【俳句新空間参加の皆様への告知】

【ピックアップ】

2014年9月26日金曜日

第88号 2014年09月26日 (「BLOG俳句空間――戦後俳句を読む―」終刊号)

「BLOG俳句空間――戦後俳句を読む――」の終刊/「BLOG俳句空間」の創刊について

……筑紫磐井  》読む 

作品
平成二十六年 夏興帖 第五
……竹岡一郎・安里琉太・大井恒行・堀下翔
水岩瞳・寺田人・川嶋ぱんだ・島津雅子 》読む

<現代風狂帖(最終回)>

No.40  秋繭をおもふ  ……小津夜景  》読む
(付録:掲載作品集「THEATRUM MUNDI」)





●鑑賞・書評・評論・エッセイ 

【戦後俳句を読む】

  • (「我が時代――戦後俳句の私的風景」の附録)
能村登四郎の戦略――無名の時代 (6)  ……筑紫磐井 》読む


  • 【攝津幸彦の句】 (2)  攝津幸彦の傘  
……竹岡一郎   》読む

  •  【上田五千石の句】 夜長
……しなだしん   》読む


  • 「俳句空間」№ 15 (1990.12 発行)〈特集・平成百人一句鑑賞〉に纏わるあれこれ
(続・14、加藤郁乎)……大井恒行   》読む

【現代俳句を読む】

  • <エッセイ・評論>大井恒行の日日彼是       ≫読む
読んでなるほど!詩歌・芸術のよもやま話大井恒行ブログ更新中!!
  • <朝日俳壇鑑賞> 時壇 ~登頂回望 その三十四~
    • <俳句時評>  物真似師の矜持―宮崎大地について
    ……外山一機  》読む








    ● あとがき  ≫読む
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              • 俳壇7月号 誌上句集『摂津幸彦』(筑紫磐井選による100句)

              平成二十六年夏興帖, 第五(竹岡一郎・安里琉太・大井恒行・堀下翔・水岩瞳・寺田人・川嶋ぱんだ・島津雅子)



              竹岡一郎  (「鷹」同人)
              蟹星雲産んで溽暑のとほき股
              ラムネ玉昏い子供 のために鳴る
              水母放ち海底火山死につつあり


              安里琉太(1994年沖縄県生まれ。銀化会員、群青創刊同人。琉球大学俳句研究会a la carte会員、俳人協会会員、沖縄俳句協会庶務。第九回おきなわ文学賞俳句部門第一席、第二回俳句四季新人奨励賞等。)
              手花火や峡の真闇に背をあづけ
              すぐ果つる迷彩柄の手花火よ
              花火もて追ひかけあつてゐたりけり
              手花火の煙に龍のなんのその
              猫除けの水に捨てたる花火かな
              不発なる花火にすこしすこし寄る
              手花火に飽きて煙のなかにをり


              大井恒行
              みょうに明るき晩年はやし夏鏡
              火の蔦のがんじがらめに生死(しょうじ)かな
              下にいて葉桜もまた暗き木か
              鳥衣の白を尽くして葉月潮


              堀下翔 (「里」「群青」)
              指先に汗かいてゐる碁なりけり
              みづうみの広さのボート乗り場かな
              塗りそびれた塗り絵のやうな夏の蝶


              水岩瞳
              少年傾ぐ黒きカバンのありて夏至
              ゴーヤーチャンプルー旨し選択の自由は尊し
              とはにとはに我の負け也草むしり


              寺田人(「H2O」「ふらここ」「くかいぷ」「くかいぷち」)
              ヲルガンの呼気で歌へり聖五月
              氷室にて一角獣の眠りをり
              コペルニクス追放の向日葵畑
              旅にナイフ地図と草笛あればよい
              水銀に触れる指先桜桃忌
              炎天の陰てふ死角鳥高し
              風鈴の音を溜める夜の六畳間


              川嶋ぱんだ(「ふらここ」)
              少年の紐だらしなく持つ金魚
              二人して打ち上げ花火見てた写真
              夏めいてしかしプリンは喋らない


              島津雅子(1994年生。北海道出身東京都在住。)
              木苺は纏足脱がすごとく摘む
              割れるときすこし海月になるビーズ
              どの貌も向かひあへずに芙蓉咲く



               【朝日俳壇鑑賞】 時壇  ~登頂回望その三十四~ 網野月を

              (朝日俳壇平成26年9月22日から)

              ◆絶景は厠から見る大文字 (京都市)氷室茉胡

              金子兜太と長谷川櫂の共選である。長谷川櫂の評には「一席。大文字と厠との落差こそが絶景。南宋の水墨画の名筆のように。」と記されている。

              耳学問だが京都ではかつて何処の町屋からでも大文字焼きが眺められる環境にあったということである。やがてバブルの頃には高層ビルが建って眺めも町屋の景観も様変わりしたようだ。それでもこの「厠」からは大文字が眺められるのだ。

              句型はオーソドックスなものの一つである。いわば句作りの王道であり、方程式のようなものだ。句集の中の数百句余りの中に一句だけあると存在感を発揮する。多用してよいものではないだろう。
              それにしても「厠」は少々古臭い気がするが京都には適うかも知れない。

              ◆享受してゐる秋光や野に伏せて (ドイツ)ハルツォーク洋子

              金子兜太の選である。評には「洋子氏。硬質な修辞が感傷を誘う。」と記されている。評中の「硬質な修辞」は「享受してゐる」であろう。この表現には厳粛なまでに「秋光」の讃美と自然への感謝が込められている。最近の句作りでは座五の「・・て」は余感を溜めていると解釈する向きもあるようだ。コミックの吹き出しには「・・・。」に類する表現方法があって「・・・。」に隠されている台詞(=本心?)を読者の想像に任せて余感を作り出している。が掲句のように旧仮名遣いと併用すると筆者などは多少の違和感を感じる。

              ◆豆腐屋と掛け声の出る村芝居 (富士市)蒲康裕

              大串章の選である。評には「第二句。「たちばなや!」などではなく「とうふや!」がいかにも村芝居らしい。楽しい句。」と記されている。句意は読んですぐにそれと理解される。面白さも評の通りである。「豆腐屋」は職業だが屋号にも似て妙である。「豆腐屋」は冷かしの掛け声であるが、同時に親近感が滲み出ていて「村芝居」を叙して適確である。木挽町の歌舞伎座の三階の大向から掛かる掛け声共々に間が要であろう。



              「俳句空間」№ 15 (1990.12 発行)〈特集・平成百人一句鑑賞〉に纏わるあれこれ(続・14、加藤郁乎「伊勢るまで待ちて業平蜆かな」) /大井恒行 

              加藤郁乎「伊勢るまで待ちて業平蜆かな」


              加藤郁乎(1929〈昭4〉1.3~2012 〈平24〉5.16)の自信作5句は以下通り。

              終るまで男は河東舞燈籠          「俳句」平成元年11月号 
              半道に五里八幡や秋まつり         「朝日新聞」〃10月13日夕刊  
              梅川か柳か羽織落しけり          「俳句」平成2年3月号  
              伊勢るまで待ちて業平蜆かな              〃  4月号 
              在庵に定家煮つけるついりかな             〃  6月号  
               
              一句鑑賞者は仁平勝。その一文の冒頭には「たとえば固有名詞をそのまま動詞化してしまう芸は郁乎の専売特許だ。

              かつては『虹りゆく朝半宵丁にセザンヌるかな』『牡丹ていつくに蕪村ずること二三片』『句じるまみだらのマリアと写楽り』といった名句がわたしたちを狂喜させたが、このたびは『伊勢る』ときた。イセルといえば、逢引などで相手を待たせてイライラさせたり、じらしたりすることだが、『伊勢る』となれば当然そこにいわく俳諧的な転義が成立する。業平を呼び出すための面影をつくることだ。/業平蜆は、江戸本所の業平橋近くでとれる蜆で古くよりの名物である。こちらは転義という以前に、俳句という文芸で『業平蜆』とくればそのモチーフはどうしたって『業平』の名前だ。古川柳に『業平は煮られ喜撰は煎じられ』の句があって、つまり『業平』は蜆で、『喜撰』は茶だが、ようは六歌仙が煮られたり煎じられたりするところにおかし味がある」。次の段では「伊勢の留守という言葉がある。夫を伊勢参りに送り出して、女房が一人家にいるのだが、この瑠中に間男すると神罰が当たるそうだ。『いせの留守一と思案していやといふ』という柳句もある。となると『伊勢る』とは亭主が伊勢参りに出かけることだとする解が、がぜん生き生きと浮かび出てくる。男を引き入れたいが罰にあたるのもいやだから、色男の名をもじって蜆でがまんしようというのかもしれない。(中略)/ひとついい残したが、伊勢魔羅といって伊勢の男のモノは極上であるらしい」と結んでいる。

              まるまる全部、仁平勝の鑑賞文を引用した方が、リアリティーがもう一段増したと思うが、なかなか見事な読解である。そしてまた「俳句の言葉は、今ふうにいえばファジイであるのを本質とする。『伊勢る』はつまり『業平蜆』をファジイにするための仕掛けだ。そもそもたかが蜆に『業平』と命名することが粋ではないか。郁乎の一句は、その粋にこだわることが俳句という言葉遊びなのだと主張する。それは処女句集『球体感覚』から一貫して変わっていない。そして一方、そういう主張がついに理解できない俳壇というムラの政治も変わっていない」と書き残している。さてさて、現在はどのような状況なのだろうか?

              第88号 (2014.09.26.) あとがき

              北川美美

              今号にて終刊そして次週に新たに創刊となります。次号10月3日て名称の微妙なる変更(名称「BLOG俳句空間」)とモディファイを行い、新たに再スタートします。


              終刊にともない、風狂帖が最終回。No.40をもって小津夜景さんの作品連載も最終回となります(付録として小津さん本人作成の全作品集PDFあり)。今後の小津夜景さんの飛躍に期待。

              URLの変更はありません。 継続記事、そして新らたな記事も企画中。引き続きのご愛読をどうぞよろしくお願いいたします。

              筑紫磐井


              ○冒頭記事は、前回編集記事を踏まえて、<「BLOG俳句空間――戦後俳句を読む――」の終刊/「BLOG俳句新空間」の創刊>という刺激的な表題としましたが、変更後も、大半の読者、作品発表者については題名が変わっただけにしか見えないかも知れません。

              ただ内部的には、今後本BLOGを継続するために定期的(従来2年で行っている)に見直し、更新を合理化し、管理業務の負担を軽減することを一層推し進めることとしました。これは「―豈―weekly」以来行っている基本原則です。

              これとともに本BLOGだけの特性を一層発揮することとして、記事の改編も行うこととしました。
              雑誌「豈」とのコラボレーションする企画も出てくるかも知れません。
              執筆者、読者の今後ますますのご協力を期待するものです。



              オレンジ色の憎い奴

              筑紫磐井執筆! 新人誕生の歴史!?
              日盛俳句祭のキーマン本井英氏、都市の中西夕紀氏執筆!

