2020年10月30日金曜日

第147号

  ※次回更新 11/13


俳句新空間第13号 近日刊行!

俳句四季11月号 「今月のハイライト 豈 創刊四十周年」!
【告知】俳人協会第4回新鋭俳句賞に渡部有紀子氏が受賞
【急告】「豈」忘年句会及び懇親会の延期

【新企画・俳句評論講座】

・はじめに(趣意)
・連絡事項(当面の予定)
・質問と回答
・テクスト/批評 》目次を読む

【新連載・俳句の新展開】

句誌句会新時代(その一)・ネットプリント折本 千寿関屋 》読む
句誌句会新時代(その二)・夏雲システムの破壊力 千寿関屋 》読む
[予告]ネット句会の検討 》読む
[予告]俳句新空間・皐月句会開始 》読む
皐月句会デモ句会結果(2010年4月10日) 》読む
第1回皐月句会報(速報) 》読む
[予告]皐月句会メンバーについて 》読む
第2回皐月句会(6月)[速報] 》読む
第3回皐月句会(7月)[速報] 》読む
第4回皐月句会(8月)[速報] 》読む
第5回皐月句会(9月)[速報] 
》読む

■平成俳句帖(毎金曜日更新) 》読む

令和二年夏興帖
第一(8/7)仙田洋子・辻村麻乃・渕上信子
第二(8/14)青木百舌鳥・加藤知子・望月士郎
第三(8/21)神谷 波・杉山久子・曾根 毅・竹岡一郎
第四(8/28)山本敏倖・夏木久・松下カロ・小沢麻結
第五(9/4)木村オサム・林雅樹・小林かんな・岸本尚毅
第六(9/11)妹尾健太郎・椿屋実梛・井口時男・ふけとしこ
第七(9/18)真矢ひろみ・田中葉月・花尻万博・仲寒蟬
第八(9/25)なつはづき・渡邉美保・前北かおる・浜脇不如帰
第九(10/2)水岩 瞳・のどか・下坂速穂・岬光世
第十(10/9)依光正樹・依光陽子
第十一(10/16)松浦麗久・高橋美弥子・姫子松一樹・菊池洋勝
第十二(10/23)川嶋ぱんだ・中村猛虎
第十三(10/30)小野裕三・佐藤りえ・筑紫磐井


■連載

【抜粋】〈俳句四季11月号〉俳壇観測214
大井恒行の時評ーー活字ばかりでなく、電脳でも俳壇は動く
筑紫磐井 》読む

篠崎央子第一句集『火の貌』を読みたい
1 句集『火の貌』に潜むもの/小滝 肇 》読む

【連載通信】ほたる通信 Ⅲ (3) ふけとしこ 》読む

英国Haiku便り(15) 小野裕三 》読む

中村猛虎第一句集『紅の挽歌』を読みたい
2 「紅の挽歌」を読む/矢作十志夫 》読む

中西夕紀第四句集『くれなゐ』を読みたい
4 『くれなゐ』を読む/松野苑子 》読む

眞矢ひろみ第一句集『箱庭の夜』を読みたい
4 時空を超えたドラマツルギー/山本敏倖 》読む

なつはづき第一句集『ぴったりの箱』を読みたい
4 箱を開けてみたい/金子 敦 》読む

ふけとしこ第5句集『眠たい羊』を読みたい
インデックスページ 》読む
9 ~生きる限りを~/髙橋白崔 》読む

『永劫の縄梯子』出発点としての零(2)
 救仁郷由美子 》読む

葉月第一句集『子音』を読みたい 
インデックスページ 》読む
8 パパともう一人のわたし/北川美美 》読む

麻乃第二句集『るん』を読みたい
インデックスページ 》読む
17 無意識の作品化、俳句のフレームを超えて/山野邉茂 》読む

寒極光・虜囚の詠~シベリア抑留体験者の俳句を読む~㉜ のどか 》読む

渡邊美保第一句集『櫛買ひに』を読みたい 
インデックスページ 》読む
6 『櫛買ひに』を読む/山田すずめ 》読む

句集歌集逍遙 樋口由紀子『金曜日の川柳』/佐藤りえ 》読む

大井恒行の日々彼是 随時更新中! 》読む


■Recent entries

第5回攝津幸彦記念賞応募選考結果
※受賞作品は「豈」62号に掲載
特集・大本義幸追悼「俳句新空間全句集」 筑紫磐井編 》読む
「兜太と未来俳句のための研究フォーラム」アルバム
※壇上全体・会場風景写真を追加しました(2018/12/28)
【100号記念】特集『俳句帖五句選』

佐藤りえ句集『景色』を読みたい 
インデックスページ 》読む

眠兎第1句集『御意』を読みたい
インデックスページ 》読む

麒麟第2句集『鴨』を読みたい
インデックスページ 》読む

前衛から見た子規の覚書/筑紫磐井
インデックスページ 》読む

「WEP俳句通信」 抜粋記事 》見てみる

およそ日刊俳句新空間 》読む
…(今までの執筆者)竹岡一郎・青山茂根・今泉礼奈・佐藤りえ・依光陽子・黒岩徳将・仮屋賢一・北川美美・大塚凱・宮﨑莉々香・柳本々々・渡邉美保 …
7月の執筆者 (渡邉美保

俳句新空間を読む 》読む
…(主な執筆者)小野裕三・もてきまり・大塚凱・網野月を・前北かおる・東影喜子








「兜太 TOTA」第4号 発売中!
Amazon 藤原書店

豈62号 発売中!購入は邑書林まで


筑紫磐井著『女帝たちの万葉集』(角川学芸出版)

新元号「令和」の典拠となった『萬葉集』。その成立に貢献した斉明・持統・元明・元正の4人の女帝、「春山の〈萬〉花の艶と秋山の千〈葉〉の彩を競へ」の天智天皇の詔を受けた額田王等の秘話を満載する、俳人初めての万葉集研究。平成22年刊2,190円。お求めの際は、筆者までご連絡ください。

【告知】俳人協会第4回新鋭俳句賞に渡部有紀子氏が受賞

 10月25日第4回新鋭俳句賞選考会が開催され、以下の通り決定しました。
(応募14編)

正賞 渡部有紀子  天為所属  「蟻眠る」
準賞 菅  敦   銀化所属  「待つたなし」

【新鋭俳句賞】 50歳未満の人を対象に俳人協会員、非会員を問わず作品を募集します。
◆未発表作品30句(有季定型に限る)
◆締切6月末/10月発表
◆選考委員:石田郷子・小島健・西山睦・堀本祐樹
◆受賞作品
https://www.haijinkyokai.jp/prise/pdf/2020shineisei.pdf

 

 

新連載【篠崎央子第一句集『火の貌』を読みたい】1 句集『火の貌』に潜むもの  小滝 肇

  よく見知っている方と思っても、著作や句集を拝読して改めてその人となりを知る事も多い。篠崎央子さんには句会で知遇を得て、夫君の冬眞さんも含めご一緒させて頂く機会も多かった筈だが、句集『火の貌』には私にとって未知の央子さんがあまた潜んでいた。

  ストローを噛んで三十路や梅雨晴間

 作者の未婚の頃の句であろうか、独身を謳歌され楽しかろう年代の、ちょっぴり切なさも含んだ感情をストローを噛む行為に託された。

  伝票のうつすらと濡れ鱧料理

 京都の妙喜庵待庵は安土桃山時代の茶室建築で、二畳台目とよばれる極小の空間ではすべてのエレメントがそれは慎重に配置され、利休の朝顔の逸話のように花一輪でとてつもない無限が演出されたりもする。十七文字の詩である俳句もそれに似ていて、その短さゆえに言葉は極めて慎重に選択そして配置され、さまざまな世界観が読み手に提供される。掲句、伝票と鱧料理しか登場しない。何処で誰と、どんな流れで鱧を食し、どのような経緯で伝票が濡れるに至ったか―の物語はその余白にあり、読み手に委ねられている。万葉集を学び、恋の句を作らんと俳句の世界の門戸を叩かれたという作者を思うと、しっとりと濡れた伝票に情感ゆたかな物語を想像してしまうが、真実は定かでない。非凡な表現力の一句。

  冬銀河少女は家出繰り返す

 ブルーハーツの曲では、このままじゃいけないって事に少年は気づいてしまう。多感な頃の感性を喪うかどうかは年齢の問題ではなく、その人の人となりによるのではないか。冬銀河が作者の中の少女を目覚めさせる。季語が美しく、また普遍性を感じる句。

  肩触るる距離落椿踏まぬやう

 なんと愛らしい景。鼓動の急に速くなる、ときめきとも呼ばれるあの感覚が「落椿」の季語の力で美しい詩に昇華された。

  猫じやらし振りて男をはぐらかす

 この猫じゃらし、いつも作者のバッグに入っていて、さぞたくさんの人がはぐらかされた事だろう。今も持っていないか、夫君の点検が必要ではないか。ユーモアであればと願う一句。

