【テクスト本文】
中村汀女の赤 中村ひろ子(未来図)
我に返り見直す隅に寒菊赤し (『汀女句集』)
中村汀女が初めて作った句は玄関の拭き掃除を母から命じられている最中にふと目に留まった赤い寒菊だった。以後、「赤」は様々な句の中に鮮やかに現れては消えてゆくことになる。
中村汀女は本名中村破魔子。明治三十三年四月十一日に父斉藤平四郎、母テイのもとに一人娘として生まれる。熊本県飽託郡江図村(現熊本市東区江図一丁目)出身。父は地元でも有数の地主で江図村の村長を二期務めている。大正元年。熊本県立高等女学校(現熊本県立第一高等学校)に入学。大正七年同校補習科を卒業。大正九年、熊本市原町出身の中村重吉と結婚。大蔵官僚であった夫と共に結婚と同時に上京、のち仙台、名古屋、大阪を経て、横浜に転居、この時高浜虚子を訪ね、星野立子と出会うこととなる。
「女学校四年の時だったか、教科書に芭蕉の像と句が載っていた。私はおよそ俳句になんの興味も持っていなかったし、それに国語の時間には退屈していたので、あたりまえに聞き流した。(中略)何か他の病気ならまだしも、お腹をこわして旅先で死ぬなど、だらしのない芭蕉をひそかに軽蔑していたのだった。」(『汀女自句自解集』)
風光明媚な江図湖のほとりに住む汀女にとって勉学よりは湖での遊びの方が魅力的だったようだ。後に汀女は芭蕉よりは戯曲が好きだったし、俳句を止めていた期間は探偵小説や泉鏡花を愛読していたと語っている。寒菊の句のほかにも二句出来た。
いと白う八つ手の花にしぐれけり (『汀女句集』)
鳰葭に集まりぬ湖暮るる (『汀女自句自解抄』)
朝の拭き掃除中、玄関から眺めた垣根の句と側の江図湖まで出てみた風景の句。僅か十歩にも満たない世界がこの時の汀女の俳句の世界である。面白くて次々に出来たとある。汀女はこの句群を九州日日新聞(現熊本日日新聞)の俳句欄に投稿している。この時の選者は三浦八十公であり、彼の勧めで華道の斎号「瞭雲斎花汀女」から俳号の「汀女」を名乗ることとなった。この汀女の母という人は大変しつけに厳しい人で汀女を嫁入り前の修行として預かっていた女中たちと一緒に家事を仕込んでいる。華道も免許皆伝であるから花嫁修業に余念がなかったと言っていい。一人娘に養子を取らなかったのは父のリューマチを隠しながら村長を務めていたことにも一因があるに違いない。政治に深くかかわっていたとはいえ一村長であった父が跡継ぎを求めるよりは良い嫁ぎ先をと考えたのは当時中村家が第五高等学校の漕艇部の合宿を江図湖周辺の家々で受け持っており、そのとりまとめが中村家であったからでもあろう。一人娘に最良の嫁ぎ先をこうしたつてから探せたのではないか。湖畔の村の行事は川祭り、塘(とも。加藤清正がつくった江図湖畔の堤防)での盆踊り、そして最大のイベントが四月に行われるこの漕艇部のレースであった。阿蘇の山々を遠くに臨み、菜の花溢れる湖畔でのレースはさぞ盛り上がったことであろう。後に夫となる重吉氏の見合い写真は五高での集合写真で結婚式当日まで顔が鮮明に判明せずどの人が重吉か分からなかったらしい。初対面同様の夫との結婚式。その後の一つ二つの杉田久女、長谷川かな女が関わる小さな事件が汀女を俳句から遠ざからせた遠因となったのではないかと私は推測している。そしてその小さな事件の前後に現れては消える「赤」。
身かはせば色変はる鯉や秋の水 (『汀女句集』)
何処までも澄み切った秋の水。この句は結婚前汀女が庭の池の鯉を見て作った句である。自宅の庭も噴井があったというのでこの池の水は湧水である。そして悠々と先頭を泳ぐ鯉は緋鯉であるという。
「秋晴れの日など、心浮き立つように、大きな緋鯉を先頭に列を作って、くるくると泳ぎ回る鯉は見飽かなかった。」(『汀女自句自解集』)
この時の汀女は十九歳、三浦十八公に見いだされ、ようやく歳時記の存在を知り俳句という新たな表現世界を知り始めたころである。悠々と泳ぐ緋鯉は汀女自身の姿に他ならない。屈託なく泳ぐ緋鯉はこの後汀女の化身としてもう一度汀女の俳句に登場する。大正八年の『ホトトギス』への初投稿は十八公の手によるものだった。四句入選というからなかなかのものである。十八公の後は宮部寸七翁に師事する。両者との関係から長谷川零余子の『枯野』発刊と同時に投稿。青木月斗はその関係から汀女の自宅に立ち寄り短冊を与えている。汀女の若き才能がいかに期待されていたかが分かる。そして『枯野』を通して知り合った杉田久女、長谷川かな女、金子せん女、阿部みどり達の江図湖滞在。憧れの久女との邂逅は俳句を始めたばかりの汀女はもちろん、父母にとっても大変な名誉であったに違いない。中村邸への滞在は二日に及ぶ。