              「俳壇観測」連載中!

              「BLOG俳句空間――戦後俳句を読む――」の終刊について/「BLOG俳句新空間」の創刊について  / 筑紫磐井

              26年9月26日

              「BLOG俳句空間――戦後俳句を読む――」創刊から2年弱経過し、歳旦帖などの盛行や新たな雑誌「俳句新空間」が刊行されたこと等予想外の展開が進んでいる。元々この系列のブログは「―豈―weekly」以来、管理業務の負担を軽減するため2年を超えない範囲で見直し、新しいブログとして再生してきた。記事の更新だけでなく、ブログ形態そのものを更新してきているのである。このような事情をふまえ、「俳句新空間」No.2の刊行を機に「BLOG俳句空間――戦後俳句を読む――」を終刊し、「BLOG俳句新空間」を創刊することにする。創刊にあたっては、「BLOG俳句空間」の置かれていた周辺環境を踏まえ、またその特色を一層発揮するとともに、過去の記事の閲覧などに配慮することとしたい。即ち、3詩型交流企画「詩客」の理念を踏まえつつ、俳句固有の特性を生かすこととし、取りあえず次のような編集方針をとることとする。

              1.「BLOG俳句新空間」は雑誌「俳句新空間」(年2回刊)と密接な関係をもって編集・更新。 
              2.更新
                管理業務の負担軽減のため隔週更新。ただし誌面構成上は予約機能を使って出来るだけ従来の毎週更新に近い外見を維持。 
              3.記事内容
                記事内容は次の通り。 
              ①作品
                歳旦帖・春興帖・花鳥篇・夏興帖・秋興帖・冬興帖で構成。
              (→雑誌「俳句新空間」に転載) 
              ②連載・「俳句を読む」
                物故戦後俳人論・戦後生れ俳人論・俳句時評・上梓句集特集 
              ③特別企画:こもろ日盛り俳句祭・芝不器男賞などの俳句イベントとの機動的連携 
              ④特別企画:現代詩等との相互交流に関する記事 (主として「詩客」とのリンク記事) 
              ⑤編集後記と広告 
              4.以上の記事は、随時3詩型交流企画「詩客」と記事を相互にリンク。 
              5.「詩客」「BLOG俳句空間」の記事と「BLOG俳句新空間」の記事(特に評論関係、「戦後俳句を読む」)は常に一覧可能なアーカイブを構成するよう今後開発を進めたい。









              【攝津幸彦の句 (2) 】 攝津幸彦の傘 /  竹岡一郎

              攝津幸彦の傘が気になる。攝津は、数は多くはないが、傘の句をずっと作り続けていた。全句集に当ってみると、次のようであった。こだわりがあった、と見るに足る多さであると思う。

              ことにはるかに傘差しひらくアジアかな  「鳥子」
              月曜の日傘よ鶏が鳴いてます       「與野情話」
              傘新たに金曜をさす二階かな        〃
              日常のかうもり傘のみ発展す        

              絵日傘のうしろ奪はれやすきかな     

              片時雨日傘の内なる貴人かな       

              生み継ぎぬ畳のへりにや西洋傘      

              雨の日は傘の内なり愛国者         

              しじみ狩る少女の日傘や赤毛かげり     
              傘売りにたまたま頭蓋応じけり      「鳥屋」
              傘さして相模の恋をつらぬけり       

              してゐる冬の傘屋も淋しい声を上ぐ    

              疲れ勃つ傘屋の奥の波止場かな     

              繰返し戦後の傘屋残りけり         

              人多き戦後の奈良に傘を干す       「鸚母集」
              傘さして馬酔木見し人隠さるゝ      「陸々集」
              春雨を男傘にてをみな受く         

              「蹲(うづくまる)」パラソル白き女欲し       「鹿々集」
              鹿皮を隠しとほしぬ春日傘              

              蛇の目傘会社の影を纏ひけり       「四五一句」
              春日傘大和にいくつ女坂           

              番傘の精神のとこ破れけり          
              佳句も変な句も悉く並べてみた。私は、攝津の最初の傘の句が、ひどく好きだ。

                ことにはるかに傘差しひらくアジアかな

               個人的には、この句にパフィーのデビュー曲を思う。「アジアの純真」である。あの暢気な、意味不明なノリの良い曲のように、夢を感じさせる。それは個人的な夢というよりは、国の夢、戦前の日本の夢と言っても良い。まだ五族協和という標語が輝かしい協調の夢、平和と繁栄の夢であった頃、まだ満州事変が起こっていなかった時代の夢だ。李香蘭の映画なども思い出される。必ず惨たらしく破れるから、夢なのである。

              夢の雰囲気は、「ことにはるかに」の高らかな措辞に表われている。日傘とは書いてないので、雨は降っているのだろうが、日照雨のような気がする。「差しひらく」という動作には、或る方向性が見られ、遙かな仄かな光を蔵する空に向かって傘の先を向けながら開く動きが良く見える。

              「アジアかな」という納めから、傘を開く方向は大陸の方向かも知れず、或いは大陸の上海や奉天などで日本に向かって開くのかもしれぬと思わせる。軍歌を良く聞いていた攝津であったからこそ、その当時の夢の雰囲気を肉化することが出来たのだろう。(敗戦に繋がる満州事変以前から、数多くの軍歌はあった。)

              月曜の日傘よ鶏が鳴いてます 
              傘新たに金曜をさす二階かな

              なぜ月曜なのか、或いは金曜なのか、中々難しいが、それぞれの曜日は良く合っている。合っている訳を考えるに、一句目では、月曜+日傘=月+日=月日=時間となり、時を告げる鶏が配合されるのだろう。二句目では傘と金曜の類似は、どちらも山かんむりがあり、その形状は上方を「さす」ものであり、且つ家の屋根の形に似ていて、そこから二階という、屋根のすぐ下にあるものが出てくるのだろうと思う。

              日常のかうもり傘のみ発展す
              シュルレアリスムの技法に「デペイズマン」(異郷の地に送る事、という意)がある。意外な組み合わせによって受け手を驚かせ、途方に暮れさせるやり方だ。(同じく、デペイズマンの技法を四人で行うものに、有名な「優美な屍骸」がある。四人がそれぞれ何を書いているかを知らせずに、一つの文章の一つずつのパートを書く。最初にこのゲームを始めた時、出来上がった文章が「優美な屍骸は新しい葡萄酒を飲むだろう。」であったため、前述の名称で呼ばれるようになった技法。)

              デペイズマンの技法といえば、その最初と見なされる、十九世紀フランスの詩人、ロートレアモンの「マルドロールの歌」、その第六歌のⅠに出てくる「解剖台の上の、ミシンと蝙蝠傘の偶然の出会いのように美しい」を思う。(日本語訳では「蝙蝠傘」と「雨傘」の二通りの訳がある。)

              攝津の難解な句は、その殆どがデペイズマンの技法であろう。攝津が「マルドロールの歌」の蝙蝠傘を知らぬ筈はない。となれば、掲句は「日常に則したデペイズマンの技法のみが発展する可能性を秘めている」という、自らの技法の宣言か。

              生み継ぎぬ畳のへりにや西洋傘
              この句もわざわざ「西洋傘」と断っているのは意味があるのだろうと思う。これもやはり攝津らしい「シュルレアリスム宣言」であって、古き良き日常の日本を象徴する「畳」のへり、端っこに、(西洋傘を媒介して)生み継ぐものは、デペイズマンの技法、と言いたかったか。

              しかし、そんな難解な宣言よりも、私は次のような句が好きだ。

              絵日傘のうしろ奪はわれやすきかな
              冒頭の「アジア」の句でも、傘を差しひらくのは妙齢の女性であって欲しいと思うが、掲句はますますそう思わせる。「うしろ奪はれやすき」とは、触れなば落ちむ、の風情ではないか。絵日傘なら尚のこと、後ろから抱きすくめられそうな姿である。攝津が好きだったアラーキーの写真に出てくるような女を思わせる。「かな」の慨嘆が、実に利いている。

              「夜目遠目傘の内」と言う。傘は攝津にとって、女性の遙かなエロティシズムを演出し包むものであったかもしれぬ。

              しじみ狩る少女の日傘や赤毛かげり
              潮干狩の少女であろう。赤毛の少女といえば、「赤毛のアン」を思う。活発でお転婆な、寄る辺ない孤児である。小さな貝である蜆を狩る行為からは、暗喩といえども少女のエロティシズムが、かなり露わに描かれている。

              下五の「かげり」が妙で、赤毛が翳るのは日傘ゆえであろうが、この日傘が少女を守護しながらも枷となっている。赤毛は奔放の証、と西洋では言われるそうだ。赤毛の少女ならでは、日傘あるいは日傘に象徴されるものが、猶更自由を制限するように思われるのか。その枷に対する鬱屈が「赤毛かげり」なる字余りで表わされている。

              傘さして相模の恋をつらぬけり
              相模というと、今の神奈川の川崎、横浜を除く全域で、かなり範囲が広い。神奈川の一寸お洒落な感じが合うといえば合うだろうが、それよりも「相模」なる地名は「傘」との韻の関係で選ばれたのだろう。それでも、何となく鎌倉あたりの海近い雰囲気は伝わる。「つらぬけり」であるから、恋に一途な女か。ここでは、傘と恋(エロティシズム)の関係がはっきりと出されている。

              夜目遠目傘の内と、傘が女に良く似合うなら、その傘を売る傘屋は、やはり男であろう。

              してゐる冬の傘屋も淋しい声を上ぐ
              恐らくは性行為を「している」傘屋、その傘屋は多分男だろう。「も」とあるからだ。女は嬌声を上げ、男「も」声を上げる。男の声は女の声とは違って「淋しい」。男は生殖が終われば、もはや用済みだからだ。種を繁栄させ、子に愛されるのは、ほとんど女の特権である。「冬」が利いている。男は行為の最中も、心が寒い。行為が終わった瞬間から、もっと寒い。掲句、男なる性に対して容赦ない句である。

              疲れ勃つ傘屋の奥の波止場かな
              海際にある傘屋で、店兼住居の奥が、直ぐ波打ち返す波止場とは如何にも淋しい。波止場は「疲れ勃つ」ときの傘屋の心の「奥」にある心象風景かもしれぬ。疲れても生物の義務に忠実に勃起する傘屋の、心が佇つのは波止場で、こんな淋しい空しい波止場なら、当然、加藤郁乎の「冬の波冬の波止場に来て返す」を踏まえている筈だ。読者が、郁乎の高名な句を思う事を前提に、掲句の上五中七は全力で、男にとって「冬」とは何かを表現している。冬とは、「疲れ勃つ傘屋の奥」である。

