮や魂に不明者なんて無し」(さがあとり)には「この句の『不明者』も津波の死者とは限らないはずだが、どうしてもそう読めてしまう」と書く(『小熊座』二〇一四・五)。けれど、これらの句を高野のしたように読む必然性を、おそらく僕たちは持たないだろう。もとより読みは多様であっていいのだから、どちらが正しいというわけでもないし、高野にしてもそんなことを知らないはずはない。でも、だからこそ僕は、高野が「津波で亡くなった幼子の化身とも想像してしまう」「どうしてもそう読めてしまう」と言い添えてまで、多少の無理をはらんだ自らの読みを僕たちに差し出した意味を考えないわけにはいかないと思う。僕たちはきっと、このような読みが自らの読む行為の必然的帰結としてありえた人間のいたことなど忘れてしまうだろう。

さらにいうなら、高野において読む行為とは詠む行為と不可分のものなのであって、高野の読みに思いを致すことは、そのまま高野の作家としてのありように思いを致すことでもあるのだ。

遺されしことも忘れて日向ぼこ     塚本万亀子

たとえばこの句について高野は「どうしても大震災後の思いと読んでしまう」(『小熊座』二〇一四・四)と書く。興味深いことに、同じ号で高野は「瓦礫失せしことすら忘れ春渚」いう句を発表している。言いまわしは似ていても内容の異なるこの二句の間に何らかの影響関係があるのかどうか、僕は知らない。ただ、本来震災詠とは断定できない塚本の句が、「どうしても大震災後の思いと読んでしまう」という高野の読みによって震災詠へと転換されたことと、高野に震災詠を思わせる「瓦礫失せし」の句があること、そしてたとえ偶然であるにせよその両者に類似する点が見出せることは看過できない問題であろう。高野によって句を読むことと詠むこととが一つのことであって決して二つのことではないらしいことは、次の句の読みにおいてもうかがえる。

枯蘆のなかに立ちたる初詣       浪山克彦

 高野は「辺り一面蕭条たる枯蘆原、その真っ只中に一人立っているのである。たぶん、そこも津波の被災地であろう」と記している(『小熊座』二〇一五・三)。蘆は高野が繰り返し句に詠み込んできた重要なモチーフである。『萬の翅』にも「泥かぶるたびに角組み光る蘆」といった句があるが、『萬の翅』以後も「揺れ止まぬのは蘆の意志蘆の花」(「怒涛音」『小熊座』二〇一四・一)がある。浪山の句の「枯蘆のなか」を「津波の被災地であろう」と読むのは、この句が震災後の『小熊座』に発表されたという文脈を踏まえないかぎり困難であろう。だが、この高野の読みによって、僕たちは浪山の句よりも前に発表された高野自身の「蘆」のありようを―さらには高野の震災詠のありようをうかがい知ることができるのである。



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