すでに述べたように、子規は幼少より漢詩・漢文・論説などにたけていたものの、和歌、俳句はよほど年を加えてから関心を持ち始めている。和歌、俳句に関心を持ち、それらを記録し始める頃には、当時の文学と考えられる大半のジャンルにある見識を持って臨むようになっていた。単なる和歌、俳句に関心を持っていたのではなく、文学の中における和歌、文学の中における俳句という位置づけで、歌論も俳句論も展開されていた。この点を見逃すと、子規の位置づけがやけに矮小なものとなってしまいかねない。
個別のジャンルについて考える前に、文学のあらゆるジャンルについて子規の文学総論を眺めておくことは決して無駄ではあるまい。
子規は、全文学体系の中で、個別の文学ジャンルを位置づけるという作業を何回も行っている。実際、こんな例がある([]内は具体的内容)。「文学雑談」(26年1月15日「早稲田文学」)[国詩と欧詩、韻文と散文、和歌と俳句]、「文界八つあたり」(26年3月22日~5月24日「日本」)[後述]、「文学漫言」(27年7月18日~8月1日「日本」)[外に対する文学、内に対する文学、文学の本分、文学の種類第一(内国と外国、)文学の種類第二(古文と今文)、文学の種類第三(韻文と散文)、文学の種類第四(天然と人事)、和歌、俳諧、和歌と俳句]、「文学」(明治29年8月5日~11月20日「日本人」)[①俳句②和歌③新体詩④新小説⑤漢詩について当代の作品を論評]などである。
今回、ここで特に取り上げるのは「文界八つあたり」(26年4月~5月)である。すでに俳句改良運動は始まっていたものの比較的初期の子規の生な考え方が反映されていると思うからである。
「文界八つあたり」で子規は、和歌・俳諧・新体詩・小説・院本・新聞雑誌・学校・文章のジャンル批判を行っている。和歌・俳諧・新体詩・小説までは分かるが院本・新聞雑誌・学校・文章は奇異である。院本(浄瑠璃の台本)は戯曲を総称しているとみればよく、新聞雑誌・学校・文章は小説などと関係づけて読んでみた方がよい。
ただ今回はまず、我々が普通「詩歌」とよぶ韻文学を眺めてみたい。つまり、俳句、短歌、詩である。
なお、すでにこの時期子規は俳句改良に取り組んでいたから、俳句と他のジャンルを比較する方が分かりやすいので順番を少し変えて俳句から眺めて行くことにする(いずれも抜粋)。
①俳諧
「発句俳諧の類すべてこれ文学に相違なくんば日本文学の過半は俳諧のために占領せられたり。俳人宗匠の類すべてこれ文学者たるに相違なくんば日本人口の千分の一はすなわちみな文学者と称すべきものなり。嗚呼何ぞ俳諧の盛んにして俳人の多きや。」
「然れども学問に窮理と応用との区別あるが如く俳諧にも文学と応用との二種類ありていわゆる八公熊公の俳諧はこれ文学の応用にほかならずとせばすなわち可なり。ただこの場合における俳諧は床屋の将棋盤、離れ座敷の花骨牌と同種類にして文学的の俳諧とは異種類に属するのみ。(前句付け、三笠付け、の例を挙げて)・・・これもと俳諧以外のものにて文学とはなんらの関係もなければ個々に論ずる必要なしといえどもいかんせん世人はこれをもって俳諧とし俳諧師はこれをもって奇貨とするの観あるを・・・」
「曽て都下の宗匠数十人一同に相会す。一儒生立て宗匠を罵るの演説をなすに一人のこれを聞く者なし。その訳を問へば則ちその罵言を嫌ふに非ず宗匠の過半はむしろこれを解せざる者なりと。なんぞ近時の宗匠の無学無識無智卑近俗陋平々凡々なるや。」
「にわかに俳諧の活気を生じたるごとく見ゆるは畢竟その百か二百の俳人は商売百姓を持って組織したるいわゆる月並者流の屁鋒連に非ずして多少の学識と文才を備へたる書生仲間より出でたればなるべし。」
②和歌
(和歌についても俳諧に劣らず酷評しているが、今回の原稿を書いている内に、「2018年版俳雑誌要覧」で「小特集・漢詩が読みたい」の依頼が来たので、「和歌」の部分をすっかり引用してしまった。他で使った原稿をそのままのせるのは憚られるのでここでは省略させていただく。詳しくは3月頃出る「俳雑誌要覧」をご覧頂きたい。
それにしてもなぜ漢詩特集で、子規の和歌の論が出るか不思議なように思われるかも知れないが、これは是非特集を読んで欲しい。実は漢詩と他の詩歌との比較に当たっては、和歌が比較的に適していたからである。文学に序列をつけるのはおかしいが、この「文界八つあたり」で述べる口吻から推測すると、子規は日本の韻文学を当時(飽くまで明治20年代のことであるので注意)次のように位置づけていたようである。
一流文学:漢詩
二流文学:和歌
三流文学:俳諧
※新出の新体詩は、以下の記述からわかるように2.5流文学と考えていたのではないか。
一流文学と二流文学を比較することは、その境界線を知るために比較的有用であろう。しかし、一流文学と三流文学を比較することは滑稽に近い。子規が和歌の項目の中で漢詩と和歌を比較したのは意味があるが、俳諧の項目の中では漢詩との関係を言及してないのはこうした理由からであり、かつまた適切な判断であると思われるのである。
俳人・歌人と見なされる正岡子規にあって、漢詩がこれほど高い位置づけにあることも不思議であるが、詳しくは「俳雑誌要覧」を見ていただきたい。
こうした順位は、今日から見ると実に意外なことである。そしてこれが本当に正しい評価であったかどうかは、後の新体詩を例に考えてみたいと思う。)
③新体詩
子規の当代新体詩評は、後述の小説評と同様同時代人として一応的確である。
「而してこれを唱道せしはすでに十年の前の[筑紫注:井上哲次郎]ゝ山巽軒先輩が新体詩抄なる書を著して世に公にせしの時にあり。爾後文学の進歩するとともに美妙梅花湖処その他幾多の少壮文学者を鼓舞してこれを新体詩家の壇に上らしめ彼いわゆる新体詩歌なるものを歌はしめたり。・・・而していまだ数年を経過せざるの今日彼らが潜在普及に伝へんと誇言せし数十篇の新体詩はことごとく雲散霧消してまた昔日の拍手喝采の谺をも留めざるに至れり。」
「ゝ山先生が文学における功は世人に新体詩なる観念を印記したるのみにしてその著作は毫も文学士の価値あるものに非ず。・・・見よや今日の少しく心ある者はみなこれに唾するの時代において無学の兵士と小学の生徒はなおかの抜刀隊の歌をもって無常の名作となすに非ずや。・・・一口に言へば新詩人には誰でもなれると思ひしがそもそも間違ひの根本なり。もし今後新詩人の出づる者あらばその人が詩人たるの性質を帯びざるべからざるは言ふまでもなきことにしてしたがって高尚脱俗の詩想を有せざるべからず。従来の詩人は種々の変調を工夫することをのみ務めたれども終に高尚なる観念を養ふ事を知らざりき。余は今日の形勢よりこれを見て高尚なる詩想と富贍なる文字とあらばたとひその調べは七五にても五七にてもはたいかなる変調なりとも格別の差違なしと断言するものなり。」
* *
この子規の新体詩に対する評価は、4年後に全く覆ることになる。なぜならば、島崎藤村が登場するからである。「若菜集の詩と画」(明治30年9月27日)においては、全く異なる評価を新体詩に与えている。
「新体詩を真面目に作る者は藤村なり。新体詩の詩想に俗気を脱したる者は藤村なり。新体詩の字句の散文的ならざる者は藤村なり。若菜集収むる所長短数十編尽く悽楚哀婉紅涙迸り熱血湧く底の文字ならざるは無し。其句法曲折あり変化あり波瀾あり時に奇句警句を見る。吾望を藤村に属す。」
僅か4年の間である。新体詩の世界の変化はこれほどに激しかったのである。もちろんこのあと子規は藤村に対し沢山の難癖をつけるが、井上ゝ山とは比較にならない傑作であったことは間違いないし、子規自身、藤村に対抗できるとは思っていなかったようである。子規の批判の根拠は次の点であった。
「藤村の詩皆抒情的なり。抒情或は詩の本意ならん。但叙景叙事を仮らざる抒情詩は変化少なし。・・・抒情の外に叙景あり叙事あり。主観の外に客観あり。恋愛の外に忠君友愛慈悲等あり。藤村は自ら画する者に非ざるか。」
しかしこれは抒情詩を抒情詩以外に発展していないじゃないか(しかも子規は抒情は「詩の本意」であると言っている!)、という無理難題に等しい。そして実際それ以降の新体詩の発展(また近代詩、現代詩への発展でもあるが)は、――叙事詩に関して一部そうした動きもあったものの、叙景詩に関してはほとんどなく――子規の批判など全く関係なく展開して行くのである。 だからこの発言は、むしろ詩歌(韻文学)の中の特殊な和歌・俳諧の中でのみに成り立つ批判となるのである。
いずれにしろ、当代文学史・文芸時評というのは、当代の作品に関してのみ言い得る一種の「限界評論」にすぎない。ある日たった一人の作家、たった1冊の詩集の登場によって当代文学史・文芸時評はあっという間に覆る。それは、子規と雖も逃れられない運命であった。しかし「限界評論」を「限界評論」として自覚するとき、逆に初めて普遍的な「評論」への道が開かれ、曙光がさしてくる。子規の新体詩評の中にはかすかにそうした匂いが感じられなくもない。「限界評論」のただ中に暮らしている我々にとって、普遍的な「評論」への道はそうした方法しかないように思える。これは私自身への反省である。
現代でも俳句は文学ではない、文学でなくてよいとする俳人は少なくないようですが、子規にいわせれば座敷の花骨牌をやっているにすぎないということになるのでしょうね。
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