2020年7月24日金曜日

第141号

※次回更新 8/7

俳句新空間第12号 予告

特集『切字と切れ』

【紹介】週刊俳句第650号 2019年10月6日
【緊急発言】切れ論補足

【新企画・俳句評論講座】

・はじめに(趣意)
・連絡事項(当面の予定)
・質問と回答
・テクスト/批評   》目次を読む

【新連載・俳句の新展開】

句誌句会新時代(その一)・ネットプリント折本  千寿関屋  》読む
句誌句会新時代(その二)・夏雲システムの破壊力  千寿関屋  》読む
[予告]ネット句会の検討  》読む
[予告]俳句新空間・皐月句会開始  》読む
皐月句会デモ句会結果(2010年4月10日)  》読む
第1回皐月句会報(速報)  》読む
[予告]皐月句会メンバーについて  》読む
第2回皐月句会(6月)[速報]  》読む

■平成俳句帖(毎金曜日更新)  》読む

令和二年花鳥篇
第一(5/22)仙田洋子・杉山久子・大井恒行・池田澄子
第二(5/29)加藤知子・岸本尚毅・夏木久・神谷 波
第三(6/5)松下カロ・花尻万博・堀本 吟・竹岡一郎
第四(6/12)林雅樹・渡邉美保・ふけとしこ・望月士郎・木村オサム
第五(6/19)網野月を・前北かおる・井口時男・山本敏倖
第六(6/26)早瀬恵子・水岩 瞳・青木百舌鳥・網野月を
第七(7/3)真矢ひろみ・渕上信子・曾根 毅・のどか
第八(7/10)高橋美弥子・菊池洋勝・川嶋ぱんだ・家登みろく
第九(7/24)北川美美・小林かんな・椿屋実梛・下坂速穂

■連載

ふけとしこ第5句集『眠たい羊』を読みたい
インデックスページ    》読む
7 鳥のさまざまな表現に注目/小枝恵美子  》読む

【抜粋】〈俳句四季8月号〉俳壇観測211
25年で俳壇の人気はどう変わるか――芭蕉も蕪村も、子規も虚子も、秋桜子も誓子も、龍太も澄雄も遠くなる
筑紫磐井 》読む

英国Haiku便り(12) 小野裕三  》読む

『永劫の縄梯子』出発点としての零(2) 救仁郷由美子  》読む

葉月第一句集『子音』を読みたい 
インデックスページ    》読む
8 パパともう一人のわたし/北川美美  》読む

麻乃第二句集『るん』を読みたい
インデックスページ    》読む
17 無意識の作品化、俳句のフレームを超えて/山野邉茂  》読む

寒極光・虜囚の詠~シベリア抑留体験者の俳句を読む~㉜ のどか  》読む

渡邊美保第一句集『櫛買ひに』を読みたい 
インデックスページ    》読む
6 『櫛買ひに』を読む/山田すずめ 》読む

句集歌集逍遙 樋口由紀子『金曜日の川柳』/佐藤りえ  》読む

大井恒行の日々彼是 随時更新中!  》読む


■Recent entries

 第5回攝津幸彦記念賞応募選考結果
 ※受賞作品は「豈」62号に掲載
特集・大本義幸追悼「俳句新空間全句集」 筑紫磐井編  》読む
「兜太と未来俳句のための研究フォーラム」アルバム
※壇上全体・会場風景写真を追加しました(2018/12/28)
【100号記念】特集『俳句帖五句選』

佐藤りえ句集『景色』を読みたい 
インデックスページ    》読む

眠兎第1句集『御意』を読みたい
インデックスページ    》読む

麒麟第2句集『鴨』を読みたい
インデックスページ    》読む

前衛から見た子規の覚書/筑紫磐井
インデックスページ    》読む

「WEP俳句通信」 抜粋記事  》見てみる

およそ日刊俳句新空間  》読む
…(今までの執筆者)竹岡一郎・青山茂根・今泉礼奈・佐藤りえ・依光陽子・黒岩徳将・仮屋賢一・北川美美・大塚凱・宮﨑莉々香・柳本々々・渡邉美保 …
7月の執筆者 (渡邉美保

俳句新空間を読む  》読む
…(主な執筆者)小野裕三・もてきまり・大塚凱・網野月を・前北かおる・東影喜子






「兜太 TOTA」第4号 発売中!
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豈62号 発売中!購入は邑書林まで


筑紫磐井著『女帝たちの万葉集』(角川学芸出版)

新元号「令和」の典拠となった『萬葉集』。その成立に貢献した斉明・持統・元明・元正の4人の女帝、「春山の〈萬〉花の艶と秋山の千〈葉〉の彩を競へ」の天智天皇の詔を受けた額田王等の秘話を満載する、俳人初めての万葉集研究。平成22年刊2,190円。お求めの際は、筆者までご連絡ください。

