2020年5月29日金曜日

第137号

※次回更新 6/12

俳句新空間第12号 予告

特集『切字と切れ』

【紹介】週刊俳句第650号 2019年10月6日
【緊急発言】切れ論補足

【新企画・俳句評論講座】up!

・はじめに(趣意)
・連絡事項(当面の予定)
・質問と回答
・テクスト/批評   》目次を読む

【新連載・俳句の新展開】

句誌句会新時代(その一)・ネットプリント折本  千寿関屋  》読む
句誌句会新時代(その二)・夏雲システムの破壊力  千寿関屋  》読む
[予告]ネット句会の検討  》読む
[予告]俳句新空間・皐月句会開始  》読む
皐月句会デモ句会結果(2010年4月10日)  》読む
第1回皐月句会報(速報)  》読む

【新連載】『永劫の縄梯子』出発点としての零(1) 救仁郷由美子  》読む

【読み切り】
「鷗寄る現代五感の豊漁なり」『楡の茂る頃とその前後』(藤田哲史) 豊里友行

■平成俳句帖(毎金曜日更新)  》読む

令和二年花鳥篇
第一(5/22)仙田洋子・杉山久子・大井恒行・池田澄子
第二(5/29)加藤知子・岸本尚毅・夏木久・神谷 波

令和二年春興帖
第一(3/20)仙田洋子・曾根 毅・夏木久
第二(3/27)五島高資・松下カロ・辻村麻乃
第三(4/3)堀本 吟・木村オサム・林雅樹
第四(4/10)前北かおる・神谷波・杉山久子・望月士郎
第五(4/17)内村恭子・早瀬恵子・渕上信子・真矢ひろみ・仲寒蟬
第六(4/24)ふけとしこ・渡邉美保・下坂速穂・岬光世・依光正樹・依光陽子
第七(5/1)妹尾健太郎・なつはづき・小林かんな・山本敏倖・水岩瞳・五島高資・青木百舌鳥
第八(5/8)飯田冬眞 ・小沢麻結・坂間恒子・網野月を・井口時男・中村猛虎
第九(5/15)花尻万博・竹岡一郎・中山奈々・北川美美・大関博美・小野裕三
第十(5/29)岸本尚毅・佐藤りえ・筑紫磐井

■連載

【抜粋】〈俳句四季5月号〉俳壇観測208
俳句文法を考えてみる――文法の「間違い」とは何だろう?
筑紫磐井 》読む

英国Haiku便り(10) 小野裕三  》読む

ふけとしこ第5句集『眠たい羊』を読みたい
インデックスページ    》読む
6 桃の花下照る道に出で立つをとめの頃からずっとふけとしこ/嵯峨根鈴子  》読む

葉月第一句集『子音』を読みたい 
インデックスページ    》読む
8 パパともう一人のわたし/北川美美  》読む

麻乃第二句集『るん』を読みたい
インデックスページ    》読む
17 無意識の作品化、俳句のフレームを超えて/山野邉茂  》読む

寒極光・虜囚の詠~シベリア抑留体験者の俳句を読む~㉜ のどか  》読む

渡邊美保第一句集『櫛買ひに』を読みたい 
インデックスページ    》読む
6 『櫛買ひに』を読む/山田すずめ 》読む

句集歌集逍遙 樋口由紀子『金曜日の川柳』/佐藤りえ  》読む

大井恒行の日々彼是 随時更新中!  》読む


■Recent entries

 第5回攝津幸彦記念賞応募選考結果
 ※受賞作品は「豈」62号に掲載
特集・大本義幸追悼「俳句新空間全句集」 筑紫磐井編  》読む
「兜太と未来俳句のための研究フォーラム」アルバム
※壇上全体・会場風景写真を追加しました(2018/12/28)
【100号記念】特集『俳句帖五句選』

佐藤りえ句集『景色』を読みたい 
インデックスページ    》読む

眠兎第1句集『御意』を読みたい
インデックスページ    》読む

麒麟第2句集『鴨』を読みたい
インデックスページ    》読む

前衛から見た子規の覚書/筑紫磐井
インデックスページ    》読む

「WEP俳句通信」 抜粋記事  》見てみる

およそ日刊俳句新空間  》読む
…(今までの執筆者)竹岡一郎・青山茂根・今泉礼奈・佐藤りえ・依光陽子・黒岩徳将・仮屋賢一・北川美美・大塚凱・宮﨑莉々香・柳本々々・渡邉美保 …
4月の執筆者 (渡邉美保

俳句新空間を読む  》読む
…(主な執筆者)小野裕三・もてきまり・大塚凱・網野月を・前北かおる・東影喜子


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豈62号 発売中!購入は邑書林まで


筑紫磐井著『女帝たちの万葉集』(角川学芸出版)

新元号「令和」の典拠となった『萬葉集』。その成立に貢献した斉明・持統・元明・元正の4人の女帝、「春山の〈萬〉花の艶と秋山の千〈葉〉の彩を競へ」の天智天皇の詔を受けた額田王等の秘話を満載する、俳人初めての万葉集研究。平成22年刊2,190円。お求めの際は、筆者までご連絡ください。

【新連載】『永劫の縄梯子』出発点としての零(1)  救仁郷由美子


「俳句新空間」第12号で、救仁郷由美子氏に『永劫の縄梯子』「風の言語――俳句のリアリズム――」を執筆していただいたが、「俳句新空間」では半年に1回の刊行なので連載ものとして書くならばBLOGでの執筆もお願いしたいと依頼した。今回が実質その第2回である。
実はすでに「豈」でも『永劫の縄梯子』「『四大にあらず』とともに」を長らく連載し、「LOTUS」でも安井浩司論を執筆した。今回場を改めて、ライフワークともいえる安井浩司論が再開されるのは喜ばしい。(筑紫磐井)
       *
BLOG「俳句新空間」②(「俳句新空間」―風の言語―が➀で通号②)

    有耶無耶の関ふりむけば汝と我              (『汝と我』)

 掲句においては、句中での、「ふりむけば」が一瞬の場面転換を起こし、この場面転換が可能性を開いていく。それは一語で意味を完結させる無音の動作を助詞「ば」が仮定へと繋げていくからだ。この動作の語から俳句形式の特質(詩の特質)である、ことばの省略による無(空白)の空間から、無限にことばを呼び起こすことができる。
 そうなれば、「有耶無耶の関」に立つイメージの場での、無の空間から、「お前」と呼びかける同格の場を出現させることも可能なのだ。
 何故に。それは、「汝と我」の問い問われる場が、「なぜ俳句なのか」と問う場処であり、その問う場処を「有耶無耶の関」と仮称したと思えるからだ。

 一体、お前はどうする(・・)の(・)か(・)。《お前》―《私》、極としての「私」しか答えざるをえないことを前提とした問いだ。「私」が問うことと答えることを所有する、この原初としての(あるいは基本的(・・・)な)問いをふるい立たせることが、求められているように思える。
(『海辺のアポリア』「定型の中で」)


 「俳句定型とは何んであろう」と、書き出されて始まる「定型の中で」、「一体、お前はどうするのか」と、俳句実作者として、〈俳人安井浩司〉は自問する。
 私自身の「問うことと答えること」の俳句の極の場で、問い問われる自己の全的存在が、ここ掲句の「汝と我」に在る。俳句と対の私ではなく、俳句=私の自意識の一瞬の転換、その瞬時に見えた自己の奥底で問い問い合う「汝と我」。しかし、問うているのは、私自身なのか。あるいは俳句自身なのか。問うてみて、見えてくる「汝と我」。あいまいで確かなものは何もない。立つ地は零地点である。ここを出発点として、安井は、さらに「〈定型の中〉にあって、《お前はどうするのか》に今こそ繋がってゆく外ない」という。
 だが、「俳句形式の、さまざまな困難性」に向うはげしい言述は、〈安井浩司〉の詩の感性から述べられたものなのだ。それ故に、困難性を問うことそのものに疑問が投げかけられることにもなろう。だが、「お前はどうするのか」と問われる言葉を受け止め、決意の俳句行為をなしている俳人、詩人が現代にもいる。
 それでも、「俳句形式の、さまざまな困難性」の中で、日本語の詩としての「俳句定型詩」は、安井の個的問題なのではないかと考えてしまう。安井はこの「困難性」を「不可能性(・・・・)の中をつらぬく恐るべき行為」(『海辺のアポリア』四六頁)だという。
 人間の理想としてなすべきこと、なすべきことを筋道立てて述べる当為論。述べた理想を自己実践していくことの困難性。困難性の果てはなく、しかも困難性を乗り越えてゆく俳句。
 その当為論による「俳句定型詩」が、「句篇・全六巻」に、想像し得た俳句定型詩、望んだ定型詩となって表わされている。
 その後に刊行された句集『烏律律』も俳句の定型詩として在る。だが、真の自由を得た(真の詩であることの)未見の詩が句中の中に在ることには、ほとんどの読者が気づかぬままにいる。
 ここで、いきなりの直観的断定をしてしまうが、仮称もまた実存からの発語であると確認しつつ、先へ少しずつ向かうことにしたい。          (以後、次回)

【俳句評論講座】テクストと鑑賞⑥ 中村テクスト

 【テクスト本文】
中村汀女の赤              中村ひろ子(未来図)

我に返り見直す隅に寒菊赤し       (『汀女句集』)

  中村汀女が初めて作った句は玄関の拭き掃除を母から命じられている最中にふと目に留まった赤い寒菊だった。以後、「赤」は様々な句の中に鮮やかに現れては消えてゆくことになる。
 中村汀女は本名中村破魔子。明治三十三年四月十一日に父斉藤平四郎、母テイのもとに一人娘として生まれる。熊本県飽託郡江図村(現熊本市東区江図一丁目)出身。父は地元でも有数の地主で江図村の村長を二期務めている。大正元年。熊本県立高等女学校(現熊本県立第一高等学校)に入学。大正七年同校補習科を卒業。大正九年、熊本市原町出身の中村重吉と結婚。大蔵官僚であった夫と共に結婚と同時に上京、のち仙台、名古屋、大阪を経て、横浜に転居、この時高浜虚子を訪ね、星野立子と出会うこととなる。

「女学校四年の時だったか、教科書に芭蕉の像と句が載っていた。私はおよそ俳句になんの興味も持っていなかったし、それに国語の時間には退屈していたので、あたりまえに聞き流した。(中略)何か他の病気ならまだしも、お腹をこわして旅先で死ぬなど、だらしのない芭蕉をひそかに軽蔑していたのだった。」(『汀女自句自解集』)

