2015年2月20日金曜日

第11号 

※「BLOG俳句空間」は基本隔週更新です
毎週・毎日更新の記事に関しては右の[俳句新空間関連更新リスト〕ご参照ください。)



  • 3月の更新第12号3月6日・第13号3月20日




  • 平成二十七年 俳句帖毎金00:00更新予定) 

     》読む

    (2/28更新)歳旦帖、第八 
    …下坂速穂・岬光世・依光正樹 ・依光陽子

    (2/20更新)歳旦帖、第七 
    …中西夕紀・福永法弘

    (2/13更新)歳旦帖、第六 
    …水岩 瞳・羽村 美和子・飯田冬眞・筑紫磐井

    (2/6更新)歳旦帖 第五 
    …西村麒麟・小野裕三・岡村知昭・澤田和弥・早瀬恵子・浅沼 璞・望月士郎・近恵

    (1/30更新)歳旦帖 第四
    …神谷 波・池田瑠那・林雅樹・ふけとしこ・福田葉子・関悦史・瀬越悠矢・堀田季何・前北かおる

    (1/23更新)歳旦帖 第三
    …杉山久子・小沢麻結・堀本 吟・中山奈々・北川美美・山本敏倖・寺田人・仮屋賢一

    (1/16更新)歳旦帖 第二
    …陽 美保子・木村オサム・月野ぽぽな・山田耕司・佐藤りえ・竹岡一郎・坂間恒子
    (1/9更新)歳旦帖 第一 
    …青山茂根・網野月を・曾根 毅・しなだしん・五島高資・仲寒蟬・小林苑を・夏木久


    【評論新春特大号!】

    「評論・批評・時評とは何か?――堀下、筑紫そして・・・
    その4
      筑紫磐井・堀下翔 》読む


      【俳句自由詩協同企画】

      「俳人には書けない詩人の1行詩  俳人の定型意識を超越する句」

      ●俳句・自由詩協同企画縁由 …… 筑紫磐井 》読む


        • 自由詩1月  ……萩原健次郎  》読む

        • 俳句1月 「鬼」 …… 花尻万博  》読む



        【俳句を読む】


        • 三橋敏雄『真神』を誤読する (107)
        • (花火嗅ぎ父を嗅ぎ勝つ今夜かな)
          北川美美  》読む



        当ブログ媒体誌俳句新空間』を読む(毎金00:00更新)
        堀下翔、仮屋賢一、網野月を、浅津大雅、中山奈々… 執筆者多数  》読む
          およそ日刊「俳句空間」 (12月も月~土00:00更新) 
            日替わり詩歌鑑賞 》読む
            …(2月の執筆者)竹岡一郎・佐藤りえ・仮屋賢一・黒岩徳将・北川美美 
              大井恒行の日々彼是(好評継続中!どんどん更新)  》読む 



                【時評コーナー】
                • 時壇(基本・毎金更新)新聞俳句欄を読み解く
                  ~登頂回望~ その五十三網野月を  》読む
                  • 俳句時評 (隔週更新  担当執筆者: 外山一機 / 堀下翔)
                  衒いなき「異端」―伊丹公子について― 
                  外山一機     》読む 
                  • 詩客 短歌時評 (右更新リスト参照)  》読む
                  • 詩客 俳句時評 (右更新リスト参照)  》読む
                  • 詩客 自由詩時評 (右更新リスト参照)  》読む 




                    【アーカイブコーナー】

                    ―俳句空間―豈weeklyを再読する
                    2008年8月15日発行(第0号(創刊準備号))■創刊のことば            
                    俳句など誰も読んではいない     ・・・高山れおな   読む

                    アジリティとエラボレーション     ・・・中村安伸  読む

                    2009年3月22日発行(第31号)
                    遷子を読む(はじめに)・・・中西夕紀、原雅子、深谷義紀、窪田英治、筑紫磐井   》読む



                        あとがき  》読む





                            【お知らせ】 「第2回 詩歌トライアスロン
                            作品の公募・公開選考会予告  》読む

                            筑紫磐井著!-戦後俳句の探求
                            <辞の詩学と詞の詩学>
                            川名大が子供騙しの詐術と激怒した真実・真正の戦後俳句史!




                            筑紫磐井連載「俳壇観測」執筆







                            第11号 あとがき

                            (2015..2.23 更新)

                            筑紫磐井

                            2月14日に福岡県久留米市で「六分儀」という雑誌の復刊記念大会があった。「六分儀」とは以前「ばあこうど」の名称で出ていた雑誌が改名した雑誌である。この「ばあこうど」が編集長の病気でしばらく休刊していたのだが、復刊と同時に改名しているのだ。

                            雑誌は、基礎となる同人はいるものの、圧倒的に外部寄稿者が多い。ちょっとした地方の総合誌の趣がある。したがって、これの復刊した記念に久留米市の石橋文化センターで行われるイベントは、基調講演(星野高士「花鳥諷詠の新」)、シンポジウム「明日の俳句へ:実作者の立場から」(パネラー:星野高士、筑紫磐井、上田日差子、岸本尚毅、コーディネーター:山本素竹)、俳句大会(選者:星野高士、筑紫磐井、上田日差子、岸本尚毅、山本素竹、山下しげ人)と満載の行事であった。顔ぶれを見ればわかるように、ホトトギス系の色合いが強いことは強いが、決して結社的な囲い込みが行われているわけではない。「豈」の秦夕美さんや「連衆」の谷口慎也氏も会場で会えたから、超結社として運営されているのだ。

                            無料で行われているこの雑誌の経営基盤はよく分らないが、行き詰ったとみるとどこかでこうした機会が生まれるというのも、懐の深い俳句と言う文芸の特色だろうか。

                            会場で、福岡の伊藤通明主宰(角川俳句賞、俳人協会新人賞、俳人協会賞受賞)の「白桃」が1月で休刊となったという話を聞いた。興るものもあれば終わるものもあるのである。



                            北川美美

                            2月最終週となりました。 あとがきの更新が遅くなりお詫び申し上げます。

                            冊子「俳句新空間No.3」が月末から月初に掛けて発行となります。


                            【お知らせ】 「第2回 詩歌トライアスロン」作品の公募・公開選考会予告



                            現在、複数の詩型の表現を試みる書き手も少なくありませんが、多くは1つの詩型に限っての表現をしています。しかし、これからの詩歌の可能性を考えるには、複数の詩型を考えることが必用でしょう。「三詩型交流」を目的とする「詩歌梁山泊」では、三詩型の内の二つ以上の詩形の要素を含んだ作品を公募いたします。

                            応募作品 詩型融合型作品。(自由詩に俳句や短歌を織り込む、自由詩に準ずる前書(詞書)と短詩型を組み合わせる、短詩型を連ねて自由詩を構成するなど。)

                            締め切り 2015年2月末日必着 
                            送り先 東京都杉並区永福4-24-9 森川方 詩歌梁山泊 
                            お送り先アドレス masami-m@muf.biglobe.ne.jp 
                            選者 野村喜和夫、柴田千晶、石川美南


                            選考 下記参照。

                            以下、公開選考会の詳細です

                            「詩歌トライスロン」公開選考会
                            3月22日(日)16時~19時
                            「白山 喫茶映画館」
                            文京区白山5-33-19 ℡03-3811-8932
                            入場料1,000円(定員30名 要予約)
                            予約およびお問い合わせは masami-m@muf.biglobe.ne.jp 詩歌梁山泊まで

                            2014年1月19日

                            詩歌梁山泊代表 森川雅美
                            TEL・FAX 03-3328-3230

                            三橋敏雄『真神』を誤読する 107.花火嗅ぎ父を嗅ぎ勝つ今夜かな / 北川美美


                            107. 花火嗅ぎ父を嗅ぎ勝つ今夜かな

                            <花火>が登場するにもかかわらず、暗く重い。

                            暗く暑く大群衆と花火待つ 三鬼
                            花火の夜暗くやさしき肌つかひ 敏雄  (56)
                            しらじらと消ゆ大いなる花火の血    (57)

                            三鬼の花火の暗さにも通じるものがあるが、不気味な印象が残る。

                            <嗅ぎ勝つ>がなんとも生々しい。「花火」のきな臭さを「嗅ぐ」という行為で表現し、夜と相場が決まっている「花火」をあえて「今夜」とし、それによって決行を暗示する気配を増長させ事件性を思わせわせる。さらにその「今夜」を詠嘆の「かな」で詠いあげる…俳句という短詩で何ができるかという思案の決行を思わせる一句なのか。母を抱いた男、父の存在に対する決戦の花火…次々に打ち揚げられる花火を背景にドラマを想像する。

                            「父」という血族の家長の存在、あるいは、偉大なる存在の総称、その父を嗅ぐ。「父」、および隠喩ともとれる<父>という気配を嗅ぎ、そして、それに「勝つ」。青年から大人になる自己形成、いわば精神的割礼儀式が、「今夜」という確定された夜に決行される自己の感慨を思わせる。


