2025年9月26日金曜日

第254号

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■新現代評論研究

新現代評論研究(第12回)各論:後藤よしみ、村山恭子 》読む

現代評論研究:第15回総論・「遷子を通して戦後俳句史を読む」座談会 》読む

現代評論研究:第15回各論―テーマ:「花」その他― 藤田踏青、土肥あき子、飯田冬眞、堺谷真人、岡村知昭、しなだしん、筑紫磐井、北川美美、深谷義紀、吉村毬子 》読む

新現代評論研究:『天狼』つれづれ 第4回:創刊号「実作者の言葉」…「定型」「現実」/米田恵子 》読む

新現代評論研究:音楽的俳句論 図像編 川崎果連 》読む

新現代評論研究:音楽的俳句論 解説編(第1回)川崎果連 》読む


■令和俳句帖(毎金曜日更新) 》読む

令和七年歳旦帖・春興帖
第一(4/25)仙田洋子・神谷 波・豊里友行・山本敏倖
第二(5/9)ふけとしこ・加藤知子・杉山久子・小野裕三
第三(5/23)辻村麻乃・瀬戸優理子
第四(6/27)曾根毅・浅沼 璞・なつはづき
第五(7/5)下坂速穂・岬光世・依光正樹・依光陽子
第六(7/11)下坂速穂・岬光世・依光正樹・依光陽子・岸本尚毅・木村オサム
第七(7/25)中村猛虎・松下カロ・望月士郎・堀本吟・花尻万博
第八(8/22)眞矢ひろみ・村山恭子・冨岡和秀・田中葉月・渡邉美保・小沢麻結
第九(9/12)水岩瞳・佐藤りえ

令和六年冬興帖
第一(4/5)仙田洋子・神谷 波・豊里友行・山本敏倖・ふけとしこ
第二(4/11)鷲津誠次・加藤知子・杉山久子・小野裕三
第三(4/25)辻村麻乃・瀬戸優理子
第四(6/13)曾根毅・浅沼璞・なつはづき・下坂速穂
第五(6/21)岬光世・依光正樹・依光陽子・岸本尚毅・木村オサム
第六(6/27)中村猛虎・松下カロ・望月士郎・堀本吟・花尻万博
第七(7/5)眞矢ひろみ・村山恭子・冨岡和秀・田中葉月・渡邉美保・小沢麻結
第八(9/12)水岩瞳・佐藤りえ


■ 第49回皐月句会(2024/5月)[速報] 》読む

■大井恒行の日々彼是 随時更新中!※URL変更 》読む

俳句新空間第20号 発行※NEW!

■連載

【新連載】口語俳句の可能性について・2 金光 舞  》読む

【連載通信】ほたる通信 Ⅲ(62) ふけとしこ 》読む

【鑑賞】豊里友行の俳句集の花めぐり36 宮崎斗士『そんな青』 》読む

英国Haiku便り[in Japan](55) 小野裕三 》読む

【豊里友行句集『地球のリレー』を読みたい】8 豊里友行句集『地球のリレー』 栗林浩 》読む

句集歌集逍遙 董振華『語りたい龍太 伝えたい龍太—20人の証言』/佐藤りえ 》読む

【加藤知子句集『情死一擲』を読みたい】④ 破局有情――加藤知子句集『情死一擲』について 関悦史 》読む

現代俳句協会評論教室・フォローアップ研究会 7 筑紫磐井 》読む

【抜粋】〈俳句四季9月号〉俳壇観測260 鷹羽狩行の晩年——『十九路』『二十山』を読む

筑紫磐井 》読む

【連載】伝統の風景――林翔を通してみる戦後伝統俳句

 7.梅若忌 筑紫磐井 》読む

【豊里友行句集『母よ』を読みたい】③ 豊里友行句集『母よ』より 小松風写 選句 》読む

【渡部有紀子句集『山羊の乳』を読みたい】⑯ 生き物への眼差し 笠原小百合 》読む

インデックス

北川美美俳句全集32 》読む

澤田和弥論集成(第16回) 》読む

およそ日刊俳句新空間 》読む

9月の執筆者(渡邉美保)…(今までの執筆者)竹岡一郎・青山茂根・今泉礼奈・佐藤りえ・依光陽子・黒岩徳将・仮屋賢一・北川美美・大塚凱・宮﨑莉々香・柳本々々・渡邉美保 …



■Recent entries

中村猛虎第一句集『紅の挽歌』を読みたい インデックス

篠崎央子第一句集『火の貌』を読みたい インデックス

中西夕紀第四句集『くれなゐ』を読みたい インデックス

渡邊美保第一句集『櫛買ひに』を読みたい インデックス

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麒麟第2句集『鴨』を読みたい インデックス

麻乃第二句集『るん』を読みたい インデックス

前衛から見た子規の覚書/筑紫磐井 インデックス

寒極光・虜囚の詠~シベリア抑留体験者の俳句を読む~㉜ のどか 》読む

俳句新空間を読む 》読む
…(主な執筆者)小野裕三・もてきまり・大塚凱・網野月を・前北かおる・東影喜子


筑紫磐井著『女帝たちの万葉集』(角川学芸出版)

新元号「令和」の典拠となった『萬葉集』。その成立に貢献した斉明・持統・元明・元正の4人の女帝、「春山の〈萬〉花の艶と秋山の千〈葉〉の彩を競へ」の天智天皇の詔を受けた額田王等の秘話を満載する、俳人初めての万葉集研究。平成22年刊/2,190円。お求めの際は、筆者までご連絡ください。  


【新連載】新現代評論研究:各論(第12回):後藤よしみ、村山恭子

★ー3「高柳重信の風景 7」後藤よしみ


 前章では、重信にとって風景とは言霊を宿すものであり、過去と現在をつなぐ歴史的な場であることを論じた。その重要な契機となったのが、1971年の飛騨行である。重信は、飛騨の風景の奥に神々の存在を感じ取り、隅々に宿る霊の生動と、それに伴う言霊の響きを捉えた。こうして生まれた「飛騨十句」は、重信の絶唱と称されている。


㊀飛騨の       ㋥飛騨 

 美し朝霧   *   道傍の酒栄し

 朴葉焦がしの     黒木格子の

 みことかな      みことかな 

 

㊂飛騨の       ㊃飛騨

 山門の    *   法体の仏の木

 考へ杉の       足無しの

 みことかな      みことかな 


㊄飛騨の       ㊅飛騨

 真男鹿    *   大嘴の啼き鴉

 角戴きの       風花淡の

 みことかな      みことかな 

 

㊆飛騨の       ㊇飛騨

 雪襞    *    風早の神無月 

 天の高槍の      猪威しの

 みことかな      みことかな 


㊈飛騨の       ㊉飛騨

 袈裟山   *    闇速の泣き水車 

 長夜の深井に坐す   依り姫の

 みことかな      みことかな       『山海集』


 これについて、さらに言葉を重ねたいと思う。

  ゲオルク・ジンメルは『風景の哲学』において、「風景として眺めることは、自然から切り取った一片を、それなりの統一として見ることにほかならない」と述べている(『ジンメル・エッセイ集』平凡社、1999年)。風景に対する感覚が覚醒したとき、人は「中心と境界を変化させる力」を得て、「特別な性質の統一」に至る。つまり、風景には感情的な統一が不可欠なのである。

 この統一の点でつけくわえるならば、中川理は、マージョリー・ホープ・ニコルソンの「崇高」という概念を引きながら、思想の変化が風景へのまなざしを変え、「崇高」の受容を促すと述べている(『風景学』共立出版、2008年)。これは、風景の発見にとどまらず、内的感情と外界の風景が結びつくことで生まれる感情的統一が、「崇高」の美学の形成に不可欠であるという指摘である。この「崇高」は、風景が精神を揺さぶり、感情的統一をもたらす美学とみなせよう。重信の「飛騨十句」は、まさにその崇高の構造を日本的霊性、日本的なるものの文脈で再構築している。

 具体的に見ていくなら、まず、「飛騨十句」の配列である。上のように二段に分けて掲載するとわかりやすいが、一番目から九番目までの奇数句は一行目に〈飛騨の〉を置き、偶数句では〈飛騨〉の二文字から始まっている。また、各句の一行目は〈飛騨の〉または〈飛騨〉で統一され、四行目はすべて〈みことかな〉で締めくくられている。変化が見られるのは二行目と三行目のみであり、この構成によって句群全体に統一感が生まれ、飛騨の風景と内的感情が結びついてくる。さらには、日本的霊性として憑代を置いている。㊀の句では、三行目の〈朴葉焦がしの〉香りがそれにあたるだろう。㊉の句では、二行目の〈水車〉が憑代として登場している。このような一体感をもった構成となり、実際に飛騨山中に足を運んだことのない者にも飛騨の本質を感じさせてくれる。

 「飛騨十句」は、以上のようにニコルソンのいうところの「崇高」の美学が風景感覚の覚醒からなる感情の統一感があらわれている。これらの特徴をまとめると、風景の役割において神霊の依代・言霊の場。感覚の統合において、視覚・嗅覚・聴覚そして言語の統合。詩的契機において、「みことかな」による神性の顕現がみられる。重ねて言うならば、重信において風景は象徴主義と日本的なるものとのひとつの結合、統合としての現象なのである。

 それでは、「飛騨」以降の作品をながめてみよう。 


後朝や        葦牙に

いづこも    *  立つ日入る日や

伊豆の        故

神無月  「坂東」   葦原ノ中国  「葦原ノ中国」


日読童女を      目醒め

誓ひて    *   がちなる

樹つる        わが尽忠は

筑紫鉾  「倭国」   俳句かな   「日本軍歌集」


 ここには、重信の内面に深く根ざした「日本的なるもの」が、より明確に表出している。これらの句群が仮構性を高めつつ構築された作品が、『日本海軍』である。

松島を       弟よ

逃げる    *  相模は

重たい       海と

鸚鵡かな      著莪の雨


夜をこめて     腹割いて

哭く    *   男

言霊の       花咲く

金剛よ       長門の墓     『日本海軍』


 このように『山海集』「日本軍歌集」を受けて、艦名と地名から喚起されるイメージにより仮構した世界を創りあげている。冒頭の掲句に立ち返れば地名は「松島」であり、軍艦「松島」は敵艦に対抗するために船体に似合わない巨砲を搭載していた。そのため、砲撃すると反動により船体の姿勢がかわり、進路まで変わってしまったという。 この句は、『奥の細道』における曽良の〈松島や鶴に身をかれほととぎす〉を下敷きにしており、原句の意は「松島にはほととぎすの姿では小さすぎるため、鶴の姿を借りて優雅に見せてほしい」というものである。重信の句はこれをパロディ化し、軍艦「松島」の逸話と重ねることで、風景と軍事的記憶を融合させている。

  『山海集』で見られたように、象徴主義などの影響が薄れることで、新たな日本的なるものがよりいっそう浮き彫りになってきた。ここから、重信にとっての日本という仮構を担う旅がはじまったととらえられる。その点では、『伯爵領』で見られた国見・道行の新たな展開とも読みとれる。

 ただし、留意すべきは、風景感覚の覚醒がそれ自体で自立するものではなく、虚構と創作によって支えられている点である。風景は神話的空間としての働きを持ち、創造の磁場を提供する。現代において共有される風景の地が失われつつある中、詩人は架空の風景、架空の場所を創り出すことになる。それは再生ではなく、失われた場所への代償である。 

 『日本海軍』の〈 夜をこめて/ 哭く/言霊の/金剛よ〉の句のように、日本人にとっては、山や海や川、森などは神霊、祖霊の住み処であり、その風景に立つことで霊感をえてきた。また、日本人の深層にひそむ古代の呪術的な空間をも育んできた。そして、西行や芭蕉をはじめ、古い歌に詠まれた風景の前に立つのであればその土地の霊と一つになり、豊かな詩をもたらしてくれるものと信じられてきた。このように詩歌をはじめとする創造の磁場を風景は提供している。現代の普通の風景を共有する共同体が衰弱したなかでは、風景の地という根拠を持たない架空の風景を、架空の場所・地を創り出すことになる。   

 しかし、それは仮構された場所・地であり、その場所・地の再生ではなく、あくまで失われてしまったところの代償でしかないと言う(中川 理『前出』)。これらの例としては、清朝の時代、皇帝は有名な風景を縮小再生したが、これは都から遠く離れた地を魔術的・呪術的に都に近づけようと意図されたものとされている(柴田陽弘『前出』)。これらは、仮構された空間という意味では、高柳重信の『伯爵領』『日本海軍』につながるである。

 また、この作品が日本海軍をめぐるものとなったことは、それ自体が重信の原風景とかかわっている。その時の小学校の思い出に正門脇の文房具店があり、そこで大切にしていた思い出は日本海軍の組み写真であったという。少年であった日々に、「如何にも親しげな感じと共に多くの地名をもたらしたのは、これらの軍艦の艦名である。ひょっとすると、わが『日本海軍』は、そのときから少しずつ始まっていたのかもしれぬ」と回想している(「わが『日本海軍』の草創」『全集Ⅲ』)。ふつうであれば、思い出のなかで想像の世界に遊ぶにとどまるであろうが、重信の偏執的な気質のためか、あるいは遊戯性とあいまってか、それを俳句作品として構築する姿勢は、いかにも重信らしいと言えるだろう。重信の創作動機としては、「記憶の再構築」および「遊戯的な構築」の両方と言ってよいだろう。

 このようにして、重信の戦後の句群を眺めてみるならば、象徴主義時代とその成熟と変容、そして日本的なるものへという一つの道筋が見えてくる。その変容そして進展には、重信における「原風景」と「風景の発見」「風景感覚の覚醒」が重要な役割を演じていることがわかる。


★―7:藤木清子を読む4 / 村山 恭子


4 昭和10年 広島県 藤木水南女で出句 ②


  火夫にあはれ窓は苦熱の焔をあぐる    京大俳句8月

 火夫は火を扱う職業の男性を指す言葉で、蒸気機関車の機関士のような役割を担う人を意味します。〈窓は苦熱の焔をあぐる〉ので〈火夫にあはれ〉と倒置法により、〈苦熱の焔〉が上がる様を強調しています。また〈火夫にあはれ〉の「に」は窓との接近を表し、燃えたぎる焔と苦痛な灼熱の様子を際立てています。

  季語=無季


  火夫しづか夏の山脈窓にはるか      同、旗艦9号・9月

 火夫が〈夏の山脈〉を窓から見ています。苦役から開放されて、身も心も落ち着いて眺める〈夏の山脈〉ははるか遠くに堂々と美しくあり、火夫の慰みになりました。

  季語=夏(夏)


  火夫涼し陸の娼婦に口笛を        同

 〈陸の娼婦〉と「陸」の強調により、火夫は「海」から上がったことがわかります。

 火夫が娼婦に吹く口笛の音は涼しく、海から陸へ上がった火夫の安堵も表しています。

 季語=涼し(夏)


  火夫あはれ船底の夏初まれり       旗艦9号・9月、天の川9月

   *天の川9月号に「発動汽船の火夫」の前書きあり

 火夫にとって苦しい〈夏〉がはじまりました。〈船底〉での労働は想像よりはるかに辛く、

〈あはれ〉は感動詞の「ああ」でもあり、名詞として労働への同情や哀愁の念を感じます。

  季語=夏初む(夏)


  人あつし身ごもる妻の黄なる声      京大俳句9月

 〈身ごもる妻〉の〈黄なる声〉を聴いている人がいます。耐え難い蒸し暑さ中、甲高い声を発する何かが生じ、不穏さをあおっています。

  季語=あつし(夏)

 

  日焼けては夕べ忙しく潮汲める     同

 日に焼けて潮を汲む一日が終わろうとしています。〈夕べ忙しく〉から今日の予定分を終わらせようと忙しく立ち回る様子が見えます。

  季語=日焼(夏)


【新連載】口語俳句の可能性について・2  金光 舞 

【学生俳句大会コラム】(筑紫磐井)

 本BLOGで紹介している全国学生俳句会に関する情報を提供します。

➀フリマ

 全国学生俳句会合宿 2025の結果が報告書にまとめられることとなり、文学フリマ東京41(11月23日)にて販売される予定です。本論を執筆している、金光舞さんの入選論文も掲載の予定。

➁コールサック

 コールサック社の「コールサック」124号で、「全国学生俳句会合宿 2025」のルポを鈴木光影氏がまとめられる予定です。11月上旬刊行、定価1650円です。

俳句四季11月号

 「全国学生俳句会合宿 2025」の紹介を馬場叶羽さんが、「俳壇観測」で筑紫磐井が「大学生俳人の意識」として合宿参加者各位の考えの紹介を行う予定。10月20日ごろ刊行、定価1100円です。


 自序では、従来の俳句が文語を基調とした定型・季語・簡潔な描写を軸に成立してきたことを確認したうえで、戦後の現代俳句における形式の硬直化が指摘される。その停滞を打破する試みとして「口語俳句」が登場し、俳句を現代の言語感覚と接続し直す営みであると位置づけた。