【ふけとしこ第5句集『眠たい羊』を読みたい】7 鳥のさまざまな表現に注目 小枝恵美子

 「船団」の心斎橋句会にずっと参加させていただいた。ふけとしこさんの草花に対する情熱に魅かれたことと、実作者としての柔軟な言葉選びを、もっと身近で学びたいと思ったからだ。句会では、時間の許す限り席題や袋回しなどにも付き合ってくださった。そして「船団」の集大成である『船団の俳句』(二〇一八年刊)の編集も、ふけさんたちと共に作り上げたことなど、「船団」が散在した今では、いい思い出として残っている。
 今回の第五句集『眠たい羊』では、鳥のさまざまな生態の表現が強く印象に残った。

嘴で争うて二羽天高し

 空気が澄んで真っ青な大空の中、二羽の鳥が争っている姿を捉えた。その生々しさを「嘴で争うて」と表現したことにより、嘴の鋭さがアップされ、そのぶつかり合う音まで聞こえてきそうな迫力が生まれた。「天高し」は爽快感のある季語だが、取り合わせに争いを持ってきたことに意外性があると思う。

嘴の痕ある椿ひらきけり

 この句も「嘴」がポイントとなるが、「嘴の痕ある椿」は、見過ごして通り過ぎる人がほとんどではないだろうか。俳人の眼がきらりと光った句である。赤い椿に嘴の傷跡がちょっと痛々しいが、下句の「ひらきけり」の平仮名表記がやさしく、椿の艶やかさが伝わる。そして作者の植物に対する愛情が滲んでいるようでもある。

黒く来て黒く去る鳥春浅し

 何の鳥とも言わず「黒く」のリフレインで、鳥をシンプルに捉えた。「春浅し」は、「春色ととのわず」と歳時記にあるが、鳥の飛ぶ様子をモノクロとしたことにより、春が立ってまだ日の浅いころの光景が映像としてくっきり浮かんでくる。黒く去っていく鳥を「春浅し」の季語を用いたことにより、情緒的な余韻が残る。

春寒やぎつしぎつしとゆく翼

 春とはいえ、まだ肌寒い日の空を鳥が飛んで行く。その鳥の翼の様子をクローズアップした。鳥の翼が風に逆らい大きく羽ばたきながら「ぎつしぎつしと」行くのだ。このオノマトペがとても印象的である。「春寒」のほのかな明るさの中、大空をゆく翼にみずみずしい生命力が感じられる。

万緑や鳥に鳥の子蚊に蚊の子

 この句は「鳥の子」を題材としているが、夏の緑一色を詠嘆し、その緑の木々に鳥の子がいることを認識して、そこから畳みかけるように「蚊に蚊の子」ときた。この展開に誰もが「えっ?」と驚くだろう。「蚊」も季語だが、この句では「万緑」が強い。鳥の子を先に出すことにより、蚊も飛ぶことができる仲間のような感覚に陥る。誰にでも出来る技法ではないと思う。ほわっとしたユーモアも感じられるし、子が育つ時が万緑だ。

【抜粋】〈俳句四季8月号〉俳壇観測211 25年で俳壇の人気はどう変わるか――芭蕉も蕪村も、子規も虚子も、秋桜子も誓子も、龍太も澄雄も遠くなる  筑紫磐井

●平成末年の人気ベストテン俳人
(中略)
 平成を控えて、「俳句界」が29年12月に「平成俳句検証」として、俳人一七五名に「平成を代表する俳人」を回答させていることだ。まさに平成俳人の人気ベストテンを示している。平成を代表する俳人は次のとおりである(氏名は物故者)。

【トップ9】

金子兜太(25票)②宇多喜代子(10票)②鷹羽狩行④田中裕明(6票)⑤有馬朗人(5票)⑤関悦史⑤高野ムツオ⑧稲畑汀子(4票)⑧正木ゆう子
【トップ10~29】
⑩池田澄子(3票)⑩茨木和生⑩今瀬剛一⑩大峯あきら⑩櫂未知子⑩片山由美子⑩岸本尚毅⑩安井浩司⑱飯田龍太(2票)⑱鍵和田柚子⑱神野紗希⑱後藤比奈夫攝津幸彦⑱津川絵理子⑱鴇田智哉⑱中原道夫⑱夏井いつき⑱夏石番矢⑱波多野爽波⑱深見けん二

●平成初期の人気ベストテン俳人
 さて、いまさらながらの人気ベストテンを探し出したのは、今から25年前にはやたらとベストテンが盛んだったからだ。当時「結社の時代」と言われ、結社の代表である主宰者の格付けが行われていた。総合誌でもこれを競わせていた。角川書店「俳句」平成4年11月号では平成4年度人気俳人アンケートを発表している。なんと読者から一六八一通もの回答があり、そのアンケートを集計したものである。その前年の平成3年にも行っている(( )内に前年度結果を示す)。当時の俳壇からすると至極納得できる顔ぶれだ(ここでは氏名は現在存命中の人を示す)。

