【現代俳句を読む】
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『挑発する俳句 癒す俳句』の「はじめに」でも書いたことだが、そのすぐれた俳人の一人で、現代俳句の牽引者であった高柳重信氏の逝去(昭58)あたりを境に、新風を生むための歴史的な生成のシステムが崩壊しはじめ、その生成力が衰弱する現象が起こった。人々は今を楽しむことに関心を傾け、表現史のパースペクティヴへの史的関心を失った。(「あとがき」)
平成に入ってから、特にここ四、五年における俳句の状況は危機的であろう。近現代俳句史において、今日ほど俳句形式がないがしろにされ、真の俳人への畏敬の念が失われている時代はないだろう。その兆しは、すでに昭和五十年代後半にあった。主たる原因は俳句の大衆化をベースとする俳誌・主宰者の簇生や句集の氾濫である。一句も代表句がない俳人が恥じることなく主宰者となり、俳句講話などを行い、商品価値のないメモリアルな句集が量産される。(略)凡庸な俳人たちは、「吟行」というスナップ的な嘱目句やメモリアルな生活句を、たわいもない思いつきや擬人法や取り合わせなどで詠み、嬉々として俳句と戯れている。「お茶俳句」や高校生の『17音の青春』などの「平成くずれ」(飴山實)を良しとする愚鈍さも同類だ。(「俳句は『簡単な思想』形式か(一)―往信だけで終わった旧書簡より―」『俳句は文学でありたい』沖積舎、二〇〇五)
先に「危機的な」といったのは、そうした小手先の技術主義の俳句とは対照的に、自己のアイデンティティーの俳句によって敗戦以後の俳句を支えてきた主要な戦後派俳人が相次いで鬼籍に入ったからだ。戦後派俳人たちの俳句観は、「詠むべきテーマもなく作ってもしかたがない」(三橋敏雄)、「自己の命に根ざさなければ、巧くなくっても(ママ)仕方がない」(森澄雄)、「不安な時代には不安を詠わない作家は信用しない」(鈴木六林男)に端的に表れている。彼らが生みだしたのは、自己表現、文学としての俳句だ。(前掲「俳句は『簡単な思想』形式か(一)」)
上記二冊の著作(『挑発する俳句 癒す俳句』『俳句に新風が吹くとき』―外山注)で、昭和俳句の表現史にかかわる句集単位での仕事は、ひとまずピリオドを打ちたい。攝津幸彦の『鳥子』(昭51)など戦後世代の優れた句業への関心もあるが、それらに対しては若い世代に有能な適任者がいるであろう。したがって、私の二冊は平成俳句への訣れのメッセージでもある。
私が愛し、私を育ててくれた昭和俳句。それを対象とした句集による表現史を意図した本書を、『挑発する俳句 癒す俳句』と併せてお読みくだされば、ありがたい。
目つむりていても吾を統ぶ五月の鷹
ラグビーの頬傷ほてる海見ては
母は息もて竈火創るチェホフ忌
父と呼びたき番人が棲む林檎園
沖もわが故郷ぞ小鳥湧き立つは
その「大人の俳句」の概念に照らしてみたとき、寺山も「青春俳句」以外の句も言葉にあふれ、歌いすぎ、物語りすぎている。つまり「青春俳句」の俳句様式、文体を引き摺っているのだ。言い換えれば、寺山は一度も俳句独特の黙劇の構造的な力を使いこなせなかった。それゆえ、寺山流の俳句様式を打ち砕く俳句形式の非情な力に敗れたともいえるのである。そこに「寺山は青春俳句しか作れなかった」要因を見ておきたい。
「牧羊神」の仲間で、「牧羊神」時代には寺山の後塵を拝していた大岡頌司や安井浩司は後年、「大人の俳句」を作った。(略)
寺山は俳人としては彼らにも敗れたことを甘受しなければなるまい。
いまや懐かしい『遠船脚』は、大岡頌司個人のみならず、私たちの遺産の一つであると思っている。あまり誇れるものもない中で、貴重な遺産の一つというべきであった。私たちといえば、かつてそこには一つの世代、ごく狭義の世代があって、それは昭和二十八・二十九年頃、〝寺山修司〟の俳句運動に象徴される一つの世代意識である。直接に寺山修司と関係のないグループもあったが、しかし寺山の波及力を考慮に入れると、けっきょく寺山を中心に私たちの世代のサイクルは回転したとみるべきであろう(傍点原文。「『遠船脚』と大岡頌司」『海辺のアポリア』邑書林、二〇〇九)