 越智友亮『ふつうの未来』の〈ゆず湯の柚子つついて恋を今している〉を取り上げ、以下の論点を示した。

一、 季語「ゆず湯」という伝統的要素に、「恋を今している」という現代的で直接的な口語表現が結合している。

二、 「今」という語が現在進行形の切実さを強調し、読者をその瞬間へと立ち会わせる。

三、 直接的な表現が余情を損なうのではなく、柚子をつつく仕草や香気と重なり合い、新たな余韻を生み出している。

四、 伝統形式と口語的感覚の交錯が、句全体に独自の温度感をもたらしている。

このような点を通して、口語俳句は「省略と余白の美」から一歩進み、「口語の直接さが生む余韻」という新たな地平を切り拓くことが示された。同時に、それは「生活俳句」「青春俳句」「SNS俳句」といった今日的潮流とも呼応し、時代の呼吸を取り込む詩型として注目される。ただし、口語表現には「古びやすさ」という危うさも伴うことが、暮田真名の批評を通じて指摘されており、口語俳句の意義と限界を考察する視点が提示されていることを確認した。

生きた言葉として

 こうした試みは、実は新しいものではなく、すでに1市川一男『口語俳句』(1960)において理論的に提起されていた。市川は、 文語に依存した俳句の硬直性を批判し、日常の息づかいをそのまま作品に取り込むことの重要性を説いた。つまり「生活と詩の直結」である。口語俳句は、単にくだけた言葉遣いというのではなく、人々の暮らしの中で実際に使われる言葉をそのまま句の器に定着させようとする試みなのである。


2 すすきです、ところで月が出ていない

3 草の実や女子とふつうに話せない

4 焼きそばのソースが濃くて花火なう


 いずれの句も、伝統的な季語を含みながらも、そこに会話調やネットスラングといった現代的な表現を重ね合わせている。

 〈すすきです、ところで月が出ていない〉この一句を読むとき、私たちはまず冒頭の〈すすきです〉という言葉に引き寄せられる。俳句の上五に「すすき」と置かれれば、誰もが古典的な抒情を思い描くのではないだろうか。秋の野にたなびく薄の穂、月光を受けて銀色に輝く草姿、風にそよぎながら静かに佇むその情景。古来より多くの歌や句で讃えられてきた、典雅で気品ある自然描写が立ち現れるはずだ。ところがここでは「すすきです」と、まるで自己紹介や宣言のような言い方で始まる。これが一気に調子を崩し、読者を意表を突かれた気持ちにさせるのだ。

 しかも、この「すすきです」という響きは、ただの植物名の提示にとどまらない。音として耳にすれば、「す、好きです」という告白の言葉にきわめて近い。恋の言いよどみ、声に出した途端に赤面してしまいそうな、そんな不器用な気持ちが、この一句に重ねられる。作者は意図的に「すすき」と「す好き」の響きの重なりを利用し、伝統的な自然詠を装いつつ、実際には恋の吐露を仕掛けているのだ。この二重性が、句の第一印象を豊かにし、読者の想像を一層膨らませてくれる。

 さらに続く「ところで月が出ていない」という中七下五の句が、鮮やかな転調を生み出す。古典的な薄の描写には通常「月」が不可欠だ。秋の名月と薄は、千年以上にわたり連歌や和歌の世界で相性よく取り合わせられてきた。しかしこの句では、その期待を裏切るかのように「月が出ていない」と断言される。これにより、私たちが期待していた雅な光景は一瞬で霧散し、代わりに月を伴わない現実のすすきが立ち現れる。まるで理想的な舞台は整っていない、それでも自分の気持ちを伝えたいという、切実で不器用な人間像が浮かび上がるのである。

 ここでの「月が出ていない」という事実の提示は、単なる自然の状態の報告ではない。むしろ告白の場面において完璧なロマンチックな条件はそろっていないと白状してしまうような、正直さと滑稽さを帯びている。これによって句全体は、古典的な美の模倣から大きく逸脱し、人間的な温かみ、さらにはコミカルな愛らしさを獲得する。読者は自然描写の荘重さを期待して読み始めたのに、いつの間にか目の前に告白の言葉を探している一人の人間が立っているように感じさせられるのだ。

 つまりこの句の最大の魅力は、美と不器用さの落差にある。薄のように繊細で、月夜のように幻想的な情景を呼び出しておきながら、その直後にでも月は出ていないと告げる。理想と現実の落差を隠さずにさらけ出すことで、むしろ句は人間味を増し、私たちの心を揺さぶるのである。これは「余白の美」に頼る古典俳句とは異なる、むしろ「欠けたものを堂々と見せることで余情を生み出す」という現代的な表現態度だといえる。

 このように〈すすきです、ところで月が出ていない〉は、伝統的な自然詠の型を借りながら、その内部で大胆に崩しを加えることで、俳句に新たな息吹を吹き込んでいる。古典の美学に親しんだ読者には裏切りとして働き、現代的な感覚を持つ読者にはリアルな人間像の提示として響く。その両義性こそが、この句を強く印象づける最大の力なのである。


 〈草の実や女子とふつうに話せない〉この一句が立ち上がるとき、私たちはまず「草の実」という素朴で小さな自然物に目を向けることになる。草むらの中で服や手にまとわりつく、あの目立たないけれど確かに存在する草の実。そのささやかな季語が示すのは、野に生きる小さな命の印であり、どこか取り留めのない日常の一コマでもある。だがこの句では、そうした自然の細部が、いきなり人間の内面の痛切な吐露と結びつけられる。女子とふつうに話せないという率直な自己告白が続くことで、句全体は一気に青春の痛みそのものを抱え込むのだ。

 俳句の伝統において、恋や青春の悩みは多くの場合、比喩や暗示、余情に託されてきた。たとえば花に寄せて思いを隠す、あるいは雨や風を媒介に感情を滲ませるといった形で、直接的に言葉にするのを避けるのが美意識とされてきた。しかし、この一句はその慣習を潔く突き破る。「ふつうに話せない」と、まさに現代の若者が友人に打ち明けるかのような、会話そのままの言葉を持ち込んでしまうのである。そこにあるのは技巧を超えた率直さであり、作為を拒むがゆえのまぶしい誠実さである。

 この「ふつうに話せない」という表現に宿る切実さは、誰もが経験したであろう青春の不器用さを強く呼び起こす。クラスの女子に声をかけようとして、心臓が高鳴り、言葉が出てこない。日常的にはごく簡単なやり取りのはずなのに、当人にとっては大きな壁のように立ちはだかる。そうした思春期特有の照れや痛みが、この短い一句のなかに凝縮されているのだ。池田澄子が 「これ程に青春の姿を現す言葉は他にはない」と評したのも頷ける。なぜなら、ここには青春を美化したり文学的に装飾したりする余地がなく、ただ話せないという事実の苦しみと真実だけがあるからだ。

 さらに注目したいのは、この句に流れるさりげなさだ。「女子とふつうに話せない」と言い切ってしまえば深刻な悩みにも聞こえるが、それを支えるのが草の実という季語である。これにより句全体に軽やかさが漂う。草の実の小さな引っかかりは、青春の悩みの象徴のようにも見え、同時に日常の風景の一部にも過ぎない。重大でありながらも取るに足らないその二重性が、青春の悩みそのものを象徴しているかのようだ。

 ここで重要なのは、句が余情や暗示を超えることで逆に新しい余韻を生んでいる点である。従来の俳句の美学であれば、草の実と女子への思いを直接結びつけず、読者の想像にゆだねただろう。しかし、この一句ではためらいなく「話せない」と言い切る。ところがその直截さは、むしろ読む者の胸に鋭く突き刺さり、かつ懐かしさを呼び覚ます。誰しもがかつて経験した、言葉にできなかった気持ちのざらつきが、ここで一挙に可視化されるのだ。

 〈草の実や女子とふつうに話せない〉は、青春を象徴する一句として比類のない輝きを放つ。自然を媒介にしながらも、その核心は人間の未熟さと正直さにある。俳句という伝統の形式に「ふつうに」という日常語を持ち込み、まるで日記の一行のような素朴さで心情を刻む。そこにあるのは未熟さではなく、むしろ未熟さをさらけ出す勇気であり、文学としての新鮮な力なのだ。この一句を読むとき、私たちは自分自身の過去の不器用さや胸の痛みを思い出し、同時にそれを俳句というかたちで残してくれた作者に深い共感を覚える。まさにこの句は、青春そのものが持つ輝きと痛みを、これ以上なくシンプルな言葉で掴み取った稀有な一句であるといえるだろう。


 〈焼きそばのソースが濃くて花火なう〉この一句は、従来の俳句の枠組みを軽やかに飛び越え、極めて挑戦的で刺激的である。まず目を引くのは、下五に置かれた「なう」という言葉だろう。これはSNS、とりわけX(旧Twitter)文化の中で広まり、ある出来事を「いま・現在・リアルタイム」で体験していることを表す俗語である。古典俳句の文脈において、このようなネットスラングが登場することなど、想像だにされなかった。しかしながら、ここにこそ句の核心があるのだ。

 俳句はそもそもいま・ここの瞬間を切り取る芸術である。十七音という器に、いかにしてこの瞬間の気配を閉じ込めるか。これこそが、俳句が古来より追い続けてきた本質的な問いであった。「なう」という言葉は、まさにその本質を現代語でストレートに言い表している。SNS的スラングと見なされるがゆえに軽んじられがちだが、その実は俳句が持つ瞬間性と強烈に共鳴する言葉なのである。この句は、その気づきを大胆に実践した試みといえる。

 さらに注目すべきは、「焼きそばのソースが濃くて」という上五中七の部分だ。祭りの屋台を思わせる匂いや味覚のリアルさが、句の世界を具体的に立ち上げている。濃いソースの香り、口の中に広がる甘辛さはまさに庶民的であり、煌びやかな「花火」とは対照的な日常性を帯びている。その対比が、いま・ここの生々しさをより強調しているのである。つまりこの句は、味覚と視覚を同時に提示し、さらにSNS的時間感覚を重ね合わせることで、きわめて現代的で多層的な瞬間を再現しているのだ。

 「花火なう」と言い切ることによって、句は従来の抒情的な余情を拒否しているように見える。しかし実際には、その直接さゆえに逆説的な余韻が生じている。花火という古典的な夏の季語に、現代のネットスラングを直結させる。その異質な組み合わせは、一読しただけで笑いや違和感を呼び起こすが、同時に、いま私たちが生きている時代の言葉で俳句をつくるとはどういうことかという根源的な問いを読者に突きつける。俳句は過去の形式をなぞるだけでなく、つねに「生きた言葉の実験場」であり得るのだということを、この句は強烈に示しているのである。

 また、この句には祭りの現場感が濃厚に漂っている。焼きそばを食べながら花火を見上げるという、誰もが経験したことのある夏祭りの一場面。その親しみやすい光景が「なう」という言葉によってSNS的な共有の感覚へと拡張される。いまこの瞬間、作者が体験している祭りの熱気が、読者にまでダイレクトに伝わってくる。つまり「なう」は単なる流行語ではなく、「共有されるいま」を提示する装置としても働いているのだ。

 結果として、〈焼きそばのソースが濃くて花火なう〉は、伝統と現代をつなぐ架け橋のような一句となっている。焼きそばや花火といった普遍的な題材に、現代的な表現を接ぎ木することで、俳句の根源である瞬間の切り取りを新たな形で提示している。これは単なる遊びではない。俳句が時代ごとに生きた言葉を取り込み、変化し続けてきた歴史を思えば、この句の試みはむしろ俳句の正統的な進化のひとつと言えるのだ。

 このようにして「焼きそばのソースが濃くて花火なう」は、ユーモラスでありながらも挑発的であり、伝統を壊すように見えて実は俳句の本質を鋭く突きとめている。私たちはこの一句を通じて、俳句という器の柔軟さ、そして現代語の可能性をあらためて実感させられるのである。


 1 『口語俳句』(1960) 著:市川一男 56-57頁を参照

 2 『ふつうの未来』(2022) 著:越智友亮 33頁より引用

 3 『ふつうの未来』(2022) 著:越智友亮 39頁より引用

 4 『ふつうの未来』(2022) 著:越智友亮 49頁より引用

 5 『ふつうの未来』(2022) 著:越智友亮 序より引用


【鑑賞】豊里友行の俳句集の花めぐり36 宮崎斗士句集『そんな青』(2014年、六花書林)を再読する。 豊里友行

  『そんな青』宮崎斗士句集の私の読後感は、丁寧に日常を生きているということ。

 宮崎の第一句集の『翌朝回路』に見られた感性の原石は、彼の日々の丁寧に生きていく俳人としての姿勢によって磨かれ、さらなる俳句の新境地へと歩み始めている。

 第二句集にあたる『そんな青』宮崎斗士句集は、宮崎斗士のオンリーワンの生き様であり、現代をみずみずしく生き生きと表現したひとつの可能性をしめした新しい俳句の領域を提示している。


花合歓や光源氏にインタビュー  

 金子兜太先生の俳句に「合歓の花君と別れてうろつくよ」の名句がある。金子先生が健在の際に句集『日常』にサイン入りを購入できたのは、当時の「海程」の重要な若手メンバーであろう宮崎斗士さんに無茶振りのお願いをしたからだった。

 この句は、 『源氏物語』の主人公である光源氏にインタビューという独創的な切り口が先ず斬新だ。花合歓の和名・ネムノキは、「眠る木」を意味し、夜になると葉が合わさって閉じて(就眠運動)眠るように見えることに由来する。夏の季語からイケイケドンドンの光源氏のインタビューであることを想像してしまう。現代社会にも光源氏は脈々の生き続ける。


尺取虫街少しずつバリアフリー

 バリア・フリーとは障害者や高齢者が生活していく際の障害を取り除き、誰もが暮らしやすい社会環境を整備するという考え方のことをいう。

 体ごと尺取虫のわずかな前進を丁寧に観察しているからこそこの直喩が活きている。


青き踏むふとおっぱいという語感

 俳人として語感を丁寧に噛みしめている。爽やかなエロス。

 ある時期、あいみょんの歌に触発された若手俳人たちを中心に「おっぱい」俳句が話題をさらっていた。「おっぱい」の語感だけでなく宮崎斗士俳句において語感は、大事な鍵になっているようだ。


父と子の会話蟹味噌ひと匙ほど

秋葉原に僕の定位置冬の蜂

祖父も笑顔鮟鱇鍋のそんなリズム 

 身近な父子の会話の味付けに宮崎さんのエッセンスが効いている。

 秋葉原の現代社会に僕の定位置を見出す。宮崎斗士ワールドの、オンリーワンの醍醐味。

 宮崎斗士さんは、祖父も笑顔になる鮟鱇鍋のそんなリズムを日常から見出せる俳人なのだ。


平穏って見つめ合わない雛人形

 一緒の生きるスピードなんでしょうね。

 なんでもない言葉で喩で生きている、感じているニュアンスを表現できる丁寧さだって新たなる俳句の地平ではないだろうか。


氷湖ありもう限界のボクサーに

 ぴったり言い切る比喩の的確さが魅力的。


海鼠拾えばわがほろ苦き現在地

 海鼠(なまこ)に心を通わせつつも自己の心境の把握が俳句の味を出す。

 いわゆる宮崎斗士ワールド。


みんな笑顔雪合戦の一球目

 よく観察している宮崎の面白がるツボとユーモラスが心地よい。


「じゃ、上脱いで」とあっさり言うね蛇苺

 すがすがしいエロス。


ひとり言の意外な重さ秋の蛇

 言葉が言霊になり生き方を決定づけていくことと自覚・覚醒。


わが良夜細い絵筆で仕上げてゆく

 そんな良夜があり、宮崎斗士俳句の確立していく。


 わが道を行く。

 楽しんで行く。

 等身大の自分をさらけ出せるからこそ多くの共感を得ていける。

 この句集は、生活の営みの息遣いや言葉のニュアンスなどを丁寧に噛みしめるように観察しているからこそ表現の細部のこまやかで鮮やかな表現に実感を持って活かされている。

 このほか私の気に入った共鳴句を最後に掲げさせていただく。


かたつむり術後同士という呼吸 

バックミラーに向日葵今だったら言える 

秋葉原キスが嫌いで鮫が好き 

消去法で僕消えました樹氷林 

婚期という長さ短さ牡蠣すする 

ギンヤンマいい質問がつぎつぎ来る 

会えないまま雪が溜まってゆく水槽 

鮫すーっと動いてたっぷりの夜かな 

鯨が一頭ゆっくりじっくりと術後 

炬燵で寝て目覚めて嫉妬だと気づく 

そそっかしいシンバル奏者春嵐 

天文学っておおむね静かふきのとう 

桐咲けり日常たまにロングシュート 

鮎かがやく運命的って具体的 

母と暮らす時報も鉄線花もふわり 

かまきりやこの村オムライスの明るさ 

寒満月石だんだんと椅子のかたち 

疲れたかな一羽の冬かもめに夢中 

メール送信狐とすれちがう呼吸 

ポインセチア家族ぴったり満席です


「 -BLOG俳句新空間- 」2015年1月23日(金)【鑑賞】 宮崎斗士句集 『そんな青』 -オンリーワン俳句の息吹- 

https://sengohaiku.blogspot.com/2015/01/toyosato.html


【連載通信】ほたる通信 Ⅲ(62)  ふけとしこ

 後ろ手

秋暑しいちじくの葉のざらつきも

青柿や空家に隣るのも空家

優曇華に触れ金物の町を去る

銀漢や後ろ手は知恵授かる手

草の実を並べて母と子の去りぬ

                   ・・・

 『かざぐるま』という小説があった。

 父の本棚から抜き出して読んだ。いつだったか? 小学校の高学年? 