              「疲れ勃つ」は、波止場に掛かるとも読め、波止場自体が男の性の暗喩である可能性もある。
              (攝津が加藤郁乎の「波止場」の句をかなり意識していた事は遺句集『四五一句』中に「春ショール春の波止場に来て帰る」が入っている事からも窺えよう。「春ショール」の主役はあくまでも女であって、男の惨さは変わらない。「帰る」とは、女の捨台詞のようにも思われて苦笑する。同じく郁乎の「栗の花のててなしに来たのだ帰る」の「帰る」、あのぶっきらぼうな意地っ張りな台詞も思う。「春ショール」の句を出すことによって、郁乎の波止場の句は男が主人公である事を示したかったか。女にとっては波止場は空しくない。空しさを感じるには、女はあまりに現実に富んでいる。)

              繰返し戦後の傘屋残りけり
              しかし、傘屋は常に生き残る。同じ傘屋とは限らないが。「繰り返し」とは、「戦後」という語と組み合わさると、戦争やら何やらで繰り返し死んでは生まれ変わるという事か、或いは傘屋という職業が、戦争の終結の度、主または店舗を変えながら生き残るという事か。「傘屋」に男性なるものの暗喩を読めば、味わい深い。

              人多き戦後の奈良に傘を干す
              奈良は文化財保護の関係か、軍需工場がなかったせいか、或いは人口が少なかったためか、大阪や名古屋、東京に比べれば、空襲はかなり少なかった。だから、人が多いのである、と「戦後」なる語の意味を解釈したが、単に観光客が多いという見方も有りである。これも妙な句で、傘を干しているのは作者か、奈良の住人か、それとも奈良の傘屋か判然としないが、傘屋と取ると一番おもしろい。傘を干すのは、傘の元気回復の為だ。

              この後、攝津の句の傘はあまり面白い展開を見せない。

              「蹲(うづくまる)」パラソル白き女欲し
              「蹲」をつくばい、茶庭にある手水鉢と取るなら、そこにアラーキーの撮るような女が白いパラソルを肩に掛けて、或いは白い着物などを着て、うずくまっていて欲しいのである。そうすれば、一層絵になるなあ、と攝津は考えたのだろう。

              攝津が晩年骨董に凝ったことを思えば、この「蹲」は古信楽か古伊賀の「蹲るような形の」壺とも読める。古信楽や古伊賀の、何でこんな小汚い壺が、と素人は首を傾げるような恐るべき高値と、その贋作の多さを考えるなら、掲句の女は地味だが高嶺の花且つ疑わしさも残る女であろうか。

              春日傘大和にいくつ女坂

              上五と下五で尾韻らしきものを踏んでいる。大和は日本というよりは、むしろ大和路、奈良であると読んだ方が情景を結びやすい。女坂とは、社寺に通ずる坂が二つある時、勾配の緩い方の坂を指す言葉だから、奈良の社寺の数だけとは言わないが、相当数の女坂があるだろう。だから、この春日傘の主、或いは主たちは、寺か神社に詣でているのである。

              ここで春日傘の主(女であって欲しい)に、死または異界の匂いがするのは、大和には幾つもの古墳があり、古墳の玄室に通ずる細い道が黄泉比良坂であるとする説があるからだ。

              句集ではこの句の十句後に、「夏椿黄泉比良坂十方に」なる怖ろしい句があり、夏椿の赤さと相俟って、十方全て死に通じる情景は、攝津の晩年の病を考えると胸に迫る。

              蛇の目傘会社の影を纏ひけり
              どう解釈すればよいのか、途方に暮れる。そして、受け手を途方に暮れさせるのが、先に挙げたデペイズマンの技法の目的であるなら。

              俳句形式は、いわば「解剖台」だ。「傘」とくれば「ミシン」はどこだ。大正十年創業の「蛇の目ミシン工業株式会社」である。そしてミシンは戦前の女性の必需品だ。傘、ミシン、ロートレアモン、デペイズマン、古き良きそして戦後も栄える会社、日本の佳き女性、それら全部をあたかもピカソのキュビズムの絵の如く、原型無きまでに組み合わせ、ぎゅっと絞ると「蛇の目傘会社」だ。では、その凝縮したデペイズマンの影を纏うのは、他ならぬ攝津であろう。これが、攝津の傘の「上がり」だったのだろうか。

              最後に現われる傘の句は、

              番傘の精神のとこ破れけり
              「とこ」とは、処だろうか。それとも「床」だろうか。処なら、デペイズマンの精神の破綻という意味になるし、床なら女と同衾の果、傘屋ついに疲れ破れたりということだろうか。攝津のデペイズマン且つ傘の内なる女の到達した処は、蝙蝠傘でも、西洋傘でもない、日本の軽き良き番傘だった、と、掲句の如く、苦しく結んでおく。





              【俳句時評】  物真似師の矜持―宮崎大地について / 外山一機

              寂しいと叫ぶには/僕はあまりにくだらない(星野源「くせのうた」) 

               『歯車』七月号(第三五八号)で宮崎大地句集『木の子』の全句が公開された。「宮崎大地句集」という文字に僕は一瞬目を疑い、すぐさま夢中に読み進めたが、しかしながらある種の虚しさと羞恥とがこみあげてくるのを禁じ得なかった。

              宮崎は一九五一年生まれ。高校二年生のときに『歯車』の初心者向け投稿欄「若竹集」に現れた宮崎は、一冊の句集の上梓もないままわずか数年間の活動のみで筆を折ることになってしまうが、宮崎こそ当時最もその将来を嘱望された若者の一人であった。『木の子』はその宮崎による自筆句集であるという。同句集を贈られた前田弘は次のように記している。

               ところで、ぼくの机の抽斗から、世界に一冊しかない、という貴重な句集が出てきた。宮崎大地句集『木の子』である。便箋二十枚に万年筆で書かれた句集は、前田弘に贈呈されている。昭和43年、高校二年の時に「歯車」に登場、48年(正しくは49年―外山注)に退会するまでの5年間、十代後半から二十代初めの若き日の作品から自選したものである。ひとときの光芒とはいえ、当時の会員に大きな刺激と活力を与えたことは間違いない。佐藤弘明、永井陽子、萩澤克子、橋口等、林桂、宮川妙子などは、自らを大地惑星と称していた。(「編集雑記」)

               『俳句研究』が新人発掘のための企画として「五十句競作」を始めたのは一九七三年のことであった。五十句競作に関心のある者にとっては、企画者である高柳重信に次の一文のあることは周知の事実であろう。

              いまだから言うが、この「五十句競作」を企画したとき、せめて第一回だけは多少の成功を収めたいと思い、まず入選第一席に推すべき一人の青年を、あらかじめ用意していたのであった。たまたま僕は、本誌主催の全国俳句大会の応募者の中に、かなり出色と思われる若い才能を見出し、あとで個人的に作品の提出を求めた結果、すでに百句以上を手元に持っていたのである。そこから既成作家の影響が表面に残っているものを避けながら五十句を選び出しさえすれば、それだけで充分に入選作として推す価値はあった。しかし、その二十歳ほどの青年は、それを選句の暴力と言い、彼の自選五十句でなければ嫌だと頑張り、遂に応募を断念してしまった。(「俳壇時評」『俳句研究』一九七七・五)

               この「二十歳ほどの青年」こそ宮崎大地であった。宮崎はこの直後に俳句と訣別してしまう。宮崎がこれほどこだわった自選五十句がいかなるものであったのか、もはや知るすべはないが、宮崎の自選句集『木の子』の公開によって、筆を折る直前の宮崎がいかなる句を是としていたのか、自句に対するまなざしの一端を知ることができるようになった。

              七月へ爪はひづめとして育つ 
              なはとびの少女おびただしき少女 
              てふてふよおまへが好きと飼ひ殺す 
              奈良に來て悲鳴に似たる柿一つ 
              死にたれば桃の地獄や二日月 
              葉櫻の沖をかすれて母の文字

               『木の子』の発行年月日は一九七三年三月一八日。したがって二二歳での作品集であり、最後の一年間の作品は収められていない。生と死に対する憧憬と畏れとがないまぜになったこうした世界が、あるいはあの幻の五十句においても展開されていたのだろうか。

              だが正直に言えば、もしも宮崎との出会いが『木の子』から始まっていたとすれば、僕は宮崎にこだわっていなかったかもしれない―そんな思いが強くなったことも白状しておきたいと思う。僕はこの期に及んで、まだ見ぬあの五十句ばかりが気にかかるのである。

               長岡を語る時には、二つのエピソードが邪魔をする。 
              一、重信撰「俳句研究」第一回五十句競作佳作第一席。 
              二、1994年郁乎撰年間秀句ベスト5に入る。 
               (略) 
               この原稿を書くにあたって僕が少しだけ有利なのは、長岡裕一郎自身の伝説を無視しやすい事。よく知らないということも、作品を読むだけに専念しやすい、という意味では悪いことではない。 
              (西村麒麟「色々過ぎ去ったあとで」『豈』二〇一四・七)

               西村麒麟は宮崎と同世代の俳人である長岡裕一郎の句について書くときにまずこんなふうに書くことから始めている。長岡のみならず、宮崎の場合もまた第一回五十句競作の幻の入選者としての「伝説」が宮崎の句を読む僕たちの邪魔をするということはありうるだろう。しかしその一方で、読み手としてのこうした至極まっとうな姿勢を前にすると、僕は何となく気が引けてしまう。僕にとってはむしろ、ついに僕たちの前に現れることのない五十句にこだわることが、何よりも切実なことであったような気もするからである。



              俳句を書くという営みは、あるいは何の接続詞も必要としない営みであって、それゆえにこそ美しいのかもしれない。だが、書き続けるという営みがときに逆接を冠せずにはすまされないような、多分に屈折に満ちた決断を伴うものであると知ったのは、宮崎大地の名を知ったときだった。

              タンポポのポポンと今日は人に会う 
              Aの木にBの鳥ゐるうるはしや 
              わが夏の快楽(けらく)や蝶を見て死なむ 
              けんけんの花野健忘症の鳥 
              ジパングも黄泉も黄金や蝶の春 
              戴冠の我が名をきざむ大地かな

               俳句を始めて間もないころ、僕はこれらの句とともに「宮崎大地」という名を記憶した。そして同時に、どうやらこれらの句の作者が二十代の前半に早くも筆を折ったらしいということと、その文学的夭折が、彼よりも遅れてやってきた一人の青年に「『銅の時代』を去るための私記」という一文を書かしめたということもまた、何かただならぬこととして記憶されたのであった。

              僕がこの一文にふれたのは二〇〇二年のことであった。大学に入ったばかりの頃の僕は同時代の、ましてや同世代の俳句などほとんど知らなかったが、その無知はやがて、僕が自らの怠惰を反省するよりもずっとすばやく、俳句形式にこだわり続けていることの寂しさを僕に引き寄せた。どうにもならない寂しさのなかで、僕は高校生の時に投稿していた地方紙の学生向け俳句欄で選者をしていた林桂に手紙を送ったのであった。折り返し葉書とともに送られてきたのは林の評論集『船長の行方』と句集『黄昏の薔薇』『銅の時代』『銀の蟬』であった。そして僕は『船長の行方』のなかに先の一文を見つけた。林は宮崎が林宛に送った最後の手紙のなかにある「林氏のやうに「今」俳句に熱つぽい視線を投げかけてゐる人がゐるのを見ると、何かまぶしいのです」という言葉にふれ、次のようにいう。