                            父殺しの物語としてギリシャの有名な古代劇『オイディプス王』がある。男児が、母親を確保しようと強い感情を抱き、父親に対して強い対抗心を抱く心理状態を指すフロイトが提唱したエディプス・コンプレックス(女児に対してはユングがエクストラコンプレックスを提唱)の語源ともなる物語。あまりにもこの句に背景となるものが近い。

                            『オイディプス王』に則して句を読み進めてみると、その先には、アリストテレスの『詩学』、そしてギリシャ哲学の崇高な謎解き、暗示に辿り着く。読解のひとつの手がかりとしてそれに準えて読むことができる。

                            掲句が『オイディプス王』に準えた作りというのならば、敏雄は、悲劇という劇場を俳句に持ち込んだことになる。運命に抗することをせず、その運命に立ち向かうこと、それを「崇高」だと歴史が証明するのであれば、「俳句」という一行詩が、歴史に証明された読み継がれる詩になるということでもある。


                            敏雄は新興俳句弾圧により多くの先師が拘束された現場を目の当りにした。そして、戦場での多くの人の死により世の不条理を見て来た。戦争を挟み、前妻との別離、数々の運命の不条理に翻弄されてきたことだろう。『オイディプス王』イオカステのセリフ「恐れてみたとて人間の身に、何をどうすることができましょう。人間には、運命の支配がすべて。(岩波版『オイディプス王』)」この物語には、運命には逆らえないという一つの結論がある。それでも日々は刻々と過ぎてゆく。その日常を淡々と生きる敏雄自身の姿勢とだぶって見えて来る。<日にいちど入る日は沈み信天翁>に見るように、人生哲学的な句としてみることができる。 崇高さがみえる父の句が『真神』に収録されていることも確かだ。

                            上掲句は『真神』に登場する父の句の最後にあたる。

                            野を蹴って三尺高し父の琵琶歌     (48>読む 
                            水赤き捨井を父を継ぎ絶やす     (50>読む 
                            父はひとり麓の水に湯をうめる     (80>読む 
                            父はまた雪より早く出立ちぬ     (86>読む 
                            馬強き野山のむかし散る父ら     (87>読む 
                            さし湯して永久(とは)に父なる肉醤     (95>読む 
                            少年老い諸手ざはりに夜の父     (104>読む 
                            花火嗅ぎ父を嗅ぎ勝つ今夜かな


                            続けざまに花火の打ちあがる音と火薬の匂い、花火という球体に自己の感情の核があり、それが火薬とともに爆破し、その匂いが暗がりに広がる。父という存在は青年にとって越えられない高見の存在であることが現れている。ただしそれは昭和の終わりごろまでで、あったように思う。

                            『真神』1974年(昭和49年)刊行の六年後、父親像の崩壊として記憶に残る事件<金属バット殺人事件>は1980(昭和55)年に起きているので、この句は社会への暗示とも言えることができるのだ。

                            一連の父の句、それは重信の父の句とともに、昭和の終わりを<近代の終わり>とする暗示の句と思えてくる。それが敏雄の詩学であるかのように。冒頭の<昭和衰え馬の音する夕かな>に戻り、近代は、この句のように「今夜」で終わった、という暗示であるかのようにどこまでも不気味なスパイラルが起こる句である。

                            時壇  ~登頂回望その五十三 ~  / 網野月を

                            (朝日俳壇平成27年2月8日から)
                                                      
                            ◆冬晴をフランスパンが通り過ぎ (静岡市)松村史基

                            稲畑汀子と大串章の共選である。バケットが紙袋からはみ出て突き出している。冬晴れの空の下を「通り過ぎ」ているのだ。ある人物を表現するのに持ち物や着ているもので代替えして表す方法がある。「赤いマント」「夏帽子」「花束」などが好例だ。掲句の場合は、持ち物に代替えさせているのだが、「フランスパン」とは何とも斬新だ。それにしても複雑な技巧を駆使することなく表現しているところが季題「冬晴」に適っている。日常の一コマの景をテーマとして叙すのは俳句の王道の一つであって、掲句はそのものだ。

                            ◆マスク取りマスク美人と言はれたる (香川県琴平町)三宅久美子

                            稲畑汀子と大串章の共選である。マスクをしている最中に言われるのならまだしも、取り外した後に「言はれたる」は無いものだ。悪口を言い合う仲であるから、余程仲が良いのであろう。自虐の意味合いと受け取るよりも仲良し同士の軽妙な会話を想像したい。

                            ◆風船を持つてゐる手の忘れをり (津山市)池田純子

                            長谷川櫂と大串章の共選である。一読後には、この頃流行りのもの忘れの句かな?と思ったが、違うようだ。風船を持つ手の感覚がふっと持っていることを忘れるほどに軽いということだろう。風船の浮力が大き過ぎると、返ってしっかり抑え込んで手の感触に抵抗感が残るであろうから、程良くガスが入れられているということだ。そんな春の季感がよく表われている。

                            「評論・批評・時評とは何か?――堀下、筑紫そして・・・」 その4/筑紫磐井・堀下翔



                            16.堀下翔から筑紫磐井・中西夕紀へ(筑紫磐井・中西夕紀←堀下翔)
                            the Letter from Kakeru Horishita to Bansei Tsukushi , Yuki Nakanishi.

                            断定の評論と疑問の評論。その二つを挙げて磐井さんは断定の評論の方がより評論としてはよい、と思っていらっしゃるわけですね。その理由は論争が不毛になるかどうかだ、と。

                            評論はあっても論争が進まない」とのことで、もしかしたら僕がまさに論争なき時代の人間だからかもしれませんが、現在において、論争が繰り広げられることによってすぐれた評論が生まれるシーンというのはあまり鮮明にイメージできません。このブログや「週刊俳句」といったウェブ媒体、あるいはTwitter上で多少のやり取りがあるのを見たことはありますが、論争とはそんなものではなく、俳壇全体に熱気を送り込み、後々まで思い出されるようなもの、という語感がありますがいかがでしょう。草城、草田男、犀星といった作家が評論を書きまくった「ミヤコホテル論争」などがその代表格だと思いますが、まさに「論陣を張る」という大がかりな表現がぴったりとくる思想を、雑誌の上でぶつけ、ぶつけられた方は反論を書き、雑誌はそれを載せる、そういったものを論争という言葉からイメージします。磐井さんは、そのような応酬あってこその評論だとお考えなのでしょうか。



                            17.筑紫磐井から堀下翔・中西夕紀へ(堀下翔・中西夕紀←筑紫磐井)
                            the letter rom Bansei Tsukushi to Kakeru Horishita,Yuki Nakanishi

                            論争があるかないかが価値があるというより、論争のあるなしで価値が浮き彫りになるということだろうと思います。

                            BLOG俳句新空間で「―俳句空間―豈weeklyを再読する」を始めています。初回では、「豈weekly」の第0号(創刊準備号)に載った創刊のことば、「俳句など誰も読んではいない」(高山れおな)を掲げておきました。評論・批評中心とした「豈weekly」がどのように立ち上がったか、当時の若い人たち(堀下さんからすれば全然若いとは見えない筈ですが)が、どのように考えていたかは参考になると思いますが、実はこれと裏腹に、当時私は、「評論など誰も読んではいない」のではないかという思いが消えませんでした。正確にいえば、①評論など誰も読んではいない、②読んだとしてもしばらくすれば、溢れる日常の多忙さの中で忘れ去られそんな評論があったことさえ忘れてしまうのではないか、という不信です。

                            たった今出ている冊子版「俳句新空間」第3号ではこの点について少し触れた批評を書いています。この対談が更新されているころにはお手元に「俳句新空間」第3号が届いているのではないかと思いますので併せてご覧ください。BLOGと冊子の存在意義にかかわる問題にまで話を拡大していますので焦点がぼけているかもしれませんが。

                            それはそれとして論争があるということは、「評論を誰かが読んでいる」ことのネガティブな証拠であり、また論争を通じて「評論が記憶に残ってゆく」ことの可能性に期待するものです。

                            2007年から開始された「週刊俳句」(これはもっぱら作品評が多かったと思います)、2008年から開始された「豈weekly」(その後の、「俳句樹」「詩客」「BLOG俳句空間」「BLOG俳句新空間」を含めます)が長い時間を持ち始めたことは否めません。しかし「歴史」というのはやや憚ります。
                            多少とも歴史に値するのは、『新撰21』『超新撰21』『俳コレ』ぐらいでしょうか。これもBLOGの本来の批評力からいえば、バイプロダクトです。手前味噌になりますが中西さんらと編んだ『相馬遷子 佐久の星』は一応評論・鑑賞のていをなしていると思いますが、これも本となって初めて批評されるものとなりました。

                            いつの間にか、雑誌の批評とBLOGの批評に話題が転じてしまいましたが、しかしこれに評論集となった評論を加えると、雑誌もBLOGも批評としての危うさが判ってくると思います。あるいは、BLOGや雑誌に掲載された批評を、単行本の評論集とすることの難しさも分かります。雑誌に掲載した時評を評論集にまとめた経験は一度ありますが、その際にはすべてを再構成する意志力が必要であるように思います。BLOGや雑誌の時評は評論集の評論たり得ないかもしれない、と時折反省してみることが必要であるように思います。もちろん、時評に現れた批評家の個性以外のものが、評論集の評論に突如現れることもないのは確かですが。

