2018年1月26日金曜日

第82号

●更新スケジュール(2018年2月9日)

*発売中*
冊子「俳句新空間」No.8 
特集:世界名勝俳句選集
購入は邑書林まで

第4回攝津幸彦記念賞発表! 》詳細
※※※「豈」60号・「俳句新空間」No.8に速報掲載※※※

各賞発表プレスリリース
豈60号 第4回攝津幸彦記念賞発表 購入は邑書林まで


新年の御あいさつ ――「連衆」歳旦帖―― 筑紫磐井


平成二十九年 俳句帖毎金00:00更新予定) 
》読む

平成二十九年 冬興帖

第三(1/26)内村恭子・曾根毅・神谷波・渕上信子・大井恒行・前北かおる
第二(1/19)松下カロ・岸本尚毅・林雅樹・早瀬恵子・杉山久子・木村オサム
第一(1/12)小沢麻結・夏木久・辻村麻乃・堀本吟・網野月を・坂間恒子


平成二十九年 秋興帖

補遺(1/12)早瀬恵子
第十(12/29)中村猛虎・仲寒蟬・堀本吟・田中葉月・望月士郎・筑紫磐井・佐藤りえ
第九(12/22)下坂速穂・岬光世・依光正樹・依光陽子・ふけとしこ・浅沼 璞
第八(12/15)小野裕三・小沢麻結・渕上信子・水岩 瞳・青木百舌鳥
第七(12/8)林雅樹・神谷 波・前北かおる・飯田冬眞・加藤知子
第六(12/1)花尻万博・山本敏倖・内村恭子
第五(11/24)大井恒行・小林かんな・網野月を
第四(11/17)杉山久子・真矢ひろみ・木村オサム
第三(11/10)松下カロ・坂間恒子・渡邉美保
第二(11/3)岸本尚毅・辻村麻乃・夏木久
第一(10/27)北川美美・仙田洋子・曾根 毅


【新連載】
前衛から見た子規の覚書  筑紫磐井 
(1)子規の死   》読む
(2)子規言行録・いかに子規は子規となったか①   》読む
(3)いかに子規は子規となったか②   》読む
(4)いかに子規は子規となったか③   》読む
(5)いかに子規は子規となったか④   》読む
(6)いかに子規は子規となったか⑤   》読む
(7)いかに子規は子規となったか⑥   》読む
(8)いかに子規は子規となったか⑦   》読む
(9)俳句は三流文学である   》読む
(10)朝日新聞は害毒である   》読む



●新シリーズその1
【西村麒麟特集】北斗賞受賞記念!
受賞作150句について多角的鑑賞を試みる企画
西村麒麟・北斗賞受賞作を読む インデックス  》読む
【西村麒麟・北斗賞受賞作を読む0】 序にかえて …筑紫磐井
【西村麒麟・北斗賞受賞作を読む1】 北斗賞150句 …大塚凱
【西村麒麟・北斗賞受賞作を読む2】「喚起する俳人」…中西亮太
【西村麒麟・北斗賞受賞作を読む3】 麒麟の目 …久留島元
【西村麒麟・北斗賞受賞作を読む4】「屈折を求める」…宮﨑莉々香
【西村麒麟・北斗賞受賞作を読む5】「思ひ出帖」…安里琉太
【西村麒麟・北斗賞受賞作を読む6】きりん …松本てふこ
【西村麒麟・北斗賞受賞作を読む7】西村麒麟「思ひ出帳」を読む …宮本佳世乃
【西村麒麟・北斗賞受賞作を読む8】火花よりも柿の葉寿司を開きたし
        ―北斗賞受賞作「思ひ出帳」評 …青木亮人
【西村麒麟・北斗賞受賞作を読む9】見えてくること、走らされること …田島健一
【西村麒麟・北斗賞受賞作を読む10】天地併呑 …橋本直
【西村麒麟・北斗賞受賞作を読む11】西村麒麟を私は知らない …原英
【西村麒麟・北斗賞受賞作を読む12】金沢のこと菊のこと …福田若之  
【西村麒麟・北斗賞受賞作を読む13】「結び」及び「最強の1句」 …筑紫磐井  》読む