 内容は殆ど憶えていないのだが、冒頭の1ページがクレヨンで子供が書いた字をそのまま印刷したような、そんなレイアウトだった。どんな文章が書かれていたのかは記憶にない。

 はっきり憶えているのは

「先生は僕のことを〈僕のクランケさん〉って呼ぶんだよ」これだけに等しい。

 患者であるこの『かざぐるま』の主人公の男の子の台詞。クランケは独語のkranke、病院では普通に使われている言葉だが患者のこと。つまり入院中の患者と主治医の物語である。この本を読んだ時私はクランケという言葉を知らなかった。だから却って記憶に残ったのだろうか。

 主人公は小学校へ上がる前の子供だったと思う。あやふやだけれど「お母さん、入学式には紫の着物を着てね。僕あの着物が大好きだから」こんな会話があったような気がするから。

 そんな年頃の子供たちが風車を回して遊んでいた時、2人がぶつかって風車を支えていた金属、真鍮の箸だったような、それが目に刺さったのである。脳に達するような傷。始まる入院生活。その子の目は失明するわけだが、他方の目もやがて見えなくなり、最後には亡くなってしまうという話だった。

 今なら病室へ入る前の医師の心情なども考えてしまうが、当時の私は何を思って読んだのだろうか。担当医にしても、快癒へ向かう患者と死へ向かっている患者と、相対する気持は当然異なる。

 この小説にも手術や死の場面、両親、加害者となってしまった子供やその家族等々のことも書かれていたはずであるが……。

 実家へ行った時にこの本のことを思い出して父の本棚を探したが見当たらなかった。処分されてしまったのだろう。

 小説『かざぐるま』の作者も出版元も知らないが、もしかしたら実話に基づいた話だったかも知れない。

 「かざぐるま」も「風車」だったのか「風ぐるま」だったのか、それさえも覚えていない。

 ついでに思い出したのが昔の隣家の女の子。お姉ちゃんと慕ってくれてよく遊び相手をさせられた。  

 一時、彼女の臨終ごっこに付き合わされたことがあった。「お姉ちゃん、ちょっと寝て」という。横になると「息止めてね」と命令される。白いハンカチを私の顔に被せて「ご臨終です」という。そして笑い転げる。「息してもいいよ」というまでおとなしく寝て付き合ったけれど。こんなことが面白かったのだろうな。自分の家でやると叱られるから、私の所へ来て遊んでいたのかも知れない。

 彼女が幼稚園の頃だったはずだが、テレビでこんな場面でも見たのだろうか。

 これは笑い話ですむようなことだけれど。

 俳人にはお医者様も看護師の方も多い。そんな人達の俳句を読むと、色々と思い出したり考えたりしてしまう。

(2025・9)

【連載】現代評論研究:第15回総論・「遷子を通して戦後俳句史を読む」座談会(仲寒蝉編集) ②

出席者:筑紫磐井、原雅子、中西夕紀、深谷義紀、仲寒蝉(司会)


2.遷子と他の戦後俳人の共通点についてどう考えるか?

 筑紫は〈戦後俳句の理解のためには、沢木欣一、能村登四郎、金子兜太らが行った社会性俳句とは別の、より広い社会的な志向を持った俳句というコンセプトを定めてみる必要がある〉と主張。「社会性俳句」という概念に入らず切り捨てられ無視された俳句を「社会的意識俳句」と呼び、それら埋もれてしまった俳句を再発見する必要があると言う。「社会的意識俳句」の中に特定のイデオロギーや態度を持った「社会性俳句」があり、その外側にそれとは別の膨大な「社会的意識俳句」が存在したことを忘れてはいけないと強調する。「社会性俳句」が廃れた後も、俳句と社会のあり方の両方に根ざした本質的な俳句であるがゆえに「社会的意識俳句」は生き残っていた、と言う。

 「俳句」編集長大野林火が「社会性俳句」を取り上げた特集「俳句と社会性の吟味」(昭和28年11月)の後、同じ「俳句」での特集「揺れる日本――戦後俳句二千句集」(昭和29年11月)に掲載された次のような俳句を「社会的意識俳句」の例として挙げる。


インフレの街の夜となり花氷 岩城炎 21・10

ラヂヲまた汚職をいふか遠雲雀 萩本ム弓 29・5

絞首刑冬の鎖はおのが手に 小西甚一 24・3 

深む冬接収家屋の白き名札 草間時彦 28・6 

桐咲いて混血の子のいつ移りし 大野林火 28・5 

血を売る腕梅雨の名曲切々と 原子順 24・9 

堕胎する妻に金魚は逆立てり 野見山朱鳥 24 

嘆くをやめかの裸レヴューなど見るとせむ 安住敦 24・7 

汝が胸の谷間の汗や巴里祭 楠本憲吉 28・9 

小説は義経ばやり原爆忌 佐野青陽人 27・12 


 文学性については吟味するべきとしながらも、これらの俳句を忘れてはならず、社会性俳句が否定されたとしてもこれらの〈俳句やそのモチベーションを社会性俳句と一緒に葬ってしまうことは危険〉と述べる。

 この「社会的意識俳句」の代表的な作家として相馬遷子を位置付け、その他多数の社会的意識を持った俳句作家を「別の遷子たち」と呼ぶことを提唱する。

 は「社会性俳句」から前衛俳句という流れの中で、次第に個に拡散していった傾向に触れ、遷子の場合、地方の風景や生活を実直に詠んだ個の一つと認識する立場を取る。

 中西は遷子が入会した昭和10年代の「馬酔木」は俳壇で革新的な役割を果たした時期であり、その同人達の影響を受けているだけで十分に革新的だったのではないかと言う。

 当時は今よりずっと結社の束縛が強く、遷子の時局詠、生活詠、自然詠のすべてが馬酔木の中にあったのではないかと指摘する。つまり〈遷子は「馬酔木」を通して、戦後俳句と間接的に繋がっていた、だから消極的な社会性俳句も理解できる〉と述べる。

 深谷は同じ馬酔木「高原派」でも堀口星眠・大島民郎などの純粋自然賛歌と遷子の作風と大いに異なると言う。かと言って所謂「社会性俳句」の範疇も入らない。たとえ社会的な問題を含む題材でもヒューマニズムの発露が成せるものであって政治的イデオロギーの匂いはない、と述べる。

 また地域性(地方色)と言う点でも、大野林火の慫慂を受け謂わば戦略的に「風土性」を全面に展開した側面のある「風土俳句」作家とも異なり、遷子は〈あくまでその作品の素材を自分が居住する佐久に求めたに過ぎない〉と言う。

 は、高原派と呼ばれる作風から『山国』の終り頃、昭和28年頃には医業を含めた生活詠、患者の貧しい生活や税金、医療費のことを取り上げた社会性俳句と呼んでもいい内容の句が増えて来るのに注目する。これは「俳句」の特集「俳句と社会性の吟味」、沢木欣一『塩田』、能村登四郎『合掌部落』といった所謂社会性俳句の潮流が高まってくるのと軌を一にしている。さらに文体という点からは新興俳句への架け橋的な存在であった「馬酔木」の影響があると言う。

 一方、西の兜子、東の兜太を中心とした前衛俳句の影響はほとんど受けていない。その証拠として『雪嶺』(昭和44年刊行)の字余りの句が95/430=22.1%に過ぎないことを挙げ、赤尾兜子『虚像』(昭和40年刊行)の95.2%と比較して破調の句が少ないことを指摘する。〈遷子の俳句の姿の正しさは写真に見る彼の背筋の伸びた姿勢に通じる気がする〉と述べる。


まとめ

 これについては意見が割れた。

 は遷子について、「社会性俳句」の影響を受けたにせよ、それらの作品の題材は自己の生活の一環であり、飽くまで佐久での生活を基盤に自己の作風を培っていったと捉える。

 中西は時局詠、生活詠、自然詠のすべてが「馬酔木」の中にあり、社会性俳句についても「馬酔木」を通して、戦後俳句と間接的に繋がっていたと考える。

 自然詠については仲も「馬酔木」高原派としての遷子、との捉え方であるが深谷は他の高原派との違いを言う。

 問題は社会性俳句である。中西、仲は「馬酔木」や周辺の所謂「社会性俳句」の作家たちの影響を強調、原、深谷は飽くまで地域性を基盤にして出てきた独自性があると主張する。こうした中、筑紫の「社会的意識俳句」という捉え方は遷子の俳句を論じる上で新しい観点を提供するものである。〈沢木欣一、能村登四郎、金子兜太らが行った社会性俳句とは別の、より広い社会的な志向を持った俳句というコンセプト〉は魅力的で、所謂「社会性俳句」の影に埋もれてしまった多くの俳句を見直すことにつながる可能性がある。遷子をこれら「社会的意識俳句」の代表的作家と位置付けるのである。


【連載】現代評論研究:第15回各論―テーマ:「花」その他― 藤田踏青、土肥あき子、飯田冬眞、堺谷真人、岡村知昭、しなだしん、筑紫磐井、北川美美、深谷義紀、吉村毬子

(2011年11月25日)

●―1近木圭之介の句/藤田踏青

 汽船が灯る 菜畑受胎

 第5回にも既出の昭和28年の作品(注①)である。「下関港と周辺」と題した一連の作品中にあるので、港に停泊している船に灯がともったのであろう。その灯火の黄色にポッツと点った瞬間に照応する如く、菜の花の受胎を感応したのであろうか。まるでカンバスに浮び上る様に描かれた海峡をはさんだ船と菜畑のような趣のある作品であり、その取合せも絶妙である。更に七・七の快い短律のリズムである事も詩的共鳴として見逃せないものがある。又、この句に先立って昭和27年に下記の詩(注②)が発表されており、それがこの句の基材ともなっているようである。。

<丘にて>

菜の花は靴の中で受胎する

菜の花はズボンの折目で受胎する

菜の花は耳のそばで受胎する

菜の花はデパートの屋上で受胎する

遠く沖を走る船のマストで受胎する如きは

何の不思議もないことだ

 菜の花の原種は、西アジアから北ヨーロッパの大麦畑に生えていた雑草で、日本では弥生時代以降から利用されたとみられており、江戸時代になって植物油の採油目的として栽培されたそうである。また菜の花は自然交雑して雑種が生まれ易く、同種だけでなく他種の花粉によっても結実してしまうそうだが、果たして圭之介がそこまで考慮してこの詩を書いたかどうかは疑問である。しかし、菜の花という対象への視点の位置を変える事によって様々な受胎の様相が現れてくる事は確かである。

 菜の花は圭之介が特に好んだものらしく、他にも多くの作品がある。

 海峡の向こうで菜の花が咲いている     昭和40年作

 豪華な菜の花ばたけの角を曲がる      昭和41年作

 砂丘へ誰が菜の花をすてたのか       昭和42年作

 思想喪失 菜の花が咲いた         昭和54年作

 菜の花ばたけ黄に 絶望の人は通らぬ    昭和57年作

 かなり散文的な句調のものもあるが、常に菜の花という存在を自己に引きつけては、その実存を確認しているがごときである。そしてその折には菜の花の向光的性格を積極的に意識しつつ。そういえば与謝野蕪村にも菜の花の句が多くあった。

 菜の花や月は東に日は西に        蕪村

 菜の花や鯨もよらず海暮ぬ

 菜の花や摩耶を下れば日の暮るる

 菜の花を墓に手向けん金福寺

 これ等の句の菜の花と月、海、夕日、墓との配合は同じ画家としての視線を通じての印象鮮明な構成となっている。尚、摩耶は私が住む近くの六甲山系の摩耶山であり、金福寺は京都左京区にあり、蕪村の墓や蕪村等によって再興された芭蕉庵がある寺である。


 また、圭之介には受胎関連の句も多い。

 花が受胎する夜のインクと壺        昭和28年作

 旅をもどり花の受胎おわり         昭和32年作

 受胎とはある種の非日常的な詩の誕生への入口でもあり、その行為の結果としての日常への回帰でもあろうか。

 「花」とくれば女性がつきもの。

 それだけの夜だった バラを手にもたせ   昭和20年作

 真相は言わず白く咲く所存         昭和51年作

 女の闇に辛夷ちる覗いてはならぬ      昭和62年作

 お互いに何も言わずに別れ、秘めた思いは秘めたまま、そして散る辛夷は女の闇の中で怪しくほの白く浮び上る。年代によってドラマは少しずつ濃厚になってゆくようである。


注① 「ケイノスケ句抄」 層雲社  昭和61年刊

注② 「近木圭之介詩抄」 私家版  昭和60年刊


●―2稲垣きくのの句 / 土肥あき子

 こころの喪あくる日のなし花散れり

 きくのにとって、しばらく桜は悲しい思い出を引き連れてくる花だった。

 第一句集『榧の実』に収められた掲句は昭和33年(1958)の作で、前書に「急逝せし弟の三回忌を迎ふ」とある。きくのにはふたりの弟があり、上の弟を昭和30年(1955)の春に亡くしている。作品は40代の若さで亡くなった弟の三回忌に宛てたものだ。集中には並んで

 ゆく春やかけがへのなきひと失くし

がある。

  きくののエッセイ「古日傘」によると「南方の島々で全うした命を、彼は松林の家で自ら絶った」とある。自死の理由はさだかではないが、彼の嫁となった女性はきくのが紹介したといういきさつもあって、家庭の事情が関係してくればなおのこと後悔も嘆きも深いものであったと思われる。昭和35年(1960)作の

 花散れりこころの呪縛まだとけず

も弟の一件に関わるものだろう。

 姉弟はたいへん仲がよかったようで、戦地の弟へ「火焔樹の花を知りたいからもしあったら写生して送ってほしい」ときくのが書き送れば、烈しい戦いのひまを見つけスケッチと押花が返ってくる。同封の手紙には

道路に並木を作って咲きそろう頃はその名のとおり火焔のようで(中略)相当どぎつい花だが親しみが持てる

と記されており、きくのは長旅を経てしなびた南国らしいおおまかな花片を愛おしく弟の、その手に触れる思いでそっと手に取る。

 先日、きくのの姪の野口さんから、叔母であるきくのの話しをうかがう機会を得た。野口さんはきくのの下の弟のお嬢さんで、戦後しばらく赤坂の屋敷の敷地内に住んでいた。広大な屋敷の思い出のなかで、ことのほか印象に残っているのが紅蜀葵だったという。紅蜀葵は独立した花弁が特徴のハイビスカスのような花で、その目に沁みるような赤と5片の花弁の独立した姿は火焔樹の花にも似る。

 きくのは毎年咲く紅蜀葵を見ながら、戦地にいても、姉を慕い南国の花の姿を描き送ってきた弟の姿を重ねていたのではないか。

 句集には収められていないが、昭和12年(1937)の俳句手帳の10月1日にただ一句紅蜀葵の句を見つけることができた。

 紅蜀葵一輪なれば痛々し

 当時住んでいた家の庭に咲いていたものか、あるいはどこかで見かけたものかもしれない。しかし、一輪だけ咲いている原色の花を、きくのは痛々しいと見た。日本の風土にどこか合わない花だからこそ、群れ咲いてほしいと願ったのだろう。

 その後、野口さんから紅蜀葵の種を頂戴した。乾いた花房から小さな種がころころと手のひらにこぼれる。この無愛想な種から深紅の花が開くのだ。

 愛するものを秘めるきくのの胸のうちのように。


●―4齋藤玄の句/飯田冬眞

 花散るや飢も睡りも身を曲げて

 昭和50年作。第5句集『雁道』(*1)所収。

 花と言えば桜。今も多くの俳人たちが桜を詠んでいる。「桜巡礼」と称して日本中の桜の名所に足を運んだ俳人もいる。しかし、齋藤玄という俳人は、桜の句をそれほど残してはいない。ことに後半生(昭和46年から昭和55年)に限って言うと13句しか桜の句を残していない。(*2)

 第4句集『狩眼』で4句、第5句集『雁道』で8句、遺句集『無畔』で1句を数えるのみである。3句集の合計収録句数が938句であることから考えると全体の1パーセント弱に過ぎない。

 そのうち10句が「落花」すなわち、散る桜を詠んでいる。

 散るさくら昼の淡きにさしかかり  昭和48年作 『狩眼』

 桜が散り始めると、桜の木のあたりは淡い色に包まれる。淡い紅色は見つめていると眠気を誘う。昼にさしかかろうとする春の日の倦怠感を〈散るさくら〉の淡い色あいに重ねて描いている。

 癒ゆる身はかりそめのもの朝桜  昭和49年作 『狩眼』

 胆嚢炎を患い入院していた頃の句。〈癒ゆる身はかりそめのもの〉という独白と、昼には散ることを連想させる〈朝桜〉の取合せ。回復に向かっている肉体を〈かりそめのもの〉と突き放して見せているところに、死の予感に包まれている玄の心理状態を読み取ることができる。だが、絶句の〈死が見ゆるとはなにごとぞ花山椒〉ほどの迫力はない。

