2020年6月26日金曜日

第139号

※次回更新 7/10

俳句新空間第12号 予告

特集『切字と切れ』

【紹介】週刊俳句第650号 2019年10月6日
【緊急発言】切れ論補足

【新企画・俳句評論講座】up!

・はじめに(趣意)
・連絡事項(当面の予定)
・質問と回答
・テクスト/批評   》目次を読む

【新連載・俳句の新展開】

句誌句会新時代(その一)・ネットプリント折本  千寿関屋  》読む
句誌句会新時代(その二)・夏雲システムの破壊力  千寿関屋  》読む
[予告]ネット句会の検討  》読む
[予告]俳句新空間・皐月句会開始  》読む
皐月句会デモ句会結果(2010年4月10日)  》読む
第1回皐月句会報(速報)  》読む
[予告]皐月句会メンバーについて  》読む

【読み切り】
「青蛙まづは懺悔より頭垂れ」(池田澄子句集『此処』) 豊里友行  》読む

■平成俳句帖(毎金曜日更新)  》読む

令和二年花鳥篇
第一(5/22)仙田洋子・杉山久子・大井恒行・池田澄子
第二(5/29)加藤知子・岸本尚毅・夏木久・神谷 波
第三(6/5)松下カロ・花尻万博・堀本 吟・竹岡一郎
第四(6/12)林雅樹・渡邉美保・ふけとしこ・望月士郎・木村オサム
第五(6/19)網野月を・前北かおる・井口時男・山本敏倖
第六(6/26)早瀬恵子・水岩 瞳・青木百舌鳥・網野月を


令和二年春興帖
第一(3/20)仙田洋子・曾根 毅・夏木久
第二(3/27)五島高資・松下カロ・辻村麻乃
第三(4/3)堀本 吟・木村オサム・林雅樹
第四(4/10)前北かおる・神谷波・杉山久子・望月士郎
第五(4/17)内村恭子・早瀬恵子・渕上信子・真矢ひろみ・仲寒蟬
第六(4/24)ふけとしこ・渡邉美保・下坂速穂・岬光世・依光正樹・依光陽子
第七(5/1)妹尾健太郎・なつはづき・小林かんな・山本敏倖・水岩瞳・五島高資・青木百舌鳥
第八(5/8)飯田冬眞 ・小沢麻結・坂間恒子・網野月を・井口時男・中村猛虎
第九(5/15)花尻万博・竹岡一郎・中山奈々・北川美美・大関博美・小野裕三
第十(5/29)岸本尚毅・佐藤りえ・筑紫磐井


■連載

【抜粋】〈俳句四季7月号〉俳壇観測210
現実社会を見るということ――小林貴子とコロナに触れながら
筑紫磐井 》読む

英国Haiku便り(11) 小野裕三  》読む

【新連載】『永劫の縄梯子』出発点としての零(1) 救仁郷由美子  》読む

ふけとしこ第5句集『眠たい羊』を読みたい
インデックスページ    》読む
6 桃の花下照る道に出で立つをとめの頃からずっとふけとしこ/嵯峨根鈴子  》読む

葉月第一句集『子音』を読みたい 
インデックスページ    》読む
8 パパともう一人のわたし/北川美美  》読む

麻乃第二句集『るん』を読みたい
インデックスページ    》読む
17 無意識の作品化、俳句のフレームを超えて/山野邉茂  》読む

寒極光・虜囚の詠~シベリア抑留体験者の俳句を読む~㉜ のどか  》読む

渡邊美保第一句集『櫛買ひに』を読みたい 
インデックスページ    》読む
6 『櫛買ひに』を読む/山田すずめ 》読む

句集歌集逍遙 樋口由紀子『金曜日の川柳』/佐藤りえ  》読む

大井恒行の日々彼是 随時更新中!  》読む


■Recent entries

 第5回攝津幸彦記念賞応募選考結果
 ※受賞作品は「豈」62号に掲載
特集・大本義幸追悼「俳句新空間全句集」 筑紫磐井編  》読む
「兜太と未来俳句のための研究フォーラム」アルバム
※壇上全体・会場風景写真を追加しました(2018/12/28)
【100号記念】特集『俳句帖五句選』

佐藤りえ句集『景色』を読みたい 
インデックスページ    》読む

眠兎第1句集『御意』を読みたい
インデックスページ    》読む

麒麟第2句集『鴨』を読みたい
インデックスページ    》読む

前衛から見た子規の覚書/筑紫磐井
インデックスページ    》読む

「WEP俳句通信」 抜粋記事  》見てみる

およそ日刊俳句新空間  》読む
…(今までの執筆者)竹岡一郎・青山茂根・今泉礼奈・佐藤りえ・依光陽子・黒岩徳将・仮屋賢一・北川美美・大塚凱・宮﨑莉々香・柳本々々・渡邉美保 …
4月の執筆者 (渡邉美保

俳句新空間を読む  》読む
…(主な執筆者)小野裕三・もてきまり・大塚凱・網野月を・前北かおる・東影喜子


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豈62号 発売中!購入は邑書林まで


筑紫磐井著『女帝たちの万葉集』(角川学芸出版)

新元号「令和」の典拠となった『萬葉集』。その成立に貢献した斉明・持統・元明・元正の4人の女帝、「春山の〈萬〉花の艶と秋山の千〈葉〉の彩を競へ」の天智天皇の詔を受けた額田王等の秘話を満載する、俳人初めての万葉集研究。平成22年刊2,190円。お求めの際は、筆者までご連絡ください。

【抜粋】〈俳句四季7月号〉俳壇観測210 現実社会を見るということ――小林貴子とコロナに触れながら  筑紫磐井

『黄金分割』の星野立子賞受賞
 小林貴子が『黄金分割』(朔出版)により星野立子賞を受賞した。小林は、宮坂静生主宰の「岳」の編集長を長くつとめており、現在は現代俳句協会の副会長でもある。現在までに『海市』『北斗七星』『紅娘』の三句集を著している。宮坂主宰はこの句集を「もののあはれ」を俳句で詠うと賞賛している。次のような句がそれに当たるであろうか。

若葉には若葉のもののあはれかな
葛引くと遠くが動く晴子の忌


 練達な女流作家として、私は現在の俳壇では俳人協会理事の片山由美子と双璧ではないかと思っている。そういえば、二人とも独特の季語論を展開し、多くの著作をものしている。且つ私の季語論をそうした中で容赦なく批判してくれている点でもよく似ている。自らの主張には厳しいのだ。
 さて俳句に関して言えば、小林の特色は、宮坂主宰の指摘にもかかわらず、アイロニカルな俳句、特に社会的な関心も強いことがあげられる。その意味では、片山にはまねのできない特色である。過去にも「松本サリン忌ざりがにの忌なりけり」「土の降る町を土の降る町を」のような驚く句を示してくれていた。今回の句集も、多くの評者はそのうまさを賞揚するが、俳壇では珍しいハードさに注目してもいいだろう。

地球の日珊瑚思ひのほか重し
桃見てフクシマ空見てフクシマ
二・二六の寒さを好きと宇多喜代子
夏ぐれや普天間飛行場遥拝
我も地衣類梅雨時は絶好調 


 かつて、協会や俳句総合誌が震災特集を組んだことはいかがなものかと小林に質問したところ、素直に同感してくれた。しかし、今回の句集でも小林に震災俳句はないわけではない。おそらく協会やジャーナリズムから離れて作者の良心として詠むことは是と考えているのであろう。
(以下略)

※詳しくは「俳句四季」7月号をお読み下さい。

【読み切り】「青蛙まづは懺悔より頭垂れ」(池田澄子句集『此処』)  豊里友行

先ずは、私の懺悔から。
己の、この鈍感さを振り返る。
何かと池田澄子さんの俳句に、たびたび出会うたびに魅了されてきた。
Facebookでお友だちをしていただいているが、閲覧のみで中々、交流を持つほどの趣向の共通点は、なかった。
接点が欲しかった、というのが私の正直な気持ちだった。
大井恒行先生のブログ「日々彼是」で澄子さんの夫の池田龍夫著『時代観照ー福島・沖縄そして戦後70年へ』(社会評論社)が御紹介されているのを見て、これは、御縁だと私の早合点で、池田龍夫氏宛で辺野古の写真集を御贈りした・・・・。
句集『此処』を読み終えて愕然としている。
「後期」より。

