2026年10月23日金曜日

第278号

 次回更新 11/12


攝津幸彦記念賞応募作品について 》読む

 *

■新現代評論研究

【未来俳句・短期連載】

現代俳句月評・未来俳句の航路――昭和俳句の争点から見えてくるもの 後藤よしみ 》読む

極小の文学とは何だろうかーー文学はどこまで短くなるか 中島進 》読む

新現代評論研究:『天狼』つれづれ 第13回:「実作者の言葉」…「白子の太夫」/米田恵子 》読む

新現代評論研究(第34回)各論:後藤よしみ、村山恭子 》読む

現代評論研究:第29回各論―テーマ:雲または霧その他― 藤田踏青、土肥あき子、飯田冬眞、しなだしん、北川美美、深谷義紀  》読む

現代評論研究:第22回総論・「遷子を通して戦後俳句史を読む」座談会 》読む

【特別稿】口語俳句の可能性・余滴  筑紫磐井 》読む

新現代評論研究:音楽的俳句論 図像編 川崎果連 》読む

新現代評論研究:音楽的俳句論 解説編(第1回)川崎果連 》読む


■令和俳句帖(毎金曜日更新) 》読む

令和八年歳旦帖・春興帖

第一(10/9)下坂速穂・岬光世・依光正樹・依光陽子・小沢麻結
第二(10/22)岸本尚毅・前北かおる・杉山久子・白石正人・ふけとしこ・神谷 波


令和七年夏興帖・秋興帖

補遺(10/9)鷲津誠次・村山恭子・水岩瞳


令和七年冬興帖

第一(9/11)下坂速穂・岬光世・依光正樹・依光陽子・花尻万博・小沢麻結・岸本尚毅・前北かおる・白石正人・ふけとしこ
第二(9/25)神谷 波・田中葉月・加藤知子・曾根毅・山本敏倖・杉山久子・中西夕紀・豊里友行・仙田洋子

■大井恒行の日々彼是 随時更新中!※URL変更 》読む

■ 俳句新空間第22号 発行※NEW!

■連載

【鑑賞】豊里友行の俳句集の花めぐり59 神野紗希『すみれそよぐ』 》読む

【連載通信】ほたる通信 Ⅲ(75) ふけとしこ 》読む

俳壇観測281 俳句ユネスコ登録へのパブコメ――今までユネスコ登録の議論に参加されてきた方々へ  筑紫磐井 》読む

英国Haiku便り[in Japan](66) 小野裕三 》読む

【新連載】名俳句鑑賞へのラブレター『尾崎紅葉の百句』(高山れおな) 豊里友行 》読む

【豊里友行句集『赤ん坊オーケストラ』を読みたい】4 『赤ん坊オーケストラ』鑑賞 三木基史 》読む

句集歌集逍遙 梶原さい子『震災短歌ノート 東日本大震災ののちに』/佐藤りえ 》読む

【新連載】口語俳句の可能性について・番外

 俳句の虚構―西躰かずよし「窓の海光」論―  金光 舞 》読む

【豊里友行句集『地球のリレー』を読みたい】

 インデックス
 9 「希望」のバトン  宮崎斗士 》読む

【加藤知子句集『情死一擲』を読みたい】④ 破局有情――加藤知子句集『情死一擲』について 関悦史 》読む

現代俳句協会評論教室・フォローアップ研究会 7 筑紫磐井 》読む

【連載】伝統の風景――林翔を通してみる戦後伝統俳句

 7.梅若忌 筑紫磐井 》読む

【豊里友行句集『母よ』を読みたい】③ 豊里友行句集『母よ』より 小松風写 選句 》読む

【渡部有紀子句集『山羊の乳』を読みたい】⑯ 生き物への眼差し 笠原小百合 》読む

インデックス

およそ日刊俳句新空間 》読む

10月の執筆者(渡邉美保)…(今までの執筆者)竹岡一郎・青山茂根・今泉礼奈・佐藤りえ・依光陽子・黒岩徳将・仮屋賢一・北川美美・大塚凱・宮﨑莉々香・柳本々々 …



■Recent entries

中村猛虎第一句集『紅の挽歌』を読みたい インデックス

篠崎央子第一句集『火の貌』を読みたい インデックス

中西夕紀第四句集『くれなゐ』を読みたい インデックス

渡邊美保第一句集『櫛買ひに』を読みたい インデックス

なつはづき第一句集『ぴったりの箱』を読みたい インデックス

ふけとしこ第5句集『眠たい羊』を読みたい インデックス

加藤知子第三句集『たかざれき』を読みたい

眞矢ひろみ第一句集『箱庭の夜』を読みたい インデックス

葉月第一句集『子音』を読みたい インデックス

佐藤りえ句集『景色』を読みたい インデックス

眠兎第1句集『御意』を読みたい インデックス

麒麟第2句集『鴨』を読みたい インデックス

麻乃第二句集『るん』を読みたい インデックス

前衛から見た子規の覚書/筑紫磐井 インデックス

寒極光・虜囚の詠~シベリア抑留体験者の俳句を読む~㉜ のどか 》読む

俳句新空間を読む 》読む
…(主な執筆者)小野裕三・もてきまり・大塚凱・網野月を・前北かおる・東影喜子

【連載通信】ほたる通信 Ⅲ (75)  ふけとしこ

   霧に住む

間紙にかすかな裂け目鵙が鳴く

秋蝶の白にまみれてゐる一樹

雨粒の零れんばかり猿茸

木耳の白を育てて霧に住む

百合の実をすくと一本有馬篭

       ・・・

 とても短い。しかもまばら。

 わが睫毛のことである。

 ある時目蓋が痒くてたまらなくなった。こすってはいけないと思いつつ、我慢できずにこすった。

 ばらばらと睫毛が抜けた。両の目共に。広げた本の上に小さな睫毛が次々に落ちた。その後とても違和感があって鏡を見るとほんの数本を残してつるつるになった目蓋があった。気持が悪い。何とも落ち着かない。その内にその残りの数本も抜け落ちてしまった。

 え? 私、睫毛が無くなったの? 鏡を見ても指で触ってもつるつるである。睫毛ハゲってことかしら。

 つけまつげというのもあるけどねえ、と考えてみたが、それも厭だ。人もそうだけれど、動物たちの睫毛がしきりに思われた。猫でも山羊でも駱駝でもそうだ。あれはみんな眼球を保護しているのだ……。

 ということは、私の眼は全くの無防備ということになる。やっぱりゴミや埃が入りやすい。目が気になって外も歩けない。眼鏡をかけるのもうっとおしい。

 一年近く経った頃だっただろうか。細い毛が生えてきた。驚いた。

 ああ、復活してくれたんだ、と嬉しかった。

 ただ、先述の通り、短くて疎らなのだ。無いよりマシ、程度のものである。

 知り合いの薬剤師に「薬害じゃないの? 変なクスリでも飲んだんでしょ」とからかわれたが、そんな覚えはないし。

 あれからの歳月を、頼りない睫毛のままで暮らしている。


睫毛てふいとも小さき木の葉髪


というどなたかの句があったように思うが……。

 やっぱり目蓋を無暗にこすったりするものではない。

(2026・10)

【鑑賞】豊里友行の俳句集の花めぐり59 句集『すみれそよぐ』(神野紗希 著、2020年刊、朔出版)を読む 豊里友行

  先ずは帯文を引く。

すみれそよぐ生後0日目の寝息

時代を案じながら命を見つめる

怒濤の日々ただなか、

俳句は今を生きる言葉だと、

つくづく思う。

どうか、生きよ。

子に、蟻に、燕に、私に、

呼びかけながら句を作る。  (神野紗希)


 神野紗希さんは、2009年に大変な話題となった新人発掘のアンソロジー『新撰21』のひとりで私も御一緒させていただいた。「起立礼着席青葉風過ぎた」「カンバスの余白八月十五日」「寂しいと言い私を蔦にせよ」など俳句甲子園の鮮烈な輝かしい青春詠を始めとしてその後もたんたんと俳人として人間として成長を成していることが俳句や言葉から読み取れる。

 本著でもその俳句の秀句は、量産されている。


西瓜南瓜糸瓜わたくしごろごろす

女に反骨じゃこぶっかけて冷奴

凩に磨かれてゆく象の檻


 西瓜(すいか)。南瓜(かぼちゃ)。糸瓜(へちま)。果実に野菜に私もいっしょにごろごろ転がりたい。そんな肩の力のぬき方もある。俳句の秀句ですね。

 女に反骨を強いる社会とは。女性らしく。男らしく。そんな世にちりめんじゃこを冷奴にぶちかまして食べてやる。

 凩(こがらし)に磨かれるという象の檻の黒光りも秀句ですね。


 吾子の誕生から成長まで一連の俳句作品が本句集の大きな収穫だろう。

そこには、母として人間としての成長もある。


秋風か呼吸かモノクロの胎児

 これは秋風なのか。胎児のモノクロのエコー写真なのか。母となる作者の中に宿るモノクロの胎動を感じつつ自身に問う。


鼓動より胎動はげし夕紅葉

 自身の鼓動よりも胎児の胎動の激しさを感受する。それを夕焼け紅葉と血潮に語らせる。


産む前の深息いくつ雪解川

 産む前の深い息と陣痛を堪えながら雪解川のような面持ち。


母乳ってたんぽぽの色雲は春

 母乳を口語調に蒲公英色に喩えつつ雲の動きから春を感受する。


母子手帳に数字満ちゆく青楓

 母子手帳に子の成長が数字として満ちてゆく愉快さ。


赤子泣く右を左を青田波

 赤子泣くそこから青田波のように右往左往する母の心境も。


産み終えて涼しい切株の気持ち

 産み終えての喩え「涼しい切株」に脱帽。


すこやかに落葉の色や子のうんち

 落葉の色と子のうんちの喩えに脱帽。


湯舟にぎやか赤子も柚子も浮きやすく

 湯舟の模様は、赤子と柚子の浮きやすさで賑やか。


鯛焼を割って私は君の母

 母の覚悟と決意を。鯛焼を割るユーモラスさも。


眠れない子と月へ吹くしゃぼん玉

 絵葉書になりそうな秀句。


薊までおむつのとれた尻軽く

 おむつのとれた子の成長を感受する。尻が軽やかに薊まで這い這いする。


昼寝の子アンモナイトを抱くかたち

 昼寝の子のアンモナイトを抱く形と喩える観察眼に脱帽。


子と立てばキッチン楽し貝割菜

 子と立てばキッチンの料理も楽しいものだ。貝割菜も絶妙。


子を寝かせ句帳をひらく遠花火

 俳句日記のような俳句群でもある。


永遠のことを話そう青蜜柑

 母だから俳人だから子の永遠を祈る。其処には平和への祈りも。


落葉踏むことなら教え上手の母

 なんとユーモラスも軽やかに。


負けてもいいよ私が蜜柑むいてあげる

 いつかこう言ってくれるお母さんみたいな素敵な女性を見つけてね。


君生まれ此の世にぎやか竜の玉

 子の居る風景を永遠の俳句にする俳人の業に脱帽。


 共鳴句を下記にいただきます。


水脈も葉脈も春てのひらも

細胞の全部が私さくら咲く

ポストの赤五六歩行けば椿の赤

数の子のぷちぷち漫才は続く

胎児まず心臓つくる青胡桃

金魚包むてのひら球根のかたち

桃缶やねむれば時間なきごとし

アイスキャンデー舐めて人間保つなり

寝る間も母乳湧きつぐ雲の峰

永遠とポップコーンと冬銀河

トルソー涼し抱き合う腕持たざれば

からっぽの箱の明るさ昼寝覚

頑張ってみるけど今日は猫じゃらし

冬の蜂ふらつく重力の眠さ

象が脚上げて本格的に春

人間は地球の産毛大夏野

レモンスカッシュ輝かせどの今も今

洗顔のあと朝顔の紺眩し

【未来俳句・短期連載1】現代俳句月評・未来俳句の航路——昭和俳句の争点から見えてくるもの  後藤よしみ

 一 なぜ今、「昭和俳句の争点」を考えるのか 

 昭和俳句は、俳句史の中でもっとも激しく変化した時代である。 

 俳句の世界では、ふだん別々に活動している二つの団体──現代俳句協会と日本伝統俳句協会──が、今回、同じテーマを語り合うために芭蕉記念館へ集まった。これは、共催シンポジウム「昭和俳句、何が争点?」(四月三〇日)である。

 両者が、同じテーブルにつくことは決して当たり前ではない。むしろ、俳句界ではめずらしい「事件」と言ってよい出来事である。 

 この場で語られたのは、「昭和俳句の争点とは何か」という問いだった。 

 昭和の俳句は、静かな時代ではなかった。新しい俳句を作ろうとする人、伝統を守ろうとする人、社会の問題を俳句に書こうとする人、言葉の形そのものを変えようとする人──さまざまな立場の俳人が、互いにぶつかり合い、影響し合いながら俳句を前へ進めてきた。 

 では、なぜ今、その昭和の争点をあらためて取り上げるのか。 

 それは、昭和の争点が「過去のケンカの記録」ではなく、俳句がどう変わり、どう成長してきたかを示す「未来を考えるための地図」だからである。意見の違いが俳句を豊かにし、対立が俳句を前へ進めた。その歴史の中にこそ、今の俳句が立ち止まっている場所と、再び動き出すための手がかりが隠されている。 

 一方、現代の俳句界はどうだろうか。 

 結社中心の世界となり、外からの声が届きにくくなった。読者の多くが作者でもあるため、多様な見方が育ちにくい。新しい挑戦よりも、安全な表現が選ばれやすい。昭和のような「ぶつかり合い」が少なくなり、俳句の動きが小さく見える。 

 だからこそ、昭和俳句の争点を見直すことには意味がある。今回のシンポジウムは、過去を振り返る場であると同時に、未来を考えるための「鏡」でもあった。 

 本稿では、その鏡に映ったものを、「四つの力」という視点から読み解いていきたい。 


二 昭和俳句を動かした「四つの力」 

 昭和俳句の動きを見ていると、俳句を前へ進める力には四つの種類があったことに気づく。 

 それは、よそ者・若者・馬鹿者・利口者という四つの力である。 

㊀よそ者──外から問いを投げかける  

 俳句界の外から、まったく違う視点で俳句を見つめる人たちがいた。その代表が、桑原武夫の「第二芸術論」である。俳句を「文学の二軍」と言い切ったこの論は、俳句界に大きな衝撃を与えた。外からの批評はときに厳しい。しかし、外からの視点が入ることで、俳句界は自分の立ち位置をあらためて問い直すことになる。 

㋥若者──時代の変化を誰より早く感じ取る 

 戦争や敗戦を経験した若い世代は、それまでの俳句にはなかった感覚を持ち込んだ。喪失、痛み、不安、社会の混乱──若者の感性は、俳句に新しい風景をもたらした。 

㊂馬鹿者──壁があれば、まずぶつかってみる 

 新興俳句や前衛俳句の作家たちは、「俳句はこうあるべき」という常識を恐れず、新しい表現に挑戦した。有季定型や切れといった伝統的なルールを疑い、言葉の形そのものを変えようとした。壁に向かって突進することで、俳句の可能性は広がっていった。 

㊃利口者──対立を橋へ変える 

 利口者は、新しい表現と伝統との間に橋を架ける存在である。しかし昭和俳句史を振り返ると、この役割を十分に果たした人物は意外なほど少ない。高浜虚子、山本健吉、角川源義は、革新を受け入れる「利口者」というより、伝統を支えるブレーキ役・秩序形成者として俳句界を導いた人物であった。  

 その意味では、戦後に前衛俳句を切り開いた金子兜太は、平成に入ると俳壇全体を見渡し、新しい表現と伝統の双方に目を配る存在となった。戦後には「馬鹿者」として俳句の可能性を押し広げ、平成にはその経験を生かして俳壇を導く「利口者」の役割も担ったと見ることができる。  

 昭和俳句が大きく変化したのは、四つの力がぶつかり合い、ときには支え合いながら働いたからである。ただし、「利口者」の力は決して強くはなかった。このことが、俳句界が繰り返し分裂と対立を経験した一因でもあった。


三 現代俳句は、なぜ動きが小さくなったのか 

 昭和のダイナミズムと比べると、現代俳句は静かに見える。その理由を、四つの力の弱まりとして考えてみたい。 

㊀よそ者の声が届きにくい 

 結社中心の世界になり、外からの批評が入りにくくなった。俳句界は「内輪のルール」でまとまりやすく、外部の視点が届きにくい。 

㋥若者が入りにくい 

 俳句の読者の多くが作者でもあるため、外から俳句を読む人が育ちにくい。若者の新しい感性が、俳句界に十分流れ込んでいない。 

㊂馬鹿者が育ちにくい 

 新しい挑戦よりも、安全で無難な表現が選ばれやすい。壁を破ろうとする挑戦が少なくなった。 

㊃利口者が不足している 

 新しい試みを理解し、育てる人が少ない。そのため、革新が続かず、広がりにくい。 

 昭和には対立があった。しかし、その対立は俳句を前へ進める力でもあった。今の俳句界に足りないのは、対立そのものではなく、変化を生み出す力なのではないだろうか。  


四 「未来俳句宣言」が投げかけたもの

 昭和俳句の争点をたどると、俳句が前へ進むときには必ず「四つの力」が働いていたことが見えてくる。しかし、現代の俳句界ではその力が弱まり、変化の勢いも小さくなっている。  