 風光明媚な江図湖のほとりに住む汀女にとって勉学よりは湖での遊びの方が魅力的だったようだ。後に汀女は芭蕉よりは戯曲が好きだったし、俳句を止めていた期間は探偵小説や泉鏡花を愛読していたと語っている。寒菊の句のほかにも二句出来た。

 いと白う八つ手の花にしぐれけり     (『汀女句集』)
 鳰葭に集まりぬ湖暮るる         (『汀女自句自解抄』)


 朝の拭き掃除中、玄関から眺めた垣根の句と側の江図湖まで出てみた風景の句。僅か十歩にも満たない世界がこの時の汀女の俳句の世界である。面白くて次々に出来たとある。汀女はこの句群を九州日日新聞(現熊本日日新聞)の俳句欄に投稿している。この時の選者は三浦八十公であり、彼の勧めで華道の斎号「瞭雲斎花汀女」から俳号の「汀女」を名乗ることとなった。この汀女の母という人は大変しつけに厳しい人で汀女を嫁入り前の修行として預かっていた女中たちと一緒に家事を仕込んでいる。華道も免許皆伝であるから花嫁修業に余念がなかったと言っていい。一人娘に養子を取らなかったのは父のリューマチを隠しながら村長を務めていたことにも一因があるに違いない。政治に深くかかわっていたとはいえ一村長であった父が跡継ぎを求めるよりは良い嫁ぎ先をと考えたのは当時中村家が第五高等学校の漕艇部の合宿を江図湖周辺の家々で受け持っており、そのとりまとめが中村家であったからでもあろう。一人娘に最良の嫁ぎ先をこうしたつてから探せたのではないか。湖畔の村の行事は川祭り、塘(とも。加藤清正がつくった江図湖畔の堤防)での盆踊り、そして最大のイベントが四月に行われるこの漕艇部のレースであった。阿蘇の山々を遠くに臨み、菜の花溢れる湖畔でのレースはさぞ盛り上がったことであろう。後に夫となる重吉氏の見合い写真は五高での集合写真で結婚式当日まで顔が鮮明に判明せずどの人が重吉か分からなかったらしい。初対面同様の夫との結婚式。その後の一つ二つの杉田久女、長谷川かな女が関わる小さな事件が汀女を俳句から遠ざからせた遠因となったのではないかと私は推測している。そしてその小さな事件の前後に現れては消える「赤」。

身かはせば色変はる鯉や秋の水       (『汀女句集』)

 何処までも澄み切った秋の水。この句は結婚前汀女が庭の池の鯉を見て作った句である。自宅の庭も噴井があったというのでこの池の水は湧水である。そして悠々と先頭を泳ぐ鯉は緋鯉であるという。

「秋晴れの日など、心浮き立つように、大きな緋鯉を先頭に列を作って、くるくると泳ぎ回る鯉は見飽かなかった。」(『汀女自句自解集』)

 この時の汀女は十九歳、三浦十八公に見いだされ、ようやく歳時記の存在を知り俳句という新たな表現世界を知り始めたころである。悠々と泳ぐ緋鯉は汀女自身の姿に他ならない。屈託なく泳ぐ緋鯉はこの後汀女の化身としてもう一度汀女の俳句に登場する。大正八年の『ホトトギス』への初投稿は十八公の手によるものだった。四句入選というからなかなかのものである。十八公の後は宮部寸七翁に師事する。両者との関係から長谷川零余子の『枯野』発刊と同時に投稿。青木月斗はその関係から汀女の自宅に立ち寄り短冊を与えている。汀女の若き才能がいかに期待されていたかが分かる。そして『枯野』を通して知り合った杉田久女、長谷川かな女、金子せん女、阿部みどり達の江図湖滞在。憧れの久女との邂逅は俳句を始めたばかりの汀女はもちろん、父母にとっても大変な名誉であったに違いない。中村邸への滞在は二日に及ぶ。

遊船に手伝つて提灯吊るしけり

 提灯はもちろん赤。なんとかこの滞在を良きものにしてあげたいと張り切っている汀女の姿が伺える。汀女からみた久女は次の通り。
 「目の大きくすべてにきりりとした美しい人であり、連れて来られた次女の光子さんは小学校前であった。私はまた得意の水棹を持って船に乗せたのだが、あの方の身の上話を聞き、すべてに感じ入り同意した。」(『俳句の里にしあれば』)この当時の久女は離婚が叶わず東京の実家から福岡に戻されていた時期である。病の癒えたばかりの久女への慰安旅行の意味もあった江図湖への旅は大変な歓迎を持って中村邸へ迎え入れられた。美しい久女の万葉集の膨大な知識や俳句へのカリスマ的な才能、行った事もない東京の話、不幸な結婚の話など、未婚の汀女にとっては心動かされる話ばかりだったに違いない。そしてその油断が俳句を断念しなくてはならなくなる出来事へとつながってゆく。

「二泊されたのだったが、兄事ではなく姉事したともいえるこの交際がとんでもない数か月後の失策を起こした。(略)中村は同じ熊本市生まれ、親たちの間で話は進められていた。(略)そして結婚式場、熊本城のすぐ下の、加藤清正を祀った加藤神社ではじめて当人に逢ったのである。(略)花嫁の私が人力車に乗って、あれは熊本市の坪井町あたりに通りかかったら、男の子たち二、三人がはやしたてた。「ワーイ、二段鼻だア」これには私は今の言葉で言えば大ショックであった。(略)東京行きの汽車、夜更けの小倉駅に杉田久女さんが出ていて下さって、家に寄れと言われるし、私も当然のように杉田家に連れて行かれた。中村とは門司駅ですぐ落ちあうつもりであったのに、久女氏がなにやら馳走を作ろうとして居られる。発つに発てないのである。中村とは姫路の知人の家で落ち合う始末となり、叱られても仕方のない失敗の第一号である。」(『俳句の里にしあれば』)

 初対面の夫、その夫を待たせて久女の家へと行ってしまうのである。
 夫重吉の叱責は如何ばかりか想像に難くない。当の久女と言えば招いておきながら馳走を用意しておくのではなく、これから作ろうというのである。久女の言い分とすれば一泊のはずの滞在を二泊に引き留めてくれた恩に報いる意味もあったのだろう。思い込んだら相手の事情を考えず突っ走ってしまうところがなんとも久女らしいエピソードではある。本人は花嫁姿でからかわれた二段鼻を乙女らしく気にしているので初対面の夫重吉に対して引け目があったのかもしれないが、後に星野立子は汀女と初めて会った時のことを次のように語っている。
 「句会の日、初対面の汀女さんのてきぱきとした応答に圧倒された。背丈も私より遥かに大きくて。」(『汀女句集』第三版「汀女さんの句」)当時の写真を見ると確かに大柄だが本人が気にするように二段鼻ではないようだ。かなりの美人であるが、本人が恥じらうほど重吉が颯爽としていたのかもしれない。俳句によって気まずく始まった新婚生活ではあったが新生活の支えともなったのはやはり俳句であった。長谷川かな女による婦人句会に迎え入れられている。しかしここでも重吉にたしなめられる出来事が起きる。

 「翌月の第二回目の句会参加の日と思うのが、暑い日であった。会が終わった帰り道に、私は氷水を飲んだ。ひどくのんびりと匙を使い、よい気持ちになって塔の山の家に戻りついたら、もう中村が帰っていて「飯は」という。私はすっかり夕方の支度の事を忘れていたわけで、これは叱られの第二号となった。」(『俳句の里にしあれば』)
 以後十年の間、汀女は子育てに専念し俳句から遠ざかることになる。辛いことがあれば銭湯で泣き、いくら涙が出てもそこではぺろりと顔を洗えばよい、とあるが、初対面同様の夫からの度重なる俳句への叱責、厳しくしつけられたとはいっても一人娘として何不自由なく暮らした熊本への、江図湖畔の父母への望郷の念は結婚当初の汀女を苦しめたに違いない。
 さて俳句を再開したきっかけは奇しくも久女からの『花衣』創刊号への誘いだった。そのまま汀女は高浜虚子に手紙を出し、虚子によって星野立子と引き合されている。後に久女は汀女に倣って虚子に句集出版を訴えようとするが上手くいかない。坂本宮尾著『真実の久女』の中に草稿からの引用として次の一文がある。
 「この自分の庭を汀女と混同スルなかれ。汀女の庭は芝をやく官僚の庭。自分の庭は狭いが自然のまゝの庭で、(以下略)」新婚当初のの失敗にも関係していた久女は汀女の手には少々余る先輩だったようである。この後、汀女は転居を繰り返しながらも立子とは句友として母仲間として友情を温めてゆくことになるのだが、ここに虚子の思惑が働いていたことは想像に難くない。虚子親子が小諸に疎開した時のことを汀女ははっきりとは書かなかったが「疎開する気はなかったけれど、前うしろ、お隣も出ていかれるとさすがに心細かった。」(『俳句の里にしあれば』)とある。昭和十九年は生涯の家となる代田の家の新築、父の死去、娘濤美子の結婚、など戦時中にもかかわらず忙しくしている。戦時中の句の赤といえば

火事明かりまた輝きて一機過ぐ            (『花影』)

がある。敵機の攻撃による赤々とした炎が敵機に照り映えているのである。戦争という異常事態の中、呆然と立ちすくみ我が身、我が子、我が家を守らねばならぬ汀女の諦観にも似た感情が火事明かりの赤に反映されている。

やはらかに金魚は網にさからひぬ           (『都鳥』)
 これは戦後出版された句集の中の一句である。やはらかに逆らっている金魚は汀女の姿ではなかろうか。戦時中、戦後と汀女は生活に翻弄されている。久女は女中のいる汀女を羨んだが戦争は等しく汀女の生活にも影を落とす。しかしここでも汀女は着実に友人を作ってゆく。後に自分が主宰する結社『風花』の編集長となる富本一枝は食糧難の時期の買い出し仲間である。「外にも出よ触るるばかりに春の月」はこの困難な時期の句である。

秋水に緋鯉加へぬ父母のため          (『軒紅梅』)

 この句は亡き父母の為に緋鯉を生家の池に加えたという句である。今村潤子氏の『中村汀女の世界―勁建な女うた』の中に次の一節がある。「二句目は(昭和五十四年)十月、熊本市の名誉市民顕彰式に出席した折に生家に滞在した時の作である。緋鯉を自分の分身として池に放つことで亡き父母に自分の晴れの顕彰を伝えんとする汀女の心遣いが読みとれる。」この時の汀女の心の内には「身かはせば色変はる鯉や秋の水」が去来したのではなかろうか。
 汀女が家を新築した際、殊に気に入って植えたのが紅梅である。
江図湖畔の生家にも祖母自慢の紅梅が植えられていた。夫重吉の死去の際、棺に庭の紅梅一枝を入れている。句集『軒紅梅』はこの時の句ありきで作られた句集で初対面同志であった夫婦が戦中戦後を共に乗り越え固いきずなで結ばれたのだという事を感じさせられる句集である。夫の死という悲哀を支えたのも又、赤であった。

