●鑑賞・書評・評論・エッセイ
【戦後俳句を読む】
- <エッセイ・評論>大井恒行の日日彼是 ≫読む
読んでなるほど!詩歌・芸術のよもやま話大井恒行ブログ更新中!!
竹岡一郎 (「鷹」同人)蟹星雲産んで溽暑のとほき股
安里琉太(1994年沖縄県生まれ。銀化会員、群青創刊同人。琉球大学俳句研究会a la carte会員、俳人協会会員、沖縄俳句協会庶務。第九回おきなわ文学賞俳句部門第一席、第二回俳句四季新人奨励賞等。)手花火や峡の真闇に背をあづけ
大井恒行みょうに明るき晩年はやし夏鏡
堀下翔 (「里」「群青」)指先に汗かいてゐる碁なりけり
水岩瞳少年傾ぐ黒きカバンのありて夏至
寺田人(「H2O」「ふらここ」「くかいぷ」「くかいぷち」)ヲルガンの呼気で歌へり聖五月
川嶋ぱんだ(「ふらここ」)少年の紐だらしなく持つ金魚
島津雅子(1994年生。北海道出身東京都在住。)木苺は纏足脱がすごとく摘む
終るまで男は河東舞燈籠 「俳句」平成元年11月号
半道に五里八幡や秋まつり 「朝日新聞」〃10月13日夕刊
梅川か柳か羽織落しけり 「俳句」平成2年3月号
伊勢るまで待ちて業平蜆かな 〃 4月号
在庵に定家煮つけるついりかな 〃 6月号
一句鑑賞者は仁平勝。その一文の冒頭には「たとえば固有名詞をそのまま動詞化してしまう芸は郁乎の専売特許だ。
かつては『虹りゆく朝半宵丁にセザンヌるかな』『牡丹ていつくに蕪村ずること二三片』『句じるまみだらのマリアと写楽り』といった名句がわたしたちを狂喜させたが、このたびは『伊勢る』ときた。イセルといえば、逢引などで相手を待たせてイライラさせたり、じらしたりすることだが、『伊勢る』となれば当然そこにいわく俳諧的な転義が成立する。業平を呼び出すための面影をつくることだ。/業平蜆は、江戸本所の業平橋近くでとれる蜆で古くよりの名物である。こちらは転義という以前に、俳句という文芸で『業平蜆』とくればそのモチーフはどうしたって『業平』の名前だ。古川柳に『業平は煮られ喜撰は煎じられ』の句があって、つまり『業平』は蜆で、『喜撰』は茶だが、ようは六歌仙が煮られたり煎じられたりするところにおかし味がある」。次の段では「伊勢の留守という言葉がある。夫を伊勢参りに送り出して、女房が一人家にいるのだが、この瑠中に間男すると神罰が当たるそうだ。『いせの留守一と思案していやといふ』という柳句もある。となると『伊勢る』とは亭主が伊勢参りに出かけることだとする解が、がぜん生き生きと浮かび出てくる。男を引き入れたいが罰にあたるのもいやだから、色男の名をもじって蜆でがまんしようというのかもしれない。(中略)/ひとついい残したが、伊勢魔羅といって伊勢の男のモノは極上であるらしい」と結んでいる。
1.「BLOG俳句新空間」は雑誌「俳句新空間」(年2回刊)と密接な関係をもって編集・更新。
2.更新
管理業務の負担軽減のため隔週更新。ただし誌面構成上は予約機能を使って出来るだけ従来の毎週更新に近い外見を維持。
3.記事内容
記事内容は次の通り。
①作品
歳旦帖・春興帖・花鳥篇・夏興帖・秋興帖・冬興帖で構成。
(→雑誌「俳句新空間」に転載)
②連載・「俳句を読む」
物故戦後俳人論・戦後生れ俳人論・俳句時評・上梓句集特集
③特別企画:こもろ日盛り俳句祭・芝不器男賞などの俳句イベントとの機動的連携
④特別企画:現代詩等との相互交流に関する記事 (主として「詩客」とのリンク記事)
⑤編集後記と広告
4.以上の記事は、随時3詩型交流企画「詩客」と記事を相互にリンク。
5.「詩客」「BLOG俳句空間」の記事と「BLOG俳句新空間」の記事(特に評論関係、「戦後俳句を読む」)は常に一覧可能なアーカイブを構成するよう今後開発を進めたい。
ことにはるかに傘差しひらくアジアかな 「鳥子」佳句も変な句も悉く並べてみた。私は、攝津の最初の傘の句が、ひどく好きだ。