 生くるをも試されゐるか花吹雪 昭和50年作 『雁道』

 桜は独白を誘うのかもしれない。饒舌な独白は観念に堕しやすく、俳句を陳腐化させる。〈花吹雪〉でかろうじて人生訓俳句から脱しているが、病に執している心が見える。

 花びらの掃かるる音は知られけり 昭和50年作 『雁道』

 聞こえるはずのない〈花びらの掃かるる音〉を病室内のベッドの上で聴いている病者の心理状態を想像して欲しい。幻聴といえばそれまでだが、花屑を掃く音を探す病者は狂気と生への執着との葛藤のなかで、自身が花屑となって誰かに掃かれている音を聴いていたに違いない。現実と非現実の音が耳の奥で交差する。壮絶な無音の病室が見えてこないか。

 花散るや飢も睡りも身を曲げて 昭和50年作 『雁道』

 掲句は〈生くるをも試されゐるか花吹雪〉〈花びらの掃かるる音は知られけり〉と同時期の作。〈飢も睡りも身を曲げて〉が句の眼目。ひもじさに耐えて眠った終戦後の日本人の共有体験が〈花散るや〉の上五から浮かび上がる。病中吟として読むこともできるが、戦後の一風景として記憶にとどめておきたい。

 惜しげもなく散る桜の姿に多くの日本人が美を感じ取るなか、齋藤玄は故郷函館の桜を一度として詠むことはなかった。死後、生家にほど近い函館公園の桜の木の下には、玄の〈ひるがへる遊戯を尽す秋の鯉〉の句碑が建てられているというのに。


*1 第5句集『雁道』 昭和54年永田書房刊 『齋藤玄全句集』 昭和61年 永田書房刊 所載

*2 参考までに『狩眼』『雁道』『無畔』に収録されている桜および桜の関連季語を詠み込んだ13句をあげておく。


配列は句集における掲載順である。遺漏・過誤があればご教示願いたい。

 花屑の険しさほどに狼藉す 昭和47年作 『狩眼』

 散るさくら昼の淡きにさしかかり 昭和48年作 『狩眼』

 悪しき世の坂は細りつ花吹雪 昭和48年作 『狩眼』

 癒ゆる身はかりそめのもの朝桜 昭和49年作 『狩眼』

 花散るや飢も睡りも身を曲げて 昭和50年作 『雁道』

 生くるをも試されゐるか花吹雪 昭和50年作 『雁道』

 花びらの掃かるる音は知られけり 昭和50年作 『雁道』

 花の屑うすゆき鳩も忘らるる 昭和50年作 『雁道』

 鯉守のやがてさびしき初櫻 昭和53年作 『雁道』

 鯉の身のまた浮きやすし花吹雪 昭和53年作 『雁道』

 野施行の心は空に花の雲 昭和53年作 『雁道』

 花散るをすぐ立つまでの杉木立 昭和53年作 『雁道』

 散りかかるばかり花びらめざましき 昭和54年作 『無畔』


●―5堀葦男の句/堺谷真人

 落花いま紺青の空ゆく途中

 『山姿水情』(1981年)所収の句。

 颯々と吹き渡る一陣の風。その刹那、満開の桜の花がどっと薙ぎ払われ、夥しい花びらが紺青の空に溢れ出す。1秒、2秒、3秒・・・。少しずつ密度を落としながらなおひとしきり虚空を流れゆく花びらを、作者はたまゆらの旅人に見立てているのだ。

 落花とは本来「落ちる花」「落ちた花」である。高きより低きに移動する花弁を、いわば本意本情とする言葉だ。しかし、葦男の落花は容易に落ちない。それどころか上昇気流に乗って旅に出ようとするかのような気勢さえある。

 この句を初めて読んだとき、筆者は初唐の詩人・劉希夷の「代悲白頭翁(白頭を悲しむ翁に代はりて)」の劈頭の聯を想い起こした。

洛陽城東桃李花   洛陽城東 桃李の花

飛来飛去落誰家   飛び来り飛び去りて 誰が家にか落つる

洛陽女児惜顔色   洛陽の女児は顔色を惜しみ

行逢落花長歎息   行くゆく落花に逢ひて長歎息す

 描写力に優れる唐詩は、「飛び来り飛び去る」花びらは一体誰に落ちかかるのだろうかというところまで書ききってしまう。これに対して葦男の落花は、30数年前のある春の日に彼の視界をよぎった瞬間から今に至るまで、ずっと地上に落ちることなく紺青の空に止まっているのである。

 葦男の句集『朝空』(1984年)の解説文の中で、大串章が述べている。 

堀葦男氏は、みずからを極小の旅人と自覚する。しかし、そこからニヒリズムや  受身の無常感に堕ちてゆくことはしない。極小の旅人は極小の旅人として、自らの命をいつくしみ、自らの生を充実させていこうとするのである。

 『朝空』の最終部は「過客」という章名である。歿後刊行された遺句集が関係者の熟議の末、同じく『過客』と名づけられたのは偶然ではない。百代の過客である光陰=悠久の時間にしばし随行をゆるされた極小の旅人という葦男の自己認識を尊重した結果であった。

 この集名を撰した際、葦男の忌日である4月21日を今後「紺青忌」と呼ぼうではないかという提言をした門弟がいた。冒頭の句にこめられた過客の思いが葦男の人柄を何よりもよく表しているという理由からではなかったかと思う。


●―8青玄系作家の句/岡村知昭

 このまま眠れば多摩川心中いぬふぐり   諧弘子 

 掲出句は著者の第一句集『牧神』に収録。表記は初出においては分かち書きがされていると思われるのだが、「青玄」誌上での初出が確認できていないため、楠本憲吉編集による『俳句現代作品集』(1982年、広論社)及び作者の追悼特集が組まれた「野の会」2011年9月号での表記に従った(『牧神』での表記がすでに分かち書きから改めているのかもしれない)。作者は1963年(昭和38)11月号の「青玄」誌上に初出句にして初巻頭でデビュー、1965年(昭和40)には青玄新人賞を受賞。その後に楠本憲吉の「野の会」に所属、2011年3月に亡くなられた。句集に『牧神』『兎の靴』がある。

  「春うらら」という言葉がふさわしいある真昼の多摩川の河原で、1組の男女が土手の草の上に腰を下ろして佇んでいる。いぬふぐりの花が咲き誇る土手、草の上の二人はとりとめのない会話を繰り広げているではあるが、その中には確かな充実感が漲っているので、さまざまに話題を変えながらもお互いのやりとりが途切れることはない。そんな中、じっと見つめていた彼の顔から少しだけ目を離し、眩しい春の光に照らされながら流れ続ける多摩川の水へ視線を移した彼女の心にふとこんな思いがよぎる、「いまここでふたりが死んでしまったら、のちの人から曽根崎心中みたいに『多摩川心中』なんて言ってもらえるのかな」。自分のふとした思いつきがおかしくて、思わずかすかな笑みを浮かべる彼女。一方いきなりの彼女のほほえみに彼は「川を見ているだけのに何がおかしいんだろう」と思いながらも、彼女に向かって「何がおかしいの」と問いかける野暮な真似は決してせずに、眩しい春の光に輝く彼女のほほえみを改めて見つめ直す。そんなふたりを、いぬふぐりをはじめとした春の草の匂いはぼんやりと包み込むのである。

 「心中」という言葉からもたらされるイメージは、「曽根崎心中」や「ロミオとジュリエット」(少し違うか)のように家族や世間、または自分たちの過ちといった要因によって追い詰められてしまったふたりが、相思相愛を貫こうとする欲望と、現世からの脱出を求めてお互いの手で命を断つというものなのだが、掲出句においては、ふたりの関係が十分に満ち足りたものであるのを確認している今このときに「心中」という言葉がふいに露わになる。だからといってお互いの関係に何かしら不吉な兆候が現れたとか、実は相思相愛のふたりが世間や社会にとっては到底許されない関係性を持っている、などといったいらぬ邪推はいらない。今このときを心中物のクライマックスである「道行」のはじまりとする把握は、あくまでも満ち足りたふたりの関係がもたらした彼女の悪戯心の賜物なのである。いぬふぐりはそんなかりそめの「心中」の舞台を飾るにはもってこいの花、「多摩川」は大都会の生活から醸し出されるさまざまな匂いを両岸で漂わせている空間であるだけに、ふたりのかりそめの「道行」の場の舞台としてはこれほどふさわしい場所はないだろう。

 「青玄」誌上で活躍した若手作家たちの軌跡をたどった『青春俳句の60人』(1988年、土佐出版社)の著者森武司氏は掲出句について、 

愛の極限の女心をこんなに見事に詠んだ句を私は知らない。多摩川原に燦燦と原始よりの太陽は降り注ぎ、相抱く男女。これは万葉人の直情的な相聞歌にも似て、さらに詩的であり、そして俳句そのものの骨法に支えられて深い感動を伝えてくる。怖しい作品である。

と賛辞を惜しまないのだが、読んだ後の深い感動を書いたあとで「怖しい作品である」との一言が加わったことで、評者がこの1句に対して感じた凄みがさらに伝わったのではないかと思われてならないのは、満ち足りた春の空間、満ち足りたふたりの関係への喜びを全身で深く味わい尽くそうとするさなか思いついた「心中」への想念が、誰の心にも一瞬訪れることがあるだろう「死」へと通じる「魔」への誘いのようにも見えるからだろうか。もっともこの春のひとときのこの瞬間、彼女は「魔」への誘いなどどこ吹く風とばかりに振り払って、何事もなかったかのように彼の顔へ満面のほほえみを向けるのであろう、その事のほうが実は「怖しい」のかもしれないが。


●―9上田五千石の句/しなだしん

 まぼろしの花湧く花のさかりかな   五千石

 第四句集『琥珀』所収。昭和五十八年作。

 今回の「花」というテーマではたと気づいた。五千石に「花の句」が少ないのだ。五千石の代表句を多く収める第一句集『田園』には、「花」「桜」の作品は一句も残っていない。第二句集『森林』になって、〈ぽつとりと金星一顆初ざくら〉〈側溝を疾走の水山櫻〉の二句が登場し、第三句集『風景』には、〈土くれに鍬の峰打ち山ざくら〉〈花さびし真言秘密寺の奥〉〈うち泣かむばかりに花のしだれけり〉の三句がある。

 第四句集『琥珀』には掲出句を含め、六句が収められ、徐々に「花」の句が多くなっているが、『田園』のゼロ、というのはやはり意外というほかない。

 ちなみに『上田五千石全集』(*2)の『田園』補遺には「氷海」の発表作として、以下が残る。

 さくら降りとめどなく降り基地殖ゆる  30年6月

 午後の懈怠さくら花翳濃くなりて     〃

 夜桜に耀りし木椅子の釘ゆるぶ     31年8月

 朝ざくら悪夢に慣れて漱ぐ       35年5月

 『田園』刊行までの十四年間にして、四句の発表というのはごく少ないと云っていいだろう。この「花」の句の少なさの理由を知るすべはないが、当然名句といわれる作品も多い「花」「桜」の作句を五千石はやや敬遠していたのではないか、というのは深読みし過ぎだろうか。

     *

 著書 『俳句に大事な五つのこと 五千石俳句入門』(*3)の「自作を語る」の中で、掲句について、“伊豆の韮山での作”とし、“満開の桜に出会ってこの句が生まれた”と記す。“「花のさかり」を前にすると誰しも絶句してしまうもの”、“私も「花」のむこうから「花」が「湧」いてくるのを眼前の景にしばし沈黙を強いられた”と書き、さらに“我慢して「よく見」ていれば何かが発見できる”、“「まぼろしの花」が見えてきたのはそのお陰”、“現実の「花」も「湧」きつぎ「まぼろしの花」も「湧」きついで咲き加わっているのが見えた”、“「花のさかり」は虚実の「花」の混交だった”としている。ここに書かれた通り、花に対峙したとき五千石でさえ絶句し、沈黙を強いられた。「花」を敬遠していたのではないかというものまんざら絵空事ではないかもしれないが、それを越えて詠もうとすれば、残せる作品ができるということだろう。

     *

 「まぼろしの花湧く花のさかり」というのはやや分かりにくようにも感じるが、「まぼろしのような花」をうち出したことにより、現実の「花」との遠近が鮮明になり、いわゆる「花の雲」の情景が読み手に伝わってくる。「かな」止めもよく働いている。

 掲句は、五千石の数少ない「花」の句の中での代表句と言っていい。


*1 『琥珀』 平成四年八月二十七日、角川書店刊

*2『上田五千石全集』 富士見書房刊

*3 『俳句に大事な五つのこと 五千石俳句入門』平成21年11月20日 角川グループパブリッシング刊


●―10楠本憲吉の句/筑紫磐井

 乳房のごと辛夷盛りあぐ画家羨し

 椿落ちて万緑叢中一朱脣

 『孤客』45年、46年より。

 花といえば普通は桜だが、ここでは花一般を取り上げてみた。第1句は、油絵である。絵の具を盛り上げて描いた辛夷の花に、乳房の立体感を感じたものだ。「羨し」は「ともし」と読む。第2句は、緑の山の中で落ちた椿の上向きの花弁が女性の唇に似ているというものである。乳房より一層エロチックに見える。何を見ても女に見えてしまう困った性癖であるが今回注目したいのはそれではない。この句の背景に中村草田男の句があるからだ。

 冬空を今青く塗る画家羨し 『長子』

 万緑の中や吾子の歯生え初むる 『火の島』

 万緑は、王安石の詩の「万緑叢中紅一点」からとったものであるから、憲吉はその出典に遡って、「紅一点」を「一朱脣」に似ているだろうと示しただけのものである。憲吉の師日野草城は昭和初期に新婚の一夜を描いた「ミヤコホテル」一連で物議を醸し、とりわけ中村草田男と激しい論戦をした経緯がある。そうしたことを忘れたかのごとく、平気で草田男のフレーズを借用しているのである。

 こうした部分借用は枚挙の暇がないほどであり、さらにそれは自己模倣にまで陥っているのである。

 春は名のみと書き出す手紙ペン涸れ勝ち

 春は名のみの風がもたらす一つの訃

 ぼうおぼうと喚ぶは汽笛か鰊群来

 無惨やなわが句誤植を読む寒夜

 埃吹く街黄落の激しきに (『埃吹く街』近藤芳美の代表歌集名)

 私は船お前はカモメ海玄冬

 見よ東海の岬にたてばひそかに春

 夕立のほしいままなり言うままなり

 我耐えるゆえに我あり梅びっしり

 我愛しむ故に我在り裾冷ゆ春

 君はいまどのあたりの星友の忌更け

(仙台侯に愛された遊女高尾の詠んだ句に「君はいま駒形あたりほととぎす」がある)

 詩であろうが、俗謡であろうがそんなことに構わず、耳に快いフレーズを使う。誠に危険な作句法だが、実はこれが俳句の本質を突いているから厄介である。


●―12三橋敏雄の句 / 北川美美

 切花は死花にして夏ゆふべ

 花に「生」と「死」を見るのは、ジョージア・オキーフ、アラーキーが思い浮ぶが、敏雄に共通の審美眼をみる。

 野に咲く花には生命臭があり、自然界から切り離された切花は既に屍である。夏は特に水が腐り易く、異臭甚だしく花は水の中で腐っていく。掲句は「切花」を通し、今生の儚さと死後の世界の美しさを秘めているように思える。それが「夏ゆふべ」のおどろおどろしさと重なり彼岸をも暗喩している。掲句は『疊の上』収録。

 日本人の美の根底にある「幽玄」を「花」に見ることが多々あるが、あえて「死花」として表記しているところにタロットカードの死神に近いものを感じるのである。

 活花や家居を永くせざりしよ 『鷓鴣』

 「いけばな」もしかり、「幽玄」の美意識から発展してきた。ここにある「活花」が立華に代表される定型、あるいは茶花のような非定型なのか、はたまた中川幸夫のような血のような前衛いけばな芸術なのかは見えてこないが、すでに半屍となった植物が、造形・装花として屋内にあることがわかる。切花に残る匂い、その存在が敏雄を屋外へと押し出していたのである。「いけばな」の起源はアミ二ズムにあると考えられており、切り落としてもまだ生命を維持できる植物の神秘性が根源らしい。ゆえに、その美しさは一瞬のものである。敏雄は、活花に生死の淡いを見ていたのだろう。

 曼珠沙華何本消えてしまひしや 『疊の上』

 つぎつぎに死ぬ人近し稲の花 『鷓鴣』

 我とわが舌を舐むるにあやめ咲く 『〃』

 白百合を臭し臭しと獨り嗅ぐ 『巡禮』

 「エロス」と「タナトス」が見える。花は敏雄にとって、淡く悲しく匂う淫靡な生命として映っていたと読む。アラーキー語で言うならば、「エロトス」。まさに敏雄の花は「エロトス」である。


●―13成田千空の句/深谷義紀 

 藁の家田打桜は満開に

 第6句集「十方吟」所収。

 田打桜。桜の文字が入っているが、実は桜ではなく、辛夷の別称である。辛夷の開花をみて田打ちに取り掛かったことに由来するという。

 菅江真澄が文化年間(1804~18)に記した随筆「たねまきざくら」(随筆集「しののはぐさ」)に「辛夷の花の咲くのを出羽では田打桜といい、その頃に田を打ち、苗代の種蒔の頃の彼岸桜を種蒔桜という」という内容のくだりがある。(講談社刊・新日本代歳時記「種蒔」・解説執筆:多喜代子)