              「五十句競作」にうかうかと応じたことだけでも僕は十分に眩しかったのだ。僕は十分に大地氏の後方を歩いていた。それ故に眩しかったのだ。しかし、応じてしまった以上、大地氏を追いつめるためにも、大地氏のやさしさに答えるためにも、僕に残された道は、逆に何らかの形で「五十句競作」に拘り続けることによってしかないのであった。(略)しかし、いまやそれもほとんど困難な状況になってきてしまった。一つに、僕はかつての大地氏の年齢を越えてしまい、そのことが今までの方法で大地氏に拘ることを、難しくしてしまったこともあろう。

              一九七八年に書かれたこの「『銅の時代』を去るための私記」において、当時二五歳の林は「もう大地氏に僕の眩しさを許してもらえるかもしれない」という思いが「銅の時代」なる時代意識をもたらしたとして、最後に次のように書いていた。

              僕は書き続けよう。僕を先行する月彦氏も達治氏も(藤原月彦、大屋達治―外山注)、かつての大地氏の年齢を行き過ぎて、行き悩んでいる。「銅の時代」の次に来るものは「鉄の時代」ではなく、「鉛の時代」である。その時必要なのは、寡黙になることではなく、自分の存在を確かめるためにも、たとえば叫ぶことである。俳句形式をみつめ続け、自分をみつめ続け、状況をみつめ続け、これを一つのこととしてみつめ続け、その過重と晦渋の中で、しっかり己れを持ち続けなければ、すべて消えてしまう時代である。今僕に必要なのはそのための明確な認識であろう。そしてそのためにも、さようなら、大地氏。

              今にして思えば、このように書かざるをえなかった林の痛みなど理解できなかった僕には、「宮崎大地」を持つことのできた林がただただうらやましかったのである。そして同世代の俳句に早々と見切りをつけていた当時の僕は、狡猾にも、過去の俳句雑誌を漁ることでそのなかに僕なりの「宮崎大地」を見つけようとしたのだった。もはや自分が書き続けることの意味を見いだせなくなっていた僕にとって、書き続けることを決意した若き日の林のこの一文のまばゆさを信じきることこそがほとんど唯一の救いだったのである。だから僕は、林の決意を模倣することによって書き続けた。僕は、自分が他ならぬ自分自身の意志によって俳句を書き続けたなどとはとても思えない。僕は、林が林自身を指していうところの「僕」を模倣することで、かろうじて俳句とつながっていたような気がする。

              先頃『現代俳句』に寄せた文章のなかで神野紗希は自らの高校時代を振り返っていたが(「自分なんて忘れて」『現代俳句』二〇一四・九)、「自分さがし」の気分が蔓延していたあの時代において、俳句で表現されたもののなかにそうした気分とは異なるものを見出したのが神野であったとすれば、同世代の僕はむしろ積極的に「自分さがし」を模倣することによって俳句を書き続けていたのであった。これらはまったく異なる営みのようにも見えるけれども、僕には、結局のところ自己表現などというおとぎ話めいたものへの冷めたまなざしがたまたま異なる意匠をもって結果したにすぎないようにも思える。

              いずれにせよ、僕にとって「宮崎大地」とは僕の出自とついに切り離すことのできない名前である。そして僕の場合「宮崎大地」を語るということは、ついに見ることのないあの五十句を語ることであり、さらにいえば、「自分の存在を確かめるためにも、たとえば叫ぶことである」といって「宮崎大地」と訣別した林桂を語ることである。あるいはまた、叫ぶ真似をすることでしか僕でありえなかった僕自身のありようを甘受することなのである。



              【小津夜景作品】 No.40 (最終回)



              秋繭をおもふ   小津夜景


               一、古き土地より
              手つかずの明日に追ひつき枯野かな

              秋虹よわれの序文は今日終はる

              折るゆめのうつほとなりし春の枝

              落葉漕ぐかな隠れ家を思ひながら

              椎の実をもぐたび旧きこゑのする

              優しい弧あれはさざめくミンクらし

              さうと呼ぶのは名ばかりの恋の歌

              いきなりは無理よしなびた王冠よ

              かけわたすさし枕く肩に木枯らしを

              噛みながら時を経しことさへ知らぬ



               二、即興劇

              皺をもつ秋のくだもの寄せにけり

              きだはしの斜に陽を断つ飾り窓

              てのひらや葡萄の葉には具をつつむ

              迷ひこむ戸に秋繭のスープかな

              食べさしのキッシュ互みに馬肥ゆる

              シナモンの突き出る鳩や枯葉床

              鵲のついばみ終へて消えた菓子

              秋猫のごとくうなじを与へなむ

              突如恋、濃いクリームのやうに霧

              テーブルは河を名づけるといふこと



               三、カタストロフィと音楽
              息をしてゐたのは金魚秋の窓

              龍淵の和音は秋をひろふなり

              ふつふつと日に啼く秋のがらんだう

              点滴の底をしづかな蜻蛉かな

              ふと意味にとどかざる紙魚匂ひけり

              哭くべき棺あらざる手の桔梗

              月代のなにも思うてはをらぬこと

              祈りなき弔ひだけがある花野 

              ひとあやす楽器のごとく胡桃かな

              ねてさめてゆめといふ皺得てにけり



               四、映画のベルが鳴る前に

              街なんのそしてある日の黄の余白

              ゆるふわや色なき風に疵無数

              犬ころよ死ぬはナポリを見てからよ

              黒き梨ゆらりゆらりと脱いでをり

              不在このふくよかな凹みはどうだ

              言語的宵闇白きゴムボール

              飽かずきの秋のシネマの波間かな

              字幕なき雨がもうすぐやつてくる

              秋雨がひとのかたちのざるにふる

              尨毛ただよきことのみを思ひ抱く



               五、蜜色の手、おだやかな息

              満月をわたしのかほが見にゆきぬ

              夜の桃言はで思ふも忘れなむ

              虫売りは入れ子の家に入りにけり

              永住のやうに夜汽車に月をるらむ

              目をさますまでを石榴となり眠る

              別のかたちだけど生きてゐますから

              手は知らないすでに眠つてゐたからだ

              頭の上に住まずなりける月がある

              ようこそ外は寒かつたでせう

              瞼にもなくどちらからいらしたの



              あとがき

              それからのひととき秋繭をおもふ













              (「我が時代――戦後俳句の私的風景」の附録)  能村登四郎の戦略――無名の時代 (6)波郷の登四郎批判

              ぬばたまの句をめぐる波郷との登四郎の争いを眺めて見たい。波郷のぬばたま批判が初めて活字になるのは次の文章による。


              「能村登四郎氏が水谷晴光氏の法隆寺四句を、馬酔木調の綺麗事で現代的な匂ひが乏しいとし、斯かる新古典派的魅力を現代の若い作家が追ふのはどうかといひ乍ら、今後の馬酔木の句は斯くあるべしとして『しらたまの飯に酢をうつ春祭』の句を挙げてゐるのは合点がゆかない。この句や能村氏自身の『ぬばたまの黒飴さわ(ママ)に良寛忌』の方がかへつて法隆寺の句よりも非現代的と、僕などには思へる。かういふ考へが新人会あたりで不思議とされないのだつたらこれは問題であらう。」 
              (「仰臥日記」――「馬酔木」24年3月)

              これだけでは経緯が分からないであろう。批判される登四郎の文章があるのである。長文であるが引用しよう。

              「この「法隆寺」の連作の一聯は、月明の法隆寺の参籠と言ふアトマスフェアに凭れかかつてゐるだけで、この恵まれたモチーフを十分生かしてゐない。私はこの種の作品は昭和十二、三年頃にこそ魅力も価値もあつたが今の苛烈な世相の中でそれがうすれつつあり、やがては全く過去のものとなるであらうと考へる。 
              関西から「天狼」が生まれ複雑な戦後の俳壇の潮は又一つうねりを加へて来てゐる。馬酔木の若い私たちはそれらを一種の昂奮に似た気持で眺めてゐるのであるが、そのうねりを私達よりも近くに見てゐる名古屋の若い作者諸君に、私はもつと現代色の濃い作品を詠んでもらひたいのである。 
              俳壇で言はれる馬酔木調と言ふものは、根強いものに欠けた綺麗事の句を指摘したものであるが、この作品は遺憾ながらその譏りを受けさうな気がする。 
              私はこの句の持つ豊饒さに敬服し、今後の馬酔木の句はかくあるべきだと思つてゐるほどで、晴光君にはこの作よりも遥かに佳いものを期待してやまない。」 

              (「馬酔木」24年1月)
              しらたまの飯に酢をうつ春祭

              この文章も、これだけでは意味が充分分からない。実は馬酔木23年12月号の新樹集で秋桜子の巻頭となった次の作品を批判した文章であったのである。

              法隆寺 

              松籟にこころかたむけ月を待つ 
              十六夜の脇戸くぐるや苔匂ふ 
              坊更けてはばかり歩む月の縁 
                勤行に参ずる暁の霧ふかき
              つまり、水谷の巻頭句である法隆寺4句に対し、登四郎は

              しらたまの飯に酢をうつ春祭(23年6月3席)
              をよしとし、この句の持つ豊饒さに敬服した(逆に言えば、法隆寺の作品は根強いものに欠けた綺麗事の句であり全く過去のものとなるであろう作品、これに対し、白玉の句はもつとの苛烈な世相に堪え得る現代色の濃い作品)と述べたのである(「しらたま」の句は23年6月の3席句で秋桜子の推薦句。秋桜子は「酢をうつ」という言葉は俗であり、「しらたまの飯に」という言葉と本来は調子が合わないはずであるが、そこが言葉の生きものであるところで、巧みに配合すれば雅語と俗語がこのようによく調和する、この調和の魔術を心得ているのが詩人なのである)と激賞した)。

              ところがこれを波郷は

              しらたまの飯に酢をうつ春祭 
              ぬばたまの黒飴さはに良寛忌 
              ともども法隆寺の句よりも非現代的と思える、と述べている。

              確かに法隆寺の句が現代的であるとはとても思えないのであるが、二つの傾向の比較はこの論戦の中で消滅している。ただ「しらたま」「ぬばたま」ともに典雅な趣味の句であることに間違いはない。それを波郷は批判したのである。

