2025年6月13日金曜日

第248号

   次回更新 6/27


■新現代評論研究

新現代評論研究(第6回)各論:眞矢ひろみ、佐藤りえ、横井理恵 》読む

現代評論研究:第9回総論・戦後俳句史を読む(私性④) 》読む

現代評論研究:第9回各論―テーマ:「精神」その他― 藤田踏青、土肥あき子、飯田冬眞、堺谷真人、岡村知昭、しなだしん、筑紫磐井、北川美美、深谷義紀、吉村毬子 》読む

新現代評論研究:『天狼』つれづれ 第2回:『天狼』創刊号の「こほろぎ」/米田恵子 》読む

新現代評論研究:音楽的俳句論 図像編 川崎果連 》読む

新現代評論研究:音楽的俳句論 解説編(第1回)川崎果連 》読む


■令和俳句帖(毎金曜日更新) 》読む

令和七年歳旦帖・春興帖
第一(4/25)仙田洋子・神谷 波・豊里友行・山本敏倖
第二(5/9)ふけとしこ・加藤知子・杉山久子・小野裕三
第三(5/23)辻村麻乃・瀬戸優理子

令和六年冬興帖
第一(4/5)仙田洋子・神谷 波・豊里友行・山本敏倖・ふけとしこ
第二(4/11)鷲津誠次・加藤知子・杉山久子・小野裕三
第三(4/25)辻村麻乃・瀬戸優理子
第四(6/13)曾根毅・浅沼璞・なつはづき・下坂速穂


令和六年夏興帖 補遺(6/13)中村猛虎


■ 第49回皐月句会(2024/5月)[速報] 》読む

■大井恒行の日々彼是 随時更新中!※URL変更 》読む

俳句新空間第20号 発行※NEW!

■連載

【連載通信】ほたる通信 Ⅲ(58) ふけとしこ 》読む

【鑑賞】豊里友行の俳句集の花めぐり30 中本真人句集『庭燎』 》読む

英国Haiku便り[in Japan](53) 小野裕三 》読む

【豊里友行句集『地球のリレー』を読みたい】8 豊里友行句集『地球のリレー』 栗林浩 》読む

句集歌集逍遙 董振華『語りたい龍太 伝えたい龍太—20人の証言』/佐藤りえ 》読む

【加藤知子句集『情死一擲』を読みたい】④ 破局有情――加藤知子句集『情死一擲』について 関悦史 》読む

現代俳句協会評論教室・フォローアップ研究会 7 筑紫磐井 》読む

【抜粋】〈俳句四季9月号〉俳壇観測260 鷹羽狩行の晩年——『十九路』『二十山』を読む

筑紫磐井 》読む

【連載】伝統の風景――林翔を通してみる戦後伝統俳句

 7.梅若忌 筑紫磐井 》読む

【豊里友行句集『母よ』を読みたい】③ 豊里友行句集『母よ』より 小松風写 選句 》読む

【渡部有紀子句集『山羊の乳』を読みたい】⑯ 生き物への眼差し 笠原小百合 》読む

インデックス

北川美美俳句全集32 》読む

澤田和弥論集成(第16回) 》読む

およそ日刊俳句新空間 》読む

6月の執筆者(渡邉美保)…(今までの執筆者)竹岡一郎・青山茂根・今泉礼奈・佐藤りえ・依光陽子・黒岩徳将・仮屋賢一・北川美美・大塚凱・宮﨑莉々香・柳本々々・渡邉美保 …




■Recent entries

中村猛虎第一句集『紅の挽歌』を読みたい インデックス

篠崎央子第一句集『火の貌』を読みたい インデックス

中西夕紀第四句集『くれなゐ』を読みたい インデックス

渡邊美保第一句集『櫛買ひに』を読みたい インデックス

なつはづき第一句集『ぴったりの箱』を読みたい インデックス

ふけとしこ第5句集『眠たい羊』を読みたい インデックス

加藤知子第三句集『たかざれき』を読みたい

眞矢ひろみ第一句集『箱庭の夜』を読みたい インデックス

葉月第一句集『子音』を読みたい インデックス

佐藤りえ句集『景色』を読みたい インデックス

眠兎第1句集『御意』を読みたい インデックス

麒麟第2句集『鴨』を読みたい インデックス

麻乃第二句集『るん』を読みたい インデックス

前衛から見た子規の覚書/筑紫磐井 インデックス

寒極光・虜囚の詠~シベリア抑留体験者の俳句を読む~㉜ のどか 》読む

俳句新空間を読む 》読む
…(主な執筆者)小野裕三・もてきまり・大塚凱・網野月を・前北かおる・東影喜子


筑紫磐井著『女帝たちの万葉集』(角川学芸出版)

新元号「令和」の典拠となった『萬葉集』。その成立に貢献した斉明・持統・元明・元正の4人の女帝、「春山の〈萬〉花の艶と秋山の千〈葉〉の彩を競へ」の天智天皇の詔を受けた額田王等の秘話を満載する、俳人初めての万葉集研究。平成22年刊/2,190円。お求めの際は、筆者までご連絡ください。

【鑑賞】豊里友行の俳句集の花めぐり 30 中本真人句集『庭燎』(2011年8月刊、ふらんす堂)を再読する。

  『庭燎(にわび)』は、『新撰21』にご一緒させていただいた中本真人さんの第1句集。

NHKの俳句王国でもご一緒させて頂いた。

 その合同句集では、「なまはげの指の結婚指輪かな」の観察眼に瞠目したものだ。

単なる季語や風俗描写を超えている。

 季語の土俵から一歩引いて現代人の生活空間を醸し出す素敵な秀句。


顔舐めに犬寄つてくる帰省かな

 具体的な犬の舐める顔がくしゃくしゃになりながら帰省の感も溢れでる。


握られてびちびち震ふ油蝉

 油蝉を握る指先にびちびちと命の振動が伝わる。五感をフル稼働する中本真人俳句には、実感が湧く。


人を見る目だけ動ける小鹿かな

 人の一挙手一投足を見ている小鹿の目だけが、動いているという。この観察眼の秀句!


糸引いて花火揚がつてゆくところ

 花火が揚がってゆくところの糸を引いていることを丁寧に拾い上げた観察眼の秀句!


焼跡のごと曼珠沙華枯れてをる

 焼跡のような枯れた曼珠沙華の発見。優れた詩的表現でもある。


蟷螂の逃げゆく時も鎌上ぐる

 蟷螂(とうろう)が逃げる際にも鎌(かま)を上げている。


近くには手渡すごとく豆を撒く

 節分の豆まきの所作をしっかりと捉えた秀句。そこには、鬼役の豆まきが人間対人間である関係性を鮮やかに捉えている。


競泳のぶつちぎりなる拳挙げ

 あのオリンピックの名場面だろうか。「気持ちいい!俳句だ。」


吸入の間もぬいぐるみ抱きしまま

 吸入の間もぬいぐるみを抱き続ける子どもへの眼差しにも観察眼が光る。


おでん屋の流れ通しの演歌かな

 俳句日記にもなる日々の観察眼の賜物。


乾杯を待つ夏料理並びけり

 乾杯を待つのは、夏料理が並ぶ。その描写力。


松茸を山盛りにして値を書かず

 値札を書かない。やり取りから始まる。松茸(まつたけ)を山盛りにして。その日常をいったん解体するように市井

 人々の一挙手一投足を描き出す観察眼に脱帽する。


夜ごと来る狸子連れとなりにけり

 夜ごと来る狸(たぬき)の変化、子連れなっている。そこに中本真人の優しい人間味を加わる。


島に着く物資に燕舞ひにけり

 船便の物資の届くお天気までも鮮やかに燕を通して描き出す。


遠足を離れて教師煙草吸ふ

 教師の鏡は、時に子どもらの遠足の場を離れて煙草(たばこ)を吸う。そんな所作のいち教師・中本真人さんなのかもしれない。つぶさに俳句にできる力量もあっぱれ。


生徒みな上がりしプール波残る

 次第しだいに俳句鑑賞者も気付かれているもしれない。観察眼の効いた1句1句がとても尊い俳句なのだ。プールを海原のように揺らしていた。プールも生徒がみんな上がった後も。プールに海原の波が余韻のように残る。

  この1句が小説いち作品に匹敵する。


村ぐるみして隠したる小鳥網

 確かある小鳥は1羽までしか飼えず登録が必要な世の中だったろうか。村ぐるみで隠してある小鳥網。其処にある風土性を見出していく真骨頂がある。


抑へたる目に涙なし菊人形

 菊人形の所作は、動かないままなのだがそこに魂が宿るように動き出す。だが菊人形の所作である抑えた目に涙がないことで人間が感知している菊人形は、人形に戻る。そこに人間が見出す伝統でもあり芸術がある。


よく肥えし生物室の金魚かな

 このような観察眼の練磨による秀句がこつこつと量産されていけば、豊かな中本真人俳句の世界が現れる。よく肥えたユーモラスさとそこに描かれていない生物室の人間模様までも連想させる。575の短い俳句だからこそ言葉に描かれていないものまで喚起できるその観察眼の力量よ。そのことを私の初期の句集鑑賞では見いだせていなかった。優れた俳人である。


流星の力抜けつつ消えにけり

 流星の力が抜けつつ消えるという観察眼に裏打ちされた描写力。


毒茸怒鳴られながら捨てにゆく

 毒茸(どくきのこ)なんかを採取してくる奴がいるか。そんな怒号までも言葉の縁から聴こえてきそうだ。


御神楽の庭燎の太き薪かな

 御神楽(おかぐら)は、日本の神道における神事の際に神様に奉納する歌舞のこと。俳句王国で御一緒した際、にさん交わした会話の際に民俗学を研究されていることをお聴きした。庭燎(にわび)の太い薪(たきぎ)。此処に中本真人の眼差しの地平があるのかもしれない。


直箸を気にせぬ仲のおでん酒

 直箸(じかばし)は、自分の箸を使って大皿料理から直接食べ物を取ることを指す。 これは、マナー違反とされていて、衛生面でも問題がある。けれども家族や拡大解釈されていく地球家族の関係性をきちんとおでん酒の言葉の縁に喚起させる中本真人俳句の秀逸さ。


雪達磨輝きながら解けにけり

 雪達磨が光をまとい、輝きながら解けていく感動をよく描けている。感動の原点をしっかりと観察眼が捉えている。


くちびるの先まで紅し桜鯛

 桜鯛のくちびるの先まで紅い。中本真人俳句の観察眼は、大量に良質な作品を生み出す。


落蝉の事切れし眼の澄みにけり

 落蝉の生命の抜け落ちた様からも観察によって詩が誕生することを中本真人俳句は、顕著に指し示す。


踊子の見分けのつかぬ厚化粧

 中本真人さんの見分けれる女性は御一人だけということか。愛しい人よ。

 

懸賞の数にどよめく相撲かな

 相撲(すもう)のこういう風景も尊い。

選びきれない秀句の数々は、俳句の観察眼の賜物だ。


 徹底した観察眼を磨いた秀作が多く視られる。

 写生俳句による坦々と磨いた観察眼に中本真人さんの人柄と言おうかユーモアとユーモラスさが滲み出て読者をにやりと笑顔にさせる。

 『新潟医科大学の俳人教授たち』(2024年刊、新潟大学大学院現代社会文化研究科)などの俳句論文もコンスタントに発表している。

 この俳句の根幹は、このまま俳句を続けていれば、いずれ大成されること間違いなしだろう。

【新連載】新現代評論研究:各論(第6回):眞矢ひろみ、佐藤りえ、横井理恵

 ★―2橋閒石の句 5/眞矢ひろみ

 物おもう昔ありけり芋の風  「虚」昭60年

 「われ思う故に我あり」(デカルト)と「昔男ありけり」(伊勢物語)を足して二で割ったようなフレーズに始まる。ただし、パロディとするには引用部分が短く、「物おもう」「昔」「あり」という抽象度の高い語彙から連想された、単なるひとつの読みに止まる。言葉に従って、古典の多義的な「ものおもひ」の世界を想起していると捉えるのが本筋なのだろう。いずれにせよ、読み手は句の冒頭基底部(*1)の面白味を曖昧ながらも感じ取ることによって、肩の力をほぐしつつ、干渉部である「芋の風」へと読み進むことができる。面白味とはもちろん句の目指す目的地ではなく、句の意義(詩的意味)に向き合うための「踊り場」と言ってよいだろう。ここでの面白味とは、俳諧、滑稽、諧謔、ユーモア、パロディ、軽口冗談等々、可笑しみを誘発するものを漠然と指している。

 「囚われない心」「いっさいに遊ぶこと」を標とし、「それと人目にも映るなら、これこそ『あそび』の冥利」とした第五句集「荒栲」から、第六句集「卯」、第七句集「和栲」に至る約十年が、俳人閒石の最後の変革時期であり、句風は成熟の域に達する。

  行春のうしろ姿の艶なりけり 「荒栲」昭46年

  螢火の奥は乳房のひしめくや  

  七十の恋の扇面雪降れり


  若竹の時間を睡りころげたり  「卯」昭53年

  蝶になる途中九億九光年

  枯山を見るに枕を高くせり

 「荒栲」は未だ前衛俳句の影響を色濃く残すが、それまでの喩偏重の技巧は減少し、「卯」では自然態の句風が中心となって、平明単純な中に多種多様な詩情を含むようになる。しかし、先に挙げた「いっさいに遊ぶことが~人目にも映る」というレベルに達するのは「和栲」(昭58年)を待たなければならない。

 初稿『橋閒石の句1』において、「和栲」から地口風のずらしを用いた句を挙げたので、ここでは別の面白味を有する句を抽出する。

 麦秋の乳房悔いなく萎びたり     「和栲」(昭58年)

 人になる気配もみえず梅雨の猫

 仮名書に生きて美貌のかたつむり

 秋茄子に目のない男ゆめを見ず     

 ひとつ食うてすべての柿を食い終わる

 これらの句風が、一般的に言われているように、俳諧・連句の諧謔仕込みによるものかどうかは定かでない。閒石本人は「(連句)の思考様式や手法などの示唆するところが、そのまま俳句につながるというふうな短絡的な問題」ではなく(*2)、「連句の生命は、むろん付合いにある。『不即不離』とか『重くれ』『軽み』などすべては呼吸自得の体感」としている。少なくとも作句上の具体的技法の面で意識したことは無く、「囚われない心」で俳句に向き合う際に、自己の内部に沈殿している諸種のものが滲み出るという感触なのだろう。つまり、少年期から蓄積された俳諧と欧米文学の素養、産土・金沢への郷愁、前衛俳句のリテラシー、これらが綯交ぜとなって微妙なバランスを保ち、更に面白味で包み込むようにして句を形作るのである。

 句風は余裕を感じさせる穏やかなものとなり、一般読者も悠然として上質な面白味を十分感じ取ることができる。思想や哲学をバックボーンに、それを匂わせつつ多義性の中に読み手を惑わせるようなことはない。それは閒石流に言えば「灰汁」に他ならない。上記五句にも見られるように、面白味にも常に人の存在、人情の絡みがあって、単純な言葉遊びにしても、風刺であるとか高尚知的でマウントを取るような現代的色合いは無く、長屋の大家さんが与太郎を諭すような優しさ、すっとぼけた可笑しみを感じてしまう。「『あそび』の冥利」としたことは、閒石が読み手にも面白味を感じて欲しい旨の吐露であり、このような立ち位置は現代俳人には珍しい。俳諧宗匠閒石の面目躍如といったところかもしれない。

 以下、余談である。交友関係を持ち、閒石と同じく俳諧や欧米詩にも造詣の深かった永田耕衣や加藤郁乎に比べると、「和栲」以降の閒石句の特色もわかりやすい。ど真ん中へ剛速球を投げ込む耕衣や郁乎に対して、スピードは無いがゾーンぎりぎりを狙って変化球を投げ込むのが閒石である。それも大きく曲がるカーブではなく、通常ラインから微かにずらすスライダーやスプリットの感じ。絶妙のコントロールがあり、さらに老獪な投球術さえあれば、年老いて球がどんなに遅くとも大投手になれるのだ。もちらん、若い頃は剛速球を目指した時期もあった。例えば第三句集「無刻」(昭32年)、第四句集「風景」(昭38年)の頃だが、少々コントロールが捗らなかった。見る側としても、初心の頃は剛速球投手に憧れるものだが、齢を重ねるに従い、絶妙な投球術に拍手喝さいを送りたくなるのも無理からぬことだろう。


*1 「日本詩歌の伝統」川本皓嗣 岩波書店 平3年
 川本は俳句を「基底部:強力な文体特徴で読み手を引き付けながら、それだけでは全体の意義への方向づけをもたない“ひとへ”の部分」と「干渉部:基底部に働きかけて、ともどもに一句の意義を方向づけ、示唆する部分」に分割する。
*2 「現代の連句と俳句」(アンケート特集) 『俳句研究』5月号 平3年


★ー5清水径子の句 4/佐藤りえ

 霧まとひをりぬ男も泣きやすし 『鶸』

 ひきつづき句集『鶸』より。掲句の初出は「氷海」11号(昭和26年)「霧まとひをりぬ男も泣き易し」。「男」に対する容赦ない把握でありながら、男「も」、つまりは「女も」泣きやすい存在である、ということを背後に忍ばせているように思えてならない。泣いてしまいたい、それは自分だけではない。「霧」とは五里霧中の「霧」ではなかろうか、時は昭和26年、径子はこれよりさかのぼること2号前の「氷海」9号より同人として題を付した作品発表を始めている。

「鶸」には直近に「寒さくる男の声をはらいのけ」がある。いずれも「男」に対して寄らず凭れず、冷静な観察眼から敷衍的な把握がなされている。句集には採られていないが、この時期、径子は同じように冷静に、距離を置いて観察した「男」を詠んでいる。

 春の雪消えて男の肩歩く  「氷海」創刊号(昭和24年)

 秋娶る男先き行く草いきれ  〃 第2号(昭和24年)

 日蔭にて雪を握れる鈍(のろ)の男よ  〃 昭和29年4月号

 句集においてもこの後もあらわれるのは、身近な存在というよりは、手がかりの少ない、どこか「顔のない」男たちだ。

 あたたかき日の男雛憂ふるよ 「昼月」

 鳩・目白・アパートに胸うすき男  〃

 飾り雛の華やぎに、女雛は堂々たるものの、男雛は憂いを帯びている。「胸うすき男」は誤解を恐れず言えば、強いとか頼りがいのあるものではない、胸とともに幸薄い男なのではないか…。

      *

 少し脱線する。さきごろ出た高橋修宏『暗闇の眼玉』の「他者としての女」の章を読みながら、径子にとっての、この書かれた「男」とはどんな存在だろうかとふと考えた。一部孫引きになるが、少し引いてみる。


(……)鈴木の〈女〉は、自分を何ものかと関係づける媒介的存在なのではないだろうか。だから、これらの〈女〉は、単に異性や他者であるのではなく、鈴木自身の存在を未知へ開くものなのだ。〈女〉と向かい合っているとき、鈴木は自らの存在を確かめたり、自己を未知へ押し出したりできたのではないか。(坪内稔典「ことばの根拠――鈴木六林男」『俳句と片言』)