月曜の日傘よ鶏が鳴いてます 「與野情話」
傘新たに金曜をさす二階かな 〃
日常のかうもり傘のみ発展す 〃
絵日傘のうしろ奪はれやすきかな 〃
片時雨日傘の内なる貴人かな 〃
生み継ぎぬ畳のへりにや西洋傘 〃
雨の日は傘の内なり愛国者 〃
しじみ狩る少女の日傘や赤毛かげり
傘売りにたまたま頭蓋応じけり 「鳥屋」
傘さして相模の恋をつらぬけり 〃
してゐる冬の傘屋も淋しい声を上ぐ 〃
疲れ勃つ傘屋の奥の波止場かな 〃
繰返し戦後の傘屋残りけり 〃
人多き戦後の奈良に傘を干す 「鸚母集」
傘さして馬酔木見し人隠さるゝ 「陸々集」
春雨を男傘にてをみな受く 〃
「蹲(うづくまる)」パラソル白き女欲し 「鹿々集」
鹿皮を隠しとほしぬ春日傘 〃
蛇の目傘会社の影を纏ひけり 「四五一句」
春日傘大和にいくつ女坂 〃
番傘の精神のとこ破れけり 〃
ことにはるかに傘差しひらくアジアかな
月曜の日傘よ鶏が鳴いてます
傘新たに金曜をさす二階かな
日常のかうもり傘のみ発展すシュルレアリスムの技法に「デペイズマン」(異郷の地に送る事、という意)がある。意外な組み合わせによって受け手を驚かせ、途方に暮れさせるやり方だ。(同じく、デペイズマンの技法を四人で行うものに、有名な「優美な屍骸」がある。四人がそれぞれ何を書いているかを知らせずに、一つの文章の一つずつのパートを書く。最初にこのゲームを始めた時、出来上がった文章が「優美な屍骸は新しい葡萄酒を飲むだろう。」であったため、前述の名称で呼ばれるようになった技法。)
生み継ぎぬ畳のへりにや西洋傘この句もわざわざ「西洋傘」と断っているのは意味があるのだろうと思う。これもやはり攝津らしい「シュルレアリスム宣言」であって、古き良き日常の日本を象徴する「畳」のへり、端っこに、(西洋傘を媒介して)生み継ぐものは、デペイズマンの技法、と言いたかったか。
絵日傘のうしろ奪はわれやすきかな冒頭の「アジア」の句でも、傘を差しひらくのは妙齢の女性であって欲しいと思うが、掲句はますますそう思わせる。「うしろ奪はれやすき」とは、触れなば落ちむ、の風情ではないか。絵日傘なら尚のこと、後ろから抱きすくめられそうな姿である。攝津が好きだったアラーキーの写真に出てくるような女を思わせる。「かな」の慨嘆が、実に利いている。
しじみ狩る少女の日傘や赤毛かげり潮干狩の少女であろう。赤毛の少女といえば、「赤毛のアン」を思う。活発でお転婆な、寄る辺ない孤児である。小さな貝である蜆を狩る行為からは、暗喩といえども少女のエロティシズムが、かなり露わに描かれている。
傘さして相模の恋をつらぬけり相模というと、今の神奈川の川崎、横浜を除く全域で、かなり範囲が広い。神奈川の一寸お洒落な感じが合うといえば合うだろうが、それよりも「相模」なる地名は「傘」との韻の関係で選ばれたのだろう。それでも、何となく鎌倉あたりの海近い雰囲気は伝わる。「つらぬけり」であるから、恋に一途な女か。ここでは、傘と恋(エロティシズム)の関係がはっきりと出されている。
してゐる冬の傘屋も淋しい声を上ぐ恐らくは性行為を「している」傘屋、その傘屋は多分男だろう。「も」とあるからだ。女は嬌声を上げ、男「も」声を上げる。男の声は女の声とは違って「淋しい」。男は生殖が終われば、もはや用済みだからだ。種を繁栄させ、子に愛されるのは、ほとんど女の特権である。「冬」が利いている。男は行為の最中も、心が寒い。行為が終わった瞬間から、もっと寒い。掲句、男なる性に対して容赦ない句である。
疲れ勃つ傘屋の奥の波止場かな海際にある傘屋で、店兼住居の奥が、直ぐ波打ち返す波止場とは如何にも淋しい。波止場は「疲れ勃つ」ときの傘屋の心の「奥」にある心象風景かもしれぬ。疲れても生物の義務に忠実に勃起する傘屋の、心が佇つのは波止場で、こんな淋しい空しい波止場なら、当然、加藤郁乎の「冬の波冬の波止場に来て返す」を踏まえている筈だ。読者が、郁乎の高名な句を思う事を前提に、掲句の上五中七は全力で、男にとって「冬」とは何かを表現している。冬とは、「疲れ勃つ傘屋の奥」である。
