2020年2月29日土曜日

渡邊美保第一句集『櫛買ひに』を読みたい インデックス


1 「櫛」に纏わるこもごも   嵯峨根鈴子  》読む
2 俳句における静かな飛翔〜〜   一門彰子  》読む
3 句集『櫛買ひに』を読む   石井 冴  》読む
4 「櫛」はかの世に売っているか   西田唯士  》読む
5 『櫛買ひに』渡邉美保第一句集より   玉記 玉  》読む
6 『櫛買ひに』を読む   山田すずめ  》読む
7 『櫛買ひに』のこと   牛原秀治  》読む



ふけとしこ第5句集『眠たい羊』を読みたい インデックス


1 ~多くの虫・動物が登場~   内田 茂  》読む
2 眠たくない句集    杉山久子  》読む
3 自画像   曾根 毅  》読む
4 =きれいな額=   谷さやん  》読む
5 温かい視線   衛藤夏子  》読む
6 桃の花下照る道に出で立つをとめの頃からずっとふけとしこ   嵯峨根鈴子  》読む
7 鳥のさまざまな表現に注目   小枝恵美子  》読む
8 無題   岡村潤一 》読む
9 ~生きる限りを~   髙橋白崔 》読む
10 手紙   橋本小たか 》読む
11 『眠たい羊』の笑い   小西昭夫 》読む

2020年2月28日金曜日

第131号

※次回更新 3/13

特集『切字と切れ』

【紹介】週刊俳句第650号 2019年10月6日
【緊急発言】切れ論補足
※2/7追加 (7)5 》読む

【新企画・俳句評論講座】

・はじめに(趣意)
・連絡事項(当面の予定)
・テクスト/批評   》読む

【新連載・俳句の新展開】

句誌句会新時代(その一)・ネットプリント折本    千寿関屋  》読む

■平成俳句帖(毎金曜日更新)  》読む

令和2年歳旦帖
第一(1/10)辻村麻乃
第二(1/17)曾根 毅・池田澄子
第三(1/24)坂間恒子・大井恒行・仙田洋子・山本敏倖・堀本 吟
第四(1/31)浅沼 璞・渕上信子・松下カロ・加藤知子・関悦史
第五(2/7)飯田冬眞・竹岡一郎・妹尾健太郎・真矢ひろみ・木村オサム・神谷波
第六(2/14)早瀬恵子・夏木久・中西夕紀・岸本尚毅
第七(2/21)ふけとしこ・花尻万博・前北かおる・なつはづき・網野月を・中村猛虎
第八(2/28)林雅樹・小林かんな・小沢麻結・渡邉美保・高橋美弥子・川嶋ぱんだ・青木百舌鳥

令和元年冬興帖
第一(12/27)曾根 毅・小沢麻結・渕上信子・松下カロ・山本敏倖
第二(1/10)小林かんな・池田澄子・辻村麻乃・内村恭子・中村猛虎・夏木久
第三(1/17)網野月を・大井恒行・神谷 波・花尻万博・近江文代・なつはづき・林雅樹
第四(1/24)岸本尚毅・下坂速穂・岬光世・依光正樹・依光陽子・竹岡一郎・妹尾健太郎
第五(1/31)仲寒蟬・小野裕三・渡邉美保・望月士郎・飯田冬眞・早瀬恵子
第六(2/7)木村オサム・ふけとしこ・真矢ひろみ・前北かおる・佐藤りえ・筑紫磐井
追補(2/14)菊池洋勝・高橋美弥子・川嶋ぱんだ・青木百舌鳥
追補(2/28)家登みろく・水岩瞳・井口時男

令和元年秋興帖
第一(11/8)大井恒行
第二(11/15)曾根 毅・辻村麻乃・仙田洋子
第三(11/22)小野裕三・仲寒蟬・山本敏倖
第四(11/29)浅沼 璞・林雅樹・北川美美・ふけとしこ
第五(12/6)神谷波・杉山久子・木村オサム・坂間恒子
第六(12/27)青木百舌鳥・岸本尚毅・田中葉月・堀本吟・飯田冬眞・花尻万博・望月士郎・中西夕紀
第七(1/10)渡邉美保・真矢ひろみ・竹岡一郎・前北かおる・小沢麻結・下坂速穂・岬光世・依光正樹・依光陽子・仙田洋子・渕上信子・水岩瞳
第八(1/17)小林かんな・加藤知子・網野月を・早瀬恵子・中村猛虎・のどか・近江文代・佐藤りえ・筑紫磐井
追補(2/14)菊池洋勝・高橋美弥子・川嶋ぱんだ
追補(2/28)家登みろく


■連載

ふけとしこ第5句集『眠たい羊』を読みたい
4 =きれいな額=/谷さやん  》読む

寒極光・虜囚の詠~シベリア抑留体験者の俳句を読む~㉙ のどか  》読む

英国Haiku便り(5) 小野裕三  》読む

【抜粋】〈俳句四季2月号〉俳壇観測205
生誕百年を迎えた俳句作家――昭和・平成を生きた兜太と龍太
筑紫磐井 》読む

句集歌集逍遙 秦夕美・藤原月彦『夕月譜』/佐藤りえ   》読む

麻乃第二句集『るん』を読みたい
インデックスページ    》読む
16 「こころのかたち」/近澤有孝  》読む

渡邊美保第一句集『櫛買ひに』を読みたい 
6 『櫛買ひに』を読む/山田すずめ 》読む

葉月第一句集『子音』を読みたい 
インデックスページ    》読む
7 生真面目なファンタジー 俳人田中葉月のいま、未来/足立 攝  》読む

佐藤りえ句集『景色』を読みたい 
インデックスページ    》読む
7 佐藤りえ句集『景色』/西村麒麟  》読む

大井恒行の日々彼是 随時更新中!  》読む


■Recent entries

 第5回攝津幸彦記念賞応募選考結果
 ※受賞作品は「豈」62号に掲載

特集・大本義幸追悼「俳句新空間全句集」 筑紫磐井編  》読む


「兜太と未来俳句のための研究フォーラム」アルバム

※壇上全体・会場風景写真を追加しました(2018/12/28)

【100号記念】特集『俳句帖五句選』


眠兎第1句集『御意』を読みたい
インデックスページ    》読む

麒麟第2句集『鴨』を読みたい
インデックスページ    》読む

前衛から見た子規の覚書/筑紫磐井
インデックスページ    》読む

「WEP俳句通信」 抜粋記事  》見てみる

およそ日刊俳句新空間  》読む
…(今までの執筆者)竹岡一郎・青山茂根・今泉礼奈・佐藤りえ・依光陽子・黒岩徳将・仮屋賢一・北川美美・大塚凱・宮﨑莉々香・柳本々々・渡邉美保 …
2月の執筆者 (渡邉美保

俳句新空間を読む  》読む
…(主な執筆者)小野裕三・もてきまり・大塚凱・網野月を・前北かおる・東影喜子




「俳句新空間」11号発売中! 購入は邑書林まで


豈62号 発売中!購入は邑書林まで


「兜太 TOTA」第3号

Amazon藤原書店などで好評発売中

筑紫磐井著『女帝たちの万葉集』(角川学芸出版)

新元号「令和」の典拠となった『萬葉集』。その成立に貢献した斉明・持統・元明・元正の4人の女帝、「春山の〈萬〉花の艶と秋山の千〈葉〉の彩を競へ」の天智天皇の詔を受けた額田王等の秘話を満載する、俳人初めての万葉集研究。平成22年刊2,190円。お求めの際は、筆者までご連絡ください。

【俳句評論講座 目次】


【はじめに(趣意)】


【連絡事項(当面の予定)】


【新鋭俳句評論賞】


【評論執筆の質問と回答】


【共同研究の進め方】


【テクストと鑑賞】



 
 

【俳句評論講座】はじめに(趣意)

 若い世代の俳句作家は多くいますが、評論の書き手は少ないとことが最近問題となっています。例えば俳人協会評論新人賞は近年ほとんど受賞者が出ていない状況にあります。
 こうした評論執筆を推奨するために出来た、手軽く応募できる評論賞・論文誌は次のようなものがありますが、若い人にはいきなり執筆・応募までのきっかけができないのが現状のようです。

  ①俳人協会新鋭評論賞
  ②現代俳句協会評論賞
  ③文学の森・山本健吉評論賞
  ④俳句文学館紀要
  ⑤夏潮別冊「虚子研究号」論文

 従来から評論は自発的に書かれてきたものですが、ある程度、執筆に当たっての助言・評価などが欲しいという声も若い人からは出されています。
  そこで、筑紫磐井・角谷昌子が中心となり初心者用の俳句評論講座を「BLOG俳句新空間」で試行的にはじめることとしました。
 この講座は、多くの人が参加しやすいように、双方向でかつ公開された講座としてみようと考えております。具体的にはテクストを提出していただき、これに対し読者からさまざまな感想・評価を述べて意見交換をしようというものです。もちろん、筑紫・角谷、その他の方も参加します。参加費は無料で、原則隔週でBLOGの更新をすることにより迅速な情報の提供をしたいと考えています。また適切な論文については、俳句文学館で行う「俳句評論講座」にテクストとして配布し、受講者たちと直接意見交換をする機会も得たいと思っております。
 読者のご参加を希望するものです。
 これを積み重ねていくことにより、上記のような評論賞・論文誌への応募者が出ていただければ幸です。(なお俳人協会新鋭評論賞への応募については、BLOG投稿も既発表扱いになるのでご注意ください。)

    筑紫磐井
    角谷昌子

【俳句評論講座】連絡事項(当面の予定)


2月28日(金) BLOG俳句新空間の「俳句評論講座」(第1回)掲載開始


3月1日(日) BLOG俳句新空間の「俳句評論講座」(第2回)原稿締切り
 ※掲載希望の方はこの日までにお送り下さい。筑紫・角谷等の感想・批評を付させていただきます。


3月13日(金) BLOG俳句新空間の「俳句評論講座」(第2回)掲載予定

 (以下随時お送りください)
・・・・・・・

4月25日(土) 10:30~12:00
 俳句文学館にて俳句評論講座(第4回)開催[定員15名。事前登録が必要]

第4回評論講座中止のお知らせ

4月25日(土)に予定しておりました第4回評論講座は、新型コロナウィルスの状況を鑑み中止いたします。
中止のご案内は協会HP、「俳句文学館」にも掲載予定です。
新しい日程は未定ですので、状況を考慮し改めてご案内いたします。

【俳句評論講座】テクストと鑑賞① 渡部テクスト

【テクスト本文】
俳句のリアリティー―地名を手掛かりに―
                   渡部有紀子

はじめに

 「眼前の景を詠む」ことは近代俳句の基本とされている。一句中の景を「実際にあったこと」として、作者が見たこと聞いたことがいかに再現性があるのかを読者は読み解くのである。だが、そもそも作者の実体験から枝葉末節を取り払って十七音に収めた俳句の景は、厳密に言えば現実とは乖離するのが当然である。それでも一句を目にした際に読者が俳句の景に感じるリアリティーとはどういうものなのか。本稿では、この点を考察するために山口青邨の《みちのくの淋代の濱若布寄す》を取り上げる。
 青邨のこの句は、「ホトトギス」昭和十二年五月号雑詠欄に発表された当時より「淋代」という地名によって醸し出される景の美しさが高く評価されていた。後に、青邨は実は淋代を訪れたことがない上に、実際の淋代の浜には地理上、若布が寄せることはないことが判明しても、この句の評価は変わることがなかった。《(実際の淋代に)荒布なら寄せてゐるさうだが、もともと優雅な地名に惹付けられたのだから、「荒布寄す」では作者は幻滅なのであらう [1]》(山本健吉、昭和二十七年)。《臨場感を失わず読ませる[2] 》(三村凪彦、昭和五十八年、傍線筆者)。《この清朗なる地にあおあおとした若布が寄せるということは、それは仮に想像上の風景であるにせよ、見事な楽園の景色ではないか[3] 》(斎藤夏風、平成九年)。ここに紹介した三人の評者たちは、例え作者が実際には訪れていない土地であったとしても、地名に喚起された作者の「想像上の楽園」の景色を出現させることは可能であり、それを読者は臨場感をもって受け止めると言説を展開し、やはり「淋代」という地名の詩情によって生み出される景には読者が現実味を感じるのだと結論づけている。
 では、作者の想像上の景であっても、一句の中に読者がリアリティーを感じてしまう糸口になり得る地名とはいかなるものなのか。本論ではまず、地名がどのように日本詩歌および俳句史上で扱われ受容されてきたのかを整理するところから始めたい。