 そのような状況の中で、今回のシンポジウムの最後に筑紫磐井氏が提唱したのが「未来俳句宣言」である。   

 宣言とは、「未来の作品としてのありかたは作家各人が提案すべきものである」「まず宣言があり、それを踏まえた俳句作品が生まれるべきだ」と筑紫氏は述べる。

 ここでいう「宣言」は、作品の説明ではなく、作品を生み出す理念そのものを提示しようとする試みである。  

 筑紫氏は、「いま、新しい自由な俳句として短律に限りない魅力を感じる」と述べ、次の作品を掲げた。

吾(あ)と無                筑紫磐井

渾 煌く犠 

前頭葉にさわさわ湧いて明易 

 この宣言は、「偶然できた一句」ではなく、「どのような俳句を目指すのか」を明らかにしようとするものであり、長く続いてきた「安全な俳句」への流れに静かな一石を投じた。  

 筑紫氏は、自ら波紋を起こす「馬鹿者」の役割を引き受けたのである。しかし、本来であれば、「利口者」として議論を橋渡しすることも期待される人物が、あえて「馬鹿者」となったため、その宣言を受け止め広げる存在が一時的に不在となり、議論はすぐには広がらなかった。  

 しかし、『WEB俳句新空間』第二七一号で利岡龍之介氏が書簡を寄せたことで状況は変わる。宣言は対話の場へと発展し、筑紫氏も再び議論を育てる「利口者」としての役割を担い始めた。  

 宣言が投げかけた問いは、俳句界の未来そのものに向けられている。  

 俳句はどこへ向かうのか。どんな風景を見たいのか。どんな言葉を次の世代へ渡したいのか。

 その答えは、新しい時代の「四つの力」の中に見いだせるのではないだろうか。  


五 新しい時代の「四つの力」 

 では、未来の俳句にはどのような力が必要だろうか。現代には、昭和とは違う形で四つの力が現れ始めている。

 重要なのは、それぞれが別々に動くことではない。異なる立場が出会い、批判し合い、学び合う場をどう育てるかである。その出会いの場そのものが、未来俳句の土壌となる。 

 SNSで俳句を発信する若者。AI研究者やコピーライター、音楽家といった異なる分野の人たち。無季俳句や自由律俳句など、常識にとらわれない表現に挑む作者。そして、新しい動きを理解し、俳句界に根づかせる編集者や評論家。 

 現代にも四つの力は、すでに芽生え始めている。 

 『WEB俳句新空間』で始まった議論は、「未来俳句宣言」が単なる宣言ではなく、対話の場へと成長し始めていることを示している。 

 

六 おわりに──「見たことのない風景」を目指して 

 昭和俳句の争点とは、過去の勝敗を決めるためのものではない。俳句が新しく生まれ変わるには、どのような力が必要なのかを教えてくれる歴史である。  

 外からの視点、新しい感性、大胆な挑戦、それを支える知恵──この四つの力が再び働くとき、「見たことのない風景」は未来俳句の中から生まれてくる。  

 未来俳句とは、新しい形式を競うことではない。異なる声が出会い、新しい風景を生み続ける営みそのものなのである。  

 俳句は、たった十七音の小さな文学である。しかし、その小ささの中に未来を切り開く大きな力が宿っている。

  昭和の争点を未来への羅針盤として、私たちは「見たことのない風景」を目指す航路へ、静かに、そして確かに船を進めたい。

(「『鷗座』2026年8月号掲載)

【未来俳句・短期連載2】極小の文学とは何だろうかーー文学はどこまで短くなるか 故 中島進(令和8年1月16日逝去)

 日本の原始仏教の研究レベルは、世界的に高い。西欧の仏教研究の歴史は、意外と古い。ドイツの研究者集団が、十八世紀後半から始め、十九世紀初期には既に、仏教経典の独語訳等の成果を上げている。日本は、江戸時代後期である。もうすぐ、激動の幕末である。ドイツ十九世紀前期の、ショーペンハウアー(1788~1860)の思想には仏教の影響が強いと言われている。もっとも私は、仏教への誤解に満ちていると考えているが。

 日本の原始仏教研究レベルの高さに、最も貢献した研究者は、中村元(1912~1999)である。中村の仕事の集大成とも考えられる論文を読みながら、私は次の一文に注目した。

「一と一切は別なものではない。極小において極大を認めることができる。きわめて微小なるものの中に全宇宙の神秘を見出しうる。(中略)実に中論のめざす目的は全体的連関の建設であった」(龍樹・2002年)    

 俳句は極小の文学である。世界の中で、最も極小の文学である。しかし、仏教思想は極小に於いて極大を認めることができると言う。この思想に勇気づけられる者は、私独りではないはずだ。大乗仏教経典に金剛般若経がある。金剛般若経のエッセンスを縮約した般若心経は、日本人にも馴染みが深い。多くの人が知っている。私は若い頃、般若心経の中心思想である「色即是空・空即是色」の意味が理解出来なかった。特に「空(原語・シューニヤター・漢訳玄奘)」という概念が、理解出来なかった。中村の「龍樹」という論文を読むことで初めて心の底から、空を理解出来た。「色即是空・空即是色」とは、わかりやすく言えば「大宇宙・森羅万象は、相互依存関係であり、相互依存関係とは、大宇宙・森羅万象である」という意味である。空とは「相互依存関係」のことである。「全体的連関」のことである。

 大宇宙・森羅万象は、生成流転している。石も土も海も生物も、生物の一種である人間も、全宇宙も生成流転している。原始仏教は、この生成流転を「無常」と表現した。日本では無常は人間が死ぬことを意味するという誤解が現在も広まっている。その誤解が日本的無常感のベースにある。違うのである。無常とは、相互依存関係の下に大宇宙・森羅万象が生成流転している姿である。大宇宙の中で人間は、取るに足らぬ存在である。いてもいなくても良い存在である。ただ森羅万象が、相互依存関係の下に生成流転している。それが「無常」という全体的連関である。

 龍樹(ナーガールジュナ)は、南インドの紀元後二世紀から三世紀の人である。大乗仏教の理論を確立した。金剛般若経の空の理論化を確立した。主著は「中論」であり、詩の形で書かれている。金剛般若経の空を「相互依存関係」つまり、原始仏教の「縁起説」と関係づけて理論化している。「中論」は、西欧論理学とは違うインド論理学を駆使して難解である。ただ「難解さ」は、中身のある「難解さ」と、ただ混乱しているだけの「難解さ」に分かれる。「中論」は、中身のある「難解さ」である。そして詩である。中村は良く「中論」を、サンスクリット語から、平易な日本語に訳した。立派な仕事である。龍樹は「中論」によって、人々をブッダが説いた解脱に導こうとしている。人々を救おうとしている。日本の伝説的慈悲の実践者である行基・空也等と、同じ姿勢である。道元の講義録・言行録と、同じ姿勢である。つまり、「優しさと励まし」に満ちた大乗仏教経典である。大乗仏教とは言うものの、思想の原点はすべて原始仏教経典に含まれている。

 二千五百年前の原始仏教経典もまた、詩の形で書かれている。ブッダの修行の目的は「生老病死・一切皆苦」をスタートラインとしながら、いかにして生き生きと充実した生き方が出来るかということである。解脱とは、インダス文明以後インド文化伝統の「輪廻転生」という円環型時間意識を、突き抜けることである。空の体得と解脱は同じでことある。「生老病死・一切皆苦」は、結論ではない。スタートラインなのである。

 西欧の仏教研究者は、龍樹の中論を、あるいは仏教そのものを「虚無主義(ニヒリズム)」と結論づけることが多い。アリストテレス論理学の三段論法(A=B・B=C・故にA=C)を基本として考えることが誤解の原因である。中論は三段論法の近代キリスト教文化圏と違う思想なのである。西欧の仏教研究者に、自分たちの文化圏と違う文化圏の思想を理解する「柔軟な思考力」が、欠けているだけのことである。西欧の仏教研究者及びその影響下ある人々は、文化相対主義・文化多元主義を学ぶべきである。

 「空(相互依存関係)」に戻ろう。「色即是空・空即是色」を理解することは、仏教の本質を理解することである。もう一度、中村の一文に戻る。

「一と一切は別なものではない。極小において極大を認めることができる。きわめて微小なるものの中に全宇宙の神秘を見出しうる。(中略)実に中論のめざす目的は全体的連関の建設であった」(龍樹)

 原始仏教研究者を超えた、哲学者・中村元の言葉だと、私は思う。西欧の仏教研究者に伍して、中村は、仏教経典を広く深く読み込んでいる。この一文は、中村の思想である。そのような中村の思想をあらわす別の一文を示す。

「仏教は時間という独立の実体を認めない」(龍樹)

 深い言葉である。キリスト教文化圏の創世と終末を結ぶ直線型時間意識とは違う。時間そのものを認めない。過去もなければ、未来もないのである。あるとすれば、「生き生きとした現在」だけである。「生き生きとした現在」とは空(相互依存関係)の全体的連関のことである。

 英文学研究者・外山滋比古は書いた。

 「読む作業は、もっと能動的、ときには、創造的ですらある営みである。真の読書は、読んだ内容を読者の骨肉と化することである」(近代読者論)

 「骨肉と化する」何と実感のこもった言葉であろう。そう中村は、仏教経典を骨肉と化しているのである。仏教の本質を理解しよう。ブッダが遠い存在であるなら、同じ日本人の松尾芭蕉の秀作俳句を読もう。同じ日本人の道元の講義録・言行録を読もう。いや、それ以上に「世界のさまざまな文化地域の人々の深い思索」の跡を辿ろう。そこには、「生き生きとした現在」がある。それはまた、俳句創作活動の基盤でもあるのだ。

 俳句とは「生き生きとした現在の極小の文学」である。

【連載】新現代評論研究:天狼つれづれ(13)「実作者の言葉」…「白子の太夫」 米田恵子

 「実作者の言葉」に「白子の太夫」が出てくるのは、「天狼」の昭和25年4月号である。このとき誓子が住まいしていたのは、鈴鹿市鼓ヶ浦という海岸沿いの別荘であったが、その中心の街白子(しろこ)である。今も近鉄には白子および鼓ヶ浦という駅もある。「白子の太夫」は、4月号の次に5月号・6月号・8月号で4回出てくる。

 誓子は、昭和16年9月に四日市市富田に移ってきてから、昭和21年6月に四日市市天ヶ須賀海岸に移り、そして戦後の昭和23年10月、ここ鈴鹿市白子鼓ヶ浦に住んだ。どうして転居を繰り返したかというと、それは別荘の持ち主の事情であり、誓子は仕方なく転居を余儀なくされたのである。

 誓子は、白子に引っ越すと、しっかり俳諧の文献に「白子」という地名が出てくるかということを調べたとある。さすが、考証好きの誓子である。いろいろ調べるうちに一番興味をもったのが「白子の太夫」だと述べる。誓子は、その土地について調べるとき、江戸時代の『名所図会』を必ず見るが、今回も『伊勢参宮名所図会』を繙き、白子の名産として「策麺(そうめん)」と「伊勢型紙」が挙げられているのを見出だす。

 現在も伊勢型紙は、江戸小紋や京友禅などの型染めに用いられる型紙である。現在は伝統工芸品の扱いのようである。この地で型紙の原紙である渋紙を製造する南部若太夫という人を知り、その人は俳句も作るという人である。白子には太夫を名乗る型紙屋が5軒あり、その一軒だそうである。誓子は、この白子の町に太夫を名乗る家があるということに興味を持ったのである。

 「太夫」というと、私のイメージでは遊女または文楽の浄瑠璃の語り手を太夫と呼ぶ。しかし、伊勢型紙の製造者も太夫ということは、そういう芸能関係ではなく、誓子は『大言海』から、「長者」という意味を引き出し、「白子の太夫」は「白子の豪商」という意味だとする。今はひっそりとしたこの白子の町は港町でもあり、商人たちの流通の拠点になっていたようで、伊勢型紙といい、「長者」がいても不思議はないようである。

 さらに、誓子は本居宣長がたびたび白子に宿をとったということに注目し、本居宣長から賀茂真淵へ、村田春海へと調べはすすみ、江戸時代の国学者の世界へ入っていく。参考にしたのは『鈴屋門人録』であり、国学者たちとそれぞれの「太夫」について調べてゆく。

 誓子は8月号で「そのやうに白子の太夫達が商人として家業を営む傍、宣長の学問に直結してゐたことは興味の深いことである」と締めくくり、「白子の太夫」の探査を終わる。

 文化の発展には、裕福な商人などの後ろ盾は欠かせないものであり、「太夫」と名乗る豪商たちが国学者たちを支えていたのは確かなことであろう。誓子は、きっと自分が住まいする白子という町の文化水準の高さも示したかったのではないだろうか。

 この「太夫」の調べのきっかけとなった、南部若太夫は、昭和34年4月29日に、自宅に「渋臭き町木枯の海へぬけ」という自分の句碑を立てている。誓子の「木枯」の句をもじったような句であるが、揮毫は誓子である。昭和34年というと、誓子はすでに西宮市苦楽園に転居していたときであるが、除幕式に出席し、誓子の挨拶に、南部若太夫の満面の笑顔の写真と涙ぐむ写真が残されている。この人も、きっと、表立っての助けはなかったようであるが、陰になり、誓子を支えたことには間違いない。

(付記)有難いことに筑紫磐井先生のご配慮で掲載いただいていたチラシの山口誓子特別展「誓子と三鬼」は無事終わりました。ホッとしております。設営は何やかやと2日ほどかけるのですが、撤収は1時間ちょっとで終わります。虚しい風も吹き抜けていきます。

【新連載】新現代評論研究(第34回)各論:後藤よしみ、村山 恭子

★ー3高柳重信の新俳句詩法――「垂直の力学」として読み解く12  後藤よしみ

 第3部 

新俳句詩法の検証  3


1 「垂直の力学」の妥当性――八作家による検証

 ――高柳重信を離れて、方法の有効範囲を確かめる一 高柳重信から離れてみる

 これまで、高柳重信の作品を読むために、「垂直の力学」という一つの読みの方法を考えてきた。

 その中心に置いたのは、四つの原則である。

 第一は「語彙の地質学」である。言葉を、その場に置かれた一つの意味だけで捉えるのではなく、その語が背負っている歴史、文化、記憶、身体感覚などの層まで含めて読む。

 第二は「倒語法の再編」である。通常の語順や文法、意味の結びつきを組み替えることによって、言葉の関係を揺さぶり、表面には現れていなかった意味の可能性を開く働きである。ここで重要なのは、語順を変えること自体ではない。その組み替えによって、意味がすぐには確定せず、読者が言葉と言葉の関係を捉え直すことになる点である。(このとき、作品の表面にとどまっていた意味が揺らぎ、その背後にある記憶、感情、歴史、身体、存在などの層へと読みが進むことがある。倒語法の再編は、意味を宙吊りにするだけでなく、その揺らぎを通して、表面から深層へ向かう運動を生み出すのである)。

 第三は「沈降の力学」である。表面にある物象や言葉が、身体、記憶、歴史、心理、存在など、より深い層へと沈んでいく運動である。

 第四は「深層の噴出」である。沈降した深層のものが、突然、具体的な言葉やイメージとなって作品の表面へ現れる運動である。

 これまでの高柳重信の検証では、この四原則を組み合わせることで、作品の表面に現れた言葉の背後にある深まりを読み取ることができた。

 しかし、ここで一つの問題が生じる。この方法は、本当に高柳重信に固有の読み方なのだろうか。

 高柳重信の作品をよく知っているからこそ、その作品に合わせて「垂直の力学」を発見してしまったのではないか。もしそうであるなら、「垂直の力学」は高柳重信を説明するための特殊な方法にとどまる。

 そこで、いったん高柳重信から離れてみることにした。対象としたのは、現代俳句のなかから選んだ八人の作家である。

 大岡頌司、富沢赤黄男、加藤郁乎、金子兜太、飯田龍太、森澄雄、桂信子、稲畑汀子。作風も、言葉の扱い方も、作品の立ち上がり方も異なる作家たちである。

 ここで確かめたいのは、「この八人も高柳重信と同じ方法で読めるか」という単純な問題ではない。むしろ、「垂直の力学」という読みの枠組みが、作家を越えてどこまで有効なのか。 

という問題である。


2 八作家を選んだ理由

 八作家を選ぶにあたっては、できるだけ高柳重信とは異なる作品世界を含むことを意識した。前衛的な言語操作を中心とする作家だけを集めれば、「垂直の力学」が働くのは当然だという結果になりかねない。