繰返し戦後の傘屋残りけりしかし、傘屋は常に生き残る。同じ傘屋とは限らないが。「繰り返し」とは、「戦後」という語と組み合わさると、戦争やら何やらで繰り返し死んでは生まれ変わるという事か、或いは傘屋という職業が、戦争の終結の度、主または店舗を変えながら生き残るという事か。「傘屋」に男性なるものの暗喩を読めば、味わい深い。
人多き戦後の奈良に傘を干す奈良は文化財保護の関係か、軍需工場がなかったせいか、或いは人口が少なかったためか、大阪や名古屋、東京に比べれば、空襲はかなり少なかった。だから、人が多いのである、と「戦後」なる語の意味を解釈したが、単に観光客が多いという見方も有りである。これも妙な句で、傘を干しているのは作者か、奈良の住人か、それとも奈良の傘屋か判然としないが、傘屋と取ると一番おもしろい。傘を干すのは、傘の元気回復の為だ。
「蹲(うづくまる)」パラソル白き女欲し「蹲」をつくばい、茶庭にある手水鉢と取るなら、そこにアラーキーの撮るような女が白いパラソルを肩に掛けて、或いは白い着物などを着て、うずくまっていて欲しいのである。そうすれば、一層絵になるなあ、と攝津は考えたのだろう。
春日傘大和にいくつ女坂
蛇の目傘会社の影を纏ひけりどう解釈すればよいのか、途方に暮れる。そして、受け手を途方に暮れさせるのが、先に挙げたデペイズマンの技法の目的であるなら。
番傘の精神のとこ破れけり「とこ」とは、処だろうか。それとも「床」だろうか。処なら、デペイズマンの精神の破綻という意味になるし、床なら女と同衾の果、傘屋ついに疲れ破れたりということだろうか。攝津のデペイズマン且つ傘の内なる女の到達した処は、蝙蝠傘でも、西洋傘でもない、日本の軽き良き番傘だった、と、掲句の如く、苦しく結んでおく。
寂しいと叫ぶには/僕はあまりにくだらない(星野源「くせのうた」)
ところで、ぼくの机の抽斗から、世界に一冊しかない、という貴重な句集が出てきた。宮崎大地句集『木の子』である。便箋二十枚に万年筆で書かれた句集は、前田弘に贈呈されている。昭和43年、高校二年の時に「歯車」に登場、48年(正しくは49年―外山注)に退会するまでの5年間、十代後半から二十代初めの若き日の作品から自選したものである。ひとときの光芒とはいえ、当時の会員に大きな刺激と活力を与えたことは間違いない。佐藤弘明、永井陽子、萩澤克子、橋口等、林桂、宮川妙子などは、自らを大地惑星と称していた。(「編集雑記」)
いまだから言うが、この「五十句競作」を企画したとき、せめて第一回だけは多少の成功を収めたいと思い、まず入選第一席に推すべき一人の青年を、あらかじめ用意していたのであった。たまたま僕は、本誌主催の全国俳句大会の応募者の中に、かなり出色と思われる若い才能を見出し、あとで個人的に作品の提出を求めた結果、すでに百句以上を手元に持っていたのである。そこから既成作家の影響が表面に残っているものを避けながら五十句を選び出しさえすれば、それだけで充分に入選作として推す価値はあった。しかし、その二十歳ほどの青年は、それを選句の暴力と言い、彼の自選五十句でなければ嫌だと頑張り、遂に応募を断念してしまった。(「俳壇時評」『俳句研究』一九七七・五)
七月へ爪はひづめとして育つ
なはとびの少女おびただしき少女
てふてふよおまへが好きと飼ひ殺す
奈良に來て悲鳴に似たる柿一つ
死にたれば桃の地獄や二日月
葉櫻の沖をかすれて母の文字
長岡を語る時には、二つのエピソードが邪魔をする。
一、重信撰「俳句研究」第一回五十句競作佳作第一席。
二、1994年郁乎撰年間秀句ベスト5に入る。
(略)