第一章 歌枕から俳枕へ子規以降
―しのぶ地名、訪れる地名、実在する地名


  詩歌史における地名の歴史は鈴木貞雄、尾形仂の両氏に詳しい。いわく、八世紀編纂の『万葉集』約四千五百首の歌には、三割余りが日本各地の地名が詠み込まれていた []4。後に地名が和歌の中で重要な要素とされるようになり、歌枕として定着した。この伝統は俳諧連歌にも色濃く残り、明治の俳句革新を経てもなお俳句に引き継がれていったのである。
 ただし歌枕は、『万葉集』や『古今和歌集』などの古典の中で洗練されてきた《文学上の地誌[5] 》であった。先人たちの名歌を踏まえた上で掛詞や縁語といった技巧をこらして一首に仕立てていく和歌では、歌枕は伝統に則ったイメージこそが重要であり、その所在や実景は問われるものではなかった。
 連歌の時代には、宮坂静生によると、複数の人々が旅先で集まって連歌を巻く際の心得として、《都人の心持ちで》振る舞い、例え今は鄙びた場所にいたとしても《都にいるつもりで》、常に都をしのぶ生き方が志向されたという[6] 。連歌での「季の題」は、盆地気候の京の都で暮らす人々の季感こそが本意とされた。歌枕も、都人であればその土地の名を聞けばどのような思いが胸に去来するのかという、いわば「しのぶ地名」として機能したことは想像に難くない。
 江戸期に至ると歌枕に代わって「俳枕」が登場するが、これは従来の歌枕とは様変わりしていた。貞門系の俳人であった高野幽山が自他の句を国別に集めて延宝八年(一六八〇)に刊行した『誹(はい)枕(まくら)』の内容からそれが窺える。それまでは作者がその地に行ったことがなくとも、名歌の蓄積や掛詞からの連想に依ったイメージで歌が詠まれ鑑賞され得たのに対し、『誹(はい)枕(まくら)』に収められたのは作者幽山が実際に諸国を遊歴した際の発句が中心であった。『誹(はい)枕(まくら)』には山口素堂が寄せた序文があるが、そこでも《(幽山は)西は坊の津に平包みをかけ、東は津軽の果てまでも足を重しとせず(中略)まさに見たりし翁なり[7] 》と評価していることから、当時の俳諧においては、作者が実際に足を運ぶことが読者から期待されていたことがわかる。つまり俳枕は「訪れる地名」とも言うべき、作者がその土地に行ったという事実に基づく地誌であり、作者と読者双方で共有された幻想に基づく歌枕とは決定的に違っていた。
 ただし俳諧で地名を詠むにあたっては、句に詠まれた景を実際に作者が見たか否かという点は厳密には問われていなかった。『おくのほそ道』に収められた〈荒海や佐渡に横たふ天の川〉について後年、荻原井泉水が指摘したように天文的事実として天の川は佐渡へは横たわらない上に、同行していた門人曾良の旅日記によると出雲崎に到着・宿泊した旧暦七月四日夜より雨となり、直江津に至った七日の夜まで雨が降り通していたという[8] 。事実に照らせば芭蕉は、雨けぶる海の向こうにぼんやりと見える佐渡島の影に向きあった際、かつて多くの貴人が配流されたこの地には天の川が横たわることこそが相応しいとしたことになる。古典的な歌枕の地を実際に訪れることで作者の心に沸き起こった景こそが、その土地にふさわしい新たな「本情」であるとされたのが芭蕉の時代であった。実際に作者が見たものをそのままに詠むという態度が定着するには、明治の正岡子規の登場を待たなければならなかった。
 子規の名所旧蹟についての見解は、明治二十八年の『俳諧大要』における写生の実践の仕方に述べられている。《名勝旧蹟の外にして普通尋常の景色に無数の美を含みをる事を忘るべからず。名勝旧蹟はその数少く、人多くこれを識るが故に陳腐になりやすし。普通尋常の場処は無数にして変化も多くかつ陳腐ならず、故に名勝旧跡を目的地として途々天然の美を探るべし。鳥声草花我を迎ふるが如く、雲影月色我を慰むるが如く感ずべし[9] 》―名所旧蹟は数が限られている為に、先人たちによって既に詠まれ尽くしている。今我々が詠もうとしても、どうしても既存のものと発想や着眼点が似通ってしまい、その表現は陳腐な印象を与えてしまいがちである。一方で、これまで誰も注目してこなかった《普通尋常の》場所は無数にある。その場で常に変化する《天然の美》とも言うべき現実の景は、まだ詩歌に詠まれていないので、新鮮な句を得ることが可能である。名所旧蹟を訪ねる際も、その途上の名所とも言われない場所に気を配り、そこにある鳥や草花、雲や月などに詩情を見出すべきだと言う。この子規の主張に沿うならば、一句の中に詠まれた場所は、その風物も含めて作者の眼前に実際にあったと想定される。ある特定の土地を指ししめすことばは、「実在する地名」とも言うべきものである。
 坪内稔典は子規の唱えた写生は、明治期の旧派の俳諧宗匠たちから見ると、目の前の出来事を「云ふただけ」で一句として不成立であるとされてしまうものだったと指摘する。そして、俳句は和歌や詩ほどには完結性を持っていないが故に、一つの作品として成立するには他のどの文芸よりも表現方法に価値を認める一定数の読者を《読み方の共同性》として必要とするのだと主張する[10] 。「実在する地名」もまた、ことばの歴史性を排除しようとする子規の考えや、その作品を鑑賞する方法が共同性の強い力を発揮した結果であり、現代においても我々が俳句を読み解く際の基礎を成している。青邨の「淋代」の句に対して、実際に若布が寄せるか否かという点が評者たちの意識を集めること自体が、作者の眼前の景を詠むことを読者は了解事項として十七音を受け取るという、近代俳句の「読みの方法」を如実に物語っている。

第二章 地名の句を読み解く方法

 「歌枕」の時代には、実在の有無や作者の訪問の有無を問わず、それまでの文芸的な蓄積を背景に地名の詩情を詠み/読むことが、作者と読者の間の約束事項であった。それを否定した明治以降の近代俳句では、地名の詠み込まれた俳句に対して、新たな読み解きの方法が必要になった。それには、(一)作者の提示する景をそのまま受け取る(二)地名という言葉の響きに着目する(三)古典の伝統から外れるにしても、地名にまつわる連想を手掛かりにするの三つがある。

 (一)については、子規の提唱した「写生」のように、作者の眼前の景物を読者は素直に受け取ることで、自然が織りなす現実を観察してありのままに提示しようとする作者の視点を読者も共有し、そこに潜む新鮮で迫力ある美を鑑賞する方法であった。
 (二)については、地名のことばとしての響きに着目し、その響きと提示された景物との組み合わせによるイメージの広がりを味わうことである。先に子規が唱えた《普通尋常の》場所に目を遣ると、「淋代」のように文学的・歴史的連想の蓄積も無く、有名でない土地の名称も俳句に登場することとなる。この場合、その土地に立った(と、読者は想定する)作者と、全くその土地を訪れたこともなく、その場所の実情も知らない読者との間に情報の非対称性が生じる。これを克服する方法として、地名という音声の持つ響きと景物とが成す一句中の調べを利用することが有効であり、冒頭の「淋代」の句に対する評も全て地名の響きに着目している。
 (三)については、虚子が許容した地名にまつわる連想を手掛かりとする鑑賞法である。

 子規が写生を唱えた同時期、明治二十九年の雑誌「日本人」二月号で虚子は、《凡そ人間の智識感情等凡て歷史的ならざるはなし(中略)歷史的連想をおこさしむる材料も様々あるが中に最普通にして最有力なるものを名所舊跡となす(中略)山川草澤に印せられたる歷史上の事蹟は永へに滅せざる詩壇の珍寶なるべし[11] 》と述べている[12] 。重ねて虚子は、《(名所も旧蹟も)孰も自然の美と人事の美と相擁したる複雜なる詩趣を有するものにして殊に深刻なる印象を與ふるものなり(中略)歷史的連想能く風光の美と相挨つに非れば名所舊跡に於ける快感は甚く減殺せられぬべし[13] 》と続け、自然の風光の美を主眼としながらも、名所旧蹟にまつわる歴史的連想の存在と詩的効果を認めている。
 虚子はまた興味深いことに、句に詠まれた景が現実のものか否かについて厳密には求めていなかった。青邨は「淋代」の句の自解の中で、自身の外遊中に実際の淋代には若布は寄せないことをホトトギス社宛に指摘してきた人物がいたが、虚子が弁じて事なきを得た旨を書いている[14] 。虚子の回答の詳細は不明だが、それより以前に虚子が著した俳句論の中に、俳句における虚と実についての見解がわかる箇所がある。
 明治四十一年七月の「ホトトギス」で虚子は、凡兆の〈初潮や鳴門の浪の飛脚船〉という句に対して、初潮のような膨れ上がった満潮時の鳴門海峡は渦もない平穏な海であることを指摘し、したがってこの句における飛脚船には、立ち荒れてうねる波濤を意味する「浪」は実際には当たっていないということを明らかにする。その上で、作者凡兆は鳴門海峡の初潮を目の当たりにし、その雄大さに心打たれ、その景色の中に日頃から聞いている飛脚船の様をモチーフとして置き、荒波の中を必死に進む船と海峡の大景との想像上の対比をもって《天地の間に此景色を創造した》と断言する。そして、一見すると眼前の景物をそのまま詠んだようでありながら一句の背後に作者の想像の産物が潜んでいる句を《背景のある句》として自分は佳しとすると主張している[15] 。
 虚子は水原秋櫻子の〈山焼く火檜原に来ればまのあたり〉という空想句についても《作者が創造した世界が即ち現実の世界になつてゐる[16] 》と大正十五年の『俳句小論』で述べている。これらに照らして先の明治二十九年の名所旧蹟についての見解を読むならば、名所と呼ばれる地名によって作者の心の中に起こる感興は、その虚実を問わず、作者と読者で歴史的連想によって共有可能であり、明らかに子規の名所旧蹟の扱い方とは変容している。
 虚子のこのような考え方が広く受け入れた後の昭和期には、読者は地名が負う文学的・歴史的背景を理解した上で、そこからの連想によって句を読み解くこと、例え句中の景が現実とは違っていたとしても、地名によって想起される連想が活かされているか否かの方に注目して、句を鑑賞することが期待されるようになる。         
 作者の想像上の景であったとしても、地名の効果によって俳句の詩世界は壊れないという青邨の句作品に対する評者の読みは、まさに虚子の許容が背景にあった。同時に、「淋代」というよく知られてはいない、歴史的連想の乏しい地名であっても、地名の持つことばの響きから連想される詩情が一句中を貫いていれば、現実味をもって鑑賞され得るという俳句評論の可能性をも拓いたのである。

第三章 仮想の読者との対話

 かつて虚子は俳句の作られる過程において対象の観察と言葉の取捨選択を通じての景の描写には必ず作者の主観が入る点を指摘している。俳句とは対象から少し距離を置いた上で、選び抜かれた言葉によって十七音に集約されたフィクションなのである。作者/読者の情報の非対称性が前提であるがゆえに作者は作句の際には自己の中に仮想の読者を設定し、読者の持つであろう情報を勘案しながら言葉を選定する。つまり、仮想の読者との「対話」を通じて作句を行う。ある地名における景を詠む時、俳句によって作者から読者へ差し出された景はどこにも実在しない。作者の読者の間にのみ、俳句の景は存在している。読者もまた、作者から提示された景がいかに鮮やかに伝わってくるのか、作者の経験の再現性をはかるのが近代俳句では正しい「読み」の態度とされた。青邨の「淋代」の句は実景ではなくとも、読み解きの方法によっては作者の「経験」を読者が「臨場感」まで伴って作り上げてしまえることを、図らずも明らかにしている。俳句はあくまで虚構の世界であり、読者がそこで受け止めるのは「人造リアリティー」ともいうべき景色なのだ。

[注]
1) 山本一九五二、八十四頁
2)三村一九八三、一三六頁
3)斎藤一九九七、二十七頁
4)鈴木二〇〇九、一七〇頁
5)尾形一九八七、一五四頁
6)宮坂二〇〇九、十七頁
7)尾形一九八七、一五五頁
8)穎原・尾形二〇〇三、二八二-二八三頁
9)子規一九五五、七十一頁
10)坪内一九八五、二四頁
11)虚子一九七四、三十七頁
12)坪内によれば、このような考え方は明治期には殆ど主流をなさず、そのような考えや、その考えに基づく俳句の読み方が人々に受け入れられ「共同性を形成する」のは大正になってからであったという。
13)虚子一九七四、三十八頁
14)青邨一九七〇、二十六頁
15) 虚子一九七四、一四〇―一四一頁
16)虚子一九七四(二)、一六三頁

【引用・参考文献一覧】
◇山本一九五二: 山本健吉『現代俳句 下巻』 角川書店 一九五二年
◇三村一九八三: 三村凪彦「固有名詞(地名)の効用―大和など―」「俳句」昭和五十八年八月号 一三六‐一三七頁 角川書店 一九八三年
◇斎藤一九九七: 斎藤夏風『蝸牛俳句文庫三十二 山口青邨』 蝸牛社 一九九七年
◇鈴木二〇〇九: 鈴木貞雄「地名がもたらすもの」片山由美子・谷地快一・筑紫磐井・宮脇真彦編『俳句教養講座第二巻 俳句の詩学・美学』一七〇‐一八一頁 角川学芸出版 二〇〇九年
◇尾形一九八七: 尾形仂 『「俳枕」考』『新撰俳枕』一五三‐一五九頁 朝日新聞社 一九八七年
◇宮坂二〇〇九: 宮坂静生『季語の誕生』 岩波書店 二〇〇九年
◇穎原・尾形二〇〇三:松尾芭蕉著 穎原退蔵・尾形仂訳注『新版おくのほそ道』角川ソフィア文庫 株式会社KADOKAWA 二〇〇三年
◇子規一九五五:正岡子規『俳諧大要』岩波書店 一九五五年
◇坪内一九八五: 坪内稔典「〈赤い椿白い椿と落ちにけり〉の成立」『現代俳句入門』二十一‐三十一頁 沖積舎 一九八五年 
◇虚子一九七四、高浜虚子『定本高濱虛子全集 第十巻 俳論・俳話集(一)』毎日新聞社 一九七四年
◇虚子一九七四(二)、高浜虚子『定本高濱虛子全集 第十一巻 俳論・俳話集(二)』毎日新聞社 一九七四年
◇青邨一九七〇: 山口青邨『現代の俳句・自選自解山口青邨集』 白凰社 一九七〇年