 そこで、言語の実験性が強い作家だけではなく、自然、身体、生活、時間、他者、文化など、異なる方向から俳句を形成している作家を含めることにした。

 大岡頌司、富沢赤黄男、加藤郁乎には、言葉や物象の組み合わせによって、通常の意味関係を揺さぶる作品がある。

 金子兜太には、身体と自然、個人と歴史、生命と社会を交差させる作品がある。

 飯田龍太には、自然と人間の生活空間、時間と記憶が重なり合う作品がある。

 森澄雄には、生活や身体、家族、時間などを通して、日常の表面から深い認識へ移行していく作品がある。

 桂信子には、身体、他者、自然、記憶などが密接に関係する作品がある。

 稲畑汀子には、日常的な知覚や自然、生活のなかから意味を立ち上げていく作品がある。

 このように異なる作家を対象にすることで、「垂直の力学」が特定の作風や形式に依存しているのか、それとも俳句を読む際の一般的な分析枠組みとしてある程度機能するのかを検討できると考えた。

 もちろん、八人の作家を検証したからといって、その普遍性が証明されるわけではない。ここで行うのは、あくまで「適用可能性の検証」である。


3 検証方法

 検証の方法は、高柳重信の場合と基本的に同じである。それぞれの作品を、まず作品として読む。

 そのうえで、四原則を順に確認する。

 第一に、語彙の地質学が認められるか。一つの語が、単なる表面的な意味を越えて、歴史、文化、身体、記憶、心理などの複数の層を持って働いているかを見る。

 第二に、倒語法の再編が起きているか。通常なら結びつかない語が結びついているか。語順や構文、イメージの配置が、意味の通常の流れを組み替えているかを見る。

 第三に、その表面の言葉や物象が、より深い層へ沈降しているかを見る。ここでいう「深い」とは、単に難解になるという意味ではない。身体的な感覚が心理へ、物象が記憶へ、個人的な経験が歴史的な記憶へ、あるいは現在の知覚が存在そのものへの問いへと移行する、といった意味である。

 第四に、沈降したものが再び作品の表面へ噴出しているかを見る。表面に現れた一句の具体的な言葉が、単なる説明ではなく、その背後にある深層を読者に感じさせる働きをしているかということである。

 また、この四原則だけでは作品の違いを十分に捉えられない場合には、これまで用いてきた六つのモジュール――身体、音韻、視覚、歴史、主体心理、受容・読者――を補助線として用いた。

 重要なのは、四原則を作品に無理に当てはめないことである。四原則のすべてが確認できない作品については、そのこと自体を結果として記録した。この点は、今回の検証では特に重要である。


4 八作家の検証

 八作家の作品を検討すると、垂直の力学は、作家によって現れ方を変えながらも、一定の範囲で確認することができた。ただし、その現れ方は一様ではない。

1) 大岡頌司 

例句 

桶水よ退け

ふるさとに

船の樹はなし

 大岡頌司のこの句は、「垂直の力学」が生活や記憶の表層から、失われたものの深層へと沈降し、そこから不在の感覚が再び立ち上がる構造として働くことを示している。

 「桶水」「ふるさと」という日常的な語から、「船の樹はなし」という特異な不在の像へ移行することで、具体的な場所が単なる故郷ではなく、記憶の奥にある喪失の場所へと変わる。

 高柳の垂直性が言語・歴史・神話の深層へ向かうのに対し、大岡では、生活語の表面から記憶と不在の深層へと沈降する。ここでは、記憶・不在の垂直性が成立している。

2) 富沢赤黄男 

例句 

蝶墜ちて大音響の結氷期

 富沢赤黄男のこの句は、「垂直の力学」が前衛俳句において、世界のスケール・硬度・時間を変容させる構造原理であることを示している。

 「蝶」という軽く小さな生命が「墜ちる」ことで「大音響」が生じ、さらに「結氷期」という地球史的な時間へと一挙に下降する。ここには、軽→重→硬、現在→地球史という下降線が引かれている。

 高柳が言葉の沈降、大岡が記憶の沈降を示すのに対して、赤黄男では物象そのものが物理的・時間的な深層へ移行する。そこには、物象・物理的垂直性と呼ぶべき独自の形がある。

3) 加藤郁乎 

例句 

とりめのぶうめらんこりい子供屋のコリドン

 加藤郁乎のこの句では、「垂直の力学」が、単一の物象や記憶の奥へ沈降するというより、言葉の背後に幾重もの文化的・歴史的・身体的層を立ち上げる運動として働いている。

 「とりめ」「めらんこりい」「子供屋」「コリドン」という異なる語層が連続することで、身体、感情、江戸の文化、近代西欧の文学・思想が一つの言語空間に重ねられる。その結果、一句の表面から、その背後にある文化的・歴史的な層が次々に浮上する。郁乎の垂直性は、語の下に潜む文化層・歴史層を掘り起こす言語・文化的垂直性として捉えることができる。

4) 金子兜太 

例句 

梅咲いて庭中に青鮫が来ている

 金子兜太のこの句では、「垂直の力学」が、身体的・生活的な表層から、生命や歴史、社会的な深層へと視野を拡大する運動として働いている。

 「梅」「庭」という身近な春の風景に、「青鮫」という海の生物が突然現れることで、日常の空間はそのままでは説明できない生命の世界へと変容する。ここで重要なのは、奇異な取り合わせそのものではなく、その背後から人間と自然、個人と生命、生活と歴史をつなぐ深層が立ち上がることである。兜太の垂直性は、身体から生命へ、生活から歴史・社会へと深度を増していく生命的・歴史的垂直性として特徴づけられる。

5) 飯田龍太 

例句 

一月の川一月の谷の中

 飯田龍太のこの句における「垂直の力学」は、前衛俳句のような激しい落下や衝突ではなく、自然の表層から、その背後にある時間・記憶・存在の深層へと静かに沈んでいく運動として現れている。

 「一月」という時間が「川」と「谷」に重ねられることで、単なる冬景色ではなく、自然の内部に蓄積された時間が感じられる。「谷の中」という空間的な深まりも、世界そのものの内部へ視線を導いている。龍太の垂直性は、自然景から時間・記憶・存在の深層へ静かに沈降する自然的・存在的垂直性として捉えることができる。

6) 森澄雄 

例句 

妻がゐて夜長を言へりさう思ふ

 森澄雄のこの句では、「垂直の力学」が、日常的な夫婦の関係から、時間や生のあり方へと意味が沈降していく運動として働いている。

 「妻がゐて」という日常的な状況から、「夜長を言へり」、さらに「さう思ふ」へと進むことで、外部の出来事が作者自身の認識へと入り込む。「夜長」は単なる季語ではなく、妻と共有する時間、生きていることの時間へと深められていく。森澄雄の垂直性は、生活の表面から時間・関係・存在の深層へ沈み込む日常的・時間的垂直性に特徴がある。

7) 桂信子 

例句 

ゆるやかに着てひとと逢ふ蛍の夜

 桂信子のこの句では、「垂直の力学」が、身体的な行為から、他者との関係、さらに生の感覚そのものへと深まっていく。

 「着て」という身体の動作から、「ひとと逢ふ」という他者との関係へ、さらに「蛍の夜」という自然と時間の世界へ移行することで、日常的な行為の背後にある身体、他者、孤独、生命の感覚が立ち上がってくる。「ゆるやかに」という語が、その移行を急激な断絶ではなく、静かな深まりとして支えている。桂信子の垂直性は、身体から自己と他者、生の深層へ沈降する身体的・関係的垂直性として捉えられる。

8) 稲畑汀子 

例句 

一枚の障子明りに伎芸天

 稲畑汀子のこの句では、「垂直の力学」は、前衛俳句に見られるような破壊・落下・沈降としてのみ働くのではない。

 「障子」という日常空間の薄い境界を「明り」が透過することで、生活の表層から「伎芸天」という古代・仏教・芸術の文化的深層が立ち上がってくる。ここでの垂直性は、下方への沈降ではなく、光を媒介とした透過・浮上・出現として現れている。

 これは、「垂直の力学」を物理的な上下方向として理解してはならないことを示す。垂直とは、表層と深層とのあいだに生じる意味の運動なのである。


5 八作家に共通して確認できたこと

 八作家の検証から明らかになった第一のことは、「垂直の力学」が高柳重信だけに固有のものではないということである。

 もちろん、八作家が同じ方法で同じ作品構造を示したわけではない。むしろ、作家によって垂直の現れ方は大きく異なった。

 言葉の多義性から深層へ向かう場合がある。異質な語の結合から深層へ向かう場合もある。身体から歴史へ、自然から記憶へ、日常から存在へ向かう場合もある。

 つまり、「垂直」とは特定の題材や表現形式ではない。それは、作品の表面に置かれた言葉や物象が、そこにとどまらず、より深い意味の層へ移行していく運動として捉えることができる。

 また、一行形式か多行形式かによって、垂直性が決まるわけでもない。一行形式であっても、語と語の関係のなかに深い沈降が生じることがあり、多行形式であっても、必ずしも垂直の運動が強く働くわけではない。

 したがって、形式は垂直の力学を生み出す直接的な条件ではない。

 さらに重要なのは、四原則が独立したチェック項目ではなく、一つの運動として捉えられることである。

 語彙の地質学によって言葉に複数の層が生じ、倒語法の再編によってその関係が組み替えられる。そこから表面の意味が深層へ沈降し、やがてその深層が具体的なイメージや言葉として噴出する。

 すなわち、

語彙の地質学 → 倒語法の再編 → 沈降の力学 → 深層の噴出

という一連の運動として理解することで、「垂直の力学」はより明確になる。


6 しかし、垂直性は一様ではない

 一方、八作家の検証からは、「垂直の力学」が一つの固定した型ではないことも明らかになった。

作 家  ①垂直性の特徴   ②沈降・浮上する深層

大岡頌司 ①記憶・不在の垂直性 ②生活語・場所・喪失

富沢赤黄男 ①物象・物理的垂直性 ②衝撃・硬度・地球史

加藤郁乎 ①言語・文化的垂直性 ②歴史・文化・身体

金子兜太 ①生命・歴史的垂直性 ②身体・生命・社会

飯田龍太 ①自然・存在的垂直性 ②時間・記憶・存在

森  澄雄 ①日常・時間的垂直性 ②関係・時間・生

桂  信子 ①身体・関係的垂直性 ②自己・他者・生

稲畑汀子 ①透過・浮上的垂直性 ②文化・精神・芸術

 これから見えてくるのは、「垂直性」という一つの方向が、作家ごとに異なる深層を持つということである。

 高柳重信では言語・歴史・神話、大岡では記憶と不在、富沢では物理と地球史、加藤では言語と文化、金子では生命と歴史、飯田では自然と存在、森では日常と時間、桂では身体と他者、そして稲畑では文化と精神へと、それぞれ異なる深まりを示す。

 したがって、ここで「垂直の力学」を一つの型として固定してしまうことはできない。

  むしろ、  

 「垂直の力学は共通するが、垂直性の現れ方は作家によって異なる」 

と考えるべきである。 


7 垂直の力学の有効範囲

 では、どこまでを「垂直の力学」と呼ぶことができるのか。

 今回の八作家による検証からは、少なくとも一つの有効範囲を設定することができる。それは、作品の表面に現れた語や物象が、その表面的な意味だけでは完結せず、身体、心理、記憶、歴史、文化、存在など、より深い意味層へ移行していく作品である。

 逆に言えば、単に言葉が多義的であるだけでは不十分である。奇抜な語の組み合わせがあるだけでも不十分である。暗示的な表現であることだけでも不十分である。

 重要なのは、表面から深層への運動が作品の内部で成立していることである。

 また、深層があるように見えるという読者の印象だけでも不十分である。作品の語彙、構文、イメージ、身体感覚などを辿ることによって、その沈降あるいは浮上の過程をある程度説明できなければならない。

 したがって、「垂直の力学」は、俳句を難解に読むための方法ではない。むしろ、表面に現れた言葉から、その言葉がどのような層を経て深い意味へ到達しているのかを確認するための方法である。

 ここで、「垂直」の意味も改めて明確にしておきたい。

 垂直とは、物理的な下方向を意味するものではない。

 垂直とは、表層と深層とのあいだに生じる意味の運動である。

 その運動は、沈降することもあれば、深層から噴出することもある。さらに稲畑汀子の作品に見られるように、光や知覚を媒介として透過し、浮上することもある。

 「垂直」という名称は、その方向性を比喩的に示しているのである。


8 次の問題――垂直だけでは捉えきれないもの

 ただし、この八作家による検証をもって、「垂直の力学」の普遍性が証明されたとすることはできない。

 対象となった作家と作品には限りがあり、作品の選択にも一定の偏りがある。また、読者がどこまでを「深層」と感じるかには、解釈の幅がある。

 したがって、今回確認できたのは、  

「垂直の力学が、多様な作家の作品を読む際にも一定程度適用可能である」 

ということである。

 しかし、検証を進めるほど、別の問題も見えてきた。作品のなかには、「深層へ沈む」というよりも、異なるもの同士が関係し、その関係そのものから新しい意味が生まれているように見えるものがある。

 自然と身体、自己と他者、日常と文化、空間と時間。

 そこでは、一つの言葉が深く沈降するというより、複数の意味領域が接触し、その境界を越え、互いの意味を変化させている。この現象を、垂直の力学だけで十分に説明することができるのか。

 ここに、次の問題が生じる。

 垂直の力学が「深まり」を捉える方法であるなら、そこにはもう一つ、異なるもののあいだに生じる「関係」そのものを捉える方法が必要なのではないか。

 この問いから、次に検討する「水平の力学」が生まれてくる。垂直と水平は、上下と左右という単純な空間的対立ではない。垂直が、表層から深層へ向かう意味の運動を捉えるものであるなら、水平は、異なる意味領域のあいだに生じる関係の運動を捉えるものとして考えることができる。

 次回からは、この「水平の力学」が、実際の作品に対してどこまで有効なのかを検証していきたい。

(つづく)


★―7:藤木清子を読む 22/村山 恭子

22 昭和12年 ⑨

 秋雨抄

あきさめのビル街ふかくわがゆける    旗艦36号・12月

秋雨のビル街を進んでいます。ビル街以外の平仮名表記が句に豊かな表情を与えます。もの寂しさのなかを進む者への共鳴感も魅力的です。

   季語=秋雨(秋)


雨ほそしビルはしづかに昼ふかき     同上

雨ほそしビルの扉つよく押して入る    同上

 雨とビルの二句。ビルの様子を詠みながら作者の心情へ重なって行きます。一句目はしづか、ふかき、二句目はつよくにより詩情が生まれ、雨ほそしと呼応しています。

   季語=無季


 不眠症

虫の音にまみれて脳が落ちてゐる     同上

 秋の象徴でもある虫の音。その音にすっぽりと包まれていると、頭の中でぐるぐるしていた思考、煩悩が取り去られました。一見では奇想な展開ですが、何度も読み返しますと自然への敬愛が感じられ句へ奥行きを与えています。

   季語=虫(秋)


秋ふかしくすしは若き妻もてる      同上

 もの寂しさや侘しさが深まる頃と若い妻を娶っている薬師。深まる秋と若さを対比しており、すっきりとした句の形が作者の心情を表わしているようでもあります。

   季語=秋深し(秋)


わが心信ぜずあきのあめに向く      同上

 私の心には不信感が生じています。秋の雨は春の雨に比べて寂しげな情景で、その寂しさに向け不信感が更に積みあがっていきます。あめに向くの措辞が効いています。

   季語=秋の雨(秋)


わが鼓動たかし夕月かくれたり      同上

 月の出が早いので、光は弱く、夜半には没するので、はかない感じがあります。鼓動の高さと夕月のはかなさを対比させ、またその月は隠れることで詩情を生み出しています。

   季語=夕月(秋)

 

■「神戸新興俳句会」発足・「京大俳句」「天の川」「旗艦」の合同句会。平畑静塔、波止影夫ら。のちに「句と評論」「火星」も参加。静塔の提唱により、「元町通六丁目  三省堂喫茶部」に「新興俳句人の倶楽部」を設置。毎週土曜日の午後六時から自由に参集。各種俳誌・伝言ノートを利用。

2026年10月9日金曜日

第277号

  次回更新 10/23


攝津幸彦記念賞応募作品について 》読む

 *

■新現代評論研究

【未来俳句・短期連載】

呟きは形式に先行する——未来俳句宣言への応答——  下谷陽太 》読む

未来俳句宣言が哲学の領域へ——『hyphen』11号の紹介 B.T. 》読む

新現代評論研究(第33回)各論:後藤よしみ、村山恭子 》読む

新現代評論研究:『天狼』つれづれ 第12回:「実作者の言葉」…「誓子の万葉揮毫歌碑」/米田恵子 》読む

現代評論研究:第29回各論―テーマ:雲または霧その他― 藤田踏青、土肥あき子、飯田冬眞、しなだしん、北川美美、深谷義紀  》読む

現代評論研究:第22回総論・「遷子を通して戦後俳句史を読む」座談会 》読む

【特別稿】口語俳句の可能性・余滴  筑紫磐井 》読む

新現代評論研究:音楽的俳句論 図像編 川崎果連 》読む

新現代評論研究:音楽的俳句論 解説編(第1回)川崎果連 》読む


■令和俳句帖(毎金曜日更新) 》読む

令和八年歳旦帖・春興帖

第一(10/9)下坂速穂・岬光世・依光正樹・依光陽子・小沢麻結


令和七年夏興帖・秋興帖

補遺(10/9)鷲津誠次・村山恭子・水岩瞳


令和七年冬興帖

第一(9/11)下坂速穂・岬光世・依光正樹・依光陽子・花尻万博・小沢麻結・岸本尚毅・前北かおる・白石正人・ふけとしこ
第二(9/25)神谷 波・田中葉月・加藤知子・曾根毅・山本敏倖・杉山久子・中西夕紀・豊里友行・仙田洋子

■大井恒行の日々彼是 随時更新中!※URL変更 》読む

■ 俳句新空間第22号 発行※NEW!