●新シリーズその2
【平成俳壇アンケート】
間もなく終焉を迎える平成俳句について考える企画
【平成俳壇アンケート 回答1】 筑紫磐井 …》読む
【平成俳壇アンケート 回答2・3】 島田牙城・北川美美 …》読む
【平成俳壇アンケート 回答4・5】 大井恒行・小野裕三》読む
【平成俳壇アンケート 回答6・7・8】 花尻万博・松下カロ・仲寒蟬》読む
【平成俳壇アンケート 回答9・10・11】 高橋修宏・山本敏倖・中山奈々》読む
【平成俳壇アンケート 回答12】 堀本吟》読む
【平成俳壇アンケート 回答13】 五島高資》読む
【平成俳壇アンケート 回答14】 浅沼 璞》読む
【平成俳壇アンケート 回答15】 小沢麻結》読む
【平成俳壇アンケート 回答16】 西村麒麟》読む


【抜粋】
<「俳句四季」1月号> 
俳壇観測181/二つの大雑誌の終刊――高齢俳人の人生設計こそ俳壇の課題
筑紫磐井 》読む


  • 「俳誌要覧2016」「俳句四季」 の抜粋記事  》見てみる






<WEP俳句通信>




およそ日刊俳句空間  》読む
    …(今までの執筆者)竹岡一郎・青山茂根・今泉礼奈・佐藤りえ・依光陽子・黒岩徳将・仮屋賢一・北川美美・大塚凱・宮﨑莉々香・柳本々々 … 
    • 1月の執筆者 (柳本々々・渡邉美保) 

      俳句空間」を読む  》読む   
      …(主な執筆者)小野裕三・もてきまり・大塚凱・網野月を・前北かおる・東影喜子
       好評‼大井恒行の日々彼是  》読む 






      冊子「俳句新空間 No.7 」発売中!
      No.7より邑書林にて取扱開始いたしました。
      桜色のNo.7


      筑紫磐井 新刊『季語は生きている』発売中!

      実業広報社






      題字 金子兜太

      • 存在者 金子兜太
      • 黒田杏子=編著
      • 特別CD付 
      • 書籍詳細はこちら (藤原書店)
      第5章 昭和を俳句と共に生きてきた
       青春の兜太――「成層圏」の師と仲間たち  坂本宮尾
       兜太の社会性  筑紫磐井

      【俳句四季2月号】俳壇観測181:二つの大雑誌の終刊――高齢俳人の人生設計こそ俳壇の課題  筑紫磐井

      「海程」の終刊
       金子兜太(98)が「海程」を終刊させるという話が出たのは平成二九年の五月のことであった。創刊は昭和三七年四月、当初は同人誌であったが兜太の主宰誌となり、造型俳句・前衛俳句の中核として戦後俳句を代表する雑誌として、創刊以来五五年を経過する。今回の終刊の前後の経緯は「海程」の読者以外よく分からないところがあるので、同誌の編集後記からクロニクル風に眺めてみよう。
       平成二八年一月の東京例会で金子兜太が「白寿で海程主宰を辞する」と発言、このため〈近いうちに海程はなくなる〉いう噂が立ち、驚いた兜太は二月の例会で「白寿で主宰の座からは降りるが、海程は存続する」と修正した(四月号)。この後いろいろな意見が寄せられたようだが(二九年五月号)、遂に二九年五月の海程全国大会で金子兜太から「三〇年八・九月号で「海程」主宰を引退する。「海程」誌も終刊する」と発表された(六月号)。この劇的なニュースは、たちまち全国版の新聞各紙にも掲載された。直後その時の大会での配布文が「急告/二〇一八年九月(八・九月合併号)をもって、「海程」を「終刊」することとします。」として掲載されている(七月号)。その後海程の後継誌の発行に向けて検討が行われ、代表安西篤、発行人武田伸一、編集長堀之内長一が決まり(一〇月号)、一月号には誌名を始めとする新誌の組織や方針も公表される予定だという(一二月号)。
       金子兜太の急告文は次のように書かれている。ポイントは四点であり、終刊の理由として①私(金子兜太)の年齢から来るもの、②俳人――金子兜太――個人に、今まで以上に執着して行きたいという思い、をあげる。その上で、③終刊を二〇一八年九月とする理由(皆さんに余裕を持って新たな活動の場を模索していただきたい)、④「海程」という俳誌名(造型俳句の実践の場である海程は、私が主宰者でなくなった時点で終息させたい)である。
       兜太や会員の揺れる思いが伝わってくるようだが、ここでは兜太自身の今後への思い(②)について触れてみたい。「俳人――金子兜太――個人に、今まで以上に執着して行きたい」とは、俳人の生涯を終了すると言うことではなく、今まで以上に、現代俳句協会名誉会長や海程主宰の立場を離れて、兜太個人の仕事をしてみたいという意図だと受け取った。では兜太は何を始めようとしているのか。