①怒涛岩を噛む我を神かと朧の夜
②書中古人に会す妻が炭ひく音すなり
③曝書風強し赤本飛んで金平怒る
④書函序あり天地玄黄と曝しけり
⑤凡そ天下に去来程の小さき墓に参りけり
⑥叩けども叩けども水鶏許されず
⑦蛇穴を出てみれば周の天下なり
⑧友は大官芋掘つてこれをもてなしぬ
⑨石をきつて火食を知りぬ蛇穴を出る
⑩御車に牛かくる空やほととぎす
⑪此墓に系図はじまるや拝みけり
「意味が、拍による等時的リズムに干渉し、その等時性を乱す。その時に生ずる音の線の流れを、意味のリズムと呼ぶ」
「拍を単位とする等時的リズムを原型とみるならば、意味の干渉を受けて生まれる意味のリズムは、そのヴァリエーションである」
「そして、意味のリズムが、原型から隔たれば隔たるほど、詩のリズムとしての価値は高まる(逆に原型のリズムにちかづけばちかづくほど、単調になり、そのリズムの表現力は弱まる)」
という。●
「一句一句それぞれに、・・・字余りという特別の律にあらぬ、定型十七音の一句として、心中に立ち上がらせ、静かに存在せしむる事が可能となる」
白壁のリビングに溶ける扇風機と愛撫のノイズキャンセラー
与市に酒を喰ハせ子を雉のませよなんとゝあり 定之
三味線調べ男はつれなげにあちらむきたる 三井秋風正に前衛は戦後の金子兜太にばかり始まったわけではない。江戸の前衛も歴然と存在した。そして芭蕉さえこうした句の影響を受けて、字余りの句が初期には登場する。
あら何ともなやきのふは過てふくと汁 芭蕉
芭蕉野分して盥に雨を聞く夜哉
櫓の声波ヲうつて腸氷ル夜やなみだ
今朝の冬凶器たるべく靴を磨く
冬木立高層ビルにひびを入れる
妥協なしビルの四壁も木枯も
木枯やペン画のごときビルの群
ビルの根に噴水凍るただ一輪
寒燈のビルまる見えのサラリーマン
冬銀河一万の椅子ビルに死す
寒夜またも地中の駅への四角な灯
地虫出づ手に荷物なきサラリーマン
熱帯魚へらへら暇な喫茶店
米研ぐや鶴めざめゐる水明り
天と地と金剛力の鶴一本
鶴食ひし夢の如くに昼の雪
鶴も地も夜へ回りゆく吾もろとも
風花のふれあふ空の深さかな
寒鯉を夜の雲おほひ尽しけり
寒鯉の鱗の数の完結す
酔へば歌ふ青春無頼の懐手
鷲遠くなぐれゆきても流氷群
薄氷を剝ぎて汲む水やはらかき
鶴白し檻のまはりに春暮れて
眼鏡はづせば名知らぬ鳥の雲に入る
鳥わたる村の出口の仏達
父母の家を無数の鳥の目がわたる
わたり鳥ひろがりちぢみ消えにけり
わたしは軽トラックに乗ると、鼻歌を歌ひつつ無断でそれを発車させた。月下に静まり返る住宅街を抜け、原生林ばかりの郊外を過ぎて海へ出ると、そこには緩やかな海岸線に沿ふやうに、炭坑用臨港鉄道のブロードゲージが続いてゐて、その脇には海底の石炭を掘り出した際の、白ズリの山の裾野があつた。わたしは軽トラックを降りてブロードゲージをまたぎ、白い石灰岩が偽りの天然と化したズリ山の端をおもむろに踏みしめた。それがゴミだといふことを確かめるために。
踏んだ瞬間、山がまがひものであることはすぐ分かつた。けれどもなんとなく、ゴミで山をつくるといふ営みが、人間の労働に不可欠の、手すさびとしての創意であるやうな気分にもなつた。この「巧まざる賜物」は、労働といふ自己疎外によつて生み出されたからこそ、こんなにも真つ白に、無意味に輝いてゐるに違ひない。ああ。なんて背理的なオリジナリティに満ちた夜なんだらう……。
わたしはさう感動しつつ、目の前のゴミを、固有のリアルさをもつ建造物であるとみなして静かに登り始めた。
白ズリの、そのざらついた肌合ひは力強い活力に満ち、その肌に埋もれたシェルフミンは儚く侘しげで、生きたまま化石となつた海の生き物の、そのおびただしい死骸の上に立つていま月を仰いでゐるわたしは、この覚醒しきつた空間とあの目に見えない時間の両腕に抱かれ(あるいはそんな時空の狭間に見捨てられ)まるで廃墟を制した天使か蛆のやうだつた。