■連載

俳壇観測281 俳句ユネスコ登録へのパブコメ――今までユネスコ登録の議論に参加されてきた方々へ  筑紫磐井 》読む

英国Haiku便り[in Japan](66) 小野裕三 》読む

【鑑賞】豊里友行の俳句集の花めぐり58 佐藤文子『火炎樹』 》読む

【連載通信】ほたる通信 Ⅲ(74) ふけとしこ 》読む

【新連載】名俳句鑑賞へのラブレター『尾崎紅葉の百句』(高山れおな) 豊里友行 》読む

【豊里友行句集『赤ん坊オーケストラ』を読みたい】4 『赤ん坊オーケストラ』鑑賞 三木基史 》読む

句集歌集逍遙 梶原さい子『震災短歌ノート 東日本大震災ののちに』/佐藤りえ 》読む

【新連載】口語俳句の可能性について・番外

 俳句の虚構―西躰かずよし「窓の海光」論―  金光 舞 》読む

【豊里友行句集『地球のリレー』を読みたい】

 インデックス
 9 「希望」のバトン  宮崎斗士 》読む

【加藤知子句集『情死一擲』を読みたい】④ 破局有情――加藤知子句集『情死一擲』について 関悦史 》読む

現代俳句協会評論教室・フォローアップ研究会 7 筑紫磐井 》読む

【連載】伝統の風景――林翔を通してみる戦後伝統俳句

 7.梅若忌 筑紫磐井 》読む

【豊里友行句集『母よ』を読みたい】③ 豊里友行句集『母よ』より 小松風写 選句 》読む

【渡部有紀子句集『山羊の乳』を読みたい】⑯ 生き物への眼差し 笠原小百合 》読む

インデックス

およそ日刊俳句新空間 》読む

10月の執筆者(渡邉美保)…(今までの執筆者)竹岡一郎・青山茂根・今泉礼奈・佐藤りえ・依光陽子・黒岩徳将・仮屋賢一・北川美美・大塚凱・宮﨑莉々香・柳本々々 …



■Recent entries

中村猛虎第一句集『紅の挽歌』を読みたい インデックス

篠崎央子第一句集『火の貌』を読みたい インデックス

中西夕紀第四句集『くれなゐ』を読みたい インデックス

渡邊美保第一句集『櫛買ひに』を読みたい インデックス

なつはづき第一句集『ぴったりの箱』を読みたい インデックス

ふけとしこ第5句集『眠たい羊』を読みたい インデックス

加藤知子第三句集『たかざれき』を読みたい

眞矢ひろみ第一句集『箱庭の夜』を読みたい インデックス

葉月第一句集『子音』を読みたい インデックス

佐藤りえ句集『景色』を読みたい インデックス

眠兎第1句集『御意』を読みたい インデックス

麒麟第2句集『鴨』を読みたい インデックス

麻乃第二句集『るん』を読みたい インデックス

前衛から見た子規の覚書/筑紫磐井 インデックス

寒極光・虜囚の詠~シベリア抑留体験者の俳句を読む~㉜ のどか 》読む

俳句新空間を読む 》読む
…(主な執筆者)小野裕三・もてきまり・大塚凱・網野月を・前北かおる・東影喜子

【鑑賞】豊里友行の俳句集の花めぐり58 句集『火炎樹』(佐藤文子著、2019年刊、東京四季出版)

 あとがきから著者の言葉を拾いたい。


 句集は、作品の集大成であり、心の軌跡でもあります。あるいは自分史のようなところもあります。それだけにまとめるには、相当な体力が必要でした。

 このたびは自然風景だけにとどまらず、心の風景にも挑戦しました。事実とも非事実とも知れぬものを描きたかったのです。


 女性の心の機微を包み隠さずに俳句にした三橋鷹女俳句「鞦韆は漕ぐべし愛は奪ふべし」「夏痩せて嫌ひなものは嫌ひなり」「この樹登らば鬼女となるべし夕紅葉」「白露や死んでゆく日も帯締めて」などを彷彿とさせる俳句もありましたが、私は、あまり共鳴句としていただけませんでした。そこに事実とも非事実ともしれぬものがあることを俳句というより現実が受け入れてくれるのか危惧する。その作者の心の模様が火炎樹のような女性の髪を燃え立たせるような表紙画や本の装丁ともマッチしている。それでもその激情の俳句を包み込む俳句形式や季語があることでよりその心情が浮き立つように思える俳句を今回は見出してみたい。そこに佐藤文子さんの師で故人の穴井太のモノに託す俳句の生き様があるかもしれない。


少年はや男の匂ひなんぢやもんぢや

 本句集の特色は、男性や女性の「性」や人間の機微をあらわにしたところにある。

 少年の成長は、蔓のように辺り一面へと躍り出るダンサーのようにこの世界へと巻き付いてくる。その男性の性(さが)に早くも男の匂いを嗅ぎ分けつつも「なんじゃもんじゃ」という春に雪が降り積もったような花を咲かせるヒトツバタゴという木に心を託す。それも踏まえてもこのユーモラスな踊り出したくなる語感も少年から男性への成長を女性目線で喜ばしく見ている感じがとても微笑ましい。


極上の肉を叩けり女正月

勝独楽の回り続ける孤独かな

春一番麻酔の身体揺り起こす

見舞客拒み日永を耐へてをり

病窓に映ゆ春闘の赤き旗

火あぶりの鮎を見てをる男たち

淋しさも混じる葡萄の房の密

濁り鮒上手に泥を吐かせけり

燃ゆるまで時間のかかる花カンナ

相続の話に入らぬ鬼やんま

絡むだけ絡んでをりぬ葛の花

つつかれて口を割りたる青あけび

 今の時代は、女正月の方が豪勢なのよね。極上の肉を叩きながら沖縄の御馳走の豚の顔”ちらがー”が、にやりと微笑んでおります。

 いつの時代も勝者の歴史が時代に刻まれがちですが、その勝者を擬人化した独楽(こま)には、栄枯盛衰の翳りが地球の自転のように射している。勝ち続けて回り続ける独楽のその間(ま)、その人生に孤独があることを作者自身の投影のように噛み締めているのかもしれない。そこには、事実と非事実を抱擁しているであろう俳句文学の息吹がある。

 麻酔から覚めて身体を揺り動かす様は、実体験であろうか。この俳句たちを読みながら鑑賞者たちも春一番のように揺さ振られる。

 見舞客には、見せたくない。そんな日永を耐える病者の心理をよく俳句化されている。

 病院の窓から映画のいちシーンのような春闘の燃え盛る赤い旗が翻る。この病者とより良い世界への萌芽の色彩のコントラストのある対比も絶妙だ。

 男たちは暖炉を囲んで鮎の火炙りを見つめている。その土地の記憶をその異性たちを覗く女性の距離感も見逃したくない。

 葡萄のたわわな密をセクシーな抒情性を混ぜて詠う。

 濁った水中での鮒の生息する泥の時間を感じつつ女性たちの俎板裁きの準備は、粛々とたんたんと進む。

 花カンナに女性の燃え立つまでの男性との会話のやりとりから序章のごとく時間のかかることよ。なんて女性は、私のような男性のロマンスを小突いているようにも思えてお恥ずかしい。

 ぎすぎすしがちな相続の話しに入らない。そう決め込んだ鬼やんまの擬人化も秀逸。

 秋の七草の一つとして古くから親しまれ、近年は二日酔い対策や脂肪減少のサポート成分としても注目を集めているマメ科の葛の花に託された絡むだけ絡む人間模様に脱帽。

 核心をつつかれて口を割る青あけび。だが女性のあれにも似て男女のエロスもこう冷徹にみられる現世のなんじゃもんじゃな世界観があっぱれ。あっぱれ。あっぱれ。


洋梨や摩耗劣化の平和論

 人間模様にちらりと社会や平和論をぴりりと辛目に批評眼の社会詠のスパイスをほどこしているのも脱帽です。

 いつかの穴井太の言葉で「独断の醍醐味」のような真骨頂は、此処にも健在だ。さらなるいただきへと蔓を伸ばして伸び伸びと俳句を昇華させて欲しい。進むべき道を師や俳句仲間と蔓の成長のように謳歌し続けて欲しい。

 今回は、共鳴句として句集にたくさんの付箋紙を貼りタイピングをしましたが、無しで御願いいたします。素晴らしい句集を読み込むのに時間はかかりますが本当に人生の先輩たちの生き様に学ぶ点は多々あります。

ありがとうございます。

【短期連載】俳壇観測281 俳句ユネスコ登録へのパブコメ――今までユネスコ登録の議論に参加されてきた方々へ  筑紫磐井

 1.概要

 俳句のユネスコ無形文化遺産登録に関しては、「豈」68号(2025年11月)の「特集・ユネスコ登録戦略の最前線」で最新の情報を概括的に紹介したが、その後あまり大きな動きは見られなかった。俳壇におけるこの問題への関心は薄れつつあるようにも思える。しかし、この問題はやはり現代俳句の本質を抱えていることは事実であり、俳人それなりが明確な態度を示しておいた方がいい。

 実は、ユネスコ無形文化遺産登録は「文化芸術推進基本計画」の対象となっており、改定の都度文部科学省は計画案に対する国民の意見をパブリックコメントとして求めているのである。残念なことに、俳句のユネスコ無形文化遺産登録については一つの意見も出されてこなかった。これに対し前回圧倒的に多かったのは舞台芸術の振興援助の意見であり、これは当時丁度コロナが蔓延し、舞台芸術は壊滅状態にあったからである。

 この計画の改定が令和9年(2027年)に行われる予定であり、俳人が協会を通さないで国に直接意見を述べる絶好の機会となっている。ここに提出された意見は、整理された上で文化審議会に提出され、新しい文化芸術推進基本計画(第3期)に反映されることとなる。この計画に基づいてユネスコ登録は進められ、或いは断念され、留保されるのだ。

 雑誌で特集を組んだり、協会の総会で議論をすることもいいが、いかにも仲間うちのコップの中の中の嵐のようであり、それよりは国民の権利を行使して国に直接意見を述べることの方が筋であるように思う。これは賛成、反対を問わずの感想である。


2.パブリックコメントの出し方

 パブリックコメントの出し方は技術的な問題があり、予めグループで十分検討しておいた方がいい。気づいた点を述べておく。

➀同じ意見が出されても担当者によって整理して一括に扱われるので多様な見方や意見を提出した方がいい。

➁評論とは違う「意見」であるので、論旨を明確にした方がいい。過去の例を見ると、最終的には担当者により100字程度にまとめられるのでその程度で提出する方が効果的である。

➂パブリックコメントは内部告発と違い日本の文化芸術の振興のためのよりよい意見を求めるためのものであり、例えば将来の文化の担い手である高校生の意見も期待している。おそらく外国人や自治体の意見も受け入れられるはずである。

④パブリックコメントに当たっては、文化芸術推進基本計画案等が提示されそれに対する意見が求められるはずなので、その時期(9年8月、12月)には動向を注視しておくことが望ましい。(ユネスコのパブリックコメントの最新情報については、本BLOGで逐次提供したい)

 今までユネスコ登録の議論に参加されてきた方々へはぜひ参加して頂きたい。ちなみに一例として私は個人的には次のようなコメントを提出したいと思う。


「2017年1月26日、俳句ユネスコ無形文化遺産登録推進協議会発足に先立ち、4協会会長の共同記者会見が行われ、俳句には有季と無季、自由律があることが言明された。無季、自由律を容認しない俳句の定義に基づくユネスコ登録については、俳句文芸の創造的発展を阻害することとなることから賛成できない。」

英国Haiku便り [in Japan] (66) 小野裕三


元・EU大統領ファンロンパイ氏に通訳同行した一日

 以前の連載(第40回)でも紹介したが、元・ベルギー首相でありEU(ヨーロッパ連合)の初代大統領でもあるヘルマン・ファンロンパイ氏は、haikuの愛好家として知られる。彼は今年の五月に来日して日本政界の要人と次々と面会したが、多忙なスケジュールを縫って、千葉の御宿で開かれた句会に一日だけ参加した。国際俳句協会からの依頼で、僕が当日の通訳をすることとなり、彼に終日同行した。今回はそのレポートである。

 御宿行きの特急列車は、朝早くに東京駅を出発。僕は彼の隣の席に座り、句会の進行などを軽く打ち合わせ。ひととおりの手続的な確認が終わったあとで、雑談がてらに質問をしてみた。

「そもそも、どういうふうに俳句に出会ったんですか?」

「いやそれはね、まったくの偶然なんだよ」

 曰く、あるパーティの席で、彼が卒業したルーヴェン・カトリック大学の同窓生と同じテーブルになった。その人がhaikuを作る人で、句集を手渡された。しかしそのときには興味もなく、自宅の本の山の上に積んでおくだけだった。それから数年して、その本を手に取って読み始めた。それが彼にとってのhaikuの始まりだったらしい。

「積まれた本の山の中から、そのときにその句集を手に取ったのは、何か理由があったんですか?」

「いや、それも何も理由はないんだよ。だから、ほんとうに偶然なんだ」

 もともと詩には関心があったということだが、それからhaikuにのめり込んでいったのは、どこか彼の気質みたいなものにも合っていたのだろう。そのうちに彼がhaikuを作ることが日本のメディアにも知られるようになると、政治家としての記者会見の場でも「haikuを詠んでみてください」と言われることが出てきて、そこでhaikuを披露すると記者たちにも喜ばれた、という。そんなことも、彼がhaikuを続けることを後押ししたのかも知れない。

「俳句は頻繁に作ってますか?」

「いや、残念ながらあまり作れてないね。私はいろいろやらなきゃいけない仕事が多い。だから俳句を作る充分な時間もないし、それに、俳句を作るには心のゆとりみたいなものも必要だからね」

 そんな我々を乗せた特急列車は御宿に到着し、待っていた御宿の俳句会「若菜会」の人たちから大歓迎を受ける。星野高士氏が講師を務めるその句会に、ファンロンパイ氏がゲスト講師として参加する形だ。ちなみに三年前の夏にも、氏は御宿を訪れている。ぜひ再訪して、という熱烈なラブコールを受けての今回の訪問となったようだ。

 句会には約四十人の日本人が参加。事前投句された句は前もって僕が英訳して、あらかじめファンロンパイ氏にメールで送付済み。当日の句会では、星野氏、ファンロンパイ氏がそれぞれに採った句を講評していく。ファンロンパイ氏は冒頭にこう語った。

「まず、自分がどのように採る句を選んでいったのかの方法論を説明します」

 最初は、約七十句ある全句を読む。それから自分が「好き」と感じる十句を直感的に選びとり、その後で、なぜ自分がその句を「好き」と思ったのか、という基準(criteria)について考えた、という。

「私にとっての基準は三つありました。簡潔さ(simplicity)、対照(contrast)、擬人化(personification)、の三点です」

 簡潔さとは、言葉、観察、思考、などの点において簡潔であることだ、とする。対照についても、彼が例句として挙げたものは五感の対照であったり、社会的な出来事だったり、と幅広い視点が見られた。また擬人化については、蛙の表情を人間に喩えるなどいくぶんユーモラスな内容のものも含めて、彼は自身の気に入った例句を示した。

 興味深いことに、ファンロンパイ氏の選んだ十句のうち、半数の五句が星野氏の選とも重なった。俳句的な美意識がそのように日欧の間で共有されたことは、ファンロンパイ氏にも印象的だったようだ。

 句会の最後に、彼は自身の俳句観について語った。俳句の特徴として彼が以前から強調しているのは、自然などを観察して描くことで、意識の力点(attention)を自分ではなく自分の外に向けること。それは自分のエゴみたいなものに囚われない心を作る、と彼は力説する。

 一方で彼は、長く俳句を作っているが「俳句は簡単ではない(not easy)」とも繰り返す。やはり訓練を重ねた上での高度なテクニックが必要だ、と捉える。

 句会の中で、ウクライナを詠んだ句があり、彼がそれを講評する中で、ウクライナだけでなく、ガザ、スーダンなど世界の紛争地域の名を次々と挙げていったのには、まさに平和をテーマに尽力してきた実務者としての重みを感じた。二〇一二年、EUはノーベル平和賞を受賞したが、その授賞式に参列したEUのトップはまさにファンロンパイ氏だった。

