2019年10月25日金曜日

第124号

※次回更新 11/8

 【速報!】第5回攝津幸彦記念賞応募選考結果
 ※受賞作品は「豈」62号に掲載

 【第2弾!】怒涛の切れ特集!

 【紹介】週刊俳句第650号 2019年10月6日 特集『切字と切れ』
 【緊急発言】切れ論補足(1)――週刊俳句第10月6日号 特集『切字と切れ』座談会に寄せて
 ※10/18 追加

■平成俳句帖(毎金曜日更新)  》読む

令和花鳥篇
第一(8/23)神谷 波・曾根 毅・松下カロ
第二(8/30)杉山久子・渕上信子・夏木久
第三(9/6)小林かんな・早瀬恵子・木村オサム
第四(9/13)浅沼 璞・小野裕三・真矢ひろみ
第五(9/20)林雅樹・渡邉美保・家登みろく
第六(9/27)小沢麻結・井口時男・岸本尚毅・仙田洋子
第七(10/4)飯田冬眞・ふけとしこ・加藤知子・前北かおる
第八(10/11)山本敏倖・堀本吟・仲寒蟬・下坂速穂
第九(10/18)岬光世・依光正樹・依光陽子・辻村麻乃
第十(10/25)水岩瞳・菊池洋勝・内橋可奈子・高橋美弥子・川嶋健佑

■連載

【抜粋】〈俳句四季11月号〉俳壇観測202
戦後の風景を思いだしてみる ――秋野弘を誰が覚えているか
筑紫磐井》読む

寒極光・虜囚の詠~シベリア抑留体験者の俳句を読む~㉒ のどか  》読む

麻乃第2句集『るん』を読みたい
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渡邊美保第一句集『櫛買ひに』を読みたい 
6 『櫛買ひに』を読む/山田すずめ 》読む

句集歌集逍遙 木下龍也・岡野大嗣『玄関の覗き穴から差してくる光のように生まれたはずだ』/佐藤りえ  》読む

葉月第1句集『子音』を読みたい 
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7 生真面目なファンタジー 俳人田中葉月のいま、未来/足立 攝  》読む

佐藤りえ句集『景色』を読みたい 
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■Recent entries

特集・大本義幸追悼「俳句新空間全句集」 筑紫磐井編  》読む


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前衛から見た子規の覚書/筑紫磐井
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およそ日刊俳句新空間  》読む
…(今までの執筆者)竹岡一郎・青山茂根・今泉礼奈・佐藤りえ・依光陽子・黒岩徳将・仮屋賢一・北川美美・大塚凱・宮﨑莉々香・柳本々々・渡邉美保 …
5月の執筆者 (渡邉美保

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…(主な執筆者)小野裕三・もてきまり・大塚凱・網野月を・前北かおる・東影喜子






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筑紫磐井著『女帝たちの万葉集』(角川学芸出版)

新元号「令和」の典拠となった『萬葉集』。その成立に貢献した斉明・持統・元明・元正の4人の女帝、「春山の〈萬〉花の艶と秋山の千〈葉〉の彩を競へ」の天智天皇の詔を受けた額田王等の秘話を満載する、俳人初めての万葉集研究。平成22年刊2,190円。お求めの際は、筆者までご連絡ください。

【抜粋】〈俳句四季11月号〉俳壇観測202 戦後の風景を思いだしてみる ――秋野弘を誰が覚えているか  筑紫磐井

(前略)
昭和二十二年に馬酔木新人会が秋桜子の肝いりで発足し、わずか二~三年の間に多くの新人が登場したのだ。新人は登場すべき時に集中的に登場する。

ぬばたまの黒飴さはに良寛忌  能村登四郎
弥生尽追ひ着せられて羽織るもの
老残のことつたはらず業平忌
曇りゐてさだかならねど日脚のぶ 藤田湘子
茶摘唄ひたすらなれや摘みゐつつ
秋風の路地や哀歓ひしめける
しら玉の飯に酢をうつ春祭    水谷晴光
遠蛙愁ひはやがてあきらめに   林 翔
門掃きて雷の来ぬ日の夕ながき 馬場移公子


私は以前、能村登四郎、藤田湘子を調べるために、この時期の新人たちの作品を詳細に研究したことがある。若い世代の情熱が迸っているようで好ましいが、今になってみると印象に残っているのは、その後名をなしたこれらの作家たちではなかった。