                            話を戻せば、BLOGの批評から論争が生まれていないのは確かだと思います。もはやそんなものは必要ないのだという答えもありますが、論争さえない所に、如何なる記憶・歴史があったのか、と考え直してみたいと思います。論争に価値があるとは思いません(社会性俳句論争、前衛俳句論争)。しかし、論争さえない社会が住みよいとも思えません。論争に変わる何かが欲しいところです。

                               *    *

                            長くなったのでここらでいったん打ち切りますが、断定の評論疑問の評論のどちらがいい悪いではなくて、読者がどのように向かい合うかで、断定と疑問になってしまう、ということです。これは入口の議論です。入口さえ通過すれば、断定も疑問も両方の評論家の文体の差に落ち着くでしょう。それはそれで自由にやった方がいいと思います。ただ入り口で、疑問しか出ていない反論はたぶん次に続くことは少ないと思います。今回の堀下さんのように直截的に「磐井さんは、そのような応酬あってこその評論だとお考えなのでしょうか」(これは明らかに疑問形ですが、その背後にムラムラとした堀下さんの反骨・反発が見えてくるようです)と聞かれた方が、話の継ぎようもあるというものです。

                            【俳句時評】  衒いなき「異端」―伊丹公子について― / 外山一機



                            昨年末、伊丹公子が亡くなった。亡くなる二年ほど前に刊行された大部の『伊丹公子全句集』(沖積舎、二〇一二)を繙きつつ、あらためて伊丹の足跡を遠望しながら、今更ながら僕は、『青玄』の作家たちの試みたことはいったい何だったのかと思うのである。

                            高柳重信は自らが編集長を務めた『俳句研究』において「伊丹三樹彦研究」と題する特集を行った際、その編集後記に次のように記している。

                            現在の伊丹は、その分かち書きの表記に執着をつづけるため、俳壇から異端視されると確信しているように見えるが、若き日の彼は、また別な印象を持っていた。(略)
                            *思えば、敗戦直後の俳壇において、編集子が最初に書いた文章は、この伊丹三樹彦への公開書簡であった。その文章の詳しい内容は忘れてしまったが、敗戦によって急変した社会状況を見すえながら、もはや、この不自由きわまる禁欲的な俳句形式に新しく関わりを持とうとするものは皆無となるにちがいないという思いに、それは立脚していた。すでに俳句に汚染した者たちは、なお惰性的に関わりを持ちつづけるであろうが、それらの俳人たちが次々に老いて死んでいったとき、いま最年少のゆえをもって、伊丹と編集子が最後の俳人として二人だけが取り残される日が予想されると、そういうことを書いたと思う。もちろん、これには意識された誇張が見られるが、ともに年少のときに俳句形式と遭遇したものとしての親近感も如実に現れている。
                             
                            (「編集後記」『俳句研究』一九八一・二)


                             高柳自身も「これには意識された誇張が見られるが」という通り、この言葉をそのまま受け取るわけにはいくまいが、しかしながら、かつてただその若いということのみをもって俳句史の掉尾を飾る存在となるはずであった二人の、一人は多行形式へ、もう一人は分かち書きへと向かった道行を思うとき、いまや論ずることさえほとんどなくなったこの二つの方法論が、実は方法「論」などというにはあまりにナイーブな出自を持つものであったことに気づかされるのである。

                             三樹彦が草城の後継者として『青玄』を率いていくことを『青玄』誌上において明言したのは一九五六年一一月のことであったが、その後三樹彦の主唱する三リ主義(リゴリズム、リアリズム、リリシズム)へと舵を切った『青玄』は次のようなアンケートを行っている(『青玄』一九六〇・二)。

                            ①青玄の三課題について 
                            (イ)青玄は定型を守る(ロ)青玄は季語を超える(ハ)青玄は現代語を導入する 
                            ②その他青玄全般について

                             これに対して高柳はこう答えている。

                            ①三課題とも僕には何の異存もありません。それは「青玄」だけの課題ではなく、今日の大部分の俳人の課題だろうと思います。問題は、だから「如何にして」それをするかという一事にかかるのみです、そしてこの「如何にして」という事にかかわつてくると、僕には現在の「青玄」にかなりの異存があります。現に「青玄」の諸作品と僕の作品との間には、ずいぶん大きな隔たりがありますが、僕を強く支持してやみません。

                             この頃、三樹彦も高柳もすでに青年とは言いがたい年齢を迎えていた。「青玄の三課題」が「今日の大部分の俳人の課題」となりえた一九六〇年代はいまとなっては懐かしいものだが、それにしても高柳が「僕を強く支持してやみません」と書くとき、その言葉はいかなる年月を畳み込んで発せられたものであったろう。伊丹公子の第一句集『メキシコ貝』(琅玕洞、一九六五)の上梓があったのはその数年後のことである。それは草城没後の『青玄』の試行が―多数の同調と訣別とを経験しながら―生んだ一つの具体的な成果であった。


                            思想までレースで編んで 夏至の女 
                            山へ 山へ 葬列黒い紙片のよう 
                            風はフルート 砂丘で髪が絶望して 
                            たゆとう冬 甘らっきょうが母子に浮く 
                            父祖は土葬に 風の速さが夏のしるし 
                            冬の豹へ息凝る少年の かるい孤独 
                            星がおもたい 岬の葉ずれで眠る夜は 
                            マンボウ棲む沖見え 少年に暗い畳 
                            反対 反対 デモ過ぎ 森に真珠いろの陽が 
                            桜の波へ カタコト溺れる 乳母車

                             句集上梓に先立つこと五年前、公子は青玄賞を受賞し『青玄』の代表作家の一人となっていた。『メキシコ貝』に収録されているのはすべて分かち書きによる俳句である。つまり公子はそれ以前の分かち書きを用いずに書かれた俳句をすべて棄てたのである。しかしながら、いま分かち書きの使用に積極的に賛同する者があまりいないように見えるのは―もっとも、先の高柳の言葉にあるように、三十年以前にすでに「異端視」されていたようであるが―どういうわけだろう。今日分かち書きが全く試みられていないわけではない。実際、単発的に分かち書きによる俳句を書く者はいまでも決して皆無ではないのである。ただ、分かち書きの俳句を書くということと、分かち書きに執着するということは決定的に違う。分かち書きへの執着が「異端視」されるのはそれゆえであろう。

                            だがその出立において分かち書きでない俳句を切り捨て、むしろ分かち書きで書き続けることで伊丹公子が「伊丹公子」であったとすれば、「伊丹公子」の足跡を逆に辿るしかない僕たちが彼岸へと問うべきは―あるいは彼岸から問われていることとは―分かち書き俳句を書くとはどういうことか、ということではなく、むしろ分かち書き俳句に執着するとはどういうことか、ということであろう。
                            分かち書きの導入についての議論の魁は『青玄』(一九五九・九)に掲載された三樹彦の「青玄後記」である。ここで三樹彦は次のように述べている。


                            現代の俳句は、現代の読者を対象としなくては発表の意義も価値もない。ならば、その表現媒体としての現代語を自覚し、かつ導入することこそ緊急の課題である。そう信じて現代語俳句の実践に踏切りかな使いもまた新かなを採用するに至つた(原文「かな」に傍点)。(略)ただ〈や・かな〉といつた代表的切字との訣別もあり、名詞を切字に用いる場合が多くなつた。ために先号の〈磨滅した空抽斗に夕焼溜め 章夫〉(原文「空抽斗」に傍点)のような句では傍点箇所を〈空〉と読むか〈空抽斗〉と読むか、で苦しみもする。作者は〈空〉の意であつた。それなら〈空〉と〈抽斗〉の間を一字分空ければいいではないか。元来、俳句の組方には、鉄則などない筈だから、読者への伝達を正確にするため一行書式に、縦の分かち書きを施せばいい―という次第だ。

                             つまり『青玄』の分かち書きは、そもそも、新かなの導入に併せて切字と訣別したことにより一句がどこで切れるかが読み手に伝わりにくくなってしまっため、「読者への伝達を正確にするため」に提案されたものであった。先の「青玄の三課題」についてのアンケートでも「青玄は現代語を導入する」ということが「三課題」の一つとして挙げられていたが、分かち書きの試行はこの現代語の導入と密接に関係するものだったのである。

                            『青玄』におけるこの分かち書きの試行についてのまとまった論考として最も早いものは「俳句の新表記 ワカチガキ運動横断」(大中青塔子・登村光美・伊藤章作、『青玄』一九六一・一〇)である。それによれば「青玄誌上でワカチガキ表現が試みられ始めてから半年後、それに同調した作家は先にも書いたように、太虚集(同人の投句欄―外山注)四〇%、微風集(一般会員の投句欄―外山注)一五%であつたが、さらに一年以上経過した一三五号では、太虚集で八〇%、微風集の上位作家一〇〇名に限れば六〇%と激増している」という状況にあった。大中らの論考は『青玄』におけるこうした分かち書きの隆盛を受けて書かれたものであったが、彼らは執筆にあたり「現在誌上で活躍されている同人六〇氏」に対し「①ワカチガキを採用されるに至つた動機」「②実作の過程で感じられたワカチガキの効用」「③ワカチガキを実践されない場合はその理由」の三項目からなるアンケートを行っている。回答があったのは四〇名ほどであったというが、この問いに対し伊丹公子は次のように答えている。