【角谷昌子・鑑賞と批評】
  文献をよく収集して精査されていることがよく分かります。ただ、山口青邨の「淋代」の句は、作者が実際に現地を訪れていないまま詠まれたことが、よく知られています。この句を冒頭に提示するだけで、ちょっと「またか」との思いが読者にきざすので、論考には、もっと新しい視点を加えて新鮮さを打ち出す必要があるでしょう。
  「地名」の効果から、俳句の虚構性に論旨が展開されていくのですが、第三章に至るまでの説得力に乏しい気がします。新鋭俳句評論に提出された内容を3ページとの講師からの指摘でだいぶカットされたことによると思います。もう少し文献引用は要点だけにして、それに対する著者独自の論考を肉付けしてゆけば、さらに良くなるのではないでしょうか。

【筑紫磐井・鑑賞と批評】
  いかにも書きなれた文体であると思います。その意味ではテーマの探索がポイントになると思います。
 講座の時も、研究論文と評論のご質問がありましたが、基本的には大きく異なると思います。前者は読者が大学等の研究者であり、発表の場も研究者が集まる学会です。ここでは、既存の堅実な成果を踏まえて、新しい知見を提示するものです。その意味では通常一般読者にはあまり面白くないものとなることが多いようです。
 評論の場合は一般俳人が読者であり、俳句雑誌や単行本で発表されますが、アカデミックな評価や注意をされることはあまりありません。実作者あるいは、俳句愛好家にとって興味を引く、面白い内容となっている事がポイントとなります。
 山本健吉や金子兜太はあまり厳密な論理を追っておらず、後者に属すると思います。また新しい俳句運動(社会性俳句、前衛俳句、草間滝彦らので伝統俳句の復活等)は前者から生まれることはなく、(かなり見当違いなことはありますが)後者から生まれてきたように思いますので。
    *
 提案された論文は、第1章と第2章でやや二兎を追っているようであり、どちらかに絞り込んで深めた方がよいように思います。評論家である私としては、第1章は出来るだけ少なくし、その分第2章を工夫した方がよいと思います。第1章が中心となっているため、引用が多く、煩瑣で読みづらい印象もあります。たぶん第1章の問題は、渡部さん以外の他の研究者が出来そうな気もしますので。もちろん、あらかじめこうした問題を研究しておくことは大事です。

【俳句評論講座】テクストと鑑賞② 上野テクスト

【テクスト本文】
「乳房」と「おつぱい」への一考察 ―西東三鬼と松本てふこのひそやかさ―
               上野犀行(うえのさいごう)  田俳句会


 仮に、自分が俳句をやり始めの頃に戻ってみよう。俳句について何もわからず、どんな有名な句があるかも知らない状態である。勉強しなければと、本を漁り、芭蕉あたりからいろいろな句を読んでみたとしよう。すると、かなりの確率の人が、次の二句に突き当たるのではないだろうか。

  おそるべき君等の乳房夏来る  西東三鬼
  おつぱいを三百並べ卒業式   松本てふこ


 明らかに浮いた存在の二句である。花鳥草木についてのおそらくは格調の高い句が並んでいる中、「乳房」「おつぱい」という言葉が目に飛び込んでくる。そもそも俳句に、そのような語を使っていいのだろうかと、倫理的に思ったりする。作者の反逆的精神が込められた作品なのではと一瞬考えたりする。が、両句からは、何か奇抜なことを詠んでやろうという気負いは漂ってこない。ユーモラスでありつつ、どこか穏やかでしみじみとしている。ああ、こういうのが(あるいは、「こういうのも」)俳句と言うのだろうな、と思うはずである。
 別の角度から、このことを検証する。俳句史を追ってみると、戦前から始まる新興俳句という括りがあり、平畑静塔、秋元不死男とともに、三鬼の名を目にすることになる。その後、現代までたどり着くと、新撰21と呼ばれる世代があり、てふこという俳人を知ることになる。丁寧に俳句史を歩めば、二人の俳人を見落とすことはない。そして、てふこの「おつぱい」句を読むことで、もう一度「乳房」の三鬼を思い返すことになる。
 時を超えて、二人の俳人がひとつに重なる。この両句の不思議な魅力の本髄に迫るべく、鑑賞を進めていく。
 三鬼句は、句集『夜の桃』(昭和二三年刊)に所収。戦後間もない昭和二一年の作である。
 衣服から白い胸が見え隠れする。そこに、初夏の陽光が差し込む。女性のまばゆい笑顔までが見えてきそうだ。男はひとり、けしからんと呟く。何に対してか。放漫な身体に。その色香に自身で気づいているかいないかわからない女性に。それでいてちらちらと見せてくる行為に。そして、そういうことを許す社会に。しかし、男はその実、けしからんなどとは毛頭思っていない。決して表には出さず、ひそやかな悦びにひたる。多少の破廉恥さまでも受け入れる新しい時代を、「夏来る」という季語で以って、噛みしめているのである。
 五木寛之はこの句を「外国人女性のイメージを秘めたフィクショナルな発想がうかがえる」と評した。そして、例えばロシア女兵士の揺れうごく巨大な乳房のような、島国の乙女らのそれではないのではないか述べている。しかし、三鬼が覗き見た「乳房」が外国産であるか日本産であるかに関わらず、新しい季節そして時代の訪れを、すがすがしく安堵のうちに詠み上げたことには変わりない。
なお、三鬼自身はこの句を次のように自解している。
 薄いブラウスに盛り上がつた豊かな乳房は、見まいと思つても見ないで居られない。彼女らはそれを知つてゐて誇示する。彼女等は知らなくても万物の創造者が誇示せしめる。
てふこ句は、俳句アンソロジー集『俳コレ』(平成二二年刊)に所収。当時、若手俳人に活躍の場を与えることを企図した『新撰21』『超新撰21』とともに出版されたものである。
 女子高の卒業式であろう。ずらりと講堂に女生徒が並ぶ。同じ制服で、同じような静粛な顔をしている。その数、百五十人。ふと考えれば、ひとり当たり「おつぱい」が二つ。ゆえに「おつぱい」はトータル三百個だ。それぞれの生徒は、それぞれの「おつぱい」を持ちながら、新しい社会へ旅立つ。
 真剣に鑑賞すればするだけ、馬鹿馬鹿しくなり、思わず吹き出しそうになる。しかし、俳句とは本来、そういうものではないか。じっと見つめる、その結果、自分だけの視点で把握できたものを素直に描く。それが、笑わせようとは少しも思っていないのに、笑いを誘う。生真面目に詠まれたものを、生真面目に読んだときに、そういう幸運に預かることができる。
 同じような力強い表現を、村上春樹『ノルウェイの森』の一節にかつて味わったことがある。
 あの煙なんだかわかる?(中略)あれ生理ナプキンを焼いているのよ。(中略)みんなトイレの汚物入れにそういうの捨てるでしょ、女子高だから。それを用務員のおじいさんが集めてまわって焼却炉で焼くの。それがあの煙なの。(中略)うん、私も教室の窓からあの煙を見るたびにそう思ったわよ。凄いなあって。うちの学校は中学・高校あわせると千人近く女の子がいるでしょ。まあまだ始まっていない子もいるから九百人として、そのうちの五分の一が生理中として、だいたい百八十人よね。で、一日に百八十ぶんの生理ナプキンが汚物入れに捨てられるわけよね。(中略)そういうの集めてまわって焼くのってどういう気分のものなのかしら。
女性のバストを詠み上げた両句には、それぞれにそこはかとないおかしみがある。しかし、読後に受ける味わいには、どこかしら異なるものがある。
 三鬼句は、男性が男性の視点で詠んだものである。三鬼の「乳房」は、躍動的で柔らかで大きく弾けそうである。そのことに「君等」は自覚的であるのか、無自覚的であるのかわからない。どうであれ、この「乳房」は、既に何人かの男に愛でられたことがありそうである。表現はやや観念的であるが、一句は季語の力を媒介に、これからの時代の訪れを感じさせる。
 三鬼は、戦争直前に京大俳句事件で検挙され、しばらく句作を中断していた。その時の暮らしぶりは自伝的小説『神戸』『続神戸』に詳しい。金持ちにも貧乏人にも、日本人にも外国人にも、国籍不詳の人物にも、男にも女にも娼婦にも、すべての人に等しく分け隔てなく応対し、お節介であった。戦時の厳しい統制下においても、あくまでおおらかに人間らしく生きていた。そんな三鬼に平和の世が訪れ、誰に咎められるでもなく、自由に何でも表現できることの喜びが伝わってくる。
 一方のてふこ句は、女性が女性の視点で詠んでいる。てふこの「おつぱい」は即物的。おそらくは小ぶりで固めで、自己主張なるものは全くない。持ち主の女生徒がそれに自覚的か無自覚的かという分析は、無意味であろう。勝手にてふこが「おつぱい」に着目しているだけだからである。よってこの「おつぱい」にはまだドラマがなく、発展途上であり、男の手の感触は未だ知らないものと思われる。
 すべてに対し、てふこは一歩引き、他人事のように俯瞰している。百五十人が同じ服で同じ顔で畏まっているという事実。「卒業式」に季語性は薄く、別れも涙も感じさせない。管理教育の最終儀式という意味合いしかなさそうである。それでいて、教育というものに異議を唱えるわけでもない。ひたすらクールに、女性であるてふこは、女性の「おつぱい」のことを、誰に言うでもなくひとり感じ取っている。しかし、そういうことを考える自由が与えられていることが、今の時代でもある。
 終戦直後、現代と違える時代に生まれた両句は、「乳房」「おつぱい」という措辞を足掛かりに、奇跡的に読み手の頭の片隅に出逢うことができた。それぞれがそれぞれの時代性を反映しているため、受け取る印象は些か異なる。しかし、三鬼句にせよ、てふこ句にせよ、自由を希求する心持ちを原動力にしていることは、同じである。三鬼は希望に溢れる時代、てふこはしらけた時代の中で、おのおのが自分なりの生き抜き方を十七音に込め、詩として昇華させている。世の中への反発を意図する作品以上に、読み手がどんな時代に生きていようとも、力を以って訴えかけてくる。
 昨今、多様性、LGBTといった言葉がよく聞かれるようになった。近い将来、例えば、元男性の女性の「乳房」「おつぱい」を、男性の心を持った女性が詠むということがあるかもしれない。そういった作品に出逢えることを楽しみに待ちたく思う。いやらしいことをひそかに考えたいという気持ちは、罪深くも人間にとってごく自然なことだ。三鬼の「乳房」とてふこの「おつぱい」は、来るべき混沌の時代を迎えるにあたり、大きな示唆を与えてくれる。

〈参考文献〉
『現代俳句の世界9 西東三鬼集』(朝日文庫)
『西東三鬼の世界 俳句四季一月号増刊』(東京四季出版)
『神戸 続神戸 俳愚伝』西東三鬼著(講談社文芸文庫)
『新興俳句アンソロジー 何が新しかったのか』現代俳句協会青年部編(ふらんす堂)
『新撰21』筑紫磐井・対馬康子・高山れおな編(邑書林)
『超新撰21』筑紫磐井・対馬康子・高山れおな編(邑書林)
『俳コレ』週刊俳句編(邑書林)
『ノルウェイの森(上)』村上春樹著(講談社文庫)
『俳句の変革者たち 正岡子規から俳句甲子園まで』青木亮人著(NHK出版)
『いやらしさは美しさ』早川義夫著(アイノア)


【角谷昌子・鑑賞と批評】
 テーマが俳人ばかりでなく、一般読者の興味をひくところが手柄でしょうか。戦中の言論統制から解き放たれた当時の三鬼の解放感(京大俳句事件で投獄されています)や時代背景を盛り込めば、もっと立体的になるでしょう。ほかにも「乳房」「おっぱい」俳句は詠まれているので、三鬼とてふこだけでなく、例句として挙げてもよかったかと。「女性が女性」「男性が男性」の視点、との指摘は、ステレオタイプの一般論になってしまうので、一歩踏み出したかった。また鑑賞が、「感想」になりがちなので、文章表現に工夫を要すると思います。

【筑紫磐井・鑑賞と批評】
 「おっぱい」をテーマに、西東三鬼と松本てふこの句を比較することは、多くの人の興味を呼ぶ論となっており成功していると思います。
 ただ結論の部分で、西東三鬼は男の視点から、松本てふこは女の視点からと分析しているのはやや常識的な感じがしました。
 私の感じからすれば、このテーマが成功していると感じたのは、西東三鬼の句の背景には戦後のデカダンが、松本てふこの句の背景には現在の若い作家を囲む価値崩壊のようなものがあり、それが団塊の世代の高度成長社会や五五年体制などを飛び越えて結びつくような気がしたからです。西東三鬼は松本てふこであると言うことが出来るような気がしました。
 その意味では、西東三鬼の周辺として坂口安吾の世界を配してみると面白いと思います。松本てふこは、ご承知の通り、「おっぱい」の句は「俳句って楽しい」という「童子」の中の句として作られてはいるのでしょうが、注目を受けたのは「俳コレ」の中で「不健全図書」という特別作品であり、松本が勤めているボーイズラブ系のコミック雑誌の編集者として、しょっちゅう(青少年教育を担当する)東京都から呼び出しを受けて厳重注意されていた中でできたと言うことが知られています。もちろんこうしたことに触れる必要はありませんが、男の視点・女の視点よりははるかに面白い話題が彼らの周辺にはあふれており、すこし残念な気がするのです。
 なお余計なことになりますが、私は全く問題ないと思いますが、受賞などを狙うときは「おっぱい」に絞る話題は一部の審査委員の顰蹙を買うかもしれません。この論が狙っているのが、私の推測したように飛び離れた二つの時代の共通性を示すのであれば、「おっぱい」以外の話題も入れて受賞しやすくした方がいいかもしれません。