 

 おびただしき蝌蚪へ女の影落ちる  鈴木六林男

 女無き春の家なり五時を打つ

 沼暗し女にほふは不安なり

 ここで記されている〈女〉とは、作者にとって異なる〈性〉をそなえた存在である。これらの作品では、そのような異なる〈性〉を磁場として、それまで馴致され既知の存在であった〈女〉が、どこか見知らぬ他者として生々しく現前しているのではないのか。そして、この自己に決して還元しえない他者性と呼びうるものが、作者である六林男の「存在を確かめたり、自己を未知へ押し出したり」(坪内)させたのではないだろうか。

……)敗戦後の六林男において、「深夜の手」以降の〈女〉という他者をめぐる作品に表出された隔たりという感情は、そのまま敗戦後の混乱した世界に対する作者の隔絶感と重なるものであったのではないのか。(高橋修宏「他者としての女」『暗闇の眼玉』)


 径子の「男」については、坪内のいう「媒介的存在」という印象は薄い。高橋のいう「隔絶感」のほうを断然強く感じるものがある。書かれた「男」は書き手と直接の関わりのない、働きかけのない存在ばかりである。シビアな観察は「あたたかく見守る」というものでもない。

 用意が少なく印象論となってしまうが、男が「女」というとき、そこには所有格を意味するニュアンスが濃くなりがちである。ワンノブゼムではない、「女」一文字でも見えない「私の」がつきまとう。

「男」はどうか。女が「男」と書いたとき、それはかならずしも「私の男」ではないように見えるのは、筆者が男「ではない」からであろうか。

 径子の「男」は書き手にとって圧倒的な他者に見える。その他者との距離によって隔絶された自己を確かめている、ということができるのではないか。その距離、隔絶感は必ずしも「男」からのみのものではない、社会との隔たりの一端、ではないか。

 ただし、距離を感じつつも、拒絶しているわけではない。「男」の「」に距離感をはかる、共感の残滓のようなものが見える。

 坪内、高橋の文を補助線に、そんなことを考えた。


●―15中尾寿美子の句 6/横井理恵

 肉体を水洗ひして芹になる      『新座』

 第1回の中尾寿美子論で最初に取り上げた句である。前回のテーマ「肉体」では、この句を取り上げることができず、ついに戦線離脱してしまった。というのも、確かに「肉体」という語が用いられてはいるのだが、これが果たして「肉体」をテーマとした句なのかどうか考え込んでしまったからである。ここには「肉体」という語から直接想起される皮膚感覚――痛覚や官能はない。あるのは五感を超越した感覚である。「肉体」という語がありながら、むしろ、これこそが寿美子の「精神」の句なのだと言えはしないだろうか。

 これとは逆に

 浅葱の精神を水通りけり       『老虎灘』

という句は、「精神」という語を用いながら、浅葱になりきって浅葱の身体感覚を詠んでいる。寿美子の句における「肉体」や「精神」という語の解釈は、一筋縄ではいかない。

 粗玉のたましひ葱の匂ひせり     『老虎灘』

 詠われているのは、寿美子にとっての精神風土たる師・永田耕衣の「たましひ」かもしれない。この「たましひ」も、精神性の象徴でありながら、なんと「葱の匂ひ」という嗅覚によってとらえられている。寿美子の感覚は、見えないものを軽々ととらえ、嗅覚や触覚に変換する。

 初夏やたたみ目のつく素魂など    『舞童台』

 魂こそは存在の中核だから、今・ここにある自分を肯定する寿美子にとって、皮膚感覚を詠うことと魂を詠うことには何の矛盾もなかったのだろう。

 そして、最晩年にたどりついたのが冒頭の句である。

 肉体を水洗ひして芹になる      『新座』

 肉体をざぶざぶ洗って、その中核にあるものが見あらわされた瞬間―――それが、すがすがしい存在としての芹への変身だった。そんな存在のとらえ方は、寿美子の「精神」そのものだったと言えるのではないだろうか。(了)

【連載通信】ほたる通信 Ⅲ(58)  ふけとしこ

   放蝶室

むらさきの花屑踏むも夏はじめ

筍のおづおづと出てずいと伸び

夏来たるアダンに棘の鋭き葉

木に木の目石に石の目若葉に雨

新緑や放蝶室の扉押し


・・・

 フェアリーリングのこと。

 十年程前のことになるが、ある公園にウッドチップが敷かれた。そのためかとも思うが茸が沢山生えてきた。

 驚いたのが「狐の絵筆」という名の茸で、しかもフェアリーリングを作っていたのである。フェアリーリングというのは茸が丸く輪になって生えてくることを指す。西洋ではその輪の中で妖精が踊ると言われていて、そのことからこう呼ばれるようになったとのことである。

私がその輪生を実際に見たのは3度。最初が先に書いた狐の絵筆。2度目が法面に生えていた白い茸。名前は知らないが、生えた場所がちょっと悪かったから、綺麗な円形は作れず、歪んだ楕円形であった。   

 3度目は池の傍の草地で、土砂降りの雨の中だった。薄茶色の茸は時間のせいか、雨のせいか分からないが、半分溶けかかっていて、綺麗でもなければ可愛くもなかった。

私が出合ったのは今のところそれだけだが、本来は芝生に多く発生するらしい。造園関係の人やゴルフ場を管理する人には、芝を荒らすとか劣化させるとかの理由で特に嫌われているようだ。私はゴルフ場とは縁の無い暮らしをしてきたから、見ることもなかったのだが……。傷んだ芝を貼り替えたりすると、その土に菌が付着していてどっと生え出すことがあり、リング状になるのだという。

 茸には有毒の物が多いから迂闊に手を出すのは危ないが、シメジの仲間など、食用になる物も結構あるようだ。

 その後、狐の絵筆を見かけたことがあった。竹藪の傍の道を歩いていて偶然見つけた。リングにはなっていなくて、ぽつんぽつんと6,7本ばかりがあった。白い茎が真直ぐ伸びて先の方が鮮やかな紅色。天辺が黒に近い緑茶色をしている。そこに小さな虫がたかっている。一本折ってみようと手を出したら強烈な悪臭! この臭いを出している黒っぽい部分はクレバと呼ばれ、虫を誘って胞子を運ばせるための臭いを発するのだという。

 先端の紅色から絵筆との名前が付いたようだが、何故、キツネなのだろう?

 今度見かけたらちゃんと写真に撮っておこうと思うが、町中に住んでいると、なかなか出会えない。しかも時間が経つとぐずぐずに溶けてしまうから、朝の内でないと奇麗な形の物には会えない。

  白茸のフェアリーリング夏至の月 井池恭子

(2024・5)

【連載】現代評論研究:第9回総論・戦後俳句史を読む(私性④)

(投稿日:2011年08月27日)


堀本:「固有のモチーフー私性」という言い方について補足する。「私性」とか「社会性」とか「詩性」等という、モチーフの一つと言う意味である。

 私は、じつは俳句でも川柳でも「存在の詩」として役割を思うので、通俗になったり自己目的化されるのは困るが、「私」と言う時空が、依然として詩の坩堝である、という考えを捨てきれないのである。波郷の境涯俳句なんか、いいなあ、と思う。川柳がそれを捨てとしたら、・・どうなるのか。

「川柳の先端では、私性の絶対性(言いかえれば、川柳の近代的個)が相対化されるという過程にさしかかりつつあるというのが現状である。」(吉澤)

 この辺りの展開の切実さは大変よくわかる。吉澤たちの真摯さを感じる詩、問題意識は正当であろう。言語世界総体のどこに切りこみ表現へ転換するか、と言うところから考えれば、本人の選択と追究の方法は自由なのである。近代文学に大きな意義をもたらした「私」追究の方法、も極限に来ている、と言うことだろうか?


筑紫:私性をめぐっては4回目に及んだ。そろそろ結び(そんなものがあるのか不明?)に近づいたようだ。議論の手順であるが、何かアプリオリに「私性」があるというと形而上学に陥りそうな気がする。社会性俳句が発生し、前衛俳句が発生し、風土俳句が発生したように、私性が川柳ではいつ発生し、俳句ではいつ発生したか、それがどのように変成したかからスタートしたほうがよいように思われる。吉澤の3段階説はそれはそれでなるほどと思えるが、俳句にはそうした段階はなかったように思われる。そもそも「私性」などという意識そのものがなかったのかもしれない。手じかな俳句用語辞典を見ても「私性」は見当たらない。「私性」を意識した俳人もいなかったのではないか。変な例になるが、前衛俳句が存在しない場合の前衛俳句とは何なのかはきわめて奇妙な質問となるであろうがこれに近いかもしれない。「私性」も同様である。「私性」のまがい物として境涯やエロスがあるのかもしれない、「反私性」の超越として安井浩司があるのかもしれない。川柳で生まれた私性を、あまり無批判に俳句に導入しないで、俳人(前回の私も含めて)は何に翻訳して私性として理解したのか、反省してみることの方が早道のような気がする。


吉澤:川柳における「私性」が俳句にそのまま当てはまらないのは当然だろう。「私性」というものを〈作者が自分のことを語ること〉あるいは〈作者と作中主体との関係〉という見方でとらえると、俳句についてこんなことを思う。

 たれ付けて串カツ重し夏の暮れ        榮猿丸

 フライドポテトの尖にケチャップ草萌ゆる

 紫陽花や流離にとほき靴の艶         小川軽舟

 岩山の岩押しあへる朧かな

 この二人の句を比べた場合、榮の句では、たれの付いた串カツを見ている具体的な主体(これが作者であるか、作中主体であるかはとりあえず保留)の存在が鮮明に感じられるのに対して、小川の句には見ている主体の存在がほとんど感じられないのである。榮の句に対するさいばら天気の小論の題が「外部から『俳句』の内部へ」ということであり、小川の句に対する関悦史の小論の題が「型に依る醒めた物狂い」であることは、何か示唆的ではないだろうか。いわば〈中心と周縁〉という対比に見えるのである(「中心」と「周縁」は方法の差であって、価値の優劣ではない)。榮と小川は、俳句という形式と歴史の集積に対して、今ここに生きている一人の作者として対峙している点では同じなのだが、見ている主体(あるいは見ている作者)の扱い方の差が、はからずも二人の評者の小論に対照的に表れているように思える。


筑紫:吉澤の言うところは確かに感じなくはない。しかし、季語「夏の暮れ」「草萌ゆる」「紫陽花」「朧」によって多かれ少なかれ主体性は剥がされているのではなかろうか。この二人と対比するには、栄の師であり、小川の兄貴分にあたる(いわゆる俳人の好きな師系に属する)小澤實を見てみるのも面白い。

 ゆたんぽのぶりきのなみのあはれかな

 夏芝居監物某出てすぐ死

 ふはふはのふくろふの子のふかれをり

 いのししのこども三匹いつもいつしよ

 小沢の流儀は、「私」を消去して、境涯もなく、季語の調和によって逆に「主体性」を主張していることだ。ここであえてこの句を取り上げたのは、吉澤のあげた、榮、小川の句は後世に残るかどうかは全く不明であるのに対し、小澤のこれらの句は既に現代の古典としての位置づけを得ていると考えられるからである。何れにしても、ここの俳句ではばらついているように見える方向性が、全体から見たときに現代俳句にあっては、反私性へ、反私性へと向かっているように見えるのである。


堀本:話は戻るが、現代俳句で、前近代の結社の制度や主宰の添削法が崩れつつあるからといっても、やはりすぐれた先輩を中心にした私塾のようなグループが出来てくるのは従来とおなじである。同人誌でも、作品を中心に、また気のあった者同士、広く組織力編集力を中心にする・・かの違いはあるが、いずれも、私性とか個性の標準は一般社会の常識のセンに従っていると思う。つまり現代俳句では、改めて私性を標榜する必要はないのであり、言語領域と生活の領域が地続きになっている、そういう事態なのだと思う。「私」も、ここではモチーフとしてはひとつの仮構なのである。 

 筑紫磐井が「私は読者を意識した女性俳句を劇場型俳句と呼んでみた」と言っている。これは面白い指摘だ。

 俳句には短歌のような自己言及性がない、俳句で自分を語ることは不可能だ、と言ったのは「京大俳句」時代の上野ちづこであるが、それはある意味で正しい。言う必要がない、とも言いうるのだが、しかるになぜ女性だけが女性性(私性)を注目され、その周辺で毀誉褒貶の評価を受けてきたのだろう。

 時実新子はもちろん、俳句の若い女性、柴田千晶や、田中亜美の作風にもでているようなエロスは今後も断続的に追究されるはずだ。また、男性からの母性や女性性という全人的なものへの幻想がある限り、女性俳句に於ける「私性」という劇場のテーマはなくなることはないだろう。


筑紫:短歌では、「おんなうた」が盛んに喧伝されたが、俳句ではこうしたことはなかった。女流俳人の時代というのは、俳句の担い手が女性になってきたということであり、俳句の本質に女性的なものが提言されたわけではないだろう。

 私性俳句はないと思うが、劇場型俳句はあり得ると思う。もし堀本に賛同してもらえるなら、私性俳句・川柳を劇場型俳句・川柳と言い換えられれば、主体の問題も新しい見方を加えられるのではないか。劇場のなかでは、女優個人、役柄上の(生身の)主人公、脚本上の(抽象的な)主人公はそれぞれに違っている。

 さらに劇評(このような評論がそれに当たろう)で批判される女優や演じられた主人公もまた異なる。役柄に興奮して女優に恋したり、舞台の役者に憎たらしさのあまり切りつけたりする勘違いはいつの時代にでもあることなのだ。だから時実新子を演じている大野恵美子が、時折役柄に不満を感じることは十分ありえると思う。それは劇場型川柳の宿命だ。しかし、鈴木六林男を演じている鈴木次郎がいて役柄に不満を感じる、ということは考えにくい。六林男俳句は劇場型俳句ではなく、全人格俳句であるからだ。


堀本 :「私性」は戦後文学の重要な規範であるが、必ずしも現在の凡ての表現者やすべてのジャンルの主要なカテゴリーではない。俳句で女性性の問題を対象化する時も、橋本多佳子や三橋鷹女のエロス性もでも「劇的」と考える方がわかりやすいかも。いちど試行してみてもいい。しかし、これは、過渡的な分析用語だとも思う。

 「私性俳句」「女性俳句」というのも、たしかに、便宜的に出てきている。むしろ存在不可能な俳句だ。本質的ではないにもかかわらず、それについての強烈な関心があると、いくつか次元の錯覚をおこるときがある、それ自体が人性の面白さであり、文学的テーマになりうる。


北村:私性というのは私にも慣れない言葉だが、これを私のなじんでいる(つまりかなり昔から活躍している)現代詩人で考えると、まず伊藤比呂美、彼女の詩の場合は、機関車のように進行する私があって、その体当たりで次々発見されていく世界は、彼女が作り出したもののように私的である。作者と作中人物に加えて世界までも彼女のものである。筑紫の言葉で言う全人格詩の極端な例であろう。

 粕谷栄市の詩では、一見作中人物は作者とも読者ともまったく異なる時代と環境に虫けらのように住み、画然と分離しているように見える。しかしその世界は、まさしく作者の世界の実感であり、彼の日常なのであると見られる。作者と作中主体は浸透し合っており、全人格の詩というよりも、作者の人格自体のシフトがなされている感がある。

俳句では

 裸体なる夫婦がわれを捌くが見え  関悦史(セレクション俳人 プラス 新撰21)

など、そうした自己を異界に移す要素を感じさせるが、一句単作で読み取ることはやや困難である。永田耕衣の作を続けて読めば、彼の主体の東洋的楽土への拡大・溶融が感じられるだろうか。

 いずれにしても「私」というものを、そう単純なものに留めたくないものだ。

 ところで、吉澤が第七回の2で挙げた先端の川柳では、言語はばらばらで文意は不明である 。したがって、そもそもの作中主体なるものが不明である。すると逆にそれを作品として押し出した作者が強く意識されることになる。

 これらに対して筑紫は、俳句では「技巧・技法万能主義」が最近のトレンドであるとする。(このことに対する筑紫の価値判断はアンビヴァレントで単純・直裁ではない。第六回の2参照のこと。)この俳句の姿勢は言語の伝統を駆使するものであり、言語の歴史的共同性に依拠する。また主題性よりもニュアンスが重視される。第七回の2で堀本の述べるように、俳句においては破壊的な試みの時代は一段落しているということか。

 吉澤の言う、大会で「抜ける」ことが目標の川柳と、結社雑誌の中で主宰の価値に沿おうとする俳句、両分野のこれまでの歴史の差も重要なポイントだね。。


吉澤:大会で「抜ける」ことを目指さない川柳人が、ごくわずかであるが現れ始めている。「23ページのメロン図について(森茂俊)」と「カモメ笑うもっともっと鴎外(小池正博)」は大会の特選吟であるが、「ララランリリリンララルラ曲がり切りなさい(兵頭全郎)」は同人誌の雑詠欄の投句である。どの句も言語実験的ニュアンスが濃厚であるが、大会で上記のような句が抜けるかどうかは、ひとえに選者が誰であるかによる。「言語はばらばらで文意は不明である」(北村)ような句を拾える選者は、残念ながら川柳界に多くはない。そういう事情が、「抜ける」ことを目指さない川柳人を生んだのではないかと思われる。


堀本:その人達がなぜ、それなのに、「川柳大会」という発表形式にこだわっていることについて、もうすこし、吉澤の意見を聞きたい。(「川柳大会」の古めかしいしかし愉しい演劇性、様式性はなかなか見ものであり、この雰囲気にはまるといきいきしてくる川柳人の遊び方は愉しい。でも、このトポスは、こういう形で継続するのだろうか?)