 八歳の夏、かの戦争で父を奪われ、人は死ぬ、死は絶対であると知って以来、此の世の景の儚さを忘れることができない体質になったようだ。偶々人に生まれ多くの人に出会い、その先にある別れの怖ろしさに、一瞬の現象をも含め様々の出会いを深く意識し、別れを怖れる自分をも眺めながら生きてきたようだ。二〇〇一年に師が逝き同じ年に育ての父が、そして母、そして夫が逝った。逆縁は許さぬと夫々に申し付けてあるので、あとは自分の死だけである。
 自分の死は怖くない。


丁寧に生きるこの俳人を見習いたい。
私は、この俳人の覚悟など知るよしもなく此の世を右往左往しているのだろう。

あっ彼は此の世に居ないんだった葉ざくら

すみませんでした。
FBでのメッセージの写真集の返礼にも、私は、ドラム缶並みの鈍感さで気付かずにいた。

たいがいのことはひとごと秋の風
牡丹雪大人ですから黙ってます


たいがいの度を越して失礼していた昨日までの無神経な私にしょんぼりと反省しながら池田澄子俳句の心の機微の共鳴句をいただきます。
料理の俳句にも丁寧に生きる所作がうかがえる。

松過ぎの餃子の正しい包み方
心血の注ぎ疲れや千枚漬
湯に放つ刹那春菜のうれしそう
細切りの海苔を散らせばこぼれて春
啓蟄の稲荷寿司から紅生姜
わが死後の皿に汚れてパセリなど
ごーやーちゃんぷるーときどき人が泣く
雑煮用鶏を解凍しつつ寝る
饅頭に濃き焼印の端午かな
自ずから熟れて傷んで匂って桃
遠来の洋梨嗅いで供えて撮る
一月一日喪中の瓶詰のイクラ
切山椒いろとりどりや悲喜こもごも


私も池田澄子さんのように丁寧に生きて俳句を綴りたい。

よい風や人生の次は土筆がいい
桜さくら指輪は指に飽きたでしょ
きりたんぽいのちあるものさびしがり
決心はゆらぐし柚子は黄色さすし
ねぇあなた嗚呼どうしよう桜咲く
心配に濃淡のあり夕ざくら
次の世は雑木山にて芽吹きたし
偲ぶひと多くて困る青葉かな
生き了るときに春ならこの口紅


池田澄子さんの俳句魂は今なお、青葉である。
食が細いと俳句は呟いてったっけ。
食べて食べて俳句をもっともっともっと創造して欲しい。
これからも池田澄子さんには、長生きしてもらって池田澄子俳句に唸らせられつつ、私は私らしい俳句で丁寧に生きる姿勢を見習いたい。
ぜひ。句集『此処』(池田澄子)を御購入、御一読いただけると幸いです。

【俳句評論講座】共同研究の進め方 共同研究「遷子を読む」・・・中西夕紀、原雅子、深谷義紀、窪田英治、筑紫磐井、〔途中参加〕仲寒蟬(―俳句空間―豈weekly転載)

 共同研究のテーマが続いたので、以前行った共同研究の経緯を参考として転載することとする。

相馬遷子――明治41年10月15日長野県佐久市野沢生れ、昭和51年1月19日没。本名富雄。東大医学部在学中に水原秋櫻子に指導を受けて「馬酔木」に投句、戦後、故郷佐久市にて医院開業、佐久の自然と医師としての身辺を多く詠んだ。昭和44年に俳人協会賞を受賞、句集に『草枕』『山国』『雪嶺』『山河』がある。

筑紫:この会は、現代俳句史の中で、没後論じられる機会が少なくなっている相馬遷子を再評価し、その作品を研究しようということで発足しました。相馬遷子の一句一句の作品鑑賞を中心に、いろいろな視点から相互批評を進めたいと思います。
 研究会は、いろいろなおりに相馬遷子への関心を表明した、中西夕紀、原雅子、深谷義紀、窪田英治、筑紫磐井をメンバーとしてとりあえずスタートすることとします。本研究会にご関心のある方は筑紫と相談していただければ幸いです。
 本来は一堂に会して語り合うことが望ましいのですが、メンバーが遠隔地に居住し、多忙であるのと、記録を文字の形で残す必要があるためにメール等でやりとりし、記録は適宜ブログの「―俳句空間―豈weekly」に連載することとしたいと思います。
 第1回はメンバーの簡単な略歴紹介と、相馬遷子との関係などを語っていただこうと思います。また、巻末には、各人がこれから取り上げてゆく各人の遷子十句選を掲げておきました、ご参考にしてください。それでは、中西さんから自己紹介をお願いします。

中西:馬酔木系の「鷹」に長くおりましたので、相馬遷子は「馬酔木」の次代を嘱望されていたのに、早く亡くなってしまった人ということを聞いておりました。しかし、今まで作品に会うこともなく来てしまいました。筑紫磐井さんの講演を聴きに行って、相馬遷子の俳句と俳句への姿勢など伺い興味を持ちました。高い精神性と風土を描いている作品に出会い、「馬酔木」の相馬遷子という枠を離れて、見て行きたいと思いました。そこで相馬遷子の地元の俳人、鷹新人会で一緒だった窪田英治さんに資料の提供を受けて読み始めようとした、ちょうどその時、この研究会のお話が舞い込んできました。メンバーのなかで一番相馬遷子を知らない者で、ついていけるのか心配ですが、長い間、どんな人だろうと思っていた相馬遷子という人にじっくり向かい合う機会をいただけて嬉しく思います。

筑紫:中西さんは、昨年創刊されたばかりの新雑誌「都市」の主宰でもあります。お忙しい中の参加をありがとうございます。「岳」にもおられ、長野県松本市に一時期住まれたということで、遷子の住んだ(佐久の)環境にもご理解が深いのではないかと思います。

:私の俳句の出発は加藤楸邨の「寒雷」からで、現在は矢島渚男主宰「梟」に所属しています。ご承知のように楸邨の出自は「馬酔木」ですが、当時すでに独自の作風によって一家をなしていましたので、「馬酔木」につながる作家たちをあまり意識せずに過ごしてしまいました。
 遷子との出会いは、一気にのめり込むというようなことではなく、作品を断片的に眼にしているうち次第に気になってきたというものです。相馬遷子が亡くなったのは私が俳句を始めて数年経った頃のことでした。人からの口伝えで「冬麗の微塵となりて去らんとす」の句を覚えています。
 最近になって、少しまとめて読んでみようという気になったのは、風土との関わりが表現上にどのように現れているかに興味を持ったことが大きいのですが、まず第一に、遷子の清潔な作風に惹かれています。

筑紫:原さんは、皆さんご存知のとおり第51回角川俳句賞(平成17年)を受賞されています。先生の矢島渚男氏は、ご自身が大学のころから交流され、相馬遷子の句集にも協力、最期を看取った遷子の最大の理解者ですから縁が深いことはいうまでもありません。

深谷:「天爲」の深谷義紀です。俳句を始めて二十年ほど経ちますが、専ら「天爲」の中だけで活動してきましたので、今回のお誘いは大変嬉しく、思い切って参加させていただきました。
 相馬遷子との出会いは二年ほど前になります。「天爲」の発刊200号記念特別号で「検証・戦後俳句」と題して、これまであまり注目されてこなかった俳人12人を採り上げることになり、小生に相馬遷子の担当が回ってきました(ちなみに、その際には筑紫さんから貴重な資料のご提供を受け、大いに助けられました)。
 そこで初めて相馬遷子という俳人に正面から向き合うことになったわけですので、そういう意味では全くの偶然、強いて言えば有馬朗人主宰と対馬康子編集長の思し召しによるものなのですが、この出会いは小生の句作スタンスを抜本的に変えてしまうことになります。それまで気の向くままに句を作り続けてきたのですが、やや大袈裟に言えば、それ以降、自分自身の心の持ち様あるいは生き方を写すような句を書きたいと思うようになっていきました。それは、意識的にそうしたというわけではないのですが、そういう句でないと自分自身で満足できないようになってしまったわけです。