                            伊丹公子―内容を正確に伝える表記法は作品愛に通ずる。ワカチガキは現代人の複雑な心理を現代生き言葉によって表白する方法として有効であること。従つてワカチガキ表記法は最も自然で、正確で、合理的な美しさをもつものである。

                             公子は『青玄』同人のなかでも最も早い時期に分かち書きを使用しはじめた作家の一人であったが(内山草子「俳句のワカチガキの実践的効用について」『青玄』一九六三・九)、その公子の初期の分かち書き観を示す言葉として貴重なものであろう。ここで公子は「ワカチガキは現代人の複雑な心理を現代生き言葉によって表白する方法として有効である」としており、分かち書きが「現代生き言葉」の導入と結びつけて思考されていたことがうかがえる。公子はまた同時期に書かれた次の文章でも次のようにいう。

                             最近私が現代語で俳句をつくる様になりましたのは、「自分は文語を使いたいのだが後続世代にうけつがれるために……」というのではなくて、「つくらずにはいられない俳句だからこそ自分の言葉である現代語で……」という以外にありません。 
                            (「自分自身の俳句を」『青玄』一九六一・一)

                             こんなふうにまっすぐに「自分の言葉である現代語」と言い切れた時代があったのである。先の堀下翔の時評にあった言いかたを真似るなら、さしずめ「かつて現代語は正直であった」ということになろうか。だが注意すべきは、現代語で書くという選択が結局のところ合理的なものではありえなかったということだ。二十年以上が経ってからの公子の発言はそのことを示唆するものであろう。

                             俳句は現代語でつくっています。所属誌「青玄」の伊丹三樹彦の主唱によってですが、それと、現代語が好きだからです。 
                            (「俳句の家」『アサヒグラフ』一九八六・七)

                             公子はここで、現代語で書く理由として「現代語が好きだから」と言い添えている。だから、「かつて現代語は正直であった」というのは正確な言いかたではない。現代語で書くという行為がこうした非合理的な性質をはらむものであるならば、「現代語は正直であった」などというのは、ささやかで切実な祈りの謂でこそあれ、それ以上のものではありえない。だからこのように言いかえるべきだろう―すなわち、「伊丹公子」にとって「現代語は正直でなければならなかった」。
                             
                            三味線草 彼方で象は鼻上げる 
                            鳶が来た 鳶には未知の街だろう 
                            歳晩の絶景 白鳥 鷺 鴨 鳶

                             晩年の句集『博物の朝』(角川書店、二〇一〇)から引いた。公子は『メキシコ貝』以後生涯にわたってほとんど一貫して現代語使用と分かち書きとを続けていた。だがそこに何の衒いもなかったようにみえるのはなぜだろう。

                            かつて第三句集『沿海』(沖積舎、一九七七)の解説を執筆した坪内稔典は、公子の作品がすでに第二句集『陶器天使』(牧羊社、一九七五)において「比喩の張り」を失い「口語がその本質として持つ伝達性が大幅に顔を出している」と指摘していたが、同じ文章で次のようにも述べていた。


                            伊丹における比喩の後退、私たちはそこに、戦後の俳句が直面している困難を指摘できる。(略)
                            考えてみれば、桑原武夫らの俳句否定論に見舞われて出発した戦後の俳句は、根源俳句といい、社会性俳句、前衛俳句といい、折々の対象はちがっても、一貫して俳句の存在理由を証す試みだった。個々の俳人が持つ俳句への執着を、戦後日本の現実においてあきらかにしようとしたのである。その試みの高潮期は『メキシコ貝』の作品が書かれた時期であった。(略)しかし、一九六〇年代のそうした試みは、七〇年代に入って新鮮な問題の提起力を失っている。急速な言葉の無力化に対応できず、俳諧への先祖返りが顕著になっているのだ。

                            正直に言えば、いまの僕にはここに刻まれた坪内の問題意識がいかにも七〇年代らしいものに見える。「急速な言葉の無力化に対応できず、俳諧への先祖返りが顕著になっている」などという危機感を口にすることなど、むしろ気恥ずかしさのほうが先に立ってしまってとてもできることではない。そしておそらく、僕が公子の姿勢に衒いのなさを感じ、またその衒いのなさに違和感を抱いてしまうのは、このあたりの行き違いに起因しているように思われる。公子を含め、『青玄』の現代語使用や分かち書きにどこか時代錯誤の感があるのは、そうした方法の存在を理由づけていたはずの状況認識が、すでに僕たちに共有しにくいものになっているからだろう。彼らの後半戦とは、いわば僕たちにはすでに見えなくなってしまった敵と対峙しているような、奇妙な光景ではなかったろうか。そしてまた、公子の生涯の過半はこの後半戦に費やされたというべきではなかろうか。だが、一四冊もの句集に収められた膨大な句には、そうした徒手空拳の痛みの痕跡を見出すことがほとんどできない。公子の現代語使用や分かち書きへの執着は状況への抵抗でもルサンチマンでもなく、もっとあっけらかんとしたものであったように見える。

                            いってみれば「伊丹公子」とは、「急速な言葉の無力化に対応できず、俳諧への先祖返りが顕著になっている」という状況認識を有しつつ、しかし一方ではそうした状況に対する抵抗というよりもむしろ「『つくらずにはいられない俳句だからこそ自分の言葉である現代語で……』という以外にありません」という極私的な申し訳を自他に認めながら軽やかに書き続けた者の謂ではなかったか。『メキシコ貝』には「反対 反対 デモ過ぎ 森に真珠いろの陽が」という句を見ることができるが、「デモ」にとびこむのではなく、その過ぎ去った後の森に射す「陽」の美しさをまなざしえたのは、公子にとって状況を認識するということが、その状況を極私的な場所にまで落とし込むことであったからだろう。思えば、『メキシコ貝』の巻頭に据えられた「思想までレースで編んで 夏至の女」はそれを象徴するものであった。そしてこのような衒いのなさこそ、公子に分かち書きという「異端」の方法を生涯にわたって肯定せしめたものではなかったか。「伊丹公子」にはそもそも転向も屈服もありえなかった。これは、たとえば同世代の八木三日女などとは決定的に異なる道行であった。公子の周囲ではかつて少なからぬ数の作家たちが「個々の俳人が持つ俳句への執着を、戦後日本の現実においてあきらかにしようと」躍起になっていた。しかし彼らの多くはやがて転向や屈服を経験することになったのである。

                            2015年2月6日金曜日

                            第10号

                            ※「BLOG俳句空間」は基本隔週更新です
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                                          2008年8月15日発行(第0号(創刊準備号))■創刊のことば            
                                          俳句など誰も読んではいない     ・・・高山れおな   読む

                                          アジリティとエラボレーション     ・・・中村安伸  読む

                                          2009年3月22日発行(第31号)
                                          遷子を読む(はじめに)・・・中西夕紀、原雅子、深谷義紀、窪田英治、筑紫磐井   》読む






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                                                  <辞の詩学と詞の詩学>
                                                  川名大が子供騙しの詐術と激怒した真実・真正の戦後俳句史!





                                                  筑紫磐井連載「俳壇観測」執筆





                                                  【俳句時評】 逆の夢を見ること――葛城蓮士の場合  堀下翔



                                                  『週刊俳句』第398号が「2014年石田波郷賞落選展」を載せている。今年度の石田波郷新人賞に応募された20句を12人の若手作家(編集部注1:応募条件30歳以下)が寄せているのであるが、読み進めるうちに「罅」(葛城蓮士)中の一句に行き当って筆者は唖然とした。

                                                  吊橋の苔を洗ふる驟雨かな 葛城蓮士

                                                  驚くべきことにハ行四段活用動詞であるはずの「洗ふ」にありうべからざる「る」が付いている。こんな活用は存在しない。同じ「罅」20句中には他に〈雨女しづかに死せり竹の秋〉あるいは〈踝の土を払へり花曇〉といった句が含まれているため、おそらくは、四段活用動詞「洗ふ」に助動詞「り」の接続した「洗へり」の連体形「洗へる」を誤って「洗ふる」としたのではなく――もちろんこれは文法規範にしたがったときの「洗ふ」と「る」の最短距離を言っているのであって、現実的にそんな間違え方はタイプミスでない限りないだろうが――、たとうれば下二段活用動詞「受く」の連体形が「受くる」となり、上二段活用動詞「落つ」の連体形が「落つる」となるのと同じように、「洗ふ」という動詞も体言に接続する際には「る」が出現すると判断されたものであろう。

                                                  この「洗ふる」というミスが稚拙であることは言うまでもない。いったい葛城は、ふだんの生活で用いる「洗う」が、たとえ体言に接続するときであれ、「洗うる」、あるいは現代語らしい「洗える」――可能動詞とはむろん別物の――や「洗いる」とはならないという事実に気が付かなかったのだろうか。文法知識の欠如は葛城ひいては若手作家のみの問題ではないし、四角四面に「四段活用の動詞は連体形が終止形と同じ形ですよ」といったことを言ってみたところで意味もない。筆者は純粋に、日常茶飯の言葉であるはずの「洗う」が、葛城が持ち合わせている文語脈とまったく断絶していることに驚いたのだった。

                                                  葛城が「洗ふる」と書かないではいられなかった気持ちを、正直に言えば筆者は分からないでもない。『万葉集』を読んでも『更級日記』を読んでも『平家物語』を読んでも『好色一代男』を読んでも決して行き合うことがない「洗ふる」という語は、しかし文語脈の中に存在しているような気がする。なんと一方的な期待であることか。

                                                  「洗ふる」は「受くる」「落つる」といったものからの類推であるとつい今しがた書いた。それはあくまでなぜ「る」が出現するのかということの説明でしかない。もうひとつ考えるべき事柄はある。――なぜ「洗ふる」であるのか――? 

