Ⅰ
辻村麻乃『るん』(俳句アトラス 2018年)は『プールの底』(角川書店 2006年)に次ぐ作者の第2句集である。まずは各章から印象的だった句を引いてみたい。
1 「るん春」より
電線の多きこの町蝶生まる (P25)
作者は詩人・岡田隆彦を父に、俳人・岡田史乃を母に産まれた。そのことから、突飛な発想かも知れないが、私はこの句を境涯句だと思って読んだ。両親から詩歌の才能を受け継いだ作者は、やがて自分も俳句の道を志し、蝶のように言葉の世界を飛んでみたいと思うようになる。しかし、作者のもとに待っていたのは掲句の「電線」が隠喩しているような、言葉の難しさであり、俳句の難しさといった困難だったろう。しかし、そうした「電線」を一つずつかいくぐり作者は自身の作品世界を完成させる。その作品世界については後述するが、掲句からは生まれたばかりの蝶が電線を見上げながら思う期待や不安に、そうした作者の境涯が重なった。
春昼や徒歩十分に母のゐて (P31)
「徒歩十分」という日常的な言葉により、却って作者と「母」との互いの愛情を強く感じる。またその愛情と「春昼」というあたたかな季語とがよく合っていると思う。集中、他の句を読むと母が入院していることが分かる。(母入院「メロン」と書きしメモ一つ P82、病床の母の断ち切る桃ゼリー P107)そのことを考えると、この「徒歩十分」というのは、作者の自宅から母の入院している病院までの時間、距離なのかも知れない。しかし、そうだとしてもやはり「徒歩十分」の措辞からは互いの愛情を感じ、見舞いが暗く映らない。
2 「るん夏」より
象の鼻一つは夏の星を指し (P57)
考えてみれば、私たちが普段動物園で目にしている象は、みんな海外から渡ってきたものだ。アフリカゾウはアフリカから、インドゾウはインドから・・・。そして、それまでの広々とした草原から、ゾウにとっては小さすぎるくらいの檻に入れられてしまう。勿論、飼育員がエサを食べさせたりしてくれるとは言え、このように考えると、やはりゾウのさびしさを感じる。掲句は、そんなゾウの一瞬のさびしさを詠んだものだろう。ゾウが指している夏の星は、アフリカでは、或いはインドでは、日本よりずっと大きく見えるのかも知れない。そして、そんな星を目にしているゾウはたとえ言葉にはあらわれなくとも望郷の思いを強く感じていることだろう。
路地裏で怖き神輿を見てしまふ (P66)
いつも通っているはずの道でも、脇道に一歩逸れると、途端に何処の道か分からなくなることがある。なんとなく子どもの体験という印象が強いが、大人になっても不安になる瞬間だ。
掲句はそんな「路地裏」で「怖い神輿」を見てしまったという。掲句には切れ字もなく、措辞も簡潔である。しかし、その簡潔さが却って様々な想像を読者にはたらかせる。どんな風に怖かったのか、いまでも使われている神輿なのか。しかし、それらはすべて俳句の短さというヴェールに隠されて答えを知ることは出来ない。そして、そんな想像をはたらかせているうちに、遠い日に自分が見た「怖き神輿」の記憶がありありと迫ってくるような気すらする。
3 「るん秋」より
秋気立ち脂の匂ふ能舞台 (P105)
掲句の上五「秋気立ち」がとても良い。例えば「秋立ちて」等だと、暦の上では秋だが、やはり暑さをまだ強く感じる。また「秋深む」等だと、掲句の場合なんとなく凡庸な印象を受ける。つまり、「秋気立つ」の「気」と「匂ふ」という措辞が非常に合っているのだ。私は能には疎いが、掲句からはこけら落とし公演を想像した。脂を塗ったばかりの真新しい舞台に満ちる心地よい緊張感が「秋気」という言葉から伝わってくる。
鬼一人泣きに来てゐる曼珠沙華 (P115)
「るん夏」で感想を書いた「路地裏で怖き神輿を見てしまふ」にも共通するが、『るん』には日常のふとした瞬間を詠んでいる句の一方で、掲句のように異世界を覗き込むような句も見受けられる。(走り梅雨何処かで妖狐に呼ばれたり P67、寒牡丹百五十人の座禅かな P146)掲句もそうした句の一つ。「鬼」とは、鬼ごっこで負けてしまった子という解釈も出来るかも知れないが、そんな子が曼珠沙華まで泣きに来るだろうか。掲句は、曼珠沙華の咲くなかに文字通りの鬼が泣きに来ている様子を想像したほうが楽しく読めると思う。曼珠沙華のなかから聞こえてくる、人ともつかぬ声・・・。秋の夕暮れ時の不思議な光景である。
4 「るん冬」より
柏手の響く社や実南天 (P139)