この原稿を書くにあたって僕が少しだけ有利なのは、長岡裕一郎自身の伝説を無視しやすい事。よく知らないということも、作品を読むだけに専念しやすい、という意味では悪いことではない。
(西村麒麟「色々過ぎ去ったあとで」『豈』二〇一四・七)
タンポポのポポンと今日は人に会う
Aの木にBの鳥ゐるうるはしや
わが夏の快楽(けらく)や蝶を見て死なむ
けんけんの花野健忘症の鳥
ジパングも黄泉も黄金や蝶の春
戴冠の我が名をきざむ大地かな
「五十句競作」にうかうかと応じたことだけでも僕は十分に眩しかったのだ。僕は十分に大地氏の後方を歩いていた。それ故に眩しかったのだ。しかし、応じてしまった以上、大地氏を追いつめるためにも、大地氏のやさしさに答えるためにも、僕に残された道は、逆に何らかの形で「五十句競作」に拘り続けることによってしかないのであった。(略)しかし、いまやそれもほとんど困難な状況になってきてしまった。一つに、僕はかつての大地氏の年齢を越えてしまい、そのことが今までの方法で大地氏に拘ることを、難しくしてしまったこともあろう。
僕は書き続けよう。僕を先行する月彦氏も達治氏も(藤原月彦、大屋達治―外山注)、かつての大地氏の年齢を行き過ぎて、行き悩んでいる。「銅の時代」の次に来るものは「鉄の時代」ではなく、「鉛の時代」である。その時必要なのは、寡黙になることではなく、自分の存在を確かめるためにも、たとえば叫ぶことである。俳句形式をみつめ続け、自分をみつめ続け、状況をみつめ続け、これを一つのこととしてみつめ続け、その過重と晦渋の中で、しっかり己れを持ち続けなければ、すべて消えてしまう時代である。今僕に必要なのはそのための明確な認識であろう。そしてそのためにも、さようなら、大地氏。
一、古き土地より手つかずの明日に追ひつき枯野かな
二、即興劇
三、カタストロフィと音楽息をしてゐたのは金魚秋の窓
四、映画のベルが鳴る前に
五、蜜色の手、おだやかな息
あとがき
「能村登四郎氏が水谷晴光氏の法隆寺四句を、馬酔木調の綺麗事で現代的な匂ひが乏しいとし、斯かる新古典派的魅力を現代の若い作家が追ふのはどうかといひ乍ら、今後の馬酔木の句は斯くあるべしとして『しらたまの飯に酢をうつ春祭』の句を挙げてゐるのは合点がゆかない。この句や能村氏自身の『ぬばたまの黒飴さわ(ママ)に良寛忌』の方がかへつて法隆寺の句よりも非現代的と、僕などには思へる。かういふ考へが新人会あたりで不思議とされないのだつたらこれは問題であらう。」
(「仰臥日記」――「馬酔木」24年3月)
「この「法隆寺」の連作の一聯は、月明の法隆寺の参籠と言ふアトマスフェアに凭れかかつてゐるだけで、この恵まれたモチーフを十分生かしてゐない。私はこの種の作品は昭和十二、三年頃にこそ魅力も価値もあつたが今の苛烈な世相の中でそれがうすれつつあり、やがては全く過去のものとなるであらうと考へる。
関西から「天狼」が生まれ複雑な戦後の俳壇の潮は又一つうねりを加へて来てゐる。馬酔木の若い私たちはそれらを一種の昂奮に似た気持で眺めてゐるのであるが、そのうねりを私達よりも近くに見てゐる名古屋の若い作者諸君に、私はもつと現代色の濃い作品を詠んでもらひたいのである。
俳壇で言はれる馬酔木調と言ふものは、根強いものに欠けた綺麗事の句を指摘したものであるが、この作品は遺憾ながらその譏りを受けさうな気がする。
私はこの句の持つ豊饒さに敬服し、今後の馬酔木の句はかくあるべきだと思つてゐるほどで、晴光君にはこの作よりも遥かに佳いものを期待してやまない。」
(「馬酔木」24年1月)
しらたまの飯に酢をうつ春祭
法隆寺
松籟にこころかたむけ月を待つ
十六夜の脇戸くぐるや苔匂ふ
坊更けてはばかり歩む月の縁
勤行に参ずる暁の霧ふかきつまり、水谷の巻頭句である法隆寺4句に対し、登四郎は
