2016年10月14日金曜日

【抜粋】「俳句通信WEP」94号(10月刊) 中村草田男の現代性・社会性(1) / 筑紫磐井



▼はじめに

現代の若い世代の人々は、――と括ってしまってはいけないが、俳句に専念する中で、社会に無関心な傾向が生まれている。もちろん、関悦史、北大路翼、椿屋実梛、中山奈々のような何らかの意味で社会に対する態度を歴然とさせている作家もいる。しかし一方で、例えば雑誌「オルガン」に参加する若い作家は共通した志向があるように見えた。例えば震災俳句に対し、「オルガン」の五人のうち、二人はこれを受け入れがたいと言明し、一人は無関心だと述べ、二人は震災俳句に対して懐疑的である(不向きである、ないし震災俳句があるかのように思うことの否定)。個別の作品以前のところで否定的な態度がみられるのである。

若い人たちが、社会に関心がないからといって非難されるべきことではない。趣味は多種多様に発揮されるべきだからだ。しかし、社会がそうした若い人たちを置き去りにして過ぎて行くと考えるのは――これは間違いである。無関心であろうと、関心を持っていようと、あらゆる人々を社会は放置してくれはしないからである。若い人たちが、社会に無関心でいるというのは、そうした若い人たちを放置してくれない社会に対しても「無関心でいる」ということに他ならない。もしそれを宿命と呼ぶとすれば、宿命に対して無関心でいるということである。それはそれで、非暴力主義に近い毅然とした、立派な態度である。かなりつらいものがあるが、愚痴など言わずその態度を全うさせてほしい。

院政時代に比叡山にこもって修行をしていた宝地房証真は、その時代が源平の争乱時代であったことを知らなかったという。清盛のことも、頼朝のことも知らなかったのである。現代にあって総理を知らないどころの比ではない。そう、政権争いよりもっと大切なことが証真にはあったはずである。それはそれで尊敬するに足りる(じっさいそのとき証真の著した『天台真言二宗同異章』は今日に残る名著と評価されている)。しかし、そういう時代超越をするためには、時代だけでなく、家族も、仲間も、職場も、俳壇も超越してもらわないとバランスが取れないだろう。とりわけ若い作家たちが、仲間たちにだけ濃密な関心を維持するのはやや不満である。証真が立派なのは、世間も、家族も、天台宗内の名誉も超越して、良心にのみ従った点である。だから、世俗にまみれた我々は、やはり社会に無関心ではいられないのである。

こうした二極分化した時代にあって、中村草田男を考えることの現代的意義は、私は何よりも社会性を考えるということではないかという気がしている。草田男についてはもっとさまざまに考えることがあると人はいうが、そうしたどれよりも、現代にあっては、社会性を考えることが草田男を考えることになるのではないかと思う。現代で草田男を考えるということ、いいかえれば草田男の現代的意味、――若い作家たちの考えるべき意味とはそこにあるのではないかと思う。

(中略)


▼社会性の周辺を振り返る

 冒頭に若手世代と社会性の話を掲げたので、最後に同じく若い世代と俳句の話を取り上げてみよう。

社会性俳句は、機会詠であることが多い。まさに人が死んだり事件があったりしたことによって生まれた機会詠だ。機会詠として今もって記憶され残っている作品は昭和三六年一〇月に日本社会党の浅沼稲次郎委員長が刺殺された時の作品、

十代の愛国とは何銀杏散る 長野 松井冬彦

ではないか。刺殺犯は山口二矢(おとや)、当時一七歳(高校中退)で、我々のよく知る浅沼刺殺の衝撃的な写真では、犯人が学生服を着ている。だからこそ「十代の愛国とは何」の言葉がよく共感を持って伝えられたのではないか。

この作品は、朝日俳壇の中村草田男選に選ばれたものである(昭和三五年一一月四日)。草田男は新聞で「テーマそのものには恒常性があるが、ケースを通しての訴えであるだけに時間的に感銘がある程度薄まって行く可能性がある」と述べたが、草田男の予想に反して、どの機会詠よりもこの句は普遍性を保ち得たように思う。

それにしても「十代の愛国とは何」というフレーズは、当時の時代の憤る様な気持をよく表している言葉であると思われる、社会性俳句らしい言葉である。容易に類想が生まれそうではあるが、作者としては一回限りの思いをもっていたことは間違いない。そうした思いと表現の乖離、――むしろそこにこそ時代を語る文体があるのだ。

    *      *

草田男に対峙できる戦後の動きとして、根源俳句を唱えた山口誓子を比較する。まことに、戦後俳句の発端は誓子と草田男であった。しかし、彼ら二人は発端であったが、すぐそのあとに克服されねばならなかった。草田男とその後続は社会性俳句・前衛俳句と呼ばれて熾烈な論争を行った。では誓子の根源俳句はどうであったのか。

社会性俳句が第二芸術によって発生したことは、他ジャンルと批評しあうときに社会性俳句は詩・短歌(特に短歌)と共同の批評用語を持つということであった。これら他ジャンルはむしろ積極的第二芸術論を受け入れており、その後の短歌などほとんど第一芸術となってしまっていたのである。社会性俳句の後に前衛俳句が生まれたのは、批評用語を共通していた短歌が、社会性短歌(とりあえずアララギリアリズム短歌を想定してほしい)から前衛短歌に容易に転換してきたことと同じ道筋である。だから岡井隆と金子兜太が共著で『短詩型文学論』を執筆する下地は当然あったのである。

これに対して誓子の根源俳句は、他ジャンルとの共同の批評用語を持たなかった。他ジャンルから見れば、すぐれた作品活動と理論であったかもしれないが、あくまで俳句の中に自己閉塞し、発展がなかった。社会性俳句に対して社会性短歌はあり得た(というよりはほとんどの短歌が社会性短歌であった)のだが、根源俳句に対して根源短歌など誰も作ろうとしなかった。根源俳句は、花鳥諷詠、存問・挨拶と同様の俳句の世界だけで成り立つ理論であったからだ。


※詳しくは「俳句通信WEP」94号(10月刊)をお読み下さい。





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