 その彼が、「俳句を作る心は、世界平和に貢献する」と繰り返し主張する。俳句がもたらす穏やかで澄んだ心のあり方、自分(彼は「エゴ」という言葉をよく使う)ではなく自分以外のものに心の焦点を向けるあり方、それらの特性は間違いなく平和な世界を作るために必要な条件だ、と彼は考える。

 列車の中での雑談で印象的だったのは、彼が御宿で起きたある歴史的な事件をよく知っていて、そのことを熱く語ったことだ。今から約四百年前に、当時スペイン領だったフィリピンからメキシコに向かう帆船が、嵐のために御宿沖で座礁する。これを見た当時の御宿の人たちは、遭難者を救い介抱した。そのことを記念する塔も御宿には建てられている。そんな心温まる歴史を持つ御宿で句会をすることにも、氏は意義を感じていたのだろう。

 俳句と世界平和、という繋がりは、突拍子もない夢想とも思える。だが、ノーベル平和賞をEU代表として受賞した経験を持つファンロンパイ氏が真顔でそのことを語る姿には、リアルな重みを感じた。そうやって彼と会話するうちに、この繋がりを夢想だと思わないことから何かが始まるのでは、とそんな気がしてきた。

 なお、句会の終了後も会場を移動し、ピアノの演奏を聴いたり、御宿にゆかりのある童謡「月の沙漠」を全員で合唱したり、とさまざまな趣向が準備されていた。日本語がわからないはずのファンロンパイ氏も、ローマ字の歌詞のシートを手元にしてちゃんと声を出して歌っていた。「この小さな町で、こういう交流が行われることを嬉しく思います」と彼は語ったが、逆に言えば、日本の片隅にある小さな町の人々に温かく向き合い、合唱にも声を合わせようとする、そんな元・大統領の姿には深く感銘を受けた。たぶん、彼の頭の中には、メキシコ船救出の逸話がいつもどこかにあったのだろうか。

 そして今の時代に、haikuがファンロンパイ氏と御宿を繋ぐ。そんな繋がりがもっと世界のあちこちに広がっていくといい。彼はそう思っているはずだし、そのことを夢想に終わらせてはなるまい。


※文章は「週刊俳句944号」に発表したものをベースに加筆しました。

※写真の一部は、当日を取材した産経新聞および千葉日報の記事から引用。

【未来俳句・短期連載】呟きは形式に先行する——未来俳句宣言への応答——  下谷陽太

【下谷陽太(しもたに・ようた) 海城高等学校。第二十九回俳句甲子園にて海城Aの一員として優勝、「明日には今日は昨日になる 泳ぐ」で最優秀句に選出。】


 筑紫磐井氏の宣言に多くの応答が寄せられた。

 作句歴2年、未だ俳句のはの字も知らないような私であるが、応答してほしいとの依頼が来た。分不相応な大役を賜った。おそらく、高校生の私は数多の応答者の中でも最年少なのではないか。もっとも”未来”に近い立場として、初心者なりに、これからの俳句について議論できれば幸いである。


1.定型に対する考え

 まず私にとって定型とは、

 たまたま言いたいことが17文字、もしくは575であったから、ありがたくその形式をお借りさせていただく

 それ以上でもそれ以下でもない。言いたいことが短ければそれは短律になるだろうし、言いたいことが長ければそれは短歌になる(私自身短歌にも触れているので)。

 この点においては過去様々な議論がなされていると思うが、「言いたいことを言うための器」として、17音前後という長さはちょうどいい。それを補強するものとして瞬間性であるとか、そういった話に展開されていく。納得である。では、定型にはどんな意味があるか。和歌以来守られてきた5と7という数には、歴史的文脈だけでなく、たとえば奇数音であることに音声学的な意味を見出す、という研究も過去なされてきただろう。しかし、無理にそれに固執する必要はあまりないと思う。文字数合わせに躍起になって、構成に意識が傾けば、その句に私は強い作為を感じてしまうだろう。575は、口誦性を高めるための導火線に過ぎない。詩である以上、視覚として読むだけでなく、声に出して詠むことの重要性は確かに強調したい。一方、声に出して気持ちの良いリズムなど、いくらでもあるはずだ。それを探究していくのが未来を志向する私たちの使命だと信じてやまない。


2.短律に対する考え

 さて、短律はどうだろうか。

 これもまた、たまたま言いたいことが短律だっただけだ、というスタンスを私は取りたい。

 筑紫氏をはじめ、その他自由律俳人が短律の試行を繰り返している。このこと自体には、私自身大きな関心を寄せている。

吾と無  筑紫磐井

 この句は特に、極限まで情報を削ぎ落とした、短律そのものを非常に巧く表していると思う。

 無駄を省いて極限を志向するという精神は日本の風土で培われてきた伝統的なものだ。一方、その短さを目的に据えることには控え目な立場を取りたい。人々の共通イメージを喚起する季語(その認識自体全体主義的で嫌いだが、今回はさておき)を排し、自句自解を要請しない短律は、個々の読者に委ねられているという点において開かれたものであると同時に、閉ざされたものでもあると思う。発信するもの、受け取るものが放射状に交錯し、それを紐解くことができるのは短律の実験者らに限られてしまうかもしれない、というのが理由だ。私自身が、平易な言葉で(表現上)ストレートに編むことを信条としているのもあるが、それ以上に、短律が実験の域を超えることはあるだろうか、そう考えてしまう。もちろん私は願ってやまないのだが。ただこれらは、それ以前に俳壇という土壌の問題かもしれない。

 そして、やはり私は、何事も手段として吸収したい。言いたいこと・呟きがまず先行して、その漏れ出た言葉を受け止める皿として、短律を置きたい。目的にはしたくない。それは私が、俳句を大きな独り言、もしくは呟きだと思っているからだ。難しい技巧やレトリックは作為に過ぎない。いや、これまでであれば作為でも良かったと思う。しかし私たちの眼差しは常に未来へ向いている。作為は生成AIでもできる。彼らはたくさんの言葉を知っている。では生身の我々に残されたことは何か?それは、血の通った独り言を呟くことだ。身体論にも関わってくることかもしれないが、人間としての感覚・叫びを、できるだけ屈折させずに、その体温のまま表現することだ。

 体温を持った我々の言葉が、冷たくなってしまわないために、やはり形式はあくまでも手段であり、目的にしたくはない。各個人が、極限まで削ぎ落とされた想いを持てば、自ずと短律は口からこぼれ落ちるはずだ。

 新たな形式への志向は、新たな道を開拓するという点においては非常に革新的であるが、形式にこだわるという点においては、定型を保守する思考回路と根本は同じ、だと私は思う。確かに形式は大事だが、こだわりすぎると作為になる。

 少し別の話だが、これは短律であろうとなかろうと、無理に共感性を求める必要はないと、個人的には思う。別に独りよがりでもいい。独りよがりな大きな呟きが、誰か一人にでも伝われば、それは独り言ではなくなるのだから。私たちは、その一人を探して、そしてその人が一人目になることを願って、言葉を吐き続けるのだ。


3.実作者として

 以上述べたことが、季語や定型の縛りを持つ俳句甲子園という土壌に育てられた一人の高校生の意見である。

 私は、俳句を作ろうと思って作ることは滅多にしない。いや確かに、締め切りまでに何句作らなければ、という意識はあるのだが、よし今から句作だと言って机に向かって歳時記を開くことはない。即吟を除いて。基本的に、頭に降りてきた言葉しか使わない。兼題として季語が与えられても、季語を目の前にせずに頭の中で連想ゲームをしながら言葉を編むことはない。ふと思ったことを、書き出して、それをふと季語と取り合わせてみるのである。季語が目の前にあれば、ふと降りてきたフレーズに季語が含まれているのだ。

 何をそんな理想的な。そんな超人的なことができるわけなかろう、と思われるかもしれないが、事実、大してできない。私は多作が苦手である。それは、作為を嫌うことの裏返しかもしれない。俳句甲子園に向けて、各兼題で私が作ったのはせいぜい5句程度である。しかもそれらはほとんど兼題発表当日か、数日後の句ばかりである。ある種の新鮮さは必要なのかもしれない。また、575の定型に収まっているのは、提出した7句中2句にとどまっていた。形式に縛られたくないという想いは、私にもあるのだ。

 その点において、俳句甲子園という場が、いかに血肉を伴った呟きを輩出できるかは、議論の余地があるかもしれない、などともう出場することのない高校三年生が無責任に言うのを許してほしい。

 何はともあれ、山根もなか氏の言うように、器はいくらでも増やすべきである。それが短律であろうと日本語でなかろうと、俳句の目指すものはユニバーサルであるはずだから、それ相応に様々なアプローチがあって然るべきだ。

 筑紫氏の宣言に戻るが、私たちは作者として、連帯はしないのだ。制約に縛られず、各自がやりたいことをやれる環境が整っていくことは短詩の未来に他ならないと思う。和歌・連歌・俳諧、と、いずれの時代も新たな表現を志向してきた、その産物が俳句であるはずだ。その産物を、伝統だ伝統だと後生大事に、有季定型だとか花鳥諷詠だとかそうやって守り抜こうとする気持ちはわからないわけでもない。なぜなら、彼らの愛する俳句は新しかったからだ。ただ、いっときの革新という、過去の栄光に縋り付くのも結構だが、それは、常に未来に顔を向けてきたという、それこそ“俳句の伝統“への冒涜ではないか。その点で、私は未来俳句宣言に共感をしたい。過去に見たことのない風景を見たい、大いに共感する。

 新たな選択肢をたくさん持つことは大事にしたいが、それだけに縛られて、手段を目的化することには控えめでありたい。一方、新たな選択肢を受け入れる土壌は醸成されるべきだ。それが私の結論だ。

【新連載】新現代評論研究(第33回)各論:後藤よしみ、村山 恭子

★ー3高柳重信の新俳句詩法――「垂直の力学」として読み解く11 後藤よしみ

第3部


新俳句詩法の検証  1

1 新俳句詩法の独自性と有効性の検証

——〈松島を/逃げる/重たい/鸚鵡かな〉をめぐる比較検討


はじめに

 そもそも、この理論「垂直の力学」は何が新しいのか。これまで、新俳句詩法の概要と、重信の全句集への適用による妥当性を通観してきた。今回は、この新俳句詩法の解釈が先行する識者の読解に対してどのような独自性と有効性を持つかを検討する。比較の対象として、夏石番矢氏・澤好摩氏・林桂氏の解説書に共通して取り上げられている次の句を選ぶ。


  松島を

  逃げる

  重たい

  鸚鵡かな  『日本海軍』


1) 先達三氏の解釈

① 夏石番矢『高柳重信』(蝸牛社、1994年)

 「大和田建樹作詞『日本海軍』には、日本の軍艦がすべて詠み込まれている。高柳重信は大多数が古い地名である軍艦名をこの句集で活用。この句は曾良の〈松島や鶴に身をかれほととぎす〉の本歌取り。退屈な『鸚鵡』の逃走。」

 俳句史・前衛俳句の観点から読む解釈である。軍艦名と地名の転用、曾良の句との本歌取り関係を指摘し、「退屈な鸚鵡」という評価を下す。文学史的連関と言語の遊戯性を重視した印象批評と言える。

② 澤好摩『高柳重信の100句を読む』(飯塚書店、2015年)

 句集『日本海軍』の紹介と重信自身の文章の引用を踏まえ、地名の解説と軍艦としての解説を行った上で掲句を解釈する。地形学と軍事史の知識を根拠とし、松島の沈降地形と軍艦の不安定な構造を対応させ、「重たい鸚鵡」を艦のイメージとして把握する。実証的・参照情報型の読解である。

③ 林桂『高柳重信の百句』(ふらんす堂、2025年)

 「艦名といいながら、艦そのものを書いてはいない。艦名のイメージの依り代にしながら、その言葉が喚起する世界を書き留める。多くは国名や山川の名であり、『歌枕』のような働きをしている。掲句はその巻頭句。曾良の句を踏まえ、重い飛び方の鸚鵡を配した『諧謔』的句。」

 俳句の本質論に近い観点から読む解釈である。松島という艦名が歌枕と同様の「イメージ喚起装置」として機能していること、鸚鵡が曾良のほととぎすに対する諧謔的対比であることを指摘する。


2) 新俳句詩法による読解

1 語彙の地質学——言葉の衝突が何を生むか

 新俳句詩法の第一原理は「語彙の地質学」である。この句に現れる語を分類すると次のようになる。

①地霊語彙——松島 松島は日本三景の一つとして知られる景勝地であり、和歌や俳諧の伝統に包まれた日本的抒情の象徴である。しかし同時に、『日本海軍』という句集の文脈に置かれることで、軍艦「松島」の記憶も帯びる。「風景としての松島」と「軍事記号としての松島」という二つの歴史層が一語の中に重なり、句全体に強い揺らぎを生む。

②外来・浮遊語彙——鸚鵡 鸚鵡は異国的な鳥であり、伝統的な俳句世界にはなじまない。さらに鸚鵡は「他者の声を真似る鳥」であり、主体性を持たずに反復・模倣する存在である。近代日本が外来思想や国家イデオロギーを模倣し続けた姿と重なりうる。

③身体的重量語彙——重たい この語は極めて物質的である。単なる形容ではなく、読む者の身体感覚を直接呼び起こす。「ずしり」とした重みが言葉を通じて伝わり、後述する①身体・実存モジュールとも自然につながる。

 以上の三種類の語が一句の上でぶつかる。美しい景勝地、軍艦、異国の模倣鳥、身体的重量という、本来交わりにくい意味の層が衝突し、意味の断層が露出する。


2 倒語法の再編——なぜ意味は宙吊りになるのか

 この句最大の特徴は、何が「逃げる」のか確定しない点にある。「鸚鵡が松島を逃げる」と整理されるところを、重信はあえて断ち切る。その結果、鸚鵡が逃げる、作者が逃げる、国家が逃げる、松島そのものが逃げる、という複数の読みが同時に立ち上がる。

 これは富士谷御杖の倒語が説く「意味を確定させず、読者の内側で生成させる」という働きである。意味は作者から読者へと手渡され、読者は単なる受け手ではなく、句の共同制作者となる。


3 沈降の力学——改行は何をしているか

 この句を一行で書けば「松島を逃げる重たい鸚鵡かな」となる。しかし重信はあえて四行に切断する。各行を確認する。

 第一行「松島を」——何が起こるのかという期待が生まれる。第二行「逃げる」——突然、運動が現れる。しかし主体がわからない。第三行「重たい」——ここで速度が止まる。逃げるはずなのに重い。矛盾が生じる。第四行「鸚鵡かな」——最後に主体が現れるが、なお説明にはならない。

 この読書過程は「落下」である。読むたびに意味が崩れ、次の行へ沈んでいく。改行は単なる視覚的な区切りではなく、読者を垂直に落下させる装置として機能している。


4 深層の噴出——最終的に何が立ち上がるか

 語彙の衝突、倒語、沈降の果てに、言葉の深層が噴き出す。明確な「意味」はない。しかし、確かにある感覚が立ち上がる。それは「重苦しい逃走感」である。何かから逃げている。しかし、軽やかには逃げられない。過去の重みを背負ったまま、ぎこちなく飛ぼうとしている。

 この感覚は、戦後日本の精神風景とも読める。敗戦の記憶、国家の影、模倣としての近代化——それらを背負いながら逃れようとする意識が、「逃げる」と「重たい」という二語によって一つの精神風景へと統合される。これが「言霊の噴出」であり、意味ではなく感覚として立ち上がるものである。


5 6つのモジュールによる補足

①身体・実存 「重たい」は肉体の疲労を思わせる。戦場を歩いた身体の重さ、生き残った者が背負う罪責の重みが、この一語に響いている。

②音韻・律動 「お」の母音の反復に注目する。「まつしまを」「おもたい」「おうむ」と、低く沈む母音が連なり、句全体に重苦しい響きを作り出している。

③視覚 巨大で黒ずんだ鸚鵡が松島上空をゆっくりと飛ぶ異様な光景が浮かぶ。シュルレアリスム的映像であり、その違和感は理屈より先に網膜に焼きつく。

④歴史 『日本海軍』という句集の題名が、軍事史的な文脈を濃厚にしている。単なる風景句や歌枕としてのみ読むことを、題名そのものが拒んでいる。

⑤主体・心理 誰が逃げているのかが曖昧であることは、主体の境界が崩れていく心理状態の表れである。

⑥受容 若い読者は幻想的な映像として受け取るかもしれない。戦争の記憶を持つ世代は、敗戦の重みとして読むかもしれない。どちらの読みも成立する。この複数性を認めることが、句の可能性の幅を広げる。