しらたまの飯に酢をうつ春祭(23年6月3席)をよしとし、この句の持つ豊饒さに敬服した(逆に言えば、法隆寺の作品は根強いものに欠けた綺麗事の句であり全く過去のものとなるであろう作品、これに対し、白玉の句はもつとの苛烈な世相に堪え得る現代色の濃い作品)と述べたのである(「しらたま」の句は23年6月の3席句で秋桜子の推薦句。秋桜子は「酢をうつ」という言葉は俗であり、「しらたまの飯に」という言葉と本来は調子が合わないはずであるが、そこが言葉の生きものであるところで、巧みに配合すれば雅語と俗語がこのようによく調和する、この調和の魔術を心得ているのが詩人なのである)と激賞した)。
しらたまの飯に酢をうつ春祭
ぬばたまの黒飴さはに良寛忌ともども法隆寺の句よりも非現代的と思える、と述べている。
「私が清瀬村で療養の日を送つてゐた頃、馬酔木には、能村登四郎、林翔、藤田湘子の三新人が登場して、戦後馬酔木俳句のになひ手として活躍してゐた。然し馬酔木に復帰して間もなかつた私は能村氏の、の句が、馬酔木で高く認められ、新人達の間でも刺戟的な評価を得てゐるのを見て奇異の感にうたれた。
「黒飴さはに」の語句に、戦後の窮乏を裏書きする生活的現実がとりあげられてゐる。それだけに、これらの句の情趣や繊細な叙法は、趣味的にすぎて戦後の俳句をうち樹てるべき新人の仕事とは思へなかつた。私は手術をしても排菌が止らず絶望の底に沈んでゐたが、これらの句を馬酔木の新人達が肯定し追随する危険を、馬酔木誌上に書き送らずにはゐられなかつた。
その頃の句はこの句集には収められてゐない。私が、今これらの句に触れたのは能村氏には快くないかもしれない。が、たとへその句は埋没しても、その中を通つてきた事実は、能村氏の俳句の内的体験として、後の俳句に何らかの影響(反作用であつても)をのこしてゐると思ふ。」
(石田波郷『咀嚼音』跋文)
ぬばたまの黒飴さはに良寛忌
「私は有頂天であった。俳句でこのような幸運が得られるとは全く考えたこともなかったからである。ところがこの句には横槍が入った。それは病重く清瀬で呻吟していた石田波郷からであった。当時波郷は未だ「馬酔木」へ復帰していなかった。波郷氏はあの黒飴の句は俳句に必要な具象性を持たない、余りに趣味に溺れた句である。ことに枕詞を使用するなどは、若い生活派といわれる作者のすべきことではない。と難じられたと言うことを「鶴」作家のKからきいた。
相手が尊敬している波郷だっただけに、私はようやく獲た王座から転落していくような気がした。私は俳句の世界が考えていたような甘いものではないことをしみじみと知らされた。」
(「野分の碑」――「馬酔木」41年9月)
「当時未だ「馬酔木」へ復帰しなかった頃の波郷がひどくその句を非難したということを人づてに聞いた。当時波郷という人についてよく知らなかった私は、何とひどい先輩かと恨んだり、一見おだやかな風の吹く俳句の世界にも、こんな足をひっぱるような残酷があるのかと驚かされたほどである。
しかし当時の私にはこの先輩のことばを無視する力はなかった。だから私は極めてすなおにしかも謙虚に反省した。私の作風はこの時から美よりも人間興味に傾いていった。」
(「悪評について」――「南風」43年3月)
「同人の末席についたその時から私は第二の危機にのり上げていくのを感じた。自分の作品についてもっと厳しい批判と反省がなくてはならないと感じた。そんな時に波郷氏のことばが静かによみがえって来た。趣味とした俳句を考えている人は知らないが、少なくとも私は血の滲むような貧しい生活の底から俳句を作っているのだ。当時私は学校の他に夜学を教え、さらにいく人かの家庭教師に自分の持時間のすべてをつかっていた。俳句を作る時間は人の眠る時をつかわなくてはできなかった。そんな中でつくる俳句に生活の実感が流れないのは嘘だ。貧しい自分の現実を確かめ確かめしながら俳句をつくろうとした。」(「野分の碑」――同前)