「実南天」の真っ赤な色や、冬の神社の境内の澄み切った空気が伝わる。「柏手」を打つ人物がどんな人なのかは全く分からないが、南天の言い伝えに「難を転ずる」というものがあることからも明るい表情をしていることは間違いない。晴れた冬空の先に、明るい将来が待っていることを想像させる句である。
初冠雪二円切手の見つからぬ (P160)
「初冠雪」と聞くと、やはり私は山の頂上辺りに雪が降り積もっている大きな光景を想像する。掲句からは、その大きな光景と「二円切手」を失くしてしまったという小さな光景とのギャップに惹かれた。また、二円切手の絵柄と言えばエゾユキウサギが有名だが、切手のなかのウサギが山へ行ってしまったのではないかという空想(或いは妄想)もしてしまった。そうした何処かメルヘンチックな句である。
5 「るん新年」より
秒針の音近付きて去年今年 (P181)
掲句の「近付きて」という措辞には、「年の明ける瞬間が近付いてくる」と、「自分の耳に秒針の音が近づいてくるように大きく聞こえる」という2つの意味が込められていると思う。大晦日の夜の、他の364日とは明らかに違う清らかな空気が率直に詠まれていて好きな句だ。
人とゐて人と進みて初詣 (P183)
「人とゐて」、「人と進みて」、率直に言えば初詣の風景としては当たり前だが、掲句のようにその風景を丁寧に詠まれると、初詣に集う人々の表情や服装まで想像出来る。 「と」という助詞も非常に効果的だ。季節は違うが、与謝野晶子の「清水へ祇園をよぎる桜月夜今宵逢ふ人みなうつくしき」にあるやさしさと通底する世界観があると思う。人々の新しい年に向けての希望が感じられる句である。
Ⅱ
以上が『るん』の各章から私が特に印象的だった句である。
全体的な作品世界について述べる前に、集名の由来になった
鳩吹きて柞の森にるんの吹く (P108)
について述べたい。掲句は「るん秋」に収録されているが、正直に言えば私は最初に読んだときにこの「るん」の意味がいまいちつかめなかった。しかし、「あとがき」を読んでそれが分かった。
句集名の「るん」とはルンという言葉の概念に依る。
プラーナ(梵:प्राण、prāṇa)は、サンスクリット語で息吹などを意味する言葉である。日本語では気息と訳されることが多い。チベット仏教の瑜伽行では、この概念は「ルン」(rlung、風)と呼ばれる。(Wikipediaより)
私は『るん』という集名を最初に見たとき、その「るん」の音がとても楽しげに感じた。
しかし、「あとがき」を読んで「るん」の音に対する認識が少し変わった。上手に言えないが、「るん」とは動物や植物、或いは言葉が特別な姿になるとき風が吹くようなものなのではないか。楽しいというよりも背筋が伸びる感じがする。掲句に照らし合わせれば、鳩吹きの音が柞の森にそうした「るん」の風を与える光景とも言おうか。
また、この「るん」の風は、冒頭に述べた全体的な作品世界とも通じると思った。
私は『るん』の全体的な作品世界を「日常が非日常に変わる世界」と言いたい。例えば、「るん夏」の「路地裏で怖き神輿を見てしまふ」はいつもの道から少し逸れたところにある「怖き神輿」の非日常性を感じるし、同じ章の「象の鼻一つは夏の星を指し」も、動物園という日常から、一頭の象をきっかけに遠くに光る星という非日常なイメージにつながる。
そして、このような非日常が最も向けられているのはやはり作者の母に対してである。この場合、非日常という言葉はマイナスイメージが強いだろうから発見と言い換えるべきだろう。例えば、先に書いたように「るん春」の「春昼や徒歩十分に母のゐて」は、「徒歩十分」という日常的な言葉により、却って作者と「母」との互いの愛情の発見がある。
掲句の「徒歩十分」が象徴する日常が、非日常或いは発見に変わる。そうした句が『るん』にはいくつも収録されている。
その日常が非日常に変わるとき、「るん」の風が吹くのだ。サンスクリット語やチベット仏教と聞くと我々には縁遠いものに感じるが、そうではないと思う。例え路地裏の神輿にも、動物園の象にも、そして作者の母にも「るん」の風は吹く。
『るん』の句は写生を根底に置きながら、これまで述べてきたように日常が非日常に変わる瞬間を切り取っている。その瞬間のあざやかさに於いて『るん』は稀有な句集であり、またそうした句を詠める辻村麻乃は稀有な俳人である。
改めて今回『るん』の感想を書くことが出来た幸運に感謝しつつ、筆を擱く。(文中敬称略)