              ところで、波郷は能村登四郎の傷跡に再度、塩を塗るようなことをするのである。それは、『咀嚼音』の跋文で再び批判をしているのである。

              「私が清瀬村で療養の日を送つてゐた頃、馬酔木には、能村登四郎、林翔、藤田湘子の三新人が登場して、戦後馬酔木俳句のになひ手として活躍してゐた。然し馬酔木に復帰して間もなかつた私は能村氏の、の句が、馬酔木で高く認められ、新人達の間でも刺戟的な評価を得てゐるのを見て奇異の感にうたれた。 
              「黒飴さはに」の語句に、戦後の窮乏を裏書きする生活的現実がとりあげられてゐる。それだけに、これらの句の情趣や繊細な叙法は、趣味的にすぎて戦後の俳句をうち樹てるべき新人の仕事とは思へなかつた。私は手術をしても排菌が止らず絶望の底に沈んでゐたが、これらの句を馬酔木の新人達が肯定し追随する危険を、馬酔木誌上に書き送らずにはゐられなかつた。 
               その頃の句はこの句集には収められてゐない。私が、今これらの句に触れたのは能村氏には快くないかもしれない。が、たとへその句は埋没しても、その中を通つてきた事実は、能村氏の俳句の内的体験として、後の俳句に何らかの影響(反作用であつても)をのこしてゐると思ふ。」 
              (石田波郷『咀嚼音』跋文)

              ぬばたまの黒飴さはに良寛忌

              実は波郷は、馬酔木に記事を執筆する(24年3月)以前に、登四郎が馬酔木の巻頭としてこの句が掲載された時点(23年3月)で批判をしていたという事実があるのである。冒頭の波郷の文章はその根拠を明確にしただけであって、「ぬばたま」の句が生まれた段階ですでに波郷はこれを否定していたのである。

               「私は有頂天であった。俳句でこのような幸運が得られるとは全く考えたこともなかったからである。ところがこの句には横槍が入った。それは病重く清瀬で呻吟していた石田波郷からであった。当時波郷は未だ「馬酔木」へ復帰していなかった。波郷氏はあの黒飴の句は俳句に必要な具象性を持たない、余りに趣味に溺れた句である。ことに枕詞を使用するなどは、若い生活派といわれる作者のすべきことではない。と難じられたと言うことを「鶴」作家のKからきいた。 
               相手が尊敬している波郷だっただけに、私はようやく獲た王座から転落していくような気がした。私は俳句の世界が考えていたような甘いものではないことをしみじみと知らされた。」 
              (「野分の碑」――「馬酔木」41年9月)

              「鶴」作家のKとは当時の親交状況からいって草間時彦であろう。これは馬酔木に掲載した文章であるから、波郷が読むことを覚悟して微温な表現になっていると思われる。しかし、少し離れたところではもう少し違った本心を登四郎は覗かせている。

              「当時未だ「馬酔木」へ復帰しなかった頃の波郷がひどくその句を非難したということを人づてに聞いた。当時波郷という人についてよく知らなかった私は、何とひどい先輩かと恨んだり、一見おだやかな風の吹く俳句の世界にも、こんな足をひっぱるような残酷があるのかと驚かされたほどである。 
              しかし当時の私にはこの先輩のことばを無視する力はなかった。だから私は極めてすなおにしかも謙虚に反省した。私の作風はこの時から美よりも人間興味に傾いていった。」 
              (「悪評について」――「南風」43年3月)


              一瞬ではあるが登四郎は波郷を人格的に非難しているのである。ただその後の登四郎は、波郷の助言に従って行くようになる。その経緯はまた回を改めて考えてみたいので、ここでは結果だけを示しておく。

              「同人の末席についたその時から私は第二の危機にのり上げていくのを感じた。自分の作品についてもっと厳しい批判と反省がなくてはならないと感じた。そんな時に波郷氏のことばが静かによみがえって来た。趣味とした俳句を考えている人は知らないが、少なくとも私は血の滲むような貧しい生活の底から俳句を作っているのだ。当時私は学校の他に夜学を教え、さらにいく人かの家庭教師に自分の持時間のすべてをつかっていた。俳句を作る時間は人の眠る時をつかわなくてはできなかった。そんな中でつくる俳句に生活の実感が流れないのは嘘だ。貧しい自分の現実を確かめ確かめしながら俳句をつくろうとした。」(「野分の碑」――同前)

              こうして、26年には馬酔木30周年記念特別作品に「長靴に腰埋め野分の老教師」の句を含めた「その後知らず」(25句)で応募し、その時批評に当たった石田波郷がこの句を激賞したことにより、教師俳句へのはっきりした道が開けてゆく。それが処女句集『咀嚼音』に結実する。やがてさらに、社会性俳句、現代的な心象風景句と登四郎は変貌してゆくのだが、そのなかで、「ぬばたま」の句は、ますます遠く置き去られた作品となっていたのである。

               これが大きく変わるのが、『咀嚼音』が定本として復刊されるときである。

              「改版にあたって気に染まない句を二十句ばかり捨て、初版に洩らした句を三十八句ほど加えた。その中には「ぬばたまの黒飴さはに良寛忌」のような私の思いでふかいものも載せた。二十年という歳月が私にそうしたものを許容させたのかも知れない」 
              (『定本咀嚼音』後記――昭和49年5月)

               これは理由がやや不分明だ(また加えた句38句は、後述の湘子の論によれば57句だそうだ)。加えた理由をもう少し具体的に述べている言葉がある。


              「あの作品が作られた二十年から二十九年はいわゆる戦後の暗黒時代で、国民全体が戦争という罪の贖罪のような苦業に充ちた生活をしていたので、私は俳句を通して美や自然を詠うことをつとめて避けた。自然、職場とか仮定とかに素材が限られた・・・。

              それから二十年経って世の中も私の俳句観も変わった。今は人間や生活と言うものにそれほど固執しなくなった。むしろ、大きな自然の中に人間も生活も存在しているのだと思っている。生活のにおいがないという理由で落とした何句かが、こんど採録されている。」


              (「定本咀嚼音について」――沖49年4月)

               しかし、これだけでもまだ状況が判明しない。理由が痛切には伝わらない綺麗ごとなのである。そしてこれをはっきり明言した資料がある。

              「波郷が、5年前に書いた“ぬばたま”批判を、作者の処女句集の跋文であえて繰り返した理由はなんであったか。それは、という波郷推薦の一句に到るまでの、能村さんの成長過程を語るための行文上の手段であったようにも思える。そう思うほうが当たり障りなくて無難である。けれど、私はもっと下賎な推測をはたらかしてしまう。どういう推測か。それは『咀嚼音』の草稿に“ぬばたま”の句も含まれていたからだ、ということである。『咀嚼音』は自選四百五十句を草稿として波郷の閲を乞い、波郷はこれを三百八十余句に削ったと「後記」にある。つまり、波郷が削った七十句足らずの作品の中に“ぬばたま”があった。こんなことは能村さんに訊いてみればすぐ判ることだけど、私はあえて自分の推理を楽しむ。“ぬばたま”の句を見たからこそ、波郷はカチンときて、これに跋文でまず触れたのではあるまいか。下種の勘ぐりと言われるかも知れないが、私はそう思うのである。 
               もっとも、私がそうした推測をする根拠が全く無いわけではない。能村さんの“ぬばたま”に対する愛着が、とりわけ深いと言うことを感じ取れるからだ。」・・・自註シリーズの『能村登四郎集』に、<秋桜子に褒められたが波郷に難じられた句。これも後に定本の中に加えたのは、とにかく出世作だったからである>とあるのをまつまでもなく、こうした要(かなめ)の句は作者の溺愛をうけるようになっているのだ。『咀嚼音』の草稿に“ぬばたま”が入っていたことは、ほぼ間違いないと思う。」) 
              (藤田湘子「『咀嚼音』私記」――沖55年10月)
              長靴に腰埋め野分の老教師

              これは推測だと言うが、登四郎がまだ元気な頃書かれた文章である。登四郎はそれを否定していない。特に、『咀嚼音』直後『途上』と言う句集を出し、その出版社が同じ近藤書店であり、その句集の構成も『咀嚼音』と全く同じ秋桜子の序文・波郷の跋文のついていたことを思えば、この状況が最もよく分かるのは湘子自身であったし、ここにあるようにいかにもありそうな状況だったのではなかろうか【注】(その後、平成2年の富士見書房『能村登四郎読本』の「自句自解(五十句)」で「初版『咀嚼音』は波郷選によるものでこの句は落とされている」とさりげなく書いているから湘子の指摘はまさしく正しかったのだ)。

               そしてこのことからも、波郷が跋文いうように「その句は埋没しても」はたった今埋没させたのだとすれば、それは6年前(23年)の過去の事実ではなくて、句集編纂の現在(29年)の問題であった。そしてそれを再び復活させない波郷の固い意志は「後の俳句に何らかの影響(反作用であつても)をのこしてゐる」に明らかなのである。“ぬばたま”の句は「反作用」としてしか価値を持っていない。

               波郷との闘争がそこから始まるのである。


              【注】「ぼくが「咀嚼音」を出版した後で、洩れきいた話では先生が湘子に「能村君が句集を出すまでは待っていなさい。先に出してはいけないよ。」といわれたそうである。つまり湘子の句集上梓は、すでに先生のそんな言葉があった程熟していたのである。「咀嚼音」出版後一年にして彼の青春句集「途上」が出版された。(能村登四郎「偽青春」――「南風」32年3月)

              上田五千石の句【夜長】/しなだしん

              山風は山にかへりぬ夜長酒  上田五千石

              第四句集『琥珀』所収。昭和六十三年作。

              「中山道 望月の牧へ 四句」との前書のある冒頭句。

                      ◆

              前書の「中山道 望月の牧」とは、中山道六十九次のうち江戸から数えて二十五番目の宿場「望月宿」あたりのこと称するようだ。

              「望月宿」は、現在の長野県佐久市望月にあたり、天保十四年の『中山道宿村大概帳』によれば、望月宿の宿内家数は八十二軒で、本陣一、脇本陣一、旅籠九軒。宿内人口は三百六十であったとされる。

              この「望月宿」の名は、平安時代からこの地を収めていた豪族「望月氏」の姓とされ、望月氏が朝廷や幕府に献上していた馬の名産地として蓼科山裾野の「望月の牧」からともいわれる。
              望月氏の名は「望月の牧」からとされ、「望月の牧」の由来は、一族が毎年旧暦八月十五日の満月の日、つまり望月に馬を朝廷や幕府に献上していた為とされる。

                      ◆

              紀貫之(きのつらゆき)の和歌に

              逢坂の関の清水に影見えて今やひくらむ望月の駒

              があり、これは「駒迎え」の儀式の情景を詠んだもの。「駒迎え」は当時朝廷の馬寮の役人などが、逢坂の関(現滋賀県大津市)まで出向き「望月の駒」を迎えた儀式だという。

                      ◆

              掲出句は、この「望月の牧」を訪ねた折の、秋の「夜長」を詠っている。

              おそらく五千石は前述の歴史や背景を解ったうえで、この地を訪れたのだろう。「中山道 望月の牧へ」という前書にも高揚感があらわれているように思われる。

              現地での夜、酒を酌み交わしながら、いにしえの「望月の駒」に思いを巡らせた五千石だろう。

              「山風は山へかへりぬ」は一般的に常套とも思われるが、献上されるため引かれてゆく望月の駒のことや、戦国時代には滅亡を迎える望月家のことを思うと、「山風」に風情が感じられる。