片蔭をいでてひとりの影生まる  22年
光りつつ冬の笹原起伏あり    23年
ひさびさに来れば銀座の時雨る日 
風荒れて春めくといふなにもなし 
蝶の息づきわれの息づき麦うるる 
青芝にわが子を愛すはばからず 
七月のかなかななけり雑司ヶ谷 
椎にほひ病むともなくてうすき胸  24年
見えねども片蔭をゆくわれの翳 
夏ふかししづかな家を出でぬ日は
雪つもらむ誰もしづかにいそぎゐつ 25年


 ここにあげたのは秋野弘という作家の作品だ。先にあげた新人たちの作品は今になってみると言葉が先走って、当時の若い人たちの心情が本当は充分伝わっていないことに気付く。しかし秋野の句は、私でも辛うじて記憶にある、昭和二十年代の風景や心情に、ぴったりと寄り添った詠み方となっているように思う。孤愁の影が漂うのだ。
(中略)
 秋野弘は戦前から句作していたようだが、戦後発足した馬酔木新人会では藤田湘子と並んでリーダーとなり、話題を呼ぶ句を多く作っていた。当時の馬酔木は昔の風景句から主観的・心象的人事句に移っており、秋桜子さえそうした傾向に染まっていたのである(実際この時期、秋桜子も「寒苺我にいくばくの齢のこる」などと詠んでいた)。
一方、韻律に厳しい波郷が二十三年に馬酔木に復帰しているが、新人たちは波郷の句に関心を持っていたものの、波郷復帰以前にすでに馬酔木新人会の文体は確立していたようである。だから当時の新人たちが口々に賞賛するのは次のような句であった。

風荒れて春めくといふなにもなし 秋野弘
春愁のむしろちまたの人群に  岡野由次


しかし秋野弘は昭和二十五年五月をもって馬酔木への投句を廃止している。まだ馬酔木は年刊句集を出していなかったから何の記録もなく、秋野の生年も、出身も、句歴も詳細は分からない。三菱の俳句会に入っていたと言われているから、三菱系の会社員であったのだろう。当時親しかった人達もみななくなり、また秋野のことを記録に残そうとした人もいなかったから、秋野に関して分かることは、もはや馬酔木誌上に残った俳句だけと言うことになる。
ではなぜ秋野は馬酔木を止めたのだろうか。当時の句を見ると患っていたらしくも思われるが、競い合った湘子、登四郎たちが二十四年末を以て一足先に新人賞を受賞し、自選同人に昇格していることにも原因があるかも知れない。とかく新人たちは、そうしたことに神経質となるからだ。
以後秋野弘の名は二度と馬酔木で見ることはなくなる。いや、俳句界でも見ることもなくなった。彗星のように現れ、彗星のように消え去ったというべきだろう。ことによったら、後世、湘子や登四郎を凌ぐ俳人となっていたかも知れない。新人の扱いは、主宰者たるもの注意してほしいものだ。
(以下略)