                                                  ここにあるのは規範化されていない初歩的なイメージである。すなわち、「る」が出ると文語動詞の連体形のようである、だ。文語に期待を寄せ過ぎた葛城は「洗ふ」では白けてしまう。文語を書き、文語で物を見ようとするあるときにおいて、「洗ふ」という言葉ではどこか正確に表現しきれていない、そう感じる。そんなところから「洗ふる」は産み落とされた。何かを認識するという行為に言葉はいつも付いて回るはずだ。少なくとも葛城にとっては、その〈驟雨〉が〈吊橋の苔〉を〈洗〉っている光景は、〈吊橋の苔を洗ふる驟雨かな〉という形でしか書かれえないものであった。「洗ふ」と書けば言いうるものは決して「洗ふる」とは書かれない。葛城が文語に期待する限りにおいてその認識は成立しうるのである。

                                                  いまや文語を書くことは文語を演ずることと同義であろう。かつて、文語を書くことが呼吸をすることと変わらない身体性を持っていたころ、あることをある文語で書く行為には、なんら〈書くこと〉としての違和がなかったはずだ。あることをある言葉で認識するというシステムに支えられながら、しかし言葉を使っている側にしてみれば、言葉は、見えているものを、自分の気持ちを、そのままに表現することができる非常に便利なものであった。かつて文語は正直であった。

                                                  葛城はその正直であったころの文語を使えない。文語を使うことはたしかに文語として見えているものを捉えることではあったが、それは決して正直な言葉としての文語ではなかった。見えているものをそのまま書くことができる言葉であった筈の文語に、彼は、新鮮な認識が造形されることを感じている。逆の夢を見ている。〈吊橋の苔を洗ふる驟雨かな〉はたしかに稚拙な句ではあるのだけれど、しかし、その逆の夢の証左である。たとい誤用であろうともそれは、言葉を使うことに真剣な人間の態度だと筆者は思うのである。


                                                  第10号 あとがき


                                                  筑紫磐井

                                                  詩歌梁山泊~三詩型交流企画以来のつきあいのある詩人の森川氏と「詩客」及び「BLOG俳句空間」の新企画を相談してみた。俳句自由詩協同企画「俳人には書けない詩人の1行詩」「俳人の定型意識を超越する句」であり、その由来は「俳句自由詩協同企画縁由」に書いてみたので読んでいただきたい。これは私だけの理解であり、森川氏は少し違う考え方を持っているかも知れない。



                                                  北川美美

                                                  ・今号盛りだくさんのコンテンツ。睦月のはじまりをどうぞ「俳句新空間」にておくつろぎください。

                                                  ・句集『薔薇模様』の作者、水岩瞳さんは、「平成二十六年 歳旦帖」以来、俳句帖に参加されています。

                                                   水岩 瞳
                                                  案ずるや国の行く末去年今年
                                                  はつはるの網代方盆朱色かな
                                                  春着きて笑ふ歯脱けの少女われ



                                                  ・また、今回、網野月をさんの「時壇・ ~登頂回望~」 の 朝日俳壇平成27年1月26日号に 竹内宗一郎さんが登場していらっしゃいますが、竹内さんは今井聖主宰・同人誌「街」の編集長でいらっしゃり、筆者・網野月をさんの学部違いの大学同期だったという偶然…。「街」の研究句会にてその偶然にお互いが気が付いたというエピソードがあります。世間は狭いですね。

                                                  ・「評論とは何か?」その3に突入しました。堀下さんが、中西夕紀女史・筑紫磐井氏を相手に奮闘中です。書簡の詳細はいかに…。

                                                  ・<およそ日刊・俳句新空間>では、竹岡一郎さんはじめ、若手の仮屋賢一さん、黒岩徳将さんが奮闘中です! 佐藤りえさんは、独特の視点でおしゃれに選句、そして鑑賞してくださっています。こちらもどうぞ「およそ」毎日(月~土の予定)ですので、日めくりとしてクリックしてくださいませ。




                                                  宣伝ざます‼







                                                  筑紫磐井著!-戦後俳句の探求
                                                  <辞の詩学と詞の詩学>
                                                  川名大が子供騙しの詐術と激怒した真実・真正の戦後俳句史!




                                                  「俳人には書けない詩人の1行詩俳人の定型意識を超越する句」  俳句・自由詩協同企画縁由  / 筑紫磐井



                                                  詩歌梁山泊~三詩型交流企画では、現代詩、短歌、俳句の交流を目指して2011年4月に開始されたBLOG「詩客」を開始した。奇しくもその準備期間が東日本大震災の発生にあたり、行方の取れなくなった詩人・歌人・俳人の安否を問う行動と共にBLOGが更新されたのは深い意義があったのではないかと思う。

                                                  それぞれ固有の作品発表だけでなく、シンポジウム、詩歌トライアスロン(三詩型融合作品)など野心的な試みを進めてきたが、ある段階から、詩、短歌、俳句の深耕の中からもう一度三詩型を考え直してみようということで、2013年から現代詩にあっては「詩客」、短歌にあっては「短歌周遊逍遥」、俳句にあっては「BLOG俳句空間(のちに俳句新空間)」がスタートした。それぞれが独立した詩型に閉じこもるのではなく、全体に意を用いつつ3詩型の内部から三詩型交流を目指そうとしたものであった。特に、「詩客」と「BLOG俳句空間」は現在も順調に更新を続けている。

                                                  こうした準備を経て、2015年から新しい企画が立ち上がった。その縁由を語ってみたい。

                                                         *     *

                                                  かつて<詩人が俳句を批評し、俳人が詩を論じている>時代があった。併しこのような時代にあってすら、語り合っている詩人と俳人が、本当に理解しあっているのかどうかよくわからないところがある。あの時代、詩人と俳人は理解しあっていたのか、<詩人が俳句を批評し、俳人が詩を論じている>時代にあってすら誤解に満ちていたのではないか、と考え、反省してみることは重要だ。なぜなら、詩人と俳人は相互理解を進めるための共通批評用語を持っていたのか、という問題にぶつかるからである。これはまさに現代、現在、現実の問題だからである。

                                                  「詩客」と「BLOG俳句空間」は、共通批評用語をしばらく措いて、実作で意思疎通を図ることができるかどうかを見てみようと合意することになった。問題は実作の形式である。詩人が俳句を作り、俳人が詩をつくることは、何か欠落しているものがあるような気がする。

                                                  こうして「詩客」と「BLOG俳句空間」は「俳人には書けない詩人の1行詩」と「俳人の定型意識を超越する句」を提案する。つまり、詩人の詩、俳人の句でありながら限りなく相手を思いやった作品を作り、考えてみたいということである。これを通じて詩人と俳人の意識の違いをじっくり考えてみたいと思う。華々しい活動ではないが、しかし詩人と俳人が理解し合う、地に足の着いた大事な活動だと思う。

                                                  この企画に、積極的に参加していただいた詩人、俳人の方々に深く感謝申し上げる。




                                                  【句集を読む】  水岩瞳第一句集『薔薇模様』を読む / 火箱ひろ

                                                     

                                                  のっけから句集最後の句を引く。

                                                  混沌はわたしの証し春の泥

                                                  水岩さんは自らこの句集を混沌と結ぶ。伝えたいことが溢れるゆえの字余り、破調をものともしない。わけても戦争について調べ、社会の教師として教壇に立つことで、伝えねばならないと思う信条と、学んできた俳句的心情がぶつかる。その混在がカオス状態を引き起こしている。それは自身で格闘した第一句集ならではの面白さでもある。

                                                  またポトフと言われてもまたポトフ 
                                                  恋猫やとにかく好きにわけもなし 
                                                  はげましてはげまされゐるおでんかな 
                                                  自分より先にメロンの届きたる 
                                                  とんとんと二階の夫に御慶かな 
                                                  裸子と裸の夫の間にゐる