              「夜長」を「夜長酒」という名詞で使ったことも、この句の手柄といえる。

                      ◆

              佐久市望月では、「榊祭り」が毎年八月十五日に行われるという。「榊祭り」は信州の奇祭と云われる火祭。榊と獅子で心を清め、火によって身の穢れを焼払い、豊作と無病息災を祈願するという。
              一度は訪れてみたい地である。



              2014年9月19日金曜日

              第87号 2014年09月19日

              作品
              平成二十六年 夏興帖 第四
              ……今泉礼奈・藤田踏青・林雅樹・花尻万博・佐藤りえ
              関根誠子・小久保佳世子・羽村 美和子・西村麒麟
              下坂速穂岬光世・依光正樹・依光陽子   》読む

              <現代風狂帖>

              No.39  西瓜糖ほどの場所、他2つの短編、そしてあとがき。  
              ……小津夜景  》読む




              ●鑑賞・書評・評論・エッセイ 

              【戦後俳句を読む】

              • (「我が時代――戦後俳句の私的風景」の附録)
              能村登四郎の戦略――無名の時代 (5)  ……筑紫磐井 》読む


              • 小川軽舟の十句 (2)  
              ……竹岡一郎   》読む

              •  中村苑子『水妖詞館』
              ―― あの世とこの世の近代女性精神詩 45.46.47.48……吉村毬子   》読む

              【現代俳句を読む】

              • <エッセイ・評論>大井恒行の日日彼是       ≫読む
              読んでなるほど!詩歌・芸術のよもやま話大井恒行ブログ更新中!!
              • <朝日俳壇鑑賞> 時壇 ~登頂回望 その三十三~


                (前号より継続掲載)



                <書評> 吉村毬子句集『手毬唄』を読んで

                ……大久保春乃(歌人)  》読む


                <俳句時評>帰ろう、それから、手を繋ごう。ー佐藤文香の現在地について
                ……外山一機   》読む



                <俳句時評> 俳句を世に出す ……堀下翔   》読む


                <こもろ特集>日盛り俳句祭レポート −稜線のような旅路−

                ……黒岩徳将  》読む


                <こもろ特集>シンポジウム 「字余り・字足らず」
                ……瀬越悠矢   》読む


                <こもろ特集>日盛り俳句祭レポート―十八歳の小諸紀行―  
                ……浅津 大雅  》読む


                <こもろ特集>付録・詩歌を巡る長野の旅2.(石牟礼道子編)
                ……北川美美  》読む

                <こもろ特集>付録・詩歌を巡る長野の旅1.(日盛俳句祭参加録編)

                ……北川美美  》読む
                (詩客より)
                <俳句評> 俳句を見ました。(1) 
                ……鈴木一平   》読む

                <俳句評>村松友次(紅花)先生のことなど。 
                ……江田浩司   ≫読む

                <俳句評>「澤」七月号とか、めくってみた 
                ……高塚謙太郎   ≫読む

                <俳句評> 気になる夕暮れ 
                ……カニエ・ナハ   ≫読む




                【現代短歌・自由詩を読む】
                <自由詩> 落下の王国 ― 田村隆一
                ……丑丸敬史  》 読む

                〈自由詩〉私の好きな詩人  ひたむきに走るものたち -阿部岩夫- 

                ……柴田千晶   》読む



                〈短歌世界のシステムに抗する歌・木下龍也論
                ……竹岡一郎   ≫読む

                〈自由詩〉映りこむもの

                ……依光陽子   ≫読む






                ● あとがき  ≫読む
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                           中村苑子の句  【『水妖詞館』―― あの世とこの世の近代女性精神詩】45.46.47.48/吉村毬子


                          45 絡み藻に三日生きたる膝がしら
                           
                          前回にも「絡み」の句があった。

                           41.鐘の音の絡みて震ふ髪を梳く
                          41.は髪に絡んだ鐘の音であり、今回の句は、膝がしらに絡んだ藻である。「絡み藻」は、その形状から抜けた女の髪を思わせるので、仮に、41の続編だとすると、鐘の音の絡みついた髪が「膝がしら」に3日間絡んでいるということになる。その状況だけで充分怪談めいているのだが、それだけではない。「に」の格助詞が句意を怪しくさせているのである。助詞が「の」であれば、「絡み藻」は3日経つと「膝がしら」から離れたことになるが、「に」によって、「三日生きたる」は「膝がしら」に掛かってくる。3日経つと「膝がしら」が死んでしまうような読みも浮上してくる。「絡み藻には」と理解し、前者の解釈も成り立つが、「絡み藻」によって、3日間だけ生きた「膝がしら」は、たとえその後死んでいなくとも、生き生きとしていない状態、死んだような状態であることになる。「膝がしら」にとって「絡み藻」は、3日であっても生きた証なのである。「絡み藻」が髪に象徴される女であり、「膝がしら」が男のものであるとすると、艶かしい話となるが、「絡み藻」が女の髪のみであるので、成仏しない女の怨念が絡みつく「水妖」の世界ともとれる。

                          もう一漕ぎ 義足の指に藻を噛ませ      鷹女『羊歯地獄』

                           三橋鷹女の句は「義足の指」である。生の足ではなくなった「義足の指」に「藻を噛ませ」ているのである。上五の「もう一漕ぎ」は、その後に一字空白があるけれども、義足の主の動作であろう。鷹女は、義足になった不自由な足でも「もう一漕ぎ」と自身を奮い立たせる。この句を所収する句集『羊歯地獄』の「自序」を思い出さずにはおられない。

                            (前略)一句を書くことは 一片の鱗の剥脱である
                                一片の鱗の剥脱は 生きてゐることの証だと思ふ
                                一片づつ 一片づつ剥脱して全身赤裸となる日の為に
                                『生きて 書け―』と心を励ます
                          「自序」で誓った言葉そのものの如き一句であるが、苑子の句との共通点がある。それは「藻」の力である。鷹女は、「指に藻を噛ませ」勢い立つ。苑子は、「膝がしら」に「藻」を絡ませ、3日の生命を与える。そして、二人が尊敬する先達の女流俳人、杉田久女も「藻」の力を信じていたようである。

                            春潮に流るる藻あり矢の如く       久女『久女句集』
                          久女の句は、上五中七の平凡で控えめな表現から、下五の「矢の如く」は意表を突く。当時の女流俳人の多くは、台所俳句と呼ばれる類に傾注していた。(そんな中にあって、〈短夜や乳責り泣く子を須可捨焉乎(ステッチマオカ)〉を発表した竹下しづの女も異才を放ち、久女も「花衣」で取り上げている。)久女の句は、昭和4~10年の間の作品であり、自ら創刊し、僅か5号で、昭和7年に廃刊してしまった「花衣」時代に該当するため、久女が俳句に最も奮起していた頃の作品である。「矢」のごとき「藻」は自分自身であろう。〈久女よ。自らの足もとをたゞ一心に耕せ。茨の道を歩め。貧しくとも魂に宝石をちりばめよ。〉の辞を掲げ創刊した頃なのか、〈私もまだへ力足らず二人の子の母としても、又滞りがちの家庭の事情をも、も少し忠実にして見たく存じて居ります。〉と廃刊の辞を述べた頃なのかは判然としないが、久女は、「花衣」廃刊後も俳誌「かりたご」(清原枴道主宰、朝鮮釜山発行)の女性雑詠選者を続けており、昭和8年9月号の文章を抜粋してみる。

                            いつ迄も無自覚に類型的な内容表現にのみ安心してゐるべきではなく、漫然と男性に模倣追従してゐるばかりでは駄目だと思ひます。女流という自覚の上に立って、自らのよき句境涯をきりひらいてゆく努力勉強がぜひ必要です。

                           久女の句が「花衣」廃刊の頃の作品で〈春潮に流されてしまう藻〉を詠んだとしても、
                          その「藻」は「矢の如く」流れの先へ直進していくのである。しかしながら、「花衣」廃刊
                          の辞が、たとえ語られる通りであれ、久女ほどの向日性を以てしても、女性が一誌を発行
                          し続けることは難しかったのだ。

                           昭和29年、8名の発起人(加藤知世子・鈴木真砂女・池上不二子・桂信子・細見綾子・
                          横山房子・野澤節子・殿村菟絲子)によって創刊された超結社誌「女性俳句」の創刊理由
                          は、家を空けることのできない全国の女流俳人達の勉強会と懇親のためであったと、創刊
                          後ほどなく入会した苑子から聴いた。平成4年に入会した私は、その時初めて女流俳句の
                          歴史というものを考えた。家事も便利になり、交通機関の発達とともに女性が全国どこへ
                          でも出掛けられる時代になり、女性の社会進出とともに、本来の目的のひとつを果たせら
                          れたことも終刊(平成11年)の理由であったらしい。

                           冒頭に述べたように「藻」は、女の髪に似ている。日輪の日射しを透かして水中にゆら
                          ゆらと泳ぐ様は、美しく優雅でさえある。そして、藻刈りをしなければならないほど繁茂
                          する生命力をも持つ。嫋やかで強靭ともいえる「藻」に、自身をなぞらえて女流俳人は詠
                          う。

                           久女は凛然と、鷹女は剛直に、そして苑子は妖艶な深い撓りを持って……。

                            くらがりに藻の匂ひして生身魂     苑子『花隠れ』吟遊以後

                          46 くびられて山鴉天下真赤なり

                          あれは、5年前の苑子の忌日(1月5日)のことである。私は、俳人の連れ合いと冨士霊園へ墓参し、墓を立ち去ろうとした時である。私達二人の頭上をすれすれに大きな鴉が行き過ぎた。苑子と重信の墓碑に俳句の精進を誓った直後なだけに、二人の遣いとして、我らの頭上でバサバサと羽音をたてたのではないかと、一羽の鴉が寒風の真冬の空に去ってゆくのを放心状態で視つめていたのである。

                          苑子は、鴉が好きだったような気がする。鴉の濡羽色の美しさを語り合ったことがある。彼女はその狡猾さもしきりに語っていたが、嫌悪感というよりも、頭の良さが不思議でならないと言った表情がひどく印象に残っている。

                           3.河の終りへ愛を餌食の鴉らと     『水妖詞館』 
                           6.鴉いま岬を翔ちて陽の裏へ         〃 
                             鴉らよわれも暮色の杉木立      『四季物語』 
                             羊歯刈るや羽づかひ荒き山鴉     『花隠れ』「春燈」時代 
                                               (『四季物語』にも所収)

                          苑子の鴉の句を掲げてみた。1、2句目は、すでに鑑賞済みのものである。俳句は、物に自己投影する手法が多く摂られるが、苑子の「鴉」は他者であるようだ。しかし、1句目の「鴉らと」や、3句目の「鴉らよわれも」の表記から、同志的なものを感じているようである。「陽の裏へ」翔ち(2句目)、「羽づかひ荒き」(4句目)鴉らに好奇心を持って凝視している様子が伺える。