朝明けの軒紅梅の情かな
紅梅の南枝の枝の低きかな


 夫重吉の部屋は一階に汀女の書斎は二階にあったという。五十九年間連れ添った夫の姿は汀女が愛でた紅梅と共にあったに違いない。

参考文献
『中村汀女俳句集成 全一巻 』 東京新聞出版局
『軒紅梅』 中村汀女 求龍堂
『中村汀女の世界―勁建な女うた』 今村潤子 至文堂
『鑑賞 女性俳句の世界 第②巻 個性派の登場』 角川学芸出版
『真実の久女』 坂本宮尾 藤原書店

【角谷昌子評】
中村ひろ子 「中村汀女の赤」評        角谷昌子   2020・5・16

 中村ひろ子さん、感染症拡大のため、残念ながら、4月に予定されていた俳人協会俳句評論講座が休止となってしまいました。それにもかかわらず、中村汀女の作家論をお送りいただき、嬉しく思っています。
 全体としてよく文献を読み込んで取材されています。杉田久女や星野立子との関係を入れることによって汀女の人物像も立体的になります。自句自解の内容も、汀女自身の言葉として生き生きと働きます。テーマを「赤」に絞ってご自身も書きやすくなったでしょう。対象俳人が好む素材や色などに焦点を当てるのは、一つの方法で、内容が収斂して読者に伝わりやすくなると思います。
 
〈内容に関して〉
〇冒頭の句は、いつ、何歳の時に詠んだのでしょう。最初のページの女学生時代の「自句自解」に、俳句に興味がなく、芭蕉を見下していたとあります。そんな汀女が、なぜ十代で俳句を始めて冒頭の句を詠み、新聞にまで応募して才能を認められるようになったのでしょうか。そこをしっかりと提示すれば、読者の興味も高まると思います。

〇「赤」のテーマで作家論を始めたのですが、略歴(江津湖周辺の風土や特色、結婚)になってしまって、いつになったら「赤」のテーマになるのかと読者は思ってしまいます。最初にもっと「赤」で押しておきたいところ。(「赤」の句を例としてもっと読者を引き込みたい)

〇引用文について
引用文は読者としてとても興味があります。面白く読むのですが、この論中では、長すぎるようです。というのも、汀女自身の言葉やどなたかの文章の引用として強く印象に残り、著者の存在が薄くなるからです。
*引用の書き方(一般的に)
+引用句 二字下げ 前後一行あけ(出版社により、前後どちらか一行、もしくは半行)
+引用文 一字下げ 前後一行あけ       〃
+引用例 〇〇著『〇〇』と引用の最初に記すと、また引用か、の印象が強くなるので
     引用文の最後に書名だけ入れるか、*注印を付けて評論の最後に引用文献として呈示するとすっきりするかと思います。
+引用文の「」 
     文章中ならば、「」は必要ですが、上記のような体裁ならば、「」は不要となります。
+引用句の次の行
     一字下げ(改行の場合)
〇評論の最後
 夫との永き結婚生活の感慨で終わってしまったので、結論部分は、汀女の「赤」としてその人物像と作品が強く読者の印象に残るような内容が欲しいところです。

〇全体として
 引用文をもう少し簡略化して著者自身の俳句鑑賞を増やす。そして汀女の人物像、俳人としての存在感を「赤」のキーワードからもっと論じたら、面白い作家論になると思います。素材や色などをテーマに論じるのは、絞り込みやすい分、比較的よくみられる書き方なので、やはり、著者独自の視点がもっと必要になるでしょう。

【筑紫磐井評】
 俳句の地域性には不思議なものがある。明治以降の俳人は広い日本の中で、何故か小さな県である愛媛県に人材が集中する。正岡子規、高浜虚子、河東碧梧桐、中村草田男、石田波郷とお互い関係なさそうであるのに集中する、これは奇跡に近い。これに類似しているのが、九州の女流俳人であり、杉田久女、竹下しづの女、橋本多佳子、中村汀女などがいる。それぞれの作家論だけでは完結しない問題である。ただこんな社会的な問題は、なかなか答えを出してくれる人はいない。九州の女流俳人が論ぜられるたびにこんな期待を持つのだが、未だに答えに出会うことはない。
    *
 中村ひろ子さんの汀女論に一気にこんな結論を出してもらえるとは思わないが、九州女流俳人論には最後の最後にある結論はこんなところに結びつくものであってほしいと思う。その第一歩として読ませていただいた。
 九州女流俳人にあってダントツに人気が高いのは杉田久女であろう。その劇的な生涯、華麗な作品と相まって今もってファンが多い。現在も様々な人により久女論は数多く出版されているし、俳句文学館紀要にも数年に一編は必ず取り上げられているようだ。虚子という悪役にいじめられているヒロインという役どころは日本人の心情によく叶うものである。こうした中で、久女と比較して一番地味であり、論ぜられることが少ないのは中村汀女ということになろう。唯一の評伝が『中村汀女の世界』(今村潤子)という寂しさもその証拠となっている。
 ただ理由の一つは、立子・汀女と虚子の指導を受けた優等生ということが評伝を書きにくくさせていることもある。中村ひろ子さんの汀女論もこうした枠の中に入っているところが、長所でも短所でもあると思うのである。
     *
 中村さんの参考文献に上げていない本に中村一枝『日めくり汀女俳句』(邑書林)がある。これはかなり衝撃的な本である。筆者は汀女の長男の妻であり、結婚後の汀女の日常を素晴らしい点もいやらしい点もすべて眺め、最晩年はテープで記録まで取っている。こうした態度は、筆者がもともと俳句には興味はなかったが、父が小説家尾崎士郎であり、文学的環境に浸っていたと言うことも幸いしているだろう。実際、父尾崎士郎の評伝も書いている。
 家族の内幕物は文学論になじまないと言う人もあるが、それはそうした本を一度読んだうえで結論を出していただきたい。二つほど例を挙げると、豪農の娘であった汀女は尊大と言えるほどの態度であり、他人に対する謝礼はすべて現金でするものと考えていたらしく、この本の著者はこれを非常に嫌がっている。また汀女の同性愛志向を、あながち否定していないようである。こうした汀女の悪魔的本質があればこそ、理想的な主婦俳句が詠まれたのだという逆説が輝いてくるのではないかと思う。

【新連載・俳句の新展開】第1回皐月句会報(速報)

投句:5月1日~10日
選句:5月11日~24日
発表:5月25日

(5点以上の高点句と選評)
11点句
黒々と職員室のバナナかな(西村麒麟)
【評】 誰も手をつけぬまま。 ──岸本尚毅
【評】 写生として読んでもおもしろいですし、何かの風刺として読むこともできます。バナナの雄弁さが印象的です。 ──小林かんな

7点句
ふらここの高みの先に待つと云ふ(真矢ひろみ)

鯉幟のなかの青空折り畳む(水岩瞳)
【評】  青空ごと取り込んだという発想と、折り畳むという屈託とに惹かれました。 ──小林かんな

こどもではなきわれわれのこどもの日(依光陽子)
【評】 大人になってしまった、かつての子供達。誰も大人になりたくなかったかも知れないのに。「日」以外すべてひらがなの表記が魅力的。 ──仙田洋子
【評】 すでに無邪気な子供ではいられなかった自分たちの
末路は、大人にもなりきれないという現在の屈折
を抱えており、惹かれた一句。 ──長嶺千晶
【評】 確かにみんなにきます、毎年。 ──西村麒麟

6点句
燕子花はなればなれに人は立ち(松下カロ)
【評】 燕子花は、ひとかたまりになって生えているけれど、一本一本の姿はすっくと直立、他の一本とは独立した凛とした美しさがある。一方現状の人間社会では、三密厳禁とかで未だ不自然なはなればなれの立ち姿。この花たちのようにつながっていてしかも凛と離れていたい。集団社会とはなにかということをもふと考えさせられた。二句一章、季語との距離も美しく付き離れている。 ──堀本吟
【評】 この句には五月雨の中での別れ際、ろくに続かぬ恋句といった風情も無いではないし、年月を経ればその様にのみ読まれることになるのかもしれない。が、であってみればこそ旬な読みもとどめておこう。新型コロナ流行当時の人々はソーシャルディスタンスとやらで疎らに努め、ニュースキャスターも漫才のコンビも中途半端な距離に立って喋っていた。そうした浮世を反転した世界として、かきつばたの密に群生する咲き様が目に鮮やかに写ったと。 ──妹尾健太郎

5点句
葉桜の葉擦れ言霊過ぎゆくか(仙田洋子)
【評】 葉桜となった桜の木は花よりも物を言う。雨の兆しの風を告げ、地震をも伝える。古代の人々は木々や動物たちの声を聞いて天変や政変を知った。街路樹の葉桜は、道行く人々の言霊を吸い、ざわざわと不穏な音を立てていたのだろう。 ──篠崎央子
【評】 22。葉桜の季節。そこに一陣の風が過る。その葉擦れの音、匂い、気配などから言霊をイメージした。あたかも自身が、かの歌聖人麻呂にでもなったかのように言の葉の新しい構成を思考。しかしそれもまた過ぎゆく一刻の幻想。 ──山本敏倖

六年生とほくに見えて卒業す(筑紫磐井)
【評】 もう半分大人、親から離れていく年頃だ。友達同士でかたまり、親の傍にはやってこない。だから、「とほくに見えて卒業す」か。 ──仙田洋子
【評】 当たり前であるのに不思議。 ──西村麒麟

夜を溜めて菖蒲の紫紺尖りたる(篠崎央子)
【評】 句をいつものように二度吟じてみる。紫紺に染め抜かれた花だけでなく茎も葉も、勢いよく筆を払って直線的に描かれたような菖蒲の姿が映像に浮かび上がる。幾夜の動揺を乗り越えて直立し微動だにしない菖蒲の自信に圧倒される。 ──千寿関屋

(今回は、4点以下の句で選評を受けたものを掲げます)
4点句
病棟を下りて五月の海の底(夏木久)