遊船に手伝つて提灯吊るしけり
提灯はもちろん赤。なんとかこの滞在を良きものにしてあげたいと張り切っている汀女の姿が伺える。汀女からみた久女は次の通り。
「目の大きくすべてにきりりとした美しい人であり、連れて来られた次女の光子さんは小学校前であった。私はまた得意の水棹を持って船に乗せたのだが、あの方の身の上話を聞き、すべてに感じ入り同意した。」(『俳句の里にしあれば』)この当時の久女は離婚が叶わず東京の実家から福岡に戻されていた時期である。病の癒えたばかりの久女への慰安旅行の意味もあった江図湖への旅は大変な歓迎を持って中村邸へ迎え入れられた。美しい久女の万葉集の膨大な知識や俳句へのカリスマ的な才能、行った事もない東京の話、不幸な結婚の話など、未婚の汀女にとっては心動かされる話ばかりだったに違いない。そしてその油断が俳句を断念しなくてはならなくなる出来事へとつながってゆく。
「二泊されたのだったが、兄事ではなく姉事したともいえるこの交際がとんでもない数か月後の失策を起こした。(略)中村は同じ熊本市生まれ、親たちの間で話は進められていた。(略)そして結婚式場、熊本城のすぐ下の、加藤清正を祀った加藤神社ではじめて当人に逢ったのである。(略)花嫁の私が人力車に乗って、あれは熊本市の坪井町あたりに通りかかったら、男の子たち二、三人がはやしたてた。「ワーイ、二段鼻だア」これには私は今の言葉で言えば大ショックであった。(略)東京行きの汽車、夜更けの小倉駅に杉田久女さんが出ていて下さって、家に寄れと言われるし、私も当然のように杉田家に連れて行かれた。中村とは門司駅ですぐ落ちあうつもりであったのに、久女氏がなにやら馳走を作ろうとして居られる。発つに発てないのである。中村とは姫路の知人の家で落ち合う始末となり、叱られても仕方のない失敗の第一号である。」(『俳句の里にしあれば』)
初対面の夫、その夫を待たせて久女の家へと行ってしまうのである。
夫重吉の叱責は如何ばかりか想像に難くない。当の久女と言えば招いておきながら馳走を用意しておくのではなく、これから作ろうというのである。久女の言い分とすれば一泊のはずの滞在を二泊に引き留めてくれた恩に報いる意味もあったのだろう。思い込んだら相手の事情を考えず突っ走ってしまうところがなんとも久女らしいエピソードではある。本人は花嫁姿でからかわれた二段鼻を乙女らしく気にしているので初対面の夫重吉に対して引け目があったのかもしれないが、後に星野立子は汀女と初めて会った時のことを次のように語っている。
「句会の日、初対面の汀女さんのてきぱきとした応答に圧倒された。背丈も私より遥かに大きくて。」(『汀女句集』第三版「汀女さんの句」)当時の写真を見ると確かに大柄だが本人が気にするように二段鼻ではないようだ。かなりの美人であるが、本人が恥じらうほど重吉が颯爽としていたのかもしれない。俳句によって気まずく始まった新婚生活ではあったが新生活の支えともなったのはやはり俳句であった。長谷川かな女による婦人句会に迎え入れられている。しかしここでも重吉にたしなめられる出来事が起きる。
「翌月の第二回目の句会参加の日と思うのが、暑い日であった。会が終わった帰り道に、私は氷水を飲んだ。ひどくのんびりと匙を使い、よい気持ちになって塔の山の家に戻りついたら、もう中村が帰っていて「飯は」という。私はすっかり夕方の支度の事を忘れていたわけで、これは叱られの第二号となった。」(『俳句の里にしあれば』)
以後十年の間、汀女は子育てに専念し俳句から遠ざかることになる。辛いことがあれば銭湯で泣き、いくら涙が出てもそこではぺろりと顔を洗えばよい、とあるが、初対面同様の夫からの度重なる俳句への叱責、厳しくしつけられたとはいっても一人娘として何不自由なく暮らした熊本への、江図湖畔の父母への望郷の念は結婚当初の汀女を苦しめたに違いない。
さて俳句を再開したきっかけは奇しくも久女からの『花衣』創刊号への誘いだった。そのまま汀女は高浜虚子に手紙を出し、虚子によって星野立子と引き合されている。後に久女は汀女に倣って虚子に句集出版を訴えようとするが上手くいかない。坂本宮尾著『真実の久女』の中に草稿からの引用として次の一文がある。