筑紫:深谷さんの「相馬遷子論」は近年まれに見る優れた遷子論と言えます。インターネットでごらんになれますので是非お読みください。
→http://haikunet.info/soumasennsironn.html

窪田:窪田英治です。現在宮坂静生先生の俳誌「岳」で勉強させて頂いています。少し前から、中西夕紀さんと相馬遷子の句を読んでみようかという話をしていました。僕は、遷子の地元にいながらあまりよく知りませんでしたので、勉強になるなと気楽に考えてのことです。それに「高原派」という言葉に何となく憧れてもいましたので。
 そんな時、夕紀さんからこの会にお誘いを受けました。メンバーのお名前を聞いて、正直尻込みをしました。幸い、句集『雪嶺』に深く関わった矢島渚男さんの直ぐ近くに住んでいますし、他に地元の遷子と直接交渉のあった方々にもお会いできる機会も作りやすいので、少しは皆さんのお役に立てるのではないかと、お仲間にいれて頂くことにしました。足手纏いになるかも知れませんがよろしくお願いします。

筑紫:窪田さんはたったひとりの地元の方です。最後に自己紹介を。私が「馬酔木」で俳句を始めた頃、遷子は元気に活動していましたが、当時それ程深い関心を持っていたわけではありません。その後、「沖」に移り、福永耕二から色々な話を聞くに及び、次第に関心が深くなってきました。耕二の一代の名品と言うべき評論「俳句は姿勢」は、もちろん耕二自身の俳句の思想を語っていますが、そこに登場する俳人は相馬遷子であり、「俳句は姿勢」を具現化する作家は相馬遷子であったのです。
 昨年6月、現代俳句協会の「現代俳句講座」を担当したとき福永耕二について語らせていただいたのですが、調べるにおよび、水原秋桜子と相馬遷子が耕二にいかに決定的な影響を持っていたかということを痛切に感じました。
 もっともそれに先だって、(深谷さんが触れられているように)「天為」200号記念のシンポジウム(平成19年5月)に小澤實氏と一緒に出させていただき、忘れ難い俳人と言うことで私は遷子と耕二をあげていますから、私の遷子贔屓はだいぶ以前からのことになるのですが・・・。
 私は、今までどちらかというと、龍太とか虚子の研究をすることが多かったのですが、こうした「芸」とか「俳句性」に強い関心を持ちつつ、俳句でひたむきに人生や自然と向き合う作家たちも決して嫌いではありませんでした。実は正直言って、俳句とはダブルスタンダードであり、2つの基準の間を行ったり来たりすることで初めて力を得ているのではないかという気がしてならないのです。もちろんそうした作家として、加藤楸邨や社会性俳句を取り上げてもよかったのですが、定説のできあがった作家や運動よりは、数少ない仲間で、忘れられかけた作家をじっくりと研究してみたいという気が起こってきて、この会の呼びかけをした次第です。地道に長く続けたいと思いますのでよろしくお願いします。
 読者もごらんいただいてお分かりのように、それぞれ独自の観点から遷子への関心を持つメンバーです。私は「関心を持つ」ことほど重要なことはないと思います。関心いない事柄は存在しないも同じことだからです。この会をご期待にこたえられるものとしたいと思います。
 あっ、言い忘れましたが私は現在「豈」の同人です。

筑紫:今回(第32回)から新しいメンバーに入っていてだきました。仲寒蝉さんです。角川俳句賞を受賞してらっしゃいますし、遷子ミステリーツアーでお世話になった島田牙城氏が宗匠をしている「里」の編集長をされている方ですからご存知の方も多いでしょう。医師であり、佐久に住まわれているということで参加をお願いしたものです。

:寒蝉です。櫂未知子さんに憧れてこの道(俳句)に入り『港』という結社に所属しています。もともとは大阪出身ですが、信州大学医学部を出てそのまま地元の佐久市立国保浅間総合病院というところに就職しました。そんな訳で相馬遷子と同じ佐久の地に住んでいます。ここには同じ関西から来た、しかも同じ昭和32年生まれの島田牙城という変な男が邑書林という出版社をやっていて、数年前から一緒に『里』という同人誌を立ち上げ今はそこの編集長ということになっております。遷子という人については馬酔木の高原派というくらいの知識しかなかったのでこの機会に郷土の先輩(俳人としても医師としても)のことをもっと勉強したいと思い参加させていただきます。よろしくお願いします。

相馬遷子十句選(第1回) ○印は重複選
中西夕紀選

元日や部屋に浮く塵うつくしき    『山国』
街中の溝川ながら雪解水
ほとゝぎす緑のほかの色を見ず
昼寝覚祭の音となりゆくも
墾道の深き轍や秋の蝶
往診の夜となり戻る野火の中
戻り来しわが家も黴のにほふなり
山国や年逝く星の充満す
農夫病む雲雀の籠に鳴かしめて
春の町他郷のごとしわが病めば

原雅子選
梅雨めくや人に真青き旅路あり  『草枕』
昼の虫しづかに雲の動きをり
あをあをと星が炎えたり鬼やらひ 『山国』
畦塗りにどこかの町の昼花火
山の虫なべて出て舞ふ秋日和   『雪嶺』
ストーヴや革命を怖れ保守を憎み
萬象に影をゆるさず日の盛
晩霜におびえて星の瞬けり    『山河』
雛の眼のいづこを見つつ流さるる
冷え冷えとわがゐぬわが家思ふかな


深谷義紀選
栓取れば水筒に鳴る秋の風      『草枕』
忽ちに雜言飛ぶや冷奴        『草枕』
山河また一年經たり田を植うる    『雪嶺』
梅雨晴るる家畜のにほひ土に染み   『雪嶺』
農婦病むまはり夏蠶が桑はむも    『山國』
銀婚を忘ぜし夫婦葡萄食ふ      『雪嶺』
寒うらら税を納めて何殘りし     『山國』
春の服買ふや餘命を意識して     『雪嶺』
わが山河まだ見尽くさず花辛夷○   『山河』
かく多き人の情に泣く師走      『山河』

窪田英治選
渓とざす霧にたゞよひ朴咲けり  『草枕』
雉鳴いて新樹一齊に雫せり   
熊野川筏をとゞめ春深し     
晝寝覺萬尺の嶺にわがゐたる(白馬岳にて 五句)
四十雀花咲く松に鳴き交す
語りゐし望に照らされ兵ねむる
くろぐろと雪片ひと日空埋む
うらぶれし冬にも心遺すなり   『山國』
山國の霞つめたし朝さくら
しづけさに山蟻われを噛みにけり


筑紫磐井選
汗の往診幾千なさば業果てむ   『雪嶺』
ころころと老婆生きたり光る風
筒鳥に涙あふれて失語症
ちかぢかと命を燃やす寒の星
隙間風殺さぬのみの老婆あり
ただひとつ待つことありて暑に堪ふる
病者とわれ悩みを異にして暑し
薫風に人死す忘れらるるため   『山河』
わが山河まだ見尽さず花辛夷○
冬麗の微塵となりて去らんとす  

(―俳句空間―豈weekly転載)

2020年6月12日金曜日

第138号

※次回更新 6/26

俳句新空間第12号 予告

特集『切字と切れ』

【紹介】週刊俳句第650号 2019年10月6日
【緊急発言】切れ論補足

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【読み切り】
「輝ける日々の橋本喜夫俳句」(句集『潛伏期』より) 豊里友行