 自然事象を農作業の目処にすることは日本全国各地に見られ、他にも雪形に「種蒔爺」「代掻き馬」などの名を付け、それぞれの作業の目安にしていたことはつとに知られるところである。

 東北の春は遅い。その春の到来を告げるのが、白い辛夷の花である。千昌夫が唄った「北国の春」にも次のようなフレーズが登場する。

 こぶし咲くあの丘 北国の ああ 北国の春   (作詞:いではく)

 青く澄み切った空を背景に、眩しいほどの白さを放つ辛夷の花。それは、長かった冬を乗り越えられた安堵の象徴であると同時に、これから一年の農作業が始まる謂わば開幕ベルである。冒頭の千空の作品にも、そうした喜びと期待が満ちている。

 弘前城をはじめとして、北東北にも桜の名所は多い。確かに、あでやかに咲き、はかなげに散っていく桜の雅な美しさもいい。だが、「田打桜」という名を持ち、この地に生きた農民たちの思いを伝える辛夷こそ、津軽の「花」に相応しいと思う。


●―14中村苑子の句  【『水妖詞館』―― あの世とこの世の近代女性精神詩】37.38.39.40/吉村毬子

2014年9月5日金曜

37 無体に来る四季赤き眼に目薬あふれ

 先にも述べたように、苑子は『水妖詞館』を出版する理由として、死をも予告する病名を告げられたからだと語っていた。「無体」がその現実を如実に描いていることからも頷けよう。

 余命の無い己が肉体に、四季の移ろいが歯痒く、眩しく、愛しい。未だ到達できぬ俳句への至願を抱えつつ、自身の眼に映る季節の色彩は、永遠に瞼を閉じるその時まで苑子を捕える。まさに実体の無きがごとく浮遊する「無体」、また、その心の動揺や諦念から自身をないがしろにする「無体」は、有体の浮世と接することなどより自然を視つめ、自然に視つめられることを望んだのではないだろうか。しかし、「来る」という表現に、自然という有体も自らを拒むことができぬように、迫りくる時の経過を迎える日々。

 死期を思う焦燥や疲れ、不眠から「赤き眼」の表現が伺えるが、「四季赤き眼」とも取れよう。年中、眼底出血のような赤い眼に目薬を注している状態であるということである。前者の解釈では、中七が句跨りになり、〈無体に来る四季/赤き眼に/目薬あふれ〉になるが、後者は〈無体に来る/四季赤き眼に/目薬あふれ〉である。どちらにしても「四季」は、「無体に来る」と「赤き眼」の両域に掛かり関係を結ぶのである。〝四季が無体に来る〟、そして、〝四季、即ちいつも赤い眼に目薬があふれる〟ということである。

 文学に携わる者は、多く読書家でもあり、疲れ眼の状態が続く。況して苑子は、夜から明け方に及び原稿を書くタイプであり、闇夜の灯で眼を酷使しては目薬を常用していた。それは又、限られた残りの時間に貪りつく読み書きの結果であるのかも知れない。

 晩年の苑子に、眼に良いからと贈ったブルーベリーを、少女のように喜んでいたことを思い出す。

 

38 野の貌へしたたか反吐(もど)す水ぐるま

 前句の「眼」から「口」へと身体を材料にした句が並ぶ。

 「水ぐるま」は、土地を潤すために田畑に水を注ぎ入れ、例えば刈り終えた稲の精米や、小麦粉を製粉する。この句は、春夏秋冬の陽射しを受けながら「水ぐるま」のカタンカタンという音を発するのどかな田園、あるいは、山里の風景画であるはずの様相が、グロテスクな幻想画として読み手に呈示されるのである。

 それは、「野の貌」「したたか反吐(もど)す」の表現によるものであるが、「野の貌」とは、壮大な自然の実態を単なる風光明媚なものではなくもっと厳しく、生々しくとらえたリアルな表現であると言えよう。自然の織りなす、造っては生滅を繰り返す野の時間に「水ぐるま」も「したたか反吐す」ことを繰り返す。

 昨今の減反や農業の機械化が進む以前の日本において、たとえば宮沢賢治の作品にも見受けられるように、農耕という長い歴史と自然との葛藤、忍耐は想像を絶するものがあるだろう。

鳥が食ひ虫が食ひ雨にくさり落つるあまりの李(すもも)が人間のもの

                       石川不二子『さくら食ふ』

旱天の雷に面あげ一滴の雨うけしわれや巫女のごとかる

                       同  『水晶花』

 1933年生まれの歌人、石川不二子の短歌である。不二子は、温暖な神奈川県藤沢市出身の農業家であり、農業生活の辛苦の歌を必ずしも多く残しているわけではない。農業に携わる身の、自然との交歓の景が多く歌われている。しかし、昭和生まれの彼女の歌にも、自然の中に生きる厳しさが垣間見えてくる。

 「野」には、開墾に血と汗を流しながらも、貧苦に朽ち果ててしまった貌もあるだろう。幾多の戦の歴史の犠牲に倒れた無念の貌も、この世では遂げることのできなかった絡まり縺れ合う男女の悲愴な貌も――。それらを受容し、眠らせる「野の貌」へ「水ぐるま」は「したたか」水を与えるのである。自然からの恵みの水を頂いては、自らの力で自然へ「反吐す」ことを繰り返す「水ぐるま」は、渇きゆく「野の貌へ」魂の救済のごとく、永遠に回り続けているかのようである。


39 流木を渉るものみな燭を持ち

 「燭を持ち」て渉る時刻は、夜、または夜明け前、夕暮れ時であろう。昼間、山から伐り落とし、水の流れに運ばれた「流木」か、嵐の海に割れ砕けて流れてきた「流木」か、薄闇の中、凪いだ海上の流木を渉り、沖に向かって行く者たちのひとつひとつの灯りが仄かに揺れ動いている。風も止み、潮騒だけが幽かに聞こえ、月光が海面を静かに照らしている。この果て無く幽玄な美しき光景は、この世の風景とは思われない。

 かぐや姫は、満月の夜、光彩を放ちながら、艶(あで)やかに空を渡り、故郷へ帰って行ったのだが、ここに描かれる者たちも、また、魂の故郷へ旅発つところなのである。

 十七文字の中には、〝死者〟とも〝あの世かの世〟、〝彼岸〟とも表記されてはいないのであるが、とぎれのない一句一章を読み下した後に残る静けさと崇高さは、読んだ者をもその中有のような世界へ誘い込む。生者が死者へとゆっくり変容する姿を見送っているような心持ちになる。

 随筆集『私の風景』の「原始は水」の文中に、『水妖詞館』という題名について語っているが、 

人間の生死の時刻も潮の干満とおおむね符合することなどを思うと、「人間とは、何と玄妙な生き物か」とそぞろ虚しさを覚え、……

というくだりがある。また、俳句の講義の中でも〈潮の干満の時刻は、明け方や夕暮れ以降に多く、人の生死と深く関係している〉と度々話していたことを思えば、「燭を持ち」にその意識が表現されているのだ。これまでに登場して来た直接〝死〟に纏わる句。

  1. 喪をかかげいま生み落とす竜のおとし子

 15.喪の衣の裏はあけぼの噴きあげて

 16.祭笛のさなか死にゆく沼明かり

 24.落鳥やのちの思ひに手が見えて

 30.愛重たし死して開かぬ蝶の翅

 これらの句のように、〝死〟に関連する語は使われていないのだが、より〝死〟が感じられる。そして、これらの句と比べると、静寂さのみが極まる作品と思われるのだが、愛唱者が多いのは、一句に漂う〈人間とは、何と玄妙な生き物か〉と言う苑子の思いの丈ゆえに尽きるのであろう。

 

40 死は柔らか搗かれる臼で擂られる臼で

 前句39.の文中で取り上げたこれまでの直接的な語、〝死〟を扱った句の中でも、特異な薄気味悪さが感じられる句である。

 臼の中で搗かれ、擂られる、真白い餅の様子が想像される。搗かれるままに、擂られるままに、餅は柔らかにされるままにある。水を含みながら、艶を持ち、上下左右様々に変容されながら、より一層柔らかく滑らかになる。そして、繰り返し動く臼の中の餅が、いつしか人の肉のように思われてきたのではないだろうか。

 しかし、その妄想は、怖しい情景を目の当たりにしているという描写ではなく、むしろその状態に見入り、恍惚としている風にも思えてくるのである。

 「死は柔らか」の表現は、死の持つ美的情緒へ吸い込まれて行きそうな感覚であり、「搗かれる臼で擂られる臼で」の畳み掛けは、さらに死への陶酔にのめり込んでゆく様が感じられる。この6音、7音、7音の構成は、定型を超えた不安定な詩的世界へと消えて行きながら、「柔らか」のか、「臼で」ので、の余韻を残す。また「柔らか」という語と、「死」「臼」「擂られる」のシとサとスのサ行のしめやかな音感が奏でる、あくまで淡々とした静かな流れの印象なのである。

 恍惚として見蕩れながら、苛虐的視点を持ち、柔らかい女体のごとく撓る白い餅を、自らの肉体と感受している被虐的要素も見受けられる。死を客感的、主観的に、精神的な観点から炙り出しながら、ひたひたと呪文のごとく唱えられる稀有な作品として耳に残る一句である。


2025年9月12日金曜日

第253号

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第三(4/25)辻村麻乃・瀬戸優理子
第四(6/13)曾根毅・浅沼璞・なつはづき・下坂速穂
第五(6/21)岬光世・依光正樹・依光陽子・岸本尚毅・木村オサム
第六(6/27)中村猛虎・松下カロ・望月士郎・堀本吟・花尻万博
第七(7/5)眞矢ひろみ・村山恭子・冨岡和秀・田中葉月・渡邉美保・小沢麻結
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…(主な執筆者)小野裕三・もてきまり・大塚凱・網野月を・前北かおる・東影喜子


筑紫磐井著『女帝たちの万葉集』(角川学芸出版)

新元号「令和」の典拠となった『萬葉集』。その成立に貢献した斉明・持統・元明・元正の4人の女帝、「春山の〈萬〉花の艶と秋山の千〈葉〉の彩を競へ」の天智天皇の詔を受けた額田王等の秘話を満載する、俳人初めての万葉集研究。平成22年刊/2,190円。お求めの際は、筆者までご連絡ください。  

【連載】口語俳句の可能性について・1  金光 舞

連載開始に当たって 筑紫磐井

 この夏、大学俳句会の「全国学生俳句会合宿2025」に招かれ評論研究の議論に参加させて頂いた。この合宿はわりあい歴史があるようで、第1回は2017年筑波で(講師に関悦史、神野紗季氏)、第2回は2019年彦根で(講師に関悦史、対中いずみ氏)、第3回は2023年群馬県水上で(講師に林桂氏)、今回は新潟県村上の瀬波温泉で行われることとなった。数年の間合いがあるから、前回出た人が又来ることはほとんどないようなので学生にとっては一期一会に近いかもしれない。さらに、北大、東大、京大及び関西俳句会、愛媛大、九州等多くのエリアの俳句会の学生が参集することになるので初対面の人が殆どだったが、旧知の仲のように和気藹々だったのは楽しかった。

 今回の合宿が従前と違うのは、今回は評論研究をテーマとすることにしたことだ。世の中に俳句実作の研究の機会は多くあるが、評論の研究は珍しいものである。若いうちから評論に携わることは、意欲的な評論を作り出すためにも役立つだろうし、実作のために必要な客観的鑑賞眼を養うことにも役立つと思う。今までこうした機会がなかったことが不思議なことなのである。評論研究に人が集まるかしらと心配だったが、参加者30人と今までと比べても記録的な盛況だったのは嬉しいことだ。

 今回、合宿の場で多くの意欲的な評論を読ませていただき、心地よい疲労感を持って帰ってきたが、その中で金光舞さんの「口語俳句の詩情について」は大いに気になった。私自身かつて『定型詩学の原理』を書き、詩(俳句)の原理の究明を志したことがあるからである。金光さんの狙いも、口語俳句という限定はあるものの、詩学の原理を究明しようという意志がはっきり見て取れたからである。

 講評の席上で、またその後の雑談の機会で、私の経験も踏まえて大いに激励したのである。すると、「口語俳句の可能性について」という原稿の束をどさっと渡されたのである。―――いやこれは昔流の、作家誕生の場面の言い方だ(明治初期、正岡子規が幸田露伴のもとに小説「月の都」の原稿をどさっと持ち込んだという伝説がある)。現在の大学生は、スマホをぱっと開き、膨大な原稿をスクロールして見せてきたのだ。講評論文を書く準備として用意したものか、或いはその後の続編として既に膨大な原稿を書き継いでいるのか分からないが、口語俳句論以上に、大いに感動した。多少玉石混交となっても、評論の奥義はともかく書くことである。トランプ大統領ではないが、書いて書いて書きまくれ、である。書かなくては何も進まない。書いたうえで、反省もし、添削もし、軌道修正もすればよい。彼女はすでにスタートラインから大きく踏み出している。何もフライングをとがめる必要はない、後はどんどん走り出せばいいのだ。

 こんなことを言って連載評論の執筆を勧めた。まだ生成途中の論だから、むしろ読者から批判をして頂く事も必要だし、私もいろいろ意見を言っていきたいと思っている。ぜひご覧の皆さんも温かい目で見て批評していただきたい。批判こそが、成長の糧であるからだ。そしてほかの若い批評家たちにも、彼女に続いていただきたいと思うのである。BLOGは無限の機会を提供するつもりである。

 金光舞「口語俳句の可能性について」の自序の前に、この連載が始まる趣旨を一言加える所以である。


  序


 従来の俳句は、文語を基調とし、五七五の定型、季語の使用、そして簡潔な描写によって成立してきた。芭蕉以来、俳句は「不易流行」の理念を掲げながら、形式の中に自然や人生の普遍性を織り込み、詩的な余白を大切にする芸術として磨かれてきた。しかし二十世紀以降、とりわけ戦後以降の現代俳句においては、その「形式の美しさ」がしばしば「硬直」にもつながり、言葉が生きたものとしての息づかいを失いかけていた。そうした状況において登場したのが「口語俳句」という試みである。これは単なる表現技法の変化ではなく、俳句を現代の言語感覚へとつなぎ直す営みであり、その可能性は今も拡張し続けている。この発表では、越智友亮『ふつうの未来』(2022)に収められた句を基に口語俳句の可能性について考える。まず、一句を見てゆきたい。


1 ゆず湯の柚子つついて恋を今している

 この一句を目にしたとき、私たちはまず「ゆず湯」という響きから冬至の風物詩を思い浮かべる。冷え込みの厳しい季節、湯船に浮かぶ黄色い柚子を手でつつきながら、体を芯から温めるあの光景が眼前に広がってくる。俳句において「ゆず湯」は伝統的に季語として扱われ、古くから数多くの作品に登場してきた。しかし、この句の真の魅力は、そこで立ち止まらず、最後の「恋を今している」というきわめて率直な表現に踏み込んでいる点にある。

 従来の俳句における恋の表現は、たとえば「夕暮れ」「花」「雨」といった自然や景物に寄り添わせることで、余情として匂わせるのが常であった。直接的に「恋」と口にすることはあっても、それはどこか含羞を帯び、言外に含みを残す形で読者の想像にゆだねられることが多い。しかしながら、この句においては「恋を今している」という宣言的で、しかも日常の会話に限りなく近いフレーズが、ためらいなく差し込まれているのだ。この「今」という語の持つ切実さ、時制の限定性がもたらすのは、まさに現在進行形の感情の迸りである。読者はこの瞬間、この場に立ち会わされる。

 そして、この直接さは単に率直であるというだけでなく、逆説的に余韻を強く生み出している点が驚きである。「恋をしている」と言われれば、それだけで感情は明らかになるはずだ。にもかかわらず、「柚子をつつく」という仕草と並置されることで、その恋が持つ温もりや照れくささ、さらには小さな幸福感までが立体的に立ち上がってくる。柚子の丸み、手に触れたときの感触、湯に広がる香り──それらがすべて「恋を今している」という感覚と共鳴し、心象風景を膨らませる。省略の美学とは別の、むしろ日常語の率直さがもたらす余情の広がりが、ここに生まれているのである。

 さらに注目したいのは、この句が俳句という伝統的な形式のなかにありながらも、現代的な口語の息遣いを見事に取り込んでいるという点だ。「今している」という語りは、古典文法や雅語には見られない。そこには、現代人がいま、たしかに呼吸している時間感覚が宿っている。伝統と現代が、湯気立つ浴槽のなかでぴたりと融合しているかのようだ。柚子の香りが過去からの風習を連想させつつ、その香りに包まれている人物は、まさに現在の恋に生きている。この対比が、句の温度を一層豊かにしている。

 結果として、この一句は単なる季節の描写にとどまらず、伝統俳句の文脈を踏まえつつ、その殻を破ろうとする挑戦の結晶となっている。「省略と余白の美」から一歩踏み出し、「口語の直接さが生む余韻」という新しい地平を開いているのだ。読者はその新鮮さに驚かされると同時に、自らの中に眠る恋心を呼び覚まされるかもしれない。俳句が持つ本来の短さと凝縮力を保ちながらも、ここには現代詩的な熱量、さらには個人的な感情の息遣いが見事にあらわれている。