【俳句評論講座】テクストと鑑賞③ 平野テクスト

【テクスト本文】
  小論「きれいすぎるひと」
             平野山斗士 「田」所属 


 丸谷才一が森澄雄と談じて、水原秋櫻子はきれいすぎる、と発言したことがある。
丸谷 秋櫻子は大変に日本画的な句というものを求めたけれども、ぼくは率直に言って秋櫻子の句はきれいすぎて好きじゃない。それを楸邨さんは捨てたでしょう。ところが森さんで秋櫻子的と言っていいかもしれない日本画的大和絵の美がよみがえってきた。それでいて秋櫻子とは違う、もっと景色に奥行があって、もっとデッサンが確かな感じになった、と思うんです。つまり楸邨を媒介として秋櫻子を学んだという感じ……そのせいで非常によかったんじゃないかなあ、と思うんです。[※註1]
小林一茶はあけっぴろげすぎる、相生垣瓜人はおもしろすぎる、中村苑子はあやしすぎる、そうした程度の大雑把な通念で云って良いものなら、水原秋櫻子は《きれいすぎる》。なるほど、さしたる異論はない。たとえば雑誌『國文學』昭和56年2月号の特集「俳句に何を求めるか」にて、福永耕二が秋櫻子を論じているがその標題は「あくなき美の探求者」となっている[※註2]。丸谷才一説では、秋櫻子的なるものを放棄したのが楸邨俳句であり彫琢したのが澄雄俳句であるという、それも一つの論点たり得るが今は、《きれいすぎる》にだけ着目する。

  来しかたや馬酔木咲く野の日のひかり 秋櫻子『葛飾』
  風雲の秩父の柿は皆尖る       〃  『新樹』
  壺にして深山の朴の花ひらく     〃  『秋苑』
  遅日光御手たをやかにうけたまふ   〃  『岩礁』
  瑠璃沼に瀧落ちきたり瑠璃となる   〃  『蘆刈』
  苔あをし更に影置く若楓       〃  『古鏡』
  鮎の瀬のかがやき落ちて峡を出づ   〃  『磐梯』
  あめつちのうららや赤絵窯をいづ   〃  『重陽』
  福寿草墨架に墨を匂はしむ      〃  『梅下抄』
  伊豆の海や紅梅の上に波ながれ    〃  『霜林』
  麦秋の中なるが悲し聖廃墟      〃  『残鐘』
  瀧落ちて群青世界とどろけり     〃  『帰心』
  菓子買ひに妻をいざなふ地虫の夜   〃  『玄魚』
  好晴の九品浄土も菊に満つ      〃  『蓬壺』
  樟若葉鳴門つづきに潮蒼し      〃  『旅愁』
  山肌の代馬足掻く雪解風       〃  『晩華』
  酔芙蓉白雨たばしる中に酔ふ     〃  『殉教』
  牧閉ぢて紫こぼす山葡萄       〃  『緑雲』
  羽子板や子はまぼろしのすみだ川   〃  『餘生』
  塩鮭の塩きびしきを好みけり     〃  『蘆雁』
  紫陽花や水辺の夕餉早きかな     〃  『うたげ』(『蘆雁』以後)


 遺句集も数え入れれば秋櫻子には第二十一句集まで、ある。概ねよく知られていると思われる句を、おのおのから一句だけ、抽いた。このような句に、どこか不満を感ずるとすればそれは、いったい何を期待してのことか。秋櫻子俳句は美しい。このような美しさを獲得するために、何かが犠牲になっているのだろうか。
 作家個人の、特色とか体質とか呼ばれるものを海老か海鼠か何かみたいに俎に乗せて捌くことは、気が進まない。個人は唯一無二だから。いま強引に人間を関数 f(x) に見立てるとして、客観的に知ることができるのは、その入力ならびに出力だけである。内部にいかなるアルゴリズムが動作しているのか知らない。よしんば知り得たところで、その知識を他の個人へ応用するのは、無意味であるに留まらずいっそ非礼である。たとえば同じ一冊の書物を読んでもどの箇所が栄養になりどの箇所が毒になるか判ったものではない、と考えれば、入力さえもが個人の奥床しい神秘に属する。出力だけを、作品なり言動なりを、検討するほかないらしい。早い話が、人間の言語は、命ある人間を捉えることができない。人間は未来予知の能力を持たないから。すると、屍骸だけが正当に論ずるに値する。観念遊戯なら幾らでもできると云い、せいぜい歴史の後知恵をやるしかないと云う。情報化とは切断である。命を切ったらその部分は死ぬ。藝術作品とは洟水のようである。生体からぽんと飛び出し切り離されて初めて、それは研究対象として成立する。こんな人だからこんな作品を創った――そういう論法は、酒の肴にはなり得ても、対象への認識を練る目的のためには邪魔になりがちである。逆さにして、こんな作品を創った人だからこんな人だ――そのほうがまだしも、人の印象というあの朦朧としたものが醸成される実情に、即した云い方ではあるけれども、それだと、作品論のはずがいつの間にか浮世の噂話になっている。藝術への興味と、人格への興味とを、混同してはいけない。そう考えておいてから、酒肴みたいなものに終るかもしれないが無味乾燥よりはまだしも、と思い定めて、秋櫻子を眺めてみることにする。「こんな人だから論法」を以て、つまり人格面において。
 秋櫻子当人の述作に就く。この作家が、好悪の感情を示したと見られる箇所を拾おう。先ず『高浜虚子 並びに周囲の作者達』より。
「どうも俺は雑詠句評をあのままにしておいてはいけないと思うね」「どうしてさ」「あれでは考えていることが何も言えないじゃあないか。もっと自由にものの言えるようにすることが第一、それからメンバーも厳選して、やたらな人を入れては駄目だ」「なるほど君の嫌いそうな人物はいるよ。しかし君が大を成すためには清濁併せ呑まなくてはね」「いや、濁を呑むくらいなら、僕は大を成す必要はない」 素十は突然大声で笑い出した。私はあっけにとられたが、どういう意味かわからなかった。「そう来るだろうと思っていたところへ、そう来たから可笑しかったんだ。実はこのあいだね、親仁さんとその話をした。すると親仁さんが、秋櫻子君は人を好ききらいしすぎる。もっと清濁併せ呑むようにならないと大を成せませんよ、と言うんだ。俺はそういったよ。秋櫻子にその通りいえば、濁を呑んでまで大を成す必要はないと怒るに極まっているってね」 私も笑い出さずにはいられなかった。そうして編集改革論はその時はそのままになった。[※註3]
この『高浜虚子』は小説ということに建前としては、なっていると聞く。遠い過去のはずの会話を臨場的に叙している点からも、そう見るべきだろう。実名小説というものは扱いに難渋してしまう。それは著者の誠実を疑うのとは別の話である。司馬遼太郎の小説を、歴史そのままと信じ込んで、よいだろうか。よくないのだがしかし、歴史学者の論文を信じるのと、物語を信じるのと、心理的に違いがないのである。ただ、この際に信じていいのは、秋櫻子がこの会話を書き綴ったというそのこと自体である。秋櫻子は、清濁併せ呑みはしない人物として自身を定位している。「もっと自由にものの言えるように」「やたらな人を入れては駄目」という。忖度合戦だの情実人事だのに引き摺られてはいかんし、藝術の場である以上は唐変木はお断りだ。そういった底意が感じ取れる。そのような非゠政治的な態度を称して、メリトクラシーと呼べるが、そうなるとまさに、そんなんじゃあ大を成せねえぞとの指摘は肯綮に中っている。定義上、卓越者とは少数者のことなのだから。そうしてすぐに思い当る、おかしいな、秋櫻子は「馬酔木」という結社をこれ以上ないほど大きく築き上げたんだよな。虚子の通俗的な訓戒が誤っていたと見るのでもなく、じつは秋櫻子が清濁こっそり併せ呑んでいたと見るのでもなく、ここは軽薄に、人界の七不思議とでも考えておいて差支えないだろう。べつに、結社運営の成功の秘訣を秋櫻子から引出したいわけではない。秋櫻子俳句の、秘密の一端でも摑めれば満足すべく、人格の面から撫で廻そうとしている。メリトクラシー、実力本位、精鋭主義――という風にパラフレーズしてゆけば、《きれいすぎる》の消息に幾らか触れるような思いがする。
 次に『俳句今昔談』より。清濁併せ呑むの一件よりもさらに遡る。
 私がはじめて手ほどきを受けたのは、友達のやっていた小人数の句会で、それが「渋柿」系統のものであったため、一年半ほどのあいだ「渋柿」末流中の末流の作者として暮らしました。この「渋柿」派にはなかなか名作者が多かったもので、稽古もすこぶるきびしかった。それはよろしいのですが、どうも「俳禅一致」というような考えを主宰の東洋城先生が持っておられましてね、それに私は随いて行けない感じなのでした。  壁の中の隣の国や秋の声 誰の句か忘れましたし、或いは少し間違っているかとも思いますが、とにかくこの六十年ちかくも前の句を憶えているのですから、困惑が骨身にしみているのでしょう。これが範とすべき句と教えられても、素直に感心するわけにはいかないのです。無論意味はわかりますよ。[※註4]
  ここでも好悪は、はっきりしている。頭ごなしが厭なのである。徒弟制度のような状況を嫌う、権力関係を忌避する。こうしてみると秋櫻子は、あの近代的自我と呼ばれるものの持主である。「渋柿」「ホトトギス」を前゠近代的なギルドとすれば、いっぽうの「馬酔木」は個人参加のクラブといったところか。若い才能を集め得たのも尤もである。高野素十は、虚子のことを「親仁さん」と呼んでいた。ほとんどヤクザの口振りである。古き良き任侠映画の世界か、はたまた永田町界隈の呼吸か。そうは云っても、その後の「ホトトギス」とて川端茅舎、芝不器男、皆吉爽雨、野見山朱鳥など次世代の俊英を輩出して行ったわけだから、一概に、頭ごなしは近代人を潰す、とは云えたものでない。畢竟これは、個個の素質の如何によるのだろう、と常識的すぎる話に帰着する。そも教育とは、果して人類に可能なことなのだろうか、本当に? この世に現に生じている事態とは、天性備えたものが花開いたり開かなかったりするだけのことではないのか。鳶が鷹を産む。人間形成において、教育に比べたら、天気とか食事とか暇な時間とかのほうが遙かに重大な要因である、と見て然るべきだとは云えないか。どんなに良質らしい教育を授けるにしても、それ以前に、良質な蛋白源が与えられなければ脳そのものが発達しない。人を育てるとは、選択肢を用意することだ、身体的・心理的安全を担保しつつ。それ以上でも以下でもないのだろう、と仮に考えておく。東洋城門において、次いで虚子門において、秋櫻子は学び且つ反発した。いわば、ひとりでに育った。孤立してという意味ではむろんない。そうして、もしも秋櫻子なかりせば、「馬酔木」も生れず新興俳句運動も興らず俳壇即ホトトギス状態のまま時代遅れになって、ついに俳句まるごと没落することに、なったのか。存外そうとも思われない。単に、別の時代様相を呈しただろうというまでである。それは、秋櫻子のおかげで現状がある、と述べるのと同じ意味になる。ここにおいて、秋櫻子という偉人がいてくれて良かったと云う、その、良さとは何のことか、何のために。俳句というこの世界に比類なき文化のために、という類の返事では答えとして弱い。俳句など滅びても一向構わんと考える文化人は存在し得る。少なくとも、戦争に敗れたらその主張は実際に大真面目に現れた。
 秋櫻子的なるもの、《きれいすぎる》的なるものは、歴史上どう見えるか。当人でない人物の述べるところも傾聴しよう。神田秀夫に訊ねる。
 碧梧桐が自然主義に足をとられて到り得なかった印象派の段階にはじめて達したものは秋櫻子である。自然主義になやまされない時代に出て来た彼は、やがて、その表現世界をソリッドなものにしようとして、反って遡ってパルナッシヤンとなって行った唯美主義の作者である。性生活の結果ばかりを持ちこまれる産婦人科の水原豊博士は、本業から来る反作用で、風景と古藝術を愛する俳人となったものと思う。[※註5]
「本業から来る反作用」か。いくぶんゴシップ的、週刊誌的な気配のする見方だが、そのような視座を指摘されてみれば、さもあらん。頷けるものはある。「自然主義になやまされない」「ソリッドなものにしようとして」も読み逃せない。ここでの自然主義とは、田山花袋の蒲団的なる、島崎藤村の新生的なるものの謂だろう。人間の恥部を殊更に曝く作品こそ正しい藝術とされた時代があった。まこと、時代風潮とは侮り難い。時代によって、妻を殴ってもよかったり、道に煙草の殻を投げ棄ててもよかったり、タートルネック姿で記者発表に臨んでもよかったり、インスタグラムで幼児の顔を晒してもよかったり、年賀状を送らなくてもよかったり、公文書を改竄してもよかったり、するからである。進歩史観も下降史観もどちらも胡乱であって、だから、当世における主流だの傍流だのを気に病むには及ばん。と、そのくらい口先で云うだけは云えるが、しかし、自然主義に悩まされなくて済んだとしても、客観写生に悩まされることがあり得る。秋櫻子が、幸いにも相応しい時代に生れ落ちたのではない。時代に相応しい形で発展した個人の一人が、秋櫻子という固有名をたまたま持っていた。ソリッドとは、神田秀夫としてはどのような機微を込めての表現なのだか曖昧だが察するに、方法の錬成、美意識の陶冶、能う限りは完璧を目指す構え。そうした類のことだろう。ならばソリッドに非ざる俳句とはどんなものかと思ってみると、それは、出るに任せてどしどし多作してゆく型の俳句。なるほど秋櫻子には、無造作に投げっぱなしたような味の句は僅少と見える。元来が、推敲に推敲を重ねてようやく一句を定めるという意識は、秋櫻子・誓子・草田男あたりの世代にして初めて根付いたものではなかったか。ときに秋櫻子は、題詠ということに否定的である。
 近頃の俳句では、題詠の影が非常にうすれて来た。題詠はおおむね空想作を産むが、その空想作が迫力にとぼしく、今日の作者には満足しがたいということになったのである。これは大きな進歩の一つであるが、それでも俳壇の一部にはまだまだ題詠が行われている。[※註6]
こういった面がまた、ソリッドなわけだろう。西暦二〇二〇年代には何気なく受取れることも、当時において、どうだったか。題詠は駄目などとは何とまあ狭い了見だ、くらいに「ホトトギス」派のほうでは反応したかもしれない。それに、『葛飾』に収められた例のご自慢の連作「筑波山縁起」、あれこそ紛うことなき空想作じゃないかと、半畳を入れる余地は、ある。そうしたらパルナシアン秋櫻子は、まさにそのような論難を問題にしているのだ、それこそが客観写生なる呪文に縛られた思い込みから生じることなのだ、と駁するのかしらん。
 ゴシップ的なる素材を、序でのことにもう一つ挙げる。世にあまり知られない、そこそこ珍らかな資料のように管見では思える。これは、内容自体は佐野まもる論なのだが、秋櫻子についての証言が含まれていて次の通り。「馬酔木」一〇〇〇号記念号に掲載されているものである。筆者は石原義輝。
 以後、まもるは「馬酔木」に章は「天の川」へと傾斜してゆくが、これを決定づけたのは、例の、秋櫻子からまもるに宛てた一通の書簡であった。この書簡は、戦火を搔い潜ってまもるが死ぬまで桐の箱に仕舞っていた。桑原志朗に見せると「彼は、必ず持って帰るので見せない」と笑っていた。毛筆で巻紙に認められていた。コピーにして保存しておきたい気持は一杯であったが言い出せなかった。まもる亡き後、まもるを理解しない相続人が、この貴重な資料を一夜にして灰塵にしてしまったのが残念である。秋櫻子が寄せた手紙の内容というのは――私の記憶で心許無いが、
 「ホトトギスの中心に醜い事件が持ち上がっていて、到底浄化の見込はないと思うし、又、そんな下等な連中と一緒にいるより、気持の合った若い人と共に事をする方が愉快だと思って雑詠にも投句せぬし、一切の会にも出ぬことにしました」「この事件は東京では知られていますが、やがて地方へも知れてしまうでしょう。正義の道を歩むは愉快、どんなことがあってもあの汚いホトトギスへ二度と引き返すものかと決心しています」
 という甚だ興味深いものであった。生涯を通したまもるの秋櫻子一辺倒は、この手紙の、とりわけ「気持の合った若い人と共に事をするのが愉快」という一語に尽きると思う。[※註7]
記憶のみで述べるとあって話の形式としては頼りないが、話の内容としては烈しい。証拠物件は灰塵に帰したと云われては仕方ない、事の真相の如何は措くとして、秋櫻子の面目躍如たるを失わない一挿話である。なお、あの小説『高浜虚子』のうちには、本件に関わりあるらしい記述は見当らない。
 以上にて、話はどこへ逢着するか。
 水原秋櫻子は《きれいすぎる》人格なり。そう認識し得るか、どうか、である。《きれいすぎる》の《すぎる》を肯うか否か。これは秋櫻子俳句そのものの把握とは、ひとまず別の、小論である。藝術作品と人格とを、安易に結び付けたくはない、と再び申し添える。ここで急に、そもそも俳句は藝術ではないという立場への理解を示そうとすれば、いっぺんに話はすっ飛んで、石田波郷の片言や平畑静塔の説がちらちらする。
    *
引用一覧
註1 森澄雄/『俳句と遊行』/富士見書房/226頁
註2 福永耕二/「水原秋櫻子 あくなき美の探求者」/『國文學 解釈と教材の研究』昭和56年2月号「現代俳句の作家、その句と論と」/學燈社/96頁
註3 水原秋櫻子/「高浜虚子 並びに周囲の作者達」/『水原秋櫻子全集』第19巻/講談社/138頁
註4 水原秋櫻子/「俳句今昔談」/『水原秋櫻子全集』第19巻/講談社/359頁
註5 神田秀夫/「現代俳句小史」/『現代日本文学全集・現代俳句集』/筑摩書房/433頁
註6 水原秋櫻子/「生活俳句の作り方」抄 序/『水原秋櫻子全集』第15巻/119頁
註7 石原義輝/「佐野まもる覚え書」/『馬酔木』平成19年6月号・1000号記念号/馬酔木発行所/146頁