■平成俳句帖(毎金曜日更新)  》読む

令和二年花鳥篇
第一(5/22)仙田洋子・杉山久子・大井恒行・池田澄子
第二(5/29)加藤知子・岸本尚毅・夏木久・神谷 波
第三(6/5)松下カロ・花尻万博・堀本 吟・竹岡一郎
第四(6/12)林雅樹・渡邉美保・ふけとしこ・望月士郎・木村オサム


令和二年春興帖
第一(3/20)仙田洋子・曾根 毅・夏木久
第二(3/27)五島高資・松下カロ・辻村麻乃
第三(4/3)堀本 吟・木村オサム・林雅樹
第四(4/10)前北かおる・神谷波・杉山久子・望月士郎
第五(4/17)内村恭子・早瀬恵子・渕上信子・真矢ひろみ・仲寒蟬
第六(4/24)ふけとしこ・渡邉美保・下坂速穂・岬光世・依光正樹・依光陽子
第七(5/1)妹尾健太郎・なつはづき・小林かんな・山本敏倖・水岩瞳・五島高資・青木百舌鳥
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■連載

【抜粋】〈俳句四季6月号〉俳壇観測209
結社のその後はどうなってゆくのか――大牧広の門葉たちを例に
筑紫磐井 》読む

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【新連載】『永劫の縄梯子』出発点としての零(1) 救仁郷由美子  》読む

ふけとしこ第5句集『眠たい羊』を読みたい
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渡邊美保第一句集『櫛買ひに』を読みたい 
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およそ日刊俳句新空間  》読む
…(今までの執筆者)竹岡一郎・青山茂根・今泉礼奈・佐藤りえ・依光陽子・黒岩徳将・仮屋賢一・北川美美・大塚凱・宮﨑莉々香・柳本々々・渡邉美保 …
4月の執筆者 (渡邉美保

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筑紫磐井著『女帝たちの万葉集』(角川学芸出版)

新元号「令和」の典拠となった『萬葉集』。その成立に貢献した斉明・持統・元明・元正の4人の女帝、「春山の〈萬〉花の艶と秋山の千〈葉〉の彩を競へ」の天智天皇の詔を受けた額田王等の秘話を満載する、俳人初めての万葉集研究。平成22年刊2,190円。お求めの際は、筆者までご連絡ください。

連載【抜粋】〈俳句四季6月号〉俳壇観測209 結社のその後はどうなってゆくのか――大牧広の門葉たちを例に 筑紫磐井

「港」同門会
 大牧広が昨年四月二十日に亡くなってから一年経つ。私から見ると「沖」の先輩同人となることになるのだが、当時にあっては常に「異色の俳人」という異名で呼ばれていた。「沖」の主宰能村登四郎・副主宰林翔にしろ、当時の幹部同人、あるいは若手作家にしろ、巧緻さと抒情(彼らはそれを詩性と呼んでいた)を強く出している俳句が多かったように思うが大牧広はひとり、ダイレクトな人間臭さを特徴として持っていた。

名刺よく使ひし日なり夜の蟬
噴水の内側の水怠けをり
台東区汗拭くたびに路地ふえて
もう母を擲たなくなりし父の夏
たそがれの地下一階で鮎食べし
どうしても吾に似てをり蝸牛
鮟鱇鍋悪意のやうに煮えてくる
顔知らぬ人の喪へゆく油蟬


 大牧広というと社会性俳句に傾斜しているように思う人が多いが、第一句集『父寂び』ではそうした傾向は少ない。能村登四郎は序文でそれを「人間表現」と言っており、それは登四郎に共通すると述べている。
 晩年、二〇〇九年現代俳句協会賞、二〇一五年詩歌文学館賞、二〇一九年蛇笏賞と受賞を重ねた。実は恩師の登四郎も順序の違いはあるものの、全く同じ賞を取っている。大牧広が登四郎とこうまで重なるとはだれも予測していなかったと思う。「順序の違いはある」というのは大牧広にとっては意味がある、それは、登四郎が初期に社会性俳句を代表する作品を発表したのに、大牧広の場合はどちらかと言えば晩年にその傾向を強めたからである。
      *
 少し不可解だったのは、体調を崩した大牧広が、「港」の主宰を退き、名誉主宰となったという通知を一月ごろ受けていたのだが、次の二月には「港」を終刊すると宣言したことだった。そして、三月には蛇笏賞受賞決定、四月に逝去と目まぐるしさに驚いたものだった。その後大牧系の雑誌がいくつか創刊されているがあまりその事情をはっきり聴く機会がない。ただ、私が思うところ、「港」の名誉主宰となることは、「港」の行く末を見極めたいと言う強い思いがあったからであろう。その時の名誉主宰就任の挨拶が「私は港を離れるのではなく、さらに一段と高いところから港を見つめていくのである」であったということはこれを裏付ける。しかし、その直後自分の寿命を知った段階で、「港」という名前に拘束されず、弟子たちの事由に任せたいと思ったのではないか、と推測した。いかにも大牧広らしい判断だ。
 興味深いのは、大牧広がなくなり、「港」が終刊した後、「港同門会」というホームページが生まれ、藤が丘句会(衣川次郎)、牧の会(仲寒蟬)、くぬぎの会(波切虹洋)、城北俳句会(木村晋介)が継続的に紹介されていることだ。「港同門会は蛇笏賞作家「大牧広」門下俳人の作品発表と交流の場です」と宣言されている。それぞれからすでに「青岬」「牧」「くぬぎ」という雑誌も創刊されている。普通雑誌が創刊されると、それらの間では必ずしも円滑な関係が維持されないことが多いのだが、「港」に関してはホームページという媒体を活用してうまくつながっているようだ。さらに、このホームページでは、仲寒蟬、早川信之らの結社を超えた大牧広論を蓄積していることである。大牧広の「港」解散の意図は十分果たされていると言ってよいであろう。
 もちろん、大牧門で言えば、「群青」の共同代表櫂未知子や「天為」編集長天野小石もおり一層華やいだものとなるだろう。

「牧」創刊

「港」系の結社で最も新しいのは「牧」である。三月に創刊され、代表は大牧広が若手で最も期待していた仲寒蟬が勤めている。主宰ではないのかという質問に、長野県佐久市の病院の医師を努め、千人近い患者を担当している中では主宰などは出来ないと言う。俳人の立場より医師の立場を重いとするのは立派な心掛けだと思う。佐久市には馬酔木の同人会長を務めた相馬遷子がいる。石田波郷なきあと水原秋櫻子が最も信頼していた作家であるが、開業医として佐久を出ることはなかった。遷子を敬愛する寒蟬らしい言葉である(寒蟬には『相馬遷子―佐久の星』の共著がある)。(以下略)