吉澤:理由は楽しいからだ。大会は一種のお祭りである。久しぶりの人とも出会えるし。もちろん研鑽の場でもあるが。あの楽しさがある限り、大会は続くだろう。ただ、句会大会を好まない川柳人もいる。


堀本:わりあい趣味で動いているのか。


吉澤:趣味という言葉でくくってしまうと語弊がある。研鑽や勉強の場と考えて参加している人もたくさんいるし、例えば亡くなった定金冬二は句会は戦いだと言っていたらしい。


堀本: 俳句では、実験作は、句集形式それもかなり私家版的意味合いをこめた少部数、少人数の同人誌を基盤としてきた。作品の方法は普遍をめざしむろん世に問うものであるが、作家の態度は、私性というか個の独在に賭けるとことがあった。だから、ある時期が過ぎれば、句集を出し、欲を言えば作家として生活がなりたつ市場も欲している。これも俳句の特性ではなく、時代的な特性だと思う。俳句史は、(川柳史も)表現史を中心として構成されるべきであるとともに、作家の生活史、それを流通させる流通の場が検証が可能にもなる。

 俳句表現の転換の兆しは1970以後の俳句ニューウエーブのころから目立ってきた。

 30年前、攝津幸彦は、早くから前衛実験に手をそめ、最も早い時期に伝統的な俳諧性を取り入れて、むしろ大成功した。坪内稔典は、俳句の文学的完結性を自己否定した。前世紀末ニューウエーブの異端中の異端上野ちづこは、私性の問題を思想的に突き詰めて、俳句の外に出て行き、江里明彦は批評性を盛り込んだ社会性(意味世界の構築)を取り入れることで、かろうじて俳句の側から境界に接している。「第三期京大俳句」の幕を閉じたこの二人の文学的な軌跡は、現在の川柳のモダニズム運動の行方と重ね合わせて私から見れば示唆に富んでいるような気がする。夏石番矢は、ある意味ではもっとも詩に近い言語領域を俳句の方法で渉猟した。

 川柳の現段階をあまり離れると議論が混乱するので、これはこの位にしておく。

 現在では、俳句甲子園の台頭が若者達の古典帰りを目立たせている。形は一般的な俳句形式を踏襲しながら、先端性を誇っている理由は、対象世界を摑む感性のあり方によるのだろうけれど、これが表現の現段階でに意義付けのむづかしいところである。

 川柳のもっとも若手が、脱川柳=と見まがう、意味の攪乱をめざしている方向とはすこし違うような気がする。俳句の新世代はじつに体制的なのである。


北村:私性をもう少し私の土俵に近づけて考えてみる。「作者」は自明として、そもそも「作中主体」とは何か。一応作品の中の主語のことであろう。日常詠に終止する人生・生活短歌や、風刺・滑稽を旨とする古典的あるいは時事川柳等はいざ知らず、人は他人に、悪人に、死者に、動物に、ものに、と何にでも自己を仮託できる。

 さらに難儀なことは、自己と世界の境界が定かでないというポストモダン的考え方も成立する。個というものは、便宜的なフレームとして形成される概念なのではないか。(私は実は強固な個人主義者であったのだが、このシリーズで俳句を勉強するうちに、呆けが進行して個人概念にメルトダウンの兆候が見られる。)

 吉澤が「川柳の一部では、このように「直接的に」何かに結び付けにくい句も書かれている。仮にこれらが喩であるとしたら、狭い意味の喩ではなく、世界そのもののありようの喩とでもいうべきだろう」として挙げている石部明や清水かおりも、自己と世界の境界を取払うことにより、川柳の従来の狭かった私性の論議を抜け出している。

 第3回の2で触れた後期の齋藤玄の句には、作中主体は風景であろうか。それを見る死者のまなざしが感じられるが、それは作者と作中主体の中間物とも言える。

 安井浩司の句においては、原初的で崇高さを感じさせる行為を纏う作中主体。それを見る視点は超越的にも見える。「こまめに近距離のもののみを撃つ(中略)昨今の俳句」を不幸とし、「射るべき魂は遙かに遠いところに在る」(『海辺のアポリア』「渇仰のはて」)とする。これは筑紫の指摘する技巧・技法の句の時代に対するアンチテーゼである。

 月光射して水霧となれる厠妻         『句篇』

 老農ひとり男糞女糞を混ぜる春    安井浩司『句篇』

 TOTO、INAXの時代の人が厠妻の句を受けとめうるのか不明だが、母屋から離れて野山に向かって立つ厠の記憶を持つ私には、実在を越えた絶景となる。後者、

 見渡せば柳桜をこき混ぜて都ぞ春の錦なりける  素性法師『古今和歌集』

を連想するが、はるかに啓示的である。主体は自然の点景に回収されて聖性を帯びるのである。

 河原枇杷男においても、私性は一筋縄ではない。「私」は宇宙なのである。純粋培養されている点で、浩司との違いがあるが。

 枇杷男忌や色もて余しゐる桃も    河原枇杷男『蝶座』  (色=しき)

 昼深し身に飼ふ梟また啼くも          『鳥宙論』

 これらの俳人は、素朴な意味での私性の埒外で世界に共振し、黙示録を目指すかに見える。かくして、時代の趨勢には背くが、「私性」というテーマには歴史的な意味しか無く、そこから踏み出さないと私には面白い話は始まらないと考える。


吉澤:この鼎談を通じて思ったことをいくつかあげて、締めくくりとしたい。

 川柳と俳句では、結社や句集、大会のあり方などは違っているが、共通点もたくさんあった。堀本があげたように、俳句でも川柳でも言葉の意味を霍乱するような試行がなされていること、時実新子と女流俳人との書き方が同じ質のものであること、などである。筑紫の「劇場型俳句・川柳」という整理の仕方は、川柳の「私性」を考える時に有効なヒントになる。

 相違点に戻るが、川柳と俳句の違いはやはり季語だと再確認したことである。「私性」との関連で言うと、筑紫の「季語「夏の暮れ」「草萌ゆる」「紫陽花」「朧」によって多かれ少なかれ主体性は剥がされているのではなかろうか」という指摘は示唆的だった。どのような方法で(例えば、主体性を剥がす、劇場型であることを意識して書く)書いたり読んだりするのか。これは技巧・技術の問題であるとともに、川柳観・俳句観の問題でもある。そういう二面性を持っている。

 私性川柳・俳句でも二種類ある。作者の個人的な事情に還元されて閉じてしまう句と、作者の個人的な事情に根ざしていながら読者個人個人の問題になってくる句とがある。北村の「河原枇杷男においても、私性は一筋縄ではない。『私』は宇宙なのである」という意見はそのことと関連していると思う。ここには、一句の授受はどのようになされるのかという重要な問題がある。

 他のジャンル(?)を知ることは、自分のジャンルについて考えることでもある。四回の鼎談を通じて、多くの刺激をもらったことを感謝している。

(今回をもって吉澤良久さんは、一身上の都合で退会されます。短い期間ではありましたが、濃密なご協力に感謝申し上げます。)

【連載】現代評論研究:第9回 各論―テーマ:「精神」その他  藤田踏青、土肥あき子、飯田冬眞、堺谷真人、岡村知昭、しなだしん、筑紫磐井、北川美美、深谷義紀、吉村毬子

(投稿日:2011年08月27日)

●―1近木圭之介の句/藤田踏青

 海から河童落葉のような魚をつる

 芥川龍之介の「河童」(昭和2年)は、すべてが人間社会と逆の河童の国の話で、当時の日本社会、人間社会を痛烈に風刺、批判した小説である。そして副題には「どうかKappaと発音して下さい。」という不可解な文章が挿入されている。確かにその語音から、異様な形態と水神の零落した姿へとすぐに想いが至る。

 さて掲句は「ケイノスケ句抄」所収の<妖童記>の昭和22年の連作の一句である。この場合の河童は明らかに作者の自己戯画化であり、自画像の一つの表出方法である。精神が肉体、物質に対する心、魂、知性、理性を表すものであるのなら、芥川の小説のように河童としての自己存在がその代替装置となり、現実社会に於ける疎外感の中で抱く虚無が大きく口を開いてくるように思われる。戦争も終り、当時「層雲」の中堅としての地位を確立していた圭之介ではあったが、日々の生活には悶々としたものがあったのではないか。そして「河童」と「落葉のような魚」とはいつでも逆転可能な存在位置にあり、「落葉のような」という比喩はシダの葉で頭をなでると人間に化ける事が出来るという河童に擬した自己をも暗示しているかの如くである。


   「かっぱ」               

人生に疲れた詩人がおった

石の上で休息していた

ある日 魔王が不びんな奴だと

奇蹟の水をしたたらせた

すると 一匹のかっぱになった


 上掲の詩は「近木圭之介詩抄」所収の昭和26年の作であるが、当時の圭之介の心境をそれらから類推することが出来、それが連作の句の背景ともなっていたのであろう。連作の一部をあげてみよう。

 孤独のかっぱの月の出た顔である       昭和22年

 月をとおくかっぱ石にいる            々

 河童明るい夜を暗い水を見る           々

 かっぱ冬になったひざをだく           々

 月と河童はお互いに孤独を照らし合い、暗い水と冬はかっぱの奥深くへと滲み通ってくるかの如きである。また、掲句のすべての句から「かっぱ」という言葉を削除しても、自由律俳句として立派に通用する構成となっており、「かっぱ」=「自己」という存在自体の危うさをも示唆しているのかもしれない。因みに圭之介は芥川龍之介が好きで、その「之介」を拝借し、姓と画数でバランスのいい圭の字を充てた由(*)。

 尚、昭和24年には荻原井泉水が河豚を食べる目的も兼ねて山口県の圭之介居を訪れ、そこを「河童洞」と名付けて下記の句を残している。

 熟柿 宝珠のごとし かっぱ わたしの前に置く    井泉水

 あら何ともなや ふぐの朝 ここなかっぱといる     々

 こうした河童としての想念はその後どのように展開していったのであろうか。

 思想喪失 菜の花が咲いた             昭和54年

 抽象能力ゼロ 肉ジャガがただうまい        平成4年

 自己分析 丸ごと落ちた非具象果実         平成5年

 宙(そら) 一滴                 平成16年

 具象としての自己存在は、やがてその非具象化への過程の中で、ただ一滴としての存在感へと収斂されていったようである。


*「うしろ姿のしぐれてゆくか・山頭火と近木圭之介」桟比呂子著 海鳥社 平成15年


●―2稲垣きくのの句/土肥あき子

 かくれ逢ふ聖樹のかげよエホバゆるせ  『冬濤』所収

 「女はクリスマスの夜から堕落する、ということばを何かでよんだ覚えがあるけれど、その例にもれず私も何十回かのクリスマスを重ねているうちにだんだん堕落して、こんな人間になったのではないかと思われるふしがある」

 随筆集『古日傘』の「降誕祭」の冒頭である。クリスチャンだった一家は、聖夜を家族揃って教会で過ごし、きくのは15歳で受洗している。

 先に引いた文章は、9歳の聖夜の記憶がつづられる。教会で配られる菓子を偶然ふたつもらってしまったことを家に帰って告白したが、母はにっこりと笑っただけだった。当然叱られることを覚悟していた少女は、「このくらいのことならしてもよいのだなという確信を得て、このとき、それだけ堕落した」と結ばれる。きくののひとつめの堕落の記憶であろう。

 掲句は、きらびやかな聖樹のもとでの逢瀬でありながら、隠れるようにして逢わなければならない事情が、聖なる夜をけがしていることに胸を痛める。クリスチャンであるきくのにとって、聖夜は家族とともに過ごす特別な時間であった。なおさら恋人に妻子があることを意識せざるを得ない、いわば自虐的ともいえる逢瀬である。

 背信の罪軽からず冬の虹  『榧の実』所収

にも同じ傾向の背徳感は出ているが、掲句の率直さには及ばない。きくのに字余りの作品がほとんど見られないこともあり、下六となった「エホバゆるせ」が、どうにもならない女の慟哭となって渦巻いている。

 椿真赤嫉みアダムのむかしより 『冬濤』所収

 罪なきもの石もて搏てと蛇出づる  『冬濤以後』所収

などの作品にも、クリスチャンの横顔がみてとれる。

 キリスト教のいう七つの大罪とは、「傲慢」「憤怒」「嫉妬」「怠惰」「強欲」「暴食」「色欲」であるが、きくのは「色欲」「嫉妬」に囚われる自身を、嘆き悔いていたのだろう。

 二句目は聖書の「罪なき者が先ずこの女に石を投げよ(*)」である。これは忌むべき蛇の姿に、かの言葉を重ねているが、蛇はまたきくの自身でもある。

 亡くなる数年前となる次の作品には、堕落を重ねてきたと自覚しながら、最後まで聖書を折々の心のよりどころとして、生きていたきくのの姿がある。

 復活祭亡母の聖書を死まで持つ 俳句研究 昭和57年5月号

 天上に宝積めよと聖書春  昭和58年4月号


●―4齋藤玄の句/飯田冬眞

 雁の道のごとくに死ぬるまで

 昭和53年作。第5句集『雁道』(*1)の表題作。

 この句は、句集名の由来をつづった「あとがき」とあわせて読むと理解が深まる。

 『雁道』(かりみち)という集名は、雁の通る道という意で命名した。雁道は、雁が通る時にはそれと知られる。また雁が通らなくともそこに存在する。時には見え、時には消え、在って無きがごとく、無くて在るがごとくである。これは今後の私の命のありようと、俳境のありようを示唆しているような気がする。(*1)

 上五〈雁の道〉は、「かりがねのみち」で、雁(かり)の通る道という意。雁が通ることで、そこに道があることがわかる。つまり、俳句を詠むことで生きていることを実感できるということの暗喩として読むことも可能だろう。句意としては、〈雁の道〉のように自分の命は〈死ぬるまで〉俳句とともにある。雁が通らなくとも道が存在するように、自分の命が果てた後も俳句はそこある、ということになろうか。この句には、齋藤玄という俳人の俳句に対する精神性が端的に現われているように思う。

「時には見え、時には消え、在って無きがごとく、無くて在るがごとく」という玄のことばからは、次の古歌を想起する。

仏は常に在せども、現ならぬぞあはれなる、人の音せぬ暁に、ほのかに夢に見えたまふ

(梁塵秘抄・法文歌・26)

 この歌謡は『法華経』の「方便して涅槃を現ず。しかも実には滅度せず、常にここに住して法を説く」の経文を下敷きにしている。経文の大意は、仏の死は人々を教え導くための手段として涅槃、つまり死をあらわしたのであって、実際には仏の魂は滅んでいない。常にこの世界にとどまって法を説いているのである、というもの。

 掲句と「あとがき」とこの経文・古歌謡をあわせて拝すると、どこか通底するものを感じないだろうか。おそらく、玄は熱心な身延の門徒であった祖父の影響で『法華経』は諳んじていたはずである。幼少の頃に読誦した経文が、玄の精神に影響を与え、血肉化して晩年に俳句となって現われたと考えるのは飛躍しすぎだろうか。

 四歳で父を失った玄は、函館の名士であった祖父の家に母とともに身を寄せる。祖父は玄の大学進学、就職、結婚までも支配強制したことはすでに述べた。その祖父が亡くなった際に「祖父を桐ヶ谷火葬場に焼く」と前書を付した句を参考までにあげておく。ここでの雁は現実の雁であり、季語の本意を逸脱していない雁である。

 骨ひらふ手は初雁を聴いてゐる   昭和16年作

 一方、掲句と同時期の作品に現われる「雁」を見てみよう。

 雁のゐぬ空に雁の高貴かな   昭和53年作

 雁の道はなかりき水景色   昭和53年作

 これらも掲句と同様に「雁」をモチーフにしてはいるが、現実の「雁」を詠んだものではない。想念のなかの雁であり、風雅の道すなわち俳句の象徴であると思われる。あるいは〈雁やのこるものみな美しき〉と詠んだ師石田波郷の面影を〈雁〉の姿に重ね合わせていたかもしれない。そうした心のなかの見えない「雁」であるがために、詠むたびに純度が増し、それを〈高貴〉と感じるようになったのではないか。

 膝立てて大露の雁をゆかせけり   昭和17年作

 雁が渡るのを眺めながら戦地の友に思いを馳せていた頃の句と比べると、晩年の玄の「雁」には、ある種の精神性が帯びていると言えないだろうか。

 掲句のように、目には見えないが、実はそこに厳然と在るものを言語によって表出せしめようとする作風は、『雁道』後半、昭和51年頃から54年頃にかけて繰り返し見受けられる。

 言水の非在の影をこがらしす   昭和51年作

 ある筈もなき蛍火の蚊帳の中   昭和52年作

 空だけが見ゆる不在の水かげろうふ   昭和54年作

 これらの句は、病を通して、死および命の本質というものに直面した時期に相当する。ことばが生硬すぎて、失敗していることも多いが、未知の世界の腑分けとでもいった手つきで、自身の限られた命を見つめ続けた精神力は尋常なものではありえない。そこに私は玄の俳句に対する「高貴」な精神性を感じるのである。


*1 第5句集『雁道』 昭和54年永田書房刊 『齋藤玄全句集』 昭和61年 永田書房刊 所載


●―5堀葦男の句/堺谷真人

 蠅のせて白牡丹いま道家のごと

 『過客』(1996年)所収。1990年頃の作。

 百花の王として君臨する牡丹。わけても白牡丹には清浄にして神聖不可侵のたたずまいがある。が、よりにもよって眼前の白牡丹にとまっているのは、なんと一匹の蠅なのである。当の白牡丹は、しかし、至穢の昆虫の侵冒に遭って毫も動ずることがない。清濁併せ呑む老荘の徒のごとく、悠然とかまえ、ただ静かに微笑している。

この句が作られる前から葦男は老荘思想、なかんづく『荘子』に傾倒していた。1987年の賀状に『荘子』人間世篇の「乗物以遊心(物ニマカセテ以テ心ヲ遊バス)」を引いたところ、理科系の友人は「車の運転心得かと思った」と冷やかし半分のコメントを寄越して来たという。(※1)はたから見ていささか滑稽なほどの心酔ぶりだったのであろう。

 さて、老荘への傾倒を語るのと同根の熱意をもって、葦男は夙に俳句の精神性を説いた。賀状の一件から溯ること約20年、葦男を箕面市百楽荘の自宅に訪ねた坪内稔典は、当時の印象を、後年、次のように回顧している。

 まだ20代のころ、摂津幸彦などと堀葦男を訪問したことがある。しきりに心を説き、俳句における精神性を強調する葦男をやや疎ましく感じた。東大卒のエリート意識がちらつくことも。摂津も私も私大を出たばかりであり、葦男の上からの物言いに反発したのだった。でも、葦男夫人のちらし寿司がうまかった。心には閉口したが寿司には満足した、そのような葦男家訪問だった。

 若き幸彦、稔典の辟易ぶりが偲ばれる挿話ではある。実際、後進にあてて書いた俳句論(※3)の中でも葦男は繰り返し「精神」という言葉を使っている。俳句を続けることで自分の「精神生活を、自分で見守る力」を持ち、「バックボーンがしっかりした精神生活が出来るように」なった、「句会や雑誌のグループによって、純粋な精神的交友の場を見出せた」というふうに。

 しかしその一方、「砂上の楼閣」めいた現代日本の繁栄に巣くう精神状況の貧寒さに対し、葦男は危機意識を持ち続けた。とりわけ、次のような作品に接するとき、精神性の頽廃と自己疎外に対する葦男の警戒心を筆者はまざまざと追体験するのである。

 箱のような俺 中流で回転する  『火づくり』

 廃物岬の鮮紅の沖花束死ぬ  『機械』


※1  『一粒句集』第24集 序文(1987年 電通会俳句部)
※2  「e船団」この一句 バックナンバー(2005年3月15日)
※3  『俳句20章―若き友へー』(1978年 海程新社)P7/初出は「海程」創刊号
(1962年4月)~29号(1966年12月)所収「現代俳句講座」


●―8青玄系作家の句/岡村知昭

 仰臥にて尿り糞まり神を言はず   滝沢初馬

 昭和25年(1950)9月号初出。前回の日野草城の一句と同じ病床に横たわる自らの「病める身体」をモチーフにした作品であるが、「病める身体」を通じて外の世界から訪れる音や物体の影を捉える姿勢に徹する草城の句に対して、今回取り上げる掲出句は「病める身体」を支える精神のありさまをそのままに描いた一句である。作者である滝沢初馬の詳しい履歴は不明であるが、掲出句以後に「血を喀く」との作品が見られるところから、初馬の病気が肺結核で、おそらく結核療養所で闘病生活を送っていたであろうことはうかがい知ることができる。

 昭和26年の9月号の「青玄」では「病者と俳句」というテーマで4人の論者が文章を寄せているが、その中のひとつである林田紀音夫は「サナトリウムに於ける俳句」と題した一文で、療養者の俳句について「肺外科の進歩は僕たちに希望を与へると同時に積極的な斗病の精神を醸成し、生活の領域を拡大した」と肺結核治療をめぐる状況がこれまでの「死病」との意識から療養者自身の精神にこれまでにない変化をもたらしつつあることを指摘した上で、「自らの手に拠って運命の扉を開いてゆく体験なり精神なりが、俳句としてすさまじい様相を以て結晶するやうになった」と療養者自身にもたらされた精神の大きな変化の諸相が俳句作品においても次第に現れつつある点を指摘している。この変化から生まれた作品の代表として紀音夫は石田波郷の「胸形変」を挙げこの一連において「烈しく新しい展開が為されたのである」としている。自らも療養所生活を余儀なくされた紀音夫の指摘からは、過去の絶対的な「死病」との意識から医療技術の進歩により「生」の側に戻れる可能性がもたらされたことが逆に一個人としての自分自身の「死」への意識がより高まることで、より「生」への願望や熱意そのものが俳句作品のモチーフとして浮かび上がってくる過程が見えてくるのである。

 再び掲出句に戻ってみる。自らのただ今の闘病と身体の不自由さに湧きあがる衝動にすら近い感情の動きをそのままに俳句定型に収めてしまおうとする作者の一念が、「尿り糞まり」とつぎつぎに畳み掛けてくる言葉の連なりから病床の動きを封じられている身体の姿とともに浮かび上がってくるのが見て取れ、「神を言はず」との結句は自らの自由のきかない身体に対してのせめてもの意地を感じさせることで、一句の痛々しさをよりはっきりとしたものとしようとしている。病気がもたらす肉体的な苦痛の数々が思いもかけず神への救済を口走らせそうになるそのときに「神を言は」ない、決して言ってはならないとの決意をもたらしてくれるものが、初馬の「病める身体」を辛うじて支え続ける精神そのものなのであり、その精神の姿は紀音夫が指摘した療養者の生死をめぐる目まぐるしい変化の中で揺れ動きながら存在しているのである。そうでなければ「神を言はず」とのフレーズは出てこなかったであろうし、一患者として「神を言はず」と言い放てるようになっていること自体が、まぎれもなく「戦後」の療養者である証とも言えるのだ。

 そのような一患者であった初馬の無季作品を挙げておきたい。引用は昭和31年10月号に掲載された伊丹三樹彦編の「青玄無季俳句集」より。

 童貞のわが喀く血こそまくれなゐ

 うりつくし一つのこれる銀の匙

 血を喀けばものみな遠くなるごとし

 特効薬貧しき家の金を奪う

 働かぬ手をしみじみと眺めけり


●―9上田五千石の句/しなだしん

 初蝶を見し目に何も加へざる    五千石

 第四句集『琥珀』所収。

 『琥珀』(*1)は、昭和五十七年より平成三年まで、四十九歳から五十八歳までの作品392句を収録する第四句集。掲句は平成三年作。昭和四十八年八月の「畦」創刊から十八年、いわば脂ののりきった時期、「眼前直覚」も熟成された時期といえるだろう。

     *

 著書『完本俳句塾 眼前直覚への278章』(*2)の「序にかえて」(*3)で五千石は「眼前直覚」について

「眼前」を尊重し、「即興感偶」「そのおもふ處(ところ)直(だたち)に句となる事」をめざしています。(中略)

「眼前直覚」はまた、昨日のわれは既に無く、明日のわれは未だ無い。

今日の只今われ在るのみ――という生き方へとつながっていくように思います。

と記している。

 また、著書『俳句に大事な五つのこと 五千石俳句入門』(*4)のなかで、「眼前直覚」に至る経緯について触れている。

 第一句集『田園』により第8回俳人協会新人賞受賞のあと、自意識過剰となってスランプに陥り、そのスランプは数年続く。その折、五千石はひとりで山を歩くことを思い立ち、実行する。ひたすら野山を歩くことによって無心になり、目の前にあるものを、事実をそのまま叙するという、単純な作句から自分を取り戻し、徐々に「眼前直覚」の境地に至ったのだ。

     *

 さもありなん。俳句に困ったら俳句を作る。自然のなかで嘱目をひらすら詠む。この至って単純なことが自分と向き合える方法なのだろう。

 さて掲句。初蝶の美しさを映したその目には今は何も映したくない、という明快な句意である。「いま・ここ・われ」がストレートに形になっている。このストレートさがこの句の強さであり、真っすぐさは五千石の俳句への熱い思いと詩心の象徴である。

 この句の真っすぐさこそ、「眼前直覚」であり、五千石の俳句の精神そのものといっていいだろう。


*1 『琥珀』 平成四年八月二十七日 角川書店刊 シリーズ現代俳句叢書3
*2 『完本俳句塾 眼前直覚への278章』 平成3年8月30日 邑書林刊
*3 「序にかえて」は筑摩書房『俳句の本』「題二巻 俳句の実践」昭和55年5月20日初版より
*4  『俳句に大事な五つのこと 五千石俳句入門』平成21年11月20日 角川グループパブリッシング刊


●―10楠本憲吉の句/筑紫磐井

 青葉騒きれいな嘘はきたなく吐き

 昭和44年の作品、『孤客』より。

 憲吉に高い精神性を期待するのは無理のようだ。エスプリはフランス語では精神のはずだが、日本語に入ってきたエスプリという言葉(外来語)の語感は軽妙な洒落のように受け取られている。その意味では憲吉にピッタリの言葉となった。

 我々の人生の師を憲吉には期待しない。憲吉の俳句にも期待しない。期待するのはウィットに富んだ表現。しかし手際よく言ってのけたその言葉には、いくばくかの人生の真理があることも事実だ。

 徒然草で兼好法師が「しやせまし、せずやあらましと思ふことは、おほやうは、せぬがよきなり」(したほうがいいか、しないほうがいいかと迷うことは、大体はしないほうがいいのだ)という言葉は、どんな思想哲学よりも真理に近い【注】。こうした消極主義は決して人生の教師から見ても褒められたものではないのだが、崖っぷちに臨んだ態度を決めないといけない時は、最大の決め手だ。酸いも甘いも噛み分けて、常に矛盾に満ちた言葉を吐き、芝居では恋の手引きをする粋な法師兼好は、さしづめ、鎌倉時代の楠本憲吉であるかもしれない。

 逢えば酔語逢わねば独語年暮るる

 手際よく言ってのけただけの言葉のようにも受け取れるが、この言葉の背後にはそれなりの憲吉の精神状態が浮かび上がる。酔語も独語もまともな精神状態ではないが、女に向かう時の態度はこの2つしかないのだ。女性に真面目な顔をして向かうことは、憲吉の美学に合わない。

 冒頭の句も、嘘を吐く相手は女性のような、あるいは女性が男性に向かって吐く嘘のような気がする。男対男の嘘にはきれいも汚いもあるものか。


【注】とはいえ、この言葉は浄土教の金言集『一言芳談』に載る明禅法印の言葉の引用であり、彼は「聖はわろきがよきなり」という親鸞に匹敵する言葉を吐いた傑物である。その思想的な背景は決して浅くはない(徹底した消極主義はカントのような厳格主義、義務的な行為以外は善と認めないことになるだろうから)。しかし、兼好も憲吉も決してそんなに深くはないことだけは保証する。


●―12三橋敏雄の句/北川美美

 戦争と疊の上の團扇かな

 掲句から句集名を採った『疊の上』が蛇笏賞を受賞する。敏雄69歳の時である。

 戦争が廊下の奥に立つてゐた 渡邊白泉

 敏雄が、俳句形式に立ち向い、白泉の句に対峙する代表的な戦争俳句である。

 戦争にたかる無数の蠅しずか

 戦前の一本道が現るる

 戦火想望俳句に没頭した三橋青年が「戦争」という歴史的事実を思いつづけた重みが背景にある。戦争を詠むことは敏雄にとって終生のテーマであった。

戦争は憎むべきもの、反対すべきものに決まってますけれど、<あやまちはくりかへします秋の暮>じゃないけれど、何年かたって被害をこうむった過去の体験者がいなくなれば、また始まりますね。昭和のまちがった戦争の記憶が世間的に近ごろめっきり風化してしまった観がありますが、少なくとも体験者としては生きているうちに、戦争体験の真実の一端なりとせめて俳句に残しておきたい。単に戦争反対という言い方じゃなくて、ずしりと来るような戦争俳句をね。(*1)

 生き残った敏雄がいる。

 「団扇」は夏の風物詩であるが、悪霊を払うもの、軍配を決めるもの、多様な意味を持つ。「戦争にたかる無数の蠅しずか」「戦争が廊下の奥に立つてゐた(白泉)」に呼応し、誰が戦争の蠅(悪霊)を追い払うのか、誰が戦争を裁くことができるのか、という読みもできよう。団扇を手にするかどうか、それは読者次第かもしれない。

 歴史上の重いテーマであり人々の脳裏に様々な映像、概念を内包する「戦争」という言葉、そして小津安二郎のカメラ目線の低いアングルが感じられる日本の日常風景である「畳の上の団扇」が、「と」で結ばれ「かな」で言い切られている。

 新興俳句作品は切れ字の使用が極端に少ない。三鬼の影響が濃く反映している『まぼろしの鱶』(昭和三十年代の項)での「かな」の使用は皆無だった。しかし『眞神』から「かな」使いが復活している。初学より「新しさは歴史を通じて生き得る」(『太古』序)の確信の元、新興俳句弾圧後に古俳句研究に親しんだことに加え、高柳重信の下五「~かな」の影響が強いと感じる。この点について、『新興俳句表現史論攷』(川名大)に同意である。また古俳句の二物の「取り合わせ」「付け合せ」をみると、「や」を用いるケースが多く、「閑さや岩にしみ入る蝉の声(芭蕉)」「名月や畳の上に松の影(其角)」「鶯や下駄の歯につく小田の土(凡兆)」などがある。敏雄の句も「戦争や畳の上に置く団扇」となりえるところを、「と」で結び「かな」で感慨を言い切っている。「かな」の使用はないが、新興俳句の旗手である高屋窓秋に「山山の蒼き日と夜舞扇」がある。

 掲句はある意味、高橋龍氏の「疊の上の団扇と戦争の出会い」(*2)という言葉を発展させ、いささか飛躍が過ぎるが「ホトトギスと新興俳句の邂逅」と思える。そうなると、この「と」は、偉大なる格助詞ということになる。ホトトギスから分裂し、弾圧により消滅した新興俳句の種子が木になったような、ある到達点を感じることは確かだ。敏雄の切れ字、助詞の使い方には、俳句の可能性がみえてくるのである。

 余談になるが、今年に入り、中近世国語語彙・俳文学研究者の小林祥次郎氏から筆者所属俳句誌『豈』『面』をご覧になられた感想を頂いた。「現代俳句は、あまり読んだことも無いのですが、『や・かな』を使っているので、少し心が和みました。」と綴られていた。氏の執筆箇所、『俳文学大辞典』(平成7年初版・角川書店)・切れ字の項は確かに、「新興俳句以降は、『や・かな』などで簡単に詠嘆することを嫌う傾向が強い。」とあった。敏雄の『や・かな』使いが、新興俳句以降の俳句史にどう影響を与えていくのか今後の課題としたい。

 『眞神』(昭和48年)以降に感じた作者の遠い彼岸からの視点が、『巡禮』(昭和54年)『長濤』(昭和54年)あたりから徐々に、『疊の上』(昭和63年)では確実に現生の遠い視点に転換されている観があることも付け加えたい。恐らく『三橋敏雄全句集』(昭和57年)が発行されたあたりに敏雄の視点は地上に降りたという気がする。

 「志して至り難い遊び」(『まぼろしの鱶』後記)は、新興俳句、そして戦友・句友を悼み、戦後日本への問い、俳句とは何かという問いでありつづけた。それを敏雄の精神と理解したい。


*1) 『証言・昭和の俳句 下』(聞き手・黒田杏子/角川書店)
*2) 『弦』33号 2011.7.1(遠山陽子編集・発行)


●―13成田千空の句/深谷義紀

 おむすびは心のかたち雪のくに

 第6句集「十方吟」所収。

 平明な表現ながら剛直な句柄を示す千空作品のなかにあって、多少の異彩を放っている句だと思う。端的に言えば、「心のかたち」をどう解すべきか、些か悩ましいのである。

 例えば、同じ「おむすび」をモチーフとした作品を引いても、

 蒼茫とねぶたの首途(かどで)塩むすび    「人日」

 秋日濃しめし屋に味噌の握り飯   「白光」

など、どれも句意は明瞭であり、こうした悩みが生じる余地はほとんどない。一句目は、ねぶた出発直前の光景であろう。日が沈み、夜の帳が下り始める時分であり、塩結びの白さが際立つ。二句目も、庶民的な食堂に置かれた味噌握りが目に浮かんでくる。

 それに対し、掲句は抽象的色彩を帯びるため、一読しただけでは掴み所がない感がある。

 もちろん句の意味を事細かに解することはある意味邪道であり、句をそのまま味わえばいいのかもしれない。だが、やはり腑に落ちない。リアリティが感じられず、言葉のみが先行しているように感じられるのである。つまり千空らしくない作品に思えるのだ。

 いろいろ考えあぐねた末にふと閃いたのは、千空の住んだ五所川原に程近い岩木山麓で「森のイスキア」と名付けた施設を主宰する佐藤初女さんの存在である。彼女のもとを、生き方に悩んだ様々な人達が訪ねてくる。彼女はその人達をおにぎりなど手作りの料理でもてなしながら、話を聞くという。訪ねてきた人達は、佐藤さんが作ったおにぎりを一緒に食べながら、徐々に心を開き、自分自身で答を見つけていく。そのおにぎりこそ、悩みを抱えた人達の心の扉を開ける鍵なのであろう。

 千空が掲句を作ったとき、佐藤さんの話がモチーフになっていたのかどうかは定かではない。地理的にそれほど離れているわけではないのでその可能性はあるものの、断定するほどの材料はない。

 しかし、考えてみればおにぎりほどシンプルな料理はなく、その作り手の心のありようを示すものはないだろう。だからこそ、「おむすびは心のかたち」になりうるのである。おそらく千空もそのような思いに至ったのだと思う。作り手として千空が思い描いたのは、優しかった実母かもしれないし、掲句が作られる少し前に逝去した義母(市子夫人の母)かもしれない。あるいは市子夫人その人かもしれない。いずれにせよ、そうした思いのこもったお結びを食べた体験が記憶の底に眠っていた筈である。

 そう考えた時、この句に一挙にリアリティが生まれ、いかにも千空らしい句だと思えてきたのである。


●―14中村苑子の句【テーマ:水妖詞館ーあの世とこの世の近代女性精神詩】15.16./吉村毬子

 15 喪の衣の裏はあけぼの噴きあげて

 墨色の喪の衣は、生者が纏うものである。死者は、白装束に包まれる。

 生者である者の墨色の喪の衣の裏が、「あけぼの」を噴き上げるのだと詠う。「あけぼの」は、薄っすらと仄仄と、空が明けてゆく様であるが、その「あけぼの」が喪の衣の裏で「噴き上げて」という事態は、尋常ではない。白装束へ送るその詩の色彩。喪の衣の表の墨色と裏のあけぼのの朱色が織りなすその色は、死者の白い衣へ滲み出していくことだろう。淡く濃く、死者と生者を結び付けながら・・・。

 新しく生まれ変わるという意味をも持つ「あけぼの」は、死者の新たな始まり、そして、両者の遠い遥かな未来を詠っているのだろうか。

 死を扱った句で、このような作品は記憶にない。死者と生者との距離を隔てない独特な表記である。生と死という、人が与えられた究極な対比を同一線上に置き並べ、その線を苑子流に綾取りの如く交差させる。それもまたひとつの輪廻の形であろう。

 此の句を目にした当初の二十代の頃は、死者の死を秘かに願っていた生者の側の視点からの句と思い込み、作品とは言へ、誰にも聞くことができなかった。しかし、幾度も読み返す過程で、死者への新たな始まりへの礼賛の句ではないかと思うようになった。


 次句もまた、死を自己の中で咀嚼していこうとする段階の始まりであろう。

 16 祭笛のさなか死にゆく沼明かり

 「祭笛」の響く雅な華やかさの中、死んでいく者がいる。祭りの喧騒に送られる死とは、如何なるものか。例えば、桜舞い散る季節でのひとつの死の在り方として、美しさに憧れる様もある。祭りが賑やかなほど、その死の静かさを増していく。

 「沼明かり」を下五に据えた締め方は、「祭」と「沼」の対比に寄り、双方がその語の存在を印象深くさせている。「沼」ではなく、「沼明かり」である。仄かに灯るその明かりは、死者を招く標なのか、死者の魂であるのか・・・。夜の闇の中で突き抜ける笛の音が沼の辺まで届き、湿りを伴う地や虚空が沼とともに葬歌を奏でる。

 前句もそうであるように、黒という闇-死-を思わせるものと仄かな明るさの朱-生-を対比させて一句を成している。が、特筆すべき点は、死に対する仄かな-生-が再生、蘇生を感受させるものであるということである。前句の「喪の衣の裏」に、見る見ると染め上げられてゆく「あけぼの」の「朱」、掲句の沼の底から湧いてくる「明かり」は、生身魂、魂魄かも知れない。そして、闇の中の黒と仄かな朱との配合が醸し出す色彩も、その蘇生感を彷彿とさせているのである。


 17 来し方や袋の中も枯れ果てて

 何の「袋」であろう。そして、「来し方」とは、とても永い時間大切な何かをしまっておいたものなのか。

 己を容れた、己が包まれていた歳月という名の「袋」とも言える。「袋の中」には、かつての理想に燃えた己がいた。苦境に喘ぐ日々もあった。悲哀に泣いた日もあった。が、「袋」は、「生」の象徴であった。しかし、今、その「袋の中も枯れ果てて」と呟く。

 切れ字{や}を使用しているが、一句一章の内容であり、{や}は切れと共に感慨、嘆息の{や}でもあろう。

 虚しさの果ての諦念観が此の一句に込められている。「生」が始まった瞬間より、「死」も始まるのだが、この停滞した「生」は、「死」へも到達することはなく、ふらふらと彷徨っているだけである。

 前の二句の、蘇生をも思わせる鮮やかなまでの「死」の提示からすれば、燻るばかりのかたちのない「生」である。人は、永年の生を得ると、このような一刻も必ず訪れるのだろう。


 今回の見開き二頁終わりの四句目に至っては、更に「生」を嘆いているようである。

 18 天地水明あきあきしたる峠の木

 「天地水明」は、「天地神明」からの発想か・・・。

 「天地神明」は、天地の神々への感謝や誓いに表される言葉であるが、「天地水明」、それは、日月の光に水澄む美しき日本の天地のことであろう。それもまた、自然の神々のもたらす生命の源であろう。