      「狩」の終刊
       こんな話題の折から鷹羽狩行(87)の「狩」の終刊が報じられ、衝撃を与えた(「狩」平成二九年一二月号)。平成三〇年一二月号をもって「狩」を終刊するというのである。昭和五三年創刊、平成三〇年で創刊四〇周年を迎える。兜太よりは大部若いが、平成三一年四月をもって平成の幕は閉じられるから、これはほぼ平成に殉じると言ってよいだろう。
       終刊の理由を狩行は「私の年齢と健康状態」と言っているから、兜太の終刊理由の①に相当する。しかしここでは、その後のことも触れ、「終刊後は後継誌として、片山由美子副主宰が「香雨」を創刊します。私は名誉主宰として、作品の発表・句会の指導を体力の許す限り続ける所存です」と述べており、これは兜太の②の所信表明、③④の後継誌への配慮に当たるだろう。
       もともと鷹羽狩行は「氷海」の秋元不死男の後継として「氷海」の主宰となったが、一年をもって「氷海」を終刊させ、新たに「狩」を創刊した。その終刊の手際よさは、今回とよく似ている。後継者を自ら決め、終刊と同時に新誌名(もっともこれは片山の最新句集名であるが)まで、決めるのはいかにも狩行らしい。
       「海程」のように終刊にいたるまでの経緯がはっきりとわかり、後継体制の決まって行くプロセスが見えるのも透明性が高く民主的でありいかにも戦後の雄の「海程」らしくて良いが、「狩」のように会員を迷わせず、決然と決まって行くのも一つの方法である。主宰者の個性といえようか。
      (以下略)

      ※詳しくは「俳句四季」2月号をお読み下さい。

      【新連載】前衛から見た子規の覚書(10)朝日新聞は害毒である 筑紫磐井

      前回の続きを述べる。
      ④小説
      「文学中の最人望の多きは小説にして文学者の中その多数を占めたるは小説家なり。」

      このように述べて、当代小説史を記述する。わずか10年ほどのものであるが同時代人として顕著な変化を読み取っている。すなわち、矢野龍渓の『経国美談』に始まり、春廼舎朧(坪内逍遥)の『当世書生気質』、二葉亭四迷の『浮雲』、尾崎紅葉の『色懺悔』、幸田露伴の小説(『風流仏』など)であり現在の近代文学史とほとんど変わらないところはむしろ興味深い。しかし、その後の本格的な作家は、子規の親友である夏目漱石はまだ小説家となる気配すらなく(子規没後の明治38年に処女作品「吾が輩は猫である」を発表する)、子規が敬服してはいた文壇から疎外されていた森鴎外が再登場するまではまだ時間があり、同時代には悲観的であった。

      「大小説家ありて小説を著はすはすなわち自ら別なりといえどもその他においては競争心なるもの名誉心なるものありて多少小説の腐敗を防ぐの一助となるものにして三四年前まではなほ競争心などのために著しく進歩せしものなり。然るに今日の小説界は実にこの競争心と名誉心とを失ひつくしたり。」

      こうした問題の根幹に子規は新聞小説の支配問題を見ている。

      「余は小説界の事情に疎きためにその精細なる報告をなすを得ずといえども、有名なる小説家が一団結をなして天下を横行するは万人の知るところなるべし。外面の形迹上より言はば村山龍平なる一富豪がその筋力をもってあるとあらゆる有名な文学者(主として小説家)をおのが手下に網羅したるものにして、「大阪朝日」・「東京朝日」・「国会」【注】の三新聞に従事する小説家は自ら打って一丸となされたるの観ありこれを名づけて小説家買占め策といふ。坪内逍遥・森鴎外・尾崎紅葉などの三派を除きて外は多くこれ小説家買占策の餌食になりしものにてその人々は誰々なるか枚挙に耐えねばここには言はず、知る人は知るなるべし。」
      【注】「国会」は「東京公論」と「大同新聞」が合併して出来た村山龍平系の大新聞。