※詳しくは「俳句四季」6月号をお読み下さい。

【⑦平野テクスト】メモランダム福永耕二  平野山斗士

【テクスト本文】
メモランダム福永耕二
        平野山斗士 「田」所属 

 福永耕二による俳句論の話をしようとしている。先ず個人的挿話を持ち出したい。手元にある一冊『俳句創作の世界』。若者向けの俳句入門書を謳ったもので、これに福永耕二の稿が収められている。「はしがき」に耕二急逝のことが報じられており即ちこれが彼の絶筆となった。古本で購入したものなので書込あり。そうしていざ冊を開くと、興味ある書込を見たのである。耕二による文章は次の通り。
    >
  最近における俳句人口の増加とその高齢化は著しいものがあります。しかも最近俳句をはじめる人は、青壮年期は生活に追われて俳句どころではなく、老年になってようやく時間的にも経済的にも余裕ができて、俳句の世界に入ってきた人が大部分です。しかもその人達は、俳句を碁や将棋のような気晴らし、と考えている人が多いようです。そういう人達が俳句雑誌の読者として、その経営を支えていることは否定できませんが、私はそういう人をほんとうに不幸だと思います。俳句を趣味、あるいは余技だと思っている人にとっては、いつまでも俳句は趣味でしかなく、余技でしかないからです。その反対に、人生の表現として俳句を選び、恋愛、結婚、子供の出生などの一生の大事をことごとく俳句に表現し得た人はすばらしいし、立派だと思います。[※註1]
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 「私はそういう人をほんとうに不幸だと思います」の箇所に鉛筆で傍線、そして欄外へ引っ張って…。(それはそれで仕合せではないか。この人の俳句観はあまりに偏狭であり、賛同できない。)と書込んである。
 耕二も、この一冊の前の持主たる失名氏も、二人とも何やら憤っている。或る種の心の波が、言葉を、強く湧き立たせ、更にこの場合は反発的かつ共振的にドライヴしてしまった。こんな邂逅の痕跡が埋もれているとは、買い求めて良かった。この失名氏の一撃が、福永耕二という俳人の急所を突いているかと云えば、然り、肯える点がある。怒っても仕様がない。蒸し返すように感情の波紋を拡げても今更の話である。
 ほんとうに不幸、とはなるほど如何にも、筆の滑りに滑ったり。だが耕二の難点をあげつらうためここに論じるのではない。けだし美点と難点とはコインの裏表だから往往にしてすぐ反転する。好悪の問題以前に、視座の問題である。福永耕二の、体質に、散文の方面から近付こうとしている。耕二は「僕は評論というものを書くのが大の苦手である」と自ら述べているので、そいつは却って好都合、句よりも論のほうに一人間の生地が露出している見込がある。そこには実存も課題も時代感覚も含まれている筈で、俳句の今を生きるわれわれのための滋養分を味得することが出来たら理想的である。
 耕二が文学原論的に俳句を扱ってよく知られたものが二つある。昭和三十六年の「沈黙の詩型」。昭和五十二年の「俳句は姿勢」。読み比べてみると、より面白いのは前者。一口に云えば、前者のほうが、冷静で、論点が豊富である。冷静と云うのはつまり後者のほうでは、ほんとうに不幸だと思います的なる口吻が、比較的に露骨なのだと思って頂いて良い。以下、前者「沈黙の詩型」を眺める。
 標題の語を定義付けている箇所は、こうである。
    
 最後に残った十七音の言葉に対するぎりぎりの愛情が、人に訴えるのである。俳句における抒情の方法はこれ以外にはない。その意味で僕は、俳句を沈黙の詩型と呼ぶのである。[※註2]
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 まずこれだけでは引用としても不親切で判り難いが、同時に、まずこれだけでも結社で学んでいるような俳句実作者が読むときには、趣旨の大方は察しが付こう。伝統俳句をまるごと信じ切る王道派の見解が吐露されている。この定義に絡まっている文脈をもう少し抽く。
    >
 僕はどうにかしてこの短詩型のもつ秘密を解き明かしたいと思いつめていたのだが、つい最近、俳句におけるその寡黙さと、われわれが美しいものに出合った時に感じるあの充実した沈黙というものが、どこかで共通するのではなかろうかと思いはじめたのである。
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 人に感動を語りたい欲求を抑えて、よき詩人はよき祈りをするのである。祈りの中で、詩人は言葉を得るのである。詩人はまず、沈黙することが唯一の表現であるという思想を所有しなければならぬ。
    *
 文学がいよいよ饒舌になろうとしている今日、このような短い詩型が生き残る為には、いま一度俳人が、この沈黙の意味を考えねばならぬと思う。抑えることによって表現する、と言葉に言うことは易しい。しかし抑えてしまったら何も表現するものが無かったという場合だってあるのである。
    <

 どうだろう。祈りという語が反復されるからという理由だけに留まらず、解き明かしたいと思いつめ…。唯一の表現…。生き残る為には…。これ以外にはない…。あたかもこれは修道僧の、わざと大仰に云うなら迫害されつつある信徒の、熱っぽい語り口である。ふと内村鑑三を彷彿してみてもいい。福永耕二の青春性と云われるものの一端が、こうした文飾の節ぶしにも窺えるわけである。いま文飾と云ったが当人おそらく無意識か。ときに念のため、キリスト教に関わる耕二句を幾らか拾う。

 降誕祭終りし綺羅を掃きあつめ  『鳥語』
  (聖母騎士園ルルド)
 跪坐石は蟻あそぶ石人去りて    〃
 初弥撒や息ゆたかなる人集ひ   『踏歌』
  (島原キリシタン資料展)
 竹筒の隠しマリアは暑からめ    〃
 大天使像古りし翼を虫干す    『散木』


 このうち〈初弥撒や〉は有名句と云えよう。だが彼がクリスチャンかどうか、いま確証を見ない。たとえばと思い「聖書」の語を持つ句を探したが管見の限り一句もない。

 殺生戒蓑虫のためにけふ活かす  『散木』

 単に修辞と見ても良いが、文字通りこれを受取ればむしろ、仏の徒である。いずれにしてもそのことは今の話柄に、無関係ではないにせよ重大関係ありとも云えないようである。
 饒舌になろうとしている今日…のくだりは、社会性俳句のことがおそらく念頭にあろう。昭和三十六年に発表の文章である。社会性俳句論議の最高潮が昭和二十九、三十年あたりとすると三十六年の時点とは、ブームは既に沈静、脇へ逸れた支流が再び本流へ流れ込むように全俳壇的に影響が染み渡った頃合と、見られる。
 読者のほのかな笑いを誘うのは、抑えてしまったら何も表現するものが無かったという場合だって…の一文。じつに、あるだろう。大した考えもなく何となく俳句に携わっている人は、世に、多い。という、その幾らか軽蔑的な眼差を、読者は真っ先に自分自身へ向けてみなければならなくなるし、筆者の耕二もまたそうしていることが判るので笑いが生ずる。
 しかもこれは社会性俳句の影響を難じるニュアンスで述べられている。そうとも限らないが今はそう見ておく。労働者デモを詠んだり反対闘争を詠んだりした、かの社会性俳句こそは、表現したくて表現したくて堪らない俳句で、しばしば政治スローガンに化けた。左翼的アジ文体は昨今とんと流行らないけれども、往時にあっては御洒落で華やかだったに違いない。そのファッションを、抜き取ったら何も無くなりゃしないかと耕二は横目で睨んでいる。この観点からすれば、俳句で革命を叫びたがる昭和人と、特に何もないが俳句をやる令和人と、対極にあるようでそうでない、五十歩百歩だろう。
 まこと真面目な態度と云える。が、そこまで真面目を貫くならば、俳句表現をやる意味どころかいっそ、お前なんか生きていて何の意味があるんだと自問する所まで僅か一歩の距離なので、考え過ぎると命に関わる。と、そんな声を掛けてみたら耕二は、そうだ、だからこそ命懸けで俳句の道を進むのだ、と応じるだろうか。応じそうである。勝手に妄想しておいてなんだがこの類のダカラコソには、些か警戒を要する。福永耕二の俳句の才が衆に秀でたものであったことに疑いはない、ただ、有能なる熱血漢は時として無能なる愚者よりも人の世に軋轢を生ずる。軋轢が有益か無益かは別問題である。耕二に接していると、その辺りの機微に就て考え込まねばならない。福永耕二が「馬酔木」編集長を解任されたというがそれは何故か。ソクラテスが死刑を宣告されたというがそれは何故か。そんなことを気にするのは藝術と縁なき衆生の、庶民根性というものかしらん。
 西洋人名が飛び出した処で耕二の論に戻ると、登場するカタカナ名はボードレール、ランボー、サルトルの三人である。言及箇所を抽く。
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 サルトルは、その文学論において、散文における言葉と詩における言葉をはっきり区別して用いている。彼の言うところによると、散文においては言葉は既成のもので使用されるものであり、詩においては言葉は発見されるもの創り出されるものであるという[…略]彼の意見は、われわれが言葉の便利さに酔って見落しがちな言葉の厄介さというような事について、改めて考えさせる機会を与えてくれているようだ。
    *
 その抒情回復の烽火は、自然主義文学を生んだ同じフランスにおいて、アーベール・ランボオ、ボオドレエルを中心とする象徴派詩人達の中に燃えあがったのであった。彼らは無意識のうちに、散文と詩においては、言葉の次元が違うということを悟っていたに違いない[…略]わが国においても幾多のランボオが出現しその度に抒情の回復が叫ばれたが、その中でも僕の印象に最も強く残っているのは、短歌における斉藤茂吉と、俳句における水原秋櫻子の二人である。

