『新切字論』の登場まで
「週刊俳句」10月6日号の座談会でかなり色々と話をさせて頂いた気がするが、断片的に語ったため充分意を尽くせなかったところもある。特に、川本皓嗣氏の『俳諧の詩学』は他に比べて最後に手元に届いたものであるために、この座談会では充分言い尽くせていない気がする。この「切れ論補足」では、『俳諧の詩学』を中心に意見を述べてみることとしたい。
*
切字は、「かな」「けり」のような上句(発句)を下句(脇句)から切断するための機能を持つとされているが、一部の切字、「や」のようなものは句中にあり、これは切断の効果を果たしていないと言う問題を抱えていた。川本(以下敬称は略させていただく)はこれを『芭蕉解体新書』(1997)におさめた「切字論」で、切字は係り結びの原理によっていわば遠隔操作的にその勢いの及ぶ限界の後で句を切る場合が多いという指摘をすることによって原則論を徹底しようとしたものであった。
これは目から鱗が落ちる思いのする画期的な切字論であり、ちょうど私が『俳句教養講座第2巻〈俳句の詩学・美学〉』(2009)の編集を担当したところであったので「切字の詩学」の執筆をお願いしたものである。
しかし、その後、藤原まり子によって、川本の係り結び論は句末の切れのすべてを説明しているわけではないと指摘されて、新たに稿を練り直したものがこの「新切字論」であった。
『俳諧の詩学』に収められた内容によれば、切字全体が切れをどのように発生させているかを調査すると言う方針に基づき、『菟玖波集』『竹林抄』『新撰菟玖波集』・・・さらに宗因、芭蕉、蕪村、一茶、子規までの作品を分析する事によって結論を導出しようとしている。その結果は、「何であれ句中に一つ切字があれば、句全体が脇句から切れたのだ」と言っている。
これはしかし議論が逆転しているのではないか、脇句から切るための用語が切字であったのだから、切字が何であるかの定義に逆戻りする恐れがあるように思えた。そこで私の提案を考えてみたのがちょうどこの座談会の時期であったのである。
田楽構造論
私は、過渡期問題に最も興味がある。と言っても、連歌で、切字が無い時代から切字が生まれた過渡にはあまり興味が無い。それは、せいぜい「かな」がなぜ生まれたかを説明するにとどまるからだ。むしろ、「や」がなぜ生まれたかこそが面白い。ここに現代にまで紛糾の種をまいた「切れ」の胚芽があるからである。「豈」で既に述べたところもあるがあえて繰り返そう。
連歌の書である専順法眼之詞秘之事では、(助詞=)かな、もかな(もがな)、か、よ、そ(ぞ)、や、(助動詞=)けり、らむ(らん)、す(ず)、つ、ぬ、じ、(形容終止形の語尾=)[青]し、(動詞命令形の語尾=)[尽く]せ、[氷]れ、[散りそ]へ、[吹]け、(疑問の副詞の語尾=)[いか]に、の18種類が切字として挙げられている。しかしそれらが切字となった由来については必ずしも明らかではない。
そこで、きわめて初期の二条良基『連理秘抄』(一三四九年)と宗砌『密伝抄』(時期不明)とこれを比較してみよう(「週刊俳句」より少し例を多く加えてみた)。当然、後世の専順法眼之詞秘之事よりはこちらの方が少ないが、それだけにとどまらない問題が発見される。
[二条良基・連理秘抄]
発句は最大事の物なり。・・・かな・けり常の事なり、このほか、なし・けれ・なれ・らん、また常に見ゆ。所詮発句はまづ切るべきなり、切れぬは用ゐるべからず。かな・けり・らんなどやうの字は何としても切るべし。物名・風情は切れぬもあるなり。それはよくよく用心すべし。
[二条良基・撃蒙抄]
発句の体様々なるべし。哉・けり常は用ゆべし。らん・けれ・つれなど時に又見ゆ、所詮切ってすべきなり。ただの句には変わるべし。かな・けりなどは何としても切るべし。
[宗砌・密伝抄(前段)]
切てには十三、追而二、已上十五、かな・けり・らむ・や・そ・せむ・けん・し・こそ・れ・ぬ・よ・す・なき。
[宗砌・密伝抄(後段)]