【評】 「棟」という建物の下が海につながっている、というイメージ ──岸本尚毅
【評】 三年前、ガンで妻を亡くした。転移した脳腫瘍を焼き切る治療のため、毎日毎日、病棟地下の放射線照射室まで下りていった。治ると信じていたあの頃、照射室へ続く風景は、キラキラとした明るい五月の海の底のようだった ──中村猛虎

無駄歩き春昼の月蹤いてくる(平野山斗士)
【評】 特選 「無駄歩き」→『無駄安留記』→「鳥取砂丘」→「月の砂漠」とイメージが広がります。作者の徘徊に付き合って、真昼間からのこのこついてくるお月さまの閑さ加減が気に入りました。この時期、三密を避けてくださいね。 ──渕上信子
【評】 「無駄」の楽しさ。 ──岸本尚毅

薔薇園へ行く道々も薔薇さかん(仲寒蟬)
【評】 薔薇園へゆく途中も薔薇のことを思うので、道々の薔薇が気になるのであろう。 ──岸本尚毅
【評】 薔薇が一斉に咲く様が豪華。 ──渡部有紀子
【評】 もう行かなくても良いのでは、と思いつつ行く。 ──西村麒麟

憲法記念日消火器を新しく(渕上信子)
【評】  緑と消火器の赤が目に浮かびます。──小林かんな

3点句
蟻塚の奥千萬の蟻眠る(渡部有紀子)

【評】 日本の蟻塚で季語は蟻というよりも、季語を超えた、アフリカ大陸の巨大な蟻塚を思い浮かべる。シュールで、SFめいた印象も受ける。 ──仙田洋子

入学の後の宙ぶらりんの日々(前北かおる)
【評】 入学という大事を果たした後は5月病などになるととりましたが、心当たりがある人が多いのではないでしょうか。 ──小林かんな
【評】 今のコロナ騒ぎの状況で無くて良い。その方が面白いかも。 ──西村麒麟

菖蒲湯のひと葉はヒルコの舟ならむ(篠崎央子)
【評】 伊弉諾と伊弉冉の二神の間に生まれた子の蛭子。三才になっても歩けず流し捨てられたという。せめて菖蒲の葉に乗せて流してやって欲しいと願う。その舟を菖蒲湯のひと葉に見た作者の詩情溢れる感性は素敵だと思いました。 ──田中葉月
【評】 私が作れない句を選びました。菖蒲湯のひと葉を、イザナギとイザナミの子のヒルコが3歳になっても脚が立たず、流し捨てられたときの舟と捉えた句です。知識と感性が融合された句です。また、そのヒルコを七福神のひとつの恵比寿として尊崇した、中世以後の優しい心を思わせる句です。 ──水岩瞳

清潔なガーゼが欲しい花菖蒲(小林かんな)
【評】 邪気を払うという菖蒲の、その花の清潔感が今一番欲しいものを思い起させる点、惹かれました。 ──小沢麻結

2点句
はつなつの腐臭かすかに墓域あり2点(岸本尚毅)【評】火葬しか知らないのだが、「腐臭かすかに」ということは土葬なのだろうか。「はつなつ」が絶妙に効いていると思う。 ──仙田洋子
【評】 墓場に限らず、人間の活動のないところにはこうした匂いが生まれる。落葉や朽葉等の分解は、実は初夏の生の営みのしるしなのだ。「かすか」にはむしろ肯定的なニュアンスがある。 ──筑紫磐井

五月三日魚になりたい人募集(山本敏倖)
【評】 そうか、これで良いのだ。と、バカボンのパパの如く。もちろん「俳句フェチ」にしか通じない『内輪ネタ』の類かもしれない。古今東西の知に通じ、季語の本意とその例句をチェックして―といった行動様式の真面目「俳句フェチ」は、己が詩学に照らして無視か爆笑か、果たしてどちらであろう。 ──真矢ひろみ

雲ひとつ従へ夏野ゆく王よ(内村恭子)
【評】 古代の雄略大王のような王を想像した。背景が雄大なのでカッコいいけれどもどこか淋しげで「裸の王様」的な雰囲気を感じる。このひとつの雲は従者なのか。モーゼのようにきっと余人の持たぬ霊力か何かを備えているのだろう。 ──仲寒蟬

覚えある風に面上げ厩出し(小沢麻結)
【評】 流れてくる音楽でその曲をよく聴いていた時代を思い出す事はある。また訪れた町や通り過ぎた人の匂いや香りでふとタイムスリップする事もあるだろう。厩から馬を出すのは省略された一人称の作者である。それでも出された馬も空を見上げたかもしれない。そうか、またこの季節が来たのだと風が教えてくれる句。 ──辻村麻乃

囀りやたしかに空の空は空(北川美美)
【評】  読み手としての読解なら、16、31でも…と思ったが、56にした。この句、不用意な説明や解説などすれば面白味が?しかし敢えて。詠み手からのテキストは読み手へのテキストで変質し、読み手のセンスに任せられる。
 季節の移りゆく空へ囀りが・・・、しかしその空・空間がどこか変質してゆくような・・・気がする。
 「詠み手の世界」➜「読み手の世界」へ変質してゆく。
読み手のセンスに任された以上、ルビなど無用。
 「空」は「そら」だけではなく、「から」とも「くう」とも。私は「から」の「そら」は「くう」と読んだ、先に「空即是色」の語も踏まえ、曲解としても。
 同語の繰り返しは10、54などにも見えるが56が面白かった、単にクウクウと音声の擬音でも。
 これが俳句の面白さの一つだと感じる。 ──夏木久
【評】 鳥語は何を伝えるか。「空」を「ソラ」「クウ」「カラ」と自由に読み替え組み替えながら思索に耽る。この句には何度も立ち止まるだろう。 ──依光陽子

烏賊となる進化を逸れて夏館(妹尾健太郎)
【評】 つい迂闊にも人に進化してしまったが本当は烏賊になるべきエトスの持主が、館に逼塞している、と読みました。青白き書斎派といった処か、それなら夏はいよいよ避暑地に籠るだろうと思えば季語も活きています。 ──平野山斗士

片方の目が泣いてゐる沈丁花(田中葉月)
【評】 涙は両方から出るだけではない。片方からすっと流れる。悲しいのではない。しかし痛い。どこからの痛みだろうか。曇りのときほどよく香る沈丁花に、片目を預けた。 ──中山奈々

1点句
冷房に視ゆ自粛ちふ不可思議町(妹尾健太郎)

【評】 今年春のゴーストタウン的都市を俯瞰したようです。言葉で説明した表現になっているのをもし物に託すことができたら、さらにいいと思います。──小林かんな

春炬燵嵌まり埋まりの姉妹かな(辻村麻乃)
【評】 「嵌まり埋まり」の自堕落な感じ。「まり」の反復も面白い。何とか姉妹という趣。 ──岸本尚毅

葉桜のはらわた朽ちて若枝出づ(平野山斗士)
【評】 中七の凄み。 ──仙田洋子

いつよりか待つこと覚え泉の辺(仲寒蟬)
【評】 母親の吾子を見つめる目が芳しい。 ──依光正樹

もうひとつ春着のボタン外してくれ(松下カロ)
【評】 二つ解釈が成り立つ。「自分のボタンを外してほしい」と依頼している解釈と、「(作者が見ている人に向って)あなたのボタンを外してくれ」と言っているのとふたつである。私は前者の解釈で作者は何らかの理由で自分で外せない、例えば手が不自由、あるいは病床にある、手がふさがっているなど自らボタンが外せない何らかの理由があるのではないかと気になった。 ──北川美美

薔薇の木に薔薇の花咲く不思議かな(渕上信子)
【評】 そんな事考えた事も無かったですが、そうかも。 ──西村麒麟

※次回句会は、6月1日から投句を開始する予定です。

【読み切り】「鷗寄る現代五感の豊漁なり」『楡の茂る頃とその前後』(藤田哲史) 豊里友行

 『新撰21』で御一緒した藤田哲史さんの丁寧に見る俳句の現代五感に顔を思わず赤らめたり、しんみりしたり。
 私は、藤田哲史さんの鷗(かもめ)の俳句が好きだ。
 共鳴句とコメントを。

冬鷗何の忘却も快く
 たいていの冬は生物の活動を停滞させるのだが、生きることの意味を感じるの大半は、一生懸命に生きる時は、この厳しい冬なのではないだろうかと私は思う。鷗たちは、一生懸命に漁の船が引き揚げる魚たちを狙って船に寄せて来る。まるで鷗は一生懸命という本能なのかとも。作者は、どんな忘却も快くあるがまま生きる冬鷗に魅せられる。

啓蟄や光が示す宙の雨

 フォトグラフは、光の画である。作者の光を言葉によって捉え直したのに瞠目。土中から這い出す虫たちの啓蟄に雨が太陽の光を纏い宇宙を成す。

蟷螂にコップ被せて閉ぢ込むる

 蟷螂(かまきり)にコップを被せて観察する。その発想と行動に人間の残忍さに勝る好奇心が面白い。

戯れに裸撮りあふ関係なり

 いーなっ。いーなっ。現代を己の五感で感受する。それもひとつのヒストリー。

朝曇シャワーカーテン貼りつく背
 いとしさが視覚スケッチできる俳人ってすごくないっ?!

卓上の梨が詩集に置き換わる
 生活のうつろいを俳句日記にする。大切な宝物です。

鯖雲が今日のさぼりの理由です

 そーなんだ。

夜明けまであとひとときの穭です
 ふーん。ちゃんと睡眠確保して欲しいが、こんな素敵な俳句ができるなら寝不足もいいね。

ファクシミリ刷られて落ちる猟期です
 言葉の狩人かな。

朴落葉一枚拾ふ会ひたいとき
 このセンスが私も欲しい。

躊躇無く人のマフラーして君は
 きゃっ。いーな。いーな。私も恋活しよっ。

マスカットほのかに種の見ゆるかな

 日常は発見の宝箱だ。

眩しさはわつと散らばる冬鷗
 万物に降り注ぐ太陽の光をはね返すほど白く懸命に躍動し飛翔する冬鷗が弾けて散らばる瞬間を言葉で永遠にとどめる俳人の現代五感をこれからも丁寧に生きて欲しい。

2020年5月15日金曜日

第136号

※次回更新 5/29

俳句新空間第12号 近日刊行! 予告

特集『切字と切れ』

【紹介】週刊俳句第650号 2019年10月6日
【緊急発言】切れ論補足

【新企画・俳句評論講座】up!