  浅蜊汁星の触れ合ふ音立てて

 浅蜊汁の貝殻のぶつかる音は星の触れ合いによるものであったか。浅蜊汁を食すたび思い出しそうな一句。

  あかときの夢の断片蝌蚪の紐

 上五・中七までの美しい言葉の流れが、下五で一気に艶めかしさを帯びる。展開力の一句。

  新しき巣箱よ母を引き取る日

 これまでとはまったく違った毎日が待っているという予感が、新しい巣箱に満ちている。
巣箱よ、の「よ」がずしりと響く。

  ほうたるや米磨がぬ日は子に戻り

 蛍が作者を日常から子供の世界へ呼び戻す。中七「米磨がぬ日は」がとても効果的。

  二世帯暮らし雑炊に噛む魚の骨

 あとがきに一時期夫君の両親と暮らされた、とあるが、そんな生活に慣れつつも微妙に生ずる心の起伏を魚の骨に滲ませ繊細。

  透明になれる街なり聖樹の灯

 周囲の人から持たれる関心も自分の周囲への関心も薄いまま暮らせる街―東京。「透明になれる街」とはなんと適格な表現だろう、聖樹の灯が賑わいの街を映して美しい。

  水吸うて布が布巾となる朧

 布巾は水を吸ってこそ布巾で、乾いていればただの布―というのは主観かもしれぬが、そこにこそ詩がある。生活の匂いに「朧」という湿り気のある季語がよく呼応する。

  蟻地獄もがいても空あるばかり

 蟻地獄をみるといつも安部公房の「砂の女」の事を思う。穴底の生活者は空をみて、自由に動き回る日々を思うが易々とは抜け出せない。蟻地獄も元は人間だったのかもしれない。

  おはじきも白粉花も姉のもの

 美しいもの、好きなものをみな独り占めにしてしまう姉。少女の憧憬と嫉妬の混ざった感情が微笑ましく、また怖くもある一句。

  縄文のビーナスに臍山眠る

 縄文のビーナスとは、丸みを帯びた体型の女性を象った土偶のことと思われる。臍は人が母から生まれた証であり、土偶の力強い曲線美とともに、女性の生命力を象徴する。句集『火の貌』は作者が少女から大人の女性、そして妻となりつつも童心を喪わずなおかつ逞しさを備えてゆく物語。ビーナスはご本人であり、臍は俳句であろう。この臍がなくならない限り、また新しい、美しい物語を作者は紡いでゆかれるに違いないのである。

 小滝 肇 昭和三十年広島市生まれ
      平成十六年俳誌「春耕」入会
      春耕同人、銀漢創刊同人を経て
      現在無所属
      第一句集『凡そ君と』

英国Haiku便り(15) 小野裕三

カズオ・イシグロの「マイ・ジャパン」

 僕と同じように、イギリスに来て一年ほどを過ごした若い日本人女性の友人がいる。その彼女が、この一年で「よくもわるくも、日本のことが好きになり日本のことが嫌いになった」とネットでコメントしていて、それはまさに僕自身の実感と一致していた。
 もちろんすべてのものに、長所と短所はある。「日本」も然りだ。だが、いろんな外国人たちと話していてこんなことを思ったりもする。彼らが口にする「日本」は、実在の場所からは少し乖離した、ひとつの美的観念なのではないか、と。実在する国や制度としての日本は、そこに暮らすと何かと息苦しく、ほとほと嫌になることも少なくない。だがその場所で育まれる諸文化や、根底にある美の構造は、外国人を含む多くの人を魅了してきた。
 小説家のカズオ・イシグロは、日本で生まれ、幼少時に家族と英国に渡った。以後を英国で暮らし、小説もすべて英語で書いた。そんな彼の、処女作と第二作は日本が舞台だ。ノーベル賞後のスピーチで(『My Twentieth Century Evening and Other Small Breakthroughs』)、彼は「私の日本」(my Japan)について語った。それは「自分のアイデンティティと自信を引き出す場所」であり、「私が飛行機で行けるどの場所ともあまり対応しない」「私の頭の中に存在する」もので、「ユニークであると同時にとても脆い」ものだと言う。僕が感じる美的観念としての「日本」もおよそそんなものだ。
 「日本の職人は尊敬してるけど、日本の政治家は嫌いなんだ」と僕は時折外国人に語るが、それも意味合いは近い。ここでの政治家はいわゆる政治だけに限らない諸分野の「政治屋」も含み、保身のためにうまく立ち回ろうとする人たちのことでもある。現代の日本の「職人」で国際的にも人気なのはやはり、漫画・アニメだ。友人との雑談だけでなく、時には出くわした医師やタクシー運転手からもそんな話題を投げかけられる。そしてそんな彼らの口から、日本の政治家や歴史上の指導者を尊敬するといった話を聞いたことはついぞない。
 先日、こんなことがあった。数人が集まって「戦争」について討論する機会があり、ある中国人の若い女性が意見を求められ、こんなことを語った。
——昔は、中国の学校では戦争中に日本人がいかに悪いことをしたかを教えられて、だからみんな日本人が嫌いだったんです。「日本」は「悪」の代名詞でした。でも、最近では、日本のアニメがみんなすごく好きになって、そんな状況も大きく変わりました。
 そんな彼女が、自身のスマホのカバーに「セーラームーン」とカタカナで書かれた日本のアニメのデザインのものを使っていることにも、僕は気づいていた。「好きで嫌いな日本」がここにもあった、と僕も複雑な気持ちになった。

(『海原』2020年5月号より転載)

【連載通信】ほたる通信 Ⅲ(3)  ふけとしこ

   京都島原
青北風や表格子の日に細り
雷をかたどる欄間昼の虫
煙草盆の灰に影ある秋簾
崑崙花咲かせ秋思をつのらせて
島原大門柳古る柳散る

   ・・・
 少人数で「草を知る会」というのをやっている。文字通り、草木を見てその名前を知る、というだけ単純な会である。99回目の10月例会は温泉で有名な有馬へ行った。温泉街を過ぎた所に鼓ヶ滝という滝があり、そこまで歩こうというのが今回の計画であった。歩くといっても、バスターミナルからせいぜい1キロ余り。それでもこの会のメンバーにとっては結構な距離になる。なんとなれば、草に花に木に虫に……といちいち立ち止まるからである。まさに道草散歩なのだ。アキノキリンソウやヤクシソウの黄色い花。ヨメナやシラヤマギクの可憐な花。イタドリが名残りの花を零し、ヒヨドリジョウゴやアオキの赤い実なども晩秋の彩りである。
 実を付けたカヤの木があった。「これ碁盤や将棋盤になる木よ」と言えば、たちまちに藤井棋聖の話になり、ヌルデの木に出会って、てフシ(五倍子)を見つけると、お歯黒の話になる。1つを採って割ってみると、消し炭色のもやもやしたものが飛び散る。「キャーッ」という騒ぎ。「この黒っぽいの何ですか?」「アブラムシが中で育ってたから彼らの排泄物や抜け殻」と答えれば「エーッ!」とまたまたひと騒ぎ。「これがどうやればお歯黒になるの?」「お歯黒は……」そんな調子だから1キロ余りの道が長い。滝はなかなか遠いのである。
 やっと着いた滝茶屋で休ませてもらい、茶屋の主から昔話を少し聞く。凍滝の写真もあったが、温暖化の影響もあり、今では凍ることはないとのこと。私は滝の氷柱を見たことはあるが、凍った滝は見たことがない。この先見る機会はもうないかも知れない。
 それはともかく紅葉には早かったが、大きな木々に囲まれて過ごしたとてもいい時間だった。

(2020・10)

 この春、福島県産の山菜、特にコシアブラにセシウムが多く含まれているとの記事を目にした。コシアブラはウコギ科の木でその芽はタラの芽より美味であるとして人気があり、近頃では大阪のスーパーでも売られるようになってきた。この記事を読んだ時、そりゃそうでしょ、と思ってしまった。何故なら例の原発事故以来、如何にセシウムを減らすかということに取り組む人達があり、さらに危険区域にまで入って植物を採取し、その蓄積量を調べているグループがあることを聞いていたからである。そして分析の結果、蓄積量の一番多いのがコシアブラだったというのである。木の本体にセシウムが蓄積されていれば、新芽にも当然含まれる筈だ。かつてカドミウム米と言われた米があったように……。  
 植物は例えそれが有害であるとしても、水や土壌から体内に取り込まざるを得ない。汚染土と言われる土に根を下ろせば致し方のないことである。他にナズナやギシギシなどの雑草にも多く集積しているとか。それならば、なるべく多くの草木に吸い取らせ、それを刈り取って処理すればいいわけだと思えてくる。
 が、と素人は素人なりに考える。そのセシウムを取り込んだ植物を刈り集めたとして、その後をどう処理するのだろうか、と。
 最近、公園や街路からキョウチクトウが減っている。常緑樹で鮮やかな花は花期も長く、日照りや排気ガス等にも強いことから、多く植えられていた時代もあったが、その毒性が指摘され(死亡例もあるそうだ)次第に減らされてきたものである。燃やすと煙からも有毒物質が出るから、絶対に自分で燃やしたりしないで、と書かれた物を見たこともあった。
 放射性物質となると、キョウチクトウの毒どころではない話で、これからどのように研究されるにしても、実際に浄化されるまでの道のりとは、私には想像することすらできない。
(2020・9)
 