【トップ10】
①飯田龍太(①)②森澄雄(②)③能村登四郎(③)④加藤楸邨(④)⑤鷹羽狩行(⑤)⑥角川春樹(⑪)⑦阿波野青畝(⑥)⑧藤田湘子(㉒)⑨金子兜太(⑬)⑩岡本眸(⑩)
【トップ11~20】
稲畑汀子(⑰)⑫桂信子(―)⑬上田五千石(⑨)⑭鈴木真砂女(⑲)⑮石田波郷(⑦)⑯細見綾子(㉔)⑰山口誓子(⑫)⑱石原八束(㉑)⑲高濱虚子(⑭)⑳清崎敏郎(―)
【トップ21~30】
有馬朗人(⑳)㉒草間時彦(―)㉓黒田杏子(㉘)㉔森田峠(㉚)㉕飯田蛇笏(⑧)㉖与謝蕪村(㉕)㉗沢木欣一(⑱)㉘松尾芭蕉(⑮)㉙中村苑子(―)㉚星野麥丘人(―)[番外]水原秋櫻子(⑯)
     *
 25年がたつと、俳人の人気はどのようになるのであろうか。本論副題に上げた著名な作家から眺めてみよう。芭蕉・蕪村はすでに古典の世界の人であるが、25年前にはそれでも人気作家に上がっていたことはちょっと驚く。子規は全くの番外であったが、虚子も25年前は低位であり、現在は全く人気がない。秋桜子も誓子も25年前から凋落の傾向がはっきりし始めた。龍太・澄雄は25年前には絶頂期にあったが、現在では龍太も低位にあえぎ、澄雄は無回答である。新興俳句系の作家は、特集した総合誌の傾向から言っても殆ど上がってこない、特に俳人協会に移籍した三鬼・不死男・静塔らは誰も名を上げていないようだ。草田男も、4Tもいない。
 これに引き換え、兜太、狩行、朗人、汀子、比奈夫は25年をかけて次第次第に人気をあげてきている。つまり俳人とは、長生きをし、活動を不断に続けることこそが大事だということなのだ。死んでしまってはお話にもならないのである。
  (後略)
※詳しくは「俳句四季」8月号をお読み下さい。

英国Haiku便り(12)  小野裕三


「漢文」と「英文」

 言語をめぐる問題は、僕が英国で直面してきた切実な問いだ。
 もちろん一面では、英語の習得という課題でもある。一般的に言って、英語を話すことや聞くことは、(自分も含め)日本人の大半があまり得意ではない。その一方で、日本人は英語の文法知識がしっかりしてるよね、と外人からは指摘される。そんな姿は、どこか日本での「漢文」教育に似ていると思った。「漢文」はもともと中国語だが、それをどれだけ勉強しても中国語が流暢にはならない。中国語をできるだけ日本語に引きつけて理解するための、ひとつの便宜的手段が「漢文」だ。
 やや似たことが、日本での英語教育にも言えそうだ。それは、英語を可能な限り日本語に引きつけて解釈するための「英文」教育のように思える。「英文」を正確に理解する文法知識は身につくが、それは日常生活で英語を流暢に使えることを必ずしも約束しない。その関係は中国語と漢文の関係に似ている。
 この「英文」教育に決定的に欠けているのは、英語という日本語とは異なる言語をそのままの形で固まりとして受け止め、そのままの形で吐き出していくことだ。つまり、日本語とは異なる英語で思考する感覚に慣れること。この点において、長く「漢文」ならぬ「英文」教育を受けてきた日本人はきわめて苦手のように思える。
 このテーマは実は、決して外国語学習の話にとどまらない。
 先日、村上春樹の小説について英国の友人と話をした。彼の小説に最初に接した時、日本語の作品なのに、まるで英語で書かれた小説を読んでるような気がしました。僕がそんな話をすると、同席のイギリス人たちも「そう、そう」と大きく頷いたのだ。英語の眼から見てもその印象が同じだったことに驚いた。そして実は、村上春樹はデビュー作『風の歌を聴け』をまず英語で書き、それを自分で日本語に訳して作品にしたと言われている。英語圏の人に読まれることが目的ではなく、従来の日本文学の文体では自分の書きたいことが表現できない、と思ったのが理由らしい。僕も最近、実験的に英語で俳句を作ってみたりする。あくまで作る過程でそうするだけで、最終的には日本語に翻訳するのだけれど、自分の想像力を違う角度から刺激するような感覚があるのが面白い。各言語にはそれぞれの固有の重力のようなものがあるのだろう。
 興味深いことに、「language」という言葉は日本語の「言語」という言葉よりも使用範囲が広いようで、美術の領域でも作家の「作風」とか「独自の方法論」みたいな意味で「language」を使うことがある。日常とは違うもうひとつの「language」で思考し、その思考からそのまま作品を生み出す。文学も芸術も本当はそんなものかも知れない。
(『海原』2020年1-2月号より転載)