※詳しくは「俳句四季」11月号をお読み下さい。

寒極光・虜囚の詠~シベリア抑留体験者の俳句を読む~㉒  のどか

第3章 戦後70年を経ての抑留俳句
Ⅵ 百瀬石涛子(せきとうし)さんの場合(1)
【シベリア抑留体験(2018・5・2取材)】その2


 1945(昭和20)年、終戦の時は20歳だった。抑留生活でも作業班長の役目は継続された。ロシア語を覚えてロシアの現場監督と仲良くなるのも大切な仕事であった。スプラスカという成績表の点数の評価を上げてもらうために、酒や女のことで話を合わせた。自分の班は常に75点の評価を貰い、他の班長から羨ましがられた。ほかの班は皆50点位で有ったから。
 ノルマの作業が終わると虱とりをした。服の縫い目にびっしり詰まっているので、木の棒でこそいでつぶしたが、それでもすぐについてくるから、取っても無駄だった。
皆、栄養失調になった。食物は横流しされたので、常にみんな飢えていた。黒パンの分配では、白樺の秤を作って切るのだが、パンを切るときには棚になったベッドの上からの皆の眼差しが痛く感じた。
 春には、仕事中に木の根を掘って、茸を集めて食べた。
 その時の軍医さんは長野県の大町の出身で、毒の食べ物の情報を知らせてくれた。しかしその軍医さんも医務室に駆り出されて、凍傷になった人の切断の仕事に就いた。
 作業は、38度以上の熱があると休めたが皆、体温計をペチカで温めるから壊して、すぐにばれてしまった。
 トイレは、深さ2メートル以上掘り細い丸太を4~5本渡した物である。冬には用を足すところから凍り、それがだんだん積もって鍾乳石のようになるので、便所当番が壊してモッコを使って運ぶのだが、しぶきが服に着きペチカで蒸されてとても臭くなった。
 赤化教育の中で成績が良いと早く帰還できるという思い込みもあり、それによる妬みから密告が日常化していった。日本人同士の噂話は、最も警戒するところとなった。
 1947(昭和22)年頃から病人が日本へ帰還した。1948(昭和23)年からは健康な人も帰還できるようになった。1948(昭和23)年ごろ帰還の時が来た。日本に帰ったらダモイ指導者になると言われもしたが、乗船前に医務室の仕事を手伝うことになった。医務室には栄養失調でやせ衰えた人や浮腫んで顔がぱんぱんになった人の介護を手伝うことになったため他の人と一緒に帰ることが出来ず、一船遅れることになってしまった。
 帰還船の中で靴を片方盗まれてしまって困っていると、船長が船倉に保管されている靴の山に連れて行ってくれた。それは、船には乗れたが船の中で死んだ人たちの靴であった。船長の話では、船の上での仲間割れで日本海に投げ込まれた人の物も混じっていたという。
 1948(昭和23)年、8月興安丸で舞鶴港に着く。興安丸へ港から艀が迎えに来た。桟橋はゆらゆら揺れていた。舞鶴の援護局において、米軍の日系二世の兵士から、赤化教育を受けていることや戦争中の職名について調べられた。人によっては、東京で再調査を受ける人もいた。
 日本に帰ったらシベリアの事は、話してはならないと思っていた。
 帰国後、国鉄に就職し電車のバッテリーを保全する仕事をした。
しかし、当時労働調整と言った赤狩り(レッドパージ)により、シベリア帰りは首にされることが多く、石涛子さんも25歳で首になった。この出来事は、本当に悔しかったという。
 その時養母は、友人が運送会社を経営していると言い、そこへの再就職を勧めてくれた。
石涛子さんは養母について、とても人柄がよく尊敬していると話された。
トラックの運転免許を取るのは、戦地で車の運転をしてきたので問題は無かった。
 常に自分のことは、しゃべらないようにしてきたのだが、そこでも人の噂になったのか、労働組合を作らなければならないので、組合長をやって欲しいと頼まれてしまった。
 松本電鉄社長が、タクシーもするということでここでも昔のことを調べられていて、組合長をした。
 1960(昭和35)年、安保の時代。社会党系の組合だったので、デモ参加者の送迎をした。仕事が終わり、人数割り当ての指示があるとデモ参加者を乗せて東京に向かった。
 1960(昭和35)年6月15日、樺美智子さんが亡くなった時も、同年6月19日、岸伸介総理大臣が国会からヘリコプターで脱出した日も送迎のためにデモの会場に居た。子育てをしたこの時代は、シベリア抑留時代と同じように苦しかった。
 帰還後も石頭子の名前で俳句を続けてきたが、友人である中島畦雨さんの俳句会が浅間温泉で句会をした時に、相撲俳句で1等になった。この時に周囲から俳号を変えてはどうかと言われ、石涛子としてはどうかとなった。石涛子は、広辞苑を引くと中国の画人であると話される。
 初めは、「一時間だけだからね。」とおっしゃられていたが、二時間半に渡り、お話を伺い別れ際に、筆者が父のために詠んだ拙い句を読んでいただいた。すると石涛子さんから「この句に力を貰って、またこれからも抑留の俳句を詠もうと思うよ。」というお言葉を頂いた。
 そして、石涛子さんの句集「俘虜語り」にサインをお願いすると、少し照れながら「尚生きむ」の添え書きとサインをして頂いた。
 迎えに来た、娘さんに挨拶をすると同年代ということで、「もう1人、娘ができた。」と言っていただくことができた。
五月の塩尻駅の空は、雨を含み暮れかかっていた。
 (つづく)

2019年10月11日金曜日

第123号

※次回更新 10/25

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 【第2弾予告!】怒涛の切れ特集!