                                                  このような家庭の風景に佳句がたくさんある。

                                                  なんでもない日常のアッと驚く新鮮な切り口、且つユーモアのある俳句たちだ。「ポトフ」は洋風の煮込み料理。働く主婦には有難い。簡単でかつ栄養満点、困った時のポトフなのだ。上5下5のリフレイン、ポトフという空気の抜けるような名前に、家族の嘆息が聞こえそうでなんだか可笑しい。
                                                  片や和風の「おでん」は家族でつついたり、呑み屋で同僚と飲みながらというパターンが多い。今日の失敗を励ましたり励まされたりは「おでん」に限る。また、がんもどきやこんにゃくが、高級な肉や魚になれないのを、励まし合ってるようにも思えて愉快。


                                                  カーテン替へて初夏をわたくし薔薇模様

                                                  句集の題になった句。新しいカーテンに変えただけで、いつもの部屋が違う部屋になり、自分も少しのあいだ非日常的気分になる。

                                                  わたくしという、少し気取った表現が下5によく響く。

                                                  水岩さんも『薔薇模様』を出版して新しい模様のあなたが生まれた。


                                                  今年また旬の桜と旬の吾
                                                   
                                                  円かなる月の単純愛すかな

                                                  絢爛で気持ちよくなる二句。盛りの桜と自分を並べる、この健やかさ。とんがって素敵なモノも人間もたくさんいるが、やすらぎという点では円かなるものに勝るもの無しだ。「愛すかな」も、私は一句集に一句くらいあってもいいと思う。水岩さんを知るための句として、まろ〳〵と佳き句。まだお会いしたことはないが、成熟したステキな女性を思う。

                                                  これら日常詠の佳句からは、私淑する池田澄子さんから受けとるものを、しっかりキャッチしているように思える。


                                                  餡パン食べながら少年泣く冬野

                                                  三鬼の算術少年はしのび泣いた。水岩さんの餡パン少年は餡パン食べながら泣いた。大口をあけて泣く口の中で、餡パンがぐちゃぐちゃになっている。飲み込んだときの一瞬の泣き止み、また泣く、少年の原始的な生命力を感じます。冬野という大いなるものに抱かれた生命力は、三鬼の少年には無い強さを思わせて大好きな句だ。破調も生きていて、普段は天真爛漫な少年が見えてくる。

                                                  俳聖にされし翁を思ふ秋 
                                                  秋暑し聖に俗ありいびきの図

                                                  水岩さんの戦争への想いから、亡くなって「英霊」にされた青年が、頭を掠める。英霊なんかになりたくなかったー。

                                                  芭蕉も俳聖なんて言われたくなかったのじゃないか。俳聖と言われることで派生する、出来上がったステレオタイプな人物像は、はなはだ迷惑かもしれない。そして俳聖のなかの俗を喜ぶ作者の確かな目。その目で戦争や信条に、真面目に向き合おうとして混沌がはじまる。


                                                  戦争はいつも気を付け!いつも夏 
                                                  ざわめけるポプラの下のヒロシマ忌 
                                                  十二月八日愚かなる日と記憶せよ 
                                                  七夕や盧溝橋事件むかしあり 
                                                  卓袱台に大学ノート敗戦日 
                                                  憲法記念日風につぶての混じりける 
                                                  ゴーヤチャンプル旨し選択の自由は尊し

                                                  前二句の「いつも気を付け!」「ヒロシマ忌」などは詩として昇華しているが、あとは教師として生徒に伝えなければという情熱が先走った感ありだ。たった575で、自身に記憶の無い戦争を伝えることの難しさを思う。しかしそれは伝えていかなければならない。そのジレンマという点ではよく伝わってくる。それはもう水岩さんの一生の課題でもあるだろう。


                                                  あれもしてこれもするなり嗚呼夏休み 
                                                  どろどろのマグマの上のかたき冬

                                                  夏休みは家族と過ごす他に自身の課題研究も俳句もあり、溜息がでるほど、したいことが溜まっているだろう。そんなことを積み重ねながら、また第二句集へと熱いマグマを溜めていって欲しい。


                                                                   

                                                  【執筆者紹介】

                                                  • 火箱ひろ(「船団」・同人誌「瓔」代表)   

                                                  評論新春特大号! 「評論・批評・時評とは何か?――堀下、筑紫そして・・・」その3

                                                  13.堀下翔から筑紫磐井・中西夕紀へ(筑紫磐井・中西夕紀←堀下翔)
                                                  the Letter from Kakeru Horishita to Bansei Tsukushi , Yuki Nakanishi.


                                                  なるほど。大事なところを見落としていたようです。評論を書くために調べたのではなく、相馬遷子がどのような人物であったかを知りたくて調べた。遷子その人への興味が、評論を書く行為以前にあったからこそ、調べるということにこだわった話になるのですね。また少し話が戻ってしまいますが、『俳句界』(2014.11)の俳句評論作家アンケートの、「評論を書くきっかけは?」という質問への答え方に各作家間でスタートラインのずれがあったことを思い出します。たとえば田島和生が「新興俳句運動の旗頭とされた俳誌「京大俳句」(昭和八年-十五年)が太平洋戦争開戦前夜、治安維持法容疑で弾圧されたのを知り、もっと知りたく思った」と答えているのは、遷子研究の動機とよく似ています。そのことを知るために調べる、という発想です。いっぽうで今泉康弘の「小森陽一の講義を聞いたこと。批評とは、作品を既存の見方とは違ったものとして示してみせることだ、という教えに刺激された。及び、落語研究者であった亡き中込重明に身近に接して、「調べること」の楽しさを教えられたこと」という答えは、評論を書くこと自体にモチベーションがあることを示しています。

                                                  この二つのモチベーションが並立することは矛盾していません。磐井さんの「正義感」というモチベーションはこれらの重なったところにあるものだと思います。

                                                  話に戻ります。「評論の本領」という言葉が出てきました。一人の作家を統合する世界観を浮き彫りにすることが評論の本領であり、それは遷子であれば「がどのようにして生まれたか、どの様に成長したか、どのように絶望したか」を調べることによって見えてくる……磐井さんのお話はそのように理解したのですがいかがでしょう。そのうえで意外だったのは、作家その人の世界観を浮き彫りにすることと、一句にまつわる周辺事情を調べることを、磐井さんが全く区別していることです。一句の理解は、一句だけの事実によってなされるのではなく、一人の作家から生み出されたという文脈を踏まえてこそ、成立しているのですね。

                                                  実を言えば「調べることの重要さと不要さがある」という言葉にずいぶん悩みました。上の二点の区別にピンとくるまでに時間がかかったからです。


                                                  14.中西夕紀から堀下翔・筑紫磐井へ(堀下、筑紫←中西)
                                                  the letter from Yuki Nakanishi to Kakeru Horishita, Bansei Tsukushi



                                                  堀下さん佐久に行かれたのですね。遷子のことが話し易くなりました。お正月に行かれたとなると、正にこの句の世界に近い空をご覧になったことと思います。

                                                  寒星の眞只中にいま息す    相馬遷子

                                                  作家を離れて作品はないのですが、事実関係という側面からではない、作品それ自体からのアプローチの仕方があるのではないかと思ったのです。それはこの句が語っている、静謐感や、与えられている環境の中で充分に役割を果たしている充足感を感じ取ったこと、そこから同じような作句傾向の句を探って行くことをしてみたらどうだろうと思ったのです。評論中の作品の鑑賞は一切の情を絡めてはいけないのでしょうか。磐井さんの文章を読んでいますと、論者の感じた作品から受け取れる情感を極力抑えて書かれているように思われます。しかし、この句などは情に訴えて書くと何か広がるのではないかと思いました。

                                                  詩論がそれ自体詩であるという堀下さんの発見は面白いですね。わたしが書きたいと思った感情論的評論は、多分エッセイなのでしょうね。多くの俳句の評論も俳句的なのかも知れません。読者もいい意味での俳句の臭みを評論に感じながら読んでいるのではないでしょうか。俳人同士でないとわからないような論点や言葉が臭みとなってあるように感じられます。

                                                  磐井さんの文章では評論の本領を書かれているところをもう少し詳しくお聞きしたいと思いました。一人の作者の作品の全体を統合した世界観が見えてくるときがある。おそらくそれが評論の本領ではないかと書かれています。評論の本領についてもう少し例をあげてお願いできませんでしょうか。


                                                  15.筑紫磐井から堀下翔・中西夕紀へ(堀下翔・中西夕紀←筑紫磐井)
                                                  the letter rom Bansei Tsukushi to Kakeru Horishita,Yuki Nakanishi



                                                  評論の本領等というたいそうな言葉を使ってしまいましたが、そんな大それた事をいうつもりではなかったのです。一句を調べることに関心があるかと言われれば正直言ってそうしたことに関心がありません。ただ一句の世界観につながるディテールは、調べてみないといけないことです。その上で、世界観につながらないディテールは捨て去ります。その意味では私は評論に関心がないのですから評論家ではないかも知れません。しかしそうした評論家でない事が口惜しいかといえばちっとも口惜しくありません。