      村山とは朝日新聞の社長であった。実際新聞小説が小説界の根本をなしているのである。

      「新聞小説は新聞の上でこそ一応もっともなれ、一たび新聞の上を離れてはまた完全なる小説といふべからざる筈なるにこれらの小説はことごとく再版して一冊の小雑誌となるは何事ぞ。いな、そはともかくも、頃者出版せらるる小説といへば必ず新聞小説の復刻にのみ限りたるは不思議千万の事ならずや。今日の小説界は真に新聞文学の一部分としてわずかにその命脈をつなぐものといふべし。」(新聞雑誌)

       明治25年11月19日に子規は「日本」に入社した。陸羯南から出された条件は、いやなときは出社しないでもいい、ただし月給は15円である、というものであった。子規は「日本」に就職を決めるのだがその時親戚にこんな手紙を送っている。

      「尤も我社の俸給にて不足ならば他の「国会」とか「朝日新聞」とかの社へ世話いたし候はば三十円乃至五十円位の月俸は得られるべきに付きその志あらば云々と申し候へども、私はまづ幾百円くれても右様の社へははいらぬつもりに御座候」

      朝日を勧めたのは陸であろうがきっぱり断っている。それくらい正岡子規は朝日新聞が嫌いだったのだ。
      明治三十一年七月十三日、正岡子規が書いた墓碑銘がある。その後、4年を生きたのだが、本当の墓碑銘というよりは、社会批判と見た方がよい。月給額が上がっているのが、切実でいい。

      「正岡常規又の名は処之助又の名は升又の名は子規又の名は獺祭書屋主人又の名は竹の里人。
      伊予松山に生まれ東京根岸に住す。
      父隼太松山藩御馬廻加番たり卒す。
      母大原氏に養はる。
      日本新聞社員たり。
      明治三十□年□月□日没す。享年三十□月給四十円。」

      正岡子規は、日本新聞社員に限りない名誉と自負を感じていたのだ。子規の全存在は日本新聞社員であった。それはこの墓碑銘でわかる。
      だから、余計なことだが正岡子規の後継者は高浜虚子ではないと思う。日本新聞社員を引き継いだ河東碧梧桐なのである(碧梧桐は、陸や古島ら日本新聞の幹部が選んだものである)。

      ⑤文章
      なお小説の問題は必然的に文体問題を含むが、子規は「文章」の中で、純粋の国文、純粋の漢文、純粋の英文、漢文の仮名くづし、直訳体、新聞体、書簡文、言文一致流を列記するが、その結論は微温である。

      「各種の文体みなそれぞれの長所あればすべからくその長所を利用して或は優美に或るは繊細に或るは簡雅に或るは穠艶にもってほかの文体の及ばざるところを補益すべきなり。」
      「必ずしも国文学者流の如く千年前の死文法を復活するに及ばず。けだし文法は時代とともに推移する傾向を有すればなり。必ずしも言文一致者流の如く文章と言語と一致するに及ばず。けだし最多数に解し得らるる文章は多く最上の文学ならざればなり。」(文章)

      自らの執筆する擬古文調の多くの文章に対する批判が生まれない以上新しい小説は生まれない。それは後年、子規の主張する写生文を積極的に採用した夏目漱石によって初めて完成するのである。

      ⑥その他(院文)
      子規が掲げる院文は前述の通り浄瑠璃の台本を指すが、ここでは楽曲や所作と一緒になる文学のことであり、子規としては純粋の文学としては考えておらず、ほとんど文学論としては関心を持っていない。これは連句が文学以外の要素を持っていることから論じようとしなかったのと同様である。

      「浄瑠璃の各種類はもちろん謡曲狂言琴唄端唄の類をも含ましむるの意・・・要するにここに論ぜんと欲するところは独立したる純粋の文学に非ずして半ばは文学に属し半ばは音楽または所作に属する一種の合同美術中についてその文学に属する部分のみに関するなり。」
      「余はここに詳論する能はざるなり。何となれば第一余は演劇のことに通ぜず第二に今日の演劇はますます文学に遠ざかるの傾向あればなり。」

      2018年1月12日金曜日

      第81号

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      今冬発行!!
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      新年の御あいさつ ――「連衆」歳旦帖―― 筑紫磐井


      平成二十九年 俳句帖毎金00:00更新予定) 
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      平成二十九年 冬興帖