 しかしながら、その後に続く中七、下五の「あきあきしたる峠の木」は、投げやりなまでの表記である。「天地水明」の透明、且つ、平和な安定感に浸りながら、頂点の峠に立つ木がその状態を拒むように、嘆いているようにも伺えてしまうのであるが・・・。

 登り坂の頂点に立つ木、それは下り坂の始まりの木でもある。峠の木は、登り坂を克服した後に、必ず訪れる下り坂を降りて行くものを、繰り返し迎え、見送ることにあきあきしたと言っているのか・・・。

 「峠の木」は、苑子自身であろうか。もしくは、「峠の木」を幾度も眺めた、過去の昇り降りにもうほとほと疲れ、愛想をつかしたということなのかも知れない。

 真髄は、「天地水明」と叫ぶ切れである。「天地水明」に本心を語っているのだ。自身を育み、慈しんでくれた「天地水明」だからこそ、訴え、誓えることができるのである。「天地神明」から「天地水明」と表記し、「神」を「水」と同様に呼んだその叫びは、「水」に対する畏敬の念が溢れている。天地を流れる水から、有り余る恩恵を授かり、自身もその水と一体化するように昇り降りし、流れてきたのである。此の句は、「水」は、苑子の「神」なのだと言い放ち、その「水」に本音を漏らしているような気がしてならない。

 「水妖詩館」という句集名の第一章、{遠景}にふさわしい一句である。

2025年5月23日金曜日

第247号

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…(主な執筆者)小野裕三・もてきまり・大塚凱・網野月を・前北かおる・東影喜子


筑紫磐井著『女帝たちの万葉集』(角川学芸出版)

新元号「令和」の典拠となった『萬葉集』。その成立に貢献した斉明・持統・元明・元正の4人の女帝、「春山の〈萬〉花の艶と秋山の千〈葉〉の彩を競へ」の天智天皇の詔を受けた額田王等の秘話を満載する、俳人初めての万葉集研究。平成22年刊/2,190円。お求めの際は、筆者までご連絡ください。

新現代評論研究:『天狼』つれづれ 第2回:『天狼』創刊号の「こほろぎ」/米田恵子

 『天狼』は養徳社から昭和23年1月に出版された。「出発の言葉」にある「根源」が問題になり、同人たちが各々の見解を展開していく。結局、誓子自身は人それぞれに根源があるというようなことを言って、主宰として自分の「根源俳句」については明らかにしなかったように思われる。「思われる」としたのは、正直に言うと、私自身まだよくわかっていないためであり、いつかは自分なりの考えを持つことが出来たらと思う。

 今回は、『天狼』に掲載している「実作者の言葉」について述べてみたい。これは、毎号の『天狼』に載る誓子自身の言葉であり、昭和42年11月号まで続く。そこには、誓子の現時点での関心事や調べたことの詳細が載る。では、創刊号の「実作者の言葉」には、いったいどんなことを話題にしているのか、どんな俳句が紹介されているのかは、興味を持つところだと思う。

 誓子が一番初めに挙げたのは「こほろぎの無明に海のいなびかり」という句であった。

 誓子はいきなり「この句から私の衰退がはじまつたと云ふひとがある」から始める。概して、「実作者の言葉」には自分が書いた俳句や随筆の記述に対しての言い訳が多いように思うのは私だけではないだろう。まず、誓子は次のように自解する。

 暗夜で、庭にこほろぎが鳴いてゐた。ときどき、海にいなびかりが閃いて、海を照らし、庭を照らしした。そのひかりは一瞬、こほろぎを照らしたであろう。しかし、もとより眼の見えぬこほろぎの感知する筈もない。

 陸の空ならで、海の空に閃くいなびかりを、あはれと私は見たが、それにも増して、身をいなびかりに照らされつつ、それを感知せぬこほろぎを一層あはれと思はずにはゐられなかつた。こほろぎの、黒一色の世界にかかはりなく、いなびかりは又しても海のおもてをひらめかす。

 私はこれを句にしたのだが、わからない人も多い。

 最後に、「わからない人も多い」と誓子は歎く。この「わからない」理由の一つを誓子は「蟋蟀は眼が見えない」ということを人は知らないということに求めた。私ももちろん蟋蟀は眼が見えないということは知らなかった。誓子は、吉植庄亮の短歌「白露の光のなかの蟋蟀は眼に見ゆる何ものもなし」を引いて、蟋蟀の「眼が見えない」をすでに短歌にしている人がいる。吉植の短歌の前には斎藤茂吉の「ふりそそぐあまつひかりに眼の見えぬ黒き蛼(いとど)追いつめにけり」「畑ゆけばしんしんと光降りしきり黒き蟋蟀の目の見えぬところ」の句があり、蟋蟀は眼が見ないことは既に先人も詠っていることにより証明する。

 次に、掲句をさらにわかりにくくしているのは、「無明」という言葉ではないかと行きつく。誓子は蟋蟀の眼が見えないことを「明無し」と「無明」という仏語(仏教用語)で表したのである。「無明」を「仏語」ではなく「詩語」として使ったのだが、それがかえって読む人に誤解を与えたのではないかと考え、本来の「無明」の意味を調べ始める。誓子は『大蔵法数』『仏教字典』『宗鏡録』『大法炬経』『仏説決定義経』という辞典類をひもとき、漢文を1つ1つ載せているのである。いちいち調べるその執念に驚かされるが、この執念(言葉は悪いが「ひつこさ」)は後々の「実作者の言葉」にも見られる。

 こうして、「無明」の意味は、「明了スル所無シ」つまり「無知(知らないこと)」が元の意味であるため、わかりにくくしていることを悟る。ただ、誓子の弁明として、「眼が見えないこと」を仏語の「無明」を詩語として使ってもいいではないかということと、蟋蟀は眼が見えないというのは斎藤茂吉も詠っているのだという2つの弁解を述べて終わる。

  こほろぎの無明に海のいなびかり

 私は、この句から誓子の「衰退がはじまつた」とはけっして思わない。病を得て、療養のため四日市という海と山に恵まれた新しい環境で、新境地を開いたと言ってもいいのではないかと考える。

 最近この句の軸をネットオークションで手に入れ、今年(2025年)の秋の山口誓子特別展に展示する予定である。「誓子と戦争」というテーマであるが、転地療養に来ていた四日市の海辺の家で、しかも昭和17年、ちょうど太平洋戦争が始まり日本が泥沼にはまり込んでいくときに詠んだ句として紹介するつもりである。展示のためのキャプションには上記に書いたようなことまでは書けないので、書く機会を得て幸いである。

【新連載】新現代評論研究:各論(第5回):眞矢ひろみ、横井理恵①〜③⑤

 ★―2橋閒石の句 4/眞矢ひろみ

 階段が無くて海鼠の日暮れかな  「和栲」昭58年

 閒石といえば、まずこの句を思い浮かべる人も多いはず。一方、鈴木六林男の出版直後の書評、また「和栲」を蛇笏賞とした選考委員4名(*1)の選評にも抄出されておらず、「和栲」が俳句愛好家の話題となる中で、徐々に注目を集めた句なのだろう。平易な言葉を用いて詩の重層性を強調した閒石らしく、読み手毎に句意が異なり、またそのことを読み手自身にも承知させるような句である。その昔、高校の現国授業で「読むとは、作者の意図や背景等とは関係なく、言葉のみから、作品が最も輝く解釈を発見して鑑賞すること」などと教わったが(*2)、そんなことは不可能と一読して途方に暮れるような句でもある。

 その要因は明らかで、「階段が無い」「海鼠の日暮れ」の二フレーズを「て」で結ぶが、各フレーズの意味内容やフレーズを繋ぐ脈絡等が不明のまま、読み手の想像に丸投げされてしまうことにある。正木ゆう子は、二フレーズの間には深い切れがあるのに、「無い」「海鼠」の「な」音のリフレインと「て」の軽い接続によって、一句一章のような印象を読み手に与えていることを指摘する(*3)。

 因みに、「和栲」において、同様の「て、して」を用いた句として、次のものが挙げられる。

 茄子割れてなまものしりの日暮れたり

 口下手にして河骨の曇るなり

 男女七才にして冬の沼凪げり

 「て、して」は、単独で順接、逆説、原因結果等の接続の意味合いを示すことはできず、読み手は前後の文脈から、海鼠句で言えば二フレーズ及び「階段」「海鼠」等の語彙から読み取らなければならない。時枝誠記の詞辞の論に拠ると(*4)、「階段」等の詞は客体を、「て」「かな」の辞は作者・詠み手の種々の立場を表し、両者が絡み合いつつ総体として表現を構成する。「日暮れかな」と強調・詠嘆して結ぶのに、「て」が単なる並列接続では居心地が悪く、読み手は二フレーズの脈絡を何とか見つけ出そうとする。逆説的に言えば、この脈絡が遠ければ遠いほど句の衝撃度は大きくなる。上記の三句についても、「て」+断定・強調の構造であり、一つの慣用の型のようにも見えてくる。各句とも面白み、不思議感を有するが、その背景には辞の機能をベースにした句の構造がある。

 但し、海鼠句の異様さは三句に比べても際立つ。「階段」「無い」「海鼠」「日暮れ」という詞とその取合せの妙であろう。そもそも「階段が無い」という冒頭が唐突で、景の描写なのか、何らかの喩なのか戸惑うし、「て」の機能によって続くフレーズに「無い」の意味付けを期待させるが、これも又裏切られる。読み手が色々と思いを巡らせ、しっくりくる脈絡を掴めないまま放置すると、「海鼠」「日暮れ」等の詞に対する印象がそのまま句の読みに繋がってしまう。寂寥感、滑稽感、醜悪感といった鑑賞が出てくる所以だろう。重層性を純粋に追い求めて、色々な意味等が溶解した出汁を煮詰めた後に残ったような句であり、抽象と象徴の曖昧さ、その浮遊感を遊び楽しむことに意義があるのかもしれない。

 以下は余談である。

 海鼠句のように、読み手が脈絡と「て」の意味合いを読み取るような句を、僅かながらも手元にある句集や資料等に探ってみた。

 顎老いてひとひらの杜若かな 永田耕衣 「冷位」昭50年

 ひあたりの枯れて車をあやつる手 鴇田智哉 「凧と円柱」平26年

 大根の咲いて半熟卵かな 山口昭男 「木簡」平29年

 目に付いたのはこの程度で、意外と少ない。多くは動作・作用の推移や連続、原因・理由と結果、手段・方法と結果、時間の経過と結果等々を指す接続助詞として特定できるものが多い。抽出した上記三句にしても、単純な並列、動作等の推移、取合せの句としても読めるかもしれない。

 また、「和栲」にしても「て」を使った句は他にも多くある。

 眉上げて二月の幹を離れたり

 肺透けてさわらび山の風明り

 桜など描きて冬の寺襖

 ただ、これらは「て」の繋ぐ前後のフレーズや詞に手掛かりがあり、関連性を読み取れるため、途方に暮れるようなことはない。

 さらに脱線する。俳句を外国語に訳す場合、「て」のような辞・接続助詞をどう翻訳するのか。読み手の読みの内容に拠って機能そして訳語が変化するような辞の場合である。翻訳する言語に、同等の多義性を有する語彙はなかなか見つからないと想像できる。より一般化すれば、閒石の句ように重層性を含み、しかもそこに意義を有する俳句をどう訳すべきなのだろう。因みに、上記の耕衣句には次の訳が編訳としてある(*5)。

   my aging chin

         a single iris petal

*1 野澤節子、森澄雄、飯田龍太、沢木欣一

*2 当時話題となったロラン・バルト「作者の死」(昭42年)の影響と思われる。

*3 「橋閒石全句集」栞 沖積舎 平15年

*4 「日本文法」 時枝誠記 講談社学術文庫 令2年

*5 「この世のような夢 永田耕衣の世界」 鳴戸奈菜 満谷マーガレット(編訳) 透土社 平12年


●―15中尾寿美子の句/横井理恵(5)

 媼いま桃のひとつを遡る  『老虎灘』

 和辻哲郎の『風土』は、人間の存在契機を気候風土に見ようとする。また、存在論では、人間を社会的存在と個人的存在に二分して見ようとする。中尾寿美子を戦後俳句論の中で扱おうとする時最も困難を感じるのは、社会的存在としての寿美子をどう扱うかである。寿美子俳句の特徴は極めて個人的な「今・ここ」にある自分を詠むことにある。存在を育んだ風土や社会といった背景を探るのには不向きと言わざるを得ない。前回のテーマ「死」で時代としての死ではなく個人的な死を扱ったように、今回、寿美子の「風土」では、社会的風土ではなく極めて個人的に選び取った風土、即ち「精神の風土」を扱いたいと思う。

 昭和五十二年、師、秋元不死男が没し、翌年「氷海」が終刊すると、寿美子は句友清水径子と共に、永田耕衣率いる「琴座」に移る。この時寿美子は、永田耕衣の世界を自らの精神風土として選び取ったのである。

 昭和六十二年に刊行された第五句集『老虎灘』のあとがきに、寿美子はこう書いている。

永田耕衣先生妙観のほとりを徘徊すること早くも七年、病弱に甘え不勉強に過ぎた日々を思えば野菊の道も薄氷の野も鯰の池もまだまだ遠く思われます。前句集「舞童台」は永年住みなれた古巣を去り、困難と知りつつ耕衣世界へ参入した変転の時期の整理でした。それより六年、今にして見えてくるもの、人の心や我が身の生きざま、世のなりゆきなど老いてゆく日もなかなかに面白く、あるときは哀しく未だに混沌とした途中感の中にいますが、生きて在るかぎりこの思いは消え去ることはないでしょう。この句集「老虎灘」は今日以後をなお歩まねばならぬ私の一里塚でもあります。

 「野菊の道も薄氷の野も鯰の池も」と耕衣の作品世界をめざしながら、寿美子が巻頭に置いた句は、

 夢の世やとりあへず桃一個置く

であった。「とりあへず」とは寿美子の途中感の現れであろうか。「困難と知りつつ」参入した「耕衣世界」とは

 夢の世に葱を作りて寂しさよ      永田耕衣『驢鳴集』

 泥鰌浮いて鯰も居るというて沈む        『悪霊』

 白桃を今虚無が泣き滴れり

 少年や六十年後の春の如し           『蘭位』

 野菊道数個の我の別れ行く

 薄氷と遊んで居れば肉体なる          『肉体』

等に代表される世界――永田耕衣が体現する精神風土としか言いようのない境地である。自ら師とすべきものとして選び取ったその境地に向き合い、挨拶を送りつつ、一方で、寿美子は自らの「今・ここ」のあり方を探っている。

 粗玉のたましひ葱の匂ひせり

 白桃にならんならんと鏡の間

 天元に白桃ひとつ泛びゐる

 「存在」を突き詰めようとする耕衣の精神風土に寄り添いながらも、寿美子の句はより感覚的である。

 媼いま桃のひとつを遡る

 あをぞらの何処かぬかるむ桃の傷

 その感覚は単なる五感にとどまるものではない。精神としての個を保ちつつ、感覚の触手は世界に遍く行き渡っている。「桃のひとつを遡る」感覚と「あをぞらの何処かぬかるむ」という感覚とは、「今・ここ」の私と遥かなものとの交感をうたっている。

 寿美子の句においては、今ここの「わたくし」を享受し、寿ぐために、そして、これからも続く世界を肯定するために、あらゆる感覚が世界に向かって開かれている。生きることの喜怒哀楽の全てを抱きとめる――対抗するのでもなくあきらめるのでもなく――それが寿美子の選び取った精神風土だったのだろう。


現代評論研究第1回~第3回に漏れている横井理恵氏の「中尾寿美子の句」鑑賞をまとめて紹介する。

●―15中尾寿美子の句/横井理恵(1)

 肉体を水洗ひして芹になる     (昭和六三年)

 掲句は、中尾寿美子の没後に出された句集『新座』に収められている。「肉体を水洗いしたら芹になるだろう」と言っているのではない。本当に「水洗いして」いま正に「芹になる」瞬間が詠まれているのだ。言葉の上からそう読むべきであるだけでなく、寿美子の句集を順に追っていくと、芹になるに至る寿美子の姿が見えて来る。今ここにいる「わたくし」を突き詰めていって、寿美子が到達した一つの確かな存在感、それが、清々しい「芹」の姿だったのである。

 上記は『天為』200号記念特集「検証・戦後俳句」もう一つの俳人の系譜(平成19年)に掲載された拙論「中尾寿美子論 ――わたくしを水洗いして―― 」の冒頭の一節である。掲句は、作者の寿美子が本当に自分自身をざぶざぶ洗って清々としている実感を詠んでいる。昭和五五年の句「はればれと水のむ吾れは芹の類」で予感していたが、やっぱり寿美子は芹だった。みごと芹になりおおせた寿美子の感覚が、読み手である私の体にも、すうっと染み通ってきた。

 かつて、平成15年の天為150号記念シンポジウム―「不易流行」試論について―で、川本皓嗣氏はパネリストたちにこう問いかけた。

 素直に今を生きている自分、それを詠むことが新しみを出すことだという(中略)―でも、そんなに素直に今を生きることはできますか。

 川本氏は、俳句というものは伝統でがんじがらめになっているジャンルであり、自分というものの素直な流露を妨げるものの方が多いことを指摘した。そして、そこから解放される努力が必要だと説いたのである。

 言葉にするという行為が生の実感から遠ざかる危険なものであることを、私たちは経験的に知っている。だからこそ、詩は短くあらざるをえないのだ。世界で一番短い詩、俳句は、説明せず、生きて今ここにあることの感覚をそのまま言葉に写し取ることができる。中尾寿美子の晩年の句は、感覚の素直な流露を体現している。その代表が、掲句である。

 川本氏の問いかけに対し、今ならこう答えられる。

「晩年の寿美子は、それができましたよ。」

と。(その1 了) 


●―15中尾寿美子の句/横井理恵(2)

 傘寿とはそよそよと葉が付いている  『老虎灘』

 句集名『老虎灘』は「ろおこたん」と読む。中国大連の景勝地として有名な地名(ピン音ではlǎohŭtān)である。実はこの地名は、寿美子にとって敗戦引き上げの苦難の記憶と結び付くものであったという。しかし、句集刊行の昭和62年にはすでに、懐かしい思い出として扱われている。苦しみも悩みも、年月に濾過されて、「ろおこたん」という、まろやかな音のみが、寿美子の中にこだましていたのである。

 跋文は永田耕衣が書いている。

 耕衣は、ウイリアム・ブレイクの詩の一節

 あるべきさまにあるこそよけれ。

 人が世にあるは歓喜よろこびと苦悩なやみのためなり。

をひき、「歓喜」と「苦悩」とは「一如」であり、人間不断に必須とする「自己救済」のエネルギイにほかならないとする。そして、掲句について、耕衣は、「そよそよ」という措辞を「謙虚な自祝」であると言う。