「この自分の庭を汀女と混同スルなかれ。汀女の庭は芝をやく官僚の庭。自分の庭は狭いが自然のまゝの庭で、(以下略)」新婚当初のの失敗にも関係していた久女は汀女の手には少々余る先輩だったようである。この後、汀女は転居を繰り返しながらも立子とは句友として母仲間として友情を温めてゆくことになるのだが、ここに虚子の思惑が働いていたことは想像に難くない。虚子親子が小諸に疎開した時のことを汀女ははっきりとは書かなかったが「疎開する気はなかったけれど、前うしろ、お隣も出ていかれるとさすがに心細かった。」(『俳句の里にしあれば』)とある。昭和十九年は生涯の家となる代田の家の新築、父の死去、娘濤美子の結婚、など戦時中にもかかわらず忙しくしている。戦時中の句の赤といえば
火事明かりまた輝きて一機過ぐ (『花影』)
がある。敵機の攻撃による赤々とした炎が敵機に照り映えているのである。戦争という異常事態の中、呆然と立ちすくみ我が身、我が子、我が家を守らねばならぬ汀女の諦観にも似た感情が火事明かりの赤に反映されている。
やはらかに金魚は網にさからひぬ (『都鳥』)
これは戦後出版された句集の中の一句である。やはらかに逆らっている金魚は汀女の姿ではなかろうか。戦時中、戦後と汀女は生活に翻弄されている。久女は女中のいる汀女を羨んだが戦争は等しく汀女の生活にも影を落とす。しかしここでも汀女は着実に友人を作ってゆく。後に自分が主宰する結社『風花』の編集長となる富本一枝は食糧難の時期の買い出し仲間である。「外にも出よ触るるばかりに春の月」はこの困難な時期の句である。
秋水に緋鯉加へぬ父母のため (『軒紅梅』)
この句は亡き父母の為に緋鯉を生家の池に加えたという句である。今村潤子氏の『中村汀女の世界―勁建な女うた』の中に次の一節がある。「二句目は(昭和五十四年)十月、熊本市の名誉市民顕彰式に出席した折に生家に滞在した時の作である。緋鯉を自分の分身として池に放つことで亡き父母に自分の晴れの顕彰を伝えんとする汀女の心遣いが読みとれる。」この時の汀女の心の内には「身かはせば色変はる鯉や秋の水」が去来したのではなかろうか。
汀女が家を新築した際、殊に気に入って植えたのが紅梅である。
江図湖畔の生家にも祖母自慢の紅梅が植えられていた。夫重吉の死去の際、棺に庭の紅梅一枝を入れている。句集『軒紅梅』はこの時の句ありきで作られた句集で初対面同志であった夫婦が戦中戦後を共に乗り越え固いきずなで結ばれたのだという事を感じさせられる句集である。夫の死という悲哀を支えたのも又、赤であった。
朝明けの軒紅梅の情かな
紅梅の南枝の枝の低きかな
夫重吉の部屋は一階に汀女の書斎は二階にあったという。五十九年間連れ添った夫の姿は汀女が愛でた紅梅と共にあったに違いない。
参考文献
『中村汀女俳句集成 全一巻 』 東京新聞出版局
『軒紅梅』 中村汀女 求龍堂
『中村汀女の世界―勁建な女うた』 今村潤子 至文堂
『鑑賞 女性俳句の世界 第②巻 個性派の登場』 角川学芸出版
『真実の久女』 坂本宮尾 藤原書店
【角谷昌子評】
中村ひろ子 「中村汀女の赤」評 角谷昌子 2020・5・16
中村ひろ子さん、感染症拡大のため、残念ながら、4月に予定されていた俳人協会俳句評論講座が休止となってしまいました。それにもかかわらず、中村汀女の作家論をお送りいただき、嬉しく思っています。
全体としてよく文献を読み込んで取材されています。杉田久女や星野立子との関係を入れることによって汀女の人物像も立体的になります。自句自解の内容も、汀女自身の言葉として生き生きと働きます。テーマを「赤」に絞ってご自身も書きやすくなったでしょう。対象俳人が好む素材や色などに焦点を当てるのは、一つの方法で、内容が収斂して読者に伝わりやすくなると思います。
〈内容に関して〉
〇冒頭の句は、いつ、何歳の時に詠んだのでしょう。最初のページの女学生時代の「自句自解」に、俳句に興味がなく、芭蕉を見下していたとあります。そんな汀女が、なぜ十代で俳句を始めて冒頭の句を詠み、新聞にまで応募して才能を認められるようになったのでしょうか。そこをしっかりと提示すれば、読者の興味も高まると思います。