【中西夕紀第四句集『くれなゐ』を読みたい】4 『くれなゐ』を読む  松野苑子

 『くれなゐ』は夕紀さんの第四句集である。夕紀さんとは「鷹」でご一緒した時期もあり、第一句集の「都市」から句を読ませていただいている。第一句集から貫らぬかれている夕紀俳句の魅力は、真っすぐでくっきりとした立ち姿であろう。

  青嵐鯉一刀に切られけり
  刃となりて月へ飛ぶ波沖ノ島
  山襞を白狼走る吹雪かな
  日の入りし後のくれなゐ冬の山

 見たもの感じたものが言葉と同化して、際やかな姿となって迫ってくる。

 『くれないゐ』には、上記のような形の句ばかりでない。
 あとがきにも「句材をひろげ、色々な読み方を試みました」とあるように多彩である。

 その土地への思いを込めた旅吟。

  百物語唇舐める舌みえて
  旅にゐて塩辛き肌終戦日


 言葉の面白さとリズムを楽しめる句もある。

  高枝の小綬鶏来いよ恋
  さみだれのあまだれのいま主旋律


 師への思い、畏友への鎮魂。

  かきつばた一重瞼の師をふたり
  白鷺やいつよりありし死の覚悟


 小さなものたちへの愛おしさ。

  皺くちやな紙幣に兎買はれけり
  兄弟を踏みつけてゆく雀の子


 そして日常詠からは、人生を俯瞰した胸中の思いが伝わってくるのである。

  梅雨深し赤き肉より赤き汁
  叔母も吾も子のなき同士青ふくべ
  かなぶんのまこと愛車にしたき色
  今もふたり窓に守宮の登りゆく

 
 「くれなゐ」には、テーマを決めた章立てにも表れているように様々な傾向の句がある。旅をし、吟行を重ね、題詠をして、句材をひろげ色々な詠い方を試みた成果であろう。それに加え、見逃してはならないのは宮坂静生のもとで俳句をはじめ、傾向の違う藤田湘子、宇佐美魚目に師事したことである。俳句に対する姿勢も詠み方も違う師につくのは大変であり、戸惑いも多かったに違いない。けれど、大変だからこそ夕紀俳句を豊かにしている。二つの土壌はこれからも深くたがやされ、芳醇な実りをもたらすことだろう。




   

【中村猛虎第一句集『紅の挽歌』を読みたい】2 「紅の挽歌」を読む  矢作十志夫(あだち野 代表)

   あとがきによると、1961年生まれの作者の俳句デビューは30歳の頃で、会社の同僚だった林誠司氏(版元の俳句アトラス社・代表)の誘いからだったというから、俳縁とは、かくも面白いものだ。

 
 句集を手にして、まずは帯にある「風羅堂十二世にして現代俳句の俊英」の文字が目を惹く。
 「風羅堂」とは関東地区ではあまり馴染みがないが、関西地区では多くの俳人が集う松尾芭蕉ゆかりの場所であるらしい。
 作者が代表を務める「句会・亜流里」のHPによると、「姫路出身の商人、俳諧師であった井上千山は向井去来を通じて芭蕉を姫路に招く約束をしていたが、芭蕉の死により実現しなかった。(中略) 芭蕉像や遺愛の蓑などを譲り受け、姫路の随願寺安城院に納め、蓑こぼれで蓑塚を築いた。(中略)その後、千山の息子の井上寒瓜が芭蕉没後50年を機に遺品の管理場所として風羅堂を建立した」とある。 
 芭蕉を風羅堂一世として、その後は所縁の人たちによって代々継承されてきたが、明治7年(1874)の流行病発生の際に焼却処分されたため、十一世を最後に断絶していた。その時以来150年を経て、2011年に中村猛虎氏が十二世を襲名したという。
 
 『紅の挽歌』は、少しばかり変わった風情の句集である。
 冒頭(モノローグ)に、55歳で亡くなった奥様の癌告知から亡くなるまでの病状の変化を冷徹な視線で綴る文章とそれに関連した俳句並んでいる。「俳句は日記」といったのは故・岡本眸だが、まさに闘病日記といった趣きで、他の章にも、奥方に対する哀切極まりない思いが伝わってくる句が多く見られる。

    卵巣のありし辺りの曼珠沙華  中村猛虎(以下、作者名略)
    秋の虹なんと真白き診断書
    寒紅を引きて整う死化粧
     殺してと螢の夜の喉仏
    葬りし人の布団を今日も敷く
    鏡台にウィッグ残る暮の秋
    亡き人の枕のへこみ猫の恋
    ポケットに妻の骨あり春の虹

 
 その他、通読して感じた句集の印象を①~⑦として、ランダムに上げてみる。やや網羅的で散漫な鑑賞になってしまったが、お許し願いたい。
 
① そもそも俳句とは客観的に写生することが第一義とされるが、それだけでは類句類想のオンパレードになってしまう。そこに主観という味付けをすることで俳句が個性を持って立ってくるのだ。そういう意味からすれば、この句集には「立っている俳句」が多い。作者が理系の出身のせいもあってか、形(形状)というものに独特の把握が見られる。

    天高しふぐりはいつも鉛直に  ※「鉛直」は水平に対して直角の意。
    スプーンの曲線眠くなる小春      
    息吹けば息の形の葛湯かな
    煮凝やDNAに深き傷
    透かし入り和紙で出来ている三月
    夏シャツの抱かれやすき形かな
    星涼し臓器は左右非対称
    水撒けば人の形の終戦日
    秋扇泣いてもいいよと云う形
 

② 俳句の表現方法には王道ともいえる型がある。多くは575の定型で文語表記を用いた伝統に沿ったものである。この句集には、そうしたものとは対極にある池田澄子調とも云える口語体の句も多い。主観をより鮮明に伝えたいと考えた時に用いていて、この作者の特徴の一つ。確信犯的な口語俳句の使い手と言えばいいだろうか。

    この空の蒼さはどうだ原爆忌
    冬日向死んだふりでもしてみるか
    ほうれん草の赤いとこ好き嘘も好き
    新走り抱かれる気などありませぬ
    初めての再婚ですと近松忌
    子供はね死なないんだよ冬ひなた
    三月の流木のそばにいてやる
    母の日の大丈夫大丈夫大丈夫
    夏帽の少年走る走る走る
    母の日の母に花まる書いてもらう
    たんぽぽがよけてくれたので寝転ぶ
    すすきの穂ほらたましいが通った
    マフラーの中であいつをやり過ごす

③ 比喩は逃げであるとして忌避する俳人もいるが、上手に使えば句の可能性を広げる手段として便利である。同じ比喩の中でも、「ごとく」「ような」といった明喩と、そうした弁明を隠して言い切ってしまう暗喩という方法があるが、作者の場合は「暗喩(メタフアー)」を巧みに使っている句が多い。それによってレトリックの効いた高度な仕上がりになっている。

    手鏡を通り抜けたる蛍の火
    亡き父の基盤の沈む冬畳
    嬰児の春の水より出来上がる
    春の昼妻のかたちの妻といる
    箱寿司の隙間に夏野広がりぬ
    君の部屋の炬燵の中と云う宇宙
     羅やクロワッサンは剥いて食う
    シュレッダーにかけてもかけても凩
    高射砲傾けている霜柱

 
④ 「ふぐり」や「乳房」といった扱いにくい表現も大胆に詠み込んだ句がある。他にも、<秋袷生涯抱きし女の数> <致死量のシャワーを浴びている女> 〈夏草の幾つかはハニートラップ〉 〈テトリスのような情事や春の月〉など、艶っぽい句もある。この作者には俳句的タブーといったものは一切ないようだ。

    天高しふぐりはいつも鉛直に
    古団扇定年の日のふぐり垂れ
    羅の中より乳房取り出しぬ
    梟や喪服の中にある乳房

 
⑤ 作者自身は意識していないと思われるが、一読して著名な先行句を踏まえたオマージュのように読める句がある。勿論、句意は全く独立していて、類想・類句ということではない。それぞれの句の下にその該当句を添えてみる。

    秋の灯に鉛筆で書く遺言状    
              鉛筆の遺書ならば忘れ易からむ    林田紀音夫
    万緑の中ぴるぴると子は話す
      万緑の中や吾子の歯生えそむる    中村草田男
    不と思と議切れば海鼠の如くなる    
      海鼠切りもとの形に寄せてある    小原啄葉
    吸い殻の揃いて並ぶ溽暑かな
      吸い殻を炎天の影の手が拾ふ    秋元不死男
 
⑥ 1961年生まれの戦後派にしては、反戦、原爆に関連する句が散見される。理由は分からないが、第二次フォーク世代の「遅れてきた青年」の気概を見るような気がする。

     ミサイルの落花地点の桜狩
     爆心地に立つ六月の夜の耳
     原爆忌絵具混ぜれば黒になる
     花の名は知らねど真白終戦日
      ステージに空き椅子ひとつ原爆忌
     未熟児の保育器曇る原爆忌
     ビリーホリディに針を落として敗戦日

 
⑦ 最後に諧謔味のある(ユニーク)な句を数句挙げておく。

     魂に話しかけてる日向ぼこ
     部屋中に僕の指紋のある寒さ
     三月十一日に繋がっている黒電話
     初空や人を始めて五十年
     食卓に並ぶ肋骨朧の夜
     布団より生まれ布団に死んでゆく
     桃を剥く背中にたくさんの釦
     たましいの重さ2g曼珠沙華
     転職雑誌見ている幽霊夜の秋

