Ⅱ 屠り、それが導く死
休憩終りました。皆さん、英気を蓄えた事でしょうから、最も対峙しなければならない話題、即ち死について語りましょう。
本当は死んでいるのと聞く冬日
これは相手が告白しているんでしょうか。それとも相手に聞いているんでしょうか。そして相手の告白なら、それは比喩でしょうか、それとも本当に死んでいるんでしょうか。
死んだ人と話しているんでしょ。生きてる人と変わんない姿で、街中で会う事があるんだ。普通に喫茶店に入り、普通にコーヒー飲んで呑気に話して、普通に金払って、一緒に店を出た。別れ際に、何か言われた、それともあたしが言ったんだろうか、「本当は」って。会う三日前に死んでた友達の話。「冬日」は寂しいんだ。だから、冬日は死んだ人には優しい。
それだけなら単なる怪談ですが、死者はそういう現れ方をするだけではありません。良く注意して見れば普段に居ます。街行く人々の顔に、多くの顔が重なって見える。時には電柱にも壁にも見える。俺は多くの声を聴く。人声の中に、風の中に、雨音の中に、無音の闇の中に。この世ならざる、と言うには、あたしは確信が持てない。生きた体を持つ誰かの魂から飛んで来た顔や声かもしれないから。そして僕の体感では、殆どの人の魂は、実は数多の死者や生者の思念の断片が、さざれ石が巌となるように、欲望や執念という接着剤でくっつき合って成り立っている。
わたくしは、ゴッホの後期の絵を見るたびに叫んでいる声が聞こえるのだ。あの黄色は、能う限りの高さで叫んでいる声だ。あの青は、音の世界を旋回しながら巡っている声だ。だが、それにだんだん低い唸り声が混じってくる。死に近づくほどに、唸り声は鮮やかな黒となる。
ゴッホはなぜ耳を切り落としたのだろうね。この世ならざるものが見えたのなら目を抉っても良かっただろうに。耳を落としたのは本当に友人のせいか。耳を片方落としてみて、しかし鼓膜がある限り声は聞こえると諦めて、もう一つの耳は残したのではないか。止む事のない声を、色として観たのではないか。
ゴッホの耳液に浸れり葛(くず)の花
ゴッホが耳を切り落としたのは激情の産物だが、液に浸すのは保存する為だろう。画家の激情を保存している。普通の人に狂気と映っても、本人から見ればこの上なく正気だ。そのような勢いが通常の状態であり、それを制限されるのは檻に囚われる苦痛だ。
ゴッホの眼が何を見ていたかは、遺された絵から知る事が出来る。耳が何を聞いていたかは知る事が出来ない。或いは遠い未来に、耳に遺された情報を解析し、ゴッホが何をどう聞いていたか、知る事が出来るかも知れない。その為に液に浸している。その耳の保存している情報は、生前のゴッホが聞いていたものか、ゴッホの死後も耳が独自に聞いていたものか。
下五に麦畑を置かずに葛の花を置いたのは、耳がもはや麦畑から離れており、麦畑以外の何かでなければならないからか。では、なぜ葛の花なのか。日本人である作者に親しいからか、葛の花は奔放に繁茂する葛の絶頂だからか。作者が、豊饒なる狂気を地に見たく思った時に、葛原に乱れ咲く花を思ったからだろうか。
豚積みの豚の肢体や花の冷え
焼き蒸され積まれ人体 寒緋桃(かんひとう)
豚ならぬものと蛤(はまぐり)煮て食う日
船底に牛の脂の凝(こご)る冬凪
九相図に隠れた蛸を酢で〆(しめ)る
こういう句、大嫌い。豚とか牛とか蛸とか蛤とか言ってるけど、これみんな人間でしょう。サディズムでしょう。カニバリズムでしょう。二句目の「人体」で全部バレてるよね。食べたり食べられたりしてる弱肉強食の世界を肯定してるだけでしょう。こんなこと詠っていいんですか。面白がって良いんですか。