 【紹介】週刊俳句第650号 2019年10月6日 特集『切字と切れ』
 【緊急発言】切れ論補足(1)――週刊俳句第10月6日号 特集『切字と切れ』座談会に寄せて
 ※10/18 追加

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第二(8/30)杉山久子・渕上信子・夏木久
第三(9/6)小林かんな・早瀬恵子・木村オサム
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第六(9/27)小沢麻結・井口時男・岸本尚毅・仙田洋子
第七(10/4)飯田冬眞・ふけとしこ・加藤知子・前北かおる
第八(10/11)山本敏倖・堀本吟・仲寒蟬・下坂速穂

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【抜粋】〈俳句四季10月号〉俳壇観測201
昭和の風景を思いだしてみる ――藤原月彦と山内将史を覚えているか
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【抜粋】〈俳句四季10月号〉
最近の名句集を探る第64回――齋藤慎爾・今泉康弘・野口る理・司会 筑紫磐井
筑紫磐井》読む

麻乃第2句集『るん』を読みたい
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渡邊美保第一句集『櫛買ひに』を読みたい 
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5月の執筆者 (渡邉美保

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筑紫磐井著『女帝たちの万葉集』(角川学芸出版)

新元号「令和」の典拠となった『萬葉集』。その成立に貢献した斉明・持統・元明・元正の4人の女帝、「春山の〈萬〉花の艶と秋山の千〈葉〉の彩を競へ」の天智天皇の詔を受けた額田王等の秘話を満載する、俳人初めての万葉集研究。平成22年刊2,190円。お求めの際は、筆者までご連絡ください。

【紹介】週刊俳句第650号 2019年10月6日 特集『切字と切れ』

【長大な座談会】「切字・切れ」をめぐる諸々
……筑紫磐井/高山れおな/青木亮人/上田信治(司会)

https://weekly-haiku.blogspot.com/2019/10/62-1.html

【見出し目次】
●ご挨拶
上田信治:この秋は、元号の切替りだったからというわけでもないでしょうが、俳句の世界では「切字/切れ」論が、にわかに盛り上がりました。
 高山れおなさん『切字と切れ』、「新切字論」を含む川本皓嗣さんの『俳諧の詩学』の刊行があり、それらを受けて「豈」62号で特集「現代俳句の古い問題『切字と切れは大問題か』」。
 またそれらとは別に角川「俳句」では恒例の(?)切れ特集を、「大特集 名句の『切れ』に学ぶ作句法」と題して、組んでいます。
 いい機会なので、さまざまな立場から「切字/切れ」論の、論点の洗い出しと交通整理をお願いし、俳句界の「切字/切れ」論の水準を、一気に引き上げよう、なんなら、最終解決を提示しよう、と。合わせて、上掲の文献、それぞれのプロモーションにも努めましょう、と。そういう主旨で、座談会が企画されました。

1.それぞれの「切字/切れ」観
●「切字だって日本語なのですから」(高山)
●「あ、切れの問題、解決してる」(上田)
●「あと100年後ぐらいには注目される」(筑紫)
●「俳諧を主張するものがない時代の現象」(青木)

2.高山れおな『切字と切れ』について
●「平成期のキレキレ論やハウツー的な世界」(青木) 
●「いや蛙は音をたてますよと言われてしまった」(高山)
●「ステキな劇薬だな、と思いました」(青木)
●「中立では全くありません」(高山)
●「秋山って男は知っていますか?」(筑紫)
●「現在書きたいテーマは3つあります」(高山)

3.「豈62号」特集『切字と切れは大問題か』について
●「みなさん「飛ばして」ますよね」(上田)
●「『平句』というのは差別用語ですよね」(筑紫)
●「仁平切れ論は、ここにきて破綻したのでは」(高山)

4.「俳句」2019年10月号「特集 名句の『切れ』に学ぶ作句法」について
●「まあ、注文が入ったらああいう書き方になる」(筑紫)
●「機械的な読み/詠みが軋みをたてる」(青木)

5.いっこうにまとまらないまとめ(仮)
●「これを「田楽構造」と名づけましょう」(筑紫)
●川本「基底部・干渉部」説、復本「首部と飛躍切部」説について 
●昭和二十年代の「天狼」