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 アーベールというのが不思議なのだが、重箱の隅を突くつもりは無い、単に誤植と思っておく。耕二は、師の秋櫻子、その秋櫻子が敬愛した茂吉、ランボー、の三者を抒情という糸で繋いで捉えている。これやこの師弟愛も麗しき文学観念と云うべきか。耕二は国文科卒でもあり、西洋文学に深く親しんだ形跡としては「カミュの死」と題する文を発表したくらいのもので他には、あまり見当らない。だが、戦前からの小林秀雄を経由してのランボー、また戦後のサルトルと云えば往年の文学青年には基本中の基本という処だろう。時代である。このような補強材料も揃えてみせつつ耕二が持出すのは、さて、言霊である。次のような具合である。
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 古代におけるわれわれの祖先の言葉に対する考え方を知ろうと思う時、言霊(ことだま)というものを考えずに理解する事はできぬ。われわれの祖先は、言葉というものにある霊妙な力があり、言葉は一つの行為、一つの実現であるという思想を抱いていた。
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 言葉に絶大なる信頼を置いた古代人は、相手が人間であろうと神であろうと、また花や木やその他の自然であろうと構わずに叫びかけ、訴えかけたのである。だから古代人が言葉を使う場合は、すべて祈りという形式をとっている。一つ一つの言葉は、生きた意味をもって自然に、人に訴えかけたのである。この時代の言葉は、もはや祈りか抒情詩かの区別もつかない。万葉集の初期の歌をわれわれが読むとき、言葉が実感としてわれわれの胸に響くのは、やはりそうした古代人の全身的な祈りの姿勢を感ずるからではあるまいか。ここにわれわれは、文学の源泉というものを探り当てるのである。
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 国文科の面目躍如たる風だが、それにしても、広く物事の見通しにおいて上昇史観と下降史観との両極があるとすれば耕二は、どうやら下降派に属する。若年のうちから俳句に手を染めるという時点で大方そんなものだろうと思ってもいいがしかし、福永耕二と云えば、青春。と来る紋切型の連想が巷間に流布していることを感ずるので、カウンター情報も汲み取って置きたいのである。伝統を尊重し、懐かしく起源を振り返り、現代への抵抗感を示し、時に嘆き怒りの調子を帯びる。老いているとも云えるわけだ。いやそれなら、反抗的人間こそ青春の体現者だという逆の云い方もカミュなど思い併せて成立つようだが、それでは安直に過ぎよう。何がと云って反抗期イコール青春といった図式が安直であって、いま話題にしているのは十七歳の人間のことではない。
 尤も、城ガールという社会現象もあるくらいである。尚古の気風と、人格の老成とは、必ずしも等号で結べはしまい。それを云うなら、明治維新が王政復古を掲げたように未来は過去の回帰によって力強く拓かれる、ゆえに古きこそは新しき也という矛盾。このほうが話としては面白いがそれもまた一般論に過ぎて、焦点が耕二から外れる。かくて、少なくとも本人の言を素直に聴く限り、福永耕二の俳句観ひいては言語観は古代の息吹を蔵していることは判るのだが、ここで再び「沈黙の詩型」という標題を頭に入れ直す。沈黙を弁護するためには雄弁に語らねばならない、その逆説はよくあることとして、むしろ着眼したいのは「詩型」という語法である。その語を耕二は必ずしも、俳句形式と云うときの形式の意と同じには、用いていないようだから。
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 俳句は世界中で最も短い詩型である。最も寡黙な詩型である。文学がいよいよ饒舌になろうとしている今日、このような短い詩型が生き残るためには、いま一度俳人が、この沈黙の意味を考えねばならぬと思う。
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 秀れた俳句においては、そのような形式的なきまりや約束事が、全て抒情という一つの目的の為に完全にその働きを行使している。それは形式が内容に仕えているのでも、その逆でもない。沈黙の詩型が沈黙の形式を選んだといった方がいい。形式というものは、それは最初から守るべきものとして定められているものではなく、われわれが用いるために選ぶものである。だから、そのような形式的なきまりや約束事を否定する人がいるとすれば、それはその用途に対して確かな信念がない為か、あるいは俳句というものによって何か別なものを表現しようとしている人達に違いない。俳句を沈黙の詩型とするならば、俳句における形式的なきまりや約束事は、いかに言葉を沈黙させようかと苦しんでいるかのようである。
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 引用の、前半と後半とで、語の位相がずれている。一方では、このような短い詩型…と述べており、他方では、詩型が形式を選んだ…と述べているのだから。喋っていても書いていても言葉を編むうち言葉がついつい横滑りするのは誰にとっても珍しいことでないし、そもそも実相と人間言語とが一対一対応するわけもないのだが、こういう場面でこそ、発言の真意が顕れようというもの。己の信ずる俳句の正統性を主張する意図が、耕二にはある。結論は既に定まっている。あとは、如何に説得力を持たせられるか。学堂における議論と法廷における弁論とは別のもので、耕二は、ランボーや言霊を証拠調べに供し、弁論をしている。
 後半のほうの詩型という云い方は、俳句以前のこと、詩以前のことから考え直そうとした痕跡である。考えてみれば当り前だが俳句自身の中から俳句の根拠を、与えることは出来ない。外国旅行中の日本人がパスポートを紛失するとその日本人は、一時的にせよ、自身まるごとを紛失する。じつは国内でも似たようなものである。自己の確証は必ず自己の外部に頼って行われるほかない。その意味では、今こうしているように日本語を論じるのに日本語を使ってどうするという気分になっても来るのだがともあれ、「沈黙の詩型」の耕二は、用語の混乱をも辞さないほど誠実に、所信を述べた。これは論文であるよりも弁明にずっと近い。再び妙にソクラテスの気配がするが、思い切って断じよう、ここでの耕二は信念の一点張りなのである。検討をするよりも、力説をしている。接してみればみるほど福永耕二とは、信仰者である。ゆえに強い。そうした感を深くする。
 強靭な文章は、よく抑え込んだ憤懣から生ずる。そう粗っぽく云ってみて良いとして、つねづね気になるのは、俳句と俳句論との位置関係である。「句と評論」と称して雑誌の名になるくらいであって、一般に作品と批評とは切り離し難い関係にあるとは通例の見方だが、それにしてはどうも、俳句は、論と相性の悪い色調を帯びている。時代風潮のことを抜きにしてもそのような傾きがある。何故か。
 松のことは松に習い竹のことは竹に習うから。短すぎるため変に深読みしても詰らない気になるから。立派な人は理屈を捏ねないという通念が日本に根付いているから。佳い俳句は解釈を超えた地平に成立するものだから。天然自然が人間的な意味を持たない以上それを詠む句もまた無意味で当り前だから。
 さまざまに言挙げすることは出来るけれども、殊に四番目のなど理由になっていないが、結局、ジャンルはどうあれ世の中には面白い言語使用と面白くない言語使用とがあるばかりだ、という甚だ面白くない結論に引き摺り込まれそうである。ジャンルと云うか。それならば俳句の、俳句にのみ具わる価値とやらを納得出来るよう示してみろ。そう詰め寄られたとき、窮した挙句、そっと、句そのものを差出すに勝る手段は、無いのだろうか。はしなくも今、挙句という語が零れ出た。
 評論、批評、随想、小感そのほか呼び方は何でも構わないが俳句にまつわる散文活動というものの意義を捉えたい。意義の有無ではなく、意義の相を納得したい。ビジネスとして見れば、権威と、啓蒙書と、自費出版の句集とだけで以て俳句世界は成立つだろう。藝術運動として見れば、ごく僅かの花形俳人と、論評と、ゴシップとだけで以てやはり成立つだろう。遊戯として見れば…。政治として見れば…。教養として見れば…。 文化装置として見れば…。
 見る角度に拠るわけだが何にせよ、そこから逆照射して、この謎めいた俳句というもの自体の意義をも納得し易くなることが、見込める。そもそも俳句に謎など無い、謎めかすから余計に判らなくなるのだという立場を取るならそれも爽快で良い。蛇足として、刻下のわたくしの臆見を記すなら、俳句は一句だけでは藝術たり得ずしかし俳人一個の活動総体は藝術たり得る。
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引用一覧
註1 友岡子郷・平井照敏・矢島渚男・森田峠・岡本眸・福永耕二/『俳句創作の世界』/有斐閣選書/226頁
註2 福永耕二/「沈黙の詩型」/『福永耕二(俳句・評論・随筆・紀行)』(監修)水原春郎・能村登四郎(編)福永美智子/安楽城出版/118頁 以下の本文中引用すべて同じ
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本文中に直接用いなかったが下記は一つの福永耕二証言として興味深い。
「福永耕二のブログ」
根岸善雄氏講演録
http://blog.livedoor.jp/fukunaga_kouji/archives/1048500010.html