 この「謙虚な自祝」に至るまでの寿美子には、「苦悩」と「自嘲」の句が少なくなかった。

 鳥が逃げても飛べない女赤い芥子     (35年)『天沼』

 めんどりが卵を置いて去る花野      ( 同 ) 同

 白髪一本ひつぱつて寒ただならぬ     (42年)『狩立』

 死なば樹にならんと思ふ朧の夜      (43年) 同

 消えぬため笑ふ茫々菜種梅雨       (45年)『草の花』

 三椏の花の無口は身にひびく       (48年) 同

 なんとも寂しい。「自嘲」と「苦悩」のためいきが読む者にも染みてくるようだ。特に、『草の花』には、ためいきの結晶のような句が目立つ。

 その『草の花』刊行2年後の昭和52年7月、師、秋元不死男が没する。寿美子が病気の悪化に苦しんでいた時期でもあった。翌53年「氷海」が終刊し、「狩」同人となるが、その翌54年には辞し、不死男の年忌明けをもって、句友清水径子と共に、永田耕衣率いる「琴座」に移る。同年10月には、「琴座」の同人となり、2年後の昭和56年8月には、第四句集『舞童台』が刊行されている。

 このころから、寿美子の句は、苦悩を突き抜けたかに見える「さっぱりとした感じ」をまとい始める。病床を詠んでも、嘆くのではなくむしろそこに命のあることをかみしめているかのようであり、徐々に、寂しさを透視する勁さが備わってくる。

 階段の途中にて寒明けにけり      (53年)

 眼の中も暮れてしまへば葱畑      (54年)

 初夏やたたみ目のつく素魂など     (55年)

 そよそよと今日のところは野水仙    (56年)

 とことんまで悩み、寂しさをかみしめ尽くしたからこそ、からりとした明るさが開けてきたのだろう。『舞童台』という句集には、そんな寿美子の羽化の跡を見ることができる。

 傘寿とはそよそよと葉が付いている

 かつては「今日のところは野水仙」と控えめすぎるほど控えめだった寿美子も、いつか大樹となって葉がそよぐ歓びをうたっている。(本人は決して大樹だなどとは言っていないのだが、読む者は、年輪を重ねた大樹がにこにこと風に吹かれているのを仰ぎ見る様を思い描く。)それでもまだあくまでも「そよそよ」というところが慎ましく、耕衣の言う「謙虚な自祝」のよろしさが好もしい。

 こんなふうに年をとれたらいいなあと、心から寿ぎたくなるのである。


●―15中尾寿美子の句/横井理恵(3)

 白髪の種花種に混ぜておく 『老虎灘』

 「寿美子の句ってわからな~い」と言われた時に例として挙げられた句である。

 「白髪の種って何?」「なんでそんなもの混ぜるの?」「何がしたいわけ?」というのが素直な反応なのだろう。この句を解説するためにはまず寿美子と白髪・もしくは寿美子と「白」との関係を解きほぐしておくことが必要と思われる。

 かつて寿美子は句集に「白髪」という名をつけようとしたことがあったという。師の秋元不死男に反対され『狩立(かりたて)』となったこの句集には、白をモチーフとした句が目立つ。

 白髪一本ひつぱつて寒ただならぬ

 白髪と見て秋風の嬲りもの

 悲しみや声より白く日の落葉

 ひぐらしや白ければ樺ゆれ易し

 これらの句には、「白」を――直接的には「白髪」を「老い」の兆とみておそれる心理が反映されているだろう。

 白地着ていましばらくを老いまじく

の句では、老いに立ち向かう「白」の心意気が見られる。寿美子の中では、「老い」と白とが対をなすもの、切り離せないものとなっていのだ。

 一方には、直接「白」とは言わずに心象の白を詠んだ句がある。

 三鬼亡し落花が見せぬ潦

 蓬摘む洗ひ晒しの母の指

 骨壺や風に日に世に簾して

 ここに透けて見える「白」は、何かすがすがしく洗い晒したおももちがある。

 寿美子は、自らの「白髪」におびえながらも、あえて句集名にと考えるほど、そこから気持ちをそらすことができずにいた。目をそらさずに見つめることで、「白」という色の奥底を見極めようとしていたのかもしれない。

 次の句集『草の花』では、「白」はより寿美子に近くなり、「白髪」は寿美子の一部になりおおせている。

 白髪は風棲みやすし初御空

 影のなき一日白し鵙の声

 白髪のしきりにさわぐ花野かな

 晩年の思ひちらつく白桔梗

 胸がざわつくような特別な思いを持って「白」を見つめるのではなく、もっと自然な構えで、寿美子は「白」に目をやっている。確かに「白」も「白髪」も老いと結び付いているけれど、さらにはその先の死にも結び付いてはいるけれど、でも、それが自然なのよね、という声が聞こえてきそうだ。

 鶯やことりと吾れに老いの景

 霞まんとしてむづかしや足二本

 自らの「老い」を悲しまず、軽々と見て取るまなざしを、寿美子は獲得したのだろう。

 そして掲句を納めた『老虎灘』のあとがきで寿美子はこう述べている。

 今にして見えてくるもの、人の心や我が身の生きざま、世のなりゆきなど老いてゆく日もなかなかに面白く、あるときは哀しく未だに混沌とした途中感の中にいます(略)

 混沌とした途中感の中にあって寿美子は「謙虚な自祝」のよろしさを抱いている。今ここの「わたくし」を享受し、寿ぐために、そして、これからも続く世界を肯定するために、軽やかな目を世界に向けている。

 霞草わたくしの忌は晴れてゐよ

 白髪の種花種に混ぜておく

 「謙虚な自祝」の境地を開いた寿美子にとって、「霞草」も、やがて花咲く「白髪」も、未来を予祝する「白」なのだ。花種に混ぜておくのは、そんなささやかな予祝である。いつかだれかが驚くだろう、その顔を思い浮かべながらのいたずらであるかもしれない。

 かつては恐れの象徴でもあった「白髪」の白も、晴々と来るべき日を予祝する色となり芽吹く日を待っている。これはそんな、老いを言祝ぐお茶目な句なのだ。

【鑑賞】豊里友行の俳句集の花めぐり29 『楡の茂る頃とその前後』(藤田哲史)を再読する。 豊里友行

  『新撰21』で御一緒した藤田哲史さんの丁寧に見る俳句の現代五感に顔を思わず赤らめたり、しんみりしたり、青春を謳歌している藤田哲史俳句がまぶしい。

 私は、藤田哲史さんの鷗(かもめ)の俳句が好きだ。

 共鳴句とコメントを。


冬鷗何の忘却も快く

 たいていの冬は生物の活動を停滞させるのだが、生きることの意味を感じるのも大半は、一生懸命に生きる時で、厳しい冬なのではないだろうかと私は思う。鷗たちは、一生懸命に漁の船が引き揚げる魚たちを狙って船に寄せて来る。まるで鷗は一生懸命に生きることが、本能なのかとも。作者は、どんな忘却も快くあるがまま生きる冬鷗に魅せられる。


啓蟄や光が示す宙の雨

 フォトグラフは、光の画である。作者の光を言葉によって捉え直したのに瞠目。土中から這い出す虫たちの啓蟄に雨が太陽の光を纏い宇宙を成す。


蟷螂にコップ被せて閉ぢ込むる

 蟷螂(かまきり)にコップを被せて観察する。その発想と行動に人間の残酷さを垣間見る。好奇心と視覚的な面白みがある。観察眼の光る俳句だ。


戯れに裸撮りあふ関係なり

 いーなっ。いーなっ。現代を己の五感で感受する。それもひとつの俳句ヒストリー。


朝曇シャワーカーテン貼りつく背

 いとしい日常が視覚スケッチできる俳人ってすごくないっ?!


卓上の梨が詩集に置き換わる

 生活のうつろいを俳句日記にする。大切な宝物です。


鯖雲が今日のさぼりの理由です

 そーなんだ。こんな句が出来るならさぼりがいがある。


夜明けまであとひとときの穭です

 ふーん。ちゃんと睡眠確保して欲しいが、こんな素敵な俳句ができるなら寝不足もいいね。


ファクシミリ刷られて落ちる猟期です

 言葉の狩人かな。


朴落葉一枚拾ふ会ひたいとき

 日常の恋歌を俳句にできる。素敵ですね。


躊躇無く人のマフラーして君は

 きゃっ。いーな。いーな。私も恋活しよっ。


マスカットほのかに種の見ゆるかな

 日常は発見の宝箱だ。


眩しさはわつと散らばる冬鷗

 万物に降り注ぐ太陽の光をはね返すほど白く、懸命に躍動し飛翔する冬鷗。その弾けて散らばる生きる躍動の瞬間を言葉で永遠にとどめる俳人の現代五感をこれからも丁寧に生きて欲しい。


【読み切り】「鷗寄る現代五感の豊漁なり」『楡の茂る頃とその前後』(藤田哲史) 豊里友行
https://sengohaiku.blogspot.com/2020/05/137-002.html


【連載】現代評論研究:第8回総論・戦後俳句史を読む(私性➂) 

堀本: 私性と言うことに関連して、想い出すことがある。

 川柳と俳句など短詩型超ジャンルの「北の句会」をはじめたころ、連句に長けた人が来ていて、全く無知の段階から手ほどきを受けたことがある。

 その時、一緒に連句を巻いた川柳人が怒ってしまった。自分の句を勝手になおした、と言うのだ。でも私には怒る理由が解る気がした。自分のかつての俳句の結社への反発によく似ていたからだ。初心者だから、連句のルールをまだ知らぬこともあったが、同時に、その人の川柳の作り方が自分一個の内面の表現をめざしたもの、共同製作するとか、付ける付けられるというルールを受け入れにくいのであった。連句ではその場に合わぬ「私性」は捨てられるのである。川柳人の立場では、いな、俳句にあっても、自分のモチーフを大事にする作者が消されることは認めがたい。これは、今でも根強く残っている。

 しかし、私は、先ず連句での捌きの権限がひじょうに強いことに驚いた。それはルールであること、と納得したので私の場合はそのまますすんでいるが、自由詩を書いていたころは「下手でもいいから自分の思いを自分の言葉で」、と考えていたからだ、しかし、歌仙の仕組みにしたがってその共同製作に参加する過程で、自分の個性と署名性の自覚が消えてゆくこと、文台下りれば即ち反古なり、と言うその歌仙を巻く時間の平等が保証されているーこれも一種の舞台装置であること、その場の仮構性自体が連句のひとつの面白みであることも理解できる。詩の構造そのものが、このように、個も包みこんだ世界像を象徴的に完結させている。こういうのも、詩のあり方としてはめずらしいのではないだろうか。

 俳句、もちろん一句独立の詩であると言う宣言自体が近代の作家主体の権利をもとめる反映と見てもいいのだが、連句との葛藤は常にある。だが、結社の殆どのところが添削の権限を主宰にゆだねているのは、近代の作家意識と、この座の文芸としての俳諧連歌のを結合しているからだ。こういう形で俳句はだんだん短くなりながら、俳諧の制度をまだのこしているのだ、ともいえる。いまや、川柳でも急速に川柳のアイデンティティや連句俳句の詩形の相互理解は深まっている(はずだ)。

 「私性川柳」の押しつけに自家中毒するあまり、川柳人が(吉澤やその同行者のように)、作品にあって私性を表現する必要がない(たとえ虚構化しても)、と感じはじめたのではないのか?もしそうであっても、その選択自体は止めるわけには行かない。それはそれで一つの立場だ。また、作者という自覚を得てゆくにつれて、句集を欲し、署名性を欲する、という個人の創作家=作家的志向が主張が強くなるのも当然ではないか。近代川柳の固有のモチーフ「私性」は、作品内容にではなくむしろ作家の方法の自由の主張として現れているのが川柳の時代的な現段階であろう。

 そして、その姿勢は、従来のパフォーマンス的な川柳の共同性とどのように折り合い、改善させてゆくのか興味がある。

吉澤:川柳が一句屹立を目指しているのはその通りだが、「句集を欲し、署名性を欲する」ということには違和感がある。連句との関係で言えば、川柳も俳句も一句屹立を目指す文芸であるので、俳人でも主宰以外の人に自分の句を変えられるのは嫌がるだろう。要は、連句の場でのルールを受け入れるかどうかの問題であって、川柳の特質という問題ではないと思う。

 さらに、「固有のモチーフ「私性」はむしろ作家の方法の自由の主張として現れているのが川柳の現段階であろう」という意見にも違和感がある。私性は川柳の固有のモチーフではなく、近代的個の確立とともに現れた。「私の思いを書く」のが川柳であると一般的に考えられてきて、90年あたりからそれを不自由に感じる川柳人が出てきた。多くの川柳にとって私性は固定観念であり、ごく一部の川柳人にとって、私性は自由ではなく桎梏であった。虚構やイメージや音韻による句は、思いが書かれていないという理由で否定されていたのである。川柳の先端では、私性の絶対性(言いかえれば、川柳の近代的個)が相対化されるという過程にさしかかりつつあるというのが現状である。

堀本:この意味は、川柳に於ける近代固有のモチーフとして言われている「私性」と理解してほしい。本格川柳、ひいては詩性川柳といわれる文学性追求の核は、「私」性の追究ということではなかったのだろうか?むろん、「私性」のみが川柳の表現としての特質とか本質ではないと私も思うのだが、しかし、目下の克服課題は、近代川柳の重要な特質として、「思いを述べること」が自己目的視されていることであったのだと、吉澤は言っているようだが。作り方もそうだし、読み方もそうだ。じつはそのことは、俳句でも、似てくるところがある。(特に女性の書き方など、私の評文のデビューもそうだったが、「女性俳句」という特殊なテーマがまずある。)。川柳人でも女性の「情念川柳」というようなもの。自己のモチーフにこだわっている。これは私にはひじょうに印象つよい。これも私性、あるいは自我追究のひとつのあらわれのように思ってきたのだが。

 それから、作者の現在の条件が創作動機や方法を大きく規定することがある。俳句でも問題は同じだ。それは立ち位置のちがいもあるし。個人差もあるかと思う。いっぽう、近代文学や戦後文学は、私小説が主流であるし、川柳でも俳句でも詩でも、むろん短歌でも、「作中主体=作者」とされてきた。

吉澤:近代文学や戦後文学で「作中主体=作者」となされていたという堀本発言については、疑義がある。作中主体が作者の体験や思想に色濃く染められているとしても、「作中主体=作者」とは言えないのではないか。

 志賀直哉を私小説作家と言えても、第三の新人の安岡章太郎や内向の世代の古井由吉を私小説作家とは分類しない。詩で言っても、鮎川信夫の「繋船ホテルの朝の歌」や田村隆一の「幻を見る人」には、作者にとっての戦後の空虚感が反映されているが、ノンフィクションではない。作中主体は作者自身を背負っていても、何らかのデフォルメが施されているはずであり、厳密な意味では作中主体は作者ではない。読者は書かれていることが作者の実感や実体験に裏付けられているのだろうと予想しながらも、幾分かは虚構が混ざりこんでいるはずだと想像している。そのデフォルメのされ方に作者の思考があると読み、作中の描写が本当の事実ではないと怒ったりはしない。

 私が「戦後俳句を読む」で担当している時実新子の場合、その微妙な違いが重要だった。

堀本:「作中主体が作者の体験や思想に色濃く染められているとしても、「作中主体=作者」とは言えないのではないか。」《吉澤の疑義より》

 うーん、ここは微妙に認識がずれる。戦後の表現意識は体験をはなれようとしても、「戦争」という私事にして普遍的な体験があった、「私」も自己の内面深く潜らざるをえない、言葉の外がわからそういうモチーフをとらせられる、と言う意味で、この時代の問題作や代表作家を、方法や姿勢を含めて「存在」の文学であり、「作家」であると称びたい気持ちがある。ほんとうの主役は「実際の私=作者主体」で、その実存探求に即して思想や方法の違いがでてきている。「作品の主語=作者」ではなくとも作者の思いを投影したものが殆どではないのだろうか?仁平勝はたしか、作品と作者の人生観を結びつける書きかたや読みかたについて、「人文主義」という言い方をしていた。日本では、「私性」は、知識人の実存追究の核のように考えられてきて、狭い意味での身辺告白もそこに含まれているはずだ。伝奇小説家や。泉鏡花のようなファンタジックな様式性を持つ人以外は、「私」やそれを抽象化した「個」の実存意識から出発しているのではないだろうか。「私」は仮構されることでひとつのカテゴリーとして自由に追究されはじめた、ともいえる。

 そして、戦後文学、戦後詩、短歌。俳句の共通したテーマは、前代の国家主義全体性の強圧が個の表現の芽を容赦なく奪っていったところから急に解放された地点から始まっている。急に西欧的自由の観念が出てきたために、彼らはむしろ、与えられた外的な自由と自分の内面の統合に創作のテーマを集中したのではないだろうか?

 詩で言うならば、彼らの戦後体験は鮎川信夫のように現在の自己の存在証明の為に。戦争の追憶を仮構していった、「橋上の人」、とか。「イシュメール」。「繋船ホテルの朝の歌」などは。ノンフィクションではないが、完全なフィクションではない。

 しかし。戦後詩はその実在性を離れようとして、「喩」という仮構空間を切り開いた、これが詩や俳句に及んでいると考える。

 もちろん、「私」に膠着しすぎることの弊害はある。でも私は、一概に私性を否定できない。詩で1960年代の鈴木志郎康のように「極私的」という独自のスタイルを開いた詩人もいるし、「私性」というカテゴリーの上でひらかれた言葉の領域は、戦後詩の必然的テーマだった。

 川柳では、渡部可奈子は、わたしが知る限り「私性」それを普遍化し抽象化して「個」の領土を極めようとする作家であった。私性をおいつめて、かなり深い場面で内面世界を対象化している。

 連句を受け入れるかどうか、というのは、言葉足らずで誤解されたのなら残念なので、個人差とか興味の問題であるとして。別の切り口を見つけよう。

 連句と川柳の詩形の特質についていえば、個人差もあろうが、「私の存在証明」という立場が強烈だと、捌きが大幅に添削したり、点々と場面が変わる運行のルールには入りにくいだろう。私性川柳の立場で、作中主体=作者という理念が内面化している人では特にそうである。もちろん、だからといって私の立場からは、当時のそういう川柳的立場を否定しているつもりはない。また、連句のルールをもっと知れば、それをうけいれて、興味をもつかも知れないことだ。ただ、俳句でも、一作者による一句屹立の独立性を求める余り、連句を拒む人たちはいる。連句をやったら俳句が下手になる、とよく言われた。いずれも、やるやらないは本人の意志である。私などは。数人のレンキストの友人から、道をつけてもらったことは幸運だと思っている。

 しかしながら、一つ、訊きたいことがあるのは、川柳ジャンルが、前句付けから独立する過程で、自己の詩形の近くに連句を置かなかったのは歴史的な事実であろうが、その影響をどう考えるか?俳句では、正岡子規が俳諧(連俳)否定したが、鈴木漠の力説しているのだが、子規は晩年はまた連句に関心を持ったそうだ。ともかく、高濱虛子が「連句」という言葉をつくったほど、連句と俳句とは相手を意識している。むしろ不即不離である。

吉澤:俳句は連句の発句から独立したものだから、連句を意識するのはある意味当然のことと言える。しかし、川柳は前句付けから発展したものだから、短歌や詩より連句を特別視しなければならない必然性がない。また、季語を中心に進行していく連句と俳句が近いのは当然だろう。

堀本:「しかし、川柳は前句付けから発展したものだから、短歌や詩より連句を特別視しなければならない必然性がない。」(吉澤)・・そういうものなのか?