ともあれ今宵のわたしは、廃墟のまぼろしが、完全なる現実感を備へた建造物に欠くべからざるものだといふ真理を、はつきりと学んだのだ。
◆もしかして私の為に薔薇開く(富士市)蒲康裕、
◆ひと夜さの雨の錘の薔薇を剪る(松原市)加藤あや、
◆華やぎをたたみきれずに薔薇散りし(名古屋市)中野ひろみ
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昨夜、友人のダンスを見た。
この季節になると、この友人はモナコの大聖堂でダンスを踊る。私はそれを、別のモナコ系の友人と連れ出つて、毎年のこのこ見にゆくのである。
クルマを降りると、夜のモナコは煙のやうな小雨だつた。開演まで少し時間があつたので、私たちは城の広場で待つことにした。
人の気配がない。見回してみると、観光客が数組。私たちは丁度高台になつてゐる広場の端から、町と海を眺めた。
「なんだかさみしいね」
「うん」
「雨のモナコつて、いつもこんな感じ?」
「さうだね。特に夜は」
一緒に来た友人はさう答へながら、向かうの谷や、すぐ真下の住宅街を指差して、うちの家族はあの谷に十四世紀から住んでるんだよ、とか、あ、あそこ私の生まれた病院だ、とか教へてくれる。
「へえ。さういへば、シャルレーヌ妃がご懐妊だよね? モナコの人たち、喜んでるんぢやない?」
私がこんな世間話を口にすると、友人は少し思案するやうな顔つきになり、
「んん」
と唸つた。一般に、モナコ人の王室に対する心情は、さう単純ではないもののやうである。私はその事を思ひ出し、すぐこの話を引つ込めた。
もうすぐダンスの開演時間だ。私たちは大聖堂へ移動することにする。歩き出すとき、友人が、言つた。
「みんな、グレース・ケリーのこと、ずつと忘れてないんだよ。彼女がお嫁に来る前の晩も、とても静かで寂しい雨が降つてゐた。雨の広場にくると、わたし、今でもその夜の事を思ひ出すんだ」
追憶のぜひもなきわれ春の鳥 太宰治
外はみぞれ、何を笑ふやレニン像
幇間の道化窶れやみづっぱな
ひとりいて蛍こいこいすなっぱら
愛虫抄 十時海彦
でで虫や父はギリシャの海ゆくころ
昼寝覚蝶の羽音を聞きし如し
くしゃみすれば幽かに灯る螢籠
燃え上がる火蛾の総身透くばかり
あめつちの一点に持す唖の蟬
天道虫ねむるや天の七つ星
黄金虫胸に脚抱き死を夢む
窮すれば羽持ちて逃ぐ油虫
子蟷螂己が影にさへ斧を挙ぐ
でで虫の殻膨らます海の音
でで虫の渦に潮騒吸はれつぐ
夕かなかな我が胸腔は響き易く
旅の果てに見しは破船と浜昼顔
夜を泳ぐ首から下は玻璃となり
夕月や朝(あした)に撒きし山羊を呼ぶ
十時海彦(とときうみひこ)略歴第1句から第12句は虫を、この作者らしいテーマ詠だが、全体に題詠っぽい趣が強い。「燃え上がる火蛾の総身透くばかり」は火蛾の解説のようであるし、「子蟷螂己が影にさへ斧を挙ぐ」は蟷螂の題を与えられればこのような句は生まれそうである。しかし詠みぶりが若々しいのと、写生俳句に食傷していた昭和40年代後半の新しい俳句雑誌としては新鮮な感じを与えたのだろう。元々沖は理屈っぽいから(その理由は前々回述べた通りである)違和感は少なかったのかも知れない。
本名 玉井日出夫
昭和二十三年九月、松山に生まる。東京大学生。四十三年、小佐田哲男助教授の「作句ゼミ」に参加、俳句の手ほどきを受ける。四十六年六月号より「沖」に投句。現在、東大学生俳句会員。
でで虫や父はギリシャの海ゆくころ
あめつちの一点に持す唖の蟬
夕かなかな我が胸腔は響き易く
旅の果てに見しは破船と浜昼顔
夕月や朝(あした)に撒きし山羊を呼ぶ
白扇を用ひて山気そこなはず 昭和六十一年
山暮にはか「虚飾やめよ」とほととぎす 〃
信仰は難処を強ふる岩たばこ 昭和六十二年
崖みちに工みいささか落し文 〃
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