6 鑑賞

 〈松島を/逃げる/重たい/鸚鵡かな〉は、新俳句詩法の有効性をよく示す一句である。「松島」は歌枕と軍艦の記憶を同時に帯び、「鸚鵡」は異質な外来の響きを持つ。この語の衝突が意味を揺らし、「逃げる」が主体を宙吊りにする。さらに多行形式の空白が読者を深層へと導き、歴史の重みや敗戦の影を言葉の底から立ち上がらせる。垂直に沈降する力学と、身体・歴史・音・視覚という水平の補強が交差することで、この句は「重苦しい逃走感」という、説明ではなく感覚として立ち上がる読みへと結実する。


3) 比較検討

1 比較の前提——三氏の解釈と新俳句詩法の役割の違い

 先達三氏の解釈と新俳句詩法は、同じ土俵で競い合うものではない。三氏はそれぞれ異なる方向から「部分解釈」を提出している。新俳句詩法は、それらを否定するのではなく、なぜ複数の読みが同時に成立するのか、なぜこの句が多義的になるのかという「生成の構造」を説明しようとするものである。三氏の解釈が「結果の提示」であるとすれば、新俳句詩法は「生成構造の説明」である。この役割の違いを前提として比較を行う。


2 共通点——先行研究との地盤の共有

 「松島」の二重性の認識について、三氏の指摘する「本歌取り」「歌枕的機能」「軍艦名としての松島」は、新俳句詩法における「語彙の地質学(地霊語彙)」および「④歴史・文脈モジュール」と完全に重なる。「鸚鵡」の違和感についても、夏石氏の「退屈な鸚鵡」、澤氏の「物理的イメージ」、林氏の「諧謔的対比」は、言葉は異なるが本質的に「鸚鵡という語が生む違和感と重苦しさ」を感知している点で一致する。またこの句が一つの意味に収まらないという多義性の前提も、三氏と新俳句詩法に共通している。


3 相違点——アプローチの決定的な違い

①「点の指摘」か「システムの解明」か 三氏の解釈は、歴史的背景・言葉の定義・俳句史的連関という「点(材料)」を鋭く指摘することに終始している。これらは句の「背景(材料)」の提示である。これに対し新俳句詩法は、その材料が「なぜ四行に引き裂かれているのか(沈降の力学)」「なぜ主語が確定しないのか(倒語法の再編)」という形式構造と読書体験にまで踏み込み、作品の駆動システムを説明する。

②「意味の解釈」か「感覚の立ち上げ」か 三氏の解釈は最終的に「曾良の句をこうひっくり返した(諧謔)」という知的理解(意味)に着地する傾向がある。読者は納得して句の前を通り過ぎる。これに対し新俳句詩法は、「重苦しい逃走感」という生の感覚へ読者を直撃させることを目的とする。句は理解されるものではなく、身体で受け取られるものとして位置づけられる。


4 有効点——新俳句詩法が先行研究とは異なる次元を記述する

①「なぜわからないのか」への構造的回答 三氏の解釈は「何が逃げるのか」という戸惑いを解消しようとする。しかし新俳句詩法の「倒語法」は、この戸惑いが解消されるべき難解さではなく、読者が自ら意味を生成するための意図的な装置であると捉える。わからないことが詩の失敗ではなく、詩の目的であるという逆転がここにある。

②多行形式の必然性の解明 三氏はいずれも「なぜ一行ではなく四行なのか」を説明していない。新俳句詩法の「沈降の力学」は、各改行が読者の視線を垂直に落下させ、行ごとの心理変化を構造として示す。多行形式を解く鍵として、これは大きな有効性を持つ。

③先行研究の統合 三氏の解釈はそれぞれ独立した部分解釈である。新俳句詩法は、本歌取りを「地霊語彙の衝突」として、軍事史的背景を「④歴史・文脈モジュール」として、歌枕機能を「語彙の地質学」として位置づけ直す。三者が別々に指摘した「点」が、新俳句詩法という「システム」の部品として収まる。これが統合理論としての有効性である。


5 限界点——新俳句詩法が先行研究に譲る部分

①軍事史・書誌学的な実証の弱さ 澤氏が指摘する「松島型巡洋艦の不安定な構造」や、林氏が指摘する「建造順の配列」といった軍事史・書誌学的な具体的事実は、新俳句詩法という理論枠だけでは自給自足できない。新俳句詩法はそれらの実証的知識を受け取った上で構造として説明する立場に立つ。両者は対立ではなく補完の関係にある。

②俳句史的位置づけの細密さ 夏石氏が示す前衛俳句史における重信の位置づけ、林氏の本歌取りの細密分析は、新俳句詩法が直接扱う領域ではない。俳句史の中に重信を位置づける作業については、先行研究が優位を持つ。

③理論的リテラシーの要求 三氏のコンパクトな読解は、読者を軽快に納得させる力を持つ。これに対し新俳句詩法は、語彙の地質学・沈降の力学といった概念の理解を読者に求める。包括的である分、一定の理論的リテラシーを要求するという「手軽さとのトレードオフ」が存在する。


6 結論——新俳句詩法の位置づけ

 先達三氏の読解は、いずれも『日本海軍』の歴史的地盤を保証する重要な「点」を的確に射抜いており、大いに尊重されるべきものである。しかし、三氏の解釈はいずれも「なぜそれらの言葉が四行に分断されなければならなかったのか」という形式の必然性には届いていない。

 新俳句詩法の独自性と有効性は、まさにこの点において発揮される。三氏が指摘した歴史的・地理的背景を「語彙の地質学」や「歴史モジュール」として内包しつつ、「倒語法の再編」による意味の宙吊り、「沈降の力学」による行ごとの落下体験、「身体・音韻モジュール」の同時スパークという包括的なシステムによって、一句の駆動メカニズムを全方位から説明することができる。

 三氏のアプローチが作品の「背景(材料)」を開示するものであるとすれば、新俳句詩法は、その材料を用いて重信がいかにして「重苦しい逃走感」という精神風景を構築したかという「作品の駆動システムそのもの」を解読し得る理論である。

 新俳句詩法は先行研究を否定するものではない。異なる問いを立てている。先行研究を包み込みながら、その先へと届く——これが統合理論としての新俳句詩法の本質的な位置づけである。以上により、新俳句詩法は限界点を抱えながらも、その解釈の独自性と有効性を確認することができた。 

 

新俳句詩法の検証  2

2 新俳句詩法のここまでの段階での到達点

 次に「垂直の力学」によって、重信について何が明らかになったのか。

 ここまでの検討を通じて、新俳句詩法が高柳重信の句業を読み解くための一定の独自性と有効性を持つことが明らかになった。本節では、その成果を三点に整理して総括する。

 本論は、高柳重信の句業を個々の作品の集積としてではなく、一つの詩法が生成・形成・統合へと展開していく形成過程として捉え直し、これを「新俳句詩法」として理論化した。従来の重信研究が個々の作品解釈や作家論に重点を置いてきたのに対し、本論は句業全体を貫く生成のプロセスを俳句詩法として構造化した。その成果は次の三点に集約される。

Ⅰ 生成論――四原則による句業形成の解明

Ⅱ 構造論――多行形式と「垂直の力学」

Ⅲ 読解論――六モジュールによる読書過程の記述

 第一に、新俳句詩法の「四原則」が、重信の生涯において「生成→形成→統合」されていく動的なプロセスを立体的に描き出した点である。

 本論は、重信の句業を「断絶の連続」や「突然変異」として語るのではなく、必然的な発展過程として捉え直すことで、従来の断片的な理解を体系的な構造へと昇華させた。四原則は固定化された静態的な理論ではなく、句業の進展とともに生成・変容・統合していく動的な構造として把握される。本理論は静態的な作品解釈の道具にとどまらず、一人の詩人が自らの詩法を研ぎ澄ましていく「生成のダイナミズム」を追体験するための、形成史的かつ動的な記述モデルとしての有効性を示した。

 第二に、重信の代名詞である「多行形式」の本質を、単なる視覚的配置ではなく、言語の重力を操作し、読者の認識を垂直方向へと誘導するための構造的装置として捉え直した点である。

 従来の重信論の多くは、多行俳句の視覚的な新しさや伝統的形式への反撥、あるいは作家自身の感性といった印象批評や作家論の域にとどまる傾向があった。これに対し本論は、改行という物理的な空白が日本語の統辞構造に断絶をもたらし、読み手の意識下で言葉が垂直に落下・沈降していくエネルギーの運動を記述した。これにより、多行形式とは改行という物理的な空白が言語の統辞構造に断絶をもたらし、読み手の意識を垂直方向へと誘導する構造的装置として、一貫した構造のもとに説明することが可能となった。

 第三に、読者の読みのプロセスを記述する「六つの読解モジュール」を導入した点である。身体・音韻・視覚・歴史・心理・受容という六つのモジュールは、読者の主観的な読書過程を読者の主観的な読書体験を、一定の手順によって記述可能な分析の言葉へ橋渡しする枠組みへと橋渡しする枠組みである。

 前衛俳句批評における再現性の欠如という課題に対して、一定の分析手順に沿って読書体験を記述するための新たな読解モデルを提示した。これにより、「難解な前衛俳句を、難解な言葉のまま解説する」という従来の批評が陥りがちだった同語反復の罠を回避し、読者の主観的な感興を客観的な分析の土台へと繋ぐ枠組みを整えることができた。

 小括  総じて、新俳句詩法の到達点とは、高柳重信の多行形式を、感性的・印象論的な理解から、構造的・生成論的な理解へと転換した点にある。四原則は句業の形成過程を説明する理論として、六モジュールはその読書体験を記述する補助的枠組みとして、それぞれ有効に機能することが確認された。本理論が提示したのは完成した答えではなく、重信句業の深層に潜在する「垂直の詩学」を読み解くための、一つの方法論的視点である。

 以上が、現段階における新俳句詩法の到達点である。しかし、ここで示された理論が高柳重信という一作家の句業にのみ有効なのか、それとも他の俳句作品にも一定の説明力を持つのかは、なお検証を要する。そこで次節以降では、同時代の前衛俳句から伝統的俳句に至る作品を対象として、四原則と六つの読解モジュールを適用し、「垂直の力学」の射程と有効性を検証する。

(つづく)


★―7:藤木清子を読む21 / 村山 恭子 

21 昭和12年 ⑧ 
  
       山のホテル
夏深き蒼空鳶がすべるのみ        旗艦35号・11月
 夏の終わりの蒼空を鳶がなめらかに飛んでいます。中七に切れがあり、秋の訪れを間近に感じた体感に続き、鳶の様子が述べられています。「のみ」の限定及び強調がとりわけ叙情的です。
    季語=夏深し(夏)

松の上鳶が朝搏ちて巨き夏        同上
 松の上にいる鳶が朝を迎え羽搏いています。「巨き」から物理的また存在感としてスケールがずば抜けて大きい「夏」を捉え、瑞々しい「松」、勇ましい「鳶」が際立ちます。
  季語=夏(夏)

針葉のひかり鋭くソーダ水        同上
 針のように細長く尖った葉の光が鋭く迫ってきます。すっきりとした「ソーダ水」が情景を受け、上五中七の「静」とソーダ水の泡の「動」が魅力的です。
  季語=ソーダ水(夏)

たそがれの海に壓されて汽車を待つ    同上
 日没直後の夕方、海の近くの駅で汽車を待っています。「壓されて」の措辞が待ち続ける心情をよく表わしており、「たそがれの海」と呼応しています。
  季語=無季

こめかみを機関車くろく突きぬける    同上
 こめかみを機関車が突き抜ける感覚を詠っています。黒い機関車は銃弾のようで激情的でもありますが、身に起こる様子を冷静沈着に受け止めている様子も伺えます。
  季語=無季

兵の匂ひ真夜の街にあふれけり      同上
 「兵」は軍人や武器。戦争。その匂いが真夜の街に溢れている様子は不気味であり、益々戦争が盛んになっていく様子を捉えています。
  季語=無季

蓼ほそくのびて台風圏に入る       同上
 蓼が細く伸び切っている時節、台風が近づいて圏内に入りました。蓼は波打ち、台風の吹き荒れる様子が「ほそくのびて」により強調されています。
 
  季語=台風(秋)

無花果熟れ朝の掃除のひとまぶし     京大俳句11月
無花果熟れ犬が買物してかへる      同上
 無花果が実を開き熟れています。そのような情景の周りの様子を、一句目は「まぶし」から叙情的に、二句目は淡々と切り取り読みあげています。「無花果」と「ひと」「犬」対比が日常生活の美を表しています。
 季語=無花果(秋)

 
ひと日病む時計のまろき貌に向ひ     同上
 一日中、布団で臥せっています。布団から手を伸ばし、時計の丸い貌と向き合っています。なかなか回復しない身を持て余している様子が浮かびます。
  季語=無季

秋を病む瞼にひゞき雨ふれり         同上
 さわやかな秋ではありますが、わが身は病んでいます。そんな瞼へ響くように、秋の雨が降っています。研ぎ澄まされた身体感覚が深い情感を生み出しています。
  季語=秋(秋)

■「旗艦」消息欄に富澤赤黄男出征の記事。

【未来俳句・短期連載(告知)】未来俳句宣言が哲学の領域へ——『hyphen』11号の紹介  B.T.

 喜ばしい報せが届いた。

 『hyphen(ハイフン)』十一号が刊行された。現代フランスの哲学者ジル・ドゥルーズとフェリックス・ガタリの思想を研究する団体「DG-Lab(ドゥルーズ・ガタリ・ラボラトリ)」が発行する、哲学・思想系の研究会誌である。

 その誌面に、山根もなか氏の論考「俳句のリトルネロ——配置・切れ・内発的リズム」が掲載された。

 驚いたのはそれだけではない。巻頭の活動報告において、未来俳句宣言の活動そのものが紹介され、ドゥルーズとの相性にまで踏み込んで論じられているのである。


哲学の側から俳句を読む

 編集を務める伊藤幸生氏は、山根氏の論考を「ドゥルージアンだけが書くことができるような斬新な俳句論」と評しておられる。

 山根氏は、ドゥルーズ=ガタリのリトルネロ概念を俳句に接続し、切れがリトルネロの三つの契機を圧縮する装置として機能すると論じた。

 俳句の側が哲学を借りるのではない。哲学の側が、俳句を読むに値するものとして扱っている。ここが重要である。


DG-Labという場

 DG-Labは二〇一五年から活動を続け、研究会はすでに六十九回を数える。一冊の本を一年かけて読む。映画論の大著『シネマ』は、一巻と二巻をそれぞれ一年ずつ。今年は『フーコー』刊行四十周年を記念して、六回に分けて読み進めているという。

 会誌の巻頭に掲げられた理念は「ドゥルーズ=ガタリを読むすべての人々に開かれた大学外の場」。研究者だけの集まりではなく、大学に属していなくても、専門家でなくても参加できる。その精神と、内容の水準の高さが同居しているところが、この会の強みであろう。


宣言の行方

 宣言が俳句の内側だけで完結するのであれば、それは閉塞の別の形にすぎない。短歌へ、詩へ、文学へ、そして思想の領域へ。そこまで広がって初めて、過去に見たことのない風景が見えてくるのではないか。

 哲学の研究誌が俳句を論じ、その冒頭で宣言に触れる。この一事は、宣言がすでに俳壇の外へ出始めていることを示している。

 関心のある方は、ぜひご覧いただきたい。


●【論考】 俳句のリトルネロ——配置・切れ・内発的リズム 山根もなか(DG-Lab 会誌『hyphen』11号より)

https://dglaboratory.wordpress.com/wp-content/uploads/2026/09/hyphene5b1b1e6a0b9e6b08fe69c80e7b582e7a8bfe382bbe382abe383b3e38389.pdf


●【活動報告】(伊藤幸生氏による紹介)

https://dglaboratory.wordpress.com/wp-content/uploads/2026/09/hyphen11e6b4bbe58b95e5a0b1e5918a-3.pdf


2026年9月25日金曜日

第276号

 次回更新 10/9


【広告】夏潮別冊虚子研究と余滴の会 》読む

【最新鑑賞】身体は国家から逃走する——加藤知子句集『情死一擲』を読む  赤野四羽 》読む

攝津幸彦記念賞応募作品について 》読む

 *

■新現代評論研究

【未来俳句・短期連載】

共有のアリーナとしての季語・歳時記——未来俳句宣言への応答   谷川嘉浩 》読む

未来俳句宣言関連資料 》読む

新現代評論研究(第32回)各論:後藤よしみ、村山恭子 》読む

新現代評論研究:『天狼』つれづれ 第12回:「実作者の言葉」…「誓子の万葉揮毫歌碑」/米田恵子 》読む

現代評論研究:第29回各論―テーマ:雲または霧その他― 藤田踏青、土肥あき子、飯田冬眞、しなだしん、北川美美、深谷義紀  》読む

現代評論研究:第22回総論・「遷子を通して戦後俳句史を読む」座談会 》読む

【特別稿】口語俳句の可能性・余滴  筑紫磐井 》読む

新現代評論研究:音楽的俳句論 図像編 川崎果連 》読む

新現代評論研究:音楽的俳句論 解説編(第1回)川崎果連 》読む


■令和俳句帖(毎金曜日更新) 》読む

令和七年冬興帖

第一(9/11)下坂速穂・岬光世・依光正樹・依光陽子・花尻万博・小沢麻結・岸本尚毅・前北かおる・白石正人・ふけとしこ
第二(9/25)神谷 波・田中葉月・加藤知子・曾根毅・山本敏倖・杉山久子・中西夕紀・豊里友行・仙田洋子

■大井恒行の日々彼是 随時更新中!※URL変更 》読む

■ 俳句新空間第22号 発行※NEW!