【筑紫磐井の鑑賞と批評】

①冒頭の購入した古本の挿話から始まっているが、私はこれはフィクションであろうと思っている。しかし評論を読みやすくするためには一つの技術であり、これはこれで面白いと思う。ただ、冒頭に掲げられている感想は、古本の持ち主の感想ではなく、平野氏の感想と視点を定めて読んでみることにした。

②福永耕二の代表的な評論に、昭和三十六年の「沈黙の詩型」と昭和五十二年の「俳句は姿勢」がある。どちらかといえば、後者がよく知られている。耕二が俳壇的に知られるようになって書かれたものであるし、その3年後に急逝しているから、耕二を知る人たちには哀惜の念が強いのだろう。確かに、耕二伝説と、「俳句は姿勢」はマッチする者がある。しかしそこは、筆者の見識で選んだのが前者の評論であるからこれをとがめるわけにはいかない。
ただそれでも、共通する部分がないわけではないし、「沈黙の詩型」だけで耕二を語りきってしてしまうのはちょっと残念である。ここでは、筆者の見識に敬意を表しておくが、福永耕二論としてまとめるにあたっては課題を留保しておくことにしよう。
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あえて筆者が書いていないことについて補足させていただく。今後の福永耕二論として役に立つかもしれないからである。昭和五十二年の「俳句は姿勢」は「沖」7周年記念号に、記念論文特集として掲載されたものである。当時「沖」は、「沖の評論」を誇示していたところから、評論に達者な中堅・若手に執筆を依頼したものである。この時掲載されたのは5編あり、このほかは、今瀬剛一「打てばひびく抒情詩」、渡辺昭「有季定型の孤独」、大畑善昭「無の有の詩」、筑紫磐井「前衛への回帰」であり、当時の沖の論壇の雰囲気が伝わるかもしれない。私にしても福永耕二と場を並べた懐かしい記憶である。
「俳句は姿勢」はまさにこの題名通りの内容なのであるが、その内容は、若い友人と相馬遷子の対比である。俳句雑誌で頭角を現していた友人Hがある日急逝する。後から重い病気であったことを知るのだが、死ぬ直前まで死ぬことを思わせない吟行作品を詠んでいた。相馬遷子は知られるように医師であり、自分の死を見つめる俳句を最後まで読み続けた人である。こうした対比の中で、Hにとって俳句とは何であったのかと問うことにより「俳句は姿勢」という言葉が出てくるのである(私はこの友人Hも、平野氏の話同様フィクションではないかと思っている)。
その意味では、筆者が「沈黙の詩型」に社会性俳句に対する批判を感じ取っていたにもかかわらず、「俳句は姿勢」は社会や人生から切り離された俳句に対する懐疑に満ちている。相馬遷子自身が社会性俳句や人生派的色彩を持っていたからである。耕二はそんな遷子に共感を寄せていた。
馬酔木の若手座談会で、若い作家は右顧左眄しないで正しいと思った俳句を詠み、選者をこちらに向かせることが必要だと述べているのに対し、そんなことが出来るのは耕二ぐらいであると皆から袋叩きにあって「そうかなあ」と自信投げにこたえている。社会性俳句とは言わないが、従前の馬酔木俳句のきれいごとにとどまらない俳句は一貫して持っていたのではないか。
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冒頭にのべたように執筆の3年後に耕二が急逝しているということが評論「俳句は姿勢」に重要な価値を持つのは、相馬遷子がなくなりその回想を記しているという点にある。
伝えられるところによれば、水原秋桜子の病気、それに伴う堀口星眠の選者代行(その後主宰継承)、耕二の編集長更迭、耕二の病死と続くシークエンスを何の不思議もなく悲劇と受け入れられているのだが、最近ちょっと違うのではないかと考えるようになった。星眠が主宰となった時点で秋桜子に忠実な耕二は害にこそなれ益にはならないと考えたことは合理的と考えるからである。秋桜子の文学理念が星眠の文学理念に変わるためには、つまり馬酔木が新生するためには、編集長が交代しなければならない。それがわからない耕二ではなかったと思われる。これを踏まえれば、新しい耕二の立ち位置も十分考えられたはずである。編集長を交代したことぐらいでなぜ耕二は死なねばならないのか、不思議でならない。筆者の同結社の先輩の仲元司『墓碑はるかなり――福永耕二論』もこうした点でやはり疑問が残される。二つの相異なる立場の伝承は、必ずしも一方の立場に偏らず、冷静に見た方がいいかもしれない。
むしろ結社の経営として悲劇であったことは肯える。対立を調停できる相馬遷子が星眠、耕二に先立つだけではなく、秋桜子に先立ってなくなってしまったからである。遷子はそれくらい人格者であり、馬酔木における存在意義は大きかったのだ。その後の馬酔木の混乱、耕二の悲劇伝説はここに始まるのではないか。こうして耕二は、今に至るまで悲劇に封じ込められた伝説の中で生きているのである。

③余計なことを述べたようだが、耕二の悲劇伝説をいったん断ち切るためには、従来の伝説も断ち切らなければならない。その意味では、「俳句は姿勢」を切り捨て、「沈黙の詩型」に注目するのは一つの見識であると思う。そしてここに浮かび上がるのは、「俳句は姿勢」時代の悲劇的な雰囲気とは違う、青春(23歳)の中に生きている明るい葛藤なのである。いや、暗くてもよい、未来の匂い立つ試行錯誤なのである。