【緊急発言】切れ論補足(1)――週刊俳句第10月6日号 特集『切字と切れ』座談会に寄せて 筑紫磐井

『新切字論』の登場まで
 「週刊俳句」10月6日号の座談会でかなり色々と話をさせて頂いた気がするが、断片的に語ったため充分意を尽くせなかったところもある。特に、川本皓嗣氏の『俳諧の詩学』は他に比べて最後に手元に届いたものであるために、この座談会では充分言い尽くせていない気がする。この「切れ論補足」では、『俳諧の詩学』を中心に意見を述べてみることとしたい。
    *
 切字は、「かな」「けり」のような上句(発句)を下句(脇句)から切断するための機能を持つとされているが、一部の切字、「や」のようなものは句中にあり、これは切断の効果を果たしていないと言う問題を抱えていた。川本(以下敬称は略させていただく)はこれを『芭蕉解体新書』(1997)におさめた「切字論」で、切字は係り結びの原理によっていわば遠隔操作的にその勢いの及ぶ限界の後で句を切る場合が多いという指摘をすることによって原則論を徹底しようとしたものであった。
 これは目から鱗が落ちる思いのする画期的な切字論であり、ちょうど私が『俳句教養講座第2巻〈俳句の詩学・美学〉』(2009)の編集を担当したところであったので「切字の詩学」の執筆をお願いしたものである。
 しかし、その後、藤原まり子によって、川本の係り結び論は句末の切れのすべてを説明しているわけではないと指摘されて、新たに稿を練り直したものがこの「新切字論」であった。
 『俳諧の詩学』に収められた内容によれば、切字全体が切れをどのように発生させているかを調査すると言う方針に基づき、『菟玖波集』『竹林抄』『新撰菟玖波集』・・・さらに宗因、芭蕉、蕪村、一茶、子規までの作品を分析する事によって結論を導出しようとしている。その結果は、「何であれ句中に一つ切字があれば、句全体が脇句から切れたのだ」と言っている。
 これはしかし議論が逆転しているのではないか、脇句から切るための用語が切字であったのだから、切字が何であるかの定義に逆戻りする恐れがあるように思えた。そこで私の提案を考えてみたのがちょうどこの座談会の時期であったのである。

田楽構造論
 私は、過渡期問題に最も興味がある。と言っても、連歌で、切字が無い時代から切字が生まれた過渡にはあまり興味が無い。それは、せいぜい「かな」がなぜ生まれたかを説明するにとどまるからだ。むしろ、「や」がなぜ生まれたかこそが面白い。ここに現代にまで紛糾の種をまいた「切れ」の胚芽があるからである。「豈」で既に述べたところもあるがあえて繰り返そう。
 連歌の書である専順法眼之詞秘之事では、(助詞=)かな、もかな(もがな)、か、よ、そ(ぞ)、や、(助動詞=)けり、らむ(らん)、す(ず)、つ、ぬ、じ、(形容終止形の語尾=)[青]し、(動詞命令形の語尾=)[尽く]せ、[氷]れ、[散りそ]へ、[吹]け、(疑問の副詞の語尾=)[いか]に、の18種類が切字として挙げられている。しかしそれらが切字となった由来については必ずしも明らかではない。
 そこで、きわめて初期の二条良基『連理秘抄』(一三四九年)と宗砌『密伝抄』(時期不明)とこれを比較してみよう(「週刊俳句」より少し例を多く加えてみた)。当然、後世の専順法眼之詞秘之事よりはこちらの方が少ないが、それだけにとどまらない問題が発見される。

[二条良基・連理秘抄]
 発句は最大事の物なり。・・・かな・けり常の事なり、このほか、なし・けれ・なれ・らん、また常に見ゆ。所詮発句はまづ切るべきなり、切れぬは用ゐるべからず。かな・けり・らんなどやうの字は何としても切るべし。物名・風情は切れぬもあるなり。それはよくよく用心すべし。
[二条良基・撃蒙抄]
 発句の体様々なるべし。哉・けり常は用ゆべし。らん・けれ・つれなど時に又見ゆ、所詮切ってすべきなり。ただの句には変わるべし。かな・けりなどは何としても切るべし。
[宗砌・密伝抄(前段)]
 切てには十三、追而二、已上十五、かな・けり・らむ・や・そ・せむ・けん・し・こそ・れ・ぬ・よ・す・なき。
[宗砌・密伝抄(後段)]
 発句の切れたると申すは、かな・けり・や・ぞ・な・し、何等申すほかに、なにとも申し候はで、五文字にて切れ候ふ発句、―――是は五文字の内にて申す子細候ふ。
[梵灯庵・長短抄]
 発句の切字。かな・けり・そ・か・し・や・ぬ・む(ハネ字)・セイバイノ字・す・よ・は・けれ。

 活用形が混じっているので一概に比較しにくいが、決定的違いは「や」があるかどうかである。極めて独断的に言えば、良基『連理秘抄』と宗砌『密伝抄』等の差は、前者に「や」がなく、後者に「や」がある点である。切字は良基が定義して以降増殖していくのだが、その典型例が「や」なのである。
 ここで私は、何故「や」が切字に入ってしまったかを推理してみた。「かな」に比べて確かに「や」は由緒正しい切字ではなさそうだ。由緒正しい切字とは、誰が見ても切字の定義(上句を下句から切断するための機能)から見て断固譲れないと言う語である。
 ヒントは、『連理秘抄』の「物名・風情は切れぬもあるなり」である。物名・風情は下五の名詞止めの切れだろうが、本来「や」等なくても切れるのである。従って本来「や」はその直下で切るためにあるのではなく、物名・風情の下五の名詞で切れるのを便宜的に保証しようとしたものであろう。私は補助機能であろうと思っている。
 私は今までの議論で色々文法機能が論じられているのが不満であった、当時の歌人は精緻な文法など知らなかったはずだと思う。その点では現代の俳人でも同様だ。それでも短歌・俳句は作れる。
 文法を知らないでどうやって切字を認識していたのか。私はそれこそが「構造」だと思う。「構造」だけは誰が見てすぐ判るのである。
 私のヒントになったのは高山氏から教えられた、田中道雄氏が「F形式(構造といってよいであろう)」[Fは「古池や」]と呼んで、俳句の切字の展開を論じられている点である。

 古池や蛙飛び込む水の音

 この構造が後世の俳諧を支配してゆくと言うのである。ただこれが、良基『連理秘抄』や宗砌『密伝抄』の「や」の論議につながるわけではない。切字「や」の誕生の時は別の構造が主流だったのである。

○『九州問答』(二条良基)
 花雪嵐の上の朝ぐもり 
 波散る潮の満ち干の玉あられ


○『初心求詠集』(宗砌)
 舟けふとる梶の初瀨川
 月峰かけ谷々の夕涼み
 花雲見し面影の龍田山
 月海名もひとしほの水の秋


 これを、名詞3つ(たとえば第1句は、花、雪、朝ぐもり)が串に刺さっている形に似ているので、「田楽構造」と名づけてみた。
 当時F構造だけはまだ切字と認められなかった、これだけは確かである。そうした例がないからである。どうしても、「田楽構造」であることが大事であったのである。この構造を見ると歌人は一様に安心するわけである。それでも、良基一派はこれを発句の体をなしているが切字と認めず、宗砌一派は切字と認めた、いわば東大派対京大派のような学派の争いがあったと思う。とはいえどちらが絶対的に正しく、どちらかが絶対的に誤っているわけではないであろう。この過渡期を経て、徐々に「や」が切字と認められるに至ったのであろう。

 この田楽構造の「や」を文法的にどのような機能があるかを議論し始めたのが、その後の「や」の切字論であると思う。しかし原初、文法の前に先ず構造があったのだ。したがって「や」がどこで切れるかは論外であったのである。
 だから川本論に即していえば、川本の言う「何であれ句中に一つ切字があれば、句全体が脇句から切れたのだ」の「切字」とは、既往のよく知られた「かな」「けり」のような一語だけではなくて、今まで未知の、しかし将来発展するであろう切字候補を含んだ「田楽構造」のような「切字構造」も含まれると理解したいと思う。この「切字構造」が新しい切字を生む。そして、「切字構造」とは、一番最初の「田楽構造」から始まって、次々に進化発展し、やがて「F形式(構造)」と変化してゆく特殊な文体の生み出したものだと思うのである。
 切字が増殖すると言うのは、こうした形式が誕生して行く事によって勢いづいたと言うべきであろう。
(続く)

寒極光・虜囚の詠~シベリア抑留体験者の俳句を読む~㉑  のどか 

第3章 戦後70年を経ての抑留俳句
Ⅵ 百瀬石涛子(せきとうし)さんの場合(1)