「改版にあたって気に染まない句を二十句ばかり捨て、初版に洩らした句を三十八句ほど加えた。その中には「ぬばたまの黒飴さはに良寛忌」のような私の思いでふかいものも載せた。二十年という歳月が私にそうしたものを許容させたのかも知れない」
(『定本咀嚼音』後記――昭和49年5月)
「波郷が、5年前に書いた“ぬばたま”批判を、作者の処女句集の跋文であえて繰り返した理由はなんであったか。それは、という波郷推薦の一句に到るまでの、能村さんの成長過程を語るための行文上の手段であったようにも思える。そう思うほうが当たり障りなくて無難である。けれど、私はもっと下賎な推測をはたらかしてしまう。どういう推測か。それは『咀嚼音』の草稿に“ぬばたま”の句も含まれていたからだ、ということである。『咀嚼音』は自選四百五十句を草稿として波郷の閲を乞い、波郷はこれを三百八十余句に削ったと「後記」にある。つまり、波郷が削った七十句足らずの作品の中に“ぬばたま”があった。こんなことは能村さんに訊いてみればすぐ判ることだけど、私はあえて自分の推理を楽しむ。“ぬばたま”の句を見たからこそ、波郷はカチンときて、これに跋文でまず触れたのではあるまいか。下種の勘ぐりと言われるかも知れないが、私はそう思うのである。
もっとも、私がそうした推測をする根拠が全く無いわけではない。能村さんの“ぬばたま”に対する愛着が、とりわけ深いと言うことを感じ取れるからだ。」・・・自註シリーズの『能村登四郎集』に、<秋桜子に褒められたが波郷に難じられた句。これも後に定本の中に加えたのは、とにかく出世作だったからである>とあるのをまつまでもなく、こうした要(かなめ)の句は作者の溺愛をうけるようになっているのだ。『咀嚼音』の草稿に“ぬばたま”が入っていたことは、ほぼ間違いないと思う。」)
(藤田湘子「『咀嚼音』私記」――沖55年10月)
長靴に腰埋め野分の老教師
逢坂の関の清水に影見えて今やひくらむ望月の駒
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41.鐘の音の絡みて震ふ髪を梳く41.は髪に絡んだ鐘の音であり、今回の句は、膝がしらに絡んだ藻である。「絡み藻」は、その形状から抜けた女の髪を思わせるので、仮に、41の続編だとすると、鐘の音の絡みついた髪が「膝がしら」に3日間絡んでいるということになる。その状況だけで充分怪談めいているのだが、それだけではない。「に」の格助詞が句意を怪しくさせているのである。助詞が「の」であれば、「絡み藻」は3日経つと「膝がしら」から離れたことになるが、「に」によって、「三日生きたる」は「膝がしら」に掛かってくる。3日経つと「膝がしら」が死んでしまうような読みも浮上してくる。「絡み藻には」と理解し、前者の解釈も成り立つが、「絡み藻」によって、3日間だけ生きた「膝がしら」は、たとえその後死んでいなくとも、生き生きとしていない状態、死んだような状態であることになる。「膝がしら」にとって「絡み藻」は、3日であっても生きた証なのである。「絡み藻」が髪に象徴される女であり、「膝がしら」が男のものであるとすると、艶かしい話となるが、「絡み藻」が女の髪のみであるので、成仏しない女の怨念が絡みつく「水妖」の世界ともとれる。
もう一漕ぎ 義足の指に藻を噛ませ 鷹女『羊歯地獄』
(前略)一句を書くことは 一片の鱗の剥脱である「自序」で誓った言葉そのものの如き一句であるが、苑子の句との共通点がある。それは「藻」の力である。鷹女は、「指に藻を噛ませ」勢い立つ。苑子は、「膝がしら」に「藻」を絡ませ、3日の生命を与える。そして、二人が尊敬する先達の女流俳人、杉田久女も「藻」の力を信じていたようである。
一片の鱗の剥脱は 生きてゐることの証だと思ふ