      第一(1/12)小沢麻結・夏木久・辻村麻乃・堀本吟・網野月を・坂間恒子


      平成二十九年 秋興帖

      補遺(1/12)早瀬恵子
      第十(12/29)中村猛虎・仲寒蟬・堀本吟・田中葉月・望月士郎・筑紫磐井・佐藤りえ
      第九(12/22)下坂速穂・岬光世・依光正樹・依光陽子・ふけとしこ・浅沼 璞
      第八(12/15)小野裕三・小沢麻結・渕上信子・水岩 瞳・青木百舌鳥
      第七(12/8)林雅樹・神谷 波・前北かおる・飯田冬眞・加藤知子
      第六(12/1)花尻万博・山本敏倖・内村恭子
      第五(11/24)大井恒行・小林かんな・網野月を
      第四(11/17)杉山久子・真矢ひろみ・木村オサム
      第三(11/10)松下カロ・坂間恒子・渡邉美保
      第二(11/3)岸本尚毅・辻村麻乃・夏木久
      第一(10/27)北川美美・仙田洋子・曾根 毅


      【新連載】
      前衛から見た子規の覚書  筑紫磐井 
      (1)子規の死   》読む
      (2)子規言行録・いかに子規は子規となったか①   》読む
      (3)いかに子規は子規となったか②   》読む
      (4)いかに子規は子規となったか③   》読む
      (5)いかに子規は子規となったか④   》読む
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      ●新シリーズその1
      【西村麒麟特集】北斗賞受賞記念!
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      西村麒麟・北斗賞受賞作を読む インデックス  》読む
      【西村麒麟・北斗賞受賞作を読む0】 序にかえて …筑紫磐井
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      ●新シリーズその2
      【平成俳壇アンケート】
      間もなく終焉を迎える平成俳句について考える企画
      【平成俳壇アンケート 回答1】 筑紫磐井 …》読む
      【平成俳壇アンケート 回答2・3】 島田牙城・北川美美 …》読む
      【平成俳壇アンケート 回答4・5】 大井恒行・小野裕三》読む
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      【抜粋】
      <「俳句四季」1月号> 
      俳壇観測180/師系と世代のつながり ――六つの俳句大会に出席して
      筑紫磐井 》読む


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        • 1月の執筆者 (柳本々々・渡邉美保) 

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          ●【読み切り】BLOGは永遠か?——S夫妻のこと(筑紫磐井)  



          冊子「俳句新空間 No.7 」発売中!
          No.7より邑書林にて取扱開始いたしました。
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          題字 金子兜太

          • 存在者 金子兜太
          • 黒田杏子=編著
          • 特別CD付 
          • 書籍詳細はこちら (藤原書店)
          第5章 昭和を俳句と共に生きてきた
           青春の兜太――「成層圏」の師と仲間たち  坂本宮尾
           兜太の社会性  筑紫磐井

          【新連載】前衛から見た子規の覚書(9)俳句は三流文学である  筑紫磐井

          すでに述べたように、子規は幼少より漢詩・漢文・論説などにたけていたものの、和歌、俳句はよほど年を加えてから関心を持ち始めている。和歌、俳句に関心を持ち、それらを記録し始める頃には、当時の文学と考えられる大半のジャンルにある見識を持って臨むようになっていた。単なる和歌、俳句に関心を持っていたのではなく、文学の中における和歌、文学の中における俳句という位置づけで、歌論も俳句論も展開されていた。この点を見逃すと、子規の位置づけがやけに矮小なものとなってしまいかねない。
          個別のジャンルについて考える前に、文学のあらゆるジャンルについて子規の文学総論を眺めておくことは決して無駄ではあるまい。