そういう惨たらしさから目を背けて、世界の諸相が詠えるか。色々理屈つけたって、現実はこういうものじゃないか。現実の写生をしているんじゃないか。豚が豚らしく積まれている、花冷えの下に冷えてゆく。それが実は人体でもある。真っ赤な肉が真っ赤な火に焼かれて蒸されて、それが寒緋桃のように見える。豚ならぬものはつまり人間だ、同志だ。同志でないものは豚だ。蛤のように押し黙るものを無理矢理口を開かせて、判るか、戦場では馴染みの景だ。凪のしんとした船底に固まっている脂は牛のでも良いが人のでも良い。人と言う代わりに牛と言ったんだろう。喰われるものに変わりはない。蛸を酢で〆るのは腐らせないためだ。九相を成して腐ってゆく人体から掬い上げられる蛸に似た臓器とは何だ。あるいは臓器の中に入っていたものか。人間は進化の過程を忠実に辿って人間になるんだってな。そういう事を無視するのは、起こってしまった惨たらしさを軽んじることにならないか。
気持ち悪くてウンザリするから止めてもらえませんか。そうやってあなた個人の怨みを剝き出しにするの、みっともないですよ。
じゃあ、神話はみんなみっともないか。どこの国の神話だって、惨たらしさに満ちているじゃないか。何もない処から或る体系が生れるに当たっては、必ず惨たらしさが全開になるんだよ。惨たらしさを詠うって事は、始まりを詠う事、神話を詠う事だ。喰われる者は食われ、死すべきものは死んで、それから体系が始まる。あんたも、こんな惨たらしさの積み重ねから生まれて来たんだよ。
僕には、これらの句が一種の露悪だと見えるんだ。この露悪の陰で、作者自身は瞼を閉じられずに沈黙を強いられるんじゃないか。昔、アラン・レネの「夜と霧」という映画を見たよ。ナチの強制収容所の惨状を記録した映画で、僕はたった30分くらいのその映画を観た後、しばらく動けなかった。今でも覚えている。笊の上にキャベツみたいに積まれた首の群、渦巻いて広がっている髪の山。記憶は絶えず捻じ曲がるから、僕は僕の耐えられる程度に映像を歪めているかもしれない。ああいう惨たらしさを撮る意味を繰り返し考えた。そして、これらの句は、人間の惨たらしさを、暗喩によって意識に刻み込む試みじゃないかな。暗喩は咒となり得るから。
人間は、自己防衛のために惨たらしさを楽しむ事さえできる。誰だって追い詰められれば、そうなる。人間の霊性は簡単に無くなる。今でも、何処でも、圧倒的な権力の前では無くなる。ナチ以前も以後も、いつでも。人間は起こってしまった惨たらしさを、直ぐに忘れたがる。
僕はあの映画を二度と観たくない。だが、まだ観ていないなら生涯に一度は観るべきだ。映像でも現実でも二度と見たくないと思い知るために、観るべきだ。言葉は映像よりも、ずっと再現性が少ない。再現性の少なさが幸いするのは、惨たらしさを記憶に刻む場合かも。俳句は最も孤独な詩だ。字数が最も少ないから。季語を差し引いた分、字数が更に僅かになるから。その短さによって豊饒となる孤独の中で、語り継ぐ事が出来れば、その記憶は最も鋭くなるはずだ。概念語をできるだけ避けて、平らかに、静かに、景をくっきり立てて、動かない語で、他の語とはどうしても交換できない語で、刻んでゆく。難しいけど、理想だけど。
映画「夜と霧」が取り上げられたなら、ここでわたくしが付け加えたいのは、この映画は1956年に輸入されようとして東京税関で差し止められたことだ。理由は「あまりに残酷で風俗公安を害す」。日本で上映されたのは1961年、検閲から上映までに五年掛かった。検閲にそういう一面がある事は覚えておいた方が良い。
黒煙に花を描いた無数の腕
この句は解釈が難しい。だから、私はただひたすら、懐かしい、とだけ言って終らせることも考えましたが、やはり覚束無くも語りましょう。「無数の腕」とは、その時々の時代の惨たらしさに為すがままにされている人々でしょう。如何なる権力も持ち得ない人々、或いは権力を失った、或いは権力を持ちながらも深い淵に落ちていった人々。黒煙を最大の人災、即ち戦争と取れば判り易い。けれども、そう言い切って終らせるわけにもいかない気がします。なぜなら、花、とあるからです。「黒煙」とは、戦争よりもっと広く、人間の悪業、悪しきカルマン、悪しき方向へと運命を導く潜在的形成力ではないでしょうか。