                                                  *    *

                                                  話が少し硬直しているようなので、恐縮ですが一寸ここで全く話を変えてみます。もちろん評論の本領と全く無関係の話ではありません。


                                                  評論には二種類あるように思います。
                                                  断定の評論疑問の評論です。

                                                  疑問の評論は疑問形で結ぶ命題からなり、断定の評論はそれ以外といえます。だから後者は、肯定形、否定形があるし、時には疑問形を使っていますが実は断定の内容を持つ反語もレトリックとしてはあるだろうと思います。

                                                  なぜこんな分類をするかと言えば、断定の評論は論者の主張があるから論争が成り立ちますが、疑問の評論は論者の主張が見えにくくしばしば論争が不毛になる可能性があるからです。

                                                  例えば、「これは正しい俳句のあり方だろうか」。これが正しい俳句のあり方ではないと言っていませんから、正統な反論が行われれば撤回するという留保が入っているかもしれません。しかし一方で、正しい俳句のあり方についての論者の主張は何も現れていません。

                                                  文脈にもよることなのですが、例えばAが虚子論の中でこうした言葉を使えば、客観写生や花鳥諷詠を批判しているように見えますから、相手のBは客観写生や花鳥諷詠を擁護する論をはるかも知れません。しかし、じっさいのところ、Aは客観写生や花鳥諷詠を否定する明言はないわけですから、「これは正しい俳句のあり方だろうか」に触発されて、B自身が自分の内部に客観写生や花鳥諷詠擁護の命題を立て、自らそれの吟味を始めてしまうことになります。つまり独り相撲の策略に陥っているのです。傷つくのは反駁した人ばかりです、「これは正しい俳句のあり方だろうか」と言った人物は高みから見物しているだけなのです。最近こうした論がふえているような気がします。私は以前、これは評論家の単なる文体問題かと思ってきましたが、どうもそうではないようなのです。評論はあっても論争が進まない理由はこんなところにあるのかも知れないと思います。


                                                  評論の本領とは直接関係ないかも知れませんが、何のための評論かを理解しないと評論の本領も見えてこない気がする、という点では根っこはつながっていると思います。



                                                  三橋敏雄『真神』を誤読する 106.くび垂れて飲む水広し夏ゆふべ / 北川美美


                                                  106. くび垂れて飲む水広し夏ゆふべ



                                                  うなだれて蛇口に口を近づける、あるいは手に水を受けて水を飲む。柄杓で水を飲む場合も首を垂れるだろう。水を飲みながら目に映るものは流れていく水、水盤の水、うつむいた姿勢でふと見える風景に未知の世界が瞬間的に広がる。生きていることと死ぬこと、四次元の世界がつながっているように。夏の夕暮れの淋しさに、生きていることの豊かさと死の世界かもしれない別世界が垣間見える。広がる水の世界は不思議な感覚である。

                                                  イソップ物語『犬と水に映った影』は骨を加えた犬が水に映る自分の影を他の犬と勘違いする話である。何かの物質、たとえば水、鏡、ガラスなどに映った対象は、被写体を写しつつ実際の対象と別の世界と創りだす。掲句は「飲む水広し」とおおらかな世界を描き、それが死後の世界ならば、黄泉の国の果てしない広さというように感じられる。夏の夕暮れに飲んだ水を飲んだふとした瞬間に広がる別の世界に引き込まれる感覚がある。「くび垂れて飲む水/」で意味上の切れが「ふとした瞬間」を読者に共感させる。ロマンチシズムはふとした瞬間に広がる。


                                                  【接続助詞「~て」から考える動詞多用】

                                                  「くび垂れ飲む水」の、「て」は、「垂れる」+「飲む」を接続するための助動詞(接続助詞)である。

                                                  敏雄全句集を通読してみると、接続助詞「~て」の表記が多く、この助詞使いがどのように一句にまたは敏雄句を構成する要因になっているのかを句集収録句をみながら検証したい。

                                                  ***
                                                  外国語として日本語を教える際、接続助詞である「て」は、<「動詞+て」形>と表現される。

                                                  日本語研究者あるいは日本語を学ぶ外国人のためのサイトに興味深い一文がある。

                                                  日本語には「光り輝く,投げ入れる,書き上げる」のように,2つの動詞が連接した複合動詞が豊富に見られます。また,「食べてみる,仕舞っておく」のように前の動詞に「テ」が付いた表現も日常的に使われます。世界的に見ると,このような2動詞の連結表現は東アジアから南アジア,そして中央アジアの一部にかけての地域に広く分布していますが,多くの言語はテ形に当たる接続動詞を使っています。前の動詞が連用形に相当する「動詞+動詞型」の複合動詞は,東アジアに限られるようで,中でも日本語の複合動詞は数の多さと表現力の多様性において群を抜いています。 
                                                  (国立国語研究所 複合動詞レキシコン)

                                                  上記の日本語の動詞の特徴をみていると、日本語は、「2動詞をより短く表現」することに長けている言語と解釈できる。それはまるで最短の詩型、俳句のためにあるようなものである。

                                                  「て形」と「複合動詞」を駆使した句は、『まぼろしの鱶』『真神』『鷓鴣』までの敏雄句の文体上での特徴とみている。


                                                  新興俳句により俳句に目覚めた敏雄は、当時の新興俳句の詩的ロマンチシズムをどう俳句として確立させるかということに面白さを感じていたと見受けられるが、更に新興俳句内の戦争という重いテーマでありながらその切迫感、動作表現による躍動感が繰り広げられた「戦火想望俳句」により、俳句という型の中での動きの表現に習作したと見受ける。 動詞の多用である。


                                                  ***

                                                  敏雄俳句愛好者として下記を分析してみた。

                                                  実際に動詞多用を俳句の五七五型に入れ込む場合、三パターンが方法として考えられる。

                                                  1.重文(2動詞が離れている) 
                                                  2.「動詞+て形+動詞」(2動詞が連なっている) 
                                                  3.複合動詞



                                                  「て」の接続助詞をとるのは、動詞多用のゆえの方法であることが過去の作品からもわかる。
                                                  その動詞多用が敏雄独特の複合動詞表現に繋がっていくというように見える。
                                                  以下、動詞多用をとる際の 1.重文 2.動詞+て形+動詞 3.複合動詞についてみてみたい。


                                                  1.重文(2つ以上の動詞を一句に納めている場合)



                                                  「複合動詞」の名づけ親でもある山田孝雄著の重文の項をみてみる。

                                                  「重文といふのは、思想上対等である二以上の句が形の上で拘束を以て列なり重なって一礼をなしたものをさす。上句として特に目立つのは副語尾「て」の導きによって重ねたものである。」(『俳諧文法概論』山田孝雄)

                                                   旅に病で、夢は枯野をかけ廻る 芭蕉 
                                                  海くれて、鴨のこゑほのかに白し 〃 
                                                  三葉ちりて、跡は枯野や桐の畠 凡兆

                                                  江戸俳諧の時代より「て」の導きにより重文を構成する先達の句がある。

                                                  いっぽう、新興俳句の特徴として、西洋詩の散文的一行詩を意識するという傾向がある。当時のプロレタリア文学の影響もあるが、文体としては、新体詩の七五調がさらに自由に一行詩として表現されている印象だ。しかし、やたらと動詞の多用を見受ける。

                                                  具体的には、切字(や・かな・けり)を排除し、動作に重きを置くことを文体としているのだ。

                                                  ではどのように動詞多用を一句に納めたのかを白泉をはじめとする敏雄の周辺作家からいくつかみてみたいと思う。


                                                  我が思ふ白い青空と落葉ふる 高屋窓秋 昭和7 
                                                  白い霾に朝のミルクを売りくる 

                                                  バスを待ち大路の春をうたがはず 石田波郷 昭和8
                                                  霧吹けり朝のミルクを飲みむせぶ    〃 昭和9 

                                                  秋の夜を生まれて闇なきものと寝る 山口誓子  昭和9
                                                  堪へがたく灼けし機体の一部に触る 〃     〃

                                                  カンテラと駅長と現れ猟犬を賞づ 西東三鬼 昭和9 

                                                  はるかまで葡萄玉房垂るる見ゆ  渡邊白泉 昭和9
                                                  銀杏ちり空の紺青ききはまりぬ  〃 昭和10
                                                  街燈は夜霧にぬれるためにある  〃   〃
                                                  われは恋ひ君は晩霞を告げわたる  〃 昭和12年


                                                  恋人は土龍のやうに濡れてゐる 富沢赤黄男 昭和 10

                                                  足痕の巨きく乾き曇りゐる 阿部青鞋  昭和11

                                                  かもめ来よ天金の書をひらくたび   敏雄 昭和 11
                                                  少年ありピカソの青のなかに病む    〃   〃