          子規は、全文学体系の中で、個別の文学ジャンルを位置づけるという作業を何回も行っている。実際、こんな例がある([]内は具体的内容)。「文学雑談」(26年1月15日「早稲田文学」)[国詩と欧詩、韻文と散文、和歌と俳句]、「文界八つあたり」(26年3月22日~5月24日「日本」)[後述]、「文学漫言」(27年7月18日~8月1日「日本」)[外に対する文学、内に対する文学、文学の本分、文学の種類第一(内国と外国、)文学の種類第二(古文と今文)、文学の種類第三(韻文と散文)、文学の種類第四(天然と人事)、和歌、俳諧、和歌と俳句]、「文学」(明治29年8月5日~11月20日「日本人」)[①俳句②和歌③新体詩④新小説⑤漢詩について当代の作品を論評]などである。
          今回、ここで特に取り上げるのは「文界八つあたり」(26年4月~5月)である。すでに俳句改良運動は始まっていたものの比較的初期の子規の生な考え方が反映されていると思うからである。
          「文界八つあたり」で子規は、和歌・俳諧・新体詩・小説・院本・新聞雑誌・学校・文章のジャンル批判を行っている。和歌・俳諧・新体詩・小説までは分かるが院本・新聞雑誌・学校・文章は奇異である。院本(浄瑠璃の台本)は戯曲を総称しているとみればよく、新聞雑誌・学校・文章は小説などと関係づけて読んでみた方がよい。
          ただ今回はまず、我々が普通「詩歌」とよぶ韻文学を眺めてみたい。つまり、俳句、短歌、詩である。
          なお、すでにこの時期子規は俳句改良に取り組んでいたから、俳句と他のジャンルを比較する方が分かりやすいので順番を少し変えて俳句から眺めて行くことにする(いずれも抜粋)。

          ①俳諧
          「発句俳諧の類すべてこれ文学に相違なくんば日本文学の過半は俳諧のために占領せられたり。俳人宗匠の類すべてこれ文学者たるに相違なくんば日本人口の千分の一はすなわちみな文学者と称すべきものなり。嗚呼何ぞ俳諧の盛んにして俳人の多きや。」
          「然れども学問に窮理と応用との区別あるが如く俳諧にも文学と応用との二種類ありていわゆる八公熊公の俳諧はこれ文学の応用にほかならずとせばすなわち可なり。ただこの場合における俳諧は床屋の将棋盤、離れ座敷の花骨牌と同種類にして文学的の俳諧とは異種類に属するのみ。(前句付け、三笠付け、の例を挙げて)・・・これもと俳諧以外のものにて文学とはなんらの関係もなければ個々に論ずる必要なしといえどもいかんせん世人はこれをもって俳諧とし俳諧師はこれをもって奇貨とするの観あるを・・・」
          「曽て都下の宗匠数十人一同に相会す。一儒生立て宗匠を罵るの演説をなすに一人のこれを聞く者なし。その訳を問へば則ちその罵言を嫌ふに非ず宗匠の過半はむしろこれを解せざる者なりと。なんぞ近時の宗匠の無学無識無智卑近俗陋平々凡々なるや。」
          「にわかに俳諧の活気を生じたるごとく見ゆるは畢竟その百か二百の俳人は商売百姓を持って組織したるいわゆる月並者流の屁鋒連に非ずして多少の学識と文才を備へたる書生仲間より出でたればなるべし。」

          ②和歌
          (和歌についても俳諧に劣らず酷評しているが、今回の原稿を書いている内に、「2018年版俳雑誌要覧」で「小特集・漢詩が読みたい」の依頼が来たので、「和歌」の部分をすっかり引用してしまった。他で使った原稿をそのままのせるのは憚られるのでここでは省略させていただく。詳しくは3月頃出る「俳雑誌要覧」をご覧頂きたい。
           それにしてもなぜ漢詩特集で、子規の和歌の論が出るか不思議なように思われるかも知れないが、これは是非特集を読んで欲しい。実は漢詩と他の詩歌との比較に当たっては、和歌が比較的に適していたからである。文学に序列をつけるのはおかしいが、この「文界八つあたり」で述べる口吻から推測すると、子規は日本の韻文学を当時(飽くまで明治20年代のことであるので注意)次のように位置づけていたようである。

          一流文学:漢詩
          二流文学:和歌
          三流文学:俳諧
          ※新出の新体詩は、以下の記述からわかるように2.5流文学と考えていたのではないか。

           一流文学と二流文学を比較することは、その境界線を知るために比較的有用であろう。しかし、一流文学と三流文学を比較することは滑稽に近い。子規が和歌の項目の中で漢詩と和歌を比較したのは意味があるが、俳諧の項目の中では漢詩との関係を言及してないのはこうした理由からであり、かつまた適切な判断であると思われるのである。
           俳人・歌人と見なされる正岡子規にあって、漢詩がこれほど高い位置づけにあることも不思議であるが、詳しくは「俳雑誌要覧」を見ていただきたい。
           こうした順位は、今日から見ると実に意外なことである。そしてこれが本当に正しい評価であったかどうかは、後の新体詩を例に考えてみたいと思う。)