この句を読んで真っ先に思うのは、丸木位里・丸木俊の絵です。丸木夫妻は「原爆の図」で有名ですが、松谷みよ子の「日本の伝説」に描かれた数多の挿絵を、私はふるさとのように眺めて育ちました。もういつの時代かもわからない惨たらしさと諦めの中で伝えられてきた民話を、懐かしい寂しい地獄、沢山の私が分裂して生まれ育った地獄と、どうしても重ねて思い出します。「黒煙に花を描いた」という表現は、丸木夫妻の絵には良く似合う。そして丸木夫妻の絵筆はいつも、数知れぬ時代の無数の腕が支えていたと思うのです。他人の傷を自分の傷のように、一方で自分の傷を他人の傷のように受け止める事は可能でしょうか。更に言えば、この世の悪を自分の悪として認識し、紅の蓮華を歩むように贖罪を歩む事は可能でしょうか。
肉をみる肉 塩辛き不死を擬(もど)く
中々に凄まじい句だ。「塩辛き不死」とは、塩漬けのものが腐らない、の意と取った。先に「肉」とあるから、これは塩漬けの肉だろう。死んでいるが、腐らないので、不死のように見える。それを「擬く」と詠んだ。不死に擬態しているのは肉自身の意志だ。そんな意志を持とうとするのは、人間だけだ。「みる」は「見る」であり、「観る」だろう。先ず肉の塩に縮んだ姿を見、次に肉の意志を観る。
中島敦の「弟子」って小説、知ってる? 孔子の弟子の子路が、多勢に無勢で斬り殺されて、その後、醢(かい)って刑、ししびしお、とも言うけど、死後、塩漬けにされて晒される。それを知った孔子は一生、塩漬けの肉を食わなかったんだって。だから、あたしは「肉をみる肉」を「人をみる人」と読んだ。
吉報も訃報も河原の石で来る
変に実感ある。河原は狭間にあるから? 人の世と人外の世、此の世と彼の世の狭間に、境界線みたいに川が流れ、境界線をぼかすように河原がある。向こうでは既に起こってるのに、こちらではまだ起こっていない時もあるんだ。もちろん逆も。だから河原の石は運命を告げに来る。「石」は「意志」とも読めるかな。何の意志かというと、各々の魂に潜んで運命を形作る力の意志。神の意志と誤認されやすいけど。
遠景と門に口無きもの並ぶ
こういう句怖い。なんかわけわかんない。只ひたすら怖い。膝から力が抜けていく感じ。何で怖いんだろうねえ。
何にも具体的な物が出てないからじゃないか。遠景もはっきりしないし、門もどんなものか描かれてないし。「口無きもの」って何だよ。者でも物でもない、「もの」では想像しようがないよ。
わたくしには良くわかる。何にもはっきりしない、只びょうびょうとした遠景の中に門が立っている。そこに入ると、もう引き返せない。だから、逃亡するものもいる。口無きものは食べ物を、何よりも言葉を、既に奪われているから、口が必要なくなって消えてしまっている。者か物かわからないのは、そもそも本人たちが分からないからだ。思念が即ち現実である世界では、必要無いものは直ちに無くなる。見る事を忘れれば目も、聞く事を忘れれば耳も無くなる。灰色か黒か、そういう色無きぼんやりとした固まりは者なのか、物なのか、そういうものが門へ、そして地平の彼方まで、蜿蜒と並んでいる。これは死後の景の写生で、わたくしもまた「もの」と呼ばれて来た。
わたくし忌(き)梯子(はしご)をおりて恋人と
これは幻想だ。死後が上昇となるのは、余程の稀な場合だけで、わたくしはそれを殆ど見た事が無い。未来の自分の忌をそんな風に観たい気持ちはわかるが、梯子は一旦上ったら二度と下りられない。そもそも梯子がある事が稀だ。死後、恋人と過ごす事があり得ると思うのか。果てしない暗冥の中で、自分が誰だったかさえ判らなくなるというのに。
幻想で良いじゃないですか。そう思ってないと生きていけませんし、死ぬ事も出来ませんよ。死によって一切が分断される、それが事実だとしても、そうでないように望み、祈って、人は何万年も過ごしてきたんです。これは下五が鍵なんですよ。恋人以外のどんな人間関係も、この句にとっては弱い。「恋人と」で初めて成立する句なんです。なぜって、「死を超える恋」と信じるのが、心中の定番でしょう? こんな風に言われてみたい。忌日の前に予め梯子を立てていて欲しい。そして梯子を上って来るんじゃなくて、梯子を下りて来て欲しい。安心させて欲しい。