・はじめに(趣意)
・連絡事項(当面の予定)
・質問と回答
・テクスト/批評   》目次を読む

【新連載・俳句の新展開】

句誌句会新時代(その一)・ネットプリント折本  千寿関屋  》読む
句誌句会新時代(その二)・夏雲システムの破壊力  千寿関屋  》読む
[予告]ネット句会の検討  》読む
[予告]俳句新空間・皐月句会開始  》読む
皐月句会デモ句会結果(2010年4月10日)  》読む

■平成俳句帖(毎金曜日更新)  》読む

令和二年春興帖
第一(3/20)仙田洋子・曾根 毅・夏木久
第二(3/27)五島高資・松下カロ・辻村麻乃
第三(4/3)堀本 吟・木村オサム・林雅樹
第四(4/10)前北かおる・神谷波・杉山久子・望月士郎
第五(4/17)内村恭子・早瀬恵子・渕上信子・真矢ひろみ・仲寒蟬
第六(4/24)ふけとしこ・渡邉美保・下坂速穂・岬光世・依光正樹・依光陽子
第七(5/1)妹尾健太郎・なつはづき・小林かんな・山本敏倖・水岩瞳・五島高資・青木百舌鳥
第八(5/8)飯田冬眞 ・小沢麻結・坂間恒子・網野月を・井口時男・中村猛虎
第九(5/15)花尻万博・竹岡一郎・中山奈々・北川美美・大関博美・小野裕三

■連載

【抜粋】〈俳句四季5月号〉俳壇観測208
俳句文法を考えてみる――文法の「間違い」とは何だろう?
筑紫磐井 》読む

英国Haiku便り(10) 小野裕三  》読む

ふけとしこ第5句集『眠たい羊』を読みたい
インデックスページ    》読む
6 桃の花下照る道に出で立つをとめの頃からずっとふけとしこ/嵯峨根鈴子  》読む

葉月第一句集『子音』を読みたい 
インデックスページ    》読む
8 パパともう一人のわたし/北川美美  》読む

麻乃第二句集『るん』を読みたい
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17 無意識の作品化、俳句のフレームを超えて/山野邉茂  》読む

寒極光・虜囚の詠~シベリア抑留体験者の俳句を読む~㉜ のどか  》読む

渡邊美保第一句集『櫛買ひに』を読みたい 
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6 『櫛買ひに』を読む/山田すずめ 》読む

句集歌集逍遙 樋口由紀子『金曜日の川柳』/佐藤りえ  》読む

大井恒行の日々彼是 随時更新中!  》読む


■Recent entries

 第5回攝津幸彦記念賞応募選考結果
 ※受賞作品は「豈」62号に掲載
特集・大本義幸追悼「俳句新空間全句集」 筑紫磐井編  》読む
「兜太と未来俳句のための研究フォーラム」アルバム
※壇上全体・会場風景写真を追加しました(2018/12/28)
【100号記念】特集『俳句帖五句選』

佐藤りえ句集『景色』を読みたい 
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眠兎第1句集『御意』を読みたい
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麒麟第2句集『鴨』を読みたい
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前衛から見た子規の覚書/筑紫磐井
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およそ日刊俳句新空間  》読む
…(今までの執筆者)竹岡一郎・青山茂根・今泉礼奈・佐藤りえ・依光陽子・黒岩徳将・仮屋賢一・北川美美・大塚凱・宮﨑莉々香・柳本々々・渡邉美保 …
4月の執筆者 (渡邉美保

俳句新空間を読む  》読む
…(主な執筆者)小野裕三・もてきまり・大塚凱・網野月を・前北かおる・東影喜子


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筑紫磐井著『女帝たちの万葉集』(角川学芸出版)

新元号「令和」の典拠となった『萬葉集』。その成立に貢献した斉明・持統・元明・元正の4人の女帝、「春山の〈萬〉花の艶と秋山の千〈葉〉の彩を競へ」の天智天皇の詔を受けた額田王等の秘話を満載する、俳人初めての万葉集研究。平成22年刊2,190円。お求めの際は、筆者までご連絡ください。

【俳句評論講座】 共同研究の進め方 澤田和弥のこと――「有馬朗人研究会」及び『有馬朗人を読み解く』(その2)

(1)澤田和弥のこと
                                               津久井紀代


 この度、『研究会の進め方』が発端となり、このまますでに忘れられていた和弥に光を当てていただいた。
 私は澤田との接点はなく、2-3度会う機会があったが、印象はうすく、確としない姿がぼんやりとあるのみである。
 よって、私は『天為』の中の澤田の文学に触れることが唯一の接点であった。
 しかし、澤田の句は何か気になる、何かを常に訴えているようであった。通常では「自分」は一句のうらがわにあるのが常であると思っていたが、澤田はその常識を破ったのである。「自分」をつねに文学として吐き続けたのが澤田和弥ではなかったのか。次の句を見れば明らかだ。

春愁や溢るるものはみな崩れ
魂漏らさぬように口閉づ花疲れ
生きてゐることに怯えて立夏かな
生も死もどつちょつかずの夏に入る


 『天為』平成24年作品コンクールの作品の中から挙げた。
 生きていることに怯えている様子が窺える。
 私は作品としての澤田がずーと気になっていたが、『天為』の中から澤田の作品に触れる人は現れなかった。
 このままで終わらせたくないと思い、一周忌の五月に(彼が自殺した日)に「こころが折れた日」と題して『革命前夜』の論を展開し、『天為』誌上に発表した。また、例会で「修司の忌即ち澤田和弥の忌」を発表した時、初めて有馬先生が「いい文章を書いてくれてありがとう。惜しい人を亡くした」とみんなの前で話されたのが唯一のすくいであった。

 生きていることに怯え、どっちつかずの生と死の間でもがき続けたのか、あらためて検証してみた。
 彼の根底に「いじめられた」ことがあった。文学の中で必死にもがいたが、そこから抜けだすことが出来ないまま自らの命を自分の手で断った。和弥は次のように記している。

 「中学に入ってとにかくいじめられた。同級生、後輩、教師、私の卒業アルバムは落書きだらけである。・・・いじめられることはそれほどまでに苦しい。死という選択肢を私は敢えて否定しない。社会にでてからもいじめに遭った。」

 彼は文学として心のうちを吐き出さなければ生きていけなかった。必死にもがいた。筑紫氏の言うところの「「新撰21」の影響をうけつつ独自の道を模索しつづけたようである」の発言には少し疑問を禁じえないが、「様々な媒体に挑戦した」ことは事実で、すべてのことが中途半端に終わっていることが、「死」への道を加速したのであろう。筑紫氏の指摘の「その行く先は茫漠としていた。若い人らしい行方のなさだ」には同感する。
澤田の寺山への傾倒が見えて来たので記しておく。
 筑紫氏の「澤田は自らも寺山修司への傾倒を語り、句集にもその痕跡を残したがしかし作品として寺山の傾向が強かったとはあまり感じられない、・・寺山の系譜を確認し続けたといった方がよいかもしれない」という発言に答えたものである。
 澤田は『天為』のコンクール随想の中に次のように書いている。

 「最晩年の二年間を特集した番組が片田舎の我が家のテレビに流されたのは私が中学生の頃のこと。寺山の死からすでに十一年の歳月が流れていた。ぼんやりとテレビを見ていた私は不意に我を忘れた、亡我。寺山と出会った。それは両親の言葉を忠実に守る十四歳のいじめられっ子にはあまりにも衝撃的であった。いや。衝撃そのものだった。早速、地元の本屋へ行った。『寺山修司青春集』。生まれて初めて、血の流れる生きた「詩」と対面した。

 とびやすき葡萄の汁で汚すなかれ虐げられし少年の詩

 私の詩を汚すものは憎きいじめっ子たち。中学三年間のいじめに耐えてきた力の源に、この歌が一助をなしていたことは確かに否めない。中学の時の「想像という名の現実」。いつも寺山に教えられているばかりだ。彼に憧れながら、私は彼にはなれない。一体これから先、何ができるのだろうか。俳句はそれを教えてくれるのか。わからないことが多すぎる」。


 両親の言葉を忠実に守る十四歳のいじめられっこ。寺山に救いを求めたが、「彼に憧れながら、私は彼になれない」と自ら結論を出している。
生と死の隣り合わせの人生の中に寺山に一条のひかりをよすがに、文学の中に自らを吐き出すことに拠って、和弥はかろうじて35歳の命を全うした、といえる。

(2)【筑紫磐井&渡部有紀子Q&A】

Q(筑紫)この研究会の発足にあたり亡き澤田和弥氏が関与していたことは意外でした。彼の句集『革命前夜』を読み、何回かの手紙のやりとりをさせて頂きましたが、俳句に熱意を持つ一面で非常にナーバスなところもある人のように感じておりました。結果的に直接お会いする機会はありませんでした。有馬主宰の序文に書かれた「『革命前夜』をひっさげて・・・広く詩歌文学に新風を引き起こしてくれることを心より期待し、かつ祈る」も果たされない期待となってしまったのですが、『革命前夜』後の澤田氏の遺志は、この研究の成果で『有馬朗人を読み解く』である程度達せられたのかと思います。
 当時の経緯をもう少し詳しくお話しいただけますか。この研究を読みつつ彼を偲ぶよすがとしたいと思います。

A(渡部)結社の大事な先輩であり、個人的な恩人である和弥氏に注目していただきありがとうございます。本研究会発足の直接のきっかけとなったのは、先に述べた通り和弥氏を招いての藤沢での句会でした。
 句会の幹事をしていた天為の同人、内藤繁氏によると彼を選者に招こうと決めた理由は二つあったとのことです。

(1)当時、「天為」誌上で連載されていた「新刊見聞録」での和弥氏の原稿が、それまでの結社若手のとは全く違っていたこと。句集・俳論に限らず短歌や美術についての書籍を積極的に取り上げ、いわゆる読ませる文体で紹介していたこと。
(2)第一句集『革命前夜』を上梓した際に厳しい内容の礼状を出しところ、即返事が届き論争を仕掛けてきたこと。

 上記の点から彼の飽くなき俳句への探求心を感じ、神奈川県の結社会員、特に若手同人たちに刺激になればと彼を招いたそうです。よって、後に有馬朗人研究会発足のきっかけとなったアドバイスも、「神奈川県の若手を育てる良い方法は何か」という質問に対しての回答でした。
 句会当日は彼の地元である静岡県浜松市の他結社から足を運んだ人もあり、和弥氏は時間ぎりぎりまで全投句にコメントをする熱の入れようでした。当時、安定した公務員の職を辞したばかりと聞いていたので、俳句に何かをつかもうと必死にもがいているようにも感じました。
 研究会発足後も数回は浜松から出席してくださいましたが、やはり「余裕がない」との理由で途中からお見えにはなりませんでした。和弥氏が研究会へ期待されたことが達成できたのか、今となっては確かめようもありませんが「一人の作家を徹底的に読み解くのです」という彼の言葉通りのことは出来たと思っています。後は、参加者各自がこの成果から一歩進んで特定のテーマを見つけ深めていくことが重要でしょう。