英国Haiku便り(11)  小野裕三


[小野氏の了承を得て、今回から月1回の連載となります]
俳文とペチャクチャ

 ときおり、思いもかけない日本語が英語に定着していることに出くわして驚くことがある。
 先日、「自伝」をテーマとしたセミナーに参加した。博士号を持つ男性が登壇し、ドゥルーズなどの哲学者に言及しつつ話を進める。難しい話だなあ、と思って聞いていると、突然、「ハイバンという日本語があります」と話し始めた。ハイバン? 廃盤? などと思ってよく聞くと、俳文(Haibun)のことらしい。それは俳句と哲学的思索の文章の組み合わせであり、芭蕉もそれを書いた、みたいな説明をしている。彼自身も、実際にHaikuまで作って俳文を書いたようだ。
 このような日本語の英語への移植には、一種の誇張や神秘化がつきまといがちだ。Haibunについての彼の説明も、聞いていてなんだかこっちが照れ臭くなった。しかし、このような誇張も必ずしも悪いものではないのかも、と最近思った。
 というのも、最近出会った英語化した日本語のひとつに「ぺチャクチャ(pecha kucha)」がある。ある集まりに参加したところ、「事前にペチャクチャの素材を準備してください」と言われた。ペチャクチャって、ひょっとして日本語? そう思い、意味や語源を調べてみた。長年日本に住む二人の西洋人の建築家が、あるイベントを2003年に東京で企画した。建築家やデザイナーが集まり、コンピューター画面のスライドでお互いの活動をプレゼンテーションする、というもの。だが、建築家などの話は長くなりがちだ。そう危惧した彼らは、計20枚のスライドを一枚ずつ20秒ごとに自動的に切り替え、発言者はその制限時間内でスピーチをする、というルールを作った。聴衆も、ビールなどを片手に気軽にスピーチを聴く。このユニークな形式のプレゼンテーションを彼らは日本語から借用して「ペチャクチャ」と名付けた。この新しいスタイルはすぐに世界中に広まった。「プレゼンテーション」という堅苦しい言葉にはない気軽さや楽しさや仲間、といったニュアンスが「ペチャクチャ」にはある。推測だが、この発案者たちも長年の日本暮らしの中で、「ペチャクチャ」の持つそんな雰囲気を感じ取っていたのだろう。その雰囲気をあえて誇張して英語に導入することで、彼らはまったく新しいコミュニケーションのスタイルを創出した、とも言える。
 だとすれば、HaikuやHaibunはどうだろう。それがいささか誇張・神秘化されて英語に導入されることで、かえってまったく新しい文化的価値を英語圏において作り出す可能性がないとは言えまい。仮にHaibunという形式が誇張されて導入された結果、哲学と詩が混交したまったく新しいスタイルを西洋文化に創出するとしたら、それはなんとも痛快ではないか。
(『海原』2019年12月号より転載)

【読み切り】「輝ける日々の橋本喜夫俳句」(句集『潛伏期』より) 豊里友行

 帯文の俳句と中原道夫先生の読み解きにハッとする。

まだ融けぬ二人使(ふたりづかひ)の唇の雪

 二人使(ふたりづかひ)とは、何だろう。
 広辞苑によると第六版によると「死亡の通知にゆく人。二人が一組になって行く。」とある。
 私は、この言葉から共に生きている二人の唇を、連想して誤読していた。
 二人の掛け合いは、この唇から生まれる。
 その会話の言葉の一語一語は、シャボン玉みたいにキラキラと儚くも美しく宇宙(そら)を輝かす。
 だがこの俳句の上五には、「まだ融けぬ」があり、そして最後の「唇の雪」で、ふっと現実に引き戻される。
 唇に焦点を当てたクローズアップ手法。
 この句の世界は、死を告げるための二人の使者の唇の雪が、まだ融けずに刻々と未来の死へと歩んでいく。

やや寒し橋本喜夫妻由美子

 二人の会話(掛け合い)は、いうなれば花。
 花やかに風と戯れ、月や太陽の光を一身に浴びている二人の人生の惜別の使者がひたひたと忍び寄るようだ。
 降り注ぐ雪は、まばゆく世界を真っ白な未知の地球(ほし)の白いページへ誘う。
 宮沢賢治の妹への惜別の詩「永訣の朝」が、静寂に二人の会話を永遠にとどめたのを思い出す。
 体からしだいに熱と光を奪うはずの雪は、静かにめぐりめぐる日々の回想の翼を剥ぎ取り、読み手を白いページに佇ませる。

問診は相聞に似て百千鳥

 愛するってなんだろうっ。
 万葉集の相聞。
 相聞(そうもん)とは、互いに安否を問って消息を通じ合うという意味の言葉。
雑歌・挽歌とともに『万葉集』の三大部立を構成する要素の1つ。
 橋本喜夫さんの医師としての気遣い。
 俳句にもその真摯な姿勢が、終始、垣間見れる。

 共鳴句の中にも日々の日常が日記のように綴られている。
 観察眼が詩的表現の言葉に磨きをかけて光る。

天眼をとり落としたる雪達磨
さみしくて死ぬことのあり白兎
寒蜆かすかに動きたる銀河
青蜥蜴緑(アク)柱石(アマリン)の中に死す
美しき日本でありしころの羽子
ふらここの月夜に弦を垂らしけり
新聞に巻かれ新巻鮭しづか
放置自転車春光を放つなり
寒昴燈さねば家なきごとし


 あとがきで橋本さんの言葉が感謝しきれない感謝を綴る。

「今回第二句集を纏めるにあたり、自分の句を俯瞰的に読むと、なんでこんなに暗くて深刻な俳句が多いのだろうとすこし呆れてしまいます。ただ、この期間になんとか正常な精神状態で仕事をこなし、生きて来られたのも、俳句が生身の私の身代わりになって、慟哭してくれたお陰かもしれないと思うようになりました。そういう意味では俳句という文芸、そして俳句を通じて知り合った友人たちには、感謝しても感謝しきれません。」

 句集『潛伏期』の妻への橋本喜夫俳句は、まだ心の中でも融けずに二人の唇の雪があるのかもしれない。

春暁や運河のやうに眠るひと
海明や妻の口歌(くつうた)みな挽歌
着ぶくれて喪主はあたふたするものか
去年今年燃費の悪いひととゐる
病む妻に泪拭かるる明易し
食べられぬ妻に新米すすめたる
葱を切る女をけふの神とする


 新型コロナウイルスの感染拡大防止のため私も冬籠りをするようにウイルス籠り(ステイ・ホーム)の日々を過ごしてみて日々を丁寧に生きたいと思えた。
 句集『潛伏期』(橋本喜夫)の愛に触れて、この橋本喜夫俳句に忍び寄る死は、誰もが抱えている心の奥底に潜む二人の使者なのかもしれない。
 やはり1人者の私には、愛とは何なのか答えが解けないでいる。
 俳句のというか人生の先輩は、真摯に人生に向き合い、愛に向き合い、死に向き合う。
私には、二人使の句を誤読してしまうくらいに死は漠然としたものだった。
 誕生も死も私たちの出会う人間交差点で大切な人生の財産になる道程にある。
 人生は、いつも何かの潛伏期なのだろうか。
 それが死というものへの結末だとしても人類は、愛という果実を成しながらめぐりめぐる生きていく道を歩み続ける。
 この句集に流れている死への不安を乗り越えていくための道程は、やはり橋本喜夫俳句という生きざまだ。
 喜びも悲しみも共に生きてきた橋本喜夫さんの愛は、出逢うならば惜別までも俳句の果実と成す。
 橋本喜夫俳句に出会えて良かった。
 花のある俳句だけでなく落花の余韻まできちんと詠める愛は、輝ける日々が宿し、悩み苦しみ、そして喜びを噛み締めて成長してきた人間にしか見えない世界なのかもしれない。
 共鳴句をいただきます。

薔薇匂ふいつも何かの潛伏期
母泣かすことのたやすき花御堂
彗星の尾にゐるごとく涼むなり
菜虫とりNASAの研究費をけずる
かまいたち綺麗に縫って泣かれけり
春暁やいつか遺品となる眼鏡
告知して下さいますか春の月
父の日や代はりに犬が叱られる
春の夜の折鶴胸に置き飛ばず
こころとは顔のなきもの心太
藤椅子やどこへも行かぬことも旅
湯冷めして何やらレトルトの気分
口を出て毬歌われのものならず
リラ匂ふなかを黒衣の列すすむ
わが死後を廻りつづける扇風機
嫌われてしまへば無敵なるカンナ
螢烏賊ほどの肉欲ありにけり
手花火のこんな近くにゐてはるか
深雪晴こんなしづかに列車混む
人間に生き腐れある春炬燵
白酒やひとりの声を肴とす




【新連載・俳句の新展開】[予告]皐月句会メンバーについて

 超結社の皐月句会は第1回を終了し、現在第2回が進行中です。
 皐月句会の原始メンバーは37人ですが、第1回の成果を踏まえて参加の意向を示されている方が出始めております。ついては今後の検討のため、希望される方は筑紫までご相談ください。予定はまだ立っていませんが、新しい環境の中でネット句会も見直されていると考えています。
筑紫磐井