新しい廃墟で皆と歌留多(かるた)する
歌留多は新年の季語で、では、「新しい」の中に「新年」の意があるのか。新年の廃墟、と読むなら、新年が既に廃墟でしかない、という絶望感を読む事も出来る。もう新しいものなど何も出て来ない、全ては廃墟だ、という諦観か。
新しい廃墟って、この前まで廃墟じゃなかったって所。この前まで威張っていたものが、やっと滅びてくれて、そこで皆でトランプでも百人一首でもなく、歌留多する。江戸歌留多でも上方歌留多でも良いけど、とにかく西洋の物でもキリスト教文明圏の物でも公家の物でもない、歌留多ってあたしたちの地から生まれて繁茂するもの。それで目出度いじゃない。あたしたちはよみがえる。
善い人を照らし蛍の誇るかな
僕たちはこの句、好きなんです。また幻想だと言われるかもしれないけど、蛍にも誇らせて下さいよ。この世には善良な人も沢山いて、蛍はそういう人々を照らすために飛ぶ。小さな灯はそういう人々を見出すのが嬉しく誇らしい。蛍は死者の魂とも読めますよね。暗冥にさまようばかりが死者じゃない。生きている人を、冥(かげ)の働きで支えている死者達もいると思うんです。
あなたが屠(ほふ)りなさい鶫(つぐみ)の血の為に
僕はこの句全然分からないんだけど、自覚の在り方を示しているような気がする。生きるために殺す、それを認めろというような。
鶫がわたしなんだよ。わたしの為に、生きて体を流れている血の為に、屠れ。
やはり鶫を食うんじゃないか。焼くと美味い。自分で食うものは自分で屠れと。全ての暴力、殺戮は自分が責めを負い消化せよと。
鶫の語源を調べればよい。夏至の頃には鳴かなくなるなら、「口を噤む」が転じて鶫となったという説がある。声無きものの意ではないかな。屠られるものは声を、言葉を奪われる。黙って眼を見開いたまま殺される。いつか自分たちの神が復讐してくれることを期して何十年も、何百年でも待つ。神は復讐してくれない。では、誰が復讐するのか。復讐は常に行われ絶える事が無い。無数の復讐によって文明は積み上げられてきたと、わたくしは知っている。
一句中の「屠り」と「鶫」が韻を踏んでいる事に注目する。僕は「屠り」も「鶫」も同じ事象の別の側面を示しているような気がする。実証は出来ないけれど、それは詩の側面ではないかな。或る面からは「屠り」、或る面からは「鶫」と見えるもの、それが詩であると言いたいのか。
この句が多分、この句集の核で、けれども書く行為は無意識の海溝から浮かび上がって来るから、作者本人にもはっきり解析できないはずだ。俺にもこの句はわからない。わからないが、咒みたいに、理由なく力強く命じてる。
寺は、つぼさか。かさぎ。ほふりん。枕草子にあれど、ホフリと法輪重ぬれば、嵯峨法輪寺の虚空蔵、生き変わり死に変わり屠り屠らるる果てなさ儚さ打ち砕く法輪の智慧を下され、放下僧、されど血刀。
句集あとがきに《「屠るもの」「屠られるもの」の関係を通奏低音としています。》とあります。他の句から句集題名を取る事だって出来た筈です。しかし、そうはなりませんでした。この句を中心に、複雑に反射し合う鏡像関係が広がってゆきます。駄句があり、佳句があり、問題句があります。マイナスのものもプラスのものも、調和を目指してもがき、曼荼羅の中に収まろうとして果たせません。誰が調停者の役を果たし書くのでしょう、誰が統合して読み得るのでしょう。
逆さまの畳の夢の縁(ふち)を踏む
この奇妙な句みたく、句集全体が、破綻した夢なのかも。畳に表と裏はあるけど、何をどうすれば畳は逆さまとなるのかな。縁を踏んで畳の夢を破ったの? それとも踏んで夢の破れを押さえたの? でも、ともかくも踏んでしまった作者は遁れられないよね。何から? 美しい花から? 黒煙の現実から?