【角谷昌子・鑑賞と批評】
 文章力が高くて引き込まれますが、著者の主観が強いので、そこで引いてしまう読者があるかもしれません。
 著者の考えていることが濃厚に表れているので、その存在が強く印象づけられるという良さがある反面、かえって論考の客観性の乏しさを見出される可能性もあるでしょうか。
 秋櫻子の「きれい寂び」との山本健吉のコメントは俳壇に広がりましたが、「きれい」をテーマとして人物評価と作品との関連性を論じるのは、評論ではなく、随筆になってしまいそうですね。
 筑紫さんが指摘されるように、当人の発言録や執筆した文章を参考とするとき、要注意です。当人の記憶違いや、虚偽の部分があり(思いこんでいたりも含めて)、なかなか真偽を見極めるのはたいへんです。

【筑紫磐井・鑑賞と批評】
 これもなかなか書きなれた論であると思いました。それが評論としていい内容であるかどうかは別として、筆者が言いたいことが文体によくあっていると思います。つまり心情はよく伝わると言うことで、文芸評論としては大事なことです。問題はテーマです。
 秋櫻子の綺麗すぎる俳句を、人格にさかのぼると言う論法を取っていますが、やや、評論として成り立つのか不安なところがありました。自身が言われているように酒の肴になりかねない不安があるからです。全体がまだ未完だと思いますのでこれからいろいろ追加されるでしょうが、気になったところを上げます。

①回顧録を使うとき注意が必要なのは、本人が嘘をついていることです。それは悪意と善意であって、悪意は見え透いているから検証しやすいですが、善意の嘘が一番困るでしょう。自分の過去の事なのでそういうものだと思い込んでいることです。金子兜太などにはよくありました。秋櫻子の『高浜虚子』が事実でないことは本井英なども声高に叫んでいますし、筆者自身書かれているように「小説」に過ぎないでしょうが、そこから筆者の思想や真実を引き出すにはいろいろな技法が必要だと思います。そのプロセスが分かればよほど面白いと思います。

②論文では秋櫻子の俳句と彼の心情・思想を結びつけていますが、実は秋櫻子の俳句は時代そのものを作っている可能性があることです。それは反ホトトギスという判官びいきもあったかもしれませんが、ホトトギスから生みえなかった文学的雰囲気が生まれたことも考えに入れるべきでしょう。新興俳句の祖のように言われている高屋窓秋の話を聞く機会があり、窓秋が影響を受けた作家を問われたとき、窓秋が少し小首をかしげて「秋櫻子先生ですね」と言っていたのを聞いて感動しました。リアルタイムで、秋櫻子が何を成し遂げたかがうっすらと分かったような気がしたからです。
 何がいいたいかと言えば、神田秀夫や(角谷さんが講座の時に上げた)飯島晴子の秋櫻子批判が秋櫻子に直接向けたものか、秋櫻子が作り上げた時代に対するものかは考慮が必要だと思います。新しい俳句はそのほとんどが、子規の新俳句→碧梧洞の新傾向俳句→秋櫻子らの前期新興俳句→後期新興俳句→人間探求派→社会性俳句→前衛俳句のように親殺しの系譜が働くと言ってよいと思うからです。

 かなり私の独断的史観でご批判があるかもしれませんが、このテーマでの深堀りを進めて頂きたいと思います。

【新連載・俳句の新展開】句誌句会新時代(その一)・ネットプリント折本  千寿関屋

◆はじめに
 巷ではソーシャルネットワーキングサービス(SNS)が盛んである。SNSというジャンルにはいくつかのサービスが存在するが、その一つであるツイッターは二八〇文字(日本語は一四〇文字)の字数制限はあるもののその範囲内であれば自由に文章を投稿できる場を提供するサービスであり、俳句などの短詩を“発表する”場として最適だと私は感じている。ちなみにツイッターに投稿することを“呟く”と、投稿を“呟き”と言うらしい。
 私がツイッターを利用して俳句を呟き始めたのは東日本大震災の起きた二〇一一年だからざっと九年ほども前のことで、当時、ツイッターの世界に投句を批評してくださる方をお見かけしたのがきっかけである。そもそもツイッターを始めた当初は巨人戦のことばかり呟いていたが、俳句に興味を持ち我流で詠んだ句を呟くことが増え、今では呟きのほとんどが俳句関連である。九年前には俳句にどっぷりつかっている自分など想像すらすることはなかった。人生はかくも面白い。

 そんな私がツイッターやインターネットを使ってどのように俳句を楽しんでいるのか、こちらの貴重な紙面をお借りして紹介できることとなりましたので、そのご厚意に感謝しつつ気の向くままに述べさせていただきます。

◆ツイッターで句会を興行する
 私はツイッターで”日曜句会”を興行しています。毎週日曜夜の開催を基本とし、すでに一四〇回を超え、三年目を終えようとしています。最初のころには思うように集まらなかった参加者、作品ですが、最近は二〇名前後の参加者から四〇数句の投句が寄せられています。直近(二月二日開催)では五二句を三十名の方々から頂き、驚くとともにたいへん嬉しく思いました。
 句会の“おまけ”というわけではありませんが、作品を集めた句集を開催日のうちに作成し頒布しています。句会の参加者や読者の皆さんにこの句集を手に取り喜んでいただけることが最近の私の楽しみとなっています。
 では、日曜句会を例にツイッターでの句会の興行と句集について紹介します。文章だけでの紹介となり、伝わりにくいかもしれませんが大目に見ていただきたくお願いします。

・興行の告知
 まず句会の開催について告知します。開催時間や投句方法など、ツイッター利用者の興味を引き、参加を募ります。ちなみに日曜句会は毎週日曜(連休の場合には連休最終日)の夜、七時から十時まで開催しています。
・興行
 告知をご覧いただいたツイッター利用者がそれぞれの作品を呟くことで投句完了です。
 投句の際に、通常の呟きとは異なること、句会への【投句】であることを明示するためにツイッターの世界でタグと呼ばれるキーワードを作品の脇に書き添えてもらいます。ツイッターではタグを用いて呟きを検索出来ます。句会の参加者や読者はこの機能を利用して句会に投句された作品だけをスマホやパソコンの画面上に表示し、あたかも句集を読むように作品を鑑賞することができます。

◆句集を手に取っていただく
 日曜句会では当初から寄せられた作品を集めて句集にし頒布しています。その方法、それにはコンビニエンスストア各社が提供している”コンビニの複合機で提供するサービス(サービス名称はコンビニ各社で異なる)”を利用して実現します。以下、このサービスを「ネットプリント」とします。
 そもそもネットプリントとは「家のプリンタのようにコンビニのプリンタを使える」サービスです。ですが、インターネットで提供されるサービスならではの利用方法によりどこの誰にでも最寄りのコンビニのプリンタで日曜句会の句集を印刷し入手することが出来るのです。その流れを紹介します。

・句集の作成
 句会に投句された作品をタグで検索し句集の原稿ネタとして使います。
 ネットプリントに登録できる文書はPDF形式で保存された電子ファイルです(ワードファイルなどのPDF形式以外のファイルに対応しているコンビニもあります)。
・句集の構成
 句集はA3またはA4サイズ一枚に印刷されますが、これにほんの少しの手間をかけて工作することで表紙・裏表紙各一頁、作品掲載六頁構成、一頁あたり七句から十句程度を掲載するミニミニ句集に仕立てあがります。

 工作方法は一般的にも知られており、福音館書店の“工作図鑑(作って遊ぼう!伝承創作おもちゃ)”には“ミニミニ絵本(作り方のやさしさ:小学3年生を基準にしてやさしいⒶ)”として紹介されています。私のブログ(*1)でも写真入りで詳しく解説しています。
  (*1) https://sportypoppa.at.webry.info/201804/article_1.html

・句集の登録
 作成した句集(電子ファイル)をネットプリントへ登録すると、コンビニでプリントする際に必要な予約番号が発行されます(コンビニによってはユーザーIDを予約番号として使用するサービスもあります)。
・句集の頒布
 ネットプリントに登録した際に発行された予約番号をツイッターで呟きます。句会の参加者・読者はそれぞれ最寄りのコンビニでネットプリントを利用し、プリンタを使って句集をプリントし手に取ることができます。自分の作品を掲載した句集を手に取って眺めることが現実のものとなります。ちなみにプリント料金は一枚(A3サイズ・モノクロ印刷)につき二〇円です。