 最初の〈魂に〉句からは、孤独な老人の哀愁が漂ってくる。5句目の〈食卓〉句は、骨皮筋衛門の老人が並んでいるということではあるまい(笑) おそらくスペアリブの夕餉か、秋刀魚の食べ終りだろう。7句目の〈桃を剥く〉句は、女性の背中とすれば、「桃を剥く」に内包される男性の性的なイライラを詠んでいるようにも取れて意味深長な一句となる。
 最後の〈幽霊句〉は、コロナ禍で「お化け屋敷」のバイトが首になったのだろう。滑稽な時事俳句だ。

 最後に。
 こうした句集を亡き愛妻に贈る作者に改めて拍手である。
                

【抜粋】〈俳句四季11月号〉俳壇観測214 大井恒行の時評ーー活字ばかりでなく、電脳でも俳壇は動く 筑紫磐井

 俳句時評のあり方
 俳句時評は、この「俳壇観測」同様月評で行われることが多い。ほとんどの俳句雑誌は俳句時評欄を持つが、大概半年か一年で評者を交替することが多く、この「俳壇観測」のように同一の評者が長期間にわたり実施することは珍しい。似た例は、以前、林桂が「詩壇」で続けていたが滅多にないものだ。これは当該雑誌の編集方針であるから一概に是非は言い難いが、頻繁な交替は一長一短があり、様々な見方が示される一方で、評者ごとに取り上げる事項が一定の傾向を持つこともある。逆に変わらない評者は、一貫した一つの基準で俳壇を見ることが出来るが、マンネリズムに陥る恐れもある。
      *
 さて俳句雑誌ではない個人BLOGが結構時評機能を持ち、現在では種類も多いし影響力もある。問題は、熱しやすく醒めやすい若い人がやっているから永続性や、一貫性がないことである。こうした中で、平成二六年以来現在まで六年以上にわたり、大井恒行が「大井恒行の日日彼是」と題して時評を掲載している。特色は月評どころか、原則、毎日ないし隔日で、句集や雑誌記事の紹介をしているのである。六年間にわたるこうした記事の集積は、千件以上に上っていると思われる(一日で数件を紹介することもあるから数え違いではない)。私の二〇〇回でもとても叶わない。この記事執筆直前の直近一ヶ月間に掲載された句集などを挙げてみよう。

柿本多映『拾遺放光』、善野行『聖五月』、宮坂静生集『草魂(くさだま)』、高柳蕗子『青じゃ青じゃ』、持田叙子・髙柳克弘編『美しい日本語 荷風Ⅲ』、今井聖『九月の明るい坂』、宗近真一郎『詩は戦っている。誰もそれを知らない』、田村葉『風の素描』、篠崎央子『火の貌』、川越歌澄『キリンは森へ』、浜脇不如帰『はいくんろーる』、谷山花猿『資本』、田彰子『田さん』、伊藤敬子『千艸(ちぐさ)』、

 句集、歌集、評論集、詩集などであるが、実に多彩である。有名無名、ほとんどの人が知らない句集も取り上げられている。最新句集が多いが古い句集も交じる。原稿用紙にして四~八枚、二〇句以上を引用しているから、立派な時評である。
 この他に雑誌の特集、句会報、イベントの報告があるから私のような出無精な評論家にはまことにありがたい情報源になるのである。正直な話、俳壇の回顧記事や、数年前の俳壇の出来事を知りたいときに、この大井の日記を見れば間違いなく確認できる。特に大井の文体は生々しく、その当時の時代の雰囲気まで伝えてくれるのである。

BLOG批評の多彩さ   
 実はその源をたどれば、大井は平成二二~二六年に総合誌「俳句界」編集顧問をしており、編集長に代わり、編集事務の一つとしてこうした作業をしていたのである。自社、他社を問わずあらゆる句集を取り上げるという方針はその時から続けられている。いかにアンテナを広く広げているかが総合俳句雑誌の編集部の能力であるとすれば、こうしたものを発信するのは、雑誌や新聞の広告に勝るとも劣らない大事な仕事である。
 現在、総合雑誌の編集長・編集部員が、自誌の主張や特色を打ち出すため、BLOGを作成している例もあるが、長期に渡り品質を維持して時評を書くのは困難が多い。大井がそうした時評を維持できたのは、まぼろしの総合誌といわれる「俳句空間」(弘栄堂書店刊)の名編集長として、伝統から前衛まで、特定の主張にこだわることなく作家・評論家を取り上げ、編集し続けた実績があるからである。だから大井のBLOGの愛読者は今もって多いようである。
 (下略)

※詳しくは「俳句四季」11月号をお読み下さい。
                      


【眞矢ひろみ第一句集『箱庭の夜』を読みたい】4 時空を超えたドラマツルギー  山本敏倖

 眞矢ひろみ氏とは「豈」、「俳句新空間」、「皐月句会」の繫がりで面識はない。
 ただジャズ好きで、ジョン・コルトレーンファンということで、不思議なご縁を感じた。
想えばかの摂津幸彦もかなりのジャズファンだったと聞く。

 句集『箱庭の夜』は、氏が俳句に興味を抱いてより三十年近くを経て、満を持して
の第一句集である。
 句集名は句集中の

  箱庭に息吹き居れば初雪来
  大袈裟なことばかり箱庭の夜

 からとったと思われるが、箱庭については帯文で「・・・・江戸後期に流行し夏の季語でもある〈箱庭〉のような仮想空間の類ではなく、むしろ現代 ユング派の心理療法に使われる〈箱庭〉の機能そのものに近い・・・・。」との表記がある。つまり単なる季語ではなく、言葉としてその属性部分からのイメージを掬い取って欲しいとのことだろう。

 また章立ては、ジョン・コルトレーンの最高傑作と言われているアルバム「至上の愛」を
参考にしたらしい。
①    認知  ② 決意  ③追求  ④賛美
の四章からなっており、これはかのドラマツルギーを心得た、起承転結の構成法と読み取れる。
 
 まずは巻頭と巻軸の句

  指切りをしたい今宵のいぬふぐり
  水音の言葉となりぬ初寝覚


 果実の形が犬のふぐりに似ていることから付けられたいぬふぐりが、春の宵、おそらく風にでも揺れたのだろう、指切りをしたい気分にさせた。初寝から覚めたときかすかな水音が言葉となって届いた。日常の中から詩的瞬間を抽出。季語とのコラボにより二句ともそれぞれの詩的深度を確立している。

  各章から四句ずつ恣意に曳く。

① 認知
   屈折光掬えば海月かたち成す
   木下闇まず鎖骨から出でにけり
   鳥葬の骨砕くるも秋の声
   私などいない気がする冬の航


 まっすぐな太陽光なのだが、自身の内面の何かが反映したのだろう屈折光に見えた。その光を水面の水ごと掬えば、水面下のぼんやりとしていた海月がはっきりとした形を現した。光と影により存在を浮き彫りにする一寸景。
 木下闇があり、そこから出るときまず鎖骨から出る自分がいた。色彩感をベースにした自身の行動認識。
 鳥葬で残った骨を砕いたにもかかわらず、どこからか秋の声した。五感の感触から発する秋のイメージ。
 寒さの厳しい冬の航路、そこにいるのだがいない気がしてしまう私。自身の喪失感。
 屈折光と海月、木下闇と鎖骨、鳥葬と秋の声、私と冬の航、いずれも意外な配合からなる自身の存在に対する不安感の認知により、詩情を稀有なものにしている。
  
②     決意
魂におかえりなさい梅真白
花透くや母胎の中のうすあかり
半円の冬の銀河を行かんとす
風花にゐる産道をゆく如く


 無垢な魂におかえりなさいと、おそらくこの世のすべての汚れに対してだろう呼びかけている。傍らにはその純真さを象徴するように真っ白な梅が。背景のメッセージ性を白梅の香りと共に漂わせていて巧み。
 満開の桜が光の加減で透くように見えた時、母胎の中で意識したであろううすあかりを感応した。胎内回帰のイメージが広がる。
 秋とは異なる情趣と語感の有る冬の銀河。その半円の姿を仰ぎ、その冬銀河の道を行こうとしている。冬銀河への探求心と詩的決心。
 風花の中にゐる。まるで母の胎内から出てくる時の産道を通過している気分で。
 どの句も特殊な情景を作者独自の感性で再構築しており、作者自身の方位と決意が表白されている。

③     追求
身の奥の青き焔といふ余寒
形代の大楠に倚る白日傘
在ることのはかなき重さ遠花火
頻伽聞く土星を過ぎしあたりより


 自身の身体の奥にチロチロと燃える青き焔に余寒を感受する、特異な感性。
身代わりとしてあるいは神霊の代わりとしてある形代のような大楠に倚りかかる白日傘。まるで何かを聞き出そうとするように。大楠の精霊への敬慕。
 遠く一瞬にして咲き消える遠花火。そこに自身を含めた存在することへの、はかない重さを実感している。遠花火の開く瞬間のひたむきな美への探究心。
 頻伽は迦陵頻伽の略。仏教で雪山または極楽にいて、美妙な声で鳴くという想像上の鳥。その想像上の鳥の声が、土星(別名サターン)を過ぎしあたりより聞こえたという、まったくのイメージ上の二物の存在を配合し、次なる造型美を読み手に想像させようとしている一句。
 追求のテーマをそれぞれの形で表白。他の句を含め、しっかりとした具象的なイメージにより、その存在の詩的追求をしている。