                                                  落日をゆく落日をゆく真赤い中隊 富沢赤黄男

                                                  包帯を巻かれ巨大な兵となる     渡邊白泉 昭和13年 
                                                  天兵が赤き機銃を抱き翔けぬ            
                                                  銃後と言ふ不思議な街を岡で見た    〃    〃
                                                  遠い馬僕見て嘶いた僕も泣いた   〃    〃
                                                  海坊主綿屋の奥に立つてゐた     〃   〃

                                                  射ち来る弾道見えずとも低し  敏雄  昭和13
                                                  空を撃ち野砲砲身をあとずさる  〃   〃
                                                  あを海へ煉瓦の壁が撃ち抜かれ  〃  〃
                                                  地を兵を戦車現はれ掻きむしる  〃  〃
                                                  支那兵が銃を構へ来り泣く  〃   〃

                                                  ※このあたりは、接続助詞の「て形」は「~てゐる」を見るくらいにとどまる。

                                                  ※参考までに新興俳句における形容詞多用もひいておく。

                                                  藁に醒めちさきつめたきランプなり  富沢赤黄男(形容詞多用) 
                                                  あつくあつく世は戦へり君と会へり 高屋窓秋 (形容詞多用)
                                                  赤く蒼く黄色く黒く戦死せり  渡邊白泉(形容詞多用)
                                                  高き寒き暗きをかしきありて  (形容詞多用、動詞+て)

                                                  2.<動詞+て形+動詞> 



                                                  新興俳句は、動作、感情の文体を、漢語(和語に対する)、動詞を多用しテーマを戦争という無季にしぼりかの戦火想望俳句を作りだしてゆく(194043言論弾圧により新興俳句は消滅する)。

                                                  「動詞+て」形は、渡邊白泉句に多くみられる

                                                  堤塘を遠くもちゆき帰る  渡邊白泉 

                                                  戦争が廊下の奥に立つゐた    〃
                                                  石橋を踏み鳴らし行き踏み帰る   〃

                                                  憲兵の前ですべつころんぢやつた  
                                                   
                                                  スクラムのとけくずれゆくところ  〃 
                                                  凧の糸垂れき海にとけゐる     〃     
                                                  塵の室暮れ再び鷓鴣をおもふ     〃  


                                                  上記で敏雄の「動詞+て」形は白泉からの影響を大いに受けているとみて正しいだろう。白泉の句「動詞+て」形、形容詞連続使用はその文体から「俳句らしさ」を遠くにおき、「俳句の新しさ」を求め、俳句にできる可能性を一行の中に示しているようにみえる。しかしながら新しさを求めるために白泉がこの文体を生んだのではなく、当時の社会情勢に真っ向から異を唱え、それを詠むために、俳句の型に捉われる必要はなかったと理解するほうが真っ当だろう。それだけ白泉は純真であったのだ。



                                                  白泉の句を文体からみると、動詞あるいは形容詞の多用により躍動感切迫感とともに不思議な一句の構造がとられ、新興俳句の中でも白泉は超異端児のようにみえる。川柳の鶴彬に「手と足をもいだ丸太にしてかへし」があるが、鶴彬は1937年治安維持法により検挙されている。 どのように白泉が白泉句を生み出していったのか、その人となりに興味が湧く。 敏雄と白泉のかかわりについては、『青の中』の後記に白泉を敬う気持ちがつづられている。。


                                                  重ねて思へば、昭和十六年の西東三鬼は、全く筆を折つて沈黙してゐた。が、渡辺白泉はちがふ。なほ、俳句に強く執着する姿勢を崩さず、それまでの自己の表現方法を問ひ直しては、発表の当処ない作品を刻刻と書きとめてゐるのであつた。同時期の私が、その白泉や、後れて出会の機縁を浴びた、阿部青鞋氏等による、俳句古典に近附かうとする姿勢の影響下に、言はば出直しを計った経緯も、前記『太古』自序引用部に見られる通り、決して故なしとしない、之を言い換へると、私に於ける新興俳句の志向を一時的にも断念し、それ迄の私にとつては未知の、古典の表現力を、初心に帰つて身に附けたいと考へ初めた訳である。 
                                                  俳句表現に在つて、新しい姿情は、新しいといふだけで、多少の価値を認めることも出来る。だが、古典の姿情に追随する限りでは、さうは行かぬ。先蹤の何れかに忽ち似通つてしまひ、徒に、古い表現様式の中に耽溺せざるを得なくなる。二箇年余の応召期間を一水兵として暮らし、敗戦後復員した私が、西東三鬼に再会した時、三鬼は、私の取り出す句稿を一瞥して、「まだオニツラをやつてるのか」と嘆いて下さった。
                                                  『青の中』後記




                                                  敏雄の「+て形」は、初学から三鬼没年あたりまでの句を収録した第一句集『まぼろしの鱶』(発行年としてみる第一句集)の中に多くみられる。

                                                  家鴨浮けり誰かに會ひ帰りたし 『太古』

                                                  梅雨時計鳴りつぐ路地を勤む 『まぼろしの鱶』 
                                                  組みあひ降つくるなり牡丹雪 
                                                  刈つ行く田の寒くなる日暮かな 
                                                  竈火を映しうごく冬の家 
                                                  梟の顔あげゐる夕べかな 
                                                  乾く暗礁の牙全き春 
                                                  汗は塩座し帯びゆく放射能 
                                                  とまる鳩胸爽やか窓のふち 
                                                  新聞紙すつくと立ち飛ぶ場末 
                                                  富み老いたる観光団発つ空中へ 
                                                  雷雨乾く今日のベンチを老い待つ 
                                                  一日のひげ撫で鳴らす生き凍り 
                                                  死して師は家を行くもぬけの春 
                                                  こがらし聞ゆ土中に生き眠るもの 
                                                  銀の泡珊瑚をはなれ昇りくる 
                                                  買つ出る百貨店西東忌 
                                                  掘つ当る地下水呑めや歌へ 
                                                  休火口底芒来て生え枯れ 


                                                  くび垂れ飲む水広し夏ゆふべ 『真神』 
                                                  撫で在る目のたま久し大旦


                                                  初午や行き還らぬ兄ふたり 『鷓鴣』 
                                                  秋の木に秋のひとかげ映る 
                                                  あてきけば秋の木笑ひけり 

                                                  夏陰を蒼褪め過ぐ乳の人 『畳の上』 
                                                  春山に向ひ坐る二階かな 
                                                  死に消えひろごる君や夏の空 
                                                  螢火に横縞あり放つ 
                                                  螺旋階の裏のぼる白き秋 
                                                  蹼をゐる鴨よ残りけり 


                                                  富士の灰降りかむさる未来あり 『長濤』 
                                                  冬浪に向ひ下るみよしかな 
                                                  船窓を閉め入れざる冬の浪 
                                                  つくる丸を打消す銀河の下 
                                                  廣島の市電に乗つ悲しむ 
                                                  礒岩に隠れ紛ふ夜の父 

                                                  秋の蟬羽根を開い落ちにけり 『しだらでん』 
                                                  南極老人星(カノープス)低きところに来る 
                                                  生き知るソ聯崩壊蟲しぐれ 

                                                  烈風のマスト糞ひりき登る


                                                  ※『真神』収録では<くび垂れ飲む水広し夏ゆふべ><撫で在る目のたま久し大旦>の二句が <動詞+て形+動詞>と判断している。


                                                  3.複合動詞



                                                  64句目(撫で殺す何をはじめの野分かな)の項で記述。

                                                  撫で殺す何をはじめの野分かな 『真神』 
                                                  噛みふくむ水は血よりも寂しけれ   『真神』『巡禮』 
                                                  裂き捨つる靑蘆笛を平野かな   『鷓鴣』 
                                                  飲みほぐす代代の眞水や夏くさし   〃 
                                                  せせり食ひ餘すは海の針の骨   〃 
                                                  踏み捨ての石も霰も武州の産   〃 
                                                  行き伏しの顔もて撫でん春の海   〃 
                                                  押し當つる枕の中も銀河かな 『巡禮』


                                                  「て」は動詞多用の接続として大いに敏雄句に登場するが、敏雄独自の複合動詞も実は「て」を省いたものという捉え方ができる。

                                                  例えば、「撫で殺す」は「撫で殺す」からの発展形だろう。
                                                  以下、「て」を入れてみる。


                                                  噛みふくむ ← 噛んふくむ 
                                                  裂き捨つる ← 裂い捨てる 
                                                  飲みほぐす ← 飲んほぐす 
                                                  食ひ餘す  ← 食っ餘す 
                                                  踏み捨て  ← 踏ん捨てる 
                                                  行き伏し  ← 行っ伏せる 
                                                  押し當つる ← 押し当てる



                                                  ***

                                                  敏雄の動詞使いには、新興俳句で目覚めた十代からの動詞の歴史がある。『真神』『鷓鴣』以降にその独自の複合動詞が登場していない(現時点で多分ないと思えますが、再確認致します。)と見受けるのだが、<動詞+て形+動詞>の登場は最晩年の句集『しだらでん』にも登場し、調べていると嬉しい限りだ。低俗な表現をすれば、敏雄がどのような動詞使いをするのかを見ているだけで「わくわく」するのである。