■連載

【連載通信】ほたる通信 Ⅲ(74) ふけとしこ 》読む

【鑑賞】豊里友行の俳句集の花めぐり57 杉山久子『春の柩』 》読む

英国Haiku便り[in Japan](65) 小野裕三 》読む

【新連載】名俳句鑑賞へのラブレター『尾崎紅葉の百句』(高山れおな) 豊里友行 》読む

俳壇観測280 未来俳句論争ーー「俳句」7月号「合評鼎談」より  筑紫磐井 》読む

【豊里友行句集『赤ん坊オーケストラ』を読みたい】4 『赤ん坊オーケストラ』鑑賞 三木基史 》読む

句集歌集逍遙 梶原さい子『震災短歌ノート 東日本大震災ののちに』/佐藤りえ 》読む

【新連載】口語俳句の可能性について・番外

 俳句の虚構―西躰かずよし「窓の海光」論―  金光 舞 》読む

【豊里友行句集『地球のリレー』を読みたい】

 インデックス
 9 「希望」のバトン  宮崎斗士 》読む

【加藤知子句集『情死一擲』を読みたい】④ 破局有情――加藤知子句集『情死一擲』について 関悦史 》読む

現代俳句協会評論教室・フォローアップ研究会 7 筑紫磐井 》読む

【連載】伝統の風景――林翔を通してみる戦後伝統俳句

 7.梅若忌 筑紫磐井 》読む

【豊里友行句集『母よ』を読みたい】③ 豊里友行句集『母よ』より 小松風写 選句 》読む

【渡部有紀子句集『山羊の乳』を読みたい】⑯ 生き物への眼差し 笠原小百合 》読む

インデックス

およそ日刊俳句新空間 》読む

9月の執筆者(渡邉美保)…(今までの執筆者)竹岡一郎・青山茂根・今泉礼奈・佐藤りえ・依光陽子・黒岩徳将・仮屋賢一・北川美美・大塚凱・宮﨑莉々香・柳本々々 …



■Recent entries

中村猛虎第一句集『紅の挽歌』を読みたい インデックス

篠崎央子第一句集『火の貌』を読みたい インデックス

中西夕紀第四句集『くれなゐ』を読みたい インデックス

渡邊美保第一句集『櫛買ひに』を読みたい インデックス

なつはづき第一句集『ぴったりの箱』を読みたい インデックス

ふけとしこ第5句集『眠たい羊』を読みたい インデックス

加藤知子第三句集『たかざれき』を読みたい

眞矢ひろみ第一句集『箱庭の夜』を読みたい インデックス

葉月第一句集『子音』を読みたい インデックス

佐藤りえ句集『景色』を読みたい インデックス

眠兎第1句集『御意』を読みたい インデックス

麒麟第2句集『鴨』を読みたい インデックス

麻乃第二句集『るん』を読みたい インデックス

前衛から見た子規の覚書/筑紫磐井 インデックス

寒極光・虜囚の詠~シベリア抑留体験者の俳句を読む~㉜ のどか 》読む

俳句新空間を読む 》読む
…(主な執筆者)小野裕三・もてきまり・大塚凱・網野月を・前北かおる・東影喜子

【最新鑑賞】身体は国家から逃走する——加藤知子句集『情死一擲』を読む  赤野四羽

 加藤知子句集『情死一擲』を読むとき、まず目につくのは、いたるところで身体が壊れ、増殖し、変形し、何かを呑み込み、あるいは何かに侵入されていることである。

 「風船の首や吊られる一代記」では首が吊られ、「月とるにあばらの骨をそぎ落とす」では肋骨が削られ、「春の馬超えて女に脚六本」では女の脚が六本に増える。「ほと深きところに卍春は傷」は性器の最深部に歴史と記号を刻印し、「雷につらなれる脇腹の地霊」では身体の脇腹から地霊へと回路が開く。ここにある身体は、近代的な主体を包む安定した容器ではない。身体はむしろ、国家、神話、暴力、性、死者、土地が通過する裂け目である。

 その意味で『情死一擲』の核心にあるものを一語で呼ぶなら、「逸脱」であろう。ただし、その逸脱は奇矯なイメージを生み出すためだけの技法ではない。加藤の句において逸脱とは、身体を正常化し、分類し、所有しようとする力から逃れる運動そのものである。

 たとえば「ニッポンが股間にあるも昼寝覚」。ここでは「ニッポン」という巨大な共同体の名が、唐突に「股間」という極私的かつ性的な部位に押し込まれる。国家と身体の大小関係が逆転しているのである。本来なら個人の身体を包囲し、戸籍、家族、性別、再生産、徴兵といった制度を通じて管理する国家が、ここでは股間にぶら下がる滑稽な異物になる。「昼寝覚」という脱力した季語も重要だ。国家的崇高さは、目覚め際のぼんやりした肉体感覚によって一挙に脱神聖化される。

 この国家と身体の転倒は、「長男に継ぐこと無きや梅腐る」にも現れる。家制度的な「継承」の論理、その中心に置かれてきた「長男」に対して、句は「継ぐこと無き」と言い切る。しかも結末は「梅腐る」である。血統や家名の永続性に対して、生物は腐敗する。家父長制が想定する直線的な系譜に、腐敗という循環的な自然時間が侵入してくる。

 ここから見れば、本句集のフェミニズムは、「女性」というカテゴリーを肯定的に提示することよりも、女性身体に割り当てられた役割そのものを攪乱するところにあると言える。「神さびる乳房は島へ沖へ波」の乳房は、母性や性愛のために存在する器官ではない。それ自体が老い、神となり、島や海へと漂流してゆく。乳房は所有者たる「女」からさえ離脱している。

 「春の馬超えて女に脚六本」に至っては、女は人間という種的輪郭からも逸脱する。二本脚の「正常な女」は解体され、六本脚の異形の生命となる。これは怪物化であると同時に解放でもある。古来、女性の異形化はしばしば恐怖や排除の対象とされてきた。しかし加藤の句では、異形は劣位を意味しない。むしろ二本脚という規範を捨てた身体には、人間中心的秩序から逃走する奇妙な自由がある。

 だからこそ『情死一擲』における神話もまた、権威の源泉としてではなく、解体され、食われ、再配置される対象として現れる。

 「土蜘蛛を丸ごと吞みし真葛原」の「土蜘蛛」は、古代国家によって服属させられた周縁的存在を想起させる。だがここでは、その土蜘蛛をさらに「真葛原」が丸ごと呑み込んでいる。征服する側とされる側という単純な歴史図式すら、大地の巨大な消化作用のなかへ回収されてしまう。

 「神生みの朧を食らうだんご虫」はさらに徹底している。「神生み」という壮大な創世神話の傍らにいるのは、小さなだんご虫である。しかもだんご虫は神話を仰ぎ見るのではなく、「食らう」。高位の神話が低位の虫によって摂取されるこの逆転は、『情死一擲』の詩法をよく示している。高いものは低くされ、大きいものは小さくされ、聖なるものは肉体化される。

 「ビル壁を染み出る弥勒汗みどろ」も同様だ。救済者たる弥勒は、天上から清らかに降臨するのではない。都市のビル壁から汗まみれで染み出してくる。救済は超越ではなく、コンクリートと体液の混合として出現する。神は汚れ、肉体化し、都市の物質のなかに閉じ込められる。

 この神話の脱神聖化は、そのまま戦争の表象へとつながる。

 「自警団うち揃いては西瓜割り」は、一見すると夏の滑稽な景である。しかし「自警団」という語が置かれた瞬間、集団的な暴力の記憶が不穏に立ち上がる。目隠しをして棒を振り下ろし、対象を叩き割る西瓜割りは、遊戯であると同時に、群集暴力の模型となる。ここで恐ろしいのは、暴力が特別な狂気としてではなく、夏の余興のような日常性のなかに存在していることだ。

 「花野にてなにするひとぞミサイルマン」でも、花野とミサイルという不釣り合いが強烈である。古典的には死者や旅、秋の美と結びつく花野へ、現代戦争の象徴であるミサイルが侵入する。戦争は戦場だけにあるのではない。花野にも、昼寝にも、冷蔵庫にも、身体内部にも現れる。

 その極点が「木下闇強姦兵器生まれつぐ」であろう。「強姦」と「兵器」を直結させることで、この句は性暴力を個人的逸脱ではなく、反復生産される暴力装置として示す。「生まれつぐ」という語が残酷である。生命を継承するはずの「生む」という言葉が、ここでは暴力の継承を意味する。戦争と家父長制は、ともに身体を占有し、次代へ再生産するシステムとして重なって見える。

 「人間を狩る冷蔵庫灯るべし」も不気味だ。人間が自然を狩る主体なのではなく、冷蔵庫という人工物が人間を狩る。主体と客体は逆転する。文明が人間を保護するという物語はここで破綻し、道具の側が捕食者となる。その白い内部灯は、保存と死体安置、家庭と戦争、日常と殺戮の境界を曖昧にする。

 こうして見ると、この句集で戦争は「戦争を詠んだ句」の内部だけに存在しているのではない。戦争とは、身体を規格化し、性を統制し、敵味方を分け、殺すことのできる身体を製造する原理であり、その原理が日常の奥深くにまで浸透している。

だから『情死一擲』では、死もまた一回的な終点ではない。

 「昨日ひとだま今日は瓜へと化すおみな」において、死者は人魂となり、さらに瓜へと変わる。死は消滅ではなく変態である。「夜桜に体当たりして魂入れ換え」でも、魂は唯一不変の自己ではなく、交換可能な何ものかになる。

 「電報の死を炙りけり檸檬の香」は、この死の物質性を鮮烈に示す。死の知らせとしての電報が「炙」られ、その傍らに檸檬の香りが立つ。死は抽象的な観念ではなく、紙、火、香りからなる感覚的な出来事に戻される。

 さらに「献体を拒みて菜種梅雨の底」「夏果ての自力排泄とは妙技」と進むにつれ、句集は死を英雄的な事件から徹底的に引き離す。死を前にして重要なのは、大義でも記念碑でもなく、身体を誰に渡すのか、最後まで排泄できるのかという、生々しく卑近な身体の主権なのだ。

そして最終的に現れるのが、

「もうよかろう最期は情死帰り花」

である。

 表題『情死一擲』へと響き返すこの句の「もうよかろう」には、奇妙な軽さがある。情死は通常、恋愛の絶対化、二人だけの世界への閉鎖として理解される。しかし本句集を読み進めてきた後では、この「情死」はそれほど単純ではない。それは国家、家族、血統、正常な身体、神話、戦争といった、自分の死の意味を外側から決定しようとするあらゆる制度への最後の逸脱とも読める。

 ただし、そこには英雄的な自己決定の身振りさえない。「もうよかろう」という投げやりとも諦念ともつかぬ口調と、季節外れに咲く「帰り花」があるだけだ。

 帰り花とは、本来の季節から外れて咲く花である。

 そう考えれば、この季語ほど『情死一擲』にふさわしいものはない。六本脚の女も、汗を流す弥勒も、神話を食うだんご虫も、人間を狩る冷蔵庫も、すべて本来あるべき位置から外れている。女は女の位置から、神は神の位置から、人間は人間の位置から、死者は死者の位置から逸脱する。

 その逸脱は破滅なのか。

 おそらく加藤知子の句は、そう簡単には答えない。

 「街の足裏が沈みゆくゆく蟻地獄」と詠まれるように、世界そのものが沈下している以上、正常であることの方が危ういのかもしれない。秩序の内部にとどまることが生存を保証しない世界で、身体は怪物となり、虫となり、地霊となり、花となって、別の出口を探し続ける。

 『情死一擲』とは、死へ向かう句集である以上に、「正しい生」によって飼い慣らされることを拒む句集なのである。

 その意味で、ここにあるフェミニズム、神話、戦争、死は別々の主題ではない。それらを貫いているのは、誰が身体を所有し、誰がその身体に意味を与えるのかという問いである。

 国家なのか。家族なのか。男なのか。神なのか。歴史なのか。

 加藤の句は、その問いに明快な答えを返すかわりに、身体そのものを変形させてしまう。

 肋骨を削り、脚を六本にし、乳房を海へ流し、神を汗まみれにし、死者を瓜へ変える。

 意味づけられる前に、別のものへなってしまうこと。

 それこそが『情死一擲』における、最も根源的な抵抗なのではないだろうか。

【未来俳句・短期連載】 共有のアリーナとしての季語・歳時記——未来俳句宣言への応答  谷川嘉浩

 この種の「宣言」を読むのは久しぶりだった。評論が居場所を失うとき、宣言もまた存在感を失う。筑紫磐井の未来俳句宣言は、俳句の現在を「閉塞の時代」と名指し、伝統とはルールではなく過去の作品という財産だと捉え直す。過去の俳句が掬いきれなかったところにこそ未来がある。前衛に自句自解はできず、宣言だけが許されている。作品の内側で自分を説明するのではなく、これから何をするのかを外に出して、応答を待つ。

 宣言をする人が、宣言とは何かを説明しながら宣言するという手つきは、宣言が存在感を失ってしまった時代に見合った、的確な表現だったと思う。俳句について詳しいわけではないが、私は大いに趣旨に賛同する。時代ごとに指摘され、そのたびに指摘する人が誰かから権威的に叱られているが、かねてより受け継がれている事柄や形式をただ単に反復するだけの文化に未来はない。自分たちなりに魂を込めて、(先人を踏まえつつ)先人を裏切るような表現や提案をおこなえる文化が、その表現や提案のバリエーションの分だけ、文化の命脈を保つことができる。


 とはいえ、留保を一つ挟みたい。形式の攪乱は、定義上、攪乱される形式に寄りかかっている。破格が破格として読まれるのは、ルールが共有されているからだ。宣言が手がかりとして挙げる作例を思い出してほしい。比喩を否定したと評される金子兜太の句も、文法の見当たらない加藤郁乎の句も、読者が俳句のルールを前提としているから破壊的に見える。宣言が示す短律にしても、十七音という期待があるから短さが短さとして届くのであって、期待ごと捨ててしまえば、残るのは短い言葉であって短律とは必ずしも言えない。だから、攪乱することそれ自体が作風になり、様式として反復されはじめるとすれば、その振る舞いは何も動かすことができないだろう。個性的になろうとして、いかにも個性的にみられるような装いを反復する人を個性的だと思わないが、それと同じ程度につまらないことだ。(教科書通りの「個性的」な装いの人に微笑ましさというか、妙な頼もしさを感じるのと同じで、そういう周囲が見えていない勇み足は個人的には嫌いではないのだが。)

 宣言は連帯を求めない、と筑紫磐井は述べている。そうなのかもしれない。それでも、言葉はつながらなければならない。それはつまり、たとえ言葉や関心がすれ違っていたとしても、様々な行為者の判断の履歴が人々に共有されていなければならない、ということだ。各人が俳句という文化のために別々の賭けをしてもよいし、その賭けは多様であった方がよいと信じているが、その賭けが互いに競い合うアリーナを形成する必要があるのではないか。このブログ紙面(なんと呼べばいいのだろう)はその一つかもしれないが、宣言が期待する談論風発は、共有をどこまで残すかという設計の問題でもあるだろう。議論や対話の場を工夫しながら構築すること、その努力もまた怠ってはならないのではないか。俳句表現だけでなく、そちらを新しく工夫することもまた必要ではないか。


 最後に、別の提案をさせてほしい。私は学部時代に京大短歌という短歌サークルに入っていた。私は短歌に愛着があり、その可能性を感じていたのだが、同時に俳句への憧れを抱いていた。憧れの対象は、季語である。季語があり、歳時記が何種類もあって、それが一応の共有知識となっている。そういう制度を持たない短歌の視点から見ると、俳句の季語・歳時記という共通言語は、かなり魅力的に思える。誤解のないように言い添えると、これは規則への憧れではなく、共有のアリーナへの憧れである。歳時記は改訂される。季語の本意は動く。新しい季語が入り、気候の変化で季感はずれ、無季をどう扱うかで論争が起きる。季語は、内容の改訂と意味の再編に常に開かれたアリーナとして運用されている。そのアリーナのルールは曖昧で、その曖昧さの中に、季語という制度を新しく捉え直し、実験していくヒントがあるように思われる。

 だとすれば、宣言に応じる道はもう一つある。宣言は、過去の俳句が掬いきれなかったものに未来があると言った。その言い方を借りるなら、歳時記は、掬いきれなかったものを次の版で拾い直すために作られている。俳句の新しさを探すために季語を捨てる道もあるのかもしれないが、私は季語の機能や意味を再定義することを提案したい。

 バリー・スミスという哲学者が、文書や書類を一種の(言語)行為と捉えて、書類の扱われ方について次のように語っていた。「書類とは同一性を保ったまま時間を持ちこたえるものだ。署名され、副署され、保管され、登記され、閲覧され、譲渡され、複写され、批准され、無効化され、押印され、偽造され、隠され、紛失し、破棄される。」 1)まさにこのような形で歳時記の編纂や改定は行われている。それも複数の歳時記を通して。アリーナとしての季語や歳時記が、俳句にとってどんな意味や働きを持っているのか。それはどのようにズラすことが可能であり、どういう変化はどういう帰結につながるのか。その変更は誰にどう届くための変更なのか。考えるべきことは多い。英語化された俳句にとっての季語の意味や役割を実験的に提案するのも楽しそうだと個人的には思う。


 文化には、誰かの否定と裏切りが必要である。それは必ず誰かに権威的に叱られる。だが、裏切りが誰かに届き、肯定や否定、その他の反応を引き出せるのは、判断の履歴を共有できる場所があるときだけである。それは一つである必要はないし、複数の場が設計されていた方がよい。そうした場の設計と並行して、俳句という文化の中に様々なアリーナを発見し、その中で複数の実験を行っていくこと。私は特に季語と歳時記が形成するアリーナに面白みを感じるのだが、実際に俳句を作っている人たちがこの印象をどう受け取るのか、一人の俳句読者として応答を楽しみにしている。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

1)  Smith, Barry (2012). How to Do Things with Documents. Rivista di Estetica 50:179-198.