2020年7月10日金曜日

第140号

※次回更新 7/24

俳句新空間第12号 予告

特集『切字と切れ』

【紹介】週刊俳句第650号 2019年10月6日
【緊急発言】切れ論補足

【新企画・俳句評論講座】

・はじめに(趣意)
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【新連載・俳句の新展開】

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■平成俳句帖(毎金曜日更新)  》読む

令和二年花鳥篇
第一(5/22)仙田洋子・杉山久子・大井恒行・池田澄子
第二(5/29)加藤知子・岸本尚毅・夏木久・神谷 波
第三(6/5)松下カロ・花尻万博・堀本 吟・竹岡一郎
第四(6/12)林雅樹・渡邉美保・ふけとしこ・望月士郎・木村オサム
第五(6/19)網野月を・前北かおる・井口時男・山本敏倖
第六(6/26)早瀬恵子・水岩 瞳・青木百舌鳥・網野月を
第七(7/3)真矢ひろみ・渕上信子・曾根 毅・のどか
第八(7/10)高橋美弥子・菊池洋勝・川嶋ぱんだ・家登みろく

■連載

【抜粋】〈俳句四季7月号〉俳壇観測210
現実社会を見るということ――小林貴子とコロナに触れながら(その2<コロナ禍>)
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【新連載】『永劫の縄梯子』出発点としての零(2) 救仁郷由美子  》読む

英国Haiku便り(11) 小野裕三  》読む

ふけとしこ第5句集『眠たい羊』を読みたい
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6 桃の花下照る道に出で立つをとめの頃からずっとふけとしこ/嵯峨根鈴子  》読む

葉月第一句集『子音』を読みたい 
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渡邊美保第一句集『櫛買ひに』を読みたい 
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句集歌集逍遙 樋口由紀子『金曜日の川柳』/佐藤りえ  》読む

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 第5回攝津幸彦記念賞応募選考結果
 ※受賞作品は「豈」62号に掲載
特集・大本義幸追悼「俳句新空間全句集」 筑紫磐井編  》読む
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※壇上全体・会場風景写真を追加しました(2018/12/28)
【100号記念】特集『俳句帖五句選』

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…(今までの執筆者)竹岡一郎・青山茂根・今泉礼奈・佐藤りえ・依光陽子・黒岩徳将・仮屋賢一・北川美美・大塚凱・宮﨑莉々香・柳本々々・渡邉美保 …
7月の執筆者 (渡邉美保

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…(主な執筆者)小野裕三・もてきまり・大塚凱・網野月を・前北かおる・東影喜子


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筑紫磐井著『女帝たちの万葉集』(角川学芸出版)

新元号「令和」の典拠となった『萬葉集』。その成立に貢献した斉明・持統・元明・元正の4人の女帝、「春山の〈萬〉花の艶と秋山の千〈葉〉の彩を競へ」の天智天皇の詔を受けた額田王等の秘話を満載する、俳人初めての万葉集研究。平成22年刊2,190円。お求めの際は、筆者までご連絡ください。

【新連載】『永劫の縄梯子』出発点としての零(2) 救仁郷由美子

 「有耶無耶の関ふりむけば汝と我」の句は一般的な俳句の五音、七音、五音による音数律とは少し異なる。
 七音、五音、五音の十七音からなる。
 この「有耶無耶の関」の句を「汝と我」の出合う場の仮称であると仮定するが、歴史的には山形・秋田の県境、象潟の南にあった古関の名であり、古歌に読み込まれた名前でもある。
 芭蕉『おくのほそ道』での「むやむやの関路」を引用すれば、
 此寺の方丈に座して、簾を捲ば、風景一服の中に盡て、南に鳥海天をささえ、其陰うつりて辻にあり。西はむやむやの関路をかぎり、東に堤を築て秋田にかよふ道遥かに、海北にかまえて浪打ち入る所を汐ごしと云。       芭蕉『おくのほそ道』
「かよう道遥か」な秋田の地に、二〇二〇年の現在、安井は居し、三百年程前に芭蕉は象潟に座した。菅江真澄の『遊覧記Ⅰ』を開けば、芭蕉翁の塚石が「ねむの木のかたわらに」ある。
 二十七日、風が西から吹くので、天気もよくなろうと思い出立した。ひとつ越えていくと川袋という浜をへて関村にはいった。この関村が昔うやむやの関の跡なのであろう。(略)冬枯れたねむの木のかたわら「象かたの雨や西施がