2025年10月24日金曜日

第256号

      次回更新 11/21


第50回現代俳句講座「昭和百年 俳句はどこへ向かうのか」予告 》読む

■新現代評論研究

新現代評論研究(第14回)各論:後藤よしみ 》読む

現代評論研究:第17回総論・「遷子を通して戦後俳句史を読む」座談会 》読む

現代評論研究:第17回各論―テーマ:「風」その他― 藤田踏青、土肥あき子、飯田冬眞、堺谷真人、岡村知昭、しなだしん、筑紫磐井、北川美美、深谷義紀、吉村毬子 》読む

新現代評論研究:『天狼』つれづれ 第5回:「実作者の言葉」…「書」/米田恵子 》読む

新現代評論研究:音楽的俳句論 図像編 川崎果連 》読む

新現代評論研究:音楽的俳句論 解説編(第1回)川崎果連 》読む


■令和俳句帖(毎金曜日更新) 》読む

令和七年夏興帖
第一(10/10)杉山久子・辻村麻乃
第二(10/24)仙田洋子・豊里友行・山本敏倖・水岩瞳

令和七年歳旦帖・春興帖
第一(4/25)仙田洋子・神谷 波・豊里友行・山本敏倖
第二(5/9)ふけとしこ・加藤知子・杉山久子・小野裕三
第三(5/23)辻村麻乃・瀬戸優理子
第四(6/27)曾根毅・浅沼 璞・なつはづき
第五(7/5)下坂速穂・岬光世・依光正樹・依光陽子
第六(7/11)下坂速穂・岬光世・依光正樹・依光陽子・岸本尚毅・木村オサム
第七(7/25)中村猛虎・松下カロ・望月士郎・堀本吟・花尻万博
第八(8/22)眞矢ひろみ・村山恭子・冨岡和秀・田中葉月・渡邉美保・小沢麻結
第九(9/12)水岩瞳・佐藤りえ
第十(10/10)鷲津誠次・仲寒蟬・浜脇不如帰

令和六年冬興帖
第一(4/5)仙田洋子・神谷 波・豊里友行・山本敏倖・ふけとしこ
第二(4/11)鷲津誠次・加藤知子・杉山久子・小野裕三
第三(4/25)辻村麻乃・瀬戸優理子
第四(6/13)曾根毅・浅沼璞・なつはづき・下坂速穂
第五(6/21)岬光世・依光正樹・依光陽子・岸本尚毅・木村オサム
第六(6/27)中村猛虎・松下カロ・望月士郎・堀本吟・花尻万博
第七(7/5)眞矢ひろみ・村山恭子・冨岡和秀・田中葉月・渡邉美保・小沢麻結
第八(9/12)水岩瞳・佐藤りえ

補遺(10/24)浜脇不如帰

■ 第49回皐月句会(2024/5月)[速報] 》読む

■大井恒行の日々彼是 随時更新中!※URL変更 》読む

俳句新空間第21号 発行※NEW!

■連載

【連載通信】ほたる通信 Ⅲ(63) ふけとしこ 》読む

【新連載】口語俳句の可能性について・4 金光 舞  》読む

【鑑賞】豊里友行の俳句集の花めぐり38 恩田侑布子『夢洗ひ』 》読む

英国Haiku便り[in Japan](56) 小野裕三 》読む

【豊里友行句集『地球のリレー』を読みたい】8 豊里友行句集『地球のリレー』 栗林浩 》読む

句集歌集逍遙 董振華『語りたい龍太 伝えたい龍太—20人の証言』/佐藤りえ 》読む

【加藤知子句集『情死一擲』を読みたい】④ 破局有情――加藤知子句集『情死一擲』について 関悦史 》読む

現代俳句協会評論教室・フォローアップ研究会 7 筑紫磐井 》読む

【抜粋】〈俳句四季9月号〉俳壇観測260 鷹羽狩行の晩年——『十九路』『二十山』を読む

筑紫磐井 》読む

【連載】伝統の風景――林翔を通してみる戦後伝統俳句

 7.梅若忌 筑紫磐井 》読む

【豊里友行句集『母よ』を読みたい】③ 豊里友行句集『母よ』より 小松風写 選句 》読む

【渡部有紀子句集『山羊の乳』を読みたい】⑯ 生き物への眼差し 笠原小百合 》読む

インデックス

北川美美俳句全集32 》読む

澤田和弥論集成(第16回) 》読む

およそ日刊俳句新空間 》読む

10月の執筆者(渡邉美保)…(今までの執筆者)竹岡一郎・青山茂根・今泉礼奈・佐藤りえ・依光陽子・黒岩徳将・仮屋賢一・北川美美・大塚凱・宮﨑莉々香・柳本々々・渡邉美保 …




■Recent entries

中村猛虎第一句集『紅の挽歌』を読みたい インデックス

篠崎央子第一句集『火の貌』を読みたい インデックス

中西夕紀第四句集『くれなゐ』を読みたい インデックス

渡邊美保第一句集『櫛買ひに』を読みたい インデックス

なつはづき第一句集『ぴったりの箱』を読みたい インデックス

ふけとしこ第5句集『眠たい羊』を読みたい インデックス

加藤知子第三句集『たかざれき』を読みたい

眞矢ひろみ第一句集『箱庭の夜』を読みたい インデックス

葉月第一句集『子音』を読みたい インデックス

佐藤りえ句集『景色』を読みたい インデックス

眠兎第1句集『御意』を読みたい インデックス

麒麟第2句集『鴨』を読みたい インデックス

麻乃第二句集『るん』を読みたい インデックス

前衛から見た子規の覚書/筑紫磐井 インデックス

寒極光・虜囚の詠~シベリア抑留体験者の俳句を読む~㉜ のどか 》読む

俳句新空間を読む 》読む
…(主な執筆者)小野裕三・もてきまり・大塚凱・網野月を・前北かおる・東影喜子


筑紫磐井著『女帝たちの万葉集』(角川学芸出版)

新元号「令和」の典拠となった『萬葉集』。その成立に貢献した斉明・持統・元明・元正の4人の女帝、「春山の〈萬〉花の艶と秋山の千〈葉〉の彩を競へ」の天智天皇の詔を受けた額田王等の秘話を満載する、俳人初めての万葉集研究。平成22年刊/2,190円。お求めの際は、筆者までご連絡ください。  

【予告】第50回現代俳句講座 |「昭和百年 俳句はどこへ向かうのか」

「現代俳句」誌において企画した、『私が推す「現代俳句」五⼈五句/協会役員アンケート』の結果を踏まえ、⾒えてきた現代俳句の姿。

その総括とそれを踏まえての俳句の「現在位置」、そして「未来」を考えていきます。

俳句はどうなっていくのか、AIとの共存は出来るのか?

ディスカッションを通じて皆様もご⼀緒に想像してみませんか


【パネラー】

筑紫磐井×神野紗希×柳生正名


2025年11月24日(月・祭日)

13時30分~16時45分(受付は13時より)


◇会場

ゆいの森あらかわ「ゆいの森ホール」

東京都荒川区荒川二丁目50番1号

電話 03-3891-4349

都電荒川線「荒川二丁目」徒歩1分

東京都メトロ千代田線「町屋駅」、京成線「町屋駅」徒歩8分

交通アクセス - ゆいの森あらかわ


◇定員

100名(うち荒川区民定員20名。申込順。定員になり次第締め切ります)


主催:一般社団法人現代俳句協会

共催:荒川区



【鑑賞】豊里友行の俳句集の花めぐり38  『夢洗ひ』恩田侑布子句集(2016年刊、角川書店)を再読する 豊里友行

 ころがりし桃の中から東歌

 東歌(あずまうた)は、東国地方の歌の意で、『万葉集』巻14と『古今集』巻20の「東歌」という標題のもとに収められた和歌の総称。

 転がり踊るような桃の様から東歌を萌芽させていく。

 恩田侑布子俳句の本句集『夢洗ひ』全体に拡張高く醸し出されている。


長城に白シャツを上げ授乳せり

 中国では万里の長城が規模的にも歴史的にも圧倒的に巨大で、単に長城と言えば万里の長城のことを指す。この中華人民共和国に存在する城壁の遺跡。その一部はユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録されている。

 この長城の光景のひとつとして白シャツを上げ授乳する母と子がいたのだろう。

 このような旅(吟行)において優れた俳句を成せるのも特筆すべき恩田侑布子俳句の力量で海外詠の俳句に描かれた長城の日常は、すこしずつ移ろい変わりゆく伝統的な風景と変遷においてひょっとしたらもう見ることのできないこの時代の牧歌的に包み込む旧き良き時代として顧みられるかもしれない。


ひたす手に揺るる近江の春夕焼

 「破魔矢抱くわが光陰の芯なれと」「夕焼のほかは背負はず猿田彦」「たをやかに湯舟に待てり菖蒲の刃」「酢牡蠣吸ふ天(てん)の沼(ぬ)矛(ぼこ)のひとしづく」「空渡れよと破魔弓を授かりぬ」など本句集に内包する神々のなす術とさえ感じられるほど拡張高さを持たせた俳句の技量も恩田侑布子俳句の見せ方が、楽曲のように通底しながら川のように流れているからだ。

 近江国(おうみのくに)は、かつての令制国のひとつ。現在の滋賀県全域にあたる。近江といえば、淡水湖。特に,琵琶湖のことを差している。この琵琶湖が丸ごと夕焼けてしまう。そこに手を浸すと水面をゆがめながらゆらゆら指先が魚の泳ぐように揺れている。

 俳句1句が、1枚の芸術的な絵画のように萌芽し、創造されている。


こないとこでなにいうてんねん冬の沼

コピー機の照らす一隅秋(あき)黴(つい)雨(り)

緩和ケア病棟下の青蜥蜴

わが視野の外から外へ冬かもめ


 女性のパンチの効いた関西弁でんな。冬の沼まで、かの男性は、ロマンティクに吼えろ的なドラマを思い描いていたのかもしれません。そこがボケとツッコミになってしまうのも沼るあなただからかもしれない。

 コピー機が稲光の閃光のように隅まで照らし切る。そこにもひとつの物語を創出する。

 癌病棟の緩和ケアの会話は、此処では一切、聴こえてこない。その病棟の外壁に青蜥蜴がサバイバルに生きている。モノに語らせた秀句。

 私の視界の外から外へ冬の鷗(かもめ)は、飛び交う。俳人の五感と想像力は、鷗の声の切れから風を切って飛び交う羽音からさまざまな物語を喚起されるのだろう。恩田侑布子俳句の術は、その想像力から描き出され、丁寧ないにしえのひと葉ひと葉を風に舞わせるように思い描き、現代社会の物語までも多様に創出している。


その他、共鳴句もいただきます。

一人とは冬晴に抱き取られたる

葛湯吹くいづこ向きても神のをり

告げざる愛地にこぼしつつ泉汲む

脚入るるときやはらかし茄子の馬

親と子のえにしを雪に晒しけり

容れてもらふ冬木の洞(ほら)の大いなる

吊し柿こんな終りもあるかしら

冬耕の股座(またぐら)に日のありにけり

缶蹴りの鬼の片足夕ざくら

あめつちは一枚貝よ大昼寝

藤房のつめたさ何も願はざる

驟雨いま葉音となれり吾(あ)も茂る

風狂をわれと競へや山蚕蛾

子かまきり早や草色に身をあづけ

深泥池(みぞろがいけ)に精霊ばつた貌小(ち)さし

どろ沼の肌理こまやかに冬来る

蟷螂の卵塊を抱き枯れゐたり

【連載】現代評論研究:第17回総論・「遷子を通して戦後俳句史を読む」座談会 仲寒蟬編

(投稿日:2011年12月23日)

出席者:筑紫磐井、原雅子、中西夕紀、深谷義紀、仲寒蝉(司会)


4.戦後の生活と遷子について。

 筑紫は当初遷子のことを医師という恵まれた職業環境にあると思っていたが、医師である仲の話や(遷子によく似た)昭和30年代に開業した医師を父に持ったメンバーへのインタビューを総合して、当時の医師の生活は大変ったのではないかと述べる。

 遷子は野沢の旅館を買い取って開業したが、この頃の開業には〈親か連れ合いの一族の支援がない限り独力では不可能であった〉と考え、遷子にとっては父が人助けのために手に入れていた土地家作が役に立ち、〈兄弟共同で開業するというのは合理的な判断だった〉と言う。

 したがって『山国』『雪嶺』では〈魂の抜けたようにしか見えない父〉豊三だが、兄弟(富雄(遷子)、愛次郎)の進学、さらに開業の支援と一族に医師のいない中で家長としての重い責任を果たしたと評価する。

 遷子の親への依存や苦しい生活を表わす作品として次のようなものを挙げる。

 年逝くや四十にして親がかり   22年

 田舎医となりて糊口し冬に入る  23年

 正月も開業医われ金かぞふ    同

 自転車を北風に駆りつつ金ほしや 同

 暮遅き活計に今日も疲れつつ   同

 その上で〈これこそ、ホトトギスの花鳥諷詠とは全く異なる、アララギ的な短歌リアリズムの世界であった。「鶴」的な境涯俳句ではなく、生活リアリズムに出発する(それは今全く評価されていない戦場リアリズムに根を持つものであるが)ことにより、独自の遷子の開業医俳句が生まれた〉と述べる。遷子にとって最大の誤算だったのは、研究者の道を取らなかったことではなくて、病気のため病院を辞めて開業せざるを得なくなり、大学に戻れなくなったこと、と言う。

 さらに当時の開業医の生活を次のように描写する。

 〈(遷子と同様旅館を買い取ったため)入院施設のある小規模な医院は、施設の狭さから医院と家庭は隣接して、公私のない生活の部分もあった。旅館構造を改築したものなので、病院の諸施設と家庭が混ぜんとしていたはずであり、建物の中には家族の個室と病室、看護婦の居室も混じっていたのではないか(昭和30年代は通いの看護婦ではなくて、中学出の女性を看護学校に通わせ資格をとらせて、住み込みであったと思われる)。医師の妻は入院患者の食事を作り、また看護婦たちとガーゼや汚れたシーツを洗濯などもした。そのほかに、毎月の保険請求事務も医師とともに妻が手伝った。当時は手書きで、そろばんを使っていた。『雪嶺』の中に保険事務が溜まったという句があることからも、面倒な仕事が多かった。他のメンバーから開業医の妻の中には過労で肋膜を患った例も報告された。看護婦も、中学を卒業してからすぐ住み込みで働き、看護学校へ通わせてやり、一人前になって患者と結婚するというようなアットホームな例もあった。〉

 〈病院医師と開業医の違いは、患者と患者の家庭が一体となって関係してくる所にある。遷子の俳句の中で、病院勤めの時には見られなかった医師俳句が、戦後開業医の生活で顕著に表れるのもそうした理由である。また、往診をすれば、いやおうもなくその家の様子が見えることもあっただろう。〉


 は無回答。

 中西は終戦後5,6年の期間として次のように言う。

 戦中に肋膜炎を発病し、東大医学部からの派遣で函館の病院の内科医長の職に就くが故郷佐久での開業に踏み切ったことにより大学へは戻れなくなる。

百日紅学問日々に遠ざかる

故郷に住みて無名や梅雨の月

などの句には〈大学研究室を断念したことの悔いが燻っている〉と述べ〈戦争がなければ、肋膜炎にはならず、或いは大学に残れたかもしれないのである〉と指摘する。

 弟愛次郎を誘って開業した後も

四十にして町医老いけり七五三

裏返しせし外套も着馴れけり

という句が示すように〈開業はしたけれど、患者も貧困にあえぎ、治療費も稼げなかった時期なのではないだろうか〉と想像する。

 深谷は〈謂わば無一物で佐久に帰郷したわけであり、決して豊かとは言えないだろうが、それなりの生活(もちろん地域医療の最前線に立つ者として多忙ではあった筈だが)を過ごしていたのではないだろうか〉と述べ、さらに〈農村の貧しさがその作品に色濃く投影されているが、時期を下るにつれ高度経済成長の影響もみて取れる〉と言う。

 は〈句集を年代順に読んでいくと佐久という貧しい田舎の村が町となり市となって行く様子が分る〉と言う。『山国』『雪嶺』には社会性俳句の原動力ともなった貧しさを詠んだ句が散見され、当時の佐久地方で盛んだった養蚕に関する句、自転車で往診する句、スケート(恐らく田んぼに張った氷の上での下駄スケート)やストーブなど寒い地域の生活に関わる句など多くはないが当時の生活を窺わせる句に触れる。


4のまとめ

 筑紫は当時医院を開業すること自体が現在考えるよりずっと大変だったことを強調、遷子の父豊三の家長としての役割や開業間もなくの暮らしの困窮に触れた後、開業医としての生活が地域住民である患者の暮らしへの深い関わりを産み、往診などの医師俳句につながったことを述べる。

 中西はやはり開業間もなくの生活の大変さに触れ、大学での研究を諦めざるを得なかった悔いが尾を引いていたと考える。

 深谷と仲はそういった遷子一家を含む地域全体の貧困が高度経済成長とともになくなっていくことにも触れる。

【新連載】新現代評論研究(第14回)各論:後藤よしみ

★ー3「高柳重信における皇国史観と象徴主義の精神史」―戦前の影響と戦後の変容をめぐって―後藤よしみ


第一章 はじめに

 ある俳句大会後の懇親会でのことである。隣席に座ったある俳句結社の主宰者が、開口一番、「私は高柳重信の句会に出ていたのです」と語り出した。彼が二十歳過ぎの頃の話であり、今から六十年近く前の記憶である。その顔は懐かしさと誇らしさに紅潮していた。高柳重信という存在が、当時の若者たちを強く惹きつけたことを物語る一瞬であった。

 高柳重信は、戦後俳句の革新者として知られるが、その思想形成の根底には、戦前期の皇国史観やフランス象徴主義など、複雑な精神的影響が交錯している。本稿では、俳人としての作品分析に焦点を当てるのではなく、「人間 高柳重信」の精神史に光を当てる。とりわけ、戦前期に受けた皇国史観の影響と、敗戦を契機とした思想的転回、さらには象徴主義との融合による詩的昇華の過程を検討する。

 重信の人生において、思想的・精神的な影響を与えた要素は多岐にわたるが、戦前期に限定すれば、以下の五つが挙げられる。すなわち、①始祖「大宮某」と明治気質の祖父母、②関東大震災と富士山、③宿痾の肺結核、④十五年戦争、⑤フランス象徴主義と皇国史観である。これらのうち、本稿では⑤フランス象徴主義と皇国史観に焦点を絞り、重信がいかにして時代思想の影響を受け、またそれをいかにして乗り越え、自己の思想と表現を形成していったかを追っていく。

 思想や精神は、時代の空気に左右される一方で、個人が自ら掴み取ることもできる。重信は、戦前の皇国史観に深く感化されながらも、戦後においてそれを封印し、新たな詩的世界を構築した。その過程は、単なる思想的変化ではなく、病と死、孤独と闘争を伴う精神の変容であった。本稿は、その遍歴を辿る試みである。


【新連載】口語俳句の可能性について・4  金光 舞

 前稿では、髙田祥聖の指摘する「言い回しによるキャラクター性、関係性の演出」に注目し、口語俳句が単なる口語表現の導入に留まらず、語り手の人間像や声を立ち上げる表現形式であることを検討した。

 〈由緒書きをさーっと読んで梅の花〉では、「さーっと」という副詞が軽やかで人間味あるキャラクターを鮮やかに浮かび上がらせ、几帳面さよりも感性を重んじる語り手の姿勢を書き出していた。

 〈肩こって気疲れかしら林檎に葉〉では、「かしら」という終助詞が独白的で柔らかな声の質感を生み、語り手の親しみやすい人柄と読者との距離の近さを演出していた。

 〈マフラーに顔をうずめる好きと言おう〉では、「好きと言おう」という意思形の口語が、感情の揺れを生々しく伝え、俳句に直接的な人間の声と臨場感をもたらしていた。

 これら三句に共通するのは、口語的な言い回しが「景の描写」を超えて「声の表現」へと俳句を拡張している点である。すなわち、口語俳句は語り手のキャラクターや心の動きを十七音の中に立ち上げ、読者との間に新たな関係を生み出す文学として機能している。

 このことから、口語俳句の意義は単なる現代語化ではなく、俳句における人間の声の再発見であることが明らかになった。

〈声〉を伴う文体として

 堀切克洋『俳句界』(2025年9月号)は、文語と口語の思考の違いを〈世界〉と〈私〉のスペクトルとして論じている。堀切によれば、①話し言葉は実感を語り、必然的に〈もの=世界〉よりも〈こころ=私〉へ傾く。そして話し言葉は〈声〉を伴い、読者にとって「ひとりの人間が直接語りかけている」ように響くという。


 さんしゅゆのはな待ち人を待つどきどき②

 掃除機に床は叱られ夏のくれ③

 紅茶冷ゆ帰省の君は元気そう④


 〈さんしゅゆのはな待ち人を待つどきどき〉先ず季語に注目したい。「さんしゅゆのはな」とは静かな季語である。早春に黄色い小さな花をつける山茱萸は、古くから春を告げる植物として知られてきた。俳句において「花」といえば、桜を筆頭に、美や季節感を象徴する普遍的な存在である。しかし、この句は従来の花=客観的な美の象徴という構図を崩している。確かに山茱萸の花はそこに咲いているのだが、その描写はあくまで簡素で抑制されている。代わりに鮮やかに響いてくるのは「待ち人を待つどきどき」という主体の感情であり、ここにこそこの句の核心がある。

 「どきどき」という擬態語は、俳句の中ではきわめて異質である。従来の俳句が胸高鳴る感情を自然や景物に託して婉曲に表してきたのに対し、この句では感情そのものがむき出しに言葉として置かれている。胸の鼓動を直接に音で表すこの擬態語は、説明ではなく体感の言語化であり、読む者に即座に身体的な共感を呼び起こす。「待ち人を待つ」高揚と不安、その張り詰めた気配が、花の静けさを背景にして強く前景化されるのである。

 ここで重要なのは、この句が「もの」よりも「こころ」に重きを置いている点だ。俳句はしばしば自然や物の姿を描くことに力点を置いてきた。しかしこの句では、花はあくまで背景であり、中心は語り手の心臓の鼓動である。つまり、山茱萸の花がどんな風に咲いているかよりも、花の前で作者がどんな気持ちで待っているかが主題になっている。これは俳句が心をそのまま響かせる文学であることを強く示している。

 そして、「どきどき」という言葉が生み出す魅力のひとつとして挙げられるのは、語り手のキャラクター性である。この句を読むと、私たちは風景を見ているのではなく、まるで隣にいる人物の声を聞いているように感じる。「待ち人を待つどきどき」とは、単なる説明ではなく、胸に手を当てていま私、緊張しているのだとつぶやく声である。その声は飾り気がなく、等身大で、愛らしい。俳句が伝統的に好んできた「余情に託す」表現とは異なり、この句では語り手自身が真正面に登場し、直接語りかけてくるのである。読者はそれに巻き込まれ、他人事としてではなく、自分の胸まで一緒に高鳴ってしまう。

 また、下五に「どきどき」を据えることで、句は音響的にもリズムを跳ねさせる。柔らかな春の花を眺めながら、胸の内では鼓動が速まっている。その内外の対比が、句に生々しい臨場感を与えている。このリズムの高鳴りは、待ち人が現れる直前の高揚をそのまま閉じ込めたかのようであり、読者は一瞬でその人の心臓のリズムを一緒に感じる体験へと誘われる。

 〈さんしゅゆのはな待ち人を待つどきどき〉は、花という伝統的な題材を扱いながらも、その中心をあえて対象の美ではなく主体の心に置いたという点で革新的である。そして、その心は決して抽象的に描かれず、「どきどき」という肉声のような言葉で表されることで、ひとりの人間の存在が鮮やかに立ち上がる。俳句の中で〈声〉がここまで具体的に浮かび上がるのは稀であり、そこに本句の魅力がある。

 つまり、この句は花の句であると同時に人の句である。さんしゅゆの花は美しい。しかしそれ以上に、花の前で心臓を高鳴らせ、待ち人を思い続ける一人の人物が、私たちの前に生き生きと立っている。俳句の本質をものからこころへと引き寄せ、さらにそのこころを肉声として響かせる──ここに、声が立ち上がるのだ。


 〈掃除機に床は叱られ夏のくれ〉この句を目にした瞬間、私たちの前に立ち現れるのは、ありふれた日常の一場面にすぎない。掃除機、床、そして夏の暮れ。特別に美しい風景でもなく、古典的な題材でもない。むしろ取るに足らない日常の断片である。ところが、この句はその取るに足らないはずの場面を、たったひとつの言葉によって驚くほど鮮やかに変貌させる。その言葉こそ「叱られ」である。

 「叱られ」という言い回しは、対象の「床」を擬人化しているように見える。しかしここにあるのは単なる擬人化ではない。これは、掃除機の音と振動に包まれながら感じた作者自身の心理の投影であり、自分の内側の気分が「床は叱られ」と形を変えて外界に響き出した瞬間なのである。つまり、この句の中心は掃除機でも床でもなく、それを眺めつつ「叱られ」と口にしてしまった語り手の心の在り方である。

 ここで注目すべきは、その言葉がいかに直接的に声として響いてくるかだ。「叱られ」と呟くときの声音を想像してみればよい。ちょっと肩をすくめるような、自嘲とユーモアが入り混じった柔らかい声。その声が句の中に確かに刻印されている。伝統俳句が床に掃除機をかけたという事実をただ写生するのだとしたら、この句は掃除機に叱られてしまったよ、と読者に直接語りかける言葉である。ここにこそ堀切克洋が論じる話し言葉の現前性が端的に現れている。俳句の中で、景色や対象を越えてひとりの人間の声が前景化しているのだ。

 さらに魅力的なのは、この〈声〉がもたらす親密さである。「床は叱られ」という表現は、厳密に言えば理屈に合わない。床は叱られるものではない。しかし、だからこそ読者はこれは事実の説明ではなく、作者の気分がそのまま漏れた言葉なのだと気づく。そしてその気分は、どこか愉快で、どこか疲れた日常の手触りを含んでいる。まるで友人が掃除をしながらなんか床に叱られている気分だわと笑い混じりに言うのを隣で聞いているような感覚が生まれる。俳句という詩形の中に、このような親密で会話的な場面が立ち上がるのは、まさに〈声〉の力による。

 また、下五の「夏のくれ」が、この声に独特の余韻を与えている点も見逃せない。夏の夕暮れ、どこか物寂しくもあり、けれども一日の疲れを包み込むような柔らかな時間。その空気の中で「床は叱られ」と呟く声は、単なるユーモアにとどまらず、一種の生活の哀愁や滑稽さをも漂わせる。ここで描かれているのは外界の情景ではなく、生活を生きる人間の心の声そのものである。

 結局のところ、この句は「客観写生」という伝統的な俳句の理念からは大きく逸脱している。だがその逸脱こそが価値なのだ。ここでは、ものの美しさや風景の客観性ではなく、「私の気分」が中心に据えられている。掃除機の轟音の中で、日常の疲れをどこか可笑しみを帯びた形で吐き出す語り手。その人物像が、句を通して生き生きと立ち上がる。そして読者はものを見るのではなく、作者の声を聞くのだ。


 〈紅茶冷ゆ帰省の君は元気そう〉この句の第一印象は、ごく小さな日常の場面にすぎない。テーブルの上に置かれた紅茶が冷えてゆく。何の変哲もない光景である。しかし、その静物描写から後半へと視線が移ると、事態は一気に変わる。「帰省の君は元気そう」。この言葉が発せられることで、句の焦点は風景から人間へ、ものからこころへと劇的にシフトするのだ。

 この「君は元気そう」というフレーズは、伝統的な俳句の感覚からすれば、あまりにも口語的で直截的である。これまで俳句が培ってきた言語感覚は、余情や暗示を重んじ、直接的な感情表現を控えてきた。恋や人間関係を扱うときでさえ、それは花鳥風月の影を通して婉曲に伝えられることが多かった。だが、この句においてはその婉曲の幕が取り払われ、語り手はまるで目の前の相手に語りかけるように、率直に「君は元気そう」と声に出してしまうのである。この〈声〉の現れこそが、句の肝である。

 ここで立ち上がるのは、「帰省の君」と作者のあいだに流れる親密な関係性である。冷めゆく紅茶は時間の経過を象徴しつつ、同時に「君」と過ごすひとときの現実感を裏打ちしている。そしてその場で語られるのは、ただの事実確認のようでありながら、どこか照れを含んだ言葉である「君は元気そう」。これは単なる客観的な観察ではない。むしろ君が元気でいてくれて安心したという心の吐露であり、久しぶりに会えた喜びを遠回しに伝える愛情表現でもある。つまりこの句は、風物の美ではなく、人と人とが再会する瞬間の感情を、言葉の肌触りそのままに提示しているのだ。

 そして、この〈声〉の力は読者にも直接及ぶ。私たちは句を読むとき、あたかも語り手の隣に座り、その会話を傍らで耳にしているような感覚を覚える。紅茶の湯気がもう消えかけているテーブルを前にして、「君は元気そう」と語る声がこちらにまで届く。そのとき読者は、ただ景色を鑑賞するのではなく、人間関係の場に居合わせる傍聴者となる。俳句が一人の人間の声を生々しく響かせることによって、詩形の閉じた世界から読者を巻き込む「場」が創出されるのである。

 また、この句の巧みさは、静物と人間描写の対照にもある。「紅茶冷ゆ」という静かな観察で始まるからこそ、そのあとに続く「君は元気そう」という口語的で親密なフレーズが際立つ。紅茶の冷えゆく時間の中に、語り手と君との関係性がくっきりと見えてくる。この対照は、まるでクラシックな俳句的要素と、現代的な口語俳句の要素が同居し、せめぎ合う場である。その緊張こそが句を鮮やかに輝かせている。

 要するに、この作品はものを描く俳句の伝統を踏まえつつ、最終的にはこころへと舵を切る。その舵の切り方は驚くほど自然で、しかも読者にとって強い親密感を生み出す。ここには帰省した君という特定の相手がいて、その相手に元気そうだねと語りかける一人の人間がいる。その人間の声が確かに聞こえてくる。それがこの句最大の魅力である。俳句という形式の中で、人の声がこんなにも生々しく立ち上がり、読者に直接届く。その感動を私たちは「関係性の詩」と呼んでもよいだろう。

 これらの句が示すのは、口語俳句において「世界」が最終的に「こころ」の表出へと収斂していくということだ。そこに浮かぶのは詠まれた対象そのものではなく、それを語る人間の気分や声である。そしてその声は、俳句を単なる描写の器から「人間の生の断片を語る場所」へと変えている。


①『俳句界2025年9月号特集 文語・口語の思考』(2025) 寄稿:堀切克洋 40-43頁を参照

②『ふつうの未来』(2022) 著:越智友亮 76頁より引用

③『ふつうの未来』(2022) 著:越智友亮 90頁より引用

④『ふつうの未来』(2022) 著:越智友亮 95頁より引用

【連載】現代評論研究:第17回各論―テーマ:「風」その他― 藤田踏青、土肥あき子、飯田冬眞、堺谷真人、岡村知昭、しなだしん、筑紫磐井、北川美美、深谷義紀、吉村毬子 

(投稿日:2011年12月23日)

★―1近木圭之介の句/藤田踏青

 己の影 風にめくれもしない

 平成17年の圭之介93歳の作品である。凍てついた地面に貼りついた己の影をじっと見つめる作者の姿がそこにある。その影は最晩年のもう動かしようのない己の人生そのものを示唆しているのであろう。影とは原像に対する二次的存在である故に、変化の源である風さへその影を動かす力はないと言えば身も蓋もない話となる。やはり影とはその人の可能性や生きられなかった面を象徴しており、その否定的な意味合い故に人間の自我に陰翳を与える立体的な存在なのではないか。ユングの述べた「影を自分自身の否定的側面、欠如側面と意識し、影を自我に統合することが自己実現の道である」の境地に達するにはもう体力も時間もあまり残されていなかったのであろう。

 己れは己れへ消えるため 風むきえらぶ   平成19年作

 おのれの風よ。今の笑いも昔のものよ    平成19年作

 今という風 己れにあり生きる       平成19年作

 風と一体化して風と共に消え去って行く己れという存在を冷静に視つめつつ、圭之介は平成21年に97歳で没した。

 人だか風だか渦を巻き一さいが過ぎ去る   昭和31年作  注①

 冬木というものが躯のなか風ふく      昭和38年作  注①

 私の眼が入って行くのは風のおく      昭和59年作  注①

 小さな驕り身に溜る風にふかれる      昭和60年作  注①

 風という存在を自我の内部に見い出すという事は、その流動的な不安定性を示すとともに、受動的な対応に身を委ねていることでもある。また各作品に於いては、視覚や触覚が意識としての風によって攪乱され溶解されてゆく経過の中で、無時間性というものに至っている。風とは人生そのものかもしれない。

 月夜の石に中也の風の詩刻まれたまま   昭和58年作  注①

 山口遊歩の折、中原中也の詩碑「これが私の故里だ。さやかにも風も吹いている・・・」(注②)の風に立つ、との前書きのある句である。この中也の風も人生への問いかけであり、それを圭之介自身に投影しているかの如くである。ちなみにこの詩碑は小林秀雄の筆により山口県湯田温泉の高田公園に建っており、同公園内には山頭火の句碑「ほろほろ酔うて木の葉ふる」も建っている。山頭火が一時、湯田温泉に住んでいた折には中也は既に亡くなっていたが、中也の弟・中原呉郎とは詩人の会などで昵懇となり、次第に呉郎は山頭火に心酔してゆく。また呉郎の母フク等を含め中原家の人々に山頭火は暖かく受け入れられていたようで、中原家に泊まり込んだり、家族と共に記念写真を撮ったりもしている。そんな山頭火であったが、再び漂泊の思いを風が運んで来たのであろう。山頭火晩年の姿を圭之介は下記の様に冷徹に捉えていた。

 風 狂気匂う背   (山頭火晩年)  平成3年作


注①「ケイノスケ句抄」 層雲社 昭和61年刊

注②

<帰郷>跋   中原中也

これが私の故里だ

さやかにも風も吹いている

  心置きなく泣かれよと

  年増婦の低い声もする

あゝ おまへはなにをして来たのだと・・・・・・

吹き来る風が私に云ふ


★―2稲垣きくのの句/土肥あき子

 渦潮の風の岬の薄羽織 『冬濤以後』所収

 渦潮は年中見られるものと思っていたが、春の彼岸の頃は一年のなかでももっとも干満の差が大きく、見事な大渦ができるため、「観潮」「渦潮」は春の季語となっている。荒々しい自然を前にした、薄羽織は風をはらみ、まるで岬の上で羽ばたいているような風情である。

 きくのの第三句集『冬濤以後』には連作が多くみられるが、その冒頭に登場するのが掲句を含んだ渦潮作品である。昭和42年、鳴門と前書された26句からなる作品には

 渦潮に呑まれし蝶か以後現れず

 渦潮に生きる鵜なれば気も荒し

と細やかな視線に裏打ちされたやさしく、あるいは力強い句が並び、また

 観潮船揺れてよろけて気はたしか

といった、歯切れ良いユニークな句も紛れている。


 きくのは前年に大切な人を亡くしている。その後、住居を移し、心機一転を考えながらも、身も心もあやうい時期を経ての鳴門吟行であった。

 まざまざと覗く渦潮地獄なり

 すさまじい轟音とたて奈落のような渦潮を目の当たりにして、恐怖を感じながらも、その偉大なる自然現象から目を離せないきくのがいる。

 そしてそれは、船上で足元を掬われるように揺れたことによって、一転して自らの関心がしっかりと過去から解放され、確かにひとりの人間としての自分が、現実の世界に生きていることに気づかされたのだ。

 よろけた足を踏み出す先は、新しい恋への一歩なのかもしれない。


★―4齋藤玄の句/飯田冬眞

 花山椒みな吹かれみなかたちあり

 昭和52年作。第5句集『雁道』(*1)所収。

 掲句は風そのものを詠んだ句ではない。山椒の黄色い花が風に吹かれると、一瞬だが花々は形を失って黄色の塊だけに見える。だが、風が止むとまた花のひとつ一つの形が見えてくる。〈みな吹かれ〉でいっせいにそよいでいる山椒の花の群れた姿を描き、〈みなかたちあり〉と抑えたことで、〈花山椒〉の細かな花ひとつ一つに個性らしきものすら感じ取っている玄の視線を読み取ることができる。

 深読みをするならば、人は「流行」や「風潮」に吹かれるとき、山椒の花のように一斉になびくものである。しかし、風が収まれば、また普段の顔を取り戻して、ひとり一人の個性を示していく。自然界の現象を写しているように見えながら、そうした人間心理の暗喩としても読めてくる。強度のある句。こうした強度のある句の源流を探るとき、思い出される句がある。

 阿羅漢のつくる野分や切通   昭和17年作『飛雪』

 昭和18年、齋藤玄は石川桂郎にすすめられて「鶴」に入会、石田波郷に師事した。初投句で「鶴」2月号の巻頭を飾ったのが、この〈阿羅漢の〉の句。その後、石田波郷が9月に応召するまでに玄は、8回投句し、うち4回が巻頭になったという。(*2)

この句はうまい句ではない。叙法などどちらかといえば下手糞だ。……が叙法が下手でも粗野でも何でもこの句はがつちりとおさまつて了つて、もはや一言の抜差もならぬ蕭条たる風景が現出している。

と、波郷は〈阿羅漢の〉の句を絶賛した。ことに「句の末に至つて益々緊つてくる<や>のひゞきは誠に強大である。俳句の斯かる<ひゞき>といふものを現代の俳人は余りにも忘れすぎている。」と俳句の《ひゞき》を高く評価する。

 句の成立過程をたどるとすればこうだ。山を切り開いて通した路を野分が吹き抜けていく。前方には阿羅漢の石像が立ち並んでいた。そうか、この強い風は阿羅漢たちがつくり、吹かせているものに違いない。そうした作者の発見と断定が、〈阿羅漢のつくる野分〉という表現を生み出したのだろう。作者の断定を中七〈や〉で切り、下五を景物〈切通〉で抑える。韻文精神徹底を説いた『風切』時代の波郷の主張を補完するような作品として、この句は「鶴」の巻頭を飾り、波郷門下に何がしかの影響を与えた。しかし、今となってみると波郷の言うとおり「うまい句」ではない。無機物を作中主体に据えて、その動作や意思によって眼前の景物が現出したという擬人化の手法は、今では新しいものではなく、むしろ古典的ですらある。戦後俳句が終わった後に俳句を始めた現代の我々にとってみれば、ある傾向を想起させる俳句でしかない。

 そこには、掲句のような風景を通して人間の普遍に到達するような強度は持ち合わせてはいない。だが、技法や型から自由になり、凝視と独白によって普遍に達する道を探った玄の晩年の句群は、〈阿羅漢の〉の句に代表される古格との格闘から生み出されたことを確認しておきたい。


*1 第5句集『雁道』 昭和54年永田書房刊 『齋藤玄全句集』 昭和61年 永田書房刊 所載 

*2  細川加賀 「玄の一句」 『俳句』昭和55年8月号所収 角川書店刊



★―5堀葦男の句/堺谷真人

 蟹生まる諸樹(もろき)うなずく瀬のほとり

 『山姿水情』(1981年)所収の句。3年後、『朝空』に再録されたときに「うなずく」が「うなづく」に改められている。

 山深い渓谷。明るい瀬々には潺湲たる水の音がひびく。そんな浅瀬のほとり、湿った土の上に小さな沢蟹がひょっこりと姿を現した。その甲羅は柔らかく、か弱い。さやさやと吹く風の中、新緑をまとった木々は互いにうんうんと頷きあうようにゆれている。まるでこの幼い生命をうべない、見守る先輩たちのように。

 湿潤な日本の気候風土には多様な生物相が息づいている。国土の約7割が緑に覆われた先進国など世界のどこにもない。ゆたかな樹木と土壌によって高い保水力を備えた日本の山々はそれ自体がとてつもない貯水量を誇るダムといってよいのだ。

 葦男の見た沢蟹はそのような環境を象徴する生き物であった。風にゆれる諸樹とは「多くの木々」であると同時にまた「さまざまな種類の木々」でもあるに違いない。

 縄より窶(やつ)れて竜巻あそぶ砂礫の涯  『火づくり』

 かつてメキシコの荒ぶる竜巻に挑んだ葦男が、今は日本の新緑の木々をやさしく頷かせるそよ風に目を細めている。これら二つの作品を並べて読むとき、彼我の風土の気の遠くなるような懸隔に改めて気づかされるのである。


★―8青玄系作家の一句/岡村知昭

 おろんおろんと風来た 手紙焼き捨てた    坂口芙美子

 作者は1964年(昭和39)に掲出句を含めた30句によって青玄新人賞を受賞。多彩なオノマトペを駆使した作品の数々は、「青玄」が進めた「俳句現代派」運動が生み出した作家の中にあっても異彩を放っており、「音楽性を採り入れた話し言葉とオノマトペ使用によって、未開拓の世界へ果敢に切り込んでいった」(森武司『青春俳句の60人』より)彼女の作風は、口語・現代語使用のあり方を見ていく上において欠かすことのできない存在である。オノマトペ使用の作品についてはまた機会を改めて紹介したい。

 たとえば、今をときめくアイドルグループが「風が強く吹いている」と唄うとき、聞き手の脳裏では「ビュービュー」とか「ごうごう」といった強風にふさわしい音のオノマトペが、これから訪れるであろう困難の数々とそれに立ち向かう決意とが思い浮かんでいることだろう。「そよ風」という言葉が出てきたとき、脳裏には柔らかさと温かさとを兼ね備えた風が肌に当たるときの心地よさ、また風とともにもたらされる柔らかな陽射しといった穏やかな空間がたちまちに浮かび上がってくることだろう。では1960年代の女性の手による掲出句においてはどのような風が、空間が浮かび上がってくるのだろうか。

 この一句においてのオノマトペとして選ばれた「おろんおろん」、まず並大抵の風のありようではなさそうなのはたちまちに想像がつくのだが、さらにただごとではない雰囲気を醸し出しているのが「風来た」との措辞である。確かに風はいきなりどこかから自分のもとへ訪れてくるものではあるのだが、風が自分のもとへ「来た」と見立てる、ありがちとも思える擬人法であるにもかかわらず、掲出句においては女性が感じる不安や恐れに対する隠喩的な役割を帯びた物象として立ち現われている。肌触りもまず気持ちいいものではなさそうである。そう「おろんおろん」は風の音の響きでもなければ風の温かさ冷たさを表したのではない、自らが迎えている危機のありようを示す存在なのだ。

 そんな「おろんおろん」と来る風を受け止めるひとりの女性(とひとまず見ておく)の足元では、かつて自分あてに届いた手紙がすっかり焼け焦げて、まもなく灰となるのである。「手紙を焼く」という行為からは誰かとの関係を断ち切ろうとする意思は十分にうかがえるし、女性ともなれば恋人との別れの一場面と想像するのは正直安易すぎるきらいもある。だが一方においてこの女性は、自分が誰かの「手紙焼き捨てた」事実に対してどこか現実感を感じていないところも見受けられる。「来た」「焼き捨てた」との末尾のT音の連打は、風の訪れと誰かとの関係を断ち切る決意の訪れとの取り合わせを確かなものとして形づくり、そのどちらに対しても心からのおののきを感じずにはいられない、ひとりの女性の姿をまぎれもなく写しだしているのである。

 貝殻に風棲む わたしのてのひらで

 風が聞いてる ねぎ刻む音 一つの音

 掲出句と同じく新人賞受賞の30句から風が登場する2句を引いてみた。貝殻に潜む風を感じたり、家事に励む姿を風が覗いているかのように感じたりというのはどこかモチーフとしてはありがちかもしれないが、風棲む貝殻は手のひらにあるとの見立ては、今このとき風は自らの手の中にある、風は自らのものとしてあるとの喜びにつながっているし、風に「ねぎ刻む音」を聞かれている彼女はその代わりに風の音を「一つの音」として聞きながら風と対峙しているかのようである。自らに吹く風を表すのに「おろんおろん」とのオノマトペを手に入れたこの作者は、もしかしたら自分で意識していないうちに風という存在に対して、どこか原始的な生命のうごめきを感じてしまっていたのかもしれない、風は「強く吹いている」ものではなく、「風は強く生きている」ものなのだと。


★―9上田五千石の句/しなだしん

 凍鶴の景をくづさず足替ふる   五千石

第三句集『琥珀』所収(*1)。昭和五十七年作。

凍鶴の凛とした情景を捉えた句。

     ◆

 凍鶴のいる景色はそれだけで美しい。原野、もしくは雪原。棒のごとくに動かない鶴。

 その鶴に対峙してじっと見つめていると、微動だにしないように見えていた鶴が、脚を組み替えた。それはあたかも周りの景色に馴染んでいて、その動作自体が幻だったかのように思える。

 掲句はその情景を比喩に頼ることなく、詠み当てている。「凍鶴の景」は、凍鶴が、という意味合いでも読めるが、凍鶴の居る全体の景色を読み手に把握させることにも成功している。

     ◆

 今回は「風」というテーマだが、実はこの句には「風」ということばは出現していない。

 風は目に見えないもの。頬などに風を感じるように、身体で風の存在を認識したり、落葉が吹かれるなどの風が引き起こす現象によって人はそれと理解する。

 人は古来からこの風を、神のように敬い、時に悪魔の使者のように恐れもして暮らし、季節ごとに風に名を付け語り継いできた。無風という状態でも実は風は確実に在る。この風、大気の流れが無ければ、人間は生きられないのだから。

     ◆

 掲句には「風」は吹いていない、と読むのもひとつだが、花鳥諷詠の心持ちでこの句に対するとき、鶴が脚を組み替えたのは、目に見えないが、鶴に吹いた一陣の風のせいだったのではないかとも思えてくる。


*1 『琥珀』 平成四年八月二十七日、角川書店刊


★―10楠本憲吉の句/筑紫磐井

 蘭は絃、火焔樹は管、風は奏者

 曇り日の風の諜者に薔薇の私語

 「風」の句と言うとこのような観念的な句にこそ憲吉の特色があるように思われる。松風や春風のような俳人好む風とはいっぷう違う「風」だ。しかし残念ながら、この2句とも前回の「鳥」で取り上げてしまったので、舞台裏が見えすぎてしまう。そこで、風に縁のある(鳥にも縁があるが)飛行機を取り上げて見る。

 翼重たくジャンボジェット機も花冷ゆる

 「いやな渡世」雲上を航く梅雨の航

 第1句は昭和50年。『方壺集』より。流行に敏感な憲吉らしく、ジャンボジェット機を取り上げた極めて初期の句ではないかと思う(昭和45年7月に日航で就航している)が、これは素材だけが新しく、内容的に憲吉らしさがそれほど出ているとは思えない。

 これに比べて第2句はいかにも憲吉らしい。昭和51年の作。「いやな渡世」は勝新太郎主演の『座頭市』(昭和37年第1作、40年代にブームになる)で語られるセリフだが、相変わらずそのパロディ。憲吉自身の俳人ともタレントともつかぬ行き方は確かに「いやな渡世」というべきかもしれない。俳人の中の『座頭市』とは、カッコつけたがり屋の憲吉のポーズのようである。

     *

 さてこの「戦後俳句を読む」を始めるにあたり、旧知の俳誌「都市」主宰の中西夕紀氏に参加を勧め、桂信子を論ずると言うことで了解をもらったのだが、都合により「詩客」への執筆は辞退された。主宰誌の編集が忙しすぎたからだ。ただその時の約束は、しばらくして「都市」で桂信子論の連載を始めたから、約束の半分は果たされたとみてよいだろう。「戦後俳句を読む」はどこで行ってもらってもよいのだ。

 その中西氏から、私の取り上げている楠本憲吉の批判が来る。憲吉と桂信子は日野草城門のきょうだい弟子であり、そこで私の勧めで楠本憲吉全句集を買って読んでみたのだが驚いたらしい。憲吉の句は男には面白いかもしれないが、まったく女性を馬鹿にしており、女の敵である、というのである。例えばこんな句。

 呼べど応えぬひとまた殖やし夏去りぬ

 夏靴素直に僕を導く逢うために

 風花やいづれ擁かるる女の身

 しかしその後、新潟から出ている「喜怒哀楽」と言う雑誌で中西氏は3回にわたって「クスケン」の俳句鑑賞を連載、編集部によると「毎回大反響」とか。この3句も丁寧に鑑賞に取り上げていた。最終回では、「男の恋歌を長年詠ませた正体を、ダンディズムと言う人もいる。クスケン亡き後、女より、男にもてているのではなかろうか。」と結んでいる。どうやらクスケン俳句は人を元気にするらしい(それも私などより上の世代)。私の僻目でいえば、また楠本憲吉ファンが増えたのではないかと思うのである。


★―12三橋敏雄の句/北川美美

 新聞紙すつくと立ちて飛ぶ場末

 この句が作られたのは昭和33(1958)年(『まぼろしの鱶』収録)なので今から53年前になる。『名句の条件』(アサヒグラフ増刊・昭和63年7月20日号)での楠本憲吉との対談の中で敏雄自身、「名句の決定は最低100年かかる」と定言している。敏雄の設定する殿堂入りまであと約50年。中間地点として考証してみたい。

 まず「場末」とういう舞台設定。一昨年のあるシンポジウムで司会進行役がこの句の「場末」を「バマツ」と声にしていて驚いた。シャープ電子辞書の中の『やっぱり読めそうで読めない漢字』には、「場末」が入っていた。現在、使用頻度が少ない言葉である可能性があり、「バマツ」とは、どういう場所を想像していたのだろう。「場末」といえば、「スナック」。「酒場」の形容で用いられる例をみる。「場末」は、街外れ、末枯れの意味と同時に「落ちぶれた」「恨みがましい」感もあり、悲しいエレジーが伝わる。俳諧味は充分である。この句の「場末」には世紀末のような緊張感や危機感がありハードボイルド、暗黒なイメージを抱く。どこからか、歌謡曲(@美空ひばり・ちあきなおみ)、シャンソン(@エディット・ピアフ)、ジャズ(@マイルス・デイビス)が聴こえてきそうだ。やはり「バスエ」と読みたい。絶望感漂う場所でありながら、どこか摑み切れない言葉であることも確かだ。

 続いて主役である「新聞紙」。捨ててあるものと仮定できる。金成日の死去を掲げる新聞各紙、「われわれは99%」のデモを報じるNew York Times、盗聴疑惑で廃刊に追い込まれたThe News of the World 等々、銘柄にこだわる必要はないだろう。一方的かつ不特定多数の受け手へ向けての情報を印字したエコロジカルな紙は、世界のどの末枯れた街角にも存在する。身近なマスメディアを生き物のように俳句の中で立ち上がらせたことに驚きが生まれた。まさしく詩の「身体性」である。

 社会を垣間見ることのできる紙がすっくと立ち上り飛んでいく。「場末」にも関わらず、「すくと立つ」が妙に健康的である。末枯れた路地からクラーク・ジョセフ・ケント(@スーパーマン)が立ち上がって飛んでいく、あるいは、紙に代わるインターネット、電子書籍の普及予言にも思える。そして実際に「新聞紙」が生き物のように「すく」と立てば、それは恐ろしい光景である。新聞紙を「捨てられるもの」と考えれば、男達を震撼させた映画・『危険な情事』の中の不倫相手である女が復讐に行くサイコサスペンスすらも連想する。

 戦争が廊下の奥に立つてゐた 白泉

 敏雄は「戦争」でない主体(「新聞紙」)を無季(「場末」)の中で「立たせた」ということか。白泉の有名句に多少の糸口を発見したような気休めを覚える。

 新聞紙は風を受けなければ、立ち上がることもなければ飛んでいかない。それにふさわしい時期、すなわち年末、冬のイメージがある。場末の街に見るのは、枯葉、ゴミなどが冷却するアスファルトに吸い付きながら這うように吹かれる風景である。新聞紙が風を受けて本当に立ち上がるのだろうか。しかし立つと思えるのである。リアルだと読み手に思わせる。意表をついた取り合せが説得力をもつのは、「新聞紙」に置き換えた社会という現場に対する批判精神があるからだろう。

 2011年の日本の場末にすっくと立つのは戦争でも新聞でもなくブルーシートである。53年経過する句の着地点はどこなのか。読者を混沌と惑わせることが敏雄の狙いなのだろうか。


★―13成田千空の句/深谷義紀

 田仕舞ひの後杳として北吹けり

 千空作品の中で最も多い風の季語は「北風」である。秋風(およびその派生季語)はまだしも、春や夏の風の作例は極めて少ない。津軽の五所川原に生きた千空だから、当然の結果と言えるかもしれない。

 さらに、北風を季語とする作品のうち相当数(8句を数える)は第1句集「地霊」所収のものであり、それ以降の句集では各々数句のみである。帰農生活も経験し、また居住環境も厳しいものがあった時代において「北風」は生命や生活の安寧を脅かすものとして身近に意識せざるをえないものだったのだろうが、インフラを含め生活環境が改善していくに従い、「北風」がもたらす脅威の切迫度が低下していったとみるのは穿ち過ぎだろうか。

 さて、掲出句は第2句集「人日」に所収された作品である。中七の後に切れがあり、米の収穫が終わった後、ある男(或いは一家)の行方が知れなくなったことと冷たく吹きつける「北(風)」との取り合わせから成る句である。なぜ行方知れずとなったのか。一家挙げての離農も考えられるが、まず想起したのは出稼ぎに行った男の失踪である。

 かつて、雪に閉ざされる寒冷地の農閑期で、出稼ぎは不可欠だった。そうしなければ、生活が成り立たなかったからである。だが、出稼ぎにはやるせない思いがどうしても付きまとう。家族を置いて都会に働きにいく男たち。一方、農村に残された家族たち。どちらも辛く長い冬を過ごさなければならなかった。また、出稼ぎが契機となって人生が狂い始め、家族の崩壊や離散につながることもあった(注)し、そうした事態が社会問題化したこともある。「出稼ぎがなくても雪国で暮らせるように」と日本列島改造論を唱え、地方での公共事業を大幅に増やしたのは、やはり雪国出身の田中角栄である。

 そうした大盤振る舞いの甲斐もあり、出稼ぎは徐々に姿を消していったという。だが、千空の暮らした津軽地方ではまだ出稼ぎは続いていたのだろう。千空の後の句集には、次のような句もある。

 もの言へば出稼ぎのお父(ど)冬帽子   「白光」

 津軽から出稼ぎが消えたのはいつの頃だったのだろうか。


(注)こうした題材を採り上げた例として、同じ青森県出身の作家三浦哲郎の小説「夜の哀しみ」が挙げられる。



●―14 中村苑子の句  【『水妖詞館』―― あの世とこの世の近代女性精神詩】45.46.47.48/吉村毬子

2014年9月19日金曜日


45 絡み藻に三日生きたる膝がしら

 前回にも「絡み」の句があった。

 41.鐘の音の絡みて震ふ髪を梳く

 41.は髪に絡んだ鐘の音であり、今回の句は、膝がしらに絡んだ藻である。「絡み藻」は、その形状から抜けた女の髪を思わせるので、仮に、41の続編だとすると、鐘の音の絡みついた髪が「膝がしら」に3日間絡んでいるということになる。その状況だけで充分怪談めいているのだが、それだけではない。「に」の格助詞が句意を怪しくさせているのである。助詞が「の」であれば、「絡み藻」は3日経つと「膝がしら」から離れたことになるが、「に」によって、「三日生きたる」は「膝がしら」に掛かってくる。3日経つと「膝がしら」が死んでしまうような読みも浮上してくる。「絡み藻には」と理解し、前者の解釈も成り立つが、「絡み藻」によって、3日間だけ生きた「膝がしら」は、たとえその後死んでいなくとも、生き生きとしていない状態、死んだような状態であることになる。「膝がしら」にとって「絡み藻」は、3日であっても生きた証なのである。「絡み藻」が髪に象徴される女であり、「膝がしら」が男のものであるとすると、艶かしい話となるが、「絡み藻」が女の髪のみであるので、成仏しない女の怨念が絡みつく「水妖」の世界ともとれる。

 もう一漕ぎ 義足の指に藻を噛ませ      鷹女『羊歯地獄』

 三橋鷹女の句は「義足の指」である。生の足ではなくなった「義足の指」に「藻を噛ませ」ているのである。上五の「もう一漕ぎ」は、その後に一字空白があるけれども、義足の主の動作であろう。鷹女は、義足になった不自由な足でも「もう一漕ぎ」と自身を奮い立たせる。この句を所収する句集『羊歯地獄』の「自序」を思い出さずにはおられない。

  (前略)一句を書くことは 一片の鱗の剥脱である

      一片の鱗の剥脱は 生きてゐることの証だと思ふ

      一片づつ 一片づつ剥脱して全身赤裸となる日の為に

      『生きて 書け―』と心を励ます

 「自序」で誓った言葉そのものの如き一句であるが、苑子の句との共通点がある。それは「藻」の力である。鷹女は、「指に藻を噛ませ」勢い立つ。苑子は、「膝がしら」に「藻」を絡ませ、3日の生命を与える。そして、二人が尊敬する先達の女流俳人、杉田久女も「藻」の力を信じていたようである。

  春潮に流るる藻あり矢の如く       久女『久女句集』

 久女の句は、上五中七の平凡で控えめな表現から、下五の「矢の如く」は意表を突く。当時の女流俳人の多くは、台所俳句と呼ばれる類に傾注していた。(そんな中にあって、〈短夜や乳責り泣く子を須可捨焉乎(ステッチマオカ)〉を発表した竹下しづの女も異才を放ち、久女も「花衣」で取り上げている。)久女の句は、昭和4~10年の間の作品であり、自ら創刊し、僅か5号で、昭和7年に廃刊してしまった「花衣」時代に該当するため、久女が俳句に最も奮起していた頃の作品である。「矢」のごとき「藻」は自分自身であろう。〈久女よ。自らの足もとをたゞ一心に耕せ。茨の道を歩め。貧しくとも魂に宝石をちりばめよ。〉の辞を掲げ創刊した頃なのか、〈私もまだへ力足らず二人の子の母としても、又滞りがちの家庭の事情をも、も少し忠実にして見たく存じて居ります。〉と廃刊の辞を述べた頃なのかは判然としないが、久女は、「花衣」廃刊後も俳誌「かりたご」(清原枴道主宰、朝鮮釜山発行)の女性雑詠選者を続けており、昭和8年9月号の文章を抜粋してみる。 

いつ迄も無自覚に類型的な内容表現にのみ安心してゐるべきではなく、漫然と男性に模倣追従してゐるばかりでは駄目だと思ひます。女流という自覚の上に立って、自らのよき句境涯をきりひらいてゆく努力勉強がぜひ必要です。

 久女の句が「花衣」廃刊の頃の作品で〈春潮に流されてしまう藻〉を詠んだとしても、その「藻」は「矢の如く」流れの先へ直進していくのである。しかしながら、「花衣」廃刊の辞が、たとえ語られる通りであれ、久女ほどの向日性を以てしても、女性が一誌を発行し続けることは難しかったのだ。

 昭和29年、8名の発起人(加藤知世子・鈴木真砂女・池上不二子・桂信子・細見綾子・横山房子・野澤節子・殿村菟絲子)によって創刊された超結社誌「女性俳句」の創刊理由は、家を空けることのできない全国の女流俳人達の勉強会と懇親のためであったと、創刊後ほどなく入会した苑子から聴いた。平成4年に入会した私は、その時初めて女流俳句の歴史というものを考えた。家事も便利になり、交通機関の発達とともに女性が全国どこへでも出掛けられる時代になり、女性の社会進出とともに、本来の目的のひとつを果たせられたことも終刊(平成11年)の理由であったらしい。

 冒頭に述べたように「藻」は、女の髪に似ている。日輪の日射しを透かして水中にゆらゆらと泳ぐ様は、美しく優雅でさえある。そして、藻刈りをしなければならないほど繁茂する生命力をも持つ。嫋やかで強靭ともいえる「藻」に、自身をなぞらえて女流俳人は詠う。

 久女は凛然と、鷹女は剛直に、そして苑子は妖艶な深い撓りを持って……。

  くらがりに藻の匂ひして生身魂     苑子『花隠れ』吟遊以後


46 くびられて山鴉天下真赤なり

 あれは、5年前の苑子の忌日(1月5日)のことである。私は、俳人の連れ合いと冨士霊園へ墓参し、墓を立ち去ろうとした時である。私達二人の頭上をすれすれに大きな鴉が行き過ぎた。苑子と重信の墓碑に俳句の精進を誓った直後なだけに、二人の遣いとして、我らの頭上でバサバサと羽音をたてたのではないかと、一羽の鴉が寒風の真冬の空に去ってゆくのを放心状態で視つめていたのである。

 苑子は、鴉が好きだったような気がする。鴉の濡羽色の美しさを語り合ったことがある。彼女はその狡猾さもしきりに語っていたが、嫌悪感というよりも、頭の良さが不思議でならないと言った表情がひどく印象に残っている。

 3.河の終りへ愛を餌食の鴉らと     『水妖詞館』 

 6.鴉いま岬を翔ちて陽の裏へ        〃 

   鴉らよわれも暮色の杉木立      『四季物語』 

   羊歯刈るや羽づかひ荒き山鴉     『花隠れ』「春燈」時代 

(『四季物語』にも所収)

 苑子の鴉の句を掲げてみた。1、2句目は、すでに鑑賞済みのものである。俳句は、物に自己投影する手法が多く摂られるが、苑子の「鴉」は他者であるようだ。しかし、1句目の「鴉らと」や、3句目の「鴉らよわれも」の表記から、同志的なものを感じているようである。「陽の裏へ」翔ち(2句目)、「羽づかひ荒き」(4句目)鴉らに好奇心を持って凝視している様子が伺える。

 苑子は、『四季物語』(昭和54年)刊行以後、「鴉」の句を発表していない。(『四季物語』には、もう一句〈空谿(からだに)を鈍な鴉が啼きわたる〉がある)。『花隠れ』所収の句も「春燈時代」と記されている。高柳重信が長逝したのは昭和58年である。以前〈3.河の終りへ愛を餌食の鴉らと〉の鑑賞で、


 私には、「鴉」らが、重信をはじめとした俳句評論の同人達に感じられて仕方がないのだが……。


と書いた。「鴉」もまた、重信ではないかとの憶測が私にはある。手元にある句会での資料(私が指導を受けていた平成3年~没年の前年12年迄であるが)を探ると、平成7年2月5日東京、駒込の「六義園吟行句会」に出句した〈雪の園人恋ふごとく鴉啼き 苑子〉の一句があるのみである。「園」が「苑」であり、名園の雪の中の苑子に「鴉」の重信が啼いているのか――。

  喪を終へて喪へ生涯の鴉らと   鷹女『羊歯地獄』

 下五が、「鴉らと」置かれ、苑子のように鴉を同志として扱った三橋鷹女の句であるが、上五中七が鷹女らしく意味深長である。この句は、昭和33年に書かれているが、その年「薔薇」を発展的に解消した同人誌「俳句評論」が創刊された。鷹女は、昭和28年に高柳重信に誘われて「薔薇」の同人になっていた。(昭和15年「紺」を退会して以来の俳誌参加であった。)在籍8年の「春燈」を辞して、高柳重信とともに発行所を立ちあげた苑子は勿論であるが、鷹女にとってもまた、新たなる俳句道への覚悟の気持ちの引き締めがあった筈である。

 「喪を終へて」は、前年母を亡くしたことや、10年余りも時を経た終戦なども考えられるが、その次の「喪へ」と続くことで、「喪」は俳句を指しているのではないか。俳句革新を懸けた気鋭の仲間達と茨の道を進んで行くことが、「喪へ生涯の鴉らと」に込められていると思われて仕方がない。句集に収められた次の句もまた感慨深い。

  濤狂ふ濤のゆくてに渚無く    鷹女『羊歯地獄』

 さて、苑子の掲句であるが、他の鴉の句に比べると唯事ではない事が起こっている。以前〈36.狂ひ泣きして熟練の鸚鵡をくびる〉は自らの手で鸚鵡をくびる句であったが、今回は、山鴉が「くびられて」いるのを見ているのである。人は、自分が無惨な行為に堕ちていっている時は、無我夢中であるが、見る側に立った場合、沈着冷静なだけにその無惨さに恐れをなすことがある。「天下真赤なり」という状況はその色彩から鮮血さえもイメージすることができよう。一日が終わる時刻、日輪は沈み、西天を、天が下を血の色に染め上げる。くびられた鴉が西方浄土を彷彿とさせる真赤な西の空にうなだれているのか――。「なり」の言い切りが、客観的な語法を強めながら、山鴉と山鴉を包み囲む山々の黒さと、真赤な夕焼けのコントラストによる、鮮やかな色彩を、非情な美しさとして浮かびあがらせてくるのである。

 因みに女流俳人の「鴉・烏の句」を拾ってみた。

  人を人と思はぬ浜の寒鴉          鈴木真砂女 

  低く飛ぶ寒鴉敵なく味方なし        津田清子 

  塔古るぶ気触れの烏棲みつきぬ       福田葉子 

  万のこと恃みし愚か梅雨鴉         稲垣きくの 

  熟柿つつく鴉が腐肉つつくかに       橋本多佳子

 水鳥や鶯、雲雀などよりも、鴉の声と姿は敬遠される特異な存在なのではないか。

 自己の心情を詠う句にも、鴉は独特の位置を占めているようだ。真砂女の境涯、清子の個性、葉子の幻妖さ、きくのの人生等を感得できる。多佳子の句は、没年の昭和38年(64歳)のものであるが、衰えゆく身体と精神を見据えて吐露した呟きが鬼気迫る。

 歴代の有季定型作品には、生活の一端や背景を描く作品が見受けられたが、情緒のある美しい作品を掲げてみる。

   初雪や鴉の色の狂ふほど          加賀千代女 

   身を透明に春の鴉が歩き出す        柴田白葉女

 江戸時代、各務支考に師事し、画も熟(こな)す千代女ならではの黒い鴉と、一面の雪景色の純白が、鴉の濡羽色を狂うほどに際立たせている。白葉女の句の、「透明に」は、「春の鴉」が見事に設えられていて繊細な明るさが醸し出されている。

 柴田白葉女は、いわれなき不幸な殺人事件で非業の死を遂げている(昭和59年、77歳)。江戸時代、一般女性には遠かった俳句を千代女や遊女・歌川らが残し、近代の久女やしずの女、4Tたちが切り開き、継承され花開いた現代女性俳句の歴史に残されたこの奇怪な事件は、誠に悲しむべきことである。(栗林浩著『新・俳人探訪』で詳細に記されている。)前回記述した「女性俳句」や「俳句女園」を創刊し、女流俳句の発展に努めた、名の知れ渡った女性であるが故に起こった事件なのである。この21世紀は、女であることが芸術の妨げにならないことを祈るのみである。それはきっと、先達の願いでもある筈だ。

   落日の巨眼の中に凍てし鴉          赤黄男

 冒頭の5年前の苑子・重信の墓参の際の鴉は、その後の苑子忌の墓参の折り再びは訪れてはくれない。一度、7月8日の重信忌に行ってみようかなどと思っている。あの鴉の濡羽色が夏富士ともよく似合いそうである。


47 船霊や風吹けば来る漢たち

   男らの汚れるまへの祭足袋         飯島晴子『寒晴』

 御輿は男性が担ぐものである。(近年は女性の担ぐ姿も見られるが)船も、女性が乗ると海が荒れたりするとして、忌む傾向がある。それは、船霊が女の神とされるからである。漁民の大漁や航海の安全などを願い、男女一対の人形、女の髪、櫛、簪、銭、さいころ、五穀などを船に奉納するが、女の髪が一番古くから伝わっていると云う説がある。命懸けの航海に家族の形見として持って行くという意味もあるらしい。

 前回、〈41.鐘の音の絡みて震ふ髪を梳く〉、〈45.絡み藻に三日生きたる膝がしら〉では、女の髪の妖艶さに関連付けたが、今回の、神事の髪は男たちが崇めるものであろう。

 晴子は、神体や御(お)霊(み)代(しろ)が乗るとされる、御輿を担ぐ前の男達の溌溂とした姿を「足袋」に託し、清々しい男の色気を詠んでいるが、苑子は、航海から帰らなかった男達の静寂且つ清爽な御霊を詠っているようである。中七「風吹けば来る」の寂寥感が、〈28.放蕩や水の上ゆく風の音〉を彷彿とさせる。

 航海の前に、神仏を「船霊」に奉ると、海風に乗って現れる「漢たち」。漁に出掛け、遭難し波に消えた「漢たち」や、戦争の犠牲となり海に散った「漢たち」が、海に囲まれたこの小さな島国を、女たちを、懐しみふわりとやって来るのだ。女の神である「船霊」が、大らかな風にのせて手招いているような神話性があり、御霊を詠んでいるのに妖しさは感じられず、子守唄のような調べさえ持つ。

 高柳重信の句集『日本海軍』もまた、海に散った軍艦やその地名を歌枕として、日本の地霊を悼み、慈しんだ男の子守唄の如き、多行形式の詩である。


        一夜

   二夜と

   三笠やさしき

   魂しづめ             


   夜をこめて

   哭く

   言霊の

   金剛よ


   海彦も

   疊を泳ぐ

   嗚乎

        高千穂

高柳重信『日本海軍』昭和54年(56歳)


 巻末に随筆「富士と高千穂」を加え、〈昭和の子供〉について自身の体験や思を語っているこの句集は、刊行当時、「戦場へ行った者には(とても)書けない(はずだ)。」という意見もあったと聞く。それならば、胸部疾患のため、戦場へ行けなかったからこそ、まとめあげられた、重信晩年の入魂の仕事だったのではないだろうか。(昭和58年没、60歳)

   戦争と女はべつでありたくなし          藤木清子 

   戦死せり三十二枚の歯をそろへ            〃 

   黙禱のしづけさ空にとりまかれ            〃

 藤木清子は伝説の俳人である。生年、出身地も不明である。昭和8年に藤木水南女名で「蘆火」(後藤夜半主宰)に投句し始め、同誌終刊後、「天の川」「京大俳句」などに出句。昭和10年創刊の「旗艦」(日野草城主宰)へ参加し、新興俳句最初の女性として同誌同人となる。昭和15年10月号を最後として俳句から身を引き、その後は不明である。

 3句とも、戦争を詠んでいるものであるが、昭和15年が最後の投句であるため、昭和16年の太平洋戦争開戦から昭和20年の終戦、そして戦後も清子が無事であったならば、掲句の3句よりも過酷な情況にあった訳である。清子は、俳句を書くことを本当に辞めてしまったのだろうか。詩人は、窮極の果て、魂の叫びを詠うものである。富澤赤黄男のように戦場での慟哭や哀絶は綴りようもないが、1句目の毅然とした覚悟、2句目の冷静な怒り、3句目からは、哀切の嘆きの詩を書かずにはおられないという思いが痛切に伝わってくる。清子にはたとえ薄汚れた紙片と言えども、一句でも俳句を書き留めておいて欲しかった。反戦的な内容だと周囲の人々に止められたのか、戦時状況の悪化のために、已むを得ない理由があったのか、誰にも解らない事だが、時代は、一人の貴重な俳人をまた一人失ったのである。

 苑子は、戦死した夫の遺品の句帖を手渡されたことが、俳句を始めた切っ掛けとなった。苑子は、生涯、戦争の句を作らなかった。20年近く前の句会でのことである。


   爪噛んで血の出ぬ八月十五日      広美(毬子)


 私の拙い句を何人かが褒めてくれた。しかし、苑子は選句しなかったので、二次会の席でどう修したら良いのか尋ねると、「修すところは無いと思います。でも私は、戦争の句は作りません。あんなに惨めで屈辱的な思いは二度としたくありません。」―― 静かな口調であったがきっぱりと言った。私なりに、祖父母や父母、俳句教室の先輩達から聞いた話や、映画や小説で感じた思いもあったため、私は苑子の言葉に驚き、落胆した。その様子を見て「あなたに作っていけないとは言っていません。書きたいと思えばお書きなさい。」と笑顔で言ったのであった。現金な私は、(若気の至りである)「はい。作り続けます。私たちの世代が伝えなければならないと思います。」と元気に答えたのである。しかし、その後8月が来るたびに慎重にならざるを得なかった。少なくともこのやり取りが、私に、簡単には戦争の句を作らせない結果となったのである。苑子が選ばなかった拙句は、戦争を知らない世代のひとりよがりで曖昧なだけの句であった。

 苑子は戦争にこだわらず、直接的な表現ではない、もっと遥かな人間愛としての鎮魂詩を書けと教えてくれたような気がする。

 今回の句を、子守唄のようであると先述したが、苑子が女の神である「船霊」となり、遠い処から「漢たち」が引き寄せられて来るような爽やかな艶をも持つ。いつかは、この心境に近付きたいと思っているのだが……。

 研ぎ澄まされた才能を持った藤木清子を女流俳句が失ってしまったことを、さらに、現代の女流俳句をともに築きあげてきた飯島晴子(大正10年生まれ)の自死(平成12年6月、79歳)を無念だと語っていた。平成12年7月の句会後、「吉村さん、私は自死はしないわ。」と呟いてから半年後(平成13年1月、87才)苑子は静かに永眠した。

   しろい昼しろい手紙がこつんと来ぬ           清子 

   白き蛾のゐる一隅へときどきゆく            晴子『蕨手』 

   白地着て己れよりして霞むかな             苑子『花狩』

 

48 はるばると島を発ちゆく花盥

 「花盥」とは美しい言葉であるが、上五中七から受ければ盥舟に花が散り降る中、島を発つということであろうか。盥舟といえば、佐渡ヶ島が有名であるが、佐渡ヶ島とともに芭蕉の『奥の細道』に名を残す、結びの地、〈蛤のふたみにわかれ行く秋ぞ〉と詠われた岐阜の大垣でも観光のひとつになっているそうだ。

荒海や佐渡によこたふ天河               松尾芭蕉『奥の細道』

 芭蕉が、出雲崎から眺めた佐渡を「海の面ほの暗く、島の形彩雲に見え」と感動し、順徳天皇、日蓮上人、世阿弥など遠流された人たちを思い浮かべ、悲痛な流人の境涯として、佐渡の歴史への回想を込めて詠まれた。

 苑子の戦死した新聞記者の夫は、佐渡出身である。以前も、

   22.行きて睡らずいまは母郷に樹と立つ骨

の回で、苑子が佐渡の歴史や文化を愛していたことを書いたが、今回の句に佐渡情話を思い浮かべたのである。佐渡情話は、佐渡おけさを基に浪曲師寿々木米若が脚色し、口演したレコードが売れて有名になった。佐渡の漁師の娘お弁は、越後国柏崎の船大工藤吉と恋仲になったが、佐渡での仕事を終えた藤吉が柏崎へ帰ると、お弁は盥舟に乗って逢いに通った。妻子のある藤吉は、煩わしくなり、お弁の目印にしている常夜灯を消してしまい、お弁は波にのまれ翌朝柏崎の浜に打ち上げられていた。藤吉は罪の深さに自身も海に身を投げて後を追うという話である。

 「花盥」と「はるばると」に、花の盛りの華やかさと春の伸びやかな海と空を思い描く。前句〈47.船霊や風吹けば来る漢たち〉は、海から「来る漢たち」であったが、今回は、「発ちゆく花盥」に女を乗せている様子がうかがえる。満開の花の下、盥舟も女も春陽に舞う花片を浴びながら、島を発つのである。旅人であろうか。「瀬戸の花嫁」という流行歌があったが、佐渡の花嫁なら尚、艶(あで)やかである。佐渡情話のお弁が、花嫁の如き心情で藤吉の元へ毎晩通いつめているその情景こそ、掲句に適うものであろう。お弁は愛しい人へ逢うために「はるばると島を発ちゆく」のだ。小さな盥舟に、小さな己が身と溢れる恋情を乗せて、やがて散りゆく花の中を――。

   濠の菱舟むかしむかしの音きします     加藤知世子『太麻由良』

 佐渡ヶ島を有する新潟県出身の俳人、加藤知世子は、加藤楸邨の妻である。昭和4年、楸邨と結婚後、ともに「馬酔花」で水原秋桜子の選を受け、15年楸邨が「寒雷」を創刊し、同人となる。昭和29年創刊の「女性俳句」発起人の一人である。(明治42年生、昭和61年没、76歳)

   横顔の夫と柱が夕焼けて        知世子『冬萠』 

   稲光り男怒りて額美し            〃   〃 

   夏痩せ始まる夜は「お母さん」売切です    〃 『朱鷺』 

   夫婦友なる刻香りけり机上の柚子       〃 『太麻由良』 

   めをと鳰玉のごとくに身を流す        〃 『菱たがへ』

 夫婦ともに俳人の家庭は、苑子も同じであった。(重信と苑子は入籍はしていなかったが)苑子の場合は、寡婦となってからの後半生25年間をともにしたが、知世子は56年間である。知世子の作品から夫や子を詠んだ句を拾ってみた。2句目は夫とは表記されていないが、同句集に〈怒ることに追はれて夫に夏痩せなし〉があるので楸邨のことであろう。楸邨は怒りっぽかったのだろうか。その2句目の下五「額美し」や、4句目の「夫婦友なる刻」の様子、5句目の瑞々しさ溢れる情愛など、夫婦俳人のひとつの典型が見受けられる。

 苑子は、知世子を慕っていたようであった。私が「女性俳句」へ入会した頃は知世子は亡くなっていたが、その貢献ぶりをよく語っていた。山梨県甲府に「中村苑子俳句教室」で旅吟した際、小淵沢の「加藤楸邨記念館」(平成13年に閉館、資料等は埼玉県桶川市の「さいたま文学館」に引き取られた。)へ足を延ばし、夫婦句碑の知世子の碑を撫でては感慨深げであった。

   落葉松はいつ目ざめても雪降りをり        楸邨 

   寄るや冷えすさるやほのと夢たがへ        知世子

 苑子が「女性俳句」の懇親会で私を紹介してくれた女流俳人がいる。上品で美しいその姿について話す私に苑子も笑顔で相槌を打った。その人は、知世子とともに「女性俳句」創刊時の発起人の一人である、福岡県小倉市出身の横山房子であった。(大正4年生、平成19年没、92歳)

   夕顔の闇よりくらき蚊帳に入る          房子『背後』

 横山房子も夫婦ともに俳人である。房子は昭和10年より「天の川」に投句。吉岡禪寺洞に師事。12年、横山白虹主宰の「自鳴鐘」創刊同人。13年にら白虹と結婚。33年、山口誓子の「天狼」に白虹とともに同人参加。58年、白虹没後「自鳴鐘」主宰継承。

   客たちて主婦にあまたの蚊喰鳥          房子『背後』 

   秋燕駅の時計を子に読ます             〃  〃 

   夫の咳やまず薔薇喰ふ虫憎む            〃 『侶行』 

   夕顔の数の吉兆夫に秘す              〃  〃 

   枯芝に柩の夫を連れ還る              〃 『一揖』

 房子の家族の句も引いてみた。3、4句目の夫を思いやる句々を読むほどに、5句目の夫の死の悲しみが静かに伝わってくる。房子も白虹との夫婦句碑が建立されている。

   梅寂し人を笑はせるときも               白虹 

   欄に尼僧と倚りぬ花菖蒲                房子

 俳人同志の夫婦であり、夫が主宰誌を持つという事の苦労は計り知れない。夫を理解し、夫を立て、客人のお世話をする。主宰誌の同人への気遣いも勿論あったであろう。しかし、家庭の主婦、母としての役目もある。そして何よりも自身の俳人としての仕事がある。知世子も房子も、女流俳句の発展のために「女性俳句」を他の6名の俳人と設立もした。俳句とは無縁の日常生活においては、著名な女流俳人といえど、「○○さんの奥さん」と、ご主人の名で呼ばれることが多い。夫の知名度が高かったとしても、知世子、房子、苑子は、自らの作品が世に出ても、相変わらず「奥さん」と呼ばれることがあったであろう。それでも笑顔で皆にお辞儀を繰り返す日々、心の芯は常に折らずにしっかりと張りつめていたはずだ。苑子が二人に特別な好意を持っていた(ように私には思えた)のは、半世紀に渡り、蔭になり日向になり夫を支えながら、女流俳人としても一家を成した二人に、尊敬に価するものがあったからであろう。

   初泣きや二階の我を夫知らず            知世子『頬杖』 

   白菊や暗闇にても帯むすぶ              〃 『朱鷺』 

   納骨のあとの渇きに蟻地獄             房子『一揖』 

   声出して己はげます石蕗の花             〃  〃

  佐渡へ遠流された世阿弥の『風姿花伝』に、

   家、家にあらず。次ぐをもて家とす。

とある。血縁者が「家」となるのではなく、真に芸を継ぐ者を「家」とする厳しいものだと世阿弥は云う。縁者として主宰誌を継ぐ苑子や房子に残されたものの大きさは、その運命に立たされた者にしか解らない。房子は白虹亡き後の「自鳴鐘」主宰を継承した。苑子は重信亡き後、「俳句評論」を200号まで存続させ、終刊した。苑子に「俳句評論」時代の話は時折り聴いたが、その事については一言も語らなかった。加藤知世子、野澤節子が天上で見守る「女性俳句」は、現代女流俳人に様々な奇跡と軌跡を残し、さらなる女流俳人の躍進を誓い合い、平成11年その幕を閉じた。天上の苑子も房子も終刊の際の中心的存在であった。


 世阿弥の『風姿花伝』を再度引く。

   秘すれば花なり、秘せずは花なるべからず。

 花は一年中咲いておらず、咲くべきときを知っている。能役者も時と場を心得て、観客が最も花を求めている時に咲かねばならない、と説いている。

 前述したように、今回の掲句は佐渡情話のお弁によせる「花盥」の悲愛へと趣いてしまったのである。お弁をのせた盥舟は、水草のように揺れながら、命短かい花散る中を沖へ沖へと小さくなって行く。お弁は、花の咲くべき時を知り、藤吉への愛を貫いたのだろうか―。

   野は雪解越後女は荷が多き               知世子『夢たがへ』 

   追憶の淵へは行かず螢飛ぶ               房子『一揖』 

   風落ちて水尾それぞれに月の鴨             苑子『吟遊』

【連載通信】ほたる通信 Ⅲ(63)  ふけとしこ

 手数料

葛の花この道を馬往きし日も

秋霖やオセロゲームの黒に勝ち

鰯一盛りローズマリーは庭にある

糠雨や花野の先に地雷原

秋風が過ぎて両替手数料

・・・

 近所に小さな公園がある。

 桜が3本と楠が3本。ベンチが2脚、滑り台が一台。あとはささやかな花壇。芝生は芝が見えないほどにすっかりクローバーに覆われてしまっているが、花時の長いクローバーはとても綺麗でそれはそれで嬉しい。

 でも本当にそれだけである。

 何かの大きな切株が1つあるが、これはもう朽ちてゆくだけのような、そんな感じである。

 ある時、伸び伸びと青々と茂っていたその大きな楠が、葉刈りどころではなく、枝ごとバッサバッサと切り落とされた。

 剪定後の木をトルソーのようだと詠んでいる句を時々見かけるが、まさにその通りであった。申し訳程度に葉が残されていた。

 そして……。

 回復が何とも早かった。

 残された小枝はあっという間に枝になり、枝が見えない程に葉が覆った。

 木の周囲には太い走り根が多く出ていたが、その走り根からビュンビュンとでも言いたい勢いで蘖が噴き出した。隙間がない程に多くの。

 楠は強い木だとは聞いていたが、本当にそれを目の当たりにすることになった。3本の木のそれぞれが小さな林を(とは少しオーバーかも知れないが)従えているような雰囲気である。チビの私ならすっぽり隠れることができる木叢。公園課の管理になるのだろうが、木はすでに以前の大きさに戻っているし、周囲の走り根に伸び広がった若木達をどうするのだろうか。

 国道沿いに欅が2本あった。これは倒木の恐れがあるので伐る予定との予告を幹に巻き付けてあったが、その通りに昨年伐られた。

 各地で倒木による被害も出ているから、致し方がないのかも知れないが、この切株は既に朽ちてゆく様相。蘖は見られそうもない。

 地質の関係だろうか。それとも生命力の違いなのだろうか。

(2025・10)

2025年10月10日金曜日

第255号

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■令和俳句帖(毎金曜日更新) 》読む

令和七年夏興帖
第一(10/10)杉山久子・辻村麻乃

令和七年歳旦帖・春興帖
第一(4/25)仙田洋子・神谷 波・豊里友行・山本敏倖
第二(5/9)ふけとしこ・加藤知子・杉山久子・小野裕三
第三(5/23)辻村麻乃・瀬戸優理子
第四(6/27)曾根毅・浅沼 璞・なつはづき
第五(7/5)下坂速穂・岬光世・依光正樹・依光陽子
第六(7/11)下坂速穂・岬光世・依光正樹・依光陽子・岸本尚毅・木村オサム
第七(7/25)中村猛虎・松下カロ・望月士郎・堀本吟・花尻万博
第八(8/22)眞矢ひろみ・村山恭子・冨岡和秀・田中葉月・渡邉美保・小沢麻結
第九(9/12)水岩瞳・佐藤りえ
第十(10/10)鷲津誠次・仲寒蟬・浜脇不如帰

令和六年冬興帖
第一(4/5)仙田洋子・神谷 波・豊里友行・山本敏倖・ふけとしこ
第二(4/11)鷲津誠次・加藤知子・杉山久子・小野裕三
第三(4/25)辻村麻乃・瀬戸優理子
第四(6/13)曾根毅・浅沼璞・なつはづき・下坂速穂
第五(6/21)岬光世・依光正樹・依光陽子・岸本尚毅・木村オサム
第六(6/27)中村猛虎・松下カロ・望月士郎・堀本吟・花尻万博
第七(7/5)眞矢ひろみ・村山恭子・冨岡和秀・田中葉月・渡邉美保・小沢麻結
第八(9/12)水岩瞳・佐藤りえ


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…(主な執筆者)小野裕三・もてきまり・大塚凱・網野月を・前北かおる・東影喜子


筑紫磐井著『女帝たちの万葉集』(角川学芸出版)

新元号「令和」の典拠となった『萬葉集』。その成立に貢献した斉明・持統・元明・元正の4人の女帝、「春山の〈萬〉花の艶と秋山の千〈葉〉の彩を競へ」の天智天皇の詔を受けた額田王等の秘話を満載する、俳人初めての万葉集研究。平成22年刊/2,190円。お求めの際は、筆者までご連絡ください。  

【鑑賞】豊里友行の俳句集の花めぐり37 金子兜太句集『日常』  豊里友行

 句集『日常』(金子兜太、2009年5月刊、ふらんす堂)を何度も読み返す。

 先ずは、帯文を引いておく。

 この日常に即する生活姿勢によって、踏みしめる足下の土が更にしたたかに身にしみてもきた。郷里秩父への思いも行き来も深まる。徒に構えず生生しく有ること、その宜しさを思うようになる。文人面は嫌。一茶の「荒凡夫」でゆきたい。その「愚」を美に転じていた〈生きもの感覚〉を育ててゆきたいとも願う。アニミズムということを本気で思っている。(あとがき)


長寿の母うんこのようにわれを産みぬ

 金子兜太の母は、「うんこのように」の強烈な比喩で彼を産むとある。

 己の誕生を長寿の母を眺めつつ自己や母の死が身近な生活空間にある中で俳句に詠まれる。

 これまでの金子兜太先生のパンチの効いた俳句たちに何処か通底している。

 そして兜太先生の晩年の〈生きもの感覚〉やアニミズムについて思考を深化させ続けたのは、誕生とも死とも向き合うその真摯な俳人の姿勢にあるのではないか。


合歓の花君と別れてうろつくよ

 「手術待つ妻に海上の海月」「癌と同居の妻よ太平洋は秋」「病いに耐えて妻の眼澄みて蔓うめもどき」など妻・金子皆子氏との惜別までも俳句に感情を託していく。


いのち確かに老白梅の全身見ゆ

 「シャワーの湯を体にぶつけ冷(すさ)まじや」「荒星に和む眼(まなこ)の友ら老ゆ」「男根は落鮎のごと垂れにけり」「秋遍路尿瓶を手放すことはない」「バナナ一本の朝食や霧の家」「一人寝に鶴瓶落しの湖(うみ)がある」「寒鯉にかこまれている宵寝かな」「おたまじやくし見ていて眼科医と話す」「ぽしやぽしやと尿瓶を洗う地上かな」など金子兜太先生自身の老いも包み隠さず俳句に生き様を刻み込んでいく。その生き様さえも生きもの感覚の延長線上にあったのだろう。


左義長や武器という武器焼いてしまえ

 社会性俳句の旗手であった金子兜太の態度は、「いのち」に向き合うことだったのかもしれない。命を傷つけ、奪う。そんな武器への戦争への怒りの炎は、その武器を焼いてしまうことにまで言及されていく。

 2015年5月に安全保障関連法案が国会に提出された(同年9月に成立)。その抗議のスローガンは、澤地久枝氏によって考案され、揮毫を金子兜太に依頼された。それぞれの運動の抗議の場でこのプラカードが、躍り狂うようにさえ見えた。社会性俳句への議論は、たとえ議論しつくされたとしても私にとって結論よりもこれから私がどう生きて行くか。私なりの態度を俳句で打ち出していく指針にもなる。

 「父の好戦いまも許さず夏を生く」「新月に浴後の軀一つ曝す」なども金子兜太の社会への態度や葛藤が俳句に刻まれている。


 「海程」会員時代に出会ったこれまでの私なりの俳句への態度は、金子兜太先生たち俳句に人生をかけて刻み込んだ俳人としての態度から、やはりこれからも学び続けることになるだろう。

 共鳴句を下記にいただきます。


秋高し仏頂面も俳諧なり

とりとめなし無住寺のごきぶり

奥山の岩の匂いの無常感

みどりごのちんぼこつまむ夏の父

ここ青島鯨吹く潮(しお)わらに及ぶ

炎昼の茶昆白骨となり現(あ)れしよ

熊飢えたり飢え知らぬ子ら野をゆけり

冬眠も成らずや眼光のみの蛇

母の歯か椿の下の霜柱

東京駅怒鳴る男と寒卵

野に眠る陽炎とともにいる時間

心太真つ暗闇を帰り来て

霧の海ひつそりと春情の野生馬

いのちと言えば若き雄鹿のふぐり楽し

人々に蜩落ちてばたばたす

朴咲けり朝から旧き戀歌ばかり

柿若葉海光とどく頭(ず)や虚し

ごうと黒南風禿頭ほどほどの湿り

頂上はさびしからずや岩ひばり

蟬がこんなに出て寺を猪(しし)歩く

夏の鹿夕日が月のごと赫く

露舐める蜂よじつくりと生きんか

虚も実も限(きり)無(な)く食べて秋なり

山楝蛇の見事なとぐろ昼寝覚

人の子が見ている牛蛙泳ぐよ

ビル街に白木槿フリーターのように

一日中光り貪り夜長かな

梨の花麻痺で曲がつた顔曝す

言霊の脊梁山脈のさくら

源流や子が泣き蚕眠りおり

山霧の触覚もあり螢狩

青胡桃逢いたい人がやつて来る

誕生も死も区切りでないジユゴン泳ぐ

【新連載】新現代評論研究:『天狼』つれづれ 第5回:「実作者の言葉」…「書」  米田恵子

  『天狼』昭和23年3月号の「実作者の言葉」に「書」と題した随筆が載り、続けて「書 ふたたび」と出てくる。そして、5月号の「実作者の言葉」にも「書 みたび」、8・9月号に「書 よたび」と出てくる。

 誓子の書は、少し丸みを帯びた、細い字であるが、芯の強そうな書である。しかし、決して達筆とは言えず、書道をきちんと学んだというより、誰も真似のできない独自の書である。しかし、そこに至るまでには、いろいろと変遷が見られるのである。いきなり、「誓子流」が完成したのではない。むしろ、誓子ほど書の変化がみられる俳人はいないのではないだろうか。私は「誓子と書―「誓子流」の完成―」(『日本文化論年報』第14号、神戸大学大学院、2011年)において、いわゆる「誓子流」の完成までを、誓子の揮毫や署名の変化から5期に分けて考察した。

 学生時代の書が野風呂記念館(京都市)に保存されているが、書道を学んだとは決して言えない、素朴な楷書である。「素朴」と言ったが、晩年の書から想像できない書である。そこから、誓子は独自の「誓子流」を編み出していった。

 そんな誓子には「書」に関して転機が2つあると私は考える。

 1つ目の転機は波津女との結婚である。波津女は少女のときから、奈良高等師範学校の書道の教授に家に来てもらって、家中で習っていたのである。波津女の書は、誓子とは正反対で、流麗なくずしで「水茎の跡麗しく」と形容されるが、まさにその通りの書であり、誓子とは違い、終生その書は変わらなかった。その書道の教授の手本帖が残されているが、驚いたことにその書はまったく波津女の書と同じであった。波津女も真面目で几帳面な性格であったためか、お手本と寸分たがわぬ書であった。

 ところで、誓子は、良寛のような字を書きたいと目標にしていたが、波津女との結婚によって、誓子の書の先生は実際は波津女であった。ご遺族のお話によると、芭蕉などの江戸時代のものや短冊や色紙もくずしが分からない時は、誓子は波津女によく聞いていたそうである。草書のくずしも、波津女から学んだのである。だからかもしれないが、俳句の作品展で、波津女の清書を誓子の自筆だとした解説があり、これは誓子の自筆ではなく波津女の清書ですと何度か指摘したことがあった。夫婦とは、やはり似てくるものである。わたしなどは、ほほえましく思うところである。

 2つ目は、戦争中、誓子は結核の療養のため四日市市にいたが、空襲のため防空壕に避難するが、そこで誓子は一巻本の『草字彙』を持って入り、指で宙に草書を書いて練習したという。空襲時に何という悠長なことをしているのかと批難を受けそうであるが、誓子の気持ちは、いつ死ぬかわからない時だからこそ、自分を鍛えられるだけ鍛えよう、このままで死んでしまうと恥ずかしい思いをする、だからこそ、俳句と書を極めようとしたというのである。私なら死を覚悟したとき、何を思うだろうか。山口誓子のことは、まだまだ分からないことがあり、私には理解できないところもある。だからこそ、山口誓子を極めようと思うのだろうか。

 ところで、「実作者の言葉」の「書」では、まず、永田耕衣から揮毫するときの遅筆を指摘され、遅筆に関する先人の考えを知ろうとして『玄抄類摘』や中国の書籍から漢文を引用したり、「書 ふたたび」では、漢文の他に鬼貫、藤村を引用する。「書 みたび」では、『孫過庭書譜』の漢文をそのまま引用したが、その読みに誤りがあると読者から指摘を受け、「書 よたび」に、書き下し文を載せる。誓子も書いているのだが、漢文が分かる人は読むだろうが、ほとんどの人は読まないと。私も漢文そのままのところは読みとばしていた。

 それにしても、「実作者の言葉」には、丹念に調べる誓子が出てくるのであるが、負けず嫌いの性格がそうさせるのだろうと思う。

【新連載】口語俳句の可能性について・3  金光 舞

  前稿では、市川一男『口語俳句』(1960)を参照し、口語俳句が決して新奇な潮流ではなく、「生活と詩の直結」を目指す理念のもとにすでに理論的基盤を有していたことを示した。口語俳句とは単にくだけた言葉遣いとは違い、人々の暮らしの中で実際に使われる言葉を俳句という器に定着させる試みであると位置づけた。

 そのうえで、越智友亮『ふつうの未来』より〈すすきです、ところで月が出ていない〉〈草の実や女子とふつうに話せない〉〈焼きそばのソースが濃くて花火なう〉の三句を分析し、伝統的な季語や自然詠の型に口語的なリズムや現代語を重ねることで生まれる表現の新しさを検討した。

 〈すすきです、ところで月が出ていない〉では、「すすき」と「す好き」の音の重なりから、恋の告白を仄めかす二重性を指摘し、理想と現実の落差をそのまま提示することで生まれる欠けの美学を明らかにした。

 〈草の実や女子とふつうに話せない〉では、率直な口語によって青春の不器用さをそのまま俳句の中に定着させた点を評価し、「ふつうに」という語がもたらす日常的リアリティが新たな普遍性を生み出していることを確認した。

 〈焼きそばのソースが濃くて花火なう〉では、SNS的スラング「なう」を取り入れることで、俳句の本質である「いま・ここ」の瞬間性を現代語で再定義していることを論じ、俳句が依然として「生きた言葉の実験場」であり得ることを示した。

 これらの分析を通して、口語俳句は「生活」「青春」「SNS」など現代的なリアリティを積極的に取り込み、俳句の瞬間性を新たな表現形式として更新していることを明らかにした。その一方で、言葉の古びやすさや軽さといった危うさも抱えるため、口語俳句を「生きた言葉としての俳句」の延長上に位置づけつつ、その表現の成熟や持続可能性を今後も検討していく必要があることを確認した。


演出として

 次に、髙田祥聖の指摘を踏まえて考えたい。髙田は、1 口語俳句を特徴づけるもののひとつとして「言い回しによるキャラクター性、関係性の演出」を挙げている。


 2由緒書きをさーっと読んで梅の花

 3肩こって気疲れかしら林檎に葉

 4マフラーに顔をうずめる好きと言おう


 〈由緒書きをさーっと読んで梅の花〉この一句における最大の焦点は、何といっても中七に置かれる「さーっと」という語にある。由緒書きというのは、寺社や史跡に赴けば必ず目にする解説文であり、そこには歴史的背景や伝承、文化的価値などが丁寧に記されている。本来であれば、参拝者はそれをきちんと読み込み、対象物のありがたみを理解した上で花を鑑賞するのが真面目な態度だとされるだろう。しかし、この句の語り手はそうしない。あえて 「さーっと」と、軽く目を通す程度に読み飛ばしてしまうのである。

 この「さーっと」という副詞の効果は絶大である。もしここが「由緒書きを読んで梅の花」であれば、句は単なる観光記録、あるいは少々事務的なスナップにとどまっただろう。だが「さーっと」という言い回しが入ることで、そこには人物の気配が立ち上がってくる。几帳面に活字を追うのではなく、まぁ大体のことはわかったという軽快な態度。堅苦しいものに縛られず、むしろ今この場の梅の花を早く見たいという衝動が優先している。つまり、この句はただの風景描写ではなく、その場に立つ語り手のキャラクターを直接的に表現しているのである。

 ここで重要なのは、この「キャラクター性の立ち上げ」が、俳句という最小の言語形式の中でいかに鮮やかに行われているか、という点だ。わずか五音の「さーっと」が加わることで、読者は几帳面で理知的な人ではなく、肩肘張らず気楽に物事に向き合う人の声を聞き取る。俳句は十七音の限られた空間の中で景物を描く芸術だが、この句はそれを超えて、まるで小説の人物描写や映画のワンシーンのように人となりを立ち上げてしまうのである。高田が指摘する「言い回しによるキャラクター性の立ち上げ」が、まさにここに端的に示されているのだ。

 このキャラクター性は魅力的である。几帳面に全てを理解してから梅を眺める人物よりも、まあまあ、細かいことはさておき、まずは花を楽しもうという態度の方が、むしろ読者には親しみやすく映る。観光地で由緒書きを熟読するよりも、気楽に眺めてああ、きれいだと感じる方が人間らしい。そうした軽やかさは、むしろ現代的な感性とも響き合っている。つまり「さーっと」という言葉によって、この句の語り手は、几帳面さよりも自由さ、理屈よりも感性を大切にする人物として、鮮やかに読者の前に姿を現すのである。

 そして下五に「梅の花」という典雅な対象が置かれることにより、その軽やかさは決して浅薄なものにとどまらない。由緒や歴史を完璧に理解せずとも、梅は梅として美しく咲いている。その美しさに対して、「さーっと」読み流した人間の眼差しが直に向けられる。ここにあるのは、学知や教養を超えた生の感覚の信頼であり、だからこそ句は爽快で読む者を笑顔にさせる力を持っているのだ。

 要するに、〈由緒書きをさーっと読んで梅の花〉は、由緒ある場を訪れた人間の性格の断片を、たった一語の副詞によって浮かび上がらせるという離れ業を成し遂げている。俳句が景物の描写だけでなく、語り手のキャラクターをも描きうることを、これほど見事に示した句は少ないだろう。そのキャラクターは几帳面さとは無縁であり、むしろ気楽で軽やか、どこかユーモラスで人間味に満ちている。読者はそこに共感し、好ましさを感じ、そして自分も同じように、つい由緒書きを読み飛ばしてしまうかもしれないと微笑むのである。この句は、言葉ひとつで人が立ち上がるという俳句表現の可能性を力強く証明しているのである。


 〈肩こって気疲れかしら林檎に葉〉この一句で先ず注目すべきは、中七の「気疲れかしら」である。上五の「肩こって」だけであれば、それは単なる身体の状態の描写にとどまる。肩が凝っている、というのは誰にでも起こる日常的な感覚であり、俳句として取り立てるほどのことではない、とも思える。しかしそこに「気疲れかしら」という言葉が添えられることで、句は一気に人の声を帯びるのだ。

 この「かしら」という終助詞による断定を避け、どこか独白的で柔らかなニュアンスを湛えるその響きは、語り手が自分自身に問いかけるような、あるいは隣にいる誰かに軽く打ち明けるような調子を生む。もしここが気疲れだと言い切られていたならば、句は硬直してしまい、語り手の人柄は立ち上がらなかっただろう。しかし「かしら」と疑問形にずらすことによって、そこには自己観察と同時に微笑ましい曖昧さが生まれ、読者はこの人はきっと几帳面に自己診断をするのではなく、気軽につぶやくタイプなのだと感じ取る。この句は景物や状況の描写にとどまらず、語り手のキャラクターを鮮やかに提示しているのである。

 さらに「かしら」には、独白だけでなく誰かに向けた語りかけの気配も潜んでいる。強く訴えるわけではなく、さりげなく問いかけるような柔らかさ。読者はそれを受け取り、まるで語り手の隣で話を聞いているかのような感覚に包まれる。肩が凝っているんだけど、気疲れかしらね、と言われて、ああ、そうかもしれないねと応じたくなるような親密さが、この句の中で自然に立ち上がるのだ。俳句という短詩が、単なる情景のスナップではなく人と人とのコミュニケーションにまで広がっているのは、この終助詞の選択によるところが大きい。

 そして、下五の「林檎に葉」がこのキャラクター性をさらに補強している。林檎の実に一枚の葉が残っている。その小さなディテールは、身体の疲れを語る人物の前に、ふっと差し出されるように存在している。林檎の瑞々しさ、葉の青さが「気疲れ」という内面的なつぶやきと対比され、句全体に生活のリアリティと柔らかいユーモアを与えている。もし「かしら」がなければ、この林檎の風景はただの季語的な補足にすぎなかっただろう。しかし「かしら」という声があることで、この林檎はまるで語り手がつぶやくときに目に留めている具体物として、ぐっと生き生きと輝き出すのである。

 このように見てくると、「肩こって気疲れかしら林檎に葉」は、単なる身体感覚の報告や自然物の描写を超えて、「声を持った人物」を立ち上げている句だと言える。几帳面に説明するのではなく、ふっと気持ちを漏らす。深刻ではなく、むしろどこか可笑しみを帯びた軽やかさ。そんな語り手の人柄が「気疲れかしら」の一言に凝縮されている。そして読者は、その人柄に自然と惹かれ、句を読んでいたはずが、打ち明け話を聞く時間に変わってしまうのだ。

 俳句の世界において、キャラクター性をこれほど端的に、しかも魅力的に立ち上げてみせる例はそう多くはない。ここでは「かしら」というたった三音が、声の質感を与え、人物像を照らし出し、さらに読者との関係性を生んでいる。俳句が景色の写生である以上に、人の存在そのものを描く文学であることを、この句は力強く証明しているのである。


 〈マフラーに顔をうずめる好きと言おう〉この一句で、先ず私たちの心をとらえるのは下五の「好きと言おう」である。俳句という形式のなかで、ここまで率直に、しかも直接的な言葉が置かれることは稀だ。伝統的な俳句では、感情を余情として漂わせ、読者に汲み取らせるものだという美意識が長く支配してきたのである。ところがこの句は、その伝統的な態度をあっさりと飛び越え、「好き」という直球の言葉を句の中核に据える。その瞬間、この句はただの叙景から、読者の心に直接届く告白の場面へと一変するのだ。

 ここで重要なのが、「言おう」という意志形である。すでに「言った」わけではない。まだ心の中にありながら、これから口に出そうとしている。つまり、語り手は読者に向かって私は今、好きと言おうとしていると、その瞬間の揺れを曝け出す。これは単なる事実の描写ではなく、心の動きの実況中継である。勇気を奮い起こそうとする気持ち、言葉が喉まで出かかっているのにまだ声になっていない、その緊張の刹那が、この「言おう」に凝縮されているのだ。ここに現れるキャラクターは、決して完成した人物ではなく、むしろ未完成で揺れ動いている。その不安定さこそが魅力的なのである。

 さらに、上五中七の「マフラーに顔をうずめる」という描写が、このキャラクター性を際立たせる。寒さから顔を守る仕草であると同時に、照れや不安から顔を隠しているようにも読める。つまり「マフラー」は防寒具であると同時に、語り手の感情を象徴する小道具なのだ。その中に顔を埋めながら、「好きと言おう」と心に決めている姿を想像すると、私たちは思わず微笑んでしまう。そこにあるのは、無防備で等身大の人間像である。俳句の中に、これほどまでに具体的で愛らしいキャラクターが息づくこと自体が驚きであり、革新である。

 「好きと言おう」という言葉は、また読者との距離感を変える力を持っている。伝統的な俳句では、読者は景色を鑑賞する第三者に過ぎなかった。しかしこの句では、語り手がまるで目の前にいるかのように、直接「好きと言おう」とつぶやきかけてくる。私たちは単なる傍観者ではなく、その瞬間を共にしている存在として巻き込まれるのだ。つまり、句の中で生まれているのは、語り手と相手だけでなく、語り手と読者のあいだの親密な関係性でもある。俳句がここまで読者に肉声を届けることができるという事実は、驚異的であり、同時に非常に魅力的である。

 このように見てくると、〈マフラーに顔をうずめる好きと言おう〉は、俳句の新しい可能性を開いている句だといえる。自然や季語に感情を託すのではなく、感情そのものを口語で直接表現することで、語り手のキャラクターを前景化する。そしてそのキャラクターは、不安を抱えながらも勇気を出そうとする、まっすぐで可愛らしい人物として描かれている。読者はその人物に強い親近感を抱き、まるで隣で告白の準備をしている友人を応援するかのような気持ちになるのだ。

 つまりこの句の魅力は、単なる告白の場面を描いたことにとどまらない。「言おう」という意志形に込められた揺れによって、読者の前にひとりのキャラクターが鮮明に立ち上がり、その声が直接届いてくる。俳句の中で、ここまで具体的で親密な人間像を立ち上げるのは容易なことではない。しかしこの句はそれを成し遂げ、俳句を「人間の声を描く文学」として新たに提示しているのである。


 三句はいずれも、口語的な言い回しによって、客観的な叙景よりもむしろ語り手の声を前景化している。「さーっと」「かしら」「好きと言おう」といった言葉は、単なる描写の補助ではなく、語り手のキャラクターを立ち上げ、同時に読者との関係性を演出する装置である。つまり、高田が論じる「言い回しによるキャラクター性・関係性の演出」という口語俳句の可能性は、これら三句において具体的かつ鮮明に体現されているのである。


 1 『俳句雑誌「noi」vol.2』(2025) 寄稿:髙田祥聖 49頁を参照

 2 『ふつうの未来』(2022) 著:越智友亮 58頁より引用

 3 『ふつうの未来』(2022) 著:越智友亮 66頁より引用

 4 『ふつうの未来』(2022) 著:越智友亮 71頁より引用

英国Haiku便り[in Japan](56)  小野裕三

米国から届いた精鋭アンソロジー

 haikuを通じて知り合ったアメリカ人女性から、一冊の合同句集が届いた。『A New Resonance』という書名で、二十四年前に始まり、巻数を重ねて今号が十三巻目。以前のエッセイで紹介した『英語俳句〜最初の百年』の編者でもあり、英語haikuの唱導者としては第一人者と言える、ジム・ケイシアンが編者を務める句集で、かなり質の高い一冊と感じた。彼の序文にある一節が示唆的だ。

「(この句集には)道理を超え、私たちが既知と思うことに疑問を投げかけ、私たちを別世界へと誘い、感性を変え、狼狽すらさせる、そんな詩がある。革新と伝統の双方にとって場所があることが、詩の集団としての私たちの自負だ」

 ここに指摘のあるように、革新から伝統まで、広い振れ幅の中に優れたhaikuが並ぶさまは壮観で、その許容度は日本の現在の俳句界よりも広いように思うし、それが英語haikuの特徴でもある。


 painting the sea

 she lets the water do

 what water does    Mimi Ahern

海を描く / 水がすることを / 彼女は水にさせてやる


 insomnia

 Jupiter has changed

 windows     Agnes Eva Savich

不眠症 / 木星は変えてしまった / 窓を


 doorknob

 turning

 the world       Pippa Phillips

ドアノブ / 世界を / 回転させる


 これらの句は無季ではあるが、ある意味で大きな自然や世界という存在に真摯に向き合った句であり、かつ極めて現代的な感覚が研ぎ澄まされている。


 on a bus into the mist an idea and us

          John Rowlands

霧へと進むバス 観念と私たち


 forest fire —

 believing I’ll be

 reborn        Cyndi Lloyd

森の火事 / 私は転生する / そう信じて


 これらは有季だが、日本の俳句的情緒とは異なる感覚があり、しかしそれゆえに卓越する。そんな一方で、落ち着いた客観写生の句もこの句集には見られ、時には同じ作者でもそれが同居する。

 果たしてアメリカ人の俳人は、伝統と革新ということをどう思うのか? 知人の一人にメールで訊ねた。難しい質問ね、ちょっと回答に時間をちょうだい、と言いつつ、彼女はこんな逸話を引用した。ある時haikuの先輩に、haikuに必要な条件は何かを訊ねた。彼は答えた。

「書いた人がhaikuと呼べば、haikuさ」

 そんな奔放さは、アメリカ人らしい自由さゆえか、日本語のしがらみに囚われない英語haikuゆえか。とにかくこの句集の輝きは少しばかり羨ましかった。

(『海原』2024年7-8月号より転載)

【新連載】新現代評論研究(第13回)各論:後藤よしみ、村山恭子

★ー3 高柳重信の風景8 後藤よしみ

八 終章

 本連載では、高柳重信の句業における「風景」の概念に着目し、作品の変遷を追ってきた。敗戦後、従来の俳句概念を打ち破り、多行形式による新たな表現を切り拓いた重信の軌跡は、西洋的な象徴主義(『蕗子』『伯爵領』)から、日本的な言霊と呪術の思想(『山海集』『日本海軍』)へと、作風と形式を劇的に転換させた点に特徴づけられる。この大きな転換を駆動した力の源泉こそ、重信が向き合い、そして遊戯的に再構築した風景であった。


㈠  規範化された風景への遊戯的な対応

 重信が生きた戦中・戦後の時代は、風景が二重の意味で規範化に晒されていた。一つは、志賀重昂の『日本風景論』に端を発し、近代国家が精神的な国土を措定するナショナル・アイデンティティとしての規範的な風景である(第二章)。もう一つは、桑原武夫の「第二芸術」論をはじめ、俳壇内部からも突きつけられた形式・美学の規範である(第五章)。

重信は、これらの重圧的な規範化に対し、巧みな「遊戯」性をもって対応した。初期の多行形式による視覚的な「カリグラム」は、五七五という定型の形式的規範を打ち破る、大胆な「遊び」であった(第六章)。


森                            森 の 奥    の

の    夜                           夜    の

更  け    の         *    雪 の お く の

           拝                     眞    紅

火  の    彌  撒           の    ま ん じ 

   に 

身  を    焼  

く    彩

蛾                                       『伯爵領』 


 さらに、関東大震災と戦災により物理的に喪失した小石川の原風景(第三章)の代償として、詩人の想像力のみで架空の自治領『伯爵領』を創設した。これは、国家による国土の上からの「図式化」という空間的規範に対し、個人の詩的意志が仮構された空間を置くという下からの主体的な応答であった。


遂に 

  谷間に 

見いだされたる 

桃色花火                  『伯爵領』 

  

 この遊戯的な構築は、後期の『日本海軍』においてさらに進展させ、挑戦的な局面を迎える(第七章)。軍艦の艦名や地名という、かつての皇国史観と結びつくモチーフをあえて取り上げながら、それをパロディ(松島句)や、少年期の私的な愛着(日本海軍の組み写真)を基盤とする「遊戯的な構築」の題材に組み替えた。そのことにより、重信は公的な歴史の規範から切り離された詩的言説として、自己の深層にあった「日本的なるもの」を「図と地」の反転のように表象することに成功したのである。


松島(まつしま)を 

()げる 

(おも)たい 

鸚鵡(あうむ)かな               『日本海軍』


㈡  原風景への転回と多様性の確保

 遊戯性をもって規範化の圧力を相対化し、形式の限界という課題に直面していた重信に、新たな道筋をつけたのは、一九六五年、宿痾の悪化による入院期の風景の再発見であった(第六章)。日光・筑波の山々との対話は、少年期の眺望体験を再生させ、自己の内省と遡行を促した。このとき、風景は、単なる外界の眺めから、個人の精神と歴史的な古層が繋がる場へと転回したのである。この転回は、それまでの象徴主義から日本的なるものへの反転であり、いわば「図と地」の反転のようであった。

 この転回は、一九七一年の飛騨行で結実する。重信は飛騨の地に、日本的なるものの根源としての言霊や呪術を見出し、風景を神霊の依代と捉えた。ここで生まれた「飛騨十句」は、ゲオルク・ジンメルのいう「感情的統一」や、ニコルソンのいう「崇高」の美学を、日本的な文脈で達成している(第七章)。


飛驒(ひだ)の       飛驒(ひだ)の      飛驒(ひだ)

(うま)朝霧(あさぎり)   *  山門(やまと)の   *  闇速(やみはや)()水車(すゐしや)

朴葉焦(ほほばこ)がしの    (かんが)(すぎ)     ()(ひめ)

みことかな     みことかな    みことかな

                                「飛驒」 『山海集』


 重要なのは、この風景が、重信の詩的伝統における「多様性の確保」の場となった点である。西洋象徴主義の暗喩(心象の連鎖)と、富士谷御杖の言霊倒語論(言葉に宿る力)という、一見相容れない二つの詩的伝統が、飛騨の神話的空間において、「みことかな」の響きと共に統合された。この統合こそが、重信が長年希求してきた、西欧の概念に回収しきれない日本的なるものを、詩として定着させるための道であった。

 また、風景の獲得は、戦後の象徴主義により姿を消していた「私」(一人称)の再浮上を許容した(第六章)。


天に代りて    目醒め

死にに行く  * がちなる

わが名      わが尽忠は

橘周太かな    俳句かな          『山海集』


 規範から解放された風景は、重信の深層に沈んでいた死の体験、父母への思い(『遠耳父母』)といった私的な記憶を再び詩的言説の核として機能させ、内面の真実を語る主体を回復させたのである。一行形式の山川蟬夫作品にも、その系譜は見て取れる。


㈢  創造性のトリガーとしての風景

 高柳重信の句業を総括すれば、そこで獲得された風景は、単に自然を写し取ったものではなく、喪失を抱え、規範に抗い、遊戯によって解体され、内省によって再構築された多層的な心象の場であった。

 この風景の獲得こそが、多行形式の実験が行き詰まりを見せていた重信に対し、四行形式・総ルビという新たな形式と、言霊・地霊に満ちた新たな内容をもたらし、重信後期の創造性のトリガーとなった。

 高柳重信の全生涯は、風景をめぐる個人の精神の抵抗と創造の軌跡であった。彼は、外界の風景の深部に潜む詩的契機を逃さず掴み、それを遊戯と呪術という詩的な行為によって、創造の磁場へと転回させる実践者であった。高柳重信の残した風景は、今もなお、私たちに、失われたものこそが創造の源泉となるということを示している。


★―7:藤木清子を読む5/村山恭子

5 昭和10年 広島県 藤木水南女で出句 ③


  夫病みて十年めぐりぬ秋の蚊帳      京大俳句10月

 夫が病んで十年になりました。〈めぐりぬ〉から十年の間に起こった様々な出来事が想い起こされます。また〈秋の蚊帳〉で休んでいる夫は、長年の闘病からやつれており、その姿を見つめる眼差しは、やさしくもあり冷ややかでもあります。

   季語=秋の蚊帳(秋)


  心の瞳砥ぎつ幾夜ぞ虫鳴けり       同

 〈心の瞳〉とは普段は隠している、自身の心眼です。物事の大事な点を見通す、鋭い心の動きを表し、〈幾夜〉も砥ぎ澄ましてきました。夜の静寂の中、身ほとりについて深く考え、また内観する姿が、虫の音と呼応しています。

   季語=虫鳴く(秋)


  夫かなし野鳥鳴く音にさへ怯え      同

 〈かなし〉は「悲しい」と「愛おしい」の二つの感情を併せ持った言葉です。自分の手ではどうしようもない状態に堪えて、野鳥の鳴く音に怯える夫の姿は、みじめでもあり、守り続けたい存在でもあります。

   季語=無季


  初秋よし静脈透きて脈搏つよ       旗艦11号・11月

 秋の初めの頃は、暑さはまだ厳しくとも僅かながらも秋の気配が感じられます。

 〈初秋〉はよいと言い切り、青い静脈が透いて見える白い手首をしっとりと見つめています。また〈脈博つよ〉に命の鼓動を感じます。

   季語=初秋(秋)


  初秋よしオークル色のわが肢体      同

 〈オークル〉はフランス語で「黄土」を意味し、黄みと赤みのバランスのとれた肌色です。〈オークル〉の長音が視覚と聴覚により、手足と身体の伸びやかや様子を表します。

 秋の気配を感じながら、自身の肢体を賛美しています。

   季語=初秋(秋)


  秋讃へミレーの落穂わが拾ふ       同

 秋を優れたものとして心からほめています。

 ミレーの『落穂拾い』のように農作業をしている実景とも取れますが、〈わが拾ふ〉から内面性が感じられ、貧しくとも生存していく清廉さ、美しさがあります。

   季語=秋(秋)

【連載】現代評論研究:第16回各論―テーマ:「鳥」その他――藤田踏青、土肥あき子、飯田冬眞、堺谷真人、岡村知昭、しなだしん、筑紫磐井、北川美美、深谷義紀、吉村毬子

(投稿日:2011年12月09日)

●―1近木圭之介の句/藤田踏青

残酷ニデスネ。エエ梟ノヨウニデス

 「層雲自由律2000年句集(注①)」所収の平成6年の作品である。梟という字は鳥と木から成り立っており、獲物を木に突き刺すその方法がちょうど磔に似ていることから晒す、猛々しい、強い意志を示す語となっている。梟師、梟首、梟猛、梟雄などの強く厳しい言葉などが多いのも頷かれる。

 さて掲句だが、その梟の残酷さを示すが如く、異常なドラマ展開の中での問答形式で表されている。しかも漢字とカタカナ表現でその切っ先の鋭さ、ゴツゴツ感から残酷さを増幅させているかの如くに。この様に句読点を含め、自由律の表現には如何様にもドラマの展開を拡げていける自由と奔放さが潜んでいる。しかしこの作品あたりが一行詩とのギリギリの境界に立つものであろうかとも。俳句というものを形式ではなく詩的内容で捉える限り許容される範囲と考えるのだが。


おんなの骨に梟なき 月日すぎました   昭和62年作

 この句の場合は、亡くなった女の記憶が月日の中で角質化してゆく過程を、梟の鳴き声をおんなの骨に潜ませることによって再認識させる構成となっている。また一字空白はその時間的な落差を示しているものと言えよう。狂言に「梟山伏」というのがあり、梟にとりつかれて奇声を発する病人を直そうと山伏が祈るが、自分が奇声を出し始めるという内容のもので、梟の鳴き声はそのように意識下で伝搬してくるようである。

 梟と言えば山頭火の「ふくろうはふくろうでわたしはわたしでねむれない」という句があったのを思い出す。やはり梟はネガテイブな雰囲気を持っているようである。

 圭之介には鴉の句も多くみられる。


木の椅子が一つ 鴉ぎようさん啼いていた       昭和23年作  注②

鴉よ かれ独りの ときのうしろ姿を おもえ(山頭火)昭和25年作  注②

二羽の黒い鳥が的確に空間              昭和28年作  注②

人間笑う以前カラスぎようさん笑う          昭和38年作  注②

生(なま)のもの口にしてカラス不敵に笑う      昭和40年作  注②

あらうみからすをとばす               昭和48年作  注②


 鴉の場合はその存在が常に人間(自己)に対峙するものとして表現されている。その数が一羽でも二羽でもぎようさんでも、その不穏な反意は裏返せば人間そのものに存するとも言えよう。つまりは人間の奥底に潜んでいる鴉をえぐり出すが如くに。それは山頭火に対しても同じような思いであったであろう。

 その他「鳥」に関する句と詩の断片を若干列記する。


鳥の渡る湖がランプもう灯していた         昭和24年作 注②

鳥ら空の道の明るさにつづく            昭和30年作 注②

気管の奥に断崖 海鵜の啼く時もある        昭和55年作 注②

鳥の貌北へ北へその日河口空瓶(くうびん)一個   昭和56年作 注②

署名をする海鳥の啼く古里の中で          昭和58年作 注②

林の部分が明るいのは其処へ一羽で行くんか     昭和59年作 注②


<パレットナイフ 2>  注③

Ⅰ この時間は黄泉のくに珈琲房

星座と呼ぶ仮面の女 そのまなざし

(ドリップがこれから香るのだ)

Ⅱ 憎悪は一本の影

太陽に位置の確かさ

Ⅲ 少年は性の倒錯を宿し数年経た

どこにも通り抜ける道を持たずに

――いらだちのサラダ私に青い

Ⅳ 刃のごとく窓に映る河

内なる凶

沈黙と溶暗

Ⅴ 虚空(そら)が一羽の鳥を溶岩に変えて堕した

二枚の翼の重さ 鳥の半生


注①「層雲自由律2000年句集」合同句集 層雲自由律の会 平成12年刊

注②「「ケイノスケ句抄」 層雲社 昭和61年刊

注③「近木圭之介詩画集」 層雲自由律の会 平成17年刊


●―2稲垣きくのの句/土肥あき子

 いろ恋に邪魔なふんべつ鳥雲に

 昭和39年作、『冬濤』に所収される作品である。

 鳥たちがはるか大陸へと帰っていく「鳥雲に入る」は、きくのの気に入りの季語であったと思われ、第一回の感銘句に挙げた

 歯でむすぶ指のはうたい鳥雲に  『榧の実』所収

を始め、

 似合はなくなりし薄いろ鳥雲に 『榧の実』所収

 買物籠充たす玉ねぎ鳥雲に  『冬濤』所収

 拍子木にきざむ豆腐や鳥雲に  『冬濤』所収

 銭かぞふ女の指よ鳥雲に 『冬濤』所収

と、どれも軽い嘆きを伴うように詠んでいる。

 冒頭に引いた作品には「いろ恋に邪魔なふんべつ」と、勇ましい言葉を発しながら、はるか雲間に鳥の影が紛れる様子を見ることで、実際には常識に縛られながら生きていかねばならないため息が混じる。

 また、

 ふつつりと絶ちし想ひよ鳥雲に 『冬濤』所収

 昭和41年に作られたこの作品は、30年近くの時間を共にした恋人が亡くなった年である。「ふつつりと絶ちし」とはいっても、決して自ら望んだものではなく、死によって一方的に「絶たれてしまった」関係への想いである。ことにきくのの場合、同居する関わりを持てなかったこともあり、会えるの会えないのという焦燥に人一倍苦しめられてきた。待つことに慣れている身には、もう二度と会えないという実感がなかなか湧かないのではないか。やり場のない憂愁を胸に抱きつつ、空の彼方に消えてゆく鳥たちを遠く眺め、この失意をどこか遠くへ持ち去ってもらいたいという願いが込められているようだ。

 こうしてみると、元来感傷的な季語ではあるものの、きくのの「鳥雲に」にはことさら現実を逃避したいこころ、また社会のしがらみからの解放を願うこころが描く幻影に見えてくる。


●―4齋藤玄の句/飯田冬眞

 冬の雁空では死なず山の数

 昭和53年作。第5句集『雁道』(*1)所収。

 齋藤玄は鳥が好きだった。

 鳥好きに雀ばかりの麗かさ 昭和47年作 『狩眼』

と表白していることからもうかがえる。数量的な根拠としては、後半生(昭和46年から昭和55年)の三句集だけで110の鳥の句があり、全体の12パーセントに相当する。(三句集合計938句中、『狩眼』43句、『雁道』43句、『無畔』24句)

 前回の「桜」13句に比べると「鳥」の句は8.5倍に相当する。

 これまでにも「冬」「精神」「夏」「色」の項で、玄の鳥の句を紹介してきた。あらためてあげておくが、内容に関しては重複するので割愛する。

 玄冬の鷹鉄片のごときかな   昭和16年作 『舎木』

 骨ひらふ手は初雁を聴いてゐる   昭和16年作 『舎木』

 膝立てて大露の雁をゆかせけり   昭和17年作 『飛雪』

 つぎはぎの水を台(うてな)に浮寝鴨   昭和48年作 『狩眼』

 すさまじき垂直にして鶴佇てり   昭和49年作 『狩眼』

 寒風のむすびめごとの雀かな   昭和50年作 『雁道』

 雁の道のごとくに死ぬるまで   昭和53年作 『雁道』

 雁のゐぬ空には雁の高貴かな   昭和53年作 『雁道』

 雁の道はなかりき水景色   昭和53年作 『雁道』

 雀らの地べたを消して大暑あり   昭和53年作 『雁道』

 このなかでは、〈玄冬の鷹鉄片のごときかな〉が秀抜。大空に舞う鷹を〈鉄片のごとき〉ととらえた感性は現代的である。厳寒の大空を舞う鷹に自己を重ね合わせながら、その鬱屈感が象徴的に表現されている。この句の鑑賞と作句時期の時代背景については「色」の項で詳しく述べたので、そちらを参照されたい。

 戦前の作品では、ほかに次のようなものがある。

 枯るる園雌雄の鷹をわかち飼ふ   昭和13年作 『舎木』

 鷲鬱と青き降誕祭を抽(ぬ)く   昭和15年作 『舎木』

 〈枯るる園〉の句は、自註(*2)によると函館公園に飼われていた鷹で、雌雄が別々の檻に入れられていたようだ。大空を舞うことも、つがいで寄り添うこともままならない檻のなかの鷹の凄まじさを詠んでいる。冬枯れてゆく動物園の情景に24歳の玄は己を投影させていたに違いない。

 〈鷲鬱と〉の句では、降誕祭、つまりクリスマスの夜の鬱屈した心理を鷲に託して描いているが、言葉が具体的な心理を射抜いておらず、上滑りの感は拭えない。総じて、戦前は「鷹」「鷲」「雁」など比較的大型の鳥を詠み、青年期の作者の鬱勃とした心情と重ね合わせた作品が多いようだ。石川桂郎、石田波郷に出会う前ということもあるのか、この二句からは凝視の果てに対象の本質をえぐり出す、晩年の玄作品に特徴的な「確かな眼」はあまり感じない。

 癌の妻風の白鷺胸に飼ふ   昭和41年作 『玄』

 割腹死鶲(ひたき)撒かるる空の端   昭和45年作 『玄』

 主宰誌「壺」を休刊し俳壇から遠ざかっていた昭和28年から昭和45年までの沈黙期の作品から二句あげた。〈癌の妻〉の句は第三句集『玄』に収録された連作「クルーケンベルヒ氏腫瘍と妻」のなかの一句。ベッドから起き上がった妻の後ろ姿と畦に佇む白鷺の風姿が重なり合って哀切。自注には「醜くなった妻を俳句でしか飾れない」と悲痛な文章を残している。(*2)

 〈割腹死〉の句の前詞は「三島由紀夫の死」。死と鳥の組み合わせはヤマトタケルの昔から度々現れてきた文学的モチーフではある。オレンジ色の胸を持つ鶲の群れが空を飛ぶさまを〈鶲(ひたき)撒かるる〉とした措辞が印象的。

 笹鳴のまにまに麻酔きかさるる   昭和52年作 『雁道』

 病室の空のいづちへ揚雲雀   昭和52年作 『雁道』

 患者食こんにやくつづき百千鳥   昭和52年作 『雁道』

 三句ともに「入院、腹部切開手術を受く 五句」中の句。入院生活の日常の寂しさを描きながら、どこかに明るいユーモアを感じるのは、〈笹鳴〉〈揚雲雀〉〈百千鳥〉といった季語の恩寵であろうか。鳥の鳴き声や軽やかな振る舞いが病者の心に明るく健やかなものを与えているのが読み取れる。師である石田波郷と同様に死線をさまよいながらも詠嘆に流されることなく、一種の軽みさえ感じる句をなせたのは、俳句に対する信頼と一句独立の精神が根底にみなぎっている故だろう。

 蹼(みずかき)に乗つたる鳥や雪催   昭和52年作 『雁道』

 〈蹼(みずかき)に乗つたる鳥〉も軽妙な感じを受ける句だ。それは「蹼」という難しい漢字のあとに〈乗つたる鳥〉というひねりを加えた表現の効果だろう。重苦しい印象のある〈雪催〉の前を切字の「や」で一拍置いているのも良い。言葉の重い、軽いを交互に配しながら水鳥の姿を描出しており、巧みである。

 冬の雁空では死なず山の数   昭和53年作 『雁道』

 〈空では死なず〉も読みようによっては諧謔のように見えなくもない。雁にとっての〈空〉は日常であり、そこで死ぬことはないという断定は、自己の死に引き寄せて考えているようにも読めてくる。下五を〈山の数〉と抑えたことで雁の骸を抱いている山が累々と連なっている景が見えてくる。山をすべての命の根源として捉えるならば、根源回帰への希求ともとれる。

 生きかつ死なねばならない恍惚と恐怖。玄の鳥の句を読むたびにそのことがしきりに胸にこみ上げてくる。


*1 第5句集『雁道』 昭和54年永田書房刊 『齋藤玄全句集』 昭和61年 永田書房刊 所載

*2 自註現代俳句シリーズ・第二期16『斎藤玄集』 昭和53年 俳人協会刊


●―5堀葦男の句/堺谷真人

 首都の芝厚し栗鼠・鳩・老婆あゆみ

 『火づくり』(1962年)最終章「火の章」の句。「太陽の専制」と題された連作50句の劈頭を飾る「アメリカ 九句」より。

 見事に手入れされた厚い芝生がどこまでも広がる公園。愛くるしい栗鼠が垣根づたいにひょいと顔を出し、一瞬じっと何かを見つめてから、するすると走り去る。子どもの撒くポップコーンに鳩があつまり、ふくよかな老婦人は脚をいたわるようにゆっくりと散歩を愉しんでいる。

 1960年6月、国際棉花諮問委員会出席のため渡米した葦男は首都・ワシントンに滞在した。葦男の眼をまず捉えたのは、超大国の首都の美しさである。ナショナル・モールの緑あふれる景観はもとより、輪奐たる諸官庁の建物やオフィスビルの合間にもここかしこに分厚く敷き詰められた芝生は、金銭的尺度や軍事力だけでは測り得ないアメリカの豊かさ、底力というものを思い知らせたに違いない。祖国・日本を完膚なきまでに打ちのめした超大国の凄みを、葦男はビジネスシューズで踏む公園の芝生の厚みから感じ取っていた。

 筆者がこの作品を「鳥」の句として取り上げたのには理由がある。第一句集『火づくり』837句には鳥を詠んだ作品が31句ある。しかし、全206ページの69ページ目に位置する鳥の句No.23「つばくらの白胸(しらむね)よごる街貧しく」のあと100ページ近く鳥を詠んだ句は一つもなく、163ページ目に至ってやっと出現した鳥の句No.24が即ち「首都の芝厚し・・・」なのである。制作年代にして1952年から1960年まで足かけ9年間に及ぶブランクは何を意味するのであろうか。

 無論、葦男が9年間ものあいだ鳥の句を一切詠まなかったわけではない。例えば1954年5月に発行された「十七音詩」第3号には「君と見し夕日のごとし雁啼けり」という作品も見える。しかし、『火づくり』編纂時の葦男はこれを採らなかった。

 ところで、鳥の句の空白期は『火づくり』第三章「地の章」をまるまる含むが、実はこの「地の章」は『火づくり』刊行当時、集中のアキレス腱と見なされていた形跡がある。今、1963年5月発行の「十七音詩」第25号<火づくり特集号>の座談会「“火づくり”を手にして」を披見すると、鈴木六林男ら同時代の俳人たちは「風の章」から「水の章」への深化を高く評価する一方、「地の章」については「低迷」「足踏み」「勇み足」等の言葉で忌憚なき評定を下しているのだ。

 しかし逆にいえば、「地の章」の時代こそ葦男が全身全霊を賭けて俳句表現上の試行錯誤を繰り返した歳月だったともいえよう。僻目かもしれないが、葦男が新しい表現や思想の地平を開くため、敢えて好きな鳥の句を封印するという「鳥断ち」の挙に出たのではないかなどと筆者は想像してしまう。

 葦男が約2ヶ月の外遊を終えて羽田空港に降り立ったのは1960年7月14日であった。同じ日、アメリカの民主党大会においてジョン・フィッツジェラルド・ケネディが大統領候補に指名された。指名受諾演説で彼が高らかに掲げたスローガンが「ニュー・フロンティア」である。


For the problems are not all solved and the battles are not all won—and we stand today on the edge of a New Frontier … But the New Frontier of which I speak is not a set of promises—it is a set of challenges. It sums up not what I intend to offer the American people, but what I intend to ask of them.


 アメリカで始まろうとしていたフロンティア精神の復興運動。その息吹を目の当たりにした葦男の俳句にようやく鳥はもどって来たのだ。


●―8青玄系作家の句/岡村知昭

 羽抜鶏の抜けつ放しで遊びをり   安川貞夫

 掲出句は第2句集『独酌』(1961年1月 青玄発行所)所収。作者は1919年(大正8)生まれ、奈良県出身。軍隊時代に伊丹三樹彦と出会ったのがきっかけで俳句への関わりが始まり(同じように俳句と出会った楠本憲吉と戦後すぐに日野草城の家を訪れている)、1949年(昭和24)に「まるめろ叢書」第4として第1句集『小盃』を刊行(「まるめろ」は草城が指導、三樹彦が編集で1946年に創刊した俳誌、ちなみに叢書第2が桂信子の『月光抄』)。「青玄」には創刊から参加。『独酌』は1949~60年までの作品220句余りを逆年順に収録、掲出句が収められた1958年(昭和33)の章の作品12句は、すべて「羽抜鶏」がモチーフとなっている。

 そこで、「羽抜鶏」という季語を手元にある歳時記で改めて見直してみると、

西日が射しこむ鶏舎の中で、羽抜した鶏の姿は、なんとも見すぼらしく、哀れである。鶏冠の色まで暗白色にかわり、しょぼしょぼと歩くさまは滑稽ですらある」(講談社版『カラー図説日本大歳時記』より、筆者は飯田龍太)、

昔は、農家の庭で放し飼いにされていた鶏が哀れな姿をさらして駆け回ったりする光景がよく見られた。滑稽味のある季語。(『今はじめる人のための俳句歳時記』角川文庫)

というように羽根がだんだんと抜け落ちてゆく姿に対する「哀れ」さと羽根を散らばらせながら駆け回る姿への「滑稽」さ、人間サイドからの目線に基づいたこのふたつの感情が受け継がれていきながら「羽抜鶏」は存在しているわけである。

 掲出句以外の作品での「羽抜鶏」たちは、「身辺を抜け羽が舞へり羽抜鶏」「抜け羽の行方へ一顧羽抜鶏」「羽抜鶏の尻うごきをり草の中」といった身近にいる鶏自身の羽根が抜け落ちてゆく動きをじっと見つめ続けたところから生まれた句があると思えば、「バスの砂塵へ片目つぶって羽抜鶏」「雲見る間も羽抜けやまず羽抜鶏」「天想うこと多くなり羽抜鶏」「羽抜鶏の尻を見しより母恋し」というような自分自身のいまの姿を鶏に投影したかのような作品も現れる。鶏の尻から母の後ろ姿を想う姿は母恋いには珍しいのではあるまいか。「羽抜鶏の雄が羞らう雌の前」「狡い雌とはなれて雄の羽抜鶏」では雌の優位に対して雄であることへの無力を訴えてやまないのは男性である自分自身、己への「哀れ」「滑稽」の投影もここに極まれりというところなのだろうか。「羽抜鶏どうしであそぶ沼に映り」「沼に映る凡夫につづく羽抜鶏」は沼という独特の不気味さを醸し出す場所との取り合わせを通じて、生命としての存在そのものの不確かさを写し取ろうとしている、その先にあるのはもちろん自分自身の不確かさなのだろう。

 そして掲出句の「羽抜鶏」である。この鶏は羽が抜け落ちてゆく真っ只中にありながら、それがどうしたと言わんばかりに周辺を堂々と走り回る。作者を含めた人間たちから向けられる「哀れ」や「滑稽」の目線などはいとも易々と跳ね返し、夏の暑さにおろおろともせずに走り回る。もしかしたら「抜けつ放し」を恐れることのないたくましさこそが本当の「羽抜鶏」なのかもしれない、と思わせてしまいかねないぐらいである。作者がこの1句を外さなかったのも、己が生命もまたこのようにたくましくありたいものだ、との感慨が鶏を見つめながらよぎっていたからだろうか。

 著者の第1句集『小盃』に日野草城は序に次の一文を送っている。

「安川貞夫罷り通る」

 その安川貞夫氏の目の前を、羽抜鶏たちははつらつと動き回っている、羽を全身からほとばしらせるかのように飛び散らせながら。まさに「羽抜鶏罷り通る」。


●―9上田五千石の句/しなだしん

 火の鳥の羽毛降りくる大焚火   五千石

 第四句集『琥珀』(*1)所収。昭和五十八年作。

 「火の鳥」の句であるから、厳密にいえば「鳥」の句とは云えないかもしれない。五千石には「渡り鳥」をはじめ、多くの鳥の句があるが、今回はこの「火の鳥」の句を紹介したいと思った。

     ◆

 火焔鳥、不死鳥、フェニックス、様々に呼ばれる火の鳥は、永遠の時を生きるという伝説上の鳥。数百年に一度、自ら香木を積み重ねて火をつけ、その火に飛び込んで焼死し、その灰の中から再び幼鳥となって現れるという。ちなみに鳳凰とフェニックス、東西の聖なる鳥の代表としてよく混同される両者だが、フェニックスのルーツはエジプトにあり、歴史書によれば、形態は猛禽類(エジプトで愛好されていた鷹)に近い。それに対して鳳凰は長い首、尾羽など孔雀に近い見た目をしており、そのルーツはインドにあるという。また鳳凰は雌雄の別があり卵も産むのに対してフェニックスは単性(雄)生殖をするとされているところに大きな違いがある、とのことだ。

     ◆

 この句は「火の鳥」を詠ったものではなく、この「火の鳥」は大焚火の比喩として使われている。

 五千石は大焚火を前にして(目の前にしたわけではなく、題詠ということも考えられるが)、舞い上がる火の粉を追い視線を上に向けたとき、炎に染まった夜空に「火の鳥」を認めたのだ。そしてその「火の鳥」が羽ばたきを見せたとき、羽毛がしずかにゆっくりと舞い落ちてくるのを見た。そんな幻想の後、現実の眼前には焚火がまた炎をあげる。それは不死鳥の数百年に一度の再生を見るがごとくである。

     ◆

 題詠という可能性に触れたが、『上田五千石全集』 (*2)の『琥珀』の補遺、「畦」昭和58年2月号には、「左義長や火の切れ宙にむすびあひ」「かんばせをどんど明りにまたまかす」「山風に焔あらがふ磯どんど」という「左義長」を詠んだ句が残っている。これらの作品のどこかに掲出句に通ずるイメージを感じるのは私だけだろうか。

 この頃の吟行時の作品には前書きがあるが、この一連の「左義長」の句にはそれがない。「左義長」の題詠だったことも大いに考えられる。そして掲句が「左義長」の一連として詠まれ、「焚火」に推敲されたとも考えられなくない。

     ◆

 掲句、「火の鳥」自体誰も見たことがないだろうから、読み手によってそのイメージは随分異なるかもしれない。ただ「焚火」に対して「火の鳥」を単に持ち出しただけでなく、その「羽毛」という細かい描写を加えたのが、五千石の技であり、詠み手の想像力を刺激するところだろう。


*1 『琥珀』 平成四年八月二十七日、角川書店刊

*2『上田五千石全集』 富士見書房刊


●―10楠本憲吉の句/筑紫磐井

 私は船お前はカモメ海玄冬

 前号、鑑賞文の中で例句として取り上げたが、再度、憲吉の技法を確認するために取り上げよう。

 61年、『方壺集』より。玄冬は間違いではない、「厳冬」は寒い冬だが、「玄冬」は中国の5行説で色彩と四季を組み合わせたとき、青春、朱夏、白秋、玄(くろ)冬と呼ばれるからだ。極寒の冬を連想しなくてもよい、おごそかな冬の季節感を感じ取ればそれでよいのだ。

 憲吉には、既に述べたように他の俳句や詩、歌謡の借用が多かったが、これに通じるものとして、こうした対句の構造が多い。それも、月並みではない、しかしいかにも通俗的な使い方が目立つことだ。この句で見れば、たちまち歌謡曲の一節が思い出されるが、「私は船お前はカモメ」はありそうでない歌詞だ。しかし、私は船あなたは港、私はカモメ・・・など類した歌謡曲を探すことは苦労は要らない。

 蘭は絃、火焔樹は管、風は奏者

 曇り日の風の諜者に薔薇の私語

 ひらひらとコスモスひらひらと人の嘘

 足跡に春日洽(あまね)し潮騒遠し

 ヒヤシンス鋭し妻の嘘恐ろし

 ヒヤシンス紅し夫の嘘哀し

 ”矛盾”それは花言葉ではない君言葉

 巨花か巨船か流離のごとき熱の中

 君と白鳥探すこの旅死探す旅

 ひまわり多感 中年よりも南風(はえ)よりも

 我を愛せとバラ我を殺せとまんじゅうしゃげ

 二日はや死と詩が忍び足でくる

 鴨遊ぶ池畔孤客でおしゃれで僕で

 鴨川を何か流るる心か何か

 湖は秋波で僕は秋波でホテルは何波

 とある女ととある話の虫の宿

 没日何色私はあなたの何色

 天に狙撃手地に爆撃手僕標的

 このように見てくると、くすぐったくはなるが、作詞家であれば阿久悠の感覚に似ているかもしれない。かるく、しかしどこか心が疼けばそれでよいという詠み方なのである。

 戦後俳句は、稲垣きくのや斎藤玄も必要だが、一方でこんな感性も生んでいる。戦後俳句の豊饒さを言うときにはどちらも忘れられない人々であると思うのである。兜太、重信、龍太、澄雄ばかりが戦後俳句なのではない。通俗性は、戦後俳句の特徴の一つであり、やがて「俳句って楽しい」という、とても文芸とは思えないキャッチフレーズまでが生まれ始める。確かに楠本憲吉はそうした風潮の責任を負うべき最初の作家であり、戦犯である。ただ厭うべき戦犯ではなくて、愛すべき戦犯と思ってほしい。


●―12三橋敏雄の句/北川美美

 鷓鴣は逝き家の中まで石河原

 シュールレアリストによる自働記述のような句である。四次元空間に入り込む気分になる。「逝」という字意に文学的匂いのする鶏・「鷓鴣」への愛着があったことを伺わせ、鷓鴣への追悼、そしてその悲しみの彼岸の風景が家の中まで入りこんでいるように読める。これを第一の読みとしてみる。

 さて、掲句は句集『鷓鴣』のタイトルになっているだけでなく、中扉に三鬼、白泉、敏雄の鷓鴣の句を錚々と鎮座させている。戦国三武将の風格である。

 鷓鴣を締むおそるる眼かたく閉づ 西東三鬼

 新興俳句の旗手として名高い三鬼。ルナアルの『にんじん』の中で岸田國士によりヤマウズラ族の雛が「鷓鴣」と訳されている。三鬼補遺にある「『にんじん』を詠む」と前書き風タイトルがついた昭和9年の作品の一句である。二羽の鶏が殺される場面に恐ろしさのあまり眼を閉じるのは三鬼である。その後の三鬼が、新興俳句弾圧に従うままでいるしかなかったようにも読める。

 塵の室暮れて再び鷓鴣を想ふ 渡邊白泉

 白泉からは、漢詩の叙情が伺え、「想ふ」に孤独感が漂う。白居易『山鷓鴣』の心情に近い。これも発表後の事になるが、新興俳句弾圧後、俳壇から距離を置いていた白泉のボヘミアン的身の上を重ねあわせると、群れから外れたその身が毎朝毎晩啼きつづけていた鷓鴣をたびたび思い出しているように読める。「塵の室」が、穢れた世ながら貧しく高貴に映る。痛々しい淋しさを伴う句である。

 そして三句目に敏雄の鷓鴣の句。先師とともに掲げた句が意味することが第二の読みである。

 「鷓鴣」を「俳句」と置き換えてみる。敏雄が想う、三鬼、白泉、敏雄のそれぞれの立ち位置が見えてくるようだ。ひとつひとつの石は敏雄が目覚めた新興俳句という新しさを求めた俳句への鎮魂。外から内に繋がり境の区別が無くなっている賽(さい)の河原の風景である。その石々を家の中で積み上げている敏雄の背中を想うのである。弔いと創造を繰り返す俳句への思いと読めてくる。そして、どこか途方に暮れている印象がある句である。

 『眞神』から『鷓鴣』の刊行まで約五年のインターバルがあるが、制作年に於いてこの二句集は同時期である。両作品とも敏雄俳句史に於ける新興俳句からの起死回生といえるだろう。『鷓鴣』での彼岸の捉え方が微妙に『眞神』と異なることに注目しながら更に読み進めて行きたい。


●―13成田千空の句/深谷義紀

 白鳥の花の身又の日はありや

 第2句集「人日」所収。

 千空作品の中で最も多い季語は「雪」である。青森、それも雪の多い津軽の五所川原を終生離れることがなかった千空だから、これは謂わば当然の結果だろう。ところが、それに次いで多いのが「白鳥」。これは、やや予想外の結果だと言える。確かに東京などと異なり、青森には冬季になれば白鳥が多数飛来するから、白鳥を見かけることがさほど珍しくないという事情はあるだろう。しかし、そうは言っても、他の作家の場合「白鳥」の作例はそう多いとは言えないし、この点はやはり千空の句業の一つの特質であろう。

 掲出句以外の「白鳥」の句を挙げる。

 波なりに冬去る白鳥の墓一基   「地霊」

 白鳥の黒豆粒の瞳を憐れむ    「人日」

 白鳥の遥かな一羽父なるか    「天門」

 白鳥千羽東にひらく海と空    「白光」

 白鳥の声かすめ去る夢の端    「忘年」

 白鳥の飢ゑのうら声風のこゑ   「十方吟」

 各句集から一句づつ引いた。

 これら「白鳥」の句を眺めているうちに気付くのは、白鳥に千空の様々な想いが込められているということである。千空は白鳥を客観視するのではなく、かけがえのない存在の人間に接するような眼差しを注いでいる。上述の句に即して言えば、或る時は“墓を遺して逝った男”を、或る時は“幼少時に死別した父”を、或る時は“凶作による飢饉に見舞われた津軽の先祖たち”を、それぞれ見ているのである。

 では、なぜ千空はこの「白鳥」という対象に惹かれ、このように己が想いを託したのだろうか。以下は、全くの独断である。

 五所川原からさほど離れていない津軽外が浜には「雁風呂」「雁供養」の伝承が残る。津軽の人達は、春になると砂浜に残る木の枝を拾いながら、北に帰ることができなかった雁の霊を弔うという。千空が白鳥を見る眼差しに、これと相通ずるものがあったような気がしてならない。

 純白の白鳥の姿は確かに美しい。だが、長い旅路の中途で力尽きるものも少なからずいるだろう。また、たとえ無事に辿り着いても飛来した地で斃れていくものも多い筈である。眼前の白鳥と来年再び相まみえる事は不可能と言ってよいだろう。掲出句では、運命の過酷さに裏打ちされた、哀しいまでの白鳥の美しさが詠われている。


●―14中村苑子の句  【『水妖詞館』―― あの世とこの世の近代女性精神詩】41.42.43.44/吉村毬子

41 鐘の音の絡みて震ふ髪を梳く 

 以前、鑑賞した4.の句の拙文の最後に以下がある。

 4.跫音や水底は鐘鳴りひびき

 苑子の詠む「水」はなぜか粘りを持つ。跫音は冴え、水は透明でさらさらと流れ、鐘の音は美しく澄む。だが、苑子の水底に捕まると、それらも清澄なものを湛えながら絡まっていくのである。(中略)跫音と鐘の音は、永遠に響き、そして絡まっていくのであろう。

 先日も〈5.撃たれても愛のかたちに翅ひらく〉と〈30.愛重たし死して開かぬ蝶の翅〉の両句の関連性を論じたが、今回の「鐘」もまた、4.の句との繋りを予知した訳ではなかったが、自ら、予告したような文章を書いていたことに驚きながらも、納得している次第である。

 掲句の「鐘の音」が、4.の句の「水底」から聴こえてくる音なのかは、書かれていないのであるが、「髪を梳く」行為は、髪を洗った後に必ずすることであり、水を裏付けている。私はまた、4.で〈躰の水底に鐘があり、水底が鳴っているのだ〉と論述したが、今回の句も自身の水底の「鐘の音」が絡んで「震ふ髪を梳く」のだとも思える。

 鈴=〈34.鈴が鳴るいつも日暮れの水の中〉や、鐘のその美しい音色は、神仏との交信とも云われ、湖には寺院が沈んでいて、ときとしてその鐘の音が聞こえる、などという日本各地に残る沈鐘伝説とともに、苑子の魅かれるものであったのだろう。苑子は、民話や伝説が好きであった。

 苑子の好んだ紀州には、僧の安珍に裏切られた清姫が蛇に変化(へんげ)、変成(へんじょう)し、道成寺で鐘ごと安珍を焼き殺すという、安珍清姫伝説がある。

 そして、福井県敦賀の金ケ崎には元禄2年8月、ここを訪れた芭蕉の句碑がある。

  月いつこ鐘は沈るうみのそこ  松尾芭蕉

 『奥の細道』には記されていない句だが、宿の主から聴いた沈鐘伝説を一句にしたそうである。福井への旅を私に勧めていた苑子も訪ねた地かも知れない。また、即身仏の行者は、生きたまま木棺に入り、その中で断食をしながら鐘を鳴らしてお経を読み続けたと云われる。

 「鐘の音」が、古代の神仏の遥か悠久の時より鳴り続け、女の髪に絡みついて震える。その「震ふ髪を梳く」一刻(いっとき)、巫女のごとく、鐘とともに水底に沈んでいる者達の憑代となっているかのようである。苑子は、それらの美しく荘厳な悲哀の鐘の音を確かに聴いているのである。


42 若き蛇芦叢を往き誰か泣く

 蛇は古代より神の象徴である。眠らず脱皮して若返る(ように見える)、強い生命力は、生と死を超越した存在として崇められる。陸上のみならず、水の上や、さらに木の上までとどこまでも素早く移動できる事が、昔の人をして、あの世とこの世の往来さえ可能だと思わせていた。

 〈あの世とこの世を往き来する女流俳人〉の異名を持つ苑子も、「花」や「桃」に次ぐほど多くの「蛇」の句を残している。後日鑑賞することになるが、『水妖詞館』にも他に2句を掲載しているし、その後の句集にもいくつかの蛇を登場させている。

  草擦りの野擦りの蛇へ火を放つ      苑子『四季物語』 

  荒髪も蛇と長けるぬる水鏡         〃『吟遊』

 今回の句は、句集に収めた「蛇」の句では最初の作品である。が、『水妖詞館』は62歳刊行であり、編年体で作成した句集ではないため、何才頃の作品かは解らないのである。しかし、『四季物語』や『吟遊』からの掲出句よりもやはり若書きの感はある。

 「若き蛇」は青年であろう。「蛇」の強い生命力は性の象徴でもある。高さ2メートルにも伸びる大群落を作る「芦叢」は川辺に自生する。蛇は、川の姿に重ねられ、水神とも伝えられることから、「芦叢」は、蛇の思うがままに支配できる場所とも言えよう。生めかしい「若き蛇」が、獲物を呑み込み芦叢を往き過ぎるように、瑞々しい艶気(つやけ)を持つ青年が巷間で泣かせた「誰か」がいるという事を詠んでいるのか――。誰かの措辞は、複数とも取れる。己れの意のままに青年は世間の女達を弄ぶ。

 「誰か」のひとりが苑子自身であるのかは、定かではないが、「若き蛇」の行動や「泣く」者達を客観的にとらえ、愛憎も悲哀も描かれてはなく、静かに視つめ受け流しているようにさえ思われる。

 苑子に限らず、神々や生命の象徴と崇めれる「蛇」は、多くの俳人の佳句として、その姿をなお一層輝かせているのである。


  吹き沈む

  野分の

     谷の

  耳さとき蛇               高柳重信


  法華寺の空とぶ蛇の眇(まなこ)かな   安井浩司


  水ゆれて鳳凰堂へ蛇の首       阿波野青畝


43 身を容れて夕ぐれながき合歓の歓

 「合歓」は、葉が夕方閉じるが、花は夕方に開き、夜になっても咲いている。中七下五の「夕ぐれながき合歓の歓」は、夕暮れになり花が咲き始め、その時間は、花にとっても見る者にとっても楽しい時であるという解釈が成り立つ。「合歓の歓」と同字を当てた技巧も効いている。また上五「身を容れて」は、高木である合歓の木の下で花を眺めているのか、樹形が真っ直ぐではなく倒れたようであるため、身を容れる風情も面白い。

 しかし、「合歓」は〈ごうかん〉という読み方もあり、歓楽をともにすることの他に、同衾するという意味もある。とすると、上五の「身を容れて」と「合歓の歓」が途端に艶を帯びた句に変貌してくるのである。

  象潟や雨に西施がねぶの花      松尾芭蕉

 春秋時代、呉王夫差が、その美貌に溺れて国を傾けるに至ったという美女、西施を合歓の花に譬えた『奥の細道』での有名な一句であるが、山本健吉の文章を抜粋する。

『芭蕉・その鑑賞と批評』2006年新装版)

   西施が悩ましげに、半眼閉じているさまに、薄紅の合歓の花が、雨に濡れながら眠っているというのであって、その姿を雨中の象潟の象徴と見たのである。(中略)つまりその雨景そのものが、恨むがごとく、魂を悩ますがごとく、寂しさに悲しみを加えた、女性的な情緒だったのであって、それはまた、象潟に思いを寄せてははるばるやって来た、芭蕉の心の色でもあった。

 芭蕉は、象潟の雨景に西施を重ねながら、恨むがごとく、寂しさを表現しているが、苑子の句は歓楽をともにする嬉しさを詠っている。そして、日常茶飯事では無いがために、(合歓(ねむ)の花を眺める時間も、合歓(ごうかん)の時間も)その喜びも一入のように思われる。逢引に似たイメージも想像される。

 ネムの名は、葉の睡眠運動によって閉じることから付いたそうであるが、西施が眠っている様子や同衾をも思い起こさせる「合歓の花」は、そのほのぼのとした柔かな花の姿のように、朦げな艶があるようである。漢名を夜合樹とも言うらしい。

  羅(うすもの)の中になやめりねぶの花       各務支考


44 死にそびれ絲遊はいと遊ぶかな

 句集の序において高屋窓秋氏が〈通読していて心のやすまるひまもないような気がして、すこしぐらい息ぬきになる作品が含まれていてもよいではないかと〉思ったことについて、同感しつつ、全139句の三分の一近くまで書き綴ってきたのだが、掲句が、久し振りに息をつける気がするのはなぜだろうか。

 苑子の句には、たびたび「死」が頻出するが、掲句もまた、上五から「死にそびれ」という尋常でない言語で始まるのだが、「死にそびれ」てもいるためか、句全体に「死」を扱った凄絶さは感じられない。「絲遊」(陽炎(かげろう))は実体のない気であり、日射しのために熱くなった光が不規則に屈折されて起こる儚い仄かなものであると、死が喩えられているからであろう。

 また「絲遊はいと」の韻を踏む音感と、「絲遊は」「遊ぶかな」の視覚的な文字による言葉遊びも影響している。この句の前句〈39.身を容れて夕ぐれながき合歓の歓〉にも見られた。同じ手法で1頁に2句並べられている趣向である。

 「死にそびれ」とは、死のうとしたけれども機を失ってしまったことだろうが、人は、人生のいろいろな場面で〝寝そびれた〟ように、「死にそびれ」ているのではないだろうか。

 母親の胎内で父親の精子が生き残る時、羊水の中でようやく臨月を迎え、出産される時、危く交通事故に遭遇した時、自然災害にあった時、大失恋して、仕事上の大失敗をして〝もう死んでしまいたい〟と思った時、等々――。そんな時、「死にそびれ」なかった人もいるということを考えると、生あればこそ「絲遊」を感受し、その中に遊ぶ自身の姿も実感できるのである。

 しかし、人の一生など、「絲遊」のように儚いものだと、苑子が、その浮遊する光の中で微笑んでいるような気もする。その微笑に私は少しだけ、息をつけるのかも知れない。