発句の切れたると申すは、かな・けり・や・ぞ・な・し、何等申すほかに、なにとも申し候はで、五文字にて切れ候ふ発句、―――是は五文字の内にて申す子細候ふ。
[梵灯庵・長短抄]
発句の切字。かな・けり・そ・か・し・や・ぬ・む(ハネ字)・セイバイノ字・す・よ・は・けれ。
活用形が混じっているので一概に比較しにくいが、決定的違いは「や」があるかどうかである。極めて独断的に言えば、良基『連理秘抄』と宗砌『密伝抄』等の差は、前者に「や」がなく、後者に「や」がある点である。切字は良基が定義して以降増殖していくのだが、その典型例が「や」なのである。
ここで私は、何故「や」が切字に入ってしまったかを推理してみた。「かな」に比べて確かに「や」は由緒正しい切字ではなさそうだ。由緒正しい切字とは、誰が見ても切字の定義(上句を下句から切断するための機能)から見て断固譲れないと言う語である。
ヒントは、『連理秘抄』の「物名・風情は切れぬもあるなり」である。物名・風情は下五の名詞止めの切れだろうが、本来「や」等なくても切れるのである。従って本来「や」はその直下で切るためにあるのではなく、物名・風情の下五の名詞で切れるのを便宜的に保証しようとしたものであろう。私は補助機能であろうと思っている。
私は今までの議論で色々文法機能が論じられているのが不満であった、当時の歌人は精緻な文法など知らなかったはずだと思う。その点では現代の俳人でも同様だ。それでも短歌・俳句は作れる。
文法を知らないでどうやって切字を認識していたのか。私はそれこそが「構造」だと思う。「構造」だけは誰が見てすぐ判るのである。
私のヒントになったのは高山氏から教えられた、田中道雄氏が「F形式(構造といってよいであろう)」[Fは「古池や」]と呼んで、俳句の切字の展開を論じられている点である。
古池や蛙飛び込む水の音
この構造が後世の俳諧を支配してゆくと言うのである。ただこれが、良基『連理秘抄』や宗砌『密伝抄』の「や」の論議につながるわけではない。切字「や」の誕生の時は別の構造が主流だったのである。
○『九州問答』(二条良基)
花や雪嵐の上の朝ぐもり
波や散る潮の満ち干の玉あられ
○『初心求詠集』(宗砌)
月や舟けふとる梶の初瀨川
月や峰かけ谷々の夕涼み
花や雲見し面影の龍田山
月や海名もひとしほの水の秋
これを、名詞3つ(たとえば第1句は、花、雪、朝ぐもり)が串に刺さっている形に似ているので、「田楽構造」と名づけてみた。
当時F構造だけはまだ切字と認められなかった、これだけは確かである。そうした例がないからである。どうしても、「田楽構造」であることが大事であったのである。この構造を見ると歌人は一様に安心するわけである。それでも、良基一派はこれを発句の体をなしているが切字と認めず、宗砌一派は切字と認めた、いわば東大派対京大派のような学派の争いがあったと思う。とはいえどちらが絶対的に正しく、どちらかが絶対的に誤っているわけではないであろう。この過渡期を経て、徐々に「や」が切字と認められるに至ったのであろう。
この田楽構造の「や」を文法的にどのような機能があるかを議論し始めたのが、その後の「や」の切字論であると思う。しかし原初、文法の前に先ず構造があったのだ。したがって「や」がどこで切れるかは論外であったのである。
だから川本論に即していえば、川本の言う「何であれ句中に一つ
切字があれば、句全体が脇句から切れたのだ」の「
切字」とは、既往のよく知られた「かな」「けり」のような一語だけではなくて、今まで未知の、しかし将来発展するであろう切字候補を含んだ「田楽構造」のような「
切字構造」も含まれると理解したいと思う。この「切字構造」が新しい切字を生む。そして、「切字構造」とは、一番最初の「田楽構造」から始まって、次々に進化発展し、やがて「F形式(構造)」と変化してゆく特殊な文体の生み出したものだと思うのである。
切字が増殖すると言うのは、こうした形式が誕生して行く事によって勢いづいたと言うべきであろう。
(続く)