④    賛美
瑠璃天は御霊に狭し揚雲雀
虚子の忌や百鬼夜行の美しきこと
月守にならぬかといふオムライス
仮の世のゐるといふこと寒椿


 瑠璃色のガラスのような空は御霊にとっては狭いと思われるのだが、それを打ち破るかのように雲雀が揚がる。御霊の存在への一寸感。
 かの高浜虚子の忌に、たまたま垣間見たであろう百鬼夜行が美しく感覚された。百鬼夜行への逆転の審美眼。虚子との取り合わせにより、大いなるアイロニーを感受。
 花守でなく月守にならぬかというオムライス。オムライスの色彩と月の有り様が、幾分の滑稽感をもって絵画的。
 寒中の真っ只中に懸命に咲く寒椿。しかしここは仮の世と見、そこにゐると考えることで、その寒々とした生き様もまた一興と見る。
 章のラストは、起承転結の結として表面的には、懐疑性を打破し、逆説的美学、軽い滑稽感やこの世を俯瞰しながらも、一句一句の空間を賞賛賛美し、普遍的領域への足掛かりにしている。

 また句集中の特異な存在として、すべてが漢字の一句。

純日本風虐殺命令油月

 水蒸気により月の周囲が油を流したように見える季語油月の斡旋が絶妙。その作用により上五、中七の措辞が、虐殺の歴史と気分のイメージからなる絵巻を展開させ、油月との絡みでその在り様を追求している。

 追悼句としてかの金子兜太への一句。

「やあ失敬」と朧月夜を後にせり   

 兜太の人間性と存在感が凝縮されており、山本健吉の云う、「挨拶」「滑稽」「即興」の 「挨拶」を実践している。

 そして句集中最も不思議な存在として、戦艦大和の句、三句がある。

           戦艦大和 四月七日出撃
菊水を舷に涼月添ひにけり    (第二章)
           戦艦大和 豊後水道通過
左舷より菊の御紋にわたくし風   (第三章)
           戦艦大和 鹿児島沖轟沈
水底の黄泉平坂月を待つ     (第三章)


 なぜここで戦艦大和の三句なのか今一ピンとこなかったが、出撃、通過、轟沈の前書きから起承転結ではなく、日本の能や人形浄瑠璃などで使われる序破急の構成法が浮上し、戦艦大和の悲劇を再現することで、歴史的事実からの、②決意、③追求のテーマを含んだドラマツルギ―を感応した。

 句集全体を通して大きく俯瞰して見るに、作者はどうやらイメージとして中有(衆生が死んで次の生を受けるまでの間。期間は日本では四十九日)に立って作句しているように感覚される。むろん例外句はあるが、多くは中有から現世と魂魄の両方の世界を注視し対比させ、そこに人間存在の意味を探り出そうとしている気がしてならない。つまりそこが現時点における、作者眞矢ひろみ氏にとっての箱庭なのである。

 本句集は眞矢ひろみ氏の、俳句に触れてから約三十年近くの珠玉の集大成であり、ジョン・コルトレーンのアルバムからの構成法に乗っ取った、時空を超えたドラマツルギ―を俳句形式を通じて表白した稀少な一巻と言えよう。これを基にさらなるひろみワールドの飛躍を期待してやまない。

【なつはづき第一句集『ぴったりの箱』を読みたい 】4 箱を開けてみたい  金子 敦

  なつはづきさんは、2018年に第36回現代俳句新人賞、2019年に第五回攝津幸彦記念賞準賞を受賞された新進気鋭の俳人である。そして、2020年に第一句集『ぴったりの箱』を上梓された。

 『ぴったりの箱』というタイトルがとても魅力的だ。帯文にも書かれているように、自分がその箱を開けるのか、それとも、自分がその箱に入るのか。その違いだけでもイメージが異なってくる。その他にも、色々な解釈が出来る素敵なタイトルだ。

 拝読してまず感じたのは「独特の身体感覚」である。視覚や聴覚ではなく、触覚を大切にするのは珍しいと思う。収録されている句には、身体の部位を示す言葉がとても多く使われている。部位ごとに分けて紹介したい。

 根底となる言葉は、もちろん「身体」だろう。「体」も含めると五句。

身体から風が離れて秋の蝶
水草生う身体に風をためる旅
薔薇百本棄てて抱かれたい身体
額あじさいもうすぐ海になる身体
骨盤が目覚めて三月の体


 一句目、身体に風が吹いてくるのではなく、身体から風が離れてゆくという逆転の発想。二句目、「風をためる旅」とは一体どんな旅なのだろうかとイメージが膨らむ。三句目、
薔薇百本は単なる飾りに過ぎない。そんなものは捨ててありのままの自分で素直に抱かれたいというピュアな気持ち。四句目、初夏から本格的な夏になる季節感。五句目、三月は年度末の時期。骨盤が目覚めて新しい年度が始まるのだ。

 そして、身体の部位では「指」が最も多く九句ある。やはり、指先から伝わる感触によって創作意欲が湧いてくるのだと思われる。その中からの三句。

片恋や冬の金魚に指吸わせ
毛糸編む嘘つく指はどの指か
花万朶小指で掻き乱す水面


 一句目、単なる夏の金魚ではなく、冬の金魚である点がリアル。二句目、嘘をつく指はどの指だろう・・・。薬指のような気がする。三句目、水面を掻き乱すのなら普通は人差指だと思うが、小指であるところが繊細。

 「顔」から三句。

端っこの捲れる笑顔シクラメン
春の雲素顔ひとつに決められぬ
虫時雨この横顔で会いに行く


 一句目、「捲れる」のだから、本心からの笑顔ではないような気がする。シクラメンという季語が絶妙。二句目、素顔は確かに一つでは無い。多くの共感を呼ぶ句。三句目、「この横顔」という言葉から強い信念のようなものが感じられる。

 「髪」から二句。

星の夜や結うには少し早い髪
洗い髪夜を転がり落ちる音


 一句目、「結うには少し早い髪」というのは「あなたと親しくなるのは少し早い」という意味を含んでいるような気がする。二句目、
「夜を転がり落ちる音」という措辞が斬新。
 その他の、身体の部位からの秀句を三句。

てのひらは毎朝生まれ変わる蝶
はつなつや肺は小さな森であり
夏空やぐいと上腕二頭筋


 一句目、下五の「蝶」への展開が鮮やか。二句目、「小さな森」が確かな説得力を持っている。三句目、「ぐいと」というオノマトペが効果的。力強い上腕二頭筋が見えてくる。

 これらの独特的な身体感覚を持つ作者は、その感覚に更に磨きをかけて、今後も活躍されるに違いない。なつはづきワールドの更なる発展に目が離せないのは、決して僕一人だけではない筈である。

2020年10月16日金曜日

第146号

   ※次回更新 10/30


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【急告】「豈」忘年句会及び懇親会の延期

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【抜粋】〈俳句四季9月号〉俳壇観測213
鈴木花蓑を遠く思う――伊藤敬子と高浜虚子の鑑賞
筑紫磐井 》読む

中村猛虎第一句集『紅の挽歌』を読みたい
1 中村猛虎第1句集「紅の晩歌」を読んで/原英俊 》読む

中西夕紀第四句集『くれなゐ』を読みたい
3 「くれなゐ」の夕紀/柳生正名 》読む

眞矢ひろみ第一句集『箱庭の夜』を読みたい
3 夢幻の虹の世界/藤田踏青 》読む

なつはづき第一句集『ぴったりの箱』を読みたい
3 愛すべき雪女—私を超えて「私」へ/柏柳明子 》読む

【連載通信】ほたる通信 Ⅲ (2) ふけとしこ 》読む

英国Haiku便り(14) 小野裕三 》読む

ふけとしこ第5句集『眠たい羊』を読みたい
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9 ~生きる限りを~/髙橋白崔 》読む

『永劫の縄梯子』出発点としての零(2)
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17 無意識の作品化、俳句のフレームを超えて/山野邉茂 》読む

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筑紫磐井著『女帝たちの万葉集』(角川学芸出版)

新元号「令和」の典拠となった『萬葉集』。その成立に貢献した斉明・持統・元明・元正の4人の女帝、「春山の〈萬〉花の艶と秋山の千〈葉〉の彩を競へ」の天智天皇の詔を受けた額田王等の秘話を満載する、俳人初めての万葉集研究。平成22年刊2,190円。お求めの際は、筆者までご連絡ください。

新連載【中村猛虎第一句集『紅の挽歌』を読みたい】1 中村猛虎第1句集「紅の晩歌」を読んで 原英俊(高砂市俳句協会会長 ひいらぎ同人会幹事 亜流里指導)

少年の何処を切っても草いきれ
この空の蒼さはどうだ原爆忌
たましいを集めて春の深海魚
三月十一日に繋がっている黒電話
亡き父の碁盤の沈む冬畳
夏雲に押され床屋の客となる


これらの句が句会亜流里で発表された時の、
衝撃は今でもありありと蘇る。
氏が代表の句会亜流里は、2005.11.10に、
5名から始まった。
今は、30名か。いや飲み会で合流する人と合せて、33名か。
吟行も月1回行っている。

順々に草起きて蛇運びゆく
斬られ役ずっと見ている秋の空
裏道に虎の墓あり冬サファリ
ミサイルの落下地点の桜狩
冬すみれ死にたくなったらロイヤルホスト
昔のようにブランコを大きく振れなくなった


発行所 俳句アトラスの林 誠司氏
(猛虎氏を俳句に導いた、三十年前に都内のある会社で同僚)は、
跋 天賦の才 の中に「私は彼を天才だと思うことが多々ある」と書いている。
そうも思うが、やはり、並々ならぬ隠れた努力があると思う。
それと何よりの強みは、語棄の豊富さだろう。
季語と句意と言葉がほどよく混じり合つて、読み手に情況が
手にとるように、理解できる句になっている。

秋の虹なんと真白き診断書
遺骨より白き骨壷冬の星
新涼の死亡診断書に割り印
鏡台にウィッグ遺る暮の秋
雪掻きて墓を掘り出す三回忌
ポケットに妻の骨あり春の虹


この三年で、奥様に先立たれた知人が五人もいる。
内一人は見る見る老いていって、ご本人も亡くなられた。
猛虎さんも、若くして奥様との別れ。つらいのは理解できる。
でも乗り切ってほしい。そして第2句集を目指して欲しい。

【中西夕紀第四句集『くれなゐ』を読みたい 】3 「くれなゐ」の夕紀  柳生正名

  日ごろの活躍ぶりに比し第4句集とあることに少々の驚きを覚えつつ、200頁ほどの、この集を手にする。350句余りのそれぞれに思い巡らしながら紐解いたのち、決して手に持ち重りするわけではない一巻を机上に置くとき―。さまざまな句集との出合いというものを振り返ってみると、ここで何を想わせてくれるかが、少なくとも自分には決定的な意味を持つ。それは間違いないようである。
 ならば、集名にも採られた「くれなゐ」をたどることでいま一度、あの350句の豊潤な世界に立ち戻りたい。それが今回の率直な思いだったように思う。むろん、巻末の挙句に

 日の没りし後のくれなゐ冬の山

という、いわば「後を引く抒情」に溢れた大きな景の自然詠を据え、巻頭では

 漢ゐて火を作りをる春磧

と、気に満ちた炎の色をぶつけてきた著者の思う壺にはまったと言われれば、それまでだ。しかしその中にこもり、短夜の夢を追うなりゆきも、このコロナの世にはふさわしいものかもしれない。

 赤幟疱瘡の神を送りけり      子規

 赤は魔よけ、疫病除けの色だったというから。

 こほろぎやまつ赤に焼ける鉄五寸
 梅雨深し赤き肉より赤き汁
 紅梅やテントの中の十五席
 ひつぱれる鵜繩へ火の粉降りにけり

 本集の要所要所にくれなゐが点描のように配されているのは、必ずしも事前に意図されたものではないだろう。その強い色合いが日ごろ、著者の目を捉えてやまないものの内におのずと入り込んでいて、著者はそれに鋭敏に反応し続けている。今に相対する際の肌合いの感度の高さをも示している気もする。
 と言うのも、先日某テレビ局が放映した「国民13万人がガチ投票! アニメソング総選挙」なる番組では2位に「紅蓮華」(鬼滅の刃)、7位に「紅蓮の弓矢」(進撃の巨人)、10位に「インフェルノ」(炎炎ノ消防隊)がランクインした。どうも若者を含めた層が今のリアルな空気を感じるアイテムの一つがこの色らしい。
 閑話休題、本集ではまたくれなゐが

 山椿かごぬけ鳥の夕べ群れ
 星見えぬ街となりけり金魚に灯

のように、要所で隠し味のように利かされてもいる。極めつけは

 序の舞といふ絵に戻り涼みけり

 上村松園の作を即座に思い起こす。取り留めなく巡る展覧会で、描かれた振袖の朱の前に立ち戻る。ひとさしの舞を終えた後の火照った頬に寄せる涼気がそこに寄せて来る。やがて読者は、本集もこの句に耐えず立ち戻り、立ち戻りしつつ、幾度も読み返されるにふさわしい豊かな世界をはらんでいることに気付く。
 こう記してきて、どうしても頭を離れないフレーズがある。「くれなゐの茂吉」。今さら斎藤茂吉の第1歌集「赤光」に収められた連作「死にたまふ母」から

 のど赤き玄鳥ふたつ屋梁にゐて垂乳根の母は死にたまふなり

など持ち出すまでもなかろう。その数々の名歌の中に、決してあせることのない「くれなゐ」の輝きがあることを示す言葉である。
 それをいうのであれば、実は本集にも

 今にして母の豪胆緋のマント

がある。今の平均寿命を考えれば、早く亡くした母親の形見に多少の違和感さえ感じ、箪笥の奥に押し込めていたのかもしれない。ふと片づけの折、改めて目の当たりにして、華やぎと茶目っ気、そして何より思うがままに生きる強い生への意欲に共感できるようになった自分自身に驚く、そんな作者がいる。だからこそ、このマントは炎の色であり、情熱と変化を体現するこの色でなければならない。
 例えばこのようにして、決して動かない色彩が本集の中に一本の杭の如くに強く撃ち込まれている。「くれなゐの夕紀」とつい口にする誘惑にかられることの言い訳には十分なのではないか、とも思う。
 よく見ると、本集の「青嵐」「桐筥」「野守」「緑陰」「墨書」「冬日」という章立てにも、それぞれ固有の色を感じ取れる語が選ばれている。その中で「野守」には「母のマント」の句に加えて

 信号に止まり狐と別れけり
 大鍋に牛乳沸ける虚子忌かな
 花を描き交互に使ふ筆二本
 緑陰の男女のどれも恋に見ゆ
 青大将逃げも隠れもせぬ我と

などの句が見える。額田王の

 あかねさす紫野行き標野行き野守は見ずや君が袖振る

を思い合わせると、ここでは色彩が氾濫するようである。
 さらに続く「緑陰」に収められた一句

 ばらばらにゐてみんなゐる大花野

もまた秋の涼ろな色たちの饗宴を感じさせる。とりどりでありながら、一つの大きな存在へと連なりもする「いのちの宇宙」とでも呼ぶべき拡がりを感じとれるのだ。

 ばらばらに飛んで向うへ初鴉

 素十にこの句があり、終戦直後に上梓した自身の第1句集は「初鴉」と名付けられた。永田耕衣が所有した初版本を目にしたことがあるが、この句には禅書からの引用など、集中で最も多くの書き込みがなされていた。なるほど水墨絵さながらの世界に「禅の宇宙観」に通じる広漠な奥行きを感じさせる。
 「大花野」の句は色彩から言えば真反対である。それでいて、その17音が織り成す世界の奥行きのある豊かさは素十や耕衣にも連なり得る。それでいて、この大花野の中にはくれなゐの花びらも確かにある。それが風に揺れているだろうあたりが「くれなゐの夕紀」の真骨頂だと感じてもいる。 (敬称略、了)

【なつはづき第一句集『ぴったりの箱』を読みたい】3 愛すべき雪女—私を超えて「私」へ 柏柳明子

 ●ぴったりのもの、ぴったりではないもの
 なべての本にとって題名はその本の「顔」ともいうべき大切な象徴だろう。読者がこの本を手に取り、実際に開いてくれるかどうか。そのためには、己の世界を端的に表し、読者をページの中に誘う魅力的なフレージングが必要だ。これに対し、なつはづきは『ぴったりの箱』という題名を選んだ。

ぴったりの箱が見つかる麦の秋

 上記の句から採られた題名は、平易ながら不思議なイメージ喚起力に満ちている。
「ぴったり」の「箱」。それは何なのか。その箱の中には何があるのか。
 「箱」というとプレゼントなどの容れ物というポジティブな実体から、「閉じ込める」というネガティブにも近いエゴまでさまざまな形態やイメージが思い浮かぶ。
 また、「ぴったり」という言葉。「ぴったり」と題名で形容しながら、本句集を読み進めると不格好、不完全、欠落、空白といった要素や世界観を持つ句といくつも出会う。どちらかというと「ぴったり」とは逆の概念の句のほうが多いくらいだ。
 この作家にとっての「ぴったり」とは何なのか。「ぴったり」と言いながら、実は逆の概念「ぴったりではないもの」を自身の詩の世界の基軸として詠んでいるのではないか。そして、そこにこそ俳句作家・なつはづきの特性の一つが潜んでいるとはいえまいか。

からすうり鍵かからなくなった胸
宝石箱に小さき鏡野分来る
白い部屋林檎ひとくち分の旅
ひょんの笛心入れ忘れた手紙


 「鍵かからなくなった胸」と開放的な表現を一見用いながら、胸という「容れ物(箱)」はどこか不安定な動悸と呼吸を繰り返しているのだろう。それは「からすうり」という季語からも象徴的だ。
 「宝石箱」の鏡は人生の新章を呼び込むかのように、無意識のうちに野分という予感を待っている。
 「白い部屋」という空白。酸味の残る味の行き先はいずこへ。
 「手紙」という平面すら感情がこもれば、それは容れ物という概念になりうる。しかし、そこには最初から心がない。ひょんの笛の行きどころのない響きが読者の胸を掠めていく。

 一方、表題句を含めた「ぴったり」な句も存在する。

啓蟄や身の丈に合う旅鞄
冬の幅に収まる抱き枕とわたし
今日を生き今日のかたちのマスク取る


 「啓蟄や」はオーソドックスな二句一章のかたちが生きた、自然体の佳句。
 ここでは季語に中七「身の丈に合う」が「旅鞄」と組み合わされることで、のびのびと生活と人生の一シーンを寿いでいる。
 『冬の幅に収まる』は意表を突く導入から、冬の寒さの中の安らかな眠りが春を待つ祈りのようにも見えてくる。
 COVID-19の蔓延により装着が日常化された「マスク」。自分の一部にもなりつつあるマスクをぴったりとつけて今日を生きることは、今日を無事に終える(生ききる)ことでもある。その繰り返しが明日も可能かは誰にもわからない、そういった不安も行間に覗かせながら。

 なつはづきという作家とその俳句作品には、いつもどこか「自分はこれでいいのか」「自分の場所はここなのか」という視線や迷いがある。その「欠けた想い」が俳句という形を借りることにより、表現として昇華され時とともに成熟していったのだろう。その結実が本句集であり、一つの到達点として選んだのが『ぴったりの箱』という題名ともいえるのかもしれない。

 上記のアプローチ以外にも、本句集にはこの作家に特徴的な志向がいくつかある。
多くの人が指摘する「身体感覚」についてはここでは触れず、「恋」と「雪女」に絞って述べたい。

●「変」という字の上半分、下半分
 「移りゆく心」という1980年代の歌がある。歌い手は小林麻美、作詞は松任谷由実。
 「変わるという字の上半分は恋、下半分は愛」要約するとそんな歌詞なのだが、なつはづきの描く恋愛句も絶えず揺れる心を雫にも似た純度で定型の裡に言い留めている。

音程のぐらぐらの恋夏帽子
靴音を揃えて聖樹まで二人
薔薇百本棄てて抱かれたい身体
殴り書きのような抱擁花梯梧
アスパラガス愛にわたしだけの目盛り
合鍵を捨てるレタスの嚙み心地
あなたのことば十薬が暮れ残る
檸檬切る初めから愛なんてない


 時に不器用なほどストレート。しかし、同時に隠し持つ突き放した視線。
 恋愛をしている時の攫われるような感情と時間の豊潤さ、その反面自分の暗部を見せつけられる瞬間の絶望感。十七音の中にぶつけられた措辞が季語と化学反応を起こして、一句の裡で感情は生々しい変化を遂げていく。そして、「変わる心」を詠った作品の中に、上述の「ぴったりのもの」「ぴったりではないもの」を探し求める作品世界との共通点があることに気づく。
 今は好きでも明日はどう移るかわからない感情。だからこそ、なつの恋愛句は切実でリアルな輝きを放っている。

●はづき、ときどき雪女
 筆者にとって、なつはづきの作品の中で特に印象的な一句は下記である。

実印を作る雪女を辞める

 怖いような悲しいような、でも可笑しいような。
 言葉では説明できないユニークさ。感性の飛びの素晴らしさ。
 俳句作家・なつはづきの真骨頂の一句といえよう。

 掲句以外にも、なつは以下の「雪女」の句を『ぴったりの箱』に収載している。

雪女笑い転げたあと頭痛
その町の匂いで暮れて雪女
雪女ホテルの壁の薄い夜


 どの作家にも意識的、無意識的にかかわらず拘泥して使用する季語があると思う。
なつはづきの場合は、「雪女」がその一つとして挙げられるだろう。
 一体、彼女にとっての「雪女」とは何なのか。
 ある時はフィクションの存在に仮託して恋を詠い、ある時はこの世とあの世の間で遊ぶためのアバター的な役割を果たす存在なのだろうか。

 現実のなつはづきは成熟した大人の女性として、日常生活を営んでいる。
 しかし、彼女の裡のあやかしのような異界がときどき雪女に化けて、俳句作品としてこの世に忽然と姿を現すのかもしれない。

 自分ではない自分。ここではないどこか。
 私が私でいられる場所、心。

 本句集は、常に揺れつつも「自分が自分であるための、ぴったりの箱」を俳句という世界で探し続けた作家・なつはづきの現在の境地といえよう。
 微細な違和感をも敏感に感じ取る感性。それゆえに捉えうる世界。
今後もその感性を始点に、なつはづきは時にこの世から片足をはみ出し、片目で幻視を続けながら「私を詠みつつ私を超えた」彼女独自の俳句世界を紡ぎ続けていくのだろう。


【読み切り】赤野四羽の怒涛の俳句パッション 豊里友行

 赤野四羽さんの怒涛のパッションに圧倒される。
 本書のあとがきから赤野さんの言葉を拾ってみる。

  富澤赤黄男は「針」と言い、寺山修司は「鍵」と呼んだ「俳句」。
  第34回現代俳句新人賞の言葉のなかで、私はそれを「沈黙のつぎに美しい詩型」と呼びました。


 この賞は、孤高に俳句創造し続ける赤野四羽を大いに励ましてくれていたのだろう。
 現代俳句の優れた俳人の俳句世界の創造へのエールに呼応するように赤野四羽は、俳句創造への試行錯誤、四苦八苦の険しい道を着実に切り拓いてきた。
 赤野さんの言葉をもう少し引用したい。

   もちろん、俳句には「季語」「切れ」「五七五」など、いろいろな特徴がありますし、それぞれに重要な役割があるものと思います。ただ、どれか一つ、というなら、私は俳句の「短さ」にこそ本質があるのではないかと感じています。
   切り裂く「剣」ではなく「針」、打ち破る「棒」ではなく「鍵」、それは小さく短いことが強みだということでもあります。


 前置きがながくなりましたが、俳句の形式は強みにもなり、呪縛のように表現の縛りにもなる。
 俳句とは何かを問いながら俳句創造のいばらの道を切り拓く赤野四羽の俳句飛翔は、地を這うように地道な俳句実験が果敢に、たくさん成されている。
 先ずは、その刃の切っ先とでもいおうか、平成28年度第34回現代俳句新人賞受賞作「命を運ぶ」は、この句集の軸を成して現代俳句独楽が、無数に回転しているので御堪能あれ。
俳人・赤野四羽の飛翔は、この俳句の省略を埋めるだけの強靭なバネを巻き、俳句文学の「なにか」を弾く。

真っ青な海に倫理が滴れり
鉄線花譲るべからず濡れ歩け
油照兵士は壁と壁になる
水浸しの紫陽花父盲いたり
侮辱せよ真白い夏服に着替え
百合の木や生は沈黙ならざりき
神のみが水母正しくおそれけり
ページ繰る音の軽くて秋の蛇
あらばしり幸福語らしめる夜
失われたものは還らぬ山葡萄
ゆるゆると歩め鶫は遅れくる
悔しさのような病や銀杏散る
熟したるおとが零れる星月夜
茄子の馬とうとう姉の夜がきた
少しだけ約束してよ虫篭に
月を知る鳥は夜には従わぬ
毛皮きて少女はきんいろに濡れる
雪女祝うひかりの濃い淡い
誠実に鼬の罠は降りてくる
吸殻のようなからだで鮃食う
もう何度ストラップの熊よみがえる
短日や視線たがいに縛りあう
君だけの時間にもまた雪が降る
悦楽や凍蝶重なりあわず落つ
掘りつづけ枯野の果ての自由かな
あまい指からだのなかに遠蛙
下萌や昏いところにある兆し
意志はさて飛んでいくのか蜆汁
永き日に肩甲骨のみぎひだり
ホットドッグ頬張り赤い花種蒔


 二〇一一年からの五九一句の赤野四羽の怒涛の俳句パッションに今後も期待を込めて。
私性を軽やかにかろやかに詠う。
 感性の原石の絶え間ない研磨。
 社会的な題材を丸呑みする蛙のような詩的昇華は、見事な神業。
 現代俳句の岩をずるりっと動かす共鳴句たちに今後も期待している。

鍵かけてともに無言の夏蜜柑
合歓の花終わりの日にも咲いている
黒猫の目玉万緑みつけたよ
サキソホン絶唱夏の五体かな
花野蹴って蹴って転ぶそんな昼
人体に無花果ありて愛らしき
蟋蟀や快楽がなにより大事
目と目があう秋雨の夜の手術台
いっせいの曼珠沙華とし戦えり
缶詰に未来があった春でした
吸いとられ永訣なれや桜貝
置きどころ困るくじらの処刑台

【眞矢ひろみ第一句集『箱庭の夜』を読みたい】 3 夢幻の虹の世界  藤田踏青

  作者は現在「俳句スクエア」「豈」同人。ネットサイト「俳句新空間」「俳句飄遊」などに参加し、ネット中心に表現活動を行っている。
  帯には、「言葉、イメージ、音などの素材を配して、景や文脈などを構成、造形する場であり、極私的なもの」とあり、「ユングの〈箱庭〉の枠内での自己表現に近い」とある。それは佐佐木幸綱の「空間的にいえば、ある断定をもって宇宙全体を表現し、・・・・時間的なことをいえば、現在というものを徹底的に表現することによって、それが永遠に逆転すること」の潔さ、という定型観にも相通じるものがある、と思う。つまり、空間とはイメージ、断定とは言葉、徹底した現在が極私と言えよう。
 コルトレーンの「至上の愛」を参考にしたとある章立てにそって鑑賞してみる。