一片づつ 一片づつ剥脱して全身赤裸となる日の為に
『生きて 書け―』と心を励ます
春潮に流るる藻あり矢の如く 久女『久女句集』久女の句は、上五中七の平凡で控えめな表現から、下五の「矢の如く」は意表を突く。当時の女流俳人の多くは、台所俳句と呼ばれる類に傾注していた。(そんな中にあって、〈短夜や乳責り泣く子を須可捨焉乎(ステッチマオカ)〉を発表した竹下しづの女も異才を放ち、久女も「花衣」で取り上げている。)久女の句は、昭和4~10年の間の作品であり、自ら創刊し、僅か5号で、昭和7年に廃刊してしまった「花衣」時代に該当するため、久女が俳句に最も奮起していた頃の作品である。「矢」のごとき「藻」は自分自身であろう。〈久女よ。自らの足もとをたゞ一心に耕せ。茨の道を歩め。貧しくとも魂に宝石をちりばめよ。〉の辞を掲げ創刊した頃なのか、〈私もまだへ力足らず二人の子の母としても、又滞りがちの家庭の事情をも、も少し忠実にして見たく存じて居ります。〉と廃刊の辞を述べた頃なのかは判然としないが、久女は、「花衣」廃刊後も俳誌「かりたご」(清原枴道主宰、朝鮮釜山発行)の女性雑詠選者を続けており、昭和8年9月号の文章を抜粋してみる。
いつ迄も無自覚に類型的な内容表現にのみ安心してゐるべきではなく、漫然と男性に模倣追従してゐるばかりでは駄目だと思ひます。女流という自覚の上に立って、自らのよき句境涯をきりひらいてゆく努力勉強がぜひ必要です。
くらがりに藻の匂ひして生身魂 苑子『花隠れ』吟遊以後
3.河の終りへ愛を餌食の鴉らと 『水妖詞館』
6.鴉いま岬を翔ちて陽の裏へ 〃
鴉らよわれも暮色の杉木立 『四季物語』
羊歯刈るや羽づかひ荒き山鴉 『花隠れ』「春燈」時代
(『四季物語』にも所収)
喪を終へて喪へ生涯の鴉らと 鷹女『羊歯地獄』下五が、「鴉らと」置かれ、苑子のように鴉を同志として扱った三橋鷹女の句であるが、上五中七が鷹女らしく意味深長である。この句は、昭和33年に書かれているが、その年「薔薇」を発展的に解消した同人誌「俳句評論」が創刊された。鷹女は、昭和28年に高柳重信に誘われて「薔薇」の同人になっていた。(昭和15年「紺」を退会して以来の俳誌参加であった。)在籍8年の「春燈」を辞して、高柳重信とともに発行所を立ちあげた苑子は勿論であるが、鷹女にとってもまた、新たなる俳句道への覚悟の気持ちの引き締めがあった筈である。
濤狂ふ濤のゆくてに渚無く 鷹女『羊歯地獄』さて、苑子の掲句であるが、他の鴉の句に比べると唯事ではない事が起こっている。以前〈36.狂ひ泣きして熟練の鸚鵡をくびる〉は自らの手で鸚鵡をくびる句であったが、今回は、山鴉が「くびられて」いるのを見ているのである。人は、自分が無惨な行為に堕ちていっている時は、無我夢中であるが、見る側に立った場合、沈着冷静なだけにその無惨さに恐れをなすことがある。「天下真赤なり」という状況はその色彩から鮮血さえもイメージすることができよう。一日が終わる時刻、日輪は沈み、西天を、天が下を血の色に染め上げる。くびられた鴉が西方浄土を彷彿とさせる真赤な西の空にうなだれているのか――。「なり」の言い切りが、客観的な語法を強めながら、山鴉と山鴉を包み囲む山々の黒さと、真赤な夕焼けのコントラストによる、鮮やかな色彩を、非情な美しさとして浮かびあがらせてくるのである。
人を人と思はぬ浜の寒鴉 鈴木真砂女
低く飛ぶ寒鴉敵なく味方なし 津田清子
塔古るぶ気触れの烏棲みつきぬ 福田葉子
万のこと恃みし愚か梅雨鴉 稲垣きくの
熟柿つつく鴉が腐肉つつくかに 橋本多佳子
初雪や鴉の色の狂ふほど 加賀千代女
身を透明に春の鴉が歩き出す 柴田白葉女
落日の巨眼の中に凍てし鴉 赤黄男冒頭の5年前の苑子・重信の墓参の際の鴉は、その後の苑子忌の墓参の折り再びは訪れてはくれない。一度、7月8日の重信忌に行ってみようかなどと思っている。あの鴉の濡羽色が夏富士ともよく似合いそうである。