 これまで多くの方から句集に対する反響を受け取りました。皆さん、たいへん喜んでおられ、私もそれを嬉しく思っています。

◆おわりに
 さて、私の「俳句の楽しみ方」として、ツイッターでの句会興行から句集の頒布、句集の工作方法について紹介しました。日曜句会の句集を工作してみよう、となれば最高です。
 次回は「筆記しない句会《夏雲システムの破壊力》」を紹介する予定です。

寒極光・虜囚の詠~シベリア抑留体験者の俳句を読む~㉙ のどか  

第4章 満州開拓と引揚げの俳句を読む
Ⅶ 井筒紀久枝さんの『大陸の花嫁』を読む(3)

*の箇所は、主に、(『大陸の花嫁』井筒紀久枝著 岩波現代文庫 2004 1.16)を参考にした筆者文。

【チチハル収容所11句から】
 凄惨で過酷な敗戦後の出来事に追われた、興亜開拓団に祖国へ帰る道筋を
示してくれる出会いがあった。そのことを『大陸の花嫁』P.65から引用する。
福岡県、大分県出身者で出来ていた興隆開拓団は、興亜よりも大きな団で男の人も大分残っていた。そして、九州男児の威力は、現地住民の奇襲を寄せつけなかった。しかし、公然と入ってくるソ連兵や中国兵には抵抗できず、略奪されるままだったのだから、食糧や物資が残っているはずはなかった。それなのに山本団長は、私たち興亜の生存者を受け入れてくださったのであった。(『大陸の花嫁』井筒紀久枝著 岩波現代文庫 2004 1.16)
悴む子抱き温めゐて飢えきざす
*満州の冬は、マイナス30度にもなるという。チチハルよりも200㎞も奥地である。悴んだ子を抱きしめ布団代わりの麻袋に丸まる。寒さと恐怖でまんじりともしない温まらぬ体を追い打ちするように、飢が襲う。
   
 つのる吹雪子の息ときどき確かむる
*極寒と栄養失調により子どもも大人も次々に死んでいった。
  吹雪で隙間風に雪まで吹き込んでくる夜には、栄養失調で弱り切った娘の息を確かめる。夜明けまで、娘の息の温もりを感じては何度も安堵するのである。

 このころの苦境について、『大陸の花嫁』のP.71にはこう書かれている。
 私は毎日、子どもを預けて作業に出ていたが、「よく泣く子だ」と嫌がられ始めた。私の留守の間に殺されては、と思った私は、一つぽつんと離れた藁で囲んだだけの風呂場へ、清美を押し込んで作業に出た。作業を終えて急いで行ってみると、入り口に吊るしてある筵にしがみついて眠っていた。その顔には、涙の乾いたあとが残っていた。疳にはお灸が効くと言われるまま、泣く子を押さえつけて、お灸もすえた。
 誰からも愛されずに育った私は、わが子は愛おしみ育てようと思いながら、きつい折檻をしているのだった。(『大陸の花嫁』井筒紀久枝著 岩波現代文庫 2004 1.16)
 誰からも愛されずに育った私は、わが子は愛おしみ育てようと思いながら、きつい折檻をしているのだった。(『大陸の花嫁』井筒紀久枝著 岩波現代文庫 2004 1.16)
オンドルのしんしん冷えて生きてをり
*オンドル(朝鮮の暖房設備)の火を絶やさぬように焚くだけの、羊草(やんそう)は無く、一晩で焚ける量は決まっていたのだろう。オンドルの竈の火も消えると床はしんしんと冷えて、とろとろと眠りかけたと思うと目が覚める。目が覚めることで自分が生きていることを改めて知るのである。

 厳冬期も終わりを告げ、1946(昭和21)年の春のことについて、P.72‐73にはこう書かれている。
 春になったらチチハルへ出よう。みんなの願いだった。一人の犠牲者も落伍者も出ないようにという団長の意図から、足の鍛錬が始められた。壕の内回りを4周すると、1里だということだった。夕方の点呼が終わると寝具(麻袋)を負い、ある程度の食料も持たなければならないということで煉瓦を一つ、腰に結わえて、今日は6周、明日は8周と、女と子どもが歩いた。近郷の現地住民は、壕を乗り越え土塁の上に顔を並べて、この異様な光景を嘲笑しながら見物していた。 5月13日朝、私たちは興隆開拓団をあとにした。病人には、みんなの金を出し合って大車(ダーチョ:馬車)を雇った。早く日本へ帰りたい、すこしでも故国へ近づきたい一心だった。(『大陸の花嫁』井筒紀久枝著 岩波現代文庫 2004.1.16)
こうして、井筒さんたち開拓団員は、200キロあまりを4日足らずで歩き一人の落伍者もなく、チチハルへ着いた。チチハルに着いたら、すぐにでも帰国できるものと思っていた。1946(昭和21)年5月に引揚げは始まったが、収容所には引揚げを待つ人が溢れ、順番が来るまでは、自分で生きなければならなかった。
 満蒙開拓団や満州に居住する邦人にたいする擁護や引揚げについての支援は、どのようになされたのだろうか。当時の国の判断が『引揚げ援護三十年の歩み』厚生省P.80第二節海外同胞の引揚げ」に以下のように記されている。
 外務省は在外公館あて昭和20年8月14日(ポツダム宣言受託日)付の「三か国宣言受託に関する訓電」をもって在外機関に対し、居留民はできる限り現地に定着せしめる方針を執るとともに、現地での居留民の生命、財産の保護については万全の措置を講ずるよう具体的施策を指示した。 (『引揚げ援護三十年の歩み』厚生省)※三か国宣言とは、イギリス首相、アメリカ合衆国大統領、中華人民共和国主席の名において日本に発せられたポツダム宣言のこと。
上記のように、日本政府外務省は満州へ居留民の定着を指示しているが、終戦に伴って発生した現地の混乱によって生活手段を喪失し、残留することがきわめめて危険、不安な状況になったことを理由に、その後引揚げ対策に転じる。しかし占領軍の日本進駐に伴い、引揚げは占領政策の一環として、GHQの管理下に行われることとなりそのことについては、以下のとおりである。
 アメリカと中国の話し合いにより日本人の引揚げが始まったのは終戦の翌年1946(昭和21)年5月。中国の葫芦島という島から日本の佐世保や長崎へピストン輸送がおこなわれました。(『満蒙開拓平和祈念館』満蒙開拓平和祈念館発行P.32)
 無造作に屍体(したい)が積まれては凍り
*終戦から約10か月を経て、やっと引揚げが開始される。
 戦後の過酷な混乱の中、満州に残された多くの婦人や子どもたちは、真冬はマイナス30度になる大陸に難民生活を送ることになる。
 『大陸の花嫁』の手記P.78には、以下のように書かれている。
 火種をくれた人が焚きながら倒れたと思うと、死んでいた。そばで寝ている人の呻き声が静かになったかと思うと、死んでいた。死人からシラミが移動し、ノミが跳び交い、人はやせ衰えて死に、シラミとノミが丸々と太りうようよ殖えていった。(『大陸の花嫁』井筒紀久枝著 岩波書店 2004.1.16)
その過酷さを知る手がかりとして、『祖国よ「中国残留婦人」の半世紀』小川津根子著P.151に、以下のように記されている。
 長い収容所生活では、死者が続出するのは当然と言える。しいて病名をつければ、多くの開拓史が書いているように、栄養失調、衰弱、下痢、赤痢、風邪、肺炎であり、また、「髪が白くなるほどだった」というシラミのせいで猛威をふるった発疹チフスなどであった。(『祖国よ「中国残留婦人」の半世紀』小川津根子著 岩波新書 1995.4.20)
また、その死者の多さは、以下のようであったという。
 ソ連侵攻時に開拓団に残っていたのは22万3千人でそのうち約8万人が亡くなり、うち7万人は病死であり-(略)と『満蒙開拓平和記念館』満蒙開拓平和記念館発行P.27に記されている。 
召集で、子どもを産んだばかりの女と妊娠中の女、乳児・幼児や高齢者ばかりとなった開拓団は、ソ連兵や地元民からの略奪や強姦に会い、泣く子は襲撃される原因になるからと殺される(自ら殺さなければならなかった)、僅かな食料と交換に中国人に売られた子どもたち(中国残留孤児)、出産を控え困り果てて、地元の中国人と結婚した婦人たち(中国残留婦人)、開拓団の生き残りをかけて、人身御供としてソ連兵に差し出された岐阜県黒川開拓団の娘たちの例など、一人一人に辛く悲しい引揚げ体験があったのだ。
 ほとんどの人が、敗戦と満州からの引揚げについて思い出したくない、語りたくない、語れないということは仕方のないことである。
 このような戦後の過酷な運命にあった満蒙開拓団の人々であるが、満州に先住した中国人をこのような行動に駆り立てた一面として、国策としての「満州農業移民20ヶ年百万戸送出計画」で、低価格で中国の農民の土地を買い上げ、移民団の小作人として雇い差別的な対応をしたことから、地元の人々の反発を買った点もあり、かつての加害者と被害者は入れ替わり、戦後の混乱を深めたのである。
(つづく)

参考文献
『大陸の花嫁』井筒紀久枝著 岩波書店 2004.1.16
『生かされて生き万緑の中に老ゆ』井筒紀久枝著 生涯学習研究社 1993年
『満蒙開拓平和祈念館』満蒙開拓平和祈念館作成資料
『祖国よ「中国残留婦人」の半世紀』小川津根子著 岩波新書1995年4月20日
「ソ連兵に性接待 帰国後はいわれなき差別 満蒙開拓団の女性たちが語り始めた悲劇」2019.3.13 http://times.abema.tv>posts

英国Haiku便り(5) 小野裕三


俳人ジャック・ケルアック

 英語で書かれた俳句にずっと関心はあったものの、あまり心に響いたものはこれまでなかった。そんな中で、米国の作家ジャック・ケルアックが『Book of Haikus』なる句集を書いていることを知lり、取り寄せてみた。そしてその素晴らしさに驚いた。
 ケルアックと言えば、小説『路上にて』で名高い、いわゆる「ビート・ジェネレーション」の小説家・詩人だが、まさか句集を出していたとは知らなかった。そして日本語以外の言語でここまで優れた俳句が書かれうることを実感して、嬉しくもなった。試しに、いくつかの句を僕の翻訳で引用してみる。

 列車のトンネルが暗すぎて書けない「男どもは無知だ」と
 鳥たちは北に向かい栗鼠たちはどこに? ほらボストン行きの飛行機が飛ぶ
 湿っぽくてマッチも擦れないまるで水槽に住んでるみたい
 一千マイルもヒッチハイクして君にワインを運んだよ


 俳句作品だけでなく、感心したのは彼の俳句観だ。正直に言うと僕は、英語のHaikuが五七五に縛られることにはほとんど意味がない、とずっと思っていた。そもそもの単位となる、日本語の「一音」と英語の「一音節」は似て非なるものだ。また、日本語の持つ肉体風景に五七五が与える郷愁めいた余韻を、英語という言語はおそらく共有していない。
 ケルアックも同様に考えたようだ。つまり、西洋の言語はそもそも日本語の音韻構造とは馴染まず、したがってそこには日本の俳句とは違う形の「西洋流俳句(Western Haiku)」があるべきだとする。それは定型には縛られず、ただ単に短い三節で構成される「シンプルで自由な詩」というわけだ。別の本で彼が語る「直接に、純粋に、抽象も説明もなく、物事を掴み出す」俳句の本質こそが形よりもむしろ大切、と考えたのだろう。
 彼は、生涯を通じて熱心に俳句を作ったようで、「(詩や小説よりも)俳句が一番作り直したり手を入れたりしたんだ」とも語っているらしい。さらに興味深いのは、日本の俳人にも時に見られるように、俳句の伝統に対する愛着と反発が彼の生涯の中で何度も揺れ動いたようなのだ。そんな中で、「俳句をポップと呼ぼうと決心した」との発言も残るが、それはあたかも俳句革新への意志表明とも見える。
 ともあれ、生半可な日本の俳人よりよっぼど誠実かつ冒険的に俳句に向き合い続けた彼にとって、俳句は単なる異国趣味の余技などではなく、もっと本質的な何かだったはずだ。今後、僕が「目標とする俳人は?」と訊ねられたら、「ジャック・ケルアックです」と答えてみるのもいいかもと思った。それほどに、この俳人のひたむきな生き方は素敵だ。
(『海原』2019年5月号より転載)

【ふけとしこ第5句集『眠たい羊』を読みたい】4 =きれいな額=  谷さやん

 ふけとしこさんは、私も所属する「船団の会」の船団賞の審査委員を務められている。何年前だったか、ご自身も選ばれていた候補作品の題名について苦言を呈していた記憶がある。密かにだが、私はこんなときに見せるふけさんの難しそうな表情が好きでしょうがない。

 梨を剝くむかし額をほめられし


 何かを剥くときは、額に意識が集中している気がする。私はきっと、難し気なときのその「ひたい」が好きなのだ、と今気付いた。前髪に垣間見える、知的な額が。
 題名にも砕心して『眠たい羊』は、何気なくして魅力的だ。そこで一応「眠たい」を国語辞典で引いてみると<「ねむい」のくだけた言い方。>とあり、その「眠い」の項に目をやると、<ねむりに引き込まれそうな感じだ。>と書いてある。
 「眠たい」とくだけて、それは「羊」でふわふわで、構えて句集を開こうとする人の肩の力を抜いてくれる。そのうち〈雪の日を眠たい羊眠い山羊〉という題名に因む句に出合うのだが。
 