【谷川嘉浩(たにがわ・よしひろ) 京都市在住の哲学者。京都大学大学院人間・環境学研究科博士後期課程修了。博士(人間・環境学)。現在、京都市立芸術大学美術学部デザイン科講師。著書に『増補改訂版 スマホ時代の哲学』(ディスカヴァー携書)、『鶴見俊輔の言葉と倫理——想像力、大衆文化、プラグマティズム』(人文書院)、『信仰と想像力の哲学——ジョン・デューイとアメリカ哲学の系譜』(勁草書房)、『人生のレールを外れる衝動のみつけかた』(ちくまプリマー新書)ほか。】

【未来俳句・短期連載/資料】未来俳句宣言関連

【広告】ウエップ俳句通信152号・特集〈筑紫磐井の〈新俳句宣言〉にたいして〉等  

 ウエップ俳句通信151 号に掲載された筑紫磐井「未来俳句宣言」に対し編集部から121名の俳人・評論家に意見を求めたところ、無回答6人、否58人、諾57人の回答が得られ、諾と回答した俳人・評論家の回答をそのまま掲載した。主要執筆者(「豈」関係)と回答した表題を掲げる。


●特集〈筑紫磐井の〈新俳句宣言〉にたいして〉

[主要執筆者と表題]

*池田澄子「俳句って何」 

*大井恒行「筑紫磐井の〈新俳句宣言〉についてーーあるいは「未来俳句宣言」ー」 

*五島高資「俳諧精神から見た「新俳句宣言」」 

*高山れおな「一番弟子が師匠の宣言をめぐって書いた模範回答、のようなもの」 

*森須蘭「実作者として」 

*山崎十生「新しい自由な俳句」 


●未来俳句宣言2(続編)    筑紫磐井

※ウエップ俳句通信153 号では「第二未来俳句宣言」(日本伝統俳句協会のための未来俳句宣言)を掲載。


【未来俳句宣言・BLOG「俳句新空間」関連文献】

〇未来俳句宣言についてーー高山れおなの読売文学賞受賞を祝して  筑紫磐井(2月13日)

〇未来俳句宣言についてーー高山れおなの読売文学賞受賞を祝して(続)  筑紫磐井(2月27日)

〇未来俳句宣言に寄せて――「短律」という武器、あるいは二重露光について 山根もなか(3月13日)

〇未来俳句への期待〜凝縮と非線形的時間  磯﨑寛也(詩人)(3月27日)

〇未来俳句は「未来」になり得るか?  山本幸生(作家)(4月17日)

〇山根もなか宛私信より(抜粋・編集) 樫村晴香(哲学者)(5月15日)

〇「自由律俳句の精神的自由」に関する宣言  煙陽(6月12日)

〇筑紫宣言における書簡  利岡龍之介(順天堂大学)(6月26日)

〇俳壇観測280 未来俳句論争ーー「俳句」7月号「合評鼎談」より 筑紫磐井(7月31日)

〇器はもう一つ増える——未来俳句宣言への応答  山根もなか(8月21日)

〇心身から考える未来俳句  横道誠(文学・当事者研究)(9月11日)

〇新俳句宣言:坪内稔典氏の反論の吟味 ―文学はどこまで短くなることが出来るのか― 筑紫磐井(9月11日)

〇共有のアリーナとしての季語・歳時記——未来俳句宣言への応答  谷川嘉浩(哲学者)(9月25日)


【参考】AI による新俳句宣言解説(8.18版)

概要                 

「新俳句宣言」(発表当初の名称は「未来俳句宣言」)は、俳人・評論家の筑紫磐井が発表した、これからの時代の新しい俳句のあり方を問う文芸上の提言です。現在の定型・有季中心の俳壇の閉塞感を打破し、短律や自由律などを含めた新しい表現の可能性と、芸術としての俳句の自立を求めて大きな論争を巻き起こしています。


背景と経緯

・2025年末の現代俳句協会の講座において、筑紫磐井が「20年後の未来の俳句」として極端な短律句を提示したことが発端

・角川『俳句』誌(2026年5月号)などで「未来俳句宣言」としての16句が発表される

・専門誌『WEP俳句通信』152号等で「筑紫磐井の〈新俳句宣言〉にたいして」という大特集が組まれ、多数の俳人が賛否の論考を寄せるなど現在進行形の俳壇論争となっている


主な論点

・短律・自由律の追求: 従来の五・七・五(5・7・5)の定型や有季にとらわれず、短い音数(短律など)の中に凝縮された詩の可能性を追求

・芸術としての自立: 季語や日常の情景報告に安住するのではなく、言葉の配置と緊張感によって詩・芸術としていかに独立し得るかの提示

・俳壇からの反応: 伝統的な定型リズム(素数律など)を重視する立場からの疑問や違和感、あるいは新たな前衛の旗印として捉える見方など、賛 否両論の活発な議論が交わされている


【新連載】新現代評論研究(第32回)各論:後藤よしみ、村山恭子

★ー3 高柳重信の新俳句詩法――「垂直の力学」として読み解く10 後藤よしみ

第2部

新俳句詩法の妥当性の検証 7


第4節 妥当性のまとめ

ーー高柳重信・全句業の発展構造と新俳句詩法の証明


はじめに

 これまで、高柳重信の全句集を時系列に沿って読み解いてきた。ここでは、それらを三つの段階にまとめ直し、

4原則(語彙の地質学、倒語法の再編、沈降の力学、深層の噴出)と

6モジュール(①身体・実存、②音韻・律動、③視覚・イメージ、④歴史・文脈、⑤主体・心理、⑥受容・読者)

がどのように生まれ、育ち、完成したかを整理する。

 この取りまとめには二つの目的がある。一つは、各段階が単なる「作風の変化」ではなく、前の段階の限界が次の段階の原動力になっているという因果の連鎖を示すことである。もう一つは、4原則と6モジュールという二つのシステムが、重信の全句業を通じて成熟してきたことを証明することである。


1 三段階の全体像

 重信の句業は、次の三つの段階として整理できる。

第一段階 生成期(初期) 

句集:

『前略十年』例句   金魚玉明日は歴史の試験かな

『蕗子』          船焼き捨てし

      船長は


      泳ぐかな


第二段階 形成期(中期) 

句集:『伯爵領』        遂に   

                           谷間に

                         見出だされたる

                         桃色花火

『罪囚植民地』     杭のごとく 

                       墓

                         たちならび

                         打ちこまれ

『蒙塵』          まなこ荒れ

                     たちまち

                     朝の

                 終りかな

『遠耳父母』      沈丁花


                       殺されてきて

                 母が佇つ闇


第三段階 完成・統合期(後期〜晩年) 

句集:

『山海集』        飛騨の

                      美し朝霧

                      朴葉焦がしの

                      みことかな

『山川蟬夫句集』  軍艦が軍艦を撃つ春の海

『日本海軍』     夜をこめて

                        哭く

                        言霊の

                  金剛よ

「日本海軍・補遺」 峯風

                         絶景

                         十六夜

                     秘曲・百済琴


2 各段階の要点と「なぜ次へ進んだか」

第一段階 生成期

 この時期、重信はまだ伝統的な一行の形式の中にいた。しかし、言葉の内側では、すでに「意味をそのまま伝えたくない」という力が沸き始めていた。

 4原則はまだはっきりとした形になっていない。語彙の衝突の萌芽がわずかに見られるだけで、倒語も多行も弱い。6モジュールも、視覚や身体の感覚が個人的な情念の中に未分化のまま混ざり合っている。

 しかし、この「未完成さ」こそが重要である。まだ完成していないからこそ、形成の歴史を証明する根拠になる。

 なぜ次へ進んだか——一行の形式では、語彙がどれだけ衝突しても、意味はすぐに流れて消えてしまう。衝突を止め、意味を深く沈めるための「壁」が必要になった。その答えが、多行形式という改行と空白の摂取であった。

第二段階 形成期

 この時期に多行形式の変革が本格的に動き出す。改行による「沈降の力学」が現れ、倒語法が強くなる。言葉は一語ずつ切り離されて落下し、意味の断層がより深くなる。

 しかし、各原則はまだバラバラに動いており、統合されていない。身体モジュールと歴史モジュールが強く突出するが、全モジュールが一句の中で同時に作動するには至っていない。

 この段階は三つの局面に分けて見ることができる。

 『伯爵領』では、一語一改行という細かい切断が行われ、崩壊が静止した映像ではなく「運動」として現れ始めた。

 『罪囚植民地』では、解体された言葉の破片に国家・戦争・制度が充填され、改行の空白が静かな沈降から打撃へと変わった。

 『遠耳父母』では、沈降の対象がさらに深い層——父母という血脈の記憶、生と死の境界——へと届いた。空白は沈黙装置から、現世と死者の世界をつなぐ霊道へと変質した。

なぜ次へ進んだか——多行を多様化するにすることで沈降は深まった。しかし、今度は行をつなぐ文法そのものが意味を固定する妨げになった。文法を削ること、つまり名詞だけで句を立てることが、次の一歩だった。

第三段階 完成・統合期

 この時期に4原則が一つにまとまる。語彙の衝突、倒語、沈降、深層の噴出が、一句の中で同時に働くようになる。6モジュールも、個別の補強材ではなく、同時に作動するよう機能している。

 この段階も三つの局面に分けられる。

 『山海集』と『日本海軍』では、「飛騨」「金剛」「松島」といった日本の地名・神話語彙・軍艦名が中心となり、一語の中に数千年の記憶が宿る。語彙の地質学は異質語の衝突から「古層の共鳴」へと完成し、垂直の力学が日本近代そのものへ突入した。

 「日本海軍・補遺」では、助詞も動詞も消え、名詞だけが空白の中に配置される。文法という「糊」が剥ぎ取られたことで、名詞という岩石がそのままの質量で垂直に落下する。内容と形式が一致した段階である。

 『山川蟬夫句集』では、多行形式が再び一行へ戻る。しかし、これは退却ではない。多行によって開発された垂直の重力が、一行という器に圧縮される。改行という外側の装置なしに深淵へ落下する後期段階の詩法である。


3 4原則と6モジュールの成熟表

4原則(垂直の力学)の成熟

原則 ➀生成期(初期) ➁形成期(中期) ➂完成統合期(後期〜晩年)


語彙の地質学

➀日常語と歴史語の微細な衝突が始まる(萌芽)

➁異質語彙が急増し、死・制度・血縁の語彙が沈殿する

➂地名・神話・軍艦名が重層化し、一語が日本史の地層になる


倒語法

➀感情を直接言い切らない最初の萌芽

➁因果が崩れ、主体・時間・心理が順に消えていく

➂文法そのものが解体され、意味生成が読者へ委ねられる


沈降の力学

➀一行の中に心理的落差はあるが、改行による沈降はない

➁一語一改行による垂直落下から、打撃・霊道へと深化する

➂文法消去による名詞の自由落下、一行への力の圧縮


深層の噴出

➀青春・孤独・喪失感という個人的な不安が滲む

➁死・身体・母・父という深層記憶が噴出し始める

➂国家・戦争・言霊・文明の哀歌が民族史的な深層から上昇する


6モジュール(水平の補強)の成熟

モジュール ➀生成期(初期) ➁形成期(中期) ➂完成統合期(後期〜晩年)


身体・実存

➀青春の不安として情念の中に混在する

➁傷・疲労・戦争身体として個別に強化される

➂肉体の痛みや砲撃の振動が読者に直接届く


音韻・律動

➀補助的な役割にとどまる

➁独自の韻律として個別に研ぎ澄まされる

➂音そのものが意味を超え、文明の残響として機能する


視覚・イメージ

➀個人的な情念に埋もれた映像

➁シュルレアリスム的映像が急増し、歴史幻視へ変わる

➂神話・戦艦・古代の光景が脳内で立体的に現出する


歴史・文脈

➀時代背景として遠くにある

➁制度・戦争・血縁の文脈として中心へ移動する

➂地名・記紀・帝国史が一語で全起動する


主体・心理

➀個人の感情が前面にある

➁主体が分裂し、誰が語るのかが曖昧になっていく

➂主体は消え、言語と土地だけが残る


受容・読者

➀比較的共有しやすい感覚として届く

➁読者が意味生成に参加し始める

➂読者が意味生成者となり、感通が行われる


4 総括——新俳句詩法は形成史を説明できるか

 結論として、説明可能である。

 重要なのは、この理論が後から無理やり当てはめたものではないことである。句集が進むごとに、4原則と6モジュールが段階的に生まれ、深まり、完成していくことが、実際の句の読解によって確認できる。理論が先にあるのではなく、重信の歩みそのものがこの新俳句詩法を描いている。

 この証明には二つの軸がある。

 一つ目は、句集ごとの時系列による検証である。重信がその時々の状況の中で詩法を変化させていった過程を、作品に即して実証した。これが「歴史的・実証的妥当性」の証明である。

 二つ目は、4原則・6モジュールというシステムごとの縦割りの検証である。時系列を一度解体してシステムの進化を見ることで、重信の実験が気まぐれな思いつきの連続ではなく、言葉の重力と感覚を駆動させるという一つの一貫したものだったことが明らかになる。これが「理論的・一貫性的妥当性」の証明である。

 この二つの軸——横糸(時系列)と縦糸(構造)——が交差したとき、重信の全句業は、新俳句詩法という一枚の織物として完成する。

 高柳重信が命を削って進んだ道は、奇をてらった前衛の実験ではなかった。それは、俳句というわずか十七音の器の中に、言葉の重力と感覚の全領域を詰め込むという、言葉の錬金術だった。新俳句詩法は、その全過程をある程度の部分において説明する理論である。そしてその証明によって、「一行か多行か」という表面的な形式論争に終止符を打ち、高柳重信を「俳句を言葉の深層の結晶へと変えた詩人」として正当に位置づけることができる。

次節では、高柳重信の新俳句詩法がどれほど独自性と有効性を保ち得ているかを検証したい。

(つづく)


★―7 藤木清子を読む 20/村山 恭子 


20 昭和12年 ⑦

夾竹桃外科医手術の手を洗ふ    京大俳句10月

 街路樹の緑化に使われる夾竹桃。夾竹桃の白や桃色の濃淡と外科医の手術着の白や水色の色の対比が鮮やかです。外科医が大きな手術を終えて手を洗っている様子は生々しく、その場所の窓から見える夾竹桃が乾燥した花々を揺らしています。

  季語=夾竹桃(夏)


征く人に港の夜雲かく美しく    同上

 出征する人へ港の夜は深く鎮まり、また夜空の雲が美しく心に染み入ります。「かく」により雲の美しさを強調し、広々とした夜空と「征く人」の心情が重なり合い、詩情を生み出しています。

  季語=無季


戦争の硬き街ゆき雨月なる     天の川11月、京大俳句12月

 戦争の緊張でこわばっている街を歩いています。「雨月」は中秋の名月が雨のために眺められないこと。「硬き」と「雨月」の質感の対比により、読む者の心へ哀愁や無常観をもたらします。

  季語=雨月(秋)


山の線規し夕べのひといそぐ    同上、同上

山の線親し夕べのひといそぐ    京大俳句12月

 「山の線」とは道路や鉄道か。夕方に家路を急ぐ人々の様子が浮かびます。一句目から規律正しい人波を、二句目から人々のざわめきを感じます。

     季語=無季


■「旗艦」消息欄に片山桃史出征の記事。(34号・10月)