【この間沈黙】

堀本:結社で師弟関係を結ぶと言うことは、添削されるのはいやなときもあるが、修行途中である以上そちらの方が句としてできが良くなればアドバイスとして受け入れる場合もある。強烈なモチーフを持ったときにはその限りではない。破門されても主宰の言うことを拒否する。この自由はあるが、ふつうすぐれた主宰は、引き受けた弟子を育てるためには、撰や添削に骨身を削っているはずだ。それが結社主宰の権限でもあり、自負、誇りでもあるのだ、実際のところ、近代俳句のスターは、そのような契約された私塾での修行を経て大成して名句をのこしているのだから、それを否定してなお自立しようとするならば、相当な覚悟をして別の「場」、別の構想を持つ必要があるのである。川柳大会での選者は、庶民的で好感が持てるが、撰の基準は、川柳の通念に照らして厳しい判断をしている、と思う。違うのかな?

 座の文芸で、作家として立つと言うことの琴線に触れてくる話になってしまったが・・。

吉澤:信頼できる川柳の先輩によると、川柳大会の成否は選者で決まる、とのことだ。選者であるから一所懸命選をしているのは間違いない。ただ、照らすべき「川柳の通念」にかなり大きな差がある。

 選者は様々な基準を設定して選をする。破調は取らないとか、この題でこういう言葉を使ったら取らないとか。この春に岡山で行なわれた「バックストローク岡山大会」(川柳大会)の選者の関悦史の基準は、季語がある句は取らないということだった。俳人として、川柳人の季語の使い方に違和感があったのだろう。そういった選者なりの基準は、選者に任されている。投句者は「……という句は取らない」と被講(川柳大会で選んだ句を選者が読み上げること)の際に言われれば、やむなしということになる。しかし、そのように選の基準だからしかたない、と思える場合はまだいいのだが…。

筑紫:少し戻って言うが、堀本の連句の体験を読んで、半ば笑いつつ納得した。私の体験(連歌であったが)からしても、36句の歌仙はさばき手の作品であり、参加者は単に補助的参加者でしかないであろうと思う(それくらい別格に知識と経験を持った人にさばき手を頼むのでなければフラストレーションが残るばかりである。本格的連歌では私の「言葉」のなにひとつも残らなかったぐらい手直しを受けるし、それも数箇月後に手紙で連絡が来たりする。これは現代俳句・川柳の前提としている文学ではないだろうという気がする)。それに不満であれば参加しなければ良いわけである。その意味で「詩客」で今後開始が予想されている連詩がどのような顛末になるか興味津々というところである(「戦後俳句を読む」のメンバーが既に参加を登録済みである)。彼らの感想を聞いてみたい。おそらく連句と最も相容れない詩型が川柳であるのだろう。

 句会について言えば、俳句の句会、川柳の句会、雑俳の句会と膨大な「種類」の句会があり、それぞれの句会がそれぞれの短詩型のジャンルの理念を作っているのではないかと思う。理念が先にあって、それの実践の場が句会としてあるのではない。俳句でさえ更にいくつかの句会の種類があり、例えば典型的にいえば、題詠句会と雑詠句会がある。そして「題詠句会」で真摯に作品を極めれば極めるほど花鳥諷詠になるに決まっているし、「雑詠句会」は必ずその中に無季俳句を萌芽しないでは置かない。これは作者の思想とは関係なく、おかれた制度が花鳥諷詠と無季を作り出すということなのだ。俳句や川柳が純粋な文学や詩に徹したいなら、句会とは縁を切らなければいけないかもしれない(それがいいことか悪いことかは別である)。

私は、あまり我々の伝統が古くからあったと思わないほうがいいと思っている。俳句の句会は明治25年から始まったにすぎない。川柳の句会は前句付の「取次」に由来しているとみるべきなのだろうが、現在のような句会の歴史はそんなに古くはないのではないか。もっとも由来の古いのは雑俳で、雑俳の興行形態から現代の句会は生まれてきたことを知っておくべきだ(明治時代の句会用語の多くは雑俳から借用していた)。

【連載】現代評論研究:第8回 各論―テーマ:「肉体」その他  藤田踏青、土肥あき子、飯田冬眞、堺谷真人、岡村知昭、しなだしん、筑紫磐井、北川美美、深谷義紀、吉村毬子

 ●―1近木圭之介の句/藤田踏青

 月の美しいからだを売る

 「身体」とは頭から足に至る単なる総称であり、「肉体」とはその生きている身体を指す。しかし、掲句の「からだ」は明らかに生きているそれを意味しており、ひらがな表現によってしなやかな女性の肢体と「生」と「性」をも示唆している。掲句は昭和25年の作であり、下関か門司の港町の街娼への眼差しであろうか。「月の」で、その静もった光の中に照り映える女体を浮び上らせ、その静もりは哀しい性をも合わせて導き出している。

 からだ売る青い石ゆびに      昭和28年

 前句と同じような状況の句であるが、「青い石」はその虚飾として体を売る行為への僅かな抵抗感なのであろうか。「虚飾 指の」(昭和63年作)という圭之介の句もあった。

 両句共に二句一章の構成の中で、下句が上句へと還流してゆく様は、売春という日々の生活の不毛をも重ねて見る事が出来る。因みに売春防止法は昭和31年に施行され、昭和33年3月までに所謂、赤線の灯は完全に消えた。赤線の語源は、戦前から警察では、遊郭などの風俗営業が認められる地域を、地図に赤線で囲んで表示した事によるが、その言葉も今では死語になりつつある。

 「桃」

 かのおんなの魂は

 昇天してしまった

 あとに残っているものは

 脂粉の香を放つ

 肉体のみである

 

 桃の木の下に桃が

 一個おちている

 この詩は「近木圭之介詩抄」所収の昭和26年の作であり、上掲二句の間に発表されているが、その対象が街娼とは限らない。この肉体は死に包まれているが、「桃」という存在に香りとやわ肌、そして崩れやすい女性に対する静かな眼差しが感じられる。精神と肉体という対立形質にたてば、この肉体はモノローグとして「桃」に表象されているのであろう。

 影も手がはたらいている      昭和49年

 肉体を直接的では無く、影を通して間接的にその動きを表現している。それによって心象風景が拡がり、深められる効果があるようだ。「手」という一部分から体全体の動きへと、そしてそれから類推される生活そのものまでにまで思いが至るようである。更に「影も」という措辞により、忙しく働いている生き生きとした様が想像される。言葉の暗示性としての「影」は、言葉が持っている意味以上のある一つのものを表現しようとして暗示的な作用を作品の構造に及ぼしているのではないか。

 影 完璧に歩はば      平成18年

 この年、圭之介は94歳を迎えており、その影に肉体の衰え「老い」をはっきりと認める事が出来る。更にその十音の短律は、老人の影の小ささ、歩幅の短さを自嘲的に示してもいる。また、この様な「影」を通した間接的な表現方法の句は「層雲」の自由律俳句によくみられる。

 つくづく淋しい我が影よ動かして見る   尾崎放哉

 影もそまつな食事をしている       住宅顕信

 顕信は特に放哉の句に心酔していた事もあり、各々の病の上に生まれて来た境涯句としての淋しさにも共通項が認められる。その身体的、経済的、社会的弱者としての否定性は私小説的な意味合いを持ち、石田波郷の「俳句は私小説である」にも相通じるものがある。

 インフルエンザ。鼻の中に不安な地形がある  昭和51年

 耳の形が夕日の形が 悪魔を吐く       平成3年

 風が止んだままの形で背骨にいた       平成4年

「鼻」や「耳」や[背骨]といった身体の一部をもって心象を俳句化することはよくみられる傾向である。しかし、境涯句のように身体を己自身の存在感に引き寄せるのではなく、掲句のようにそれ等を硝子の向こうの世界において、二重構造のように眺めることによって作品のベクトルの拡がりを求めるのも新しい傾向であろう。


●―2稲垣きくのの句/土肥あき子

 春暁の手を伸ばしてに触るるもの  「春蘭」昭和14年6月号所載

 大場白水郎主宰「春蘭」に掲載された掲句は、きくのが投句を始めて3年ほどの作品である。

 春暁が招く明かりに、漂わせた手に触れるものはなんだったのだろうか。

 きくのの俳句のなかで、もっとも印象的に登場する肉体は「手」である。女優を辞めたのち、茶道教授をしていたこともあり、ひときわ仕草の美しさを意識していたのかもしれない。茶道の無駄のない流れるような所作は、すべて美しい手の表情によってより際立つ。

 春愁やはたらかぬ手の指ほそく 『榧の実』所収

 随筆集『古日傘』のなかで「手」という文章が残されている。銀座の「Y」という額縁屋で、あるとき画帳を出され、手型を押してくれ、と頼まれたという。「(中略)見ると、もうたくさん押されてあって、画家、作家、俳優、音楽家といったような芸術家が多く、墨で押された手型にも濃いのうすいの、べとべとなのといろいろあり、傍らにそれぞれサインとわた手によせる文字がつづられている。『おお、いとしのが手よ』とかいてあるのは、如何にも指の長いソプラノ歌手であった。『お前はおれの最も親しいやつだ。おれの悪事をお前はみんな知っている』これは漫画家である。」と印象に残ったものを挙げているが、はたして自分はといえば「かいた文句は忘れてしまった」とつれない。つい最近、別の作家のエッセイを読んでいて、この「Y」という額縁屋が銀座8丁目にあった「八咫家」であることがわかった。現在は大田区千鳥に移転したそうで、早速画帳が今もあるか、あればぜひ見せてほしい旨をたずねてみたのだが、先代は亡くなり、電話口に出られた方は「話しは聞いた記憶はあるが、見たことはない」という返事だった。きくのは画帳にどの句を記したのだろう。手にまつわる句であったのだろうか。はたまた手型はべったり派か、薄墨派だったのか。まぼろしの画帳を今しばらく追ってみようかと思う。

 春昼や男手を待つ壜の蓋  「春燈」昭和49年5月号所載

 きくのに詠まれると男手も単なる労力ではなく、力ある色香を感じさせる。句集『冬濤』では、切なくも愛おしいくつもの手が登場する。

 暖かやさしのべられし手に縋り

 滝の音によろけて掴む男の手

 春の夜の触れてさだかにをとこの手

 触れし手のぬくもりのわがものならず

 そして、中年以降の女であれば誰でも知っていることだが、年齢がもっとも如実に刻まれるのは顔でも髪でもなく、手である。60歳を目前としたきくのがことのほか情けなく思ったのは、老いの表情を見せるようになった我が手であった。

 手袋の手の老いを愧づ人しれず  『冬濤』所収


●―4齋藤玄の句/飯田冬眞

 青葦原ふたつの目玉なにもせず

 昭和52年作。第5句集『雁道』(*1)所収。

 句集では、「風土」の項で取り上げた〈いつの日の山とも知れず夏大空〉の次に配列されている。この句は、〈知れず〉という受動的なことばを用いながら過去と現在という記憶の揺らぎを〈夏大空〉によってとらえた秀句であった。

 この年の三月、六十三歳の玄は前立腺手術のために北海道の砂川市立病院で一ヶ月余りの入院生活を送る。掲句は退院後の作であると思われる。自註を見るとこうある。

 見渡す限りの青葦原。それを見ている二つの目玉。青葦原を見る他は何もしない目玉。しまいには青葦原も見なくなった目玉。(*2)

 上五〈青葦原〉と中七以下のフレーズとの間に、ある行為とそれに伴う時間の経過が省略されている。軽く切れながら繋がっていく句の構造は、晩年の玄の作風でもある。〈青葦原〉という大きな景色と〈ふたつの目玉なにもせず〉という微細な描写を並べたことで、シュルレアリスムの絵画を見た時のような不思議な印象を与える。それは、肉体からふわふわと〈ふたつの目玉〉が抜け出して、空間に静止した状態で〈青葦原〉を見下ろしているイメージとでもいおうか。やがてその目玉は〈なにもせず〉に宙に浮いたまま消えてゆき、〈青葦原〉だけが風に揺れている。前句の〈いつの日の山とも知れず夏大空〉では、山を見ていた作者が〈夏大空〉の視点にすり替わって、記憶の中の山や眼前の山、そして死後の山を見下ろしていたが、それとは異なる趣を持つ。目玉のあったもとの場所には、暗い穴がぽっかりとあいている。もはやそこには魂すら宿っていない。下五〈なにもせず〉が虚脱した作者の心理状態を暗示させる。青葦原の実景は作中主体の眼前にありありと映っている。しかし心はすでに肉体から遊離して、うつろである。そうした無音で無色の精神世界が描かれているともいえるだろう。なまなましい〈ふたつの目玉〉が肉体性を象徴しているとするならば、それが「見る」という機能を果たさなくなったとき、心もまた、なにもしないということになるのだろう。死者の視点といってもよい。

 こうした機能不全に陥った肉体を詠むことは何を意味するのだろうか。肉体の意の「肉」あるいは「肉〔しし〕」という語を読み込んだ句をいくつかあげてみよう。

 しんしんと肉の老いゆく稲光  昭和47年作

 痛まねば肉〔しし〕といふもの春惜む  昭和49年作

 流燈を送るは肉〔しし〕を櫓〔やぐら〕とし  昭和50年作

 最初の句では、稲を豊かに実らせると信じられてきた光、つまり稲妻と深く静かに老いに蝕まれてゆく作者の肉体との対比が視覚的に把握されている。ここでの肉体は稲光という自然によって照らし出されたことで、回避することのできない「老い」を自覚したという生きるものの哀しみが描かれている。二句目では、病による痛みがなければ肉体を意識することができなかったという作者の述懐を〈春惜む〉という詠嘆的な季語に重ね合わせている。痛覚と季節の移ろいを対比させた点はユニークだが、情感が勝ちすぎて、詩としての純度が高いとは言えない。三句目には、流れ去る燈籠をたたずんで見送ることで、生の実感を味わっている作者がいる。肉体とは死者の魂を見つめ続けるだけの櫓のようなものという認識は、痛切。

 睡りては人をはなるる露の中  昭和53年作

 病中の作という背景を知らずとも〈人をはなるる〉の一語から強い詩情を受け止めることができる。生の悲しみに溺れることなく実景をとらえる目のたしかさがある。肉体から目や魂が遊離して実景だけが存在するというモチーフは、掲句やこの句のほかにも繰り返し詠まれている。滅び行く肉体を凝視することで至りついた静寂さをたたえた智慧の光をこれらの句から感じる。


*1 第5句集『雁道』 昭和54年永田書房刊 『齋藤玄全句集』 昭和61年 永田書房刊 所載 

*2 自註現代俳句シリーズ・第二期16『斎藤玄集』 昭和53年 俳人協会刊


●―5堀葦男の句/堺谷真人

 これやこの痩脛皺腹初風呂に

 『過客』(1996年)所収。葦男にとって今生最後の新年となる1993年正月の作。

初風呂につかる。なみなみと溢れる湯の中で四肢をくつろげ、顔をさすっていると、気分は極楽、生まれ変わったようだ。が、湯を透かしてつくづく我が身を眺めると、やはり年齢相応の衰えは蔽うべくもない。なるほどそうか、これが世にいう痩せ脛と皺腹そのものなのだ。

 葦男は同世代の中では長身であった。晩年、少し猫背になってからでも、筆者の目測で170センチは優に超えていた。学生時代、陸上競技で鍛え上げた肉体には相当の自信があったらしく、徴兵検査も甲種合格確実と観念していたという。しかし、1941年7月の検査結果は第三乙種合格。同時に胸部疾患の疑いを申し渡され、1年間を日本赤十字兵庫療養院で過ごすこととなった。25歳の時である。戦中戦後期はしばし小康を得るも、1949年6月に突然再発し、絶対安静2ヶ月、自宅療養1ヶ年を余儀なくされる。

 黒揚羽声もがれたるわれに飛ぶ 『火づくり』

 蒲団饐(す)うるにほひ生きんとするにほひ   同

 酷暑去る十指の爪に溝鐫(え)りつけ   同

 近現代俳句には「闘病の文芸」という一面がある。自己の肉体の変化や病状を客体視して叙述する子規の筆法をどこかで意識したのか、『火づくり』「水の章」の連作「鏡中の夏」には2度目の療養生活を淡々と叙する作品が目立つ。ただ、子規の肺患が重篤化し、やがて肉体崩壊の惨状を呈したのに対し、葦男の肉体は古傷を内に包み込んでゆっくりと生育する樹木の如く、二豎を制御することに成功した。年譜を見る限り、壮年期以降は大病に見舞われることなく年を重ねてゆく。

 さて、ここで冒頭の初風呂の句である。

 浴槽の中で痩せ脛と皺腹に対面する葦男は自己の肉体の衰えを嘆いているだけなのであろうか。筆者はそうではないと思う。加齢に伴う肉体の変化を興味深く観察し、あたかも一幅の俳画のような軽みをもってさらりと言い止める。そこには老いへの好奇心こそあれ、重くれた悲傷は見られない。

 更に付け加えるならば、歌舞伎をこよなく愛し、酔って興至れば名場面の身振り・声色を披露した葦男にとって、例えば皺腹とは単なる老醜の即物的表象ではなかった。むしろ老年の侠気と気概とを(多少コミカルに)示す道具立てであった。

 今になつて川越が娘と言ふて得心あらふか、

 卑怯至極と思し召す御心根も面目なし、皺腹一つが御土産。

 『義経千本桜』「堀川御所の段」。九郎判官に詰め寄り切腹しようとする川越三郎の科白である。ことによると葦男は湯気の中で音吐朗々と川越の声色を使いつつ、皺腹を撫してすこぶる上機嫌だったのかもしれない。

 それにしても、「これやこの」という大時代な上五といい、「初風呂」というめでたい季語といい、この句には様式美を踏まえた遊びがふんだんに織り込まれている。自己の肉体を一個の形象として凝視する「リアリズムの目」を失わず、なおかつ状況を演劇的に俯瞰する「桟敷の目」も働いている。千両役者・葦男の面目躍如というところであろう。


●8-青玄系作家の句/岡村知昭

 航空機胃の上を過ぎる餉後しょうごの臥   日野草城

 戦後の俳句における「肉体」の一句というテーマを考えていくと、ふたつの身体のありようが浮かび上がってくる。ひとつは結核療養者に代表される「病める身体」、このモチーフの作品として当時から反響の大きかったのが石田波郷の『惜命』である。もうひとつは労働をモチーフにした「働く身体」、こちらのほうは「社会性俳句」との絡みもあってモチーフとしての存在感を増してゆくことになる。どちらもそれまでに書かれなかった訳ではないのだが、これまでとモチーフの扱い方において大きく異なる点と考えられるのは、どちらの身体も個人的であると同時に、これまで以上に社会的な存在感を持つようになってきたところではないだろうか。もちろんいま挙げたような簡単な割り切りでは漏れる部分も多いはずなので、これからもさらに考えを深めていけるようにしたいと思っている。今回はひとまず「病める身体」の側面を見ていくことにしたいが、そうなると一番に登場するのは当然のことながら病床から「青玄」を引っ張り続けている日野草城その人である。