          ③新体詩
          子規の当代新体詩評は、後述の小説評と同様同時代人として一応的確である。

          「而してこれを唱道せしはすでに十年の前の[筑紫注:井上哲次郎]ゝ山巽軒先輩が新体詩抄なる書を著して世に公にせしの時にあり。爾後文学の進歩するとともに美妙梅花湖処その他幾多の少壮文学者を鼓舞してこれを新体詩家の壇に上らしめ彼いわゆる新体詩歌なるものを歌はしめたり。・・・而していまだ数年を経過せざるの今日彼らが潜在普及に伝へんと誇言せし数十篇の新体詩はことごとく雲散霧消してまた昔日の拍手喝采の谺をも留めざるに至れり。」
          「ゝ山先生が文学における功は世人に新体詩なる観念を印記したるのみにしてその著作は毫も文学士の価値あるものに非ず。・・・見よや今日の少しく心ある者はみなこれに唾するの時代において無学の兵士と小学の生徒はなおかの抜刀隊の歌をもって無常の名作となすに非ずや。・・・一口に言へば新詩人には誰でもなれると思ひしがそもそも間違ひの根本なり。もし今後新詩人の出づる者あらばその人が詩人たるの性質を帯びざるべからざるは言ふまでもなきことにしてしたがって高尚脱俗の詩想を有せざるべからず。従来の詩人は種々の変調を工夫することをのみ務めたれども終に高尚なる観念を養ふ事を知らざりき。余は今日の形勢よりこれを見て高尚なる詩想と富贍なる文字とあらばたとひその調べは七五にても五七にてもはたいかなる変調なりとも格別の差違なしと断言するものなり。」
                *      *
          この子規の新体詩に対する評価は、4年後に全く覆ることになる。なぜならば、島崎藤村が登場するからである。「若菜集の詩と画」(明治30年9月27日)においては、全く異なる評価を新体詩に与えている。

          「新体詩を真面目に作る者は藤村なり。新体詩の詩想に俗気を脱したる者は藤村なり。新体詩の字句の散文的ならざる者は藤村なり。若菜集収むる所長短数十編尽く悽楚哀婉紅涙迸り熱血湧く底の文字ならざるは無し。其句法曲折あり変化あり波瀾あり時に奇句警句を見る。吾望を藤村に属す。」

           僅か4年の間である。新体詩の世界の変化はこれほどに激しかったのである。もちろんこのあと子規は藤村に対し沢山の難癖をつけるが、井上ゝ山とは比較にならない傑作であったことは間違いないし、子規自身、藤村に対抗できるとは思っていなかったようである。子規の批判の根拠は次の点であった。

          「藤村の詩皆抒情的なり。抒情或は詩の本意ならん。但叙景叙事を仮らざる抒情詩は変化少なし。・・・抒情の外に叙景あり叙事あり。主観の外に客観あり。恋愛の外に忠君友愛慈悲等あり。藤村は自ら画する者に非ざるか。」

           しかしこれは抒情詩を抒情詩以外に発展していないじゃないか(しかも子規は抒情は「詩の本意」であると言っている!)、という無理難題に等しい。そして実際それ以降の新体詩の発展(また近代詩、現代詩への発展でもあるが)は、――叙事詩に関して一部そうした動きもあったものの、叙景詩に関してはほとんどなく――子規の批判など全く関係なく展開して行くのである。 だからこの発言は、むしろ詩歌(韻文学)の中の特殊な和歌・俳諧の中でのみに成り立つ批判となるのである。

           いずれにしろ、当代文学史・文芸時評というのは、当代の作品に関してのみ言い得る一種の「限界評論」にすぎない。ある日たった一人の作家、たった1冊の詩集の登場によって当代文学史・文芸時評はあっという間に覆る。それは、子規と雖も逃れられない運命であった。しかし「限界評論」を「限界評論」として自覚するとき、逆に初めて普遍的な「評論」への道が開かれ、曙光がさしてくる。子規の新体詩評の中にはかすかにそうした匂いが感じられなくもない。「限界評論」のただ中に暮らしている我々にとって、普遍的な「評論」への道はそうした方法しかないように思える。これは私自身への反省である。