【シベリア抑留体験(2018・5・2取材)】その1
 2016(平成28)年6月から、インターネットによる下調べを始め、長野県上田市にすむ一人の俳人の存命の可能性を信じ、その足跡をたどった。しかしその方は、ご存命ではあるが話をできる状況ではないことが、その記事の発行元への確認で明らかになった。
 遅きに失した感を覚え、シベリヤ抑留俳句を辿る道筋が絶たれた思いがした。
 そのとき、友人から紹介されたのが、長野県塩尻市に住む百瀬石涛子さんである。
 手紙を書き、電話を重ね、句集『俘虜語り』百瀬石涛子著 花神社を送っていただき、インタビューの約束を得る事ができた。
 2018(平成30)年5月2日、塩尻駅で迎えてくれた石涛子さんは、背筋がピンとしてとても若く見え、にこにことして一見して温和で誠実な印象であった。
 そのまま塩尻駅の喫茶店で石涛子さんからシベリア抑留の話を伺った。
 石涛子さんは、次のように語られた。
 石涛子さんは、1925(大正14)年生まれで、訳あって乳児期に東京の母の元から、父の実家のある松本の祖父母宅に引き取られ、その後養母のもとで成長したそうである。
 1942(昭和17)年。17歳で志願して、少年通信兵としての教育を受けたが、通常より半年早く、1943(昭和18)年に任地に赴くことになり下関へ、下関から釜山を経てソ連と満州の国境東寧地域石門子にて、関東軍国境守備隊の通信兵として、ソ連側を見張る役目等をした。
 次の日の作業を班長として班員に伝えるために、毎晩勉強していたが、夜九時が消灯時間で困っていたところ、時間を過ぎても電気のついている部屋があることに気づく。その部屋では、小隊長が月に2回俳句の会をしていた。そこでその会に参加し、いつも俳句を2句出したら、翌日の勉強をしていた。ある日の句会で、

 咲く萩の兵は偽装にひた走る 

という句で1等になったという。
その時、小隊長から俳号をそろそろ決めてはどうかという話があり、当時の任地の「石門子(せきもんし)」にしようかという話も出たが、その都市の地名を俳号にするなんて立派すぎるので「石頭子(せきとうし)」と名乗ることにした。
 1945年8月終戦を知らされ武装解除を受け私物接収をされ、ソ連との国境に流れる松花江・黒竜江が凍るのを待ち、橇でソ連に渡った。その時は、戦争が終わったのだから日本に帰れると思っていた。
インタビュー後のことであるが電話により、終戦の報せを受けた日や武装解除を受けた日について、筆者が確認すると、正確には覚えていないとのことであった。
凍った河をソ連に向かい渡る中で、凍結しきらない河に戦友が落ちても助ける事ができなかったこと、中には行き倒れている人から衣類をはぎ取る者もいたと、電話の向こうで涙ぐんでおられた。
 捕虜の生活をウラノデ(現在のブリヤート共和国・ウラン・ウデは、バイカル湖に近く、シベリア鉄道の経由地であり、モンゴル共和国経由で中華人民共和国に至る鉄道の分岐点)では、伐採の仕事を主にした。初めの日にみかんと馬鈴薯を食べたが、その後は黒パンとスープの日々が続いた。日本軍の基地から運んだ食料の中で味噌は、「日本人は糞を食べる」といって野晒しで捨て置かれていたため、夜中に「決死隊」と言って味噌を取りに行った。馬の餌を盗み飯盒で焚いて、味噌で味をつけて食べたが、皆が取りに行くので、あっという間に無くなった。見つかって銃殺される者もいた。
製粉工場や缶詰工場といった国営農場で働く日もあった。
 製粉工場では、氷嚢に粉を入れて持ち帰ったりしたが、次第に検査が厳しくなり、営倉(旧日本軍の下士官兵の懲罰施設)送りになる者もでた。
缶詰工場の屠畜場の手伝いでは、肉を口にすることが出来た。ベルトコンベヤーで運ばれた牛頭が真二つにされてスチームで蒸されたものは、食べ応えがあった。山羊肉も頭は、スープになって村民の給食になっていた。
 馬鈴薯の皮むきの手伝いでは、ソ連人は薯の皮を厚く剥くので、その皮を貰ってきて、何度も洗い、白樺のスプーンや杵で潰して、バケツの底に溜まった澱粉を取り餅のようにして食べた。塩が無いのが残念だった。各班交代で、週に1~2回缶詰工場や粉の工場に行った。

(つづく)