第一章〈認知〉
   三日待て春泥に息吹きかけて
   牡丹雪ほのぼの耄けてみたいもの


 春泥も牡丹雪もうつろい易い存在。それゆえ作者の自意識が自他ともへと語りかけているのであろう。


   蜉蝣の十万億土をひろびろと
   山襞に鬼らしきもの秋闌ける


 蜉蝣も鬼もある意味で小さな存在である。そうしたものと大きな存在(十万億土、秋)との交錯が安寧をもたらしているかのようである。


   己が影を求めぬものに青鷹


 この句からは芭蕉の「鷹一つ見付けてうれしいらこ崎」の句が想起される。鷹の、しかも青鷹の孤高・孤独感が滲み出ている。


   しののめに凍星ひとつ紺絣


 飯田龍太の「紺絣春月重く出でしかな」の句と対照的な内容でありながら、何故か通底するものがあるようにも思われる作品。


第二章〈決意〉
   幾千代の腐乱の裔や白牡丹
 句作においては攝津幸彦に影響されたとあり、掲句は明らかに幸彦の「幾千代も散るは美し明日は三越」の句を意識していると思われる。腐乱=散る、であるが、掲句の手法は蕪村的であり、幸彦のは諧謔に傾いている。


   意味ならば草かげろうにお聞きなさい
   夕花野いのちの円周率測ろ


 口語調で軽妙な感覚があるが、むしろ無意味の意味を示唆しているのでは。


   首垂れればわが真中より冬の川
   極月の女衒にまぎれ押すものよ


 自己存在を見尽せば、自ずと心底から本質というものが浮かび上がってくるのではないであろうか。たとえそれが認めたくないものであっても。
 

第三章〈追求〉
   左舷より菊の御紋にわたくし風


 戦艦大和、豊後水道通過、の前書きがあり、作者の住む愛媛県がその地に面している。「左舷より」の措辞により、大和を望む位置関係が推し量られる。二年前、私も鹿児島・枕崎の大和慰霊碑から海の彼方を見つめていた。


   白靴の片割れ大正偽浪漫


 まるで土門拳のモノクロ写真の世界を覗くようで、「白靴」の印象の強さと「大正偽浪漫」のイロニーが絶妙。


   月天心アポトーシスの始まりぬ
   補助線を跨ぎこれより枯野人


 両句共に死の様式の一つ(プログラム細胞死)に関連したものであろう。時空間での追求には厳しいものがある。


   階段に魄の陰干し垂れてをり


 この句も幸彦の句「物干しに美しき知事垂れてをり」「階段を濡らして昼が来てゐたり」を意識したものであると思う。しかし掲句には「陰干し」というように、なぜか逆転の発想が込められているように思われる。


   大袈裟なことばかり箱庭の夜


 句集題ともなった「箱庭の夜」であるが、その極私的な様相が大袈裟な、と見事にイロニーに曝かれているようである。
 

第四章〈賛美〉
   夢に来て海馬に坐る春の鬼
   薄化粧の兄引きこもる修司の忌
   虫の闇病む子に火遊び教へませう


 自己の裏返しとしての春の鬼、引きこもりの兄、病む子、といった因縁世界への鋭い視点。いわゆる私小説とは異なった観念の世界の私小説のようである。


   端居して方形の世の恐ろしき
   道をしへ死んでゐることををしへられ


 生きているとは、死ぬこととは、への問いかけのような句である。特に前句の「方形の世」は「箱庭」に通じるものなのではないか。


   冬の虹水脈果つるあたりより
   水音の言葉となりぬ初寝覚


 見ること、聞くこと、感じること、すべては夢幻の如く・・・・。静謐な世界に浸る。

【抜粋】〈俳句四季10月号〉俳壇観測213 鈴木花蓑を遠く思う――伊藤敬子と高浜虚子の鑑賞  筑紫磐井

 ●伊藤敬子の鈴木花蓑
 俳壇のパーティーなどでよく会っていた「笹」主宰の伊藤敬子氏が六月二五日になくなったと聞いてびっくりした。それまでも元気だったし、特にその少し前に『鈴木花蓑の百句』(令和二年ふらんす堂刊)を戴き、礼状を書く矢先のことだったからだ。
 (中略)
 『鈴木花蓑の百句』はふらんす堂のシリーズの1冊で、後藤夜半、藤田湘子、飯島晴子、綾部仁喜、清崎敏郎、右城暮石、山口青邨、鷹羽狩行と続いているが、いずれも師系にかかわる人の著述である。直接の縁がないと言うだけでなく、現代俳句の歴史からはほとんど忘れかけられている作家(これはホトトギス系の人から見れば噴飯ものだろうが、現代の俳人にアンケートを採っても決して名前があがってこないというのは間違いない)ということでも貴重な本である。
 伊藤氏の掲げた句を眺めてみる。

蓮の風立ちて炎天醒めて来し
コスモスの影ばかり見え月明し
押し廻り押し戻り風の浮氷
スケートや連れ廻りをりいもせどち
いみぢくも漁火の夜景や避暑の宿
薔薇色の暈し日のあり浮氷
稲妻のはらはらかかる翠微かな
昼顔や浅間の煙とこしなへ
悲しくも美し松の秋時雨


●虚子の眺めた鈴木花蓑
 ここで少し私の積み残した仕事を思いだしてみたい。戦後虚子の最晩年に、「玉藻」で清崎敏郎、深見けん二らの新人と戦後俳句の批評を行った座談記録が残っている(二九年四月~三四年八月)。「研究座談会」であるが、蛇笏、4S,人間探求派、新興俳句、龍太・兜太らの戦後俳人、そして素十・立子・杞陽らのホトトギスの個性派を取り上げて自在に論評している。この記録を私は『虚子は戦後俳句をどう読んだか』(平成三〇年深夜叢書社刊)として出版したが、実はこの座談会には、最終回で、戦後作家ではない鈴木花蓑・西山泊雲・田中王城が載っているのである。虚子の八五年の人生最後の俳句評である。
 伊藤氏に、虚子の評と合わせて話を伺ってみたかったとつくづく思う。

 夕焼や生きてある身のさびしさに (昭和十六年)

虚子「(いかにも生涯を恵まれなかった作者晩年の心境がよく出てゐるという意見に対し)この頃は御説の通り、夕焼を見た為に特に淋しいとか思ったのではなくて、何を見ても淋しさを感じた晩年だったでせう。夕焼を見ても……。一時華やかで直ぐ褪めるといふ夕焼を見ても、さう感じたんだらう。晩年の花蓑は淋しさうだったね。国へ帰る時、発行所まで来たことがあった。」
虚子「非常に淋しさうであつたですね。エレベーターまで見送ってやったんだがその時の淋しさうな顔がまだ目に残ってゐる。」

 子心は親心なり水中花 (昭和十六年)

虚子「これは子供が側にをるのではないと思ひます。子供が側にをる景色を想像するより、水中花を眺めてをつて面白いものだなと思ったんでせうね。子供が喜ぶものだなと感じた時の気持だらう。親子が互に結びつく親しい感じはあるかも知れないけれど、この表現は水中花を見た時の感じぢやないか。」

 蹴ちらしてまばゆき銀杏落葉かな (大正十三年)

虚子「『まばゆき』がうまいですね。誰でも感じることを『まばゆき』と感じたのは写生が鋭いといふか、兎に角その心がさう受け取った、花蓑の心がさういふ風に受けとったのだから、花蓑その人の心持を受取るわけで、あの銀杏落葉をまばゆく、と言ったのは写生の妙味といひますか、面白いと思ひます。」

 来る客もなくて餅切などしつゝ (昭和十二年)

虚子「この句に『など』といふ二字が働いてゐると思ひます。いかにも淋しい、することが無いといふさういふ事柄、淋しいといふ感じが『餅切など』といふ『など』によく表はれてゐると思ひます。なんでもないことだけれども、写生の力のある処でせう。」
 さて最後に問題の句を挙げよう。

 大いなる春日の翼垂れてあり (大正十一年)

虚子「これは面白い句ですね。」
虚子「(かうぃふ表現は珍しかったか、の質問に対し)さうですね。珍しかったですね。」
 これは山本健吉に酷評された花蓑が再評価される名句であるが、虚子の評は余り熱がないように思う。まるで他人ごとのようだ。
 座談会の中では、誓子が当時の詩の影響があると言ったことに触れ、その時代の俳句の表現といふものは現在の俳句の表現と違ふといふ感じがするという意見が出るが、虚子は素っ気ない。虚子は現代詩が嫌いなのだ。
虚子「別に詩の表現がどうといふことはないでせう。『垂れてあり』といひ切った処が手腕だと思ひます。」
 敬子は「春日の翼」に感嘆するのだが、虚子は「垂れてあり」に眼目があるとする。

※詳しくは「俳句四季」10月号をお読み下さい。