 掲出句は昭和25年(1950)7月号初出、句集「人生の午後」に収録。句集の章扉にはこの年の病状について「一月、発熱を押へてストレプトマイシン5グラム注射、効果顕著。」「病状は前年より安定し、作つた俳句の数も多かった」と記されている。

 病める身体に鞭打つかのようにようやくの食事を済ませて、疲れ切って横たわっているというところであろうか。病める身体への意識は食事を済ませてより鋭くなっているのか、胃の中では先ほど口から入れたばかりの食べ物をどうにか消化しようとするうごめきが感じられてやまない。自分の家の上空を通り過ぎる飛行機がとどろかせる爆音の大きさもまた自分の体に強く響き渡り、病める体にさらなる疲れをもたらしていくのである。

一句を支えているのは「航空機」と「胃の上」の位置関係の把握の仕方である。病床の自分と上空の航空機との間にある屋根瓦、天井といったものは一切省かれており、さらには自分自身の身体そのものではなく「胃」に焦点を絞ることによって、病める自分自身の身体を揺さぶってやまない「航空機」の存在をより高め、一句から浮かび上がってくる像を鮮やかなものとしている。このあたりの構成のうまさはさすが草城と言うところで、無季俳句の作り手としての力量は、この一句からも十分に伝わってくるのである。

 ここで気をつけて見ておきたいのが「航空機」の存在だ。空から自分の身体に押し寄せてくる音のとどろきや物象から来る威圧的な存在感といったものを、どうして一句に的確に把握できたのかを考えるとき、草城の自宅「日光草舎」が大阪空港からそれほど離れてはいない大阪府池田市にあることも影響しているだろう。戦前 から軍用空港として使われていた大阪空港は、敗戦後は連合軍に接収され「伊丹エアベース」と呼ばれていたという(大阪空港が「伊丹空港」とも呼ばれるのはその時の名残と言われる)。昭和25年の6月には朝鮮戦争がはじまり、空港と朝鮮半島を行き来する軍用機の数は日々増していったであろうことは想像に難くない。掲出句が作られた時期はおそらく朝鮮戦争のはじまる前なのだろうが、ただ「病める身体」を自宅に横たえることしか出来ない草城は、毎日絶えずのしかかって来る軍用機の爆音を自分の身体で受け止めながら、ようやく訪れたと思われた静かな時間が、再びも戦争の危機にさらされてしまっているのを「病める身体」の視点ゆえに微細に感じ取っていたのかもしれない。

 先ほど引用した句集「人生の午後」の章扉には次のような記述もある。「三月、温子豊中桜塚高校卒業、進学の志を捨てて母校事務室へ就職」。自らの「病める身体」がもたらしてしまった家族の苦難の一端を草城は記す。このとき草城の身体には病魔だけではなく家族の生活の苦難が、さらには再びの戦乱への恐れもがのしかかっていたのだろうが、「病める身体」は全身でそれらを受け止めながら自らの求める「戦後俳句」と向かい合うのである。


●―9上田五千石の句/しなだしん

 どの石も蜥蜴の腹をあたためず     五千石

 第一句集『田園』所収。

 前回の「音」でも書いたが、五千石の作句は研ぎ澄まされた視覚が中心であり、今回のテーマ「肉体」「身体」についても、己の身体を詠った句、他人の肉体を詠った句、またそれを連想する言葉が使われた句は見出すことができなかった。

     *

 掲出句。強いて言えば、蜥蜴の「身体」を詠んだ句である。

 だがこの句の面白いところは、蜥蜴の腹のことを自分の身体の感覚のように詠んでいるところだ。まるで己の腹で石ひとつひとつの温度を確かめたような断定のしかたである。

 五千石の作句信条といえば「眼前直覚」だが、五千石はしばしばその眼前を飛び越え、対象物と同化して作品を成すことがあるように思う。

たとえば、

 渡り鳥みるみるわれの小さくなり     五千石

は、その例として分かりやすいかもしれない。

 この「蜥蜴」の句も、対象物である蜥蜴の「身体」と同化して、蜥蜴の感覚が五千石の「身体」を通じて言葉に成った作品ではないかと思うのだ。

     *

 第一句集『田園』は、章題とは別に、概ね二句ごとにタイトルが付けられた構成になっていることはよく知られたことで、この構成については否定的な意見が大半を占めるようだ。

 この句を含む二句に付けられてたタイトルは「寒い夏」。このタイトルはいただけない。蜥蜴の腹があたたまらないのは、その年の「寒い夏」のせいだ、という答えになってしまっている。これは作品にとって大きなマイナスと言わざるを得ない。

 いずれにしても、視覚を通り越して対象物と同化し、その言葉を表現する、こういう作句姿勢に学びたいと思った作品である。


●―10楠本憲吉の句/筑紫磐井

 散る柳スリムK氏の背に肩に

 昭和54年、『方壺集』より。

 肉体といった場合に、楠本憲吉の全身をどのように表現するかは難しい。「我」では、精神的な意味が強いであろう。ところが、憲吉は不思議な表現を発見する。掲出の「K氏」である。もとより楠本憲吉氏の略称であるから、それ以上の情報が付加されているわけではないだろうが、彼の作品の中では「K氏」は妙に痩身の自己の肉体を際立たせているようなのである。

 K氏が帰る愛と死をその双翼に

 不惑K氏に夕陽全円熟れて落つ

 蟻が蟻の屍運ぶ参道 K氏が去る

 秋嶺見ゆ白面K氏の肩越しに

 蟇とK氏の隠微な散歩で夏逝く森

 中共見ゆ脚長K氏の双脚越し

 眼(まなこ)窪ませてK氏の避暑期去る

 金星泛べK氏山荘は四月尽

 冬灯ちりばめK氏遺愛のボールペン

 こんなたぐいなのである。確かに、「我」というよりは、小説の中の主人公のように客観化された存在が浮かび上がる。「A少年」「少女B」なら一層現代的だろうが、それだけ人の特定は難しい。「K氏」は目をつぶれば確かにそのシルエットが浮かび上がりそうな人物である、特に「K氏」の表記は軽薄な感じが楠本憲吉以上にふさわしい。ちなみにショートショートの神様星新一は、大半の主人公を「エヌ氏」にしている。中性的な感じがよい、「N氏」ではダメだというのである。ということで、昔の小説であれば、『阿Q正伝』の「阿Q」に相当するものといっておこう。

 「柳散る」は秋の季語。芭蕉に、「庭掃いて出るや寺に散る柳」があるが、あまり上々の句とも言えない。もともと、連歌では「一葉散る」といい桐の葉と柳の葉を広・細一対にして初秋の風情としたが、前者には「桐一葉日当たりながら落ちにけり(虚子)」の極め付けの名句があるのに対して、後者にはない。案外この句など、芭蕉に匹敵する句と言ってもよいかもしれない。

     *

 なお参考までに。「我」に独特の表記をしている歌人に前田透がいる。

 中国に行かぬ太郎が歩みおり今日乾き明日も乾かん舗道

 企業使用人太郎が出口に佇ちおれば平俗米人笑みつつぞ来る

 硝子かがやく資本の城に日が照りて太郎の負える責もむなしき

 <我、汝に何を為せばぞ>斯く三次(たび)打たるることを太郎は許す

 前田透の場合「太郎」が我である。膨大な全歌集を読み通すと、我の中に(歌人は、俳人に比べてはるかに我について語ることが多いのだ)時折、「太郎」が登場する。企業や資本主義の中での疎外された自己を歌うとき突然「太郎」が現れるようなのだ。


●―12三橋敏雄の句/北川美美

 晩春の肉は舌よりはじまるか

 「肉体」というテーマに官能的と思える句を選んだ。掲句、大正男の肉欲を想像させる。戦争の前線にいた男のセックスに違いがあるのだろうか。肉欲は率直である。けれど「はじまるか」である。舌という部位から身体の肉がはじまるのでしょうか、という率直な意味はもちろん、情事がはじまる予感をせしめるのである。現代の草食系男子というのは男の正道でない子供ということになり(よって男子なのだろう)、迷わず肉欲の男が男なのである(迷うことなく肉を選んだ@『男の滑走路』作詞・横山剣)。では、「晩春」とは何なのか、単なる季語としての背景ではあるまい。人生の季節で「晩春」を迎える男のエロス、同時にタナトスの到来を予感する寂寞の感が背景にある。「春」という語が俗であり雅であることを改めて想う。読み手側の心拍数の上がる句ということに違いはない。

 敏雄の官能句と思わせる句には、したたかにエロティックなものと、母者ものといわれるものがあるが、前者は男性視点で語られることが多く、後者は女性からの支持が多いようだ。実際、加藤郁乎は掲句を『眞神』のなかの最高作としていた(*1)。女は「する」ことにより、男は「みる」ことにより官能が刺激されるという説(*2)が関係しているのだろうか。

 時代背景としての話になるが、敏雄より10年若い吉岡康弘の『吉岡康弘写真集』(*3)は予想以上に強烈だ。人体、女性性器が肉のオブジェとして石ころ同様に映っている。篠山紀信氏が公然わいせつで家宅捜索を受けたレベルの露出度ではない。愛は肉からはじまる場合がある、いや、はじまるのである。「見ること、それは眼を閉じること」は、ヴォルスの言葉である。戦後1960年代、世界的に前衛(avant-garde)といわれる芸術活動が盛んだった。

 掲句が収録されている『眞神』に下記の肉体に関連する句もある。

 肉附の匂ひ知らるな春の母

 「春の母」とは何者なのか。単なる季節ではない『眞神』の時空とでもいえるものが春、青春の母。母の肉附の中に隠れている自分、水子かも一寸法師かもしれない自分を母は知らない。「春」という言葉により淫靡さを思いがちであるが、それ以前に自己のルーツと思える句であり『眞神』のキーとなる句と思える。二句とも昭和46年の作である(「肉附」の句が100句目、「肉は舌より」の句が102句目である)。

 體溫を保てるわれら今日の月 『疊の上』

 人閒も他の生物ぞ泣き泥鰌  『長濤』

 肉體に依つて我在り天の川  『しだらでん』

 敏雄は肉体を聖なるエロス、霊、たましいの宿る物体として捕えている。前述の吉岡康弘の女性性器も同じく聖なる物体なのである。遡れば、アルチュール・ランボーの『太陽と肉体』を見ても肉体を突き放しているところに詩として共通点を感じる。更に遡って聖書における肉(ヘブライ語:バーサール)は「霊」と対比された人間の物質的な部分、全存在を意味している。敏雄句そのものになるが、「肉体に依って我あり」のとおり人間の聖なる原点が肉体そのものだ。詩歌をつくるものに敏雄句の肉体に潜むようなエロスの神は、そう簡単に降りて来てはくれないだろう(*4)。

 そして掲句、またも、係助詞「は」の使用句である。


*1)『俳句季刊』昭和49年1月号/書評集『旗の台管見』(コーベブックス刊)収録

*2) 『オール・アバウト・セックス』鹿島茂/文藝春秋2002年

*3) 吉岡康弘(写真家1935-2002年)1961年、読売アンデパンダン展に出品した写真作品が「ワイセツ」との理由で開催4日目にして撤去された。吉岡康弘はそれに抗議するかたちで、撤去された作品を主に写真集『吉岡康弘作品集』を自費出版した(1962年)。寄稿者に中原祐介、滝口修造、黛俊郎、安部公房、勅使河原宏、石元泰博が名を連ねる。

*4) とはいえ、「女は無意識にエロスの句をつくる」と三橋敏雄がよく言っていたようだ(故・山本紫黄談)。やはり女は「する」こと、あるいは出産という生殖の神秘が無意識に言葉に働くのだろうか。


●―13成田千空の句/深谷義紀

 虫送る生身の潤び女たち      

 第四句集「白光」所収。

 松明の灯の連なりが揺れ、晩夏の夜の湿った空気が肌にまつわる。農村行事、虫送りの光景である。神事の色彩もあるため、実際にはこの行事に恐らく女性は参加していなかったのであろうが、千空はそこから女性たちの「肉体=生身の潤び(ほとび)」の確かな存在を感じ取ったのである。

 千空には、ある種の野趣を感じさせる作品がある。例えば、

 快晴や土筆ちんぽこいちめんに      「忘年」

 雄の馬のかぐろき股間わらび萌ゆ     「白光」

などである。これらの作品を読んで、初めに想起したのは金子兜太の、

 曼珠沙華どれも腹出し秩父の子

であった。この二人は創作活動においてほとんど交わることがなかった筈だが、それぞれがお互いを語るとき、お互いが抱く親近感が伝わってくる。それは二人が同年代であることに加え、こうした野趣を二人が根底に有していたことが影響していたからだと思えてならない。

 掲句にも、そうした野趣が認められる。そして、この野趣は「原郷としての津軽」を意識してこそ生まれてくるものである。横澤放川は、掲句について「濃厚な風土体質」を指摘し、千空の作品は「その風土が時代における人間性の普遍に達している」と言う(角川書店「俳句・成田千空の生涯と仕事」より)が、同感である。

 さらにもう一人、この句から連想するのは同郷の画家棟方志功である。志功の絵に描かれた女たちはいずれも生命力に溢れている。しかもその生命力は時空を越え、永遠性を感じさせるものである。譬えて言えば「縄文の生命力」だ。津軽は縄文の地であり、掲句の「火と女たち」から縄文の匂いが色濃く漂ってくるのである。


●―14中村苑子の句【テーマ:水妖詞館ーあの世とこの世の近代女性精神詩】11.12.13.14./吉村毬子

11 わが襤褸絞りて海を注ぎ出す

 海へ行き、波を被ったのか、着物のまま海へ入ってしまい、遊んだのか。海水に濡れた着物を絞る様子を詠んだともとれるのだが・・・。

 かつては美しかった絹の着物が「襤褸」となる頃、それを絞ると、歳月が「海」の如く溢れてくるのだと解釈したい。母なる海―女と海の関係は詩に詠われるものである。水を好む苑子は、海も好んでいた。女としての、昏く、そして華やかな人生を過ごした時間は、大海原を漂流した船乗りのように、その疲れ果てた「襤褸」から絞り出されるのだ。「わが」と強調したところにも思いが感じられる。それは、辛く透明な汗と泪の混じる深い青い色をした「海」なのであろう。

 「海を注ぎ出す」という表記に寄り、「襤褸」という語が稀な美しさを表出し、輝きを放つ。

 そして、「襤褸」と「海」の二語で、自身の人生という時間を十七文字で表現し得る俳句形式の強さを感じずにはいられない句である。

12 おんおんと氷河を辷る乳母車

 初めてこの句に出遭った時、(すでに二十年以上も前だが。)松本清張rの『砂の器』の父子が凩の中、海辺を黙々と歩く姿が重なった。

 「おんおん」と泣いているのは、赤ん坊か我か―。氷河は、「おんおん」と音をたてて崩れては、流れては、形を変えていく。全てが「おんおん」と鳴り響くその目くるめく怒涛の中、乳母車と共に氷河に身をまかせていくしかない女の姿。それは、女『子連れ狼』の如くにも感じられる。

 橋本多佳子の句

乳母車夏の怒涛によこむきに

とは、明らかな違いがある。夏の荒波にも耐え、しっかりと立つ多佳子の乳母車が、海に抱かれたその光景は、逞しくおおらかであり、爽やかでさえある。

 人は、平坦で緩やかな場所ばかりを歩んで来るわけではないが、苑子が「氷河」を舞台設定にしたその思いと覚悟は、如何なるものであったろうか。夫が戦死し、俳句を術に氷塊のような固く冷たい世間を歩けば、足元から崩れることもある。安定など有り得ない。大海原に浮かぶ氷塊を、乳母車と共に辷りながら、縋りつきながら生きていくことこそ、苑子の詠う母の詩である。苑子の生き様も描かれていると同時に「母」という名の精神性を最も享受できる句であろう。

13 貌を探す気抜け風船木に跨がり

 風船の空気が抜けて、木に引っ掛かっている様子であろう。大空は快適で自由であったが、いつの間にか風に流されて木に引っ掛かってしまったのである。

 空気がたっぷりと入って溌溂と大空を回遊していた風船が、時間が経つにつれて空気が抜けて萎んでいくことは、必然である。人もまた、時間経過と共に身体は衰えてゆくのだが、この句は「風船」を「貌」に喩えている。

 苑子は、少女の頃、お転婆であったと話していた。凧揚げや木登りもよくしていたらしい。無垢な強さを身に纏っていた頃を思い出しながら、静かに現在の己を見詰めているようである。

 歩いて来た俳句人生の道程を振り返りながらも、老年に差し掛かった将来への不安と焦燥を少しは感じるが、木に跨り、地より浮いたその場所で本当の自分を探している手段は、諦めに似た落ち着きを持つ。

 しかしながら、この句には、確かに自分を「気抜け風船」だと認識している倦怠が窺える。

 果たして「貌」は、何処へいったのだろうか・・・。

14 貌が棲む芒の中の捨て鏡

 前句の「貌」が行き着いたところか・・・。

 「風船」であったはずの「貌」は、生気を喪ったが、鏡の中で己を取り戻したのか・・・。

 見開きの右側一頁に、11・12の句、そして左側の頁に13.14の「貌」の句が置かれている。(毎回、この四句づつ書き進めているのだが。)13の「貌を探す・・・」と並べられているということは、意図的であり、意味を持たせているのだろう。

 この句は、苑子の代表句としてよく取り上げられる句である。

 倉阪鬼一郎氏も著書『怖い俳句』で解説している。

 いちめんの芒の中にぽつんと一枚、鏡が捨てられています。その中に、人知れずえたいの知れない貌が棲みついています。それがいかなる貌なのか、なぜ鏡の中に棲むようになったのか、俳句は何も説明してくれません。(中略)鏡を捨てた者が貌として宿るようになったのか、あるいは物の怪のたぐいが棲みつくようになったのか、これまた短かすぎる俳句の言葉は伝えようとしません。

  一読、誰もが倉阪氏と同じ思いを抱くだろう。

 俳句の形体に迷いがない。まず、上五で「貌が棲む」と言い放っている。そして、鏡が芒原に在ることも、想像を掻き立てるに事欠かない設定であり、その中に棲む「貌」は、異様としか言いようがない。

 鏡を捨てるということ自体が、非日常的であり、割れてしまったのかも知れないが、それは、不吉を予感させられると言われている。持ち主が亡くなってしまったのなら、形見としての存在が許されなかった女のものだったのか・・・。

 いずれにしても、鏡の中に棲む貌は、そこへ定住しながら生き永らえていくのである。芒は、陽光を浴びながらサワサワと揺れ続ける。逆行の夕景、晩秋の宵闇、枯芒の頼りない揺れの中も鏡はそこにある。まるで、古代よりその地に棲みつき、存在していたかのように。一筋の諦念を髪に携えながらも、終の棲家の鏡の中に納まっている。憎悪や復讐などは、とうに芒原の風に吹かれ、永遠に原野の一部となる。全てを捨てられ、捨てた貌は、怒りに満ちた貌よりもずっと恐ろしく見えるのではないか。

 今回の四句は、前回の叙情で詠う「母・女」よりも、更に激しく、母として、女としての性(さが)を焦点を絞り詠い挙げている。現代を生きる女性にも、その一欠けらは共感するものと信じたい。