          新年の御あいさつ ――「連衆」歳旦帖――         筑紫磐井

          あけましておめでとうございます。

          「俳句新空間」(冊子)も第8号を送り出すことができた。4年目の刊行となる。
           また、BLOGは創刊以来5年を経過している。
           「豈weekly」から数えればBLOGとしては8年目となる。 これも参加者の協力の賜物である。深く感謝申し上げる。

           昨年は「萬緑」が終刊し、今年も「海程」、「狩」の終刊が予告されている。さらに歴史ある雑誌の休刊・終刊もうわさされている。
           もちろん新しい雑誌も創刊されるのだが、やはり時代を担った雑誌の終刊は大きく、欠落感は否めない。新刊雑誌が、こうした終刊する雑誌を補って余りあるとは思えないからである。問題はエネルギーである。後続雑誌の生まれるのも悪いことではないが、それは雑誌の師系が続くという意味において価値がある。「海程」や「狩」が創刊したときのエネルギーの総和(人数×情熱)は俳句史においてその後二度と登場しないように思われるがどうであろうか。新雑誌の主宰者にはとてつもないエネルギーを爆発させてもらわねばなるまいと思う。

           現在俳句結社を支えているのは高齢層・老齢層である。この老齢層がいかに長く活動可能かが結社の運命を決めてゆくように思われる。
           もちろん若手たちを無視しているのではない。しかし昔から若手たちは新しい同人雑誌の中心となり、雑誌を刊行してはつぶしていった。こうした例は今も盛んに行われている。これは普遍的な方式といってよいだろう。
           従来からマイナーな在り方としてのこうした若手たちの媒体は引き続き継続するであろうが、かといって現在圧倒的多数の結社がこれに代わることは考えにくい。

           現在の結社――比較的多数の老齢層と、やや少数の若手がバランスを持って構成する結社方式――に代わる新方式は、こうした若手の同人雑誌とは少し違うものではないかと思われる。
           考えてみると、現在の結社は、名誉主宰――主宰――幹部同人(編集長、同人会長、有力地方支部長など)―同人―会員で構成されるのが大半であり、上昇志向の日本株式会社方式であったといえるだろう。しかし、これを維持するのが次第に難しくなってきているのだ。それにふさわしい新しい雑誌刊行の方式が必要になる。

           偶然か、意図したかは別にして、「俳句新空間」で取り上げた方式は、これからの結社の在り方の参考にはなると思う。もちろん、「俳句新空間」は「俳句新空間」なりの考え方で採用したのだが、いろいろ困難が生じたときの回避の仕方は、案外、伝統だろうと、前衛だろうと同じなのかも知れない。 それは極めて卑近な原理であり、経験的に得られた手法である。それは、――

          ①できるだけ永続する(参加者に次号がつづくことに期待してもらわないといけない。しかし師系の維持と違って、絶対永続させるまでの必要はないだろう)。
          ②できるだけ経費負担を抑える(当然であろう)。
          ③句会や吟行のような移動、特に編集会議のための移動を抑制することが望ましい(高齢者には耐えられないから)。
          ④校正、編集、連絡などの業務をできるだけ簡素化することが望ましい(電子媒体を使えばほとんど校正が不要になる)。
          ⑤いずれにしろ、一人の人が負う負担を極力軽減する。逆に、従来の主宰や編集長のような権力を持たない。
          ⑥電子媒体と紙媒体が相互にバックアップする。いざという場合のためにも、便宜があるだろう(実際、人生何があるかわからない)。

           さらに、これに加えて、次のようなメリットもある。

          ①従来の結社雑誌の同人のような継続的な身分関係がなく、登録さえすめば、自分の都合に合わせて(体調とか精神状態とか家庭の事情とか)随時発表ができる。出入り自由なのである。
          ②特にBLOGは頁数に限界がないので、今までの雑誌ではできなかった無制限の記事執筆や、とんでもない企画も可能である(「俳句新空間」の例では、西村麒麟や曽根毅の壮大な句集特集、御中虫や西村麒麟の連載企画などがある)。 必要なら抜粋して雑誌に載せることも可能であるし、これをもとに一気に単行本化をすることもできる(単行本の例としては「豈weekly」の例だが『佐久の星 相馬遷子』がある)。

           こんな風に刊行されて行く雑誌(BLOGも)は、もはや結社とは言えないかも知れない。「連衆」と言うべきなのかも知れない。 まさに、歳旦帖をまくのにふさわしい仲間である。