 かくして〈ゆず湯の柚子つついて恋を今している〉は、伝統と革新、情緒と直截さの交差点に立つ一句として、読む者の感受を強く揺さぶるのである。口語俳句は、伝統的形式を内側から揺さぶり、古典的季語と現代的日常感覚を共存させることで、俳句の「現在性」を濃密に刻印する。今日の俳句シーンに見られる「生活俳句」「青春俳句」「SNS俳句」といった潮流とも呼応し、時代の呼吸を敏感に取り込む詩型として注目を集めている。

 もっとも、口語表現には「古びやすさ」という危うさが常につきまとう。たとえば2025年度口語詩句奨学生選考総評において、川柳人・暮田真名は次のように指摘している。

  2「詩歌における〈口語—書き言葉〉と、SNSにおける〈口語—書き言葉〉は同じではない。しかし口語である限り、その言葉はSNS圏の言葉として消費される運命にある。『あたらしい人々』には歓迎され、『ふるい人々』には眉をひそめられ、ものすごい速さで廃れ、やがて顧みられなくなる言葉であることから逃れられない」

 この批評は、現代における口語俳句の立ち位置を再考するうえで、重要な示唆を与えている。


【注】

1  『ふつうの未来』(2022) 著:越智友亮 15頁より引用

2  『2025年度口語詩句奨学生選考総評 暮田真名』(2025)著:暮田真名 1頁を参照

https://www.kougoshiku-toukou.com/media/files/2025%E5%B9%B4%E5%BA%A6%E5%A5%A8%E5%AD%A6%E7%94%9F%E7%B7%8F%E8%A9%95_%E6%9A%AE%E7%94%B0%E7%9C%9F%E5%90%8D.pdf


英国Haiku便り[in Japan] (55)  小野裕三

ウェールズ人と語った俳句のこと

 前回のエッセイで紹介した、ウェールス人たちと日本で会った。彼らからは事前に資料のメールを受け取っていた。「エングリン〜ウェールズの俳句?」というのがメールのタイトルで、そのエングリン(englyn)という、ウェールズ発祥の短詩について解説が記されていた。

 十七音三行詩のhaikuに対し、十・六・七・七の計三十音の四行詩であるのがenglynのひとつの基本形だが、他の変型も多い。韻の踏み方が特徴的で、例えば、一行目の七、八もしくは九番めの音に後半三行の最後の音が韻を合わせるといった作りになっている。起源は中世に遡るが、現在でも脈々と作られているらしい。ウィキペディアから一句を拾う。

 おお父よ、私たちは幸せな家族として

 感謝をあらたにする

 なぜなら、あなたの手が日々

 私たちに支えと喜びをもたらすから

 以前の連載でリメリックというイングランド発祥の五行詩を紹介したが、印象はそれに近く、俳句では含みづらい起承転結も孕みうる長さだ。世界の各文化に短詩は種々あるのだろうが、俳句の明確な特徴は、どうやら起承転結を含みうる長さの限界を超えた短さにありそうだ。

 その一方で興味深いのは、俳句の起源が連歌の中の「発句」であること。それは大きな物語の開幕を告げるものでもあり、つまり俳句はそれ自体に起承転結を明示しない半面、その背後に大きな物語を暗示する。おそらくそれが俳句の特徴であり、かつ日本文化共通の特質かも知れない、と僕はそのメールに返信した。

 かくして来日した彼らに実際に会ったのは、三月末の週末。川崎市内の小さな神社の境内に、並んで座って話した。自然と俳句との繋がり、みたいな話をひとしきりした後で、あなた自身の一番の句を教えて、と言われる。わかりやすそうな句を選んで口にしてみたものの、句の中にある「切れ」の概念が理解されず、意外に伝わるのに難儀する。俳句を伝えるのは簡単じゃないなあ、と実感。

 それから僕は持参したあるものを彼らに見せた。僕が二十代の頃からずっと使っている歳時記だ。自然につながる俳句には季語が必要、ということは彼らにも事前に説明はしていたが、歳時記という俳句専用の分厚い辞書があり、そこには数千の季語が収録されている、というのは彼らもまさか想像していなかったらしく、興味津々で見ている。

「それ、めくってみてくれないかな? その様子を撮影するから」

 そう言われて歳時記をめくりつつ、少しばかり誇らしい気持ちになった。僕の俳句への愛は、歳時記が宿す、自然と文が織りなす壮大な小宇宙への愛に近しいかも知れない。そんなことを最後にそのウェールズ人たちには語ってみた。

 ※写真は2019年にWalesにて撮影

(『海原』2024年6月号より転載)

【鑑賞】豊里友行の俳句集の花めぐり35 松葉久美子句集『雨より遠い燕たち』(ふらんす堂、2025年8月刊)を読む  豊里友行

 ほんと静かひとりで過ごすお正月

 今年の正月は、私もひとり、写真事務所で過ごしていた。

 私は、がんがん音楽を流したりもしますが、詩作に耽りながら夜明けの信号機が鳴り出すのに気付く。このお正月とひとりの取り合わせを以外に詠める俳人は、少ないのではないか。俳句は、座の文学でもあるが、詩性を宿すには、何処かでひとりの時間を確保しないと詩の熟成を出来ない気がする。もちろん達人になれば、満員電車の中でも俳句仲間や子どもたちの会話の中からも人生の俳句の果実はつむげるのですが、その塩梅はここでは渇愛しよう。


残業のまだ冷蔵庫にあるプリン

 そのまま現代社会詠の秀逸作。云うことないなー。


春を行けども行けども道はなく

 春をどんどんと行くけども行くけども道がないという。春夏秋冬の道を人類は、めぐりめぐるようにより良く生きれるだけ歩むのかもしれない。こんな素敵な口語俳句に出会えるのならば。


茎へ葉へ生きるマーチを虫しぐれ

 茎へ川のように列を成し、葉へ海原のように波だたす。その生き物のひとつひとつの鼓動や躍動は、生きるマーチであり、虫しぐれの季語も活きている。

 「虫時雨」は、多くの虫が鳴く声に対して用いられる表現で、一時的に降ったり止んだりする雨の「時雨」(しぐれ)の雨の音と、しきりに鳴く虫の声を重ねた言葉。キリギリス、マツムシなど綺麗な鳴き声が多く聞こえることから、「虫時雨」は秋の季語。


春星のふたつは乳首ほか泥濘

 春星のふたつは乳首。その比喩の女性ならではのダイナミックさ。その他は、泥濘(ぬかるみ)。そこでは、春の星空と春野と交接して融合している。そのすがすがしいエロスを醸し出す秀逸。


蚊も蠅も廃れて自家菜園トマト

 蚊も蠅も廃れて自家菜園のトマトが緑の中を飛び回るような生命力の讃歌。


霜の夜の空蟬ほどのワンルーム

 霜の夜の空蟬ほどのワンルームという比喩にそこはかとなく流れている本句集の詩性の覚醒があるのかもしれません。


蓮が実を飛ばすアリスよ何処へ行く

 蓮の実を飛ばす。そこに『不思議の国のアリス』を見い出しながら何処へ行くのか問いつつ物語の序章を読者に誘う。俳句1句が、小説の1作品に匹敵することがある良い事例。


とっておきの靴と帽子と冬眠す

 とっておきの靴と帽子も季節の移ろいとともに冬眠にはいる。

 めぐりめぐる季節は、めぐり、人生の季節を俳句に織り成しながら俳人・松葉久美子の俳句への向き合い方に学ぶ点が多い。

 素敵な句集をありがとう。ありがとう。ありがとう。

【新連載】新現代評論研究(第11回)各論:仲寒蟬、村山恭子

★―1 赤尾兜子を読む5 /仲寒蟬

10. 日ごと増す枯葉や我は疎んぜられ

 「疎んぜられ」とは誰からであろうか。誰か、というより世間からか。この次の句は「寂(さみ)しき技(わざ)をして悔多き冬(あ)朝(さ)なりけり」である。疎んぜられた理由はこの寂しき技と関係あるのだろうか。

 寂しき技とは何なのかが気になる。決まったパートナーのいない若い男がひとりですることと言えば自ずから想像はつくが、兜子はこの年に軍隊生活から解放され翌年に向けて受験勉強中であったから学問や文学と関係することなのかもしれない。ただそれであれば「悔多き」と述懐している理由が分からなくなるし、時間帯としては朝に行った何か、ということになろう。

 年表風に書けばこの句集の扱う昭和20年10月~12月というのは

昭和19年(1944)、大阪外国語学校を繰り上げ卒業。

昭和20年(1945)、陸軍整備学校に入隊。終戦により復員。

昭和21年(1946)、京都大学文学部中国文学科に入学。

という頃に当たる。

 一度は大阪外国語学校中国語科で勉学に励むつもりが軍隊に取られ、間もなく敗戦を迎え、次は大学受験というめまぐるしさ。この時期は別に浪人した訳ではないがまだ大学生ではなく、かつて所属していた陸軍は跡形もなくなってしまって実に宙ぶらりんの立場であった。それだけでも自分は世間に必要なのか、疎んぜられてはいまいかという思いになったかもしれない。この増えてゆく枯葉のように徒に時間だけが過ぎてゆく。


11. 胸騒ぐことなく午後の枯木と佇つ

 わざわざ「胸騒ぐことなく」と表明しているのは普段胸の騒ぐことばかりであるからだろう。その胸を騒がせることとは何だろうか。先の俳句に出てきた金と恋とが真っ先に考えられる。何しろ兜子はまだ20歳という多感な年齢。学業、生活、恋愛と悩みは様々あったろう。また大日本帝国が瓦解してこれまでの価値観、物の見方が180度転換された、そのことに関する胸の騒ぎであるかもしれない。日本は、日本人は、自分はこれからどこへ行くのだろうか、と。

 この少し後に同じ枯木を詠んだ句として

獨立自尊胸に枯木の轟々と

が収められている。同じ12月6日作の句である。してみれば本句を詠んだ時にも「獨立自尊」が胸にあったと思われる。いずれの句にも「胸」の語が出てくるから枯木と対峙しつつ兜子の胸には様々な思いが去来していたに違いない。

 さらに想像をたくましくすれば、轟々たる風の中に堂々と立つ枯木は日本という国の象徴であるかもしれない。さらには軍部の一員から大学生になって呆然としている兜子自身の象徴とも考えられる。「獨立自尊」は日本が世界に対してということかもしれないが、ここは兜子という人間が世間に対してと考えるのが妥当であろう。


12. 木の葉髪無為ニ繋がる二十年

 木の葉髪は晩秋から冬に髪が抜け落ちること。鳥や獣であれば夏の毛や羽が抜け落ちて冬のそれに入れ替わる頃。人間にもその名残があるのかもしれない。20歳の青年と雖も木の葉髪の数本くらいはあっただろう。

 この句の「二十年」はもちろん兜子が生まれてから今までの20年ということであろうが、昭和という時代が始まって戦争に突入し敗戦に至ったというその20年なのかもしれない。人生では最も濃縮された、人格形成にとっては重要な20年という筈であるが、兜子は「無為に繋がる」と斬って捨てる。

 この俳句の感慨にはこれまで当然のものとして凭れてきた国家、世間の常識が敗戦によって全否定されたという背景があろう。いままでやってきたこと、人生は所詮「無為」に繋がるものでしかなかった。「無為」という言葉は老子の唱えた理想の状態としての「無為」ではなく、ただぶらぶらと徒に時間を過ごしている状態という意味の「無為」であろうと考えられる。

 実際には来年の受験に向けて勉強していたのかもしれないが、兜子にとってこの時期の自分は無為の徒でしかなかった。大阪外国語学校時代には中国語を勉強して満州や中国で活躍しようとの希望があった。軍隊にいた時には国のため、国民のために働いているという実感が持てたろう。だが今は何かを生み出す訳でもなく時を浪費している自分がいる。そういう思いであろう。


★―7:藤木清子を読む3 / 村山 恭子

3 昭和10年 広島県 藤木水南女で出句 ①

  通り魔に寒気立(そうけだ)ちたる古衾        旗艦2号・2月

 〈古衾〉は布団以前の寝具で、布団を衾と言うこともあります。自身が〈通り魔〉に遭ったのではなく、家人や知り合い等から知って身が〈寒気立ち〉ました。〈古衾〉は長く愛用したもので、それにより我が身を守り心を落ち着かせました。慎ましい生活も見えてきます。

   季語=古衾(冬)


  古衾悪魔に黒髪摑まれぬ         同

〈古衾〉を掛けて寝ました。夢の中で〈悪魔に黒髪〉を摑まれ、うなされています。

 中七を「悪魔に髪を」で七音に整えず、〈悪魔に黒髪〉の〈黒髪〉と色を出し、また八音にしたことで、悪魔に豊かな量の髪を掴まえられている実感があります。

   季語=古衾(冬)


  掛乞に話し込まれてたがやせる      同

〈翔乞〉は半年分の付けの代金を、暮に取り立てること。取り立てる者は大晦日まで忙しく動き回りますが、〈掛乞〉はどっしりと話し込んでいきました。半年分の暮らしを振り返りながら、次の半年の無事を願い、畑を耕しています。

   季語=掛乞(暮)


  お向ひの壁が真赤で夜なべ鍛冶     旗艦4号・4月

 〈お向ひの壁が真赤で〉から火事かと思わせ、下五の〈夜なべ鍛冶〉で謎解きのような展開です。〈夜なべ〉は秋の長い夜を働き続けることで、鍛冶職人のこつこつと仕事をする姿は秋の静けさを深め、真赤な焔は闇を美しく照らしています。

   季語=夜なべ(秋)


  麦の穂や海の深浅あきらかに       旗艦7号・7月

〈麦〉は五穀の一種で、初夏、黄金色に稔ります。〈麦の穂〉の丘から〈海〉を見ると、

深い場所と浅い場所の色が〈あきらかに〉異なっています。麦の黄金色、浅瀬のエメラルドグリーン、深瀬のコバルトブルーと夏を鮮やかに描写しています。

   季語=麦の穂(夏)

 

  耳につく虻の声のみ単衣裁つ       同

 耳に聴こえるのは虻の声だけの中、〈単衣〉の生地を裁っています。〈虻の声〉は虻の羽音。声としたことで虻の存在感が増しています。その空間にいるのは虻と単衣を裁つ人のみで、ジョキジョキと生地を裁つ鋏の音が際立っています。

   季語=単衣(夏)


  蒼穹に心触れつつすだれ吊る       旗艦8号・8月

 すだれを吊っています。その気持ちは〈蒼穹〉の青空、大空へ、心が触れるようにのびやかで、晴れ晴れとしています。〈すだれ〉を吊って夏を迎える高揚感がよく出ており、すだれが広がる情景が涼やかです。

   季語=すだれ(夏)

【連載】現代評論研究:第14回各論―テーマ:「春」その他― 藤田踏青、土肥あき子、飯田冬眞、堺谷真人、岡村知昭、しなだしん、筑紫磐井、北川美美、深谷義紀、吉村毬子

(投稿日:2011年11月18日)

●―1近木圭之介の句/藤田踏青

 青の蝶 無作為の余白とび去り

  「層雲自由律・101号」(注①)の圭之介追悼号に掲載の平成14年の作品である。この句の場合、何故「青い蝶」ではなく「青の蝶」であるのか。それは「青の」が指定するものが場所であり、時であり、対象であり、所属等の重層したものを示唆しているからではないのか。その事によって蝶は己自身とも他者ともみなされうるし、無作為という偶然性が支配する「余白」はそれぞれの「生」そのものを示していると共に、そこからの飛翔が意思的な一面を打ち出しているとも考えられる。また画家としての圭之介は当然、青と白との色のコントラストを表現手法に用いており、そうした傾向は既出の「自画像 青い絵の具で蝶は塗りこめておく」(注②)の句などにも表れている。

 蝶に関連した句はその他にも数多くみられる。

 心にはいつも一匹の蝶と空間        昭和39年作   (注③)

 蝶の一匹が吹かれているゆえに断崖     昭和39年作   (注③)

 蝶そうして花である            昭和48年作   (注③)

 蝶 羽の色をひらく            昭和48年作

 失イツクシ。蝶残ル            平成6年作

 上記の様に蝶は常に作者と同一体にあり、その視点と思惟はその交感上に存している。そしてその儚さと一過性故の孤独感が、空間への埋没や断崖での切迫感、相対性としての個の存在感や浮遊感、更には絶望の残滓感へと連なってゆくようである。

 人員と春においてある椅子         昭和29年作   (注③)

 春です。思想なくした街もいい       平成19年作   (注①)

 春というものはその膨張感と共に内部的には空虚感を抱え込んでいるようである。それ故に人員と椅子という数的無機的表情や、茫漠とした無思想の表情がよく似合うのかもしれない。思想というものが直観の立場を超えて論理的反省を加えた思考内容、体系的なものである限り、上記の駘蕩たる春とは相いれないものである事は明らかであろう。特に最晩年の作者は、春の空虚感にゆったりと浸っているかの如くに。

 例によってテーマにそった圭之介の詩を1篇を掲げよう。

 「宇宙とラムネ玉」           昭和27年作  (注④)