                          苑子は、『四季物語』(昭和54年)刊行以後、「鴉」の句を発表していない。(『四季物語』には、もう一句〈空谿(からだに)を鈍な鴉が啼きわたる〉がある)。『花隠れ』所収の句も「春燈時代」と記されている。高柳重信が長逝したのは昭和58年である。以前〈3.河の終りへ愛を餌食の鴉らと〉の鑑賞で、

                           私には、「鴉」らが、重信をはじめとした俳句評論の同人達に感じられて仕方がないのだが……。

                          と書いた。「鴉」もまた、重信ではないかとの憶測が私にはある。手元にある句会での資料(私が指導を受けていた平成3年~没年の前年12年迄であるが)を探ると、平成7年2月5日東京、駒込の「六義園吟行句会」に出句した〈雪の園人恋ふごとく鴉啼き 苑子〉の一句があるのみである。「園」が「苑」であり、名園の雪の中の苑子に「鴉」の重信が啼いているのか――。

                            喪を終へて喪へ生涯の鴉らと   鷹女『羊歯地獄』
                          下五が、「鴉らと」置かれ、苑子のように鴉を同志として扱った三橋鷹女の句であるが、上五中七が鷹女らしく意味深長である。この句は、昭和33年に書かれているが、その年「薔薇」を発展的に解消した同人誌「俳句評論」が創刊された。鷹女は、昭和28年に高柳重信に誘われて「薔薇」の同人になっていた。(昭和15年「紺」を退会して以来の俳誌参加であった。)在籍8年の「春燈」を辞して、高柳重信とともに発行所を立ちあげた苑子は勿論であるが、鷹女にとってもまた、新たなる俳句道への覚悟の気持ちの引き締めがあった筈である。

                           「喪を終へて」は、前年母を亡くしたことや、10年余りも時を経た終戦なども考えられるが、その次の「喪へ」と続くことで、「喪」は俳句を指しているのではないか。俳句革新を懸けた気鋭の仲間達と茨の道を進んで行くことが、「喪へ生涯の鴉らと」に込められていると思われて仕方がない。句集に収められた次の句もまた感慨深い。

                            濤狂ふ濤のゆくてに渚無く    鷹女『羊歯地獄』
                          さて、苑子の掲句であるが、他の鴉の句に比べると唯事ではない事が起こっている。以前〈36.狂ひ泣きして熟練の鸚鵡をくびる〉は自らの手で鸚鵡をくびる句であったが、今回は、山鴉が「くびられて」いるのを見ているのである。人は、自分が無惨な行為に堕ちていっている時は、無我夢中であるが、見る側に立った場合、沈着冷静なだけにその無惨さに恐れをなすことがある。「天下真赤なり」という状況はその色彩から鮮血さえもイメージすることができよう。一日が終わる時刻、日輪は沈み、西天を、天が下を血の色に染め上げる。くびられた鴉が西方浄土を彷彿とさせる真赤な西の空にうなだれているのか――。「なり」の言い切りが、客観的な語法を強めながら、山鴉と山鴉を包み囲む山々の黒さと、真赤な夕焼けのコントラストによる、鮮やかな色彩を、非情な美しさとして浮かびあがらせてくるのである。

                           因みに女流俳人の「鴉・烏の句」を拾ってみた。

                            人を人と思はぬ浜の寒鴉          鈴木真砂女 
                            低く飛ぶ寒鴉敵なく味方なし        津田清子 
                            塔古るぶ気触れの烏棲みつきぬ       福田葉子 
                            万のこと恃みし愚か梅雨鴉         稲垣きくの 
                            熟柿つつく鴉が腐肉つつくかに       橋本多佳子

                           水鳥や鶯、雲雀などよりも、鴉の声と姿は敬遠される特異な存在なのではないか。

                           自己の心情を詠う句にも、鴉は独特の位置を占めているようだ。真砂女の境涯、清子の個性、葉子の幻妖さ、きくのの人生等を感得できる。多佳子の句は、没年の昭和38年(64歳)のものであるが、衰えゆく身体と精神を見据えて吐露した呟きが鬼気迫る。

                           歴代の有季定型作品には、生活の一端や背景を描く作品が見受けられたが、情緒のある美しい作品を掲げてみる。

                             初雪や鴉の色の狂ふほど          加賀千代女 
                             身を透明に春の鴉が歩き出す        柴田白葉女

                           江戸時代、各務支考に師事し、画も熟(こな)す千代女ならではの黒い鴉と、一面の雪景色の純白が、鴉の濡羽色を狂うほどに際立たせている。白葉女の句の、「透明に」は、「春の鴉」が見事に設えられていて繊細な明るさが醸し出されている。

                           柴田白葉女は、いわれなき不幸な殺人事件で非業の死を遂げている(昭和59年、77歳)。江戸時代、一般女性には遠かった俳句を千代女や遊女・歌川らが残し、近代の久女やしずの女、4Tたちが切り開き、継承され花開いた現代女性俳句の歴史に残されたこの奇怪な事件は、誠に悲しむべきことである。(栗林浩著『新・俳人探訪』で詳細に記されている。)前回記述した「女性俳句」や「俳句女園」を創刊し、女流俳句の発展に努めた、名の知れ渡った女性であるが故に起こった事件なのである。この21世紀は、女であることが芸術の妨げにならないことを祈るのみである。それはきっと、先達の願いでもある筈だ。

                             落日の巨眼の中に凍てし鴉          赤黄男
                          冒頭の5年前の苑子・重信の墓参の際の鴉は、その後の苑子忌の墓参の折り再びは訪れてはくれない。一度、7月8日の重信忌に行ってみようかなどと思っている。あの鴉の濡羽色が夏富士ともよく似合いそうである。


                          47 船霊や風吹けば来る漢たち


                             男らの汚れるまへの祭足袋         飯島晴子『寒晴』

                           御輿は男性が担ぐものである。(近年は女性の担ぐ姿も見られるが)船も、女性が乗ると海が荒れたりするとして、忌む傾向がある。それは、船霊が女の神とされるからである。漁民の大漁や航海の安全などを願い、男女一対の人形、女の髪、櫛、簪、銭、さいころ、五穀などを船に奉納するが、女の髪が一番古くから伝わっていると云う説がある。命懸けの航海に家族の形見として持って行くという意味もあるらしい。

                           前回、〈41.鐘の音の絡みて震ふ髪を梳く〉、〈45.絡み藻に三日生きたる膝がしら〉では、女の髪の妖艶さに関連付けたが、今回の、神事の髪は男たちが崇めるものであろう。

                           晴子は、神体や御(お)霊(み)代(しろ)が乗るとされる、御輿を担ぐ前の男達の溌溂とした姿を「足袋」に託し、清々しい男の色気を詠んでいるが、苑子は、航海から帰らなかった男達の静寂且つ清爽な御霊を詠っているようである。中七「風吹けば来る」の寂寥感が、〈28.放蕩や水の上ゆく風の音〉を彷彿とさせる。

                           航海の前に、神仏を「船霊」に奉ると、海風に乗って現れる「漢たち」。漁に出掛け、遭難し波に消えた「漢たち」や、戦争の犠牲となり海に散った「漢たち」が、海に囲まれたこの小さな島国を、女たちを、懐しみふわりとやって来るのだ。女の神である「船霊」が、大らかな風にのせて手招いているような神話性があり、御霊を詠んでいるのに妖しさは感じられず、子守唄のような調べさえ持つ。
                           高柳重信の句集『日本海軍』もまた、海に散った軍艦やその地名を歌枕として、日本の地霊を悼み、慈しんだ男の子守唄の如き、多行形式の詩である。

                                一(         ひと)()
                             (ふた)()
                             ()(かさ)やさしき
                             (たま)しづめ             

                             ()をこめて
                             ()
                             言霊(ことだま)
                             金剛(こんがう)

                             海彦(うみひこ)
                             (たたみ)(およ)
                             嗚乎(ああ)
                                高            たか
                          )
                          高柳重信『日本海軍』昭和54年(56歳)



                          巻末に随筆「富士と高千穂」を加え、〈昭和の子供〉について自身の体験や思を語っているこの句集は、刊行当時、「戦場へ行った者には(とても)書けない(はずだ)。」という意見もあったと聞く。それならば、胸部疾患のため、戦場へ行けなかったからこそ、まとめあげられた、重信晩年の入魂の仕事だったのではないだろうか。(昭和58年没、60歳)

                             戦争と女はべつでありたくなし          藤木清子 
                             戦死せり三十二枚の歯をそろへ            〃 
                             黙禱のしづけさ空にとりまかれ            〃

                          藤木清子は伝説の俳人である。生年、出身地も不明である。昭和8年に藤木水南女名で「蘆火」(後藤夜半主宰)に投句し始め、同誌終刊後、「天の川」「京大俳句」などに出句。昭和10年創刊の「旗艦」(日野草城主宰)へ参加し、新興俳句最初の女性として同誌同人となる。昭和15年10月号を最後として俳句から身を引き、その後は不明である。

                           3句とも、戦争を詠んでいるものであるが、昭和15年が最後の投句であるため、昭和16年の太平洋戦争開戦から昭和20年の終戦、そして戦後も清子が無事であったならば、掲句の3句よりも過酷な情況にあった訳である。清子は、俳句を書くことを本当に辞めてしまったのだろうか。詩人は、窮極の果て、魂の叫びを詠うものである。富澤赤黄男のように戦場での慟哭や哀絶は綴りようもないが、1句目の毅然とした覚悟、2句目の冷静な怒り、3句目からは、哀切の嘆きの詩を書かずにはおられないという思いが痛切に伝わってくる。清子にはたとえ薄汚れた紙片と言えども、一句でも俳句を書き留めておいて欲しかった。反戦的な内容だと周囲の人々に止められたのか、戦時状況の悪化のために、已むを得ない理由があったのか、誰にも解らない事だが、時代は、一人の貴重な俳人をまた一人失ったのである。

                           苑子は、戦死した夫の遺品の句帖を手渡されたことが、俳句を始めた切っ掛けとなった。苑子は、生涯、戦争の句を作らなかった。20年近く前の句会でのことである。

                             爪噛んで血の出ぬ八月十五日           広美(毬子)
                          私の拙い句を何人かが褒めてくれた。しかし、苑子は選句しなかったので、二次会の席でどう修したら良いのか尋ねると、「修すところは無いと思います。でも私は、戦争の句は作りません。あんなに惨めで屈辱的な思いは二度としたくありません。」―― 静かな口調であったがきっぱりと言った。私なりに、祖父母や父母、俳句教室の先輩達から聞いた話や、映画や小説で感じた思いもあったため、私は苑子の言葉に驚き、落胆した。その様子を見て「あなたに作っていけないとは言っていません。書きたいと思えばお書きなさい。」と笑顔で言ったのであった。現金な私は、(若気の至りである)「はい。作り続けます。私たちの世代が伝えなければならないと思います。」と元気に答えたのである。しかし、その後8月が来るたびに慎重にならざるを得なかった。少なくともこのやり取りが、私に、簡単には戦争の句を作らせない結果となったのである。苑子が選ばなかった拙句は、戦争を知らない世代のひとりよがりで曖昧なだけの句であった。