 山の日の丸テーブルを三つ寄せ

 この句は、葉書による個人誌「蛍通信Ⅱ」2017・9《61》で覚えていた句。昨年2019・1《88》で終刊された。「めでたく八十八になったところで終わりにしたい」と、淡々と書かれていた。とても寂しかった。俳句六句とエッセイが書かれている通信が届くと、部屋にたどり着くまで我慢できずにエレベーターの壁にもたれて読んだ。俳句を犯しがちな古臭い表現を避けているようで、新鮮な言葉が必ずあった。「山の日」は新しい季語だし、難しい言葉を使わずに「山の日」と「丸テーブル」の二つの言葉を寄せて、賑やかな楽しい雰囲気を出している。ふけさんは、表に出ようとする言葉の意味の手綱を締めたり緩めたりする加減が、とても上手いのではないかと思う。
 そんなことに感心しながら、句集の次のような作品に惹かれている。
  
 早春を雲もタオルも飛びたがる

 早春の少し強い風に、空に留まっている雲も、この手に掴んでいるタオルも飛びたがっているに違いない。早春のただ中に立って、自分が一番飛んで行きたい気分なのだから。

 木の芽寒箸を入れれば濁るもの

 芽吹く頃の、ちょっとした憂鬱感が、普段はお構いなしなことに敏感になってしまうような。どんな食べ物も、箸を入れれば濁ってしまうのだという自明を突き付けられた気がした。「木の芽冷」ではなく「木の芽寒」が箸の先を際立たせているのだと思う。
   
 針伏せて寝るヤマアラシ花の昼

 桜咲く午後には、ヤマアラシも針を休ませて寝ている。ここでは「眠る」ではない。「寝る」は針そのものの様子でもあるだろう。花の昼には、ヤマアラシがこんなにも柔らかい。名句<まるまるとゆさゆさといて毛虫かな>を思い出した。

 水鉄砲ぐらぐらの歯を見せにくる

 水鉄砲していた子が、にたにた笑いながらやって来た。ぐらぐらになった歯は、子どもの自慢なのだ。大人になった今では、何でそんなに嬉しかったのか忘れてしまったが、誰もがきっと一度は見たあるいは見せた光景が懐かしくも楽しい。

 しまなみ海道レモンゼリーへ寄り道す

 四国に住んでいる者としては、しまなみ海道へのとても素敵な挨拶句に思えた。生口島だろうか。黄色い「レモンゼリー」の中に、長いしまなみ海道が揺れる。

 春の近づく馬鈴薯の芽のまはり

 私の眼の周りを触られている気分になった。こんなふうに見据えられたら、馬鈴薯もタジタジになっていそう。

 そして、次の句には笑ってしまった。ふけさんの大好きな額を思い出したのだ。

 今何をせむと立ちしか小鳥くる


 「今何をせむと立ちしか」という大仰な言い回しが可笑しい。でも、季語「小鳥くる」が一気に、こわばった心身をほぐしてくれる。

2020年2月7日金曜日

第130号

※次回更新 2/28

特集『切字と切れ』
【紹介】週刊俳句第650号 2019年10月6日
【緊急発言】切れ論補足
※2/7追加 (7)5 》読む

■平成俳句帖(毎金曜日更新)  》読む

令和2年歳旦帖
第一(1/10)辻村麻乃
第二(1/17)曾根 毅・池田澄子
第三(1/24)坂間恒子・大井恒行・仙田洋子・山本敏倖・堀本 吟
第四(1/31)浅沼 璞・渕上信子・松下カロ・加藤知子・関悦史
第五(2/7)飯田冬眞・竹岡一郎・妹尾健太郎・真矢ひろみ・木村オサム・神谷波

令和元年冬興帖
第一(12/27)曾根 毅・小沢麻結・渕上信子・松下カロ・山本敏倖
第二(1/10)小林かんな・池田澄子・辻村麻乃・内村恭子・中村猛虎・夏木久
第三(1/17)網野月を・大井恒行・神谷 波・花尻万博・近江文代・なつはづき・林雅樹
第四(1/24)岸本尚毅・下坂速穂・岬光世・依光正樹・依光陽子・竹岡一郎・妹尾健太郎
第五(1/31)仲寒蟬・小野裕三・渡邉美保・望月士郎・飯田冬眞・早瀬恵子
第六(2/7)木村オサム・ふけとしこ・真矢ひろみ・前北かおる・佐藤りえ・筑紫磐井


令和元年秋興帖
第一(11/8)大井恒行
第二(11/15)曾根 毅・辻村麻乃・仙田洋子
第三(11/22)小野裕三・仲寒蟬・山本敏倖
第四(11/29)浅沼 璞・林雅樹・北川美美・ふけとしこ
第五(12/6)神谷波・杉山久子・木村オサム・坂間恒子
第六(12/27)青木百舌鳥・岸本尚毅・田中葉月・堀本吟・飯田冬眞・花尻万博・望月士郎・中西夕紀
第七(1/10)渡邉美保・真矢ひろみ・竹岡一郎・前北かおる・小沢麻結・下坂速穂・岬光世・依光正樹・依光陽子・仙田洋子・渕上信子・水岩瞳
第八(1/17)小林かんな・加藤知子・網野月を・早瀬恵子・中村猛虎・のどか・近江文代・佐藤りえ・筑紫磐井

■連載

ふけとしこ第5句集『眠たい羊』を読みたい
3 自画像/曾根 毅  》読む

寒極光・虜囚の詠~シベリア抑留体験者の俳句を読む~㉘ のどか  》読む

英国Haiku便り(4) 小野裕三  》読む

【抜粋】〈俳句四季2月号〉俳壇観測205
生誕百年を迎えた俳句作家――昭和・平成を生きた兜太と龍太
筑紫磐井 》読む

句集歌集逍遙 秦夕美・藤原月彦『夕月譜』/佐藤りえ   》読む

麻乃第二句集『るん』を読みたい
インデックスページ    》読む
16 「こころのかたち」/近澤有孝  》読む

渡邊美保第一句集『櫛買ひに』を読みたい 
6 『櫛買ひに』を読む/山田すずめ 》読む

葉月第一句集『子音』を読みたい 
インデックスページ    》読む
7 生真面目なファンタジー 俳人田中葉月のいま、未来/足立 攝  》読む

佐藤りえ句集『景色』を読みたい 
インデックスページ    》読む
7 佐藤りえ句集『景色』/西村麒麟  》読む

大井恒行の日々彼是 随時更新中!  》読む


■Recent entries

 第5回攝津幸彦記念賞応募選考結果
 ※受賞作品は「豈」62号に掲載

特集・大本義幸追悼「俳句新空間全句集」 筑紫磐井編  》読む


「兜太と未来俳句のための研究フォーラム」アルバム

※壇上全体・会場風景写真を追加しました(2018/12/28)

【100号記念】特集『俳句帖五句選』


眠兎第1句集『御意』を読みたい
インデックスページ    》読む

麒麟第2句集『鴨』を読みたい
インデックスページ    》読む

前衛から見た子規の覚書/筑紫磐井
インデックスページ    》読む

「WEP俳句通信」 抜粋記事  》見てみる

およそ日刊俳句新空間  》読む
…(今までの執筆者)竹岡一郎・青山茂根・今泉礼奈・佐藤りえ・依光陽子・黒岩徳将・仮屋賢一・北川美美・大塚凱・宮﨑莉々香・柳本々々・渡邉美保 …
2月の執筆者 (渡邉美保

俳句新空間を読む  》読む
…(主な執筆者)小野裕三・もてきまり・大塚凱・網野月を・前北かおる・東影喜子





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筑紫磐井著『女帝たちの万葉集』(角川学芸出版)

新元号「令和」の典拠となった『萬葉集』。その成立に貢献した斉明・持統・元明・元正の4人の女帝、「春山の〈萬〉花の艶と秋山の千〈葉〉の彩を競へ」の天智天皇の詔を受けた額田王等の秘話を満載する、俳人初めての万葉集研究。平成22年刊2,190円。お求めの際は、筆者までご連絡ください。

特集『切字と切れ』 【緊急発言】切れ論補足(7)動態的切字論5――現代俳句の文体――切字の彼方へ 筑紫磐井

●現代の切字論
 平成17年頃、角川文化振興財団の呼びかけた「俳の会」に誘われて、片山由美子、谷地快一、宮脇真彦と四人で勉強会を開いたことがある。その会は都合3年間ぐらい続いたが、最初の1年で読者、季語、切字と切れなどの基本問題を検討し、その後その成果を部外協力者を加えてまとめることとし、最終的には『現代俳句教養講座』全3巻(平成21年)とし刊行された。その第2巻「俳句の詩学・美学」の中で切字問題が取り上げられている。会では、切字問題の執筆者として、仁平勝、川本皓嗣、藤原マリ子の三人を選んで依頼した。切字論は共通の認識もあるが、考え方にかなり見解を異にする部分もあり、一人で論じるのは難しく、複数の見解を並べて見る必要があると考えたからである。最新の切字論を一望できるコンパクトな書物としてはこれに如くものはないと思っている。

①仁平勝(標題「五七五という装置」)
②川本皓嗣(標題「切字の詩学」)
③藤原マリ子(標題「俳諧における切字の機能と構造」)


 仁平は、切字は発句が脇句から切れるための語でありその中に「かな」「けり」のような句末の切字と、「や」のような句中の切字があるとする(仁平は「や」に呼応して句末の名詞で切れるから発句が脇句から切れるとしたが、その機能は示さなかった)。川本は句中の切れは係助詞であり遠隔操作的にその勢いの及ぶ句末で切れるのだと述べた。藤原は、必ずしも句中の切れによって句末で切れるものばかりではないことを指摘し、口伝となっている「7つのや」を元に「や」の使用例を歴史的に分析して芭蕉によって新たに配合の「や」が生まれたとしている(高山れおなは談林こそが「配合のや」を発見したのではないかと疑義を呈している。私も同感である)。川本も、最新著『俳諧の詩学』では藤原と同様の考察を加えている。

●「や」の分析
 ここで藤原の論点を例句で眺めてみる。興味深いのは、明治になって誰も見向きもしなくなったやの口伝を踏まえていることである。まず標準的な口伝となっている「7種のや」※を挙げてみよう。藤原が対象にした『宇陀法師』の区分と例句を見てみる(順番は藤原論文に従った)。

①切(きる)や(係助詞。ただし*句は間投助詞)
・物ごとに道やあらたまるけふの春
*切顔や昼は鎖おろす門の垣(宇)
②中(なか)のや(並立助詞)・
・雪を持樫や椹に露みえて
③捨(すつる)や(座五末の「や」)
・かくしても身のあるべきと思ひきや
④疑(うたがひ)のや(疑問の係助詞)
・思へばや鵬鴫までとまるらん
・けふよりや書付けさむ笠の露(宇)
⑤はのや(副詞語尾。ただし*句は間投肋詞)
・今はゝや訪はじと月に鳥啼で
*更科や月はよけれど田舎にて(を)
*白魚や黒き目を明く法の網(宇)
⑥すみのや(初五の四字目の「や」)
・思ふやと逞ふ夜も人を疑ひて
⑦口合(くちあひ)のや(初五の三字目の「や」)
・月や花よる見る色のふかみ草

 浅野信は、このうち②中(なか)のや④疑(うたがひ)のや⑥すみのや⑦口合(くちあひ)のやは切れないから切字ではないとする。
 一方藤原は、②中(なか)のや③捨(すつる)や⑤はのや(*以外)⑥すみのや⑦口合(くちあひ)のやは切れないから切字ではないとする。従って明白な積極的な切字は、①切(きる)や④疑(うたがひ)のや⑤はのや(*句は間投肋詞)が切字であるとするが、①切(きる)やと⑤はのやの間投肋詞(*の句)は倒置構造を採っていない所からそれぞれ「配合のや」「主格のや」と呼び新しい切字であるとしている。そしてこのうちの「配合のや」が芭蕉の句の特色となり、彼の取合わせ論と重なるというのである。口伝の見事な活用ということが出来るだろう。

 興味深いのは、川本の俳句構造説(基底部+干渉部)にしろ、藤原の切字説(「配合のや」)にしろ芭蕉に集約していくことである。我々はいつの時代になったら芭蕉と決別出来るのだろうか。

※その他のやに「腰のや」や「名所のや」「呼び出すや」が挙げられている。

●切れない工夫
 以上、発句が脇句から切れるための工夫として切字を眺めてきたのだが、発句が脇句から切れればそれで目的を達するかといえば、実はそれだけでもないようである。連句では切字が必要であるというだけでなく、それ以上に発句というのは脇句を必要とするというもう一つの原理があったのだと言われている。川本の『俳諧の詩学』ではその事を巧みに述べている。川本は、学生に向ってこういう。

 「発句というのは、そうして他人がさまざまに解釈して、自分なりの付句をする楽しみを残すために、わざと「脇をあまく」してあるんだよ。」

 今や連句の伝統が残っていない現代俳句には切字が必要はないのだが、さらに付句をするためにわざと「脇をあまく」する作り方もなくなってしまっている。切字を論ずるには同時にこの脇の甘さも考えなければいけないのかも知れない。発句と俳句は切字の有ること以上に、脇の甘さが望まれるとしたら、新興俳句や馬酔木俳句、人間探求派俳句は、切字の有無以前にその詠み方によって「発句」たる資格を失っているのである。そして、我々はこうした「発句」を「俳句」として鑑賞してしまっているのではなかろうか。

寒極光・虜囚の詠~シベリア抑留体験者の俳句を読む~㉘ のどか

第4章 満州開拓と引揚げの俳句を読む
Ⅶ 井筒紀久枝さんの『大陸の花嫁』を読む(2)