 春はあらゆるものが光を生み

 ブロンズの裸婦の乳房に屈折し

 公園のベンチを明るくした

 私の喉はからからとかわく

 茶店ではラムネ玉が

 宇宙の一さいを包含していた

 宇宙とラムネの逆不等合を春はキラキラと媒体しているかの如き、趣のある詩となっている。


(注)①「層雲自由律」101号 平成21年7月 層雲自由律の会発行

   ② 第6回テーマ「色」掲載

   ③「ケイノスケ句抄」 近木圭之介 層雲社 昭和61年刊

   ④「近木圭之介詩抄」 近木圭之介 私家版 昭和60年刊


●―2稲垣きくのの句/土肥あき子

 春の夜のこころもてあそばれしかな  『榧の実』

 春の夜の触れてさだかにをとこの手  『冬濤』

 春の夜の夢にもひとの泣くばかり   「俳句研究」昭和55年5月号

 きくのの最初の師、大場白水郎の「春蘭」(〜1940年)、「春蘭」の復刊ともいえる「縷紅」(1940〜1944年)が終刊したのち、1946年白水郎の親友であった久保田万太郎が「春燈」を創刊したことを知り、入会する。この時、きくの40歳である。「春燈」には文章も頻繁に発表し、まとめたものを句集よりひと足早く随筆集『古日傘』(1959年)として上梓した。『古日傘』の巻頭には万太郎の序句「春ショールはるをうれひてまとひけ里」が置かれている。

 この随筆集のなかで、万太郎が登場する一話がある。1939年のできごとというから、同じ「春蘭」のなかの兄妹弟子という関係のなかの思い出として描かれている。

 万太郎がお座敷遊びの最中に一句を書き付けた紙片を、隣に座ったきくのに渡した。

 秋の夜、と始まるその句に「これ、春の夜ではいけませんか」と言うと、万太郎は言下に「いけない、春の夜じゃいけない」ときつい調子で応えた。紙片をさらにじっと見つめた万太郎は「なつのよ…、ふゆのよ…」とつぶやいたのち、はっきりと「うん、冬の夜がいい」と断言したという。

 抒情が勝り春の夜がふさわしいと思ったきくの。

 小説家として冬の夜が最適とした万太郎。その句とは

 冬の夜の大鼓(かわ)の緒のひざにたれ  万太郎

 鮮やかな朱の緒とともに芸の意気まで表しているような演出に、きくのはため息とともに深く納得する。

 このほんのわずかなふたりのやりとりのなかに、きくのの抒情と、万太郎の選り抜かれた演出が見てとれる。そして、言外に漂う信頼関係も。

 1963年5月6日の万太郎の死は、誤嚥性の窒息という誰もが思いもよらない唐突なものだった。悼句の

 薔薇紅き嘆きは人に頒たれず  『冬濤』

には「久保田先生逝く、直前、薔薇を賜ふ」の前書がある。薔薇の御礼も言えぬままの別れだったことだろう。

 そして、掲句に並べた春の夜3句はすべてお座敷の一件以降の作品である。きくのの春の夜は、相変わらずしっとりと濡れるような抒情に縁取られていた。


●―4齋藤玄の句/飯田冬眞

 糸遊を見てゐて何も見てゐずや

 昭和50年作。第4句集『狩眼』(*1)所収。句集巻末の句。

 〈糸遊〉は「いという」で、「陽炎」の傍題季語。『わくかせわ』(宝暦三年1753)に「陽炎・糸遊、同物二名なり。春気地より昇るを陽炎あるいはかげろふもゆるともいひ、空にちらつき、また降るを糸遊といふなり」とある。

 『角川 合本俳句歳時記 第四版』では、陽炎を「日差しが強く風の弱い日に、遠くのものがゆらゆら揺らいで見える現象」と定義する。つまりは、晴れ渡った春の日の空にちりちりと針のように見えるものが「糸遊」である。

 〈見てゐて何も見てゐずや〉は自身の感覚に対する不信感の吐露でありながら、〈糸遊〉のもつ神秘的で儚い自然現象の本意と見事に響き合っている。「見ること」に重心を置いて作句をしてきた齋藤玄にとって、自然現象を写生することの難しさを表明した句と言えるだろう。それは玄個人の内面吐露のように見えて、実は、俳人を含めた我々人間全般の「視覚」のあやふやさを鋭く突いた言葉としても受け止められる。

 自註を読むとさらにその思いを強くする。

ぼんやりして、何も見ていない。しかし実際はかげろうの伸縮を見ていたのだった。それが、いつの間にか何も見ていなくなっていた。(*2)

 要するに、この句は、眼前にした自然現象を言語化することの困難を主題としているのだが、句集の末尾にすえられていることで、齋藤玄という作家の特質を考える上で、重要な意味をはらんでいるように思う。

 つまり、俳人たちの多くは俳句の表現手法である写生に徹することで、俳句表現は成立すると思い込んでいるが、玄は〈糸遊〉の句を通して、写生の限界を感じたことを端無くも表明しているのである。自然現象である〈糸遊〉を前にして、〈見てゐて何も見てゐずや〉と表白することは、とりもなおさず、人間は自然現象に対峙するものではなく、その一部であることを直感的に認識したことを暗示している。大げさに言うならば〈糸遊を見てゐて何も見てゐずや〉は、近代的自我のゆらぎを吐露した句であり、それが『狩眼』という句集の末尾にすえられたことは、齋藤玄という俳人が、その時点で到達していた自然現象に対する認識力の高さを表している。

 それが次の句集、『雁道』への橋渡し的役割を担っているように思う。

 『雁道』の冒頭の句をあげる。

 青き踏むより踏みたきは川の艶   昭和50年作 (*3)

 この句は、「色」の一句の項目で触れたが、〈青き踏む〉という中国に起源を持つ季語を用いながら、季語に寄りかかるのではなく、むしろ季語の情趣を打ち破ろうとした意欲作である。それは、〈青き踏むより踏みたきは〉と句またがりにして韻律を崩している点からも読み取ることができる。また、春の陽光に反射した川面の光沢を〈川の艶〉と捉えた措辞のうまさにも既成の俳句表現にとらわれない進取の精神性を感じるのである。

 『狩眼』巻末句の〈糸遊を見てゐて何も見てゐずや〉と『雁道』冒頭句の〈青き踏むより踏みたきは川の艶〉は、ともに春の陽光をモチーフとしながら「写生」と「季語」という俳句の根幹に揺さぶりをかけようとした齋藤玄の意欲作であったことを確認しておきたい。


*1 第4句集『狩眼』 昭和50年牧羊社刊 『齋藤玄全句集』 昭和61年 永田書房刊 所載

*2 自註現代俳句シリーズ・第二期16『斎藤玄集』 昭和53年 俳人協会刊

*3 第5句集『雁道』 昭和54年永田書房刊 『齋藤玄全句集』 昭和61年 永田書房刊 所載


●―5堀葦男の句/堺谷真人

 さふらんのもたぐる蕾愛ぞ愛ぞ

 『火づくり』(1962年)所収の句。「昭和二十九年三月十六日福竜丸水爆実験の犠牲と

なる一句」という長い前書きを持つ。初出は1954年5月1日発行の「十七音詩」第3号。初出時点の前書きは「三月十六日水爆の暴威報ぜらる 一句」であり、作品自体も中七の直後に1字分の余白を置いた

 さふらんのもたぐる蕾 愛ぞ愛ぞ

という分かち書き形式であった。

 静岡県の焼津を母港とするマグロ漁船・第五福竜丸がビキニ環礁で米国の水爆実験に遭遇したのは1954年3月1日早朝のことである。同月14日、焼津に帰港。読売新聞同月16日付朝刊社会面が大きく報じて世論は騒然となった。葦男はこの記事を読んだのである。

 ここでいう「さふらん」とは、晩秋に咲き、乾燥させた雌蘂が薬用・染料・香料に使用される秋サフランではない。同属で早春に咲くクロッカスのことを指すと思われる。観賞用のみに栽培され、春サフラン、花サフランなどと呼ばれる花である。クロッカスは地面すれすれに花をつける。だから「もたぐる蕾」といってもそれはごく低い所にあるのだ。

 問題はその形状である。短い茎の先端に蕾を生じたクロッカスを、葦男は水爆のキノコ雲に見立てたのかもしれない。もしそうだとすれば、葦男眼前のクロッカスは早春の景物であると同時に禍々しい原子兵器(当時は核兵器よりも原子兵器の呼称が一般的だった)の喩でもあったわけだ。この句は核軍拡時代の到来を端的に告げる作品であり、核実験のもたらす惨害という現実を同時代的に引き受けようとする葦男の作家精神を素朴かつ明快に示す作例と言える。

 それにしても「愛ぞ愛ぞ」という俳句らしからぬ反復強調表現は何であろう。字余りの措辞は取って付けたようであり、稚拙な印象すら与える。これは水爆の暴威への憤りから思わず発した人類愛渇望の叫びなのであろうか。勿論そう解釈することも可能だ。しかし、筆者はこの「愛」は久保山愛吉への呼びかけではないかと思う。ビキニ環礁で放射性降下物を浴びて重態に陥り、同年9月23日に不帰の客となった第五福竜丸無線長である。

 「愛」の文字を冠する名を持ち、兄貴分として乗組員たちに慕われた人物が、およそ「愛」とは正反対の酷薄なる冷戦の犠牲となった皮肉。この句の発表当時、久保山はなお存命中だったが、同時代の悲劇を体現した人物へのオマージュを以て葦男は一句を締めくくったのではないか。

 因みに、「十七音詩」創刊号および第2号の題言は無署名である。第3号の題言に至って初めて(葦)という署名が入る。

 友だちはみな人間の危機をひしひしと感じてゐる。LOYALTYがHUMANITYをすでに圧迫してゐるのだ。叡智と愛が擦り減ってゆく世界。

 葦男筆とおぼしき題言の一節は抽象的な表現をとるが、これが水爆の恐怖に支配された世界の非人間性を念頭に置いたものであることは言うまでもない。葦男の受けた衝撃は深甚であった。「さふらん」の句にはその衝撃の痕跡が生々しく残っている。

 以下補足だが、上述の「十七音詩」は1953年10月に、金子明彦、林田紀音夫とともに葦男が創刊した同人誌である。俳句を十七音詩として把握し直すことにより新しい俳句の誕生を期するという、清新なエスプリに満ちた試みであった。

 中世的文学理念のつき纏ふ俳と季の束縛を断ち切つても、なほそこに俳句の骨格を形成する特性は失はれず、むしろそれによつてこそ現代民衆の詩精神を盛るに相応しい新しい俳句の誕生が可能であると確信するにある。(創刊号 題言)

 「十七音詩」はその後、前衛俳句運動の火種のひとつとなってゆくのである。


●―8青玄系作家の句/岡村知昭

 昼なかのニュース声高蝶みな消ゆ   中川浩文

 掲出句の引用は1962年(昭和37)6月刊行の第一句集『貝殻祭』から。初出はいまのところ未見。作者である中川浩文氏は1923年(大正12年)生まれ、1983年に亡くなるまで「青玄」同人、無鑑査同人として所属。また日本文学者として京都女子大学、龍谷大学などで教鞭を執り、「竹取物語」「源氏物語」研究の著書がある。

 春の真昼、いよいよ緊迫の度を増しつつある状況を伝えるアナウンサーの声は、世情の空気に呑みこまれているかのようにますます甲高さを増しつつある。今ここにいる自分自身の周囲からは、どうしたことか一斉に蝶の姿を見えなくなってしまった。もしかしたらそれは、ひたすら声の甲高さを増しつつあるアナウンサー、すなわち世情の緊迫した雰囲気からなんとか逃れようとしているのだろうか、それともアナウンサーによってさらに声高に伝えられる状況へ対して一層の危機感を募らせて、蝶たち自らが世情へとまっすぐに突き進もうとしているのだろうか。そのような疑問と不安の数々を募らせながらも、すっかり蝶のいなくなった空間に響きわたるアナウンサーの緊迫感溢れた甲高い声を聞いているだけの自分がいる、いまはただ、世情のうごめきの真っ只中にいるであろう蝶たちの行く末を思うことしかできない自分自身がここにいる。

 最初にこの1句を見て、自分自身が立ち尽くしているかのような空間に響きわたるニュースは何かと考え、思わず2011年3月の大震災とその後の顛末を想起してしまったものである。林田紀音夫が1970年代に書いた「執拗なヘリコプター死者の広場があり」(句集『幻燈』所収)もそうだが、災害や戦火といった大惨事を伝えるメディアに対するシニカルな目線というのは、いつの頃にあっても変わらないものかと思ったのだが、もちろんこれは私の漠然とした印象に過ぎない。この1句はある決定的な日付をもって刻印された作品である、その日付は1960年(昭和35)6月15日。以下に引用する2句と合わせ、次のような前書が付されている、「安保条約反対デモにて樺美智子なる学生死す」。

 足裏に舗装路絶えぬ暮色の泥   中川浩文

 安保反抗デモで鳥肌立つポロシャツ

 いわゆる「60年安保闘争」の盛り上がりの中、国会前での機動隊とデモ隊の衝突によって引き起こされた、女子学生樺美智子の死。戦後15年を経て、再び若い命が国を二分する争いの真っ只中で失われてしまった事態が、ニュースを通じて日本中に与えた衝撃の大きさは計りしれないものがあったのだろう(としか今の私には言えない)。当時京都女子大の助教授として学生たちの前にいた作者にしても、学生たちと同世代のひとりが突然に命を断たれたことからもたらされた怒りや哀しみは、即座に言葉としようにも複雑極まりない感情にとらわれたであろうことは想像がつく。俳人としての中川氏はそのような自分自身の感情のありようを見据えながら、だからこそますます甲高い響きを帯びて自らの前に立ち現れる声々と、それらに即座に呼応して立ち上がろうとする学生たちの姿に対しても、さまざまな感情にとらわれながらも、若者たちに生きていてほしい、このような世情の真っ只中にあって、なんとか無事であってほしいとの祈りをもって向き合おうとしていたのだろう。それは「蝶みな消ゆ」の結句に蝶の不在への切迫感だけではなく、いつか蝶が再びこの空間で羽ばたくことを願う気持ちが強く感じられるからである。だが、その願いは「蝶」たちに届いていたのだろうか。「60年安保」とそれ以降の「政治の季節」に「蝶」たちが負った傷の深さを、大学の教員たる中川氏は見届けなくてはならなかったのだから。

遺影への礼ならば問え犠牲死と言いうるほどに果たしたる何   岸上大作

 あの6月15日にデモの真っ只中にいたこの学生歌人は、この年の12月にまるで闘争に殉じようとするかのような自死を遂げる。その後「60年安保」のモニュメントとしても読まれ続けていった岸上の短歌は、ジャンルは違えど定型詩に関わる中川氏のもとにも届いていたはずである。果たして傷つき倒れた「蝶」の残した短歌に一俳人としてどんな感想を持ったのかは、今からは到底計りしれないことである。


●―9上田五千石の句/しなだしん

 風船を手放すここが空の岸     五千石

 第四句集『琥珀』所収。昭和五十九年作。

 『琥珀』は、昭和五十七年より平成三年まで、四十九歳から五十八歳までの作品三九二句を収録する第四句集。

     *

 掲句、センチメンタルな句である。「風船を手放す」はすでにセンチメンタルで、「ここが空の岸」というロマンティックさをも加えている。五千石は元来センチメンタルな句風であるが、素材の硬質さがバランスを保っている作品が多く、この句のように素材までセンチメンタルな句は珍しいかもしれない。

 五千石の代表句である、第一句集『田園』の〈渡り鳥みるみるわれの小さくなり〉に、目線や離脱感に通ずるものがあるが、掲句の方が現実にとどまっている感が強いように思う。それが斬新さに欠けるという感想にも成り得るところ。

 ところで「空の岸」とはどこを指すのだろうか。岸からは岸壁が想像され、その先には海が見えてくる。だがこの句はその先は「空」なのだ。空を主眼に置くと、岸はそこでもよく、まさに「ここ」が岸になるのだろう。ちなみに「風船」には「船」という字が使われていて、それも「岸」「海」を喚起させる一因になっているのかもしれない。

 いずれにしても掲句は「空の岸」という表現に加え、「ここが」という限定が有効に働いていて、この辺りが初期作の「渡り鳥」とは違う、言葉は悪いが「てだれ」的なうまさがあると思う。

     *

 この句の作句年、昭和五十九年は五千石五十一歳、主宰誌「畦」が月刊になって八年目、充実期といっていいだろう。「畦」への発表句も当初七句程度だったものが、この時期には倍増している。いわば脂ののった時期、といえるかもしれない。

 「空の岸」というようなフレーズは、他にないわけではないと思うが、この詩的表現は一歩抜け出ていると私は思う。


*1 『琥珀』 平成四年八月二十七日、角川書店刊


●―10楠本憲吉の句/筑紫磐井

 見るからに呪縛の女 マルクス忌

 今までことさら取り上げてこなかった憲吉の第1句集『隠花植物』(昭和26年刊)より取り上げた。これからも取り上げる機会がないから一度ぐらいは取り上げておこうと思ったのである。『隠花植物』は昭和20年から25年までの作品を含んでいるから、制作時期はこれから推測するしかない。

 この句の季語にあたる「マルクス忌」は季語ではない。しかしマルクスの忌日(1983年3月14日)はある。草田男の「燭の灯を煙草火としつチエホフ忌」 のチエホフ忌は季語になくともチェホフの忌日(1904年7月15日)があるのと同様である。

 『隠花植物』は、昭和26年に<なだ万隠花植物刊行会>から限定120部の豪華本で世に出された句集だそうで(筆者未見)、後、31年に大雅洞より95部限定で刊行された(さらに53年に深夜叢書社から、これは部数の限定なく復刊された)。5章、わずか84句からなる句集である。ほとんど人に読ませないための句集であったのではないかと思えてならない。例えば、

 オルゴール亡母の秘密の子か僕は

 酒場やがて蝋涙と化し誰か歔欷

 汝が胸の谷間の汗や巴里祭

 妻よわが死後読め貴種流離譚

などの一応人口に膾炙した憲吉の句は、『楠本憲吉集』(昭和42年刊)になって出てくるから、『隠花植物』は句集の名前のみ有名でほとんど句は知られていないと言ってよいのだ。のみならず、<なだ万隠花植物刊行会>刊の『隠花植物』は表題が『陰花植物』となっているのも不思議である。ほとんど句集『隠花植物』は、『隠花植物』という題名のためにだけ存在する句集といっても良いかもしれない(詩人菱山修三も序文でこの句集名を褒めている)。

 また、この句からもわかるように『隠花植物』は収録句の半ばが無季の句である。季語のように見えながら季語ではない言葉も多い。この句で言えば、ただ、マルクスの忌日だから春だろうと推測するばかりなのだ。おそらく師の草城から受けた新興俳句の匂いを最も濃く残していた時期であったろう。

 有季から無季へ、難解な句から平明通俗な句へと変わったが、「見るからに呪縛の女」で分かるとおり女性に対する見方は少しも変わらない(マルクスには愛人がいたというから存外無縁な忌日ではないかもしれない)。

 ちなみに、『隠花植物』時代に柴山節子と結婚する。昭和22年25歳のことである。

 光る靴踏むや瓦礫のわが華燭

 これ以後、憲吉の句集は妻との葛藤に満ちた俳句が満載される。虚々実々の妻との駆け引き、騙し合い、憎み合い、自己憐憫、軽蔑、畏怖、愛情と、まさに圧巻の句集となっているのである。夫婦の機微をこれほどあからさまに述べた句集は例を見ないだろう。これが全て事実とは思えないが、これから結婚を考える人に是非勧めたい句集なのである。しかし結婚する気がなくなっても当方は責任を負わないからそのつもりで。(女性の専門家とみられていた憲吉は、前号に載せた本『女ひとりの幸はあるか』『結婚読本』『女が美的に見えるとき』以外にも、『それでも女房はコワイ』『メオトロジー』『悪女のすすめ』『女性と趣味』『花嫁を走らせないで・・・楠本憲吉結婚読本』『かあちゃん教育』『産報版・源氏物語』『現代ママ気質』『娘たちに与える本』『女色・酒色・旅色』などを出している)。


●―12三橋敏雄の句/北川美美

 釘買って出る百貨店西東忌

 世の中には常識外の行動で美談となる人がいる。敏雄の先師・西東三鬼もそのひとりだろう。「自由奔放」「放浪者」「モダニスト」「エトランゼ」「ニヒリスト」など三鬼を表現する言葉は限りない。生前の三鬼と敏雄の関わりは、渡邊白泉の斡旋によりはじまり敏雄18から41歳、三鬼が鬼籍に入るまで続いた。西東忌は、四月一日である。

 掲句は三鬼への先師追慕であるとともに愛憎と客観がある。三鬼を言い当てるような「百貨店」、「西」と「東」に距離を置く「西東忌」、何故「釘」を買って飄々としているのか、そこに心情が伺える。

 掲句から直ちに連想したのは、映画『復習するは我にあり』(公開:1979年、監督:今村昌平、原作:佐木隆三)である。殺人鬼・榎津巌(緒形拳)が雑司ヶ谷の薄暗いアパートの洋ダンスに、老弁護士(加藤嘉)の屍体を閉じ込め、自分の頸をネクタイで絞めるしぐさをする。そして、タンスを封じるための釘と金槌を商店街に買いに行く。どこか清々しい顏をしている。『復習するは我にあり』はキリスト教の言葉である。新約聖書の「悪を行なった者に対する復讐は神がおこなう」という意味であるらしい。

『まぼろしの鱶』後記

 当時、傍目には華麗な三鬼の、それ故に無慙な実生活振りは、具体性をもって、私の魂の避難港として在った。

 三鬼が商売に失敗したり、突然神戸へ移転したり、俳句以外のさまざまな武勇伝(例えば神戸の遊郭をツケ払いで遊ぶなど)が本当の悪だったかは、敏雄自身にしかわからないが、三鬼作品が「悪意に満ちた美」であることはわかる。「釘」は、少なくとも三鬼作品を表現するに的を射ているし、そこにキリスト教的暗喩が感じられるのは確かである。更に、釘を買ってどうするのかということになれば、書かれてない「金槌」は、既にあると読め(神が金槌を振り降ろすのかもしれない)、没後の西東三鬼の行く末を自ら背負おうという所作に読める。

 故に、敏雄が大工ヨゼフになろうと決意の上、バーニーズニューヨークから出てきた、という光景である。百貨店ならば、例え五寸釘、犬釘であろうとも取り寄せ可能である。

 聖燭祭工人ヨゼフ我が愛す 西東三鬼

 上掲句対する敏雄のシニカルな呼応でもあるだろう。弟子になりたいと訪ねた白泉に三鬼のところへ行くよう薦められ、そのまま三鬼の身辺に渡る関係がはじまった。敏雄の才能、人格、存在の全てを真っ先に三鬼から愛されたのである。男同志のドラマ(私淑の白泉との三角関係も含め)がある。掲句は、西東忌四月一日はエイプリルフールであることも不思議な句である。

 掲句は第一句集『まぼろしの鱶』に収められ、三鬼の祥月命日、1965(昭和四一)年四月一日に上梓された。敏雄は、三鬼没後十年に『西東三鬼全句集』(*1)の刊行に尽力した。まさに釘の集大成かもしれない。


*1)『西東三鬼全句集』(1971年・都市出版社、編集:三橋敏雄・鈴木六林男・大高弘達、監修:平畑静塔・三谷昭)、更に補強版の『西東三鬼全句集』(1983年・沖積舎、編集:三橋敏雄)を敏雄単独で編集。


●―13成田千空の句/深谷義紀

 妻の眉目春の竃は火を得たり

 第1句集「地霊」所収。

 昭和26年、千空は石塚市子と結婚する。その折のことを、後に千空は次のように述懐する。

 従弟と暮らした、鍋釜があるだけの所に来てくれた妻でした。めんこくてどうしようもありませんでした。

(「俳句は歓びの文学」成田千空著・角川学芸出版刊 より)

 前年、千空は帰農生活を切り上げて、五所川原市内に移り、従弟と小さな書店を開いた。これは、千空自身が開墾地での孤独な生活状況から脱却する必要を感じたからでもあった。店の経営自体は繁盛するまでには至らなかったものの、市内の文学青年や若い絵描きなどが集まり、さながら文化サロンのような状況を呈したというから、その意味では所期の目的を達したと言えるだろう。上記の千空の述懐にある「従弟と暮らした、鍋釜があるだけの所」とは、この書店兼住居をさす。

 掲句は、新婚直後の作品である。折りしも季節は春。まさに妻を娶った喜びが率直に現れている。

 実はこの結婚後間もない時期に、千空が生涯の師と仰ぐ中村草田男が地元新聞社の招きで青森を訪れている。千空は草田男に一週間同行し、その謦咳に接した。その折、互いの妻のことに話が及び、千空が「新婚なのに時々諍いをしてしまう」とこぼしたところ、草田男は「喧嘩をしない夫婦は夫婦ではない」と強い口調で語ったという。次に掲げるのは、千空がその草田男を詠んだ句である。

 妻を語る秋栗色の大きな眼   「地霊」

 愛情ある家庭を共に築く妻と信頼しうる師。その双方を得た千空の作品は、この時期以降、さらに充実の度を増していく。そして昭和28年には第1回萬緑賞を受賞し、青森俳壇を大いに勇気付けた。わけても当時青森高校の生徒だった寺山修司は大いに衝撃を受け、それを越えなければならないと語り、さらに熱心に俳句に打ち込んだと言う。


●ー14中村苑子の句  【『水妖詞館』―― あの世とこの世の近代女性精神詩】33.34.35.36/吉村毬子

2014年8月29日

33 翔びすぎて墳墓の森を見失ふ

 苑子の眠る冨士霊園に二つの墓碑が並んでいる。

 わが尽忠は 俳句かな       (重信) 

 わが墓を止り木とせよ春の鳥    (苑子)

 この墓の購入手続きをしたのは『水妖詞館』が刊行された昭和50年の後の昭和56年頃であるから、冨士霊園のことを踏まえた句ではないだろう。

 墳墓は先祖代々の墓、またはその土地に当たるが、苑子の生まれ育った伊豆から望む天城山や箱根連山などの森を思い浮かべることもできるし、父方は、蝦夷地の出身らしいので、その遠い北の森を詠んでいるとも解釈することができるだろう。

 いずれにしても「翔びすぎて」「見失ふ」のだ。大空を飛翔する姿があり、「森を見失ふ」くらいな飛翔の高さが描かれ、鳥瞰図的な視点から一句を仕立てている。青く拡がる大空と緑の森の色彩感の美しさに心を奪われるけれども、天空から見降ろすかけがえのない遠祖の魂の息衝く故郷を「見失ふ」。より高く、より速く翔ぶ自身の加速は止められなくなってしまったのだ。

 苑子が故郷伊豆へは、ほとんど帰らずに俳句の世界に骨を埋める覚悟で切磋琢磨していた頃の作品であろう。俳句というよりも、肺病、戦争、夫の戦死、二人の子を持つ寡婦としての戦後、俳句評論発行所の運営、作句行為と、駈け足で生き抜いた人生に、ある日ふと過(よぎ)った思いとも考えられる。

 しかし、「墳墓の森」、それは俳句そのものを指しているようでもある。

 『水妖詞館』に収められた生と死を往来する、詩的飛躍を昇りつめていくことは、その当時の苑子の希いではある筈だけれども、ふと静謐な抒情を求めていた頃を思い出したりすることもあったのではないか――。

 最後の句集『花隠れ』の前半に初期編を入れ、後半は来し方や余命への落ち着いた句が並べられていること。そして、生前のある日、「俳句は文芸です。文学ではありません。」と静かに語った一言を、私は思い出したりすることがある。

 

34 鈴が鳴るいつも日暮れの水の中

 もう20年も前になるだろうか。英文の小冊子を苑子が取り出して、掲句が英訳されて載っているのだが、句意と合っているか見て欲しいと言った。私は、英語が不得手であったが、私にも理解できそうであったため、「だいたい合っています。」と答えたのだが……。

 掲句は、人口に膾炙した句であり、苑子も気に入っていたようだ。英訳されたことが嬉しそうであった。

 この句について、「十句自註」の中で書いている文章がある。(『現代女流俳句全集第4卷』昭和56年、講談社)

 ある初秋の日、印旛沼で舟遊びをしていた。舟べりから冷たい水の中に掌を入れて心を澄ましていると、沼の水と自分の胎内の水とが呼応するのか、指先がりんりんと鳴って痺れるような感じがした。なおもその儘にしていると、あたかも水底に沈んでいる鈴のひびきが、何ごとかを指先から私に伝えているのではないかと思った。身を乗り出して深い沼の中を覗いてみると、秋の真昼なのに、水の中は日暮れのような昏ら((ママ))さにしんしんと静もっており、私はこのまま水の中に吸われてもいいような気持ちになった。(昭和四十八年作)

 この文章によると「いつも」は〈日暮れになるといつも〉ではなく、〈真昼なのに、水の中は日暮れのような昏さ〉なので、何時(なんどき)でもの「いつも」の表記ということが解る。要するに、〈水の中は、いつも日暮れのようである〉という自解である。この文章を読むまでは〈日暮れになるといつも水の中で鈴が鳴る〉と理解していたので例の英訳が、本当に良い訳であったのか、申し訳ない気持がする。

 面妖な句ではあるが、しんとした透明感が一句を包むのは、水の中の夜の暗闇ではない「日暮れ」という哀愁が持つ色とイメージによるものであろう。また、鈴の奏でる純粋な高音が水中に揺れ震えているためでもある。こういった、誰にでも聴こえるものでは無い音(ある者は、夜明け前に聴く物の怪の遠吠えであるし、またある者には深夜の葉擦れの隙間に聴く声)が、苑子には聴こえるのである。

 自註によれば、「初秋の」「秋の真昼」ではあるが、その後、日暮れになると「印旛沼」の水中で感じたあの鈴の音を聴いているように思われる。前句「翔びすぎて墳墓の森を見失ふ」の自嘲にも似た呟きが、さらに心の深奧にひたひたと水を張り、今日という一日が暮れゆく時、原始の水が本当の自分を呼び覚まし、彼女を包容していたのではないか。

 苑子は、ただ、鈴の音を淡々と聴いているだけであるが、水底に棲むもの達との交感の儀式のようでもある。自註文にも書かれているように、いつしか、自身も静かに水中へ溶け入ってしまいそうになる予兆を感じさせる、生死の境界が揺曳する句である。


35 一ト日より二タ日に継ぐは白眼ばかり

  『水妖詞館』全139句の中で此の句が一番難解な句であるかも知れない。初見では、訳の解らぬ怖さに怯えるだけであった。(倉阪鬼一郎氏の著書『怖い俳句』には揚げられていなかったが……)下五の「白眼ばかり」の表記から、上五中七へと円環されるほど、「白眼」のことのみを詠っているような妖気を感じるばかりであり、白眼がクローズアップされる絵画や映像が浮かんでくるのであった。

 しかし、ある日、〈白眼で見る〉という言葉に思い至ったのである。冷たい眼で見る、という軽蔑が表われている意味であるが、広辞苑を引くと、晋の国の阮(げん)籍(せき)と云う人が気に入らない人を見る時は上目使いをして、白眼を見せたことから、この語ができたらしく、〈白眼〉は〈にらみ〉とも読む。隠語大辞典には〈月影=月の姿〉という意味もあるが、軽蔑を含む冷たい眼で見られるという句意だとしたら、絵画や映像の怖さどころではない。「一ト日」終日から「二タ日」次の日へと続く冷たい眼ばかりに囲まれて毎日を過ごすということである。

 生きるという事、俳句を書くという事、その継続のためには、それらの冷ややかな視線から逃がれられないということか……。

 33「墳墓の森を見失ふ」まで懸命に歳月を重ねる蔭には、あらゆる困難に毅然とした態度でいなければならないのだが、痩身が悪風に吹き飛ばされ、身を晒されることもあるだろう。かつて台所俳句と呼ばれた社会的、俳壇的に煙たがられない女流句を脱いで、杉田久女や、橋本多佳子、三橋鷹女らが、男性陣の中で鍛錬し、新しい女流俳句を書き続けてきたことは、現在の俳句界からは考えられない苦難があったであろう。苑子が三橋鷹女を師と仰いだのは周知であるが、久女を尊敬し、長野県松本市に分骨された墓へも参っている。(私は、久女も勉強しなさいと言われていた。)

 女流俳句が近代まで創造的進化を遂げてきたことは、先達の女流俳人達の努力であることを語っていた苑子もまた、現代の女流俳句を形作った俳人の一人であることを、此の句を読む度に痛感せざるを得ないのである。


36 つひに碑となる田舎紳士と野菊佇ち

 碑とは句碑であろうか。徳富蘇峰の奨励したイギリスの地方郷神である「田舎紳士」などを思い浮かべ、その「田舎紳士」なる俳人の句碑が建立され、傍らに野菊が咲いている、という解釈にも成り得るのだが……。

 前句の難解さとは逆に、解りやすい表記で書かれているだけに、表面的に言葉を理解して納得するには物足りなさを感じる句である。まして1頁に前句〈一ト日より二タ日に継ぐは白眼ばかり〉と並べられている意味を思考すれば、そのような解釈に結論付けるのはあまりに短絡的すぎる。

 25年間の句業を書きまとめた句集の編集、構成には苑子なりの思惑がある筈である。

  「つひに」は、〈とうとう、しまいには、結局〉の一般的な意味だけではなく〈ツユヒ=衰える、潰れる〉と同源の意の一説もある。そうすると「碑となる」は、長逝してしまったことのようにも思えるし、「碑」が死後も故郷に錦を飾るひとつの証であるとすれば、「田舎紳士」が華やかに名を馳せた都会を離れて、隠遁したかの如く故郷に帰ったともとれる。

 没したのか、戻ったのか、どちらにしても「田舎紳士」の里へ行ってしまったきりもう逢うこともなくなったのだと推察される。

 「野菊佇ち」から「野菊」も花ではなく、伊藤左千夫の『野菊の墓』のような、素朴で可憐な「田舎紳士」とよくお似合いの女人と思われる。

 やはり冒頭の解釈から発展のない主旨に落ち着いてしまうのだが、試みにロマン的イロニーの効いた句だと鑑賞しながら、「田舎紳士」が前句の「白眼ばかり」の一人だとしたら此の句もまた怖い句と言えるかも知れない。