〇「赤」のテーマで作家論を始めたのですが、略歴(江津湖周辺の風土や特色、結婚)になってしまって、いつになったら「赤」のテーマになるのかと読者は思ってしまいます。最初にもっと「赤」で押しておきたいところ。(「赤」の句を例としてもっと読者を引き込みたい)
〇引用文について
引用文は読者としてとても興味があります。面白く読むのですが、この論中では、長すぎるようです。というのも、汀女自身の言葉やどなたかの文章の引用として強く印象に残り、著者の存在が薄くなるからです。
*引用の書き方(一般的に)
+引用句 二字下げ 前後一行あけ(出版社により、前後どちらか一行、もしくは半行)
+引用文 一字下げ 前後一行あけ 〃
+引用例 〇〇著『〇〇』と引用の最初に記すと、また引用か、の印象が強くなるので
引用文の最後に書名だけ入れるか、*注印を付けて評論の最後に引用文献として呈示するとすっきりするかと思います。
+引用文の「」
文章中ならば、「」は必要ですが、上記のような体裁ならば、「」は不要となります。
+引用句の次の行
一字下げ(改行の場合)
〇評論の最後
夫との永き結婚生活の感慨で終わってしまったので、結論部分は、汀女の「赤」としてその人物像と作品が強く読者の印象に残るような内容が欲しいところです。
〇全体として
引用文をもう少し簡略化して著者自身の俳句鑑賞を増やす。そして汀女の人物像、俳人としての存在感を「赤」のキーワードからもっと論じたら、面白い作家論になると思います。素材や色などをテーマに論じるのは、絞り込みやすい分、比較的よくみられる書き方なので、やはり、著者独自の視点がもっと必要になるでしょう。
【筑紫磐井評】
俳句の地域性には不思議なものがある。明治以降の俳人は広い日本の中で、何故か小さな県である愛媛県に人材が集中する。正岡子規、高浜虚子、河東碧梧桐、中村草田男、石田波郷とお互い関係なさそうであるのに集中する、これは奇跡に近い。これに類似しているのが、九州の女流俳人であり、杉田久女、竹下しづの女、橋本多佳子、中村汀女などがいる。それぞれの作家論だけでは完結しない問題である。ただこんな社会的な問題は、なかなか答えを出してくれる人はいない。九州の女流俳人が論ぜられるたびにこんな期待を持つのだが、未だに答えに出会うことはない。
*
中村ひろ子さんの汀女論に一気にこんな結論を出してもらえるとは思わないが、九州女流俳人論には最後の最後にある結論はこんなところに結びつくものであってほしいと思う。その第一歩として読ませていただいた。
九州女流俳人にあってダントツに人気が高いのは杉田久女であろう。その劇的な生涯、華麗な作品と相まって今もってファンが多い。現在も様々な人により久女論は数多く出版されているし、俳句文学館紀要にも数年に一編は必ず取り上げられているようだ。虚子という悪役にいじめられているヒロインという役どころは日本人の心情によく叶うものである。こうした中で、久女と比較して一番地味であり、論ぜられることが少ないのは中村汀女ということになろう。唯一の評伝が『中村汀女の世界』(今村潤子)という寂しさもその証拠となっている。
ただ理由の一つは、立子・汀女と虚子の指導を受けた優等生ということが評伝を書きにくくさせていることもある。中村ひろ子さんの汀女論もこうした枠の中に入っているところが、長所でも短所でもあると思うのである。
*
中村さんの参考文献に上げていない本に中村一枝『日めくり汀女俳句』(邑書林)がある。これはかなり衝撃的な本である。筆者は汀女の長男の妻であり、結婚後の汀女の日常を素晴らしい点もいやらしい点もすべて眺め、最晩年はテープで記録まで取っている。こうした態度は、筆者がもともと俳句には興味はなかったが、父が小説家尾崎士郎であり、文学的環境に浸っていたと言うことも幸いしているだろう。実際、父尾崎士郎の評伝も書いている。
家族の内幕物は文学論になじまないと言う人もあるが、それはそうした本を一度読んだうえで結論を出していただきたい。二つほど例を挙げると、豪農の娘であった汀女は尊大と言えるほどの態度であり、他人に対する謝礼はすべて現金でするものと考えていたらしく、この本の著者はこれを非常に嫌がっている。また汀女の同性愛志向を、あながち否定していないようである。こうした汀女の悪魔的本質があればこそ、理想的な主婦俳句が詠まれたのだという逆説が輝いてくるのではないかと思う。
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