*の箇所は、主に、(『大陸の花嫁』井筒紀久枝著 岩波現代文庫 2004 1.16)を参考にした筆者文。

【隊員応召後の開拓団集落 17句から】
雪の曠野よ生まるる子の父みな兵隊
*1944(昭和19)年2月末には、開拓団の若い男性たちに大量に、召集令状が届いたという。零下20度から30度となる酷寒の地には、妊娠した者、出産をしたばかりの母親と乳飲み子ばかりが残され、子どもたちの父親はみな兵隊になった。
 このころ、井筒さんもようやく悪阻(つわり)が治まり、授かった命の胎動を感じ始め、8月20日には、女児を難産で出産したという。

 『大陸の花嫁』の手記から、関東軍の兵力が南方戦線や本土決戦に備えて割かれる中、1944(昭和19)年2月末には、関東軍の予備的人材源であり満州開拓団の働き手である男性の多くが、召集されたことがうかがえる。
 その頃の日本の戦況については、1944(昭和19)年2月25日には、「決戦非常措置要綱」が閣議決定され、(国立国会図書館)、1944(昭和19)年3月7日には、「決戦非常措置要綱ニ基ク学徒動員実施要綱」が閣議決定されている。(国立国会図書館)
 1944(昭和19)年7月5日インパール作戦の中止。7月7日サイパン島の日本軍守備隊の玉砕。8月11日グアム島の日本軍守備隊の玉砕。11月24日ペリリュー島の日本軍守備隊玉砕。11月24日には、マリアナ諸島から出撃したB-29による東京初空襲と日本の戦局は悪化を辿っていく(『知識ゼロからの太平洋戦争入門』 半藤一利著 幻冬舎太平洋戦争関連年表P.204から)
 1945(昭和20)年5月8日ドイツが連合国に無条件降伏したころ、日本は米軍との沖縄戦が熾烈を極め、本土決戦も現実化しつつあった。このころ大本営は、関東軍に以下のような命令を下した。

 これに備えて5月30日、大本営は関東軍の完全な作戦態勢への切替を命令し、また『満鮮方面対ソ作戦計画要領』を与えたこれにもとづいて対ソ作戦準備を行うことを命令した。その内容は、「関東軍は京図線(新京‐図們)連京線(大連‐新京)以東の要域を確保して持久を策し大東亜戦争の遂行を有利ならしむべし」というものであった。もとよりこれは大本営の本土決戦に一環として考えられたもので、要するに全満の四分の三は放棄しても、通化を中心とする東辺道地帯にたてこもって、大持久戦によりソ連軍をここに釘付けにしろ、という命令だった。(『関東軍 在満陸軍の独走』 島田俊彦著 株式会社講談社P.26)

 また、『「大日本帝国」崩壊』加藤聖文著P.148‐149には、以下のように記されている。

 実は関東軍内部では、持久作戦へ転換した1か月後の1945年2月24日になって、「関東軍在満居留民処理計画」を策定、ソ連国境周辺の老幼婦女子の退避と青壮年男子の召集が方針とされていた。そして戦時態勢へ移行した5月以降、この計画の実施が検討されたが、大本営からこの計画に対して、現地民の動揺を招きソ連軍の侵攻を誘発する恐れがあると反対され計画は頓挫していた。(「満州国内在留邦人の引揚げについて」)
(『「大日本帝国」崩壊』加藤聖文著中央公論社2009.7.25)

 かくして、関東軍の作戦の本拠地が日本に近い満州朝鮮方面に変更されたことを、ソ連に察知されないよう極秘にされ、開拓移民たちはソ連・満州国境付近の奥地に、取り残されたのである。

【敗戦33句から】
帝国が唯のにほんに暑き日に
*満州帝国に移民で来た日本人の振る舞いは、現地住民を抑圧し苦しめていたと以下のように井筒さんは語っている。‐まさに驕る平家は久しからずの言葉の通り、ある日突然に「五族協和」「王道楽土」の大義名分の上に、打ち立てられた満州帝国は、一炊の夢のように壊滅したのである。‐
 この時のことは、井筒紀久枝著『大陸の花嫁』P.47に、次のように記されている。

 8月9日、ソ連との開戦が知らされた。そして、8月14日残っている男を総ざらえにして召集令が来た。私たちは、自分の夫が応召するときには涙を見せなかったが、そのときばかりはみんな大声をあげて泣きながら見送った。 翌15日夕、その人たちは、ぞろぞろ戻ってきた。(略) 拉呤(らは)までは行ったが汽車は動いておらず、街なかの様子がただごとではなかった、という。(略) 17日、「嬉しいニュースを知らせにきました。戦争は終わりました」本部の人が少しも嬉しそうではない沈痛な顔で、私たちの宿舎へ伝えにきた。(『大陸の花嫁』井筒紀久枝著 岩波現代文庫 2004 1.16)
 

俘虜われら飢ゑつつ稲の穂は刈れぬ
*戦争が終わったのは夏。八月の末には秋がやって来る北の大地の作物は
収穫期を迎え、稲は小金の穂を垂れている。
しかし既に敵地となっている田畑である。これまでの苦労を思うと、飢
えていながら収穫できないことは残念だが、ここは歯を食いしばって耐
えるしかない。

酷寒や男装しても子を負ふて 
*1945(昭和20)年8月25日に武装解除を受けたあと、ソ連兵と中国兵や地元の中国人による略奪が繰り返され、女性は強姦された。髪を剪って顔に竈の煤を塗りたくり、若い娘にも赤ん坊を背負わせて偽装をした。凍てる冬の夜、母親たちは襲撃を警戒して男装をし、僅かに残った農具を持って歩哨に立った。
 開拓団での強奪の様子について、『大陸の花嫁』P.57に井筒さんはこう綴っている。

 夜は現地住民が襲ってきた。
 私たちは、長い草刈り鎌や手製の槍を持って夜警に立った。(略)「ワアーッ」と襲ってくると、私は槍を投げ出し、子どもを預けているほうへ走った。子どもは一か所に集めて、老人や病人が見ていた。暗がりの中わが子を求めて負う。まだ母親が来ていない子は、抱いて逃げた。みんな同じ方向へ逃げた。それを目がけて弾丸が飛んできた。倒れる者、捕らわれる者、もうどうにでもなれと思うほかなかった。それでも私はいつもコウリャン畑へ逃げ込むことができた。清美は泣きもせず声も立てず、体を硬くして、私の背に顔をくっつけていた。   
(『大陸の花嫁』井筒紀久枝著 岩波現代文庫 2004 1.16)


蚤虱じわじわ飢ゑて死にし子よ
*食べ物を摂ることのできない母親の乳は、乳飲み子に十分な栄養を与えることはできなかった。親子ともにじわじわ衰弱し、この世の理不尽は、乳飲み子にも容赦ないのである。地面にじかに寝るため蚤や虱にたかられる。死んだ子からは、蚤も虱も逃げて他の人に寄生するのであ。

【現地脱出10句から】
行かねばならず枯野の墓へ乳そそぎ
*毎夜続く襲撃と略奪。長年かけて収穫できるようになった農地を棄て「根こそぎ召集」のため、数えるほどとなった男性たちについて、子どもたちを連れて脱出することとなる。子を亡くしても子を思うと乳が張ってくる。子の墓へ乳を搾り、涙に咽びながらこれまでの住処を去るのである。
開拓団の最後について、『大陸の花嫁』P.61に以下のように記されている。
  
 第9次興亜開拓団(福井県、昭和15年1月入植)、第1次興亜義勇隊開拓団(昭和13年、内原入所以来現地の訓練所を経て、昭和16年4月入植)の最後だった。(P.61)、昭和20年10月9日興亜開拓団は滅びた。(P.64)
(『大陸の花嫁』井筒紀久枝著 岩波現代文庫 2004 1.16)
(つづく)


参考文献
『大陸の花嫁』井筒紀久枝著 岩波書店 2004.1.16
『生かされて生き万緑の中に老ゆ』井筒紀久枝著 生涯学習研究社 1993年
『シベリア抑留‐未完の悲劇』栗原俊雄著:岩波新書 2016.2.5
「決戦非常措置要綱」(国立国会図書館:https://rnavi.ndl.go.jp/politics/entry/bib00540.php
「決戦非常措置要綱ニ基ク学徒動員実施要綱」(国立国会図書館:https://rnavi.ndl.go.jp/politics/entry/bib00544.php
『知識ゼロからの太平洋戦争入門』 半藤一利著 幻冬舎 2009.4.10
『満蒙開拓平和祈念館』満蒙開拓平和祈念館作成資料
『関東軍 在満陸軍の独走』島田俊彦著 講談社 2005.6.10
『大日本帝国崩壊』加藤聖文著 中央公論 2009.7.25


 

【ふけとしこ第5句集『眠たい羊』を読みたい】3 自画像  曾根 毅


自画像の頬に青足す桜どき  ふけとしこ

 先日、ノルウェーのオスロ国立美術館所蔵のゴッホの自画像が、本物であることが確認されたというニュースを見た。自画像は1889年8月頃に描かれたもの。ゴッホが南フランスに移り、精神的な障害に苦しんでいた時期の唯一の作品だという。作品の真贋について、色合いや主題の表現が当時のゴッホの画風とは合致しないという指摘が出ていたようだ。2014年に、オスロ国立美術館とオランダ・アムステルダムにあるゴッホ美術館が共同で調査を行うことで合意し、広範な調査を行った結果、本物であることが確認されたというもの。ゴッホは、パリに出て来た1886年の春から、サン・レミの病院に入院していた1889年秋にかけて、40点近くの自画像を描いている。それらは、同一人物とは思えないほど多彩なニュアンスで描かれた。
 他人の顔や風景を比較的客観的に捉えることが出来たとしても、自分自身を客観的に描くことは難しい。どこかで自分を理想化し、自己の内面や存在を主観で表現してしまうのかもしれない。それに、人は物事を見つめながら、その物事を通じて自分の経験を見ていることが多いような気がする。人間や世界を捉えようとしたときに、その多面的で複雑なありようを一つの場面に留めるのでなく、描く度に異なる表情や色彩で変化を表したほうが、自然であるということも考えられる。
 今回本物だと確認されたゴッホの自画像は、幻想的な青のなかに、狂気的で異様な画家の内面を感じさせるものだった。精神性の象徴ともいえる青に、ゴッホの意志を読み取ることもできそうだ。掲句の青色について、ふけさんはこの絵の青と同じような意味合いで、自画像に青を描き足しただろうか。もしかすると、桜の頃の澄んだ空の冷たさや輝きを表すような、日本の伝統色としての藍を配したのかもしれない。『眠たい羊』は、ふけさんの様々な表情を見せてくれる句集だ。同時に、読者の多様な心を映し出す句集でもある。

英国Haiku便り(4)  小野裕三


芭蕉は「偉大な思想家」なのか
 ロンドンの書店で『偉大な思想家たち(Great Thinkers)』という本を手に取った。プラトンから始まり、ニーチェ、マルクス、フロイト、など世界の偉大な思想家が並ぶ。その中の「東洋の哲学」という章を見ると、仏陀、老子、孔子、の他に、千利休、松尾芭蕉、の計五人が紹介されていた。これにはだいぶ驚いた。そこでは「軽み」などへの言及もあるものの、利休も芭蕉も「Wabisabi(侘び寂び)」を体現する思想家として説明されていた。だとするとつまり、西洋人の少なからぬ人が、「侘び寂び」を仏教やマルキシズムにも匹敵する「偉大な思想」であると受け止め、その顕現を芭蕉や俳句に認めている、ということになる。
 確かに、ロンドンでは「Wabisabi」はちょっとした流行のようだ。イギリス人の若い女性やキプロス人の男性からも、「興味がある」と言われた。あるイギリス人男性からは、「日本人は、Wabisabiの思想を何歳くらいに学校で教わるのかね? それとも、各家庭で親から子と伝えられるのかね?」と聞かれ、答えに窮したこともある。
 Wabisabiに彼らが興味を持つひとつのポイントは、崇高でありながらもシンプル、というところにあるようだ。大聖堂などに典型的に見られる、西洋流のゴージャスな方法とは違う崇高さの表現に彼らは関心を持つのだろう。
 『Wabi-Sabi』(Leonard Koren著)という本も買って読んでみた。茶道の歴史的流れを踏まえて「侘び寂び」の本質に分析的に迫ろうとする本だ。中でも、「侘び寂び」は二十世紀の「モダニズム」に似た側面があるとして詳細に比較する鮮やかさには感嘆した。例えば、本質的ではない装飾を避けようとするのは双方の共通点。一方で、モダニズムは「テクノロジー」を、侘び寂びは「自然」を美化するのは相違点。それぞれのメタファーとして、モダニズムでは「箱」が、侘び寂びでは「鉢」が使われる、との相違点の指摘も興味深かった。
 侘び寂びは「説明しがたい」ことがその本質との認識が日本人には強くあり、それゆえに日本人に侘び寂びのことを聞いてもきちんと説明しない傾向があるとその本では言及していて、苦笑した。一方でこの本では、「侘び寂び」をその時代の日本に支配的だった中国的な美術観への反発である、と明確に位置づけ、また前述のように二十世紀のモダニズムとの比較を試みる。その実直な姿勢には学ぶべきものがある。
 私たち日本人は俳句や侘び寂びのことを妙に卑下したり逆に神秘化すべきではあるまい。それを「偉大な思想」と言われたら、「Thank you」とさらりと受け止めておけばいい。むしろ必要なのは、その実質を世界史的な美術や思想の流れの中に具体的に位置付けようと努力することだ。英国での静かな Wabisabiブームは、そのことを教えてくれていると感じる。
(『海原』2019年4月号より転載)