男らの汚れるまへの祭足袋 飯島晴子『寒晴』
一夜二夜と三笠やさしき魂しづめ夜をこめて哭く言霊の金剛よ海彦も疊を泳ぐ嗚乎高千穂
戦争と女はべつでありたくなし 藤木清子
戦死せり三十二枚の歯をそろへ 〃
黙禱のしづけさ空にとりまかれ 〃
爪噛んで血の出ぬ八月十五日 広美(毬子)私の拙い句を何人かが褒めてくれた。しかし、苑子は選句しなかったので、二次会の席でどう修したら良いのか尋ねると、「修すところは無いと思います。でも私は、戦争の句は作りません。あんなに惨めで屈辱的な思いは二度としたくありません。」―― 静かな口調であったがきっぱりと言った。私なりに、祖父母や父母、俳句教室の先輩達から聞いた話や、映画や小説で感じた思いもあったため、私は苑子の言葉に驚き、落胆した。その様子を見て「あなたに作っていけないとは言っていません。書きたいと思えばお書きなさい。」と笑顔で言ったのであった。現金な私は、(若気の至りである)「はい。作り続けます。私たちの世代が伝えなければならないと思います。」と元気に答えたのである。しかし、その後8月が来るたびに慎重にならざるを得なかった。少なくともこのやり取りが、私に、簡単には戦争の句を作らせない結果となったのである。苑子が選ばなかった拙句は、戦争を知らない世代のひとりよがりで曖昧なだけの句であった。
しろい昼しろい手紙がこつんと来ぬ 清子
白き蛾のゐる一隅へときどきゆく 晴子『蕨手』
白地着て己れよりして霞むかな 苑子『花狩』
荒海や佐渡によこたふ天河 松尾芭蕉『奥の細道』芭蕉が、出雲崎から眺めた佐渡を「海の面ほの暗く、島の形彩雲に見え」と感動し、順徳天皇、日蓮上人、世阿弥など遠流された人たちを思い浮かべ、悲痛な流人の境涯として、佐渡の歴史への回想を込めて詠まれた。
22.行きて睡らずいまは母郷に樹と立つ骨
濠の菱舟むかしむかしの音きします 加藤知世子『太麻由良』佐渡ヶ島を有する新潟県出身の俳人、加藤知世子は、加藤楸邨の妻である。昭和4年、楸邨と結婚後、ともに「馬酔花」で水原秋桜子の選を受け、15年楸邨が「寒雷」を創刊し、同人となる。昭和29年創刊の「女性俳句」発起人の一人である。(明治42年生、昭和61年没、76歳)
横顔の夫と柱が夕焼けて 知世子『冬萠』
稲光り男怒りて額美し 〃 〃
夏痩せ始まる夜は「お母さん」売切です 〃 『朱鷺』
夫婦友なる刻香りけり机上の柚子 〃 『太麻由良』
めをと鳰玉のごとくに身を流す 〃 『菱たがへ』
落葉松はいつ目ざめても雪降りをり 楸邨
寄るや冷えすさるやほのと夢たがへ 知世子
夕顔の闇よりくらき蚊帳に入る 房子『背後』横山房子も夫婦ともに俳人である。房子は昭和10年より「天の川」に投句。吉岡禪寺洞に師事。12年、横山白虹主宰の「自鳴鐘」創刊同人。13年にら白虹と結婚。33年、山口誓子の「天狼」に白虹とともに同人参加。58年、白虹没後「自鳴鐘」主宰継承。
客たちて主婦にあまたの蚊喰鳥 房子『背後』
秋燕駅の時計を子に読ます 〃 〃
夫の咳やまず薔薇喰ふ虫憎む 〃 『侶行』
夕顔の数の吉兆夫に秘す 〃 〃
枯芝に柩の夫を連れ還る 〃 『一揖』
梅寂し人を笑はせるときも 白虹
欄に尼僧と倚りぬ花菖蒲 房子
初泣きや二階の我を夫知らず 知世子『頬杖』
白菊や暗闇にても帯むすぶ 〃 『朱鷺』
納骨のあとの渇きに蟻地獄 房子『一揖』
声出して己はげます石蕗の花 〃 〃
家、家にあらず。次ぐをもて家とす。
秘すれば花なり、秘せずは花なるべからず。花は一年中咲いておらず、咲くべきときを知っている。能役者も時と場を心得て、観客が最も花を求めている時に咲かねばならない、と説いている。
野は雪解越後女は荷が多き 知世子『夢たがへ』
追憶の淵へは行かず螢飛ぶ 房子『一揖』
風落ちて水尾それぞれに月の鴨 苑子『吟遊』