日本の原始仏教の研究レベルは、世界的に高い。西欧の仏教研究の歴史は、意外と古い。ドイツの研究者集団が、十八世紀後半から始め、十九世紀初期には既に、仏教経典の独語訳等の成果を上げている。日本は、江戸時代後期である。もうすぐ、激動の幕末である。ドイツ十九世紀前期の、ショーペンハウアー(1788~1860)の思想には仏教の影響が強いと言われている。もっとも私は、仏教への誤解に満ちていると考えているが。
日本の原始仏教研究レベルの高さに、最も貢献した研究者は、中村元(1912~1999)である。中村の仕事の集大成とも考えられる論文を読みながら、私は次の一文に注目した。
「一と一切は別なものではない。極小において極大を認めることができる。きわめて微小なるものの中に全宇宙の神秘を見出しうる。(中略)実に中論のめざす目的は全体的連関の建設であった」(龍樹・2002年)
俳句は極小の文学である。世界の中で、最も極小の文学である。しかし、仏教思想は極小に於いて極大を認めることができると言う。この思想に勇気づけられる者は、私独りではないはずだ。大乗仏教経典に金剛般若経がある。金剛般若経のエッセンスを縮約した般若心経は、日本人にも馴染みが深い。多くの人が知っている。私は若い頃、般若心経の中心思想である「色即是空・空即是色」の意味が理解出来なかった。特に「空(原語・シューニヤター・漢訳玄奘)」という概念が、理解出来なかった。中村の「龍樹」という論文を読むことで初めて心の底から、空を理解出来た。「色即是空・空即是色」とは、わかりやすく言えば「大宇宙・森羅万象は、相互依存関係であり、相互依存関係とは、大宇宙・森羅万象である」という意味である。空とは「相互依存関係」のことである。「全体的連関」のことである。
大宇宙・森羅万象は、生成流転している。石も土も海も生物も、生物の一種である人間も、全宇宙も生成流転している。原始仏教は、この生成流転を「無常」と表現した。日本では無常は人間が死ぬことを意味するという誤解が現在も広まっている。その誤解が日本的無常感のベースにある。違うのである。無常とは、相互依存関係の下に大宇宙・森羅万象が生成流転している姿である。大宇宙の中で人間は、取るに足らぬ存在である。いてもいなくても良い存在である。ただ森羅万象が、相互依存関係の下に生成流転している。それが「無常」という全体的連関である。
龍樹(ナーガールジュナ)は、南インドの紀元後二世紀から三世紀の人である。大乗仏教の理論を確立した。金剛般若経の空の理論化を確立した。主著は「中論」であり、詩の形で書かれている。金剛般若経の空を「相互依存関係」つまり、原始仏教の「縁起説」と関係づけて理論化している。「中論」は、西欧論理学とは違うインド論理学を駆使して難解である。ただ「難解さ」は、中身のある「難解さ」と、ただ混乱しているだけの「難解さ」に分かれる。「中論」は、中身のある「難解さ」である。そして詩である。中村は良く「中論」を、サンスクリット語から、平易な日本語に訳した。立派な仕事である。龍樹は「中論」によって、人々をブッダが説いた解脱に導こうとしている。人々を救おうとしている。日本の伝説的慈悲の実践者である行基・空也等と、同じ姿勢である。道元の講義録・言行録と、同じ姿勢である。つまり、「優しさと励まし」に満ちた大乗仏教経典である。大乗仏教とは言うものの、思想の原点はすべて原始仏教経典に含まれている。
二千五百年前の原始仏教経典もまた、詩の形で書かれている。ブッダの修行の目的は「生老病死・一切皆苦」をスタートラインとしながら、いかにして生き生きと充実した生き方が出来るかということである。解脱とは、インダス文明以後インド文化伝統の「輪廻転生」という円環型時間意識を、突き抜けることである。空の体得と解脱は同じでことある。「生老病死・一切皆苦」は、結論ではない。スタートラインなのである。
西欧の仏教研究者は、龍樹の中論を、あるいは仏教そのものを「虚無主義(ニヒリズム)」と結論づけることが多い。アリストテレス論理学の三段論法(A=B・B=C・故にA=C)を基本として考えることが誤解の原因である。中論は三段論法の近代キリスト教文化圏と違う思想なのである。西欧の仏教研究者に、自分たちの文化圏と違う文化圏の思想を理解する「柔軟な思考力」が、欠けているだけのことである。西欧の仏教研究者及びその影響下ある人々は、文化相対主義・文化多元主義を学ぶべきである。
「空(相互依存関係)」に戻ろう。「色即是空・空即是色」を理解することは、仏教の本質を理解することである。もう一度、中村の一文に戻る。
「一と一切は別なものではない。極小において極大を認めることができる。きわめて微小なるものの中に全宇宙の神秘を見出しうる。(中略)実に中論のめざす目的は全体的連関の建設であった」(龍樹)
原始仏教研究者を超えた、哲学者・中村元の言葉だと、私は思う。西欧の仏教研究者に伍して、中村は、仏教経典を広く深く読み込んでいる。この一文は、中村の思想である。そのような中村の思想をあらわす別の一文を示す。
「仏教は時間という独立の実体を認めない」(龍樹)
深い言葉である。キリスト教文化圏の創世と終末を結ぶ直線型時間意識とは違う。時間そのものを認めない。過去もなければ、未来もないのである。あるとすれば、「生き生きとした現在」だけである。「生き生きとした現在」とは空(相互依存関係)の全体的連関のことである。
英文学研究者・外山滋比古は書いた。
「読む作業は、もっと能動的、ときには、創造的ですらある営みである。真の読書は、読んだ内容を読者の骨肉と化することである」(近代読者論)
「骨肉と化する」何と実感のこもった言葉であろう。そう中村は、仏教経典を骨肉と化しているのである。仏教の本質を理解しよう。ブッダが遠い存在であるなら、同じ日本人の松尾芭蕉の秀作俳句を読もう。同じ日本人の道元の講義録・言行録を読もう。いや、それ以上に「世界のさまざまな文化地域の人々の深い思索」の跡を辿ろう。そこには、「生き生きとした現在」がある。それはまた、俳句創作活動の基盤でもあるのだ。
俳句とは「生き生きとした現在の極小の文学」である。