                           苑子は戦争にこだわらず、直接的な表現ではない、もっと遥かな人間愛としての鎮魂詩を書けと教えてくれたような気がする。

                           今回の句を、子守唄のようであると先述したが、苑子が女の神である「船霊」となり、遠い処から「漢たち」が引き寄せられて来るような爽やかな艶をも持つ。いつかは、この心境に近付きたいと思っているのだが……。

                           研ぎ澄まされた才能を持った藤木清子を女流俳句が失ってしまったことを、さらに、現代の女流俳句をともに築きあげてきた飯島晴子(大正10年生まれ)の自死(平成12年6月、79歳)を無念だと語っていた。平成12年7月の句会後、「吉村さん、私は自死はしないわ。」と呟いてから半年後(平成13年1月、87才)苑子は静かに永眠した。

                             しろい昼しろい手紙がこつんと来ぬ           清子 
                             白き蛾のゐる一隅へときどきゆく            晴子『蕨手』 
                             白地着て己れよりして霞むかな             苑子『花狩』

                           
                          48 はるばると島を発ちゆく花盥

                          「花盥」とは美しい言葉であるが、上五中七から受ければ盥舟に花が散り降る中、島を発つということであろうか。盥舟といえば、佐渡ヶ島が有名であるが、佐渡ヶ島とともに芭蕉の『奥の細道』に名を残す、結びの地、〈蛤のふたみにわかれ行く秋ぞ〉と詠われた岐阜の大垣でも観光のひとつになっているそうだ。

                          荒海や佐渡によこたふ天河               松尾芭蕉『奥の細道』
                          芭蕉が、出雲崎から眺めた佐渡を「海の面ほの暗く、島の形彩雲に見え」と感動し、順徳天皇、日蓮上人、世阿弥など遠流された人たちを思い浮かべ、悲痛な流人の境涯として、佐渡の歴史への回想を込めて詠まれた。

                           苑子の戦死した新聞記者の夫は、佐渡出身である。以前も、

                             22.行きて睡らずいまは母郷に樹と立つ骨

                          の回で、苑子が佐渡の歴史や文化を愛していたことを書いたが、今回の句に佐渡情話を思い浮かべたのである。佐渡情話は、佐渡おけさを基に浪曲師寿々木米若が脚色し、口演したレコードが売れて有名になった。佐渡の漁師の娘お弁は、越後国柏崎の船大工藤吉と恋仲になったが、佐渡での仕事を終えた藤吉が柏崎へ帰ると、お弁は盥舟に乗って逢いに通った。妻子のある藤吉は、煩わしくなり、お弁の目印にしている常夜灯を消してしまい、お弁は波にのまれ翌朝柏崎の浜に打ち上げられていた。藤吉は罪の深さに自身も海に身を投げて後を追うという話である。

                          「花盥」と「はるばると」に、花の盛りの華やかさと春の伸びやかな海と空を思い描く。前句〈47.船霊や風吹けば来る漢たち〉は、海から「来る漢たち」であったが、今回は、「発ちゆく花盥」に女を乗せている様子がうかがえる。満開の花の下、盥舟も女も春陽に舞う花片を浴びながら、島を発つのである。旅人であろうか。「瀬戸の花嫁」という流行歌があったが、佐渡の花嫁なら尚、艶(あで)やかである。佐渡情話のお弁が、花嫁の如き心情で藤吉の元へ毎晩通いつめているその情景こそ、掲句に適うものであろう。お弁は愛しい人へ逢うために「はるばると島を発ちゆく」のだ。小さな盥舟に、小さな己が身と溢れる恋情を乗せて、やがて散りゆく花の中を――。

                             濠の菱舟むかしむかしの音きします        加藤知世子『太麻由良』
                          佐渡ヶ島を有する新潟県出身の俳人、加藤知世子は、加藤楸邨の妻である。昭和4年、楸邨と結婚後、ともに「馬酔花」で水原秋桜子の選を受け、15年楸邨が「寒雷」を創刊し、同人となる。昭和29年創刊の「女性俳句」発起人の一人である。(明治42年生、昭和61年没、76歳)

                             横顔の夫と柱が夕焼けて             知世子『冬萠』 
                             稲光り男怒りて額美し               〃   〃 
                             夏痩せ始まる夜は「お母さん」売切です       〃 『朱鷺』 
                             夫婦友なる刻香りけり机上の柚子          〃 『太麻由良』 
                             めをと鳰玉のごとくに身を流す           〃 『菱たがへ』

                          夫婦ともに俳人の家庭は、苑子も同じであった。(重信と苑子は入籍はしていなかったが)苑子の場合は、寡婦となってからの後半生25年間をともにしたが、知世子は56年間である。知世子の作品から夫や子を詠んだ句を拾ってみた。2句目は夫とは表記されていないが、同句集に〈怒ることに追はれて夫に夏痩せなし〉があるので楸邨のことであろう。楸邨は怒りっぽかったのだろうか。その2句目の下五「額美し」や、4句目の「夫婦友なる刻」の様子、5句目の瑞々しさ溢れる情愛など、夫婦俳人のひとつの典型が見受けられる。

                           苑子は、知世子を慕っていたようであった。私が「女性俳句」へ入会した頃は知世子は亡くなっていたが、その貢献ぶりをよく語っていた。山梨県甲府に「中村苑子俳句教室」で旅吟した際、小淵沢の「加藤楸邨記念館」(平成13年に閉館、資料等は埼玉県桶川市の「さいたま文学館」に引き取られた。)へ足を延ばし、夫婦句碑の知世子の碑を撫でては感慨深げであった。

                             落葉松はいつ目ざめても雪降りをり           楸邨 
                             寄るや冷えすさるやほのと夢たがへ           知世子

                           苑子が「女性俳句」の懇親会で私を紹介してくれた女流俳人がいる。上品で美しいその姿について話す私に苑子も笑顔で相槌を打った。その人は、知世子とともに「女性俳句」創刊時の発起人の一人である、福岡県小倉市出身の横山房子であった。(大正4年生、平成19年没、92歳)

                             夕顔の闇よりくらき蚊帳に入る             房子『背後』
                          横山房子も夫婦ともに俳人である。房子は昭和10年より「天の川」に投句。吉岡禪寺洞に師事。12年、横山白虹主宰の「自鳴鐘」創刊同人。13年にら白虹と結婚。33年、山口誓子の「天狼」に白虹とともに同人参加。58年、白虹没後「自鳴鐘」主宰継承。

                             客たちて主婦にあまたの蚊喰鳥             房子『背後』 
                             秋燕駅の時計を子に読ます                〃  〃 
                             夫の咳やまず薔薇喰ふ虫憎む               〃 『侶行』 
                             夕顔の数の吉兆夫に秘す           〃  〃 
                             枯芝に柩の夫を連れ還る                 〃 『一揖』

                           房子の家族の句も引いてみた。3、4句目の夫を思いやる句々を読むほどに、5句目の夫の死の悲しみが静かに伝わってくる。房子も白虹との夫婦句碑が建立されている。

                             梅寂し人を笑はせるときも               白虹 
                             欄に尼僧と倚りぬ花菖蒲                房子

                           俳人同志の夫婦であり、夫が主宰誌を持つという事の苦労は計り知れない。夫を理解し、夫を立て、客人のお世話をする。主宰誌の同人への気遣いも勿論あったであろう。しかし、家庭の主婦、母としての役目もある。そして何よりも自身の俳人としての仕事がある。知世子も房子も、女流俳句の発展のために「女性俳句」を他の6名の俳人と設立もした。俳句とは無縁の日常生活においては、著名な女流俳人といえど、「○○さんの奥さん」と、ご主人の名で呼ばれることが多い。夫の知名度が高かったとしても、知世子、房子、苑子は、自らの作品が世に出ても、相変わらず「奥さん」と呼ばれることがあったであろう。それでも笑顔で皆にお辞儀を繰り返す日々、心の芯は常に折らずにしっかりと張りつめていたはずだ。苑子が二人に特別な好意を持っていた(ように私には思えた)のは、半世紀に渡り、蔭になり日向になり夫を支えながら、女流俳人としても一家を成した二人に、尊敬に価するものがあったからであろう。

                             初泣きや二階の我を夫知らず               知世子『頬杖』 
                             白菊や暗闇にても帯むすぶ                 〃 『朱鷺』 
                             納骨のあとの渇きに蟻地獄                房子『一揖』 
                             声出して己はげます石蕗の花                〃  〃

                           佐渡へ遠流された世阿弥の『風姿花伝』に、

                             家、家にあらず。次ぐをもて家とす。

                           とある。血縁者が「家」となるのではなく、真に芸を継ぐ者を「家」とする厳しいものだと世阿弥は云う。縁者として主宰誌を継ぐ苑子や房子に残されたものの大きさは、その運命に立たされた者にしか解らない。房子は白虹亡き後の「自鳴鐘」主宰を継承した。苑子は重信亡き後、「俳句評論」を200号まで存続させ、終刊した。苑子に「俳句評論」時代の話は時折り聴いたが、その事については一言も語らなかった。加藤知世子、野澤節子が天上で見守る「女性俳句」は、現代女流俳人に様々な奇跡と軌跡を残し、さらなる女流俳人の躍進を誓い合い、平成11年その幕を閉じた。天上の苑子も房子も終刊の際の中心的存在であった。

                           世阿弥の『風姿花伝』を再度引く。

                             秘すれば花なり、秘せずは花なるべからず。
                          花は一年中咲いておらず、咲くべきときを知っている。能役者も時と場を心得て、観客が最も花を求めている時に咲かねばならない、と説いている。

                           前述したように、今回の掲句は佐渡情話のお弁によせる「花盥」の悲愛へと趣いてしまったのである。お弁をのせた盥舟は、水草のように揺れながら、命短かい花散る中を沖へ沖へと小さくなって行く。お弁は、花の咲くべき時を知り、藤吉への愛を貫いたのだろうか――。

                             野は雪解越後女は荷が多き               知世子『夢たがへ』 
                             追憶の淵へは行かず螢飛ぶ               房子『一揖』 
                             風落ちて水尾それぞれに月の鴨             苑子『吟遊』





                          【執筆者紹介】

                          • 吉村毬子(よしむら・まりこ)

                          1962年生まれ。神奈川県出身。
                          1990年、中村苑子に師事。(2001年没まで)
                          1999年、「未定」同人
                          2004年、「LOTUS」創刊同人
                          2009年、「未定」辞退
                          2014年、第一句集『手毬唄』上梓
                          現代俳句協会会員
                          (発行元:文學の森