(3)【澤田和弥追悼】同人誌「のいず」最終号寄稿
 澤田和弥さんのこと   
                                  渡部有紀子


 今回追悼文を書かせていただく人の中で、私は澤田和弥さんとは一番短いお付き合いだと思う。二〇一三年七月に刊行された第一句集『革命前夜』について、俳誌「天為」で一句鑑賞文を書かせていただいたことが和弥さんとの初めての接点だった。それから、翌年の三月には神奈川県の天為湘南句会に選者をお越しいただいたり、メール通信の句会にもお誘いいただいたりと、常に結社の先輩として非常に親切なご指導をいただいた。湘南句会の直後に句会の若手育成のためによい方法はないかと相談した時は、結社主宰の有馬朗人の全句集を徹底的に読む読書会をと、発案してくださった。後輩や周囲の人のためには、惜しみなく知恵と労力を提供し、常に一生懸命に生きている人。私はそういう印象を受けた。
 その印象は、短期間しか和弥さんに接することの出来なかった私の誤解かもしれない。だが、かつて和弥さんが書かれた句集評論の中には、あえて誤読を行うと断った上で、その理由を「俳句作者は己の作品の50パーセントしか作りえない。十七音というきわめて小さな詩型はそれしか許さない。残りの50パーセントは読者に委ねるしかない。つまり俳句という詩型がきわめて特殊である点は、作者と読者の共同作業によって、初めて100パーセントの作品に完成させられるということにある。」(“金子敦第四句集『乗船券』を読む” 「週刊俳句」二〇一四年二月十六日号)と、述べている箇所がある。私のように一年半という限られた期間だけ、直接和弥さんの発言を聞き、手紙やメールをやりとりした者にとっては、やはり和弥さんが残して下さった印象で五十パーセント、後の五十パーセントは私の乏しい想像力で補われた記憶に過ぎず、大部分は誤解であることを引き受けるしか無いのだろう。

俳人死す新茶の針ほど細き文字
和弥逝く色紙に酒とさくらんぼ


 和弥さんは筆まめな人だった。恰幅のよい体型と違って、手紙には先の細いペンで、所謂「とめ・はね」を忠実に守って書いたような生真面目で繊細な文字がびっしりと連なっていた。いつも決まって掛川茶が同封されていたが、同人誌『のいず』創刊の際は、創刊祝の返礼にと色紙を二枚くださった。退廃的な寺山修司の世界に憧れていた和弥さんには拒絶されそうではあるが、どうしてもその色紙には、瑞々しい光を放つ、甘酸っぱいさくらんぼを供えたいと思ってしまう。

瓶麦酒王冠きれいなまま開ける
王冠の歪まぬままの壜麦酒


 和弥さんはお酒好き、とりわけ麦酒が大好きだったようだ。「天為」の平成二十四年作品コンクールでは、麦酒を詠んだ先人達の俳句をとりあげた「麦酒讃歌」という随想で入賞している。先に述べた有馬朗人句集の研究会でも、皆で食事をした際は、昼間のファミリーレストランで、メニューを手に取るなり真っ先に麦酒を探して注文し、下戸の私を内心呆れさせたものである。とは言え、私が知る限りでは、酒に酔って乱れるようなことはない、終始朗らかな呑み方だった。それは昼間だった故か、それともやはり私の誤解なのか。もう少し機会があったら、よく冷えた瓶麦酒を王冠が歪むくらい勢いよく開けて、和弥さんのグラスに注ぎながら、俳句の話が聴きたかったと思う。私はウーロン茶専門なので、万が一、和弥さんが酔い潰れてしまっても介抱できただろう。

和弥死すこんなに五月の空真青
風五月手を振止まぬ弥次郎兵衛


 短期間しかお付き合いがなかった為、和弥さんについて私が誤解していることも多々あり、しかも同じ結社の先輩でもあるので、あまり馴れ馴れしいことは書かないでおこうと思っていた。だが、和弥さんが私に与えてくださったアドバイスや親切は、たった一年間だけでも私にとっては和弥さんという人物が、大切で尊敬すべき句友であると思わせるのに十分だった。
 最後に結社の先輩には失礼ながら、年齢は一つしか違わないという事実に甘えて、本音を吐露することをお許しいただきたい。和弥さん、あなた、死んでる場合じゃないですよ。もっと俳句を見せて欲しい、もっと俳句評論を書いて欲しい。あなたなら出来ることが沢山あります。あなたの句や評論がどれほど他の人たちを驚かせ、時には呆れさせ、同時に潔いまでにタブーをぎりぎりのところまで詠むあなたの作句態度や才能に圧倒されていたか。その青臭いほどの一途さと生真面目さに懐かしさと憧れを抱いていたか。和弥さん、あなた、これからでしょう?死んで今、何をしているのですか?


(4)【『革命前夜』 一句鑑賞( 渡部有紀子)】

咲かぬといふ手もあつただらうに遅桜 和弥

 和弥さんの句集を入手した日の夜、旧友が自宅を訪ねてきた。急ごしらえ出した泡雪寒を食べる頃になって、テーブルの上にあった句集を手に取った彼女の目が掲句の頁で止まった。「不思議な魅力のある句ね」と。彼女には俳句の心得がある訳ではないのだが、掲句の平明でストレートな表現が心を捉えたようだ。「何となく共感できるの」「咲くか咲くまいか迷っていたけど、咲いてみたら案外良いこともあるかもしれないって、思いきって咲いてみる決心というのな」と、コメントしていた。私はそれを聞いてなお、この句に不思議さを感じた。咲かぬという手だって?もし仮に花にも人間と同じような心があったとして、そんなの咲いてみて初めて知る事じゃないか!咲いてこそ、他の木や花がまだ咲いていないこと、あるいは花を愛でる人間達が咲きかけて結局散ってしまった花を嘆くこと、それらを認識した時に初めて、「咲かない」という選択も自分にはあったことを知るのではないのか。植物の花弁は温度と日照時間数が一定に達すれば開いてしまう。そこには「やめる」という意思が入り込む余地などない。しかるべき時期が来たから咲くのだ。初めて何かを為すというのもそれに近いと思う。今回は和弥さんの第一句集。「これが私です」と後書きにあるように、初めて和弥さんが自分を世に問うた第一歩である。問いかけずにいられなかったのだろう、今が和弥さんにとっての最適な時期だったのだから。十八歳から二十九歳までの玉句を収めた第一句集に続き、次なる三十歳代の第二句集を是非とも期待する。件の友人も「止めていいけど思いきってみたら良いことあるかもなんて決心つくようになったのは、三十路越えちゃってからよ」と、明るく笑っていたのだから。
(渡部有紀子)

(5)【参考】2015年7月24日(BLOG「俳句新空間」)
澤田和弥の過去と未来  /筑紫磐井


 未見の人であったが気になっていたのは澤田和弥氏であった。『超新撰21』の時から候補にはあがっていたが、結果的に見送ってしまっていた人である。特にその後、句集『革命前夜』を上梓され、いい意味でもそうでない意味でも、『新撰21』の影響があった人ではないかと思っている。

 『新撰21』等に入らなかったことについて西村麒麟氏から、『新撰21』がこれだけたくさんの新人(42人。小論執筆者まで入れれば80人。さらに『俳コレ』まで登場した)を発掘してしまうと、このシリーズに入らなかったことそれ自身が逆の差別をされてしまったような気になる、と企画者の一人に対する注文とも不満ともつかぬ発言をしたことがある。これは澤田氏にとっても同じ思いであったかもしれない。

 逆に言えば、入らなかった御中虫、西村麒麟、最近の例でいえば堀下翔などは、すでに『新撰21』(例えば神野紗希、佐藤文香)を超越してしまった世代といえるのではないかと勝手に思っている。『新撰21』といえども企画者3人の独断と偏見に満ちた選考で上がった名前であるから、これら3人の枠組みの中でしつらえられている。御中虫、西村麒麟、堀下翔はこうした企画者に反発して自分たちの枠組みで自分たちの登場の場を確保したのだ。

 以前、俳句甲子園に苦言を呈したのは、もちろん若い高校生たちが俳句に関心を持ってゆくのはありがたいが、彼らは、俳句甲子園企画者のルールに従い、枠組みの中で競っているのであって、自分たち独自のルールを作り上げたわけではない。以前の高校生は――つまり寺山修司などは、自分たちで同人雑誌を創刊し、全国の高校生を結集し、中村草田男などと交渉して俳句大会を開催していった。そうした活動と俳句甲子園とはずいぶん違うのだということである。もちろんどちらがいい悪いとは言わない、より多くの高校生俳人を結集させるには俳句甲子園方式はかなりいい手法かもしれないが、寺山流ではないのは間違いない。

 『新撰21』から外れた動きを眺めるために、今回【アーカイブコーナー】で、御中虫、西村麒麟の活動を掲げてみた。これは明らかに「上から目線」を完全には排除できなかった(他の俳人たちに比べれば余程努力したつもりだったのだが、完全には排除出来ないのだ)『新撰21』に対する、反『新撰21』の活動であったと思っている。いや、ほどほどに妥協し、揶揄しながら自分たちの主張を断固として貫徹している。『新撰21』が存在しなくても自分たちの存在は明らかになっていると思っている人達であろう。

 澤田は『新撰21』の影響を受けつつ、やはり独自の世界を模索し続けたようである。実に様々な媒体に挑戦している。私の関係するところでは、「豈」「俳句新空間」に登場しているし、その行く先は茫漠としていた。若い人らしい行方のなさだ。

 澤田は自らも寺山修司への傾倒を語り、句集にもその痕跡を残したが、しかし作品として寺山の傾向が強かったとはあまり感じられなかった。むしろ早稲田大学を通して、寺山の系譜を確認し続けたといった方がよいかもしれない。彼のライフワークになると思われたのは(悲しいことにわずか4回で中断してしまったが)、遠藤若狭男の主宰する「若狭」に連載し続けた寺山修司研究(「俳句実験室 寺山修司」)だ。これが完成していたら、寺山と澤田の関係はもっと濃密に見えたかもしれない。

 本人が存命している時の句集『革命前夜』と、亡くなってしまったあと読む句集『革命前夜』は少し趣が違っている。前者が今まで書かれた句集評の大半なのだが、後者を「俳句四季」10月号の座談会で取り上げ試みる予定であるが(齋藤愼爾、堀本祐樹、角谷昌子と座談)、妙に物悲しいものに思える(既に『革命前夜』は版元で売り切れ絶版となっている由)。有馬朗人氏の、「『革命前夜』をひっさげて俳句にそしてより広く詩歌文学に新風を引き起こしてくれることを心より期待し、かつ祈」るという、わずか2年前の序文がどうしようもない違和感を醸し出す。なぜなら今日のこの状況を誰も知らないからだ。私は当初、こんな句を選んだがそれは未来のある人の句としての鑑賞だ。

    佐保姫は二軒隣の眼鏡の子
    黄落や千変万化して故郷
    冬の夜の玉座のごとき女医の椅子


 実は死の予告のような句を選んでしまった。詳細は「俳句四季」10月号を見て頂きたい。だからここでは、『革命前夜』後の作品を掲げて締めくくりたい。澤田和弥の未来がどうあったか(亡くなっても作者としてはまだ未来があるのだ。後世の読者がどう評価するかは我々の思惑を越えているのだから)、考えてみたい。御冥福をお祈りする。

    人間に涙のかたち日記買ふ   「若狭」より
    菜の花のひかりは雨となりにけり
    春夕焼文藝上の死は早し   「週刊俳句」角川俳句賞落選句より
    復職はしますが春の夢ですが
    女見る目なしさくらは咲けばよし


(6)【「俳句四季」二〇一五年一〇月号 [座談会]最近の名句集を探る40】

▼澤田和弥句集『革命前夜』


筑紫 最後の句集は洋出和弥さんの第一句集『革命前夜』(邑書林)です。
 出版されたのは少し前で、平成二五年の七月です。澤田さんは昭和五五年生まれ、学生時代は早稲田大学の俳句研究会に所属していました。平成一八年に「天為」に入会し、二五年に「天為」新人賞も取って、これからという時だったのですが、この第一句集を出して二年後の今年の五月に三五歳で亡くなられました。
 この句集はもう亡くなったことがわかっていて読むと、少し読み方が変わってくるのではないかと思うんですね。それを踏まえて幾つか句を紹介します。
 「冬夕焼燃え尽きぬまま消え去りぬ」。まさに澤田さんそのものを詠んでいるような句で、今読むと印象的です。
 「言霊のわいわい騒ぐ賀状かな」。ちょっと不気味な感じがします。「マフラーは明るく生きるために巻く」は今読むとシニカルにも読めますね。「秋天に雲ひとつなき仮病の日」。職場で悩む事もあったのかもしれません。「生前のままの姿に蝿たかる」「地より手のあまた生えたる大暑かな」。鬱々とした感じが胸に迫ります。
 こういう句ばかりだと湿っぽくなってしまうので「黄落や千変万化して故郷」。故郷に戻ってきてほっとした気持ちが窺えます。「冬の夜の玉座のごとき女医の椅子」は豪華でいいですね。
 有馬朗人さんが序文に「この『革命前夜』をひっさげて俳句にそしてより広く詩歌文学に新風を引き起こしてくれることを心より期待」と書いているのですが、二年後に亡くなってしまう事を考えると悲しく響ききます。

齊藤 この句集には「修司忌」の句が二十句人っているけれども、僕が辛うじて採ったのは「革命が死語となりゆく修司の忌」の一句。全体的に寺山修司の影響はあまり感じられないですね。寺山だったら同人物の忌を二十句も作りはしない。世界で最愛の人が亡くなっても、せいぜい一句でしょう。二十句は死者に対して冷淡です。
 採った句は「シスレーの点の一つも余寒かな」。シスレーの点描画を「点の一つも余寒」と表現するのは面白い。「接吻しつつ春の雷聞きにけり」。これは「聞きいたり」としたい。

角谷「聞きいたり」だとずっと接吻が続いている感じですね(笑)。

齊藤 接吻するか、雷を聞くか、どちらかに専念せよということです。「短夜のチェコの童話に斧ひとつ」。寺山修司は斧を随分詠んでいるから、その影響かもしれない。「幽霊とおぼしきものに麦茶出す」「母も子も眠りの中の星祭」「終戦を残暑の蝉が急かすなり」「香水を変へて教師の休暇明」「金秋や蝶の過ぎゆく膝頭」などを採っています。
 「狐火は泉鏡花も吐きしとか」。泉鏡花と狐火は確かに合うしこのままでも面白いけど僕なら「狐火は泉鏡花を吐きしとか」とやりたい。「も」と「を」の一字で内容は反転する。

堀本 僕は澤田さんとはフェイスブックで繋かっていて、ある俳句の催しに参加しませんかと声をかけて貰った事がありました。結局都合が合わなくて行けなかったんですが、お会いしたかったですね。
 『革命前夜』というタイトルは、自分の内側でまず革命を起こしたい、という澤田さんの気持があったんじやないかなと思います。若くして亡くなられた事でどうしても句に後から意味が付加されて読まれてしまうんですが、できるだけ作品そのものをニュートラルに捉えたいと思って読みました。
 「恋猫の声に負けざる声を出す」。恋猫は実際うるさいんですよね。それに負けないように声を出す。すごく切実な声にも思えるし、楽天的に取ればユーモアとエロチシズムを感じます。
 「空缶に空きたる分の春愁」。春愁の句としてテクニカルな詠い方をしているのですが、同時に彼の繊細さが出ている一句です。「卒業や壁は画鋲の跡ばかり」。卒業の嬉しさよりも寂しさを詠んだ所がいいなと思います。
面白い句で「伽羅蕗や豊胸手術でもするか」。「豊胸手術でもするか」という軽い言い方に上五が渋い「伽羅蕗」で、日常の食べ物からいきなりメタモルフォーゼするようなところへ飛んでいく、そういう面白さがあります。「外套よ何も言はずに逝くんじやねえ」。友人に呼びかけるような、もしくはつぶやくような一句なのですが、これも亡くなってから意味が出てくる句ですね。自分が死を感じた時に、他人の事がよく見える時があると思うんです。そういう心理の働きがこの句でも見えていると思います。例えば中上健次が宮本輝さんに最後に会った日の別れ際に、「宮本、お前、長生きしろよな」と言ったという話があります。その一年後に中上健次は亡くなるんです。そういう事を思い出して、胸が締め付けられた一句でした。
 この句集を読めて良かったと思います。と同時に第二句集も読みたかったですね。

角谷 私はなるべく亡くなった事を先入観として持たないように読みました。でもタナトスの影がどうしてもちらついてくるんですね。例えば「椿拾ふ死を想ふこと多き夜は」「若葉風死もまた文学でありぬ」。田中裕明さんの最後の句集『夜の客人』に「糸瓜棚この世のことのよく見ゆる」という彼岸に足を踏み入れているような句かありますが、それに近いものを感じました。
 『革命前夜』といっても前衛的な句はあまりなくて抒情的な句が多い印象です。「半烏に銃声響き冴返る」には弛みのない硬質な叙情があります。「拘置所の壁高々と雪の果」。青年期の特徴とも言うべきこの世との隔絶感ですね。緊迫と弛緩の対比で作られているのが「薄氷や飛天降り立つ塔の上」。
 「鳥雲に盤整然とチェスの駒」。「チェスの駒」という整然としたものと「鳥雲に」のような柔らかく自在なものを取り合わせる。この取り合わせはこの方の持っている精神性から発せられているのかなと思いました。
 「修司忌」の句は齋藤さんが仰ったようにあまり採れる句はなかったです。「目」にこだわっている印象が強く、「船長の遺品は義眼修司の忌」など、凝視の作家だと思います。

筑紫 実はもう一つ所属している結社誌「若狭」では修司論を連載し始めてたんですよね、亡くなってしまったので四、五回で終わってしまいましたが。恐らく修司への意識の仕方は作品そのものからはあまり見えないけれど、評論の形で見えてきたかもしれない。

角谷 亡くなられると次第に忘れられてしまうことがあるので、こうやって語られる機会は大事だと思います。

筑紫 これからも澤田さんの俳句が語り継がれていって欲しいと思います。

(7)澤田和弥の最後とはじまり
                    筑紫磐井

 「狩」の同人遠藤若狭男が27年(2015年)1月に俳句月刊雑誌「若狭」を創刊している。遠藤は、若狭、つまり福井県の出身の人で、早稲田大学を出て学校の教師をしていたが、若くから詩や小説など多角的な活動をしていた。同じ早稲田の先輩である寺山修司の心酔者でもあった。
 ところでこの「若狭」に澤田和弥は創刊同人として参加しているのである。遠藤が、早稲田の先輩であり澤田が大学院在学中に所属した早大俳研の指導顧問であり、寺山への共感者ということが澤田参加の大きな動機となったのであろう。「若狭」へは、遠藤との個人的つながりだけで入会したのではないかと思う。従って入会の経緯はこの二人しか知らない。しかも、入会の年に澤田はなくなっているから、俳句の発表も僅かである。1~4月号と6~7月号であり、7月号で逝去が告知されている。
 特筆すべきは1~4月号まで澤田は「俳句実験室 寺山修司」(1頁)を連載していることである。むしろこの文章を執筆するために「若狭」に入会したと言ってもよいかも知れない。継続した澤田の文章としての最後のものと言うべきであった。やはり澤田の最後の思いは寺山にあったというべきであろう。
 この間の事情を知りたいと思ったが、何と言うべきであろう、遠藤若狭男自身は30年(2018年)12月に亡くなり、「若狭」も廃刊されてしまったから、伺う手がかりもない。ほとんど時期を一緒にして亡くなった師弟は寺山つながりだけで我々のもとに「若狭」という資料が残っているのだ。
 「俳句実験室 寺山修司」は寺山の一句鑑賞であるが、

豚と詩人おのれさみしき笑ひ初め 寺山修司(29年)
目つむりて雪崩聞きおり告白以後(30年)
十五歳抱かれて花粉吹き散らす(50年)
父を嗅ぐ書斎に犀を幻想し(48年)

など僅かこの4句を鑑賞し、「俳句実験室 寺山修司 第四幕」は終了している。翌五月号では編集後記で遠藤は「好評を博している「俳句実験室 寺山修司」の著者である澤田和弥氏が体調を崩されてやむなく休載となりました。一日も早い回復を願っています。」と告知している。俳句も五月に欠詠し、六月に復詠している。文書を書く気力は蘇らなかったようである。7月に最後の俳句作品(七句)が載せられている。

冴返るほどに逢ひたくなりにけり  澤田和弥
菜の花のひかりは雨となりにけり
白梅を抱き締めている瞼かな


 「若狭」三月号では寺山の「十五歳抱かれて」の句を取り上げて鑑賞している。高校時代の作品として掲げられる『花粉航海』が実は四〇歳を過ぎてからの作品(つまり「新作」)を多く載せていることが巷間知られているが、それでも澤田はこの句を寺山の「未刊行」の句ではないかと推測する。それは十五歳という年齢が寺山の創作活動のスタートに当たるからだ。真実は寺山本人しか知らないが、そのように読み解く澤田の心理は分からなくはない。
 そしてこの鑑賞を読むと、澤田の「白梅」の句と構造が似ていることに気付く。澤田のこの最後の句を寺山に重ね合わせると、澤田の俳句人生のスタートとも見えてくるのだ。
澤田の『革命前夜』は決して全共闘世代の革命とは違うようだ。どこか「革命ごっこ」が漂う。それはしかし寺山にも似てはいなくはない。革命よりは革命ごっこの方が一般大衆には分かり易いのだ。革命前の露西亜のプーシキンは、革命と革命ごっこを行きつ戻りつした。革命史『プガチョーフ反乱史』と革命期の恋愛小説『大尉の娘』を同時並行して執筆した。『プガチョーフ反乱史』(この書名はロシア皇帝ニコライ一世の命名になるという)は革命家にとっての教科書となった、しかし一般大衆に愛されたのは『大尉の娘』だった。
      *
 澤田から生前、句稿が送られてきている。『革命前夜』(2013年刊)収録の後、角川俳句賞に応募して落選した「還る」(2011年)「草原の映写機」(2013年)「ふらんど」(2014年)、第4回芝不器男俳句新人賞に応募した無題の100句である。『革命前夜』後の澤田和弥を語るのに決して少ない量ではない。『革命前夜』で「これが僕です。僕のすべてです。澤田和弥です。」といった、「これ」以後の澤田和弥――新しい「これ」を我々は語ることが出来る。我々自身について、我々は語ることが出来ない。なぜなら我々が提示する、「これ」が全てではないからだ。しかし我々は今や安心して澤田和弥を語ることが出来る。「これ」以外に澤田和弥はないからだ。ようやく澤田和弥を伝説として語ることが出来るようになっているのである。

★皐月句会デモ句会結果(2020年4月10日)

■高点句と評■
●2点句

世界中死の予感して四月来る(北川美美)
【評】時事俳句は2(都市部より人病んでゐる花のころ)と5(掲句)である。通常メッセージ性が露骨でない方がいいと思われるが、現状が流動的で結果が見えていない中ではやや異なる。ここに描かれているよりもっと悲惨な状態が招来されるかもしれない。 ──筑紫磐井

●1点句
長靴を愛でる雨ん子皐月晴れ(千寿関屋)
【評】「雨ん子」がいいです。長靴を履きたくて雨降りの支度をしている子の様子が伝わってきます。ちょうど私も新調したLL.Beanの雨用ブーツが届きました。「愛でる」というのは「触る」意味も含まれていると読めましたが、長靴のゴム素材にウィルスは何時間耐久するのか、など派生して想像していました。ともあれ、「皐月晴れ」のような清々しい会の幕開けとなることを祈念する「皐月句会」への挨拶句と思い選びました。 ──北川美美

遠い日の子規の日記の桜餅(筑紫磐井)
【評】子規さんの食欲、なかなかだったようで、親近感が伝わってきます。 ──千寿関屋

紅椿明治の俳句始まるか(筑紫磐井)
【評】まず「明治の俳句」に俳句のみならず日本の近代化を思い政治的な読みを考えました。ちょうど今、碧梧桐「赤い椿白い椿と落ちにけり」を「赤と白とが同時に落ちるということに明治という時代の意味が込められている」と読んだ私の一文に対して、某氏より非難を受けていている最中で、そのことも起因して、なぜ「白椿」ではなく「紅椿」に「明治の俳句」の始まりを思ったのかの歴史的根拠を含め知りたく思い選びました。 ──北川美美

東雲や明くる弥生の新頁(千寿関屋)

英国Haiku便り(10) 小野裕三


俳句でコンセプチュアル・アートを作る

 僕が今いるのは芸術大学なので、しばしば学内での美術展がある。いろんな人が「あなたも俳句を出して参加しなよ」と誘ってくれるので、参加してみることにした。とは言え、単なる俳句の展示では芸がない。そこで、俳句を使ってコンセプチュアル・アートを作ろうと考えた。それであれば、作品に内在する考え方をアートとして捉えてもらえるので、高度や絵や彫刻ができない僕にも制作可能だからだ。
 最初に作った作品では、グーグルの自動翻訳機能を活用した。それを使って、芭蕉の古池の句を英語に翻訳し、そこから英語以外のさまざまな言語にリレー式に翻訳していく。いくつかの外国語を経て、また英語に翻訳しなおす。その最終形は原句とは似つかぬものとなり、しかも違う順番でリレーするとそれぞれに違う翻訳結果となった。ダダイズムの自動筆記にも似たこの過程自体がどこか詩的でもあり、一方でデジタル技術に依存する未来社会への警鐘にもなると思えた。
 第二作目は、「奥の細道」を辿って俳句を作るのが趣旨。ただし、イギリスにいてそれを実現するため、パソコン画面上のグーグルストリートビューで芭蕉の道を辿った。東京の千住を出発し、三週間に渡り十数時間をかけてパソコン上での旅を続けた。途上で日光を訪れ、街道沿いの杉並木の雰囲気を味わい、寺社の境内でバーチャルな参拝もできた。そこから福島県に入り、芭蕉のルートを少し外れて、福島原発の跡へと向かった。芭蕉の時代と比較することで原発事故を抱える現代の時代を照らし出す、というメッセージ性を意図したものだ。近隣の地域に近づくと、海へと向かう道はみな閉鎖されていたが、なぜか、ストリートビューではその閉鎖フェンスを越えて先に進めた。さらに進んで原発が近づくと、バーチャルな旅にも関わらず緊張して心臓が高鳴った。だが、そのストリートビューもさすがに原発目前の地点で続行不能となり、「デジタル版・奥の細道」はそこで中断となった。だが、簡単には立ち入れない地域をパソコン画面上で歩き回って俳句を作る(つまり吟行?)ことができたのは特異な体験だった。この旅を簡潔な文章にまとめ、途上で作った俳句とともに英文のボードにして展示した(写真)。
 幸い一作目も二作目も、少なからぬ人に「印象的だ」と言ってもらえたので、現代アートの作品の構成要素のひとつとして俳句を組み込むことは可能性のある方法論なのではと感じた。俳句の持つ歴史性、世界的な知名度、短文ゆえの情報濃度や微かに漂う神秘性、などの要素は現代アートから見ても魅力的なはずだからだ。
(『海原』2019年11月号より転載)

【予告】俳句新空間第12号 


令和元年俳句帖[五帖](春興帖~冬興帖)

「風の言語」 救仁郷由美子

前号作品を読む

新作20句(令和四季帖)
青木百舌鳥・網野月を・井口時男・加藤知子・神谷 波・岸本尚毅・北川美美・坂間恒子・佐藤りえ・竹岡一郎・田中葉月・筑紫磐井・辻村麻乃・津髙里永子・仲寒蟬・長嶺千晶・中村猛虎・中山奈々・夏木久・なつはづき・福田葉子・ふけとしこ・渕上信子・堀本 吟・前北かおる・松下カロ・真矢ひろみ・もてきまり・渡邉美保

【抜粋】〈俳句四季5月号〉俳壇観測208 俳句文法を考えてみる――文法の「間違い」とは何だろう?   筑紫磐井

(前略)
俳句文法の歴史と真実
 「俳句あるふぁ」で記述している歴史は次の通りである。近代が始まってから、明治・大正期は文法研究が始ったもののそれを意識していた俳人は、一部を除いて少なかったという。ところが昭和期(戦前)に入って、多くの文法学者が俳句を例に文法を説くことが多くなり、俳句の実作や鑑賞に文法の知識が有用だという感覚がひろまった。戦後の教育改革で文語表現が減り、文語は学校の古典として習うこととなり、これを踏まえて俳句が文法的に読まれる時代となった。高度成長期の転機は馬酔木に林翔(高校教師)が執筆した「文法講座」に始り、文法の誤りを正すことが目的となっていった。平成以後は俳句総合誌のようなメディアが初心者向けの内容にシフトし、文法の指導をになうようになった。この他にも、学校文法がどのように発展したかも書かれているがそれは省略する。
 「俳句あるふぁ」編集部の見識は、これを踏まえての反省である。断片的な発言を整理するとこのようになるであろう。

 「戦後の学校教育の影響で、文法に「正解」があるという認識が定着したこともあります。かつては誰しもが自然に使っていた古典文法が身近なものでなくなり学校で教わるものになると、そこに「正解」が生まれるようになりました。いまや古典文法は勉強しないと使えないものとなり、教わった用法のみが正解であり、文法書に載っていない用法は「間違い」に見えるという、なんとも難しい時代になりました。」
 「参考書や辞書をただ暗記するのではなく、言葉をよく知っていた古人たちの、生きた表現に触れる。古典文法の学習で大切なのはこの作業です。辞書的な定義を知るだけでは言葉を使うことはできません。」
 「昭和までの人びとと違い、日常的に古典文法で読み書きするわけではない私たちにとって、多かれ少なかれ、古典文法の表現は距離が遠いものなのですから。
 その上で、かつての古典文法の息づかいそのものをコピーすることはなかなか難しい、という事実にも、いつか突き当たることがあるように思います。」


 だから、一見正統的な文語から逸脱しているように見える作品についても次のようなコメントをしている。

糶られゐる魚の真顔や万愚節 片山由美子

 「「糶られている」というように、現在も進行中であるという意味の「ゐる」が登場するのは、私たちが学習する平安時代の文法よりもあとのことです。」
 「俳句が「生きた」ジャンルであり、現代の私たちが携わる以上、俳句の言葉は、やはり「生きた」言葉です。辞書の定義に頑なに縛られ、逸脱を気にするばかりになるのはいかがなものでしょう。」
 「日ごろから古典文の表現による俳句やさまざまな古典作品に親しみ。古典文法の表現を生きたものとして自分の心に養っておいてこそ、現代の私たちが用いる古典文法による表現はいきいきと輝くのだと思います。」


 日頃この俳壇観測では私の性格もあり無条件に賛意を表することはないのだが、今回だけは全く正しいと思う。平成以後の総合誌の文法特集や文語文法入門書では決して見ることの出来ない画期的な主張なのである。