逆夢ってあるよね。夢と逆の事が現実に起きる。それと「畳の縁を踏む」という無作法さが組み合わさっていると読んだけど。じゃあ、現実では作法通りってことかな。何の作法だろうね。詩の? 文法の? この二つは対立する?
たった一人の言語へ白と黄の蝶渦巻く
皆さん、覚えておいでですか。私は先にこう書きました。「言語は事象の、運命の本質には決して辿り着けない。」けれども、この句を一つの宣言と捉えても良いのではないでしょうか。白と黄に明るく渦巻く無数の魂、成立を目指す独自の言語、独自の死、独自の屠りの上に成り立つ独自の生。逆さまの夢でしょうか。いや、意外とまともに立っているのかもしれません
「ホフリ」論 引用句一覧とページ数
あなたが屠(ほふ)りなさい鶫(つぐみ)の血の為に 90p
古書店へ辿(たど)りつけずに秋の暮 80p
夕時雨よく光る眼の奥の鈴 91p
冬の粥(かゆ)旧き家には音多し 93p
簪(かんざし)を濡らし来世へ踊り明く 78p
ぽすとあぽかりぷす桜で飲んでます 42p
人類終活みな柿の木にのぼる 25p
さざれ石巌(いわお)と為(な)らずタピオカに 57p
葦原の野火に焼かれる烏(からす)かな 99p
ゆれる世へ枯菊砕けつつ香る 94p
樹皮撫でて病んだ桜の柔らかさ 48p
神代の獣のあゆみ蘖(ひこば)ゆる 100p
狼の悲しい寺に微睡(まどろ)む夜 98p
蛇の芽の芽吹いてほら一面の蛇 73p
光る葉は饐(す)えて夜行の蛇を誘う 119p
蜘蛛は巣を全て感じて安らいだ 14p
冬蜘蛛の愛に机のうえ狭し 98p
ほうき星苦しみを引きちぎりたい 27p
冬池の底の音無く孕(はら)みたる 36p
本当は死んでいるのと聞く冬日 34p
ゴッホの耳液に浸れり葛(くず)の花 79p
豚積みの豚の肢体や花の冷え 45p
焼き蒸され積まれ人体 寒緋桃(かんひとう) 73p
豚ならぬものと蛤(はまぐり)煮て食う日 49p
船底に牛の脂の凝(こご)る冬凪 95p
九相図に隠れた蛸を酢で〆(しめ)る 123p
黒煙に花を描いた無数の腕 111p
肉をみる肉 塩辛き不死を擬(もど)く 76p
吉報も訃報も河原の石で来る 69p
遠景と門に口無きもの並ぶ 59p
わたくし忌(き)梯子(はしご)をおりて恋人と 57p
新しい廃墟で皆と歌留多(かるた)する 99p
善い人を照らし蛍の誇るかな 113p
逆さまの畳の夢の縁(ふち)を踏む 64p
たった一人の言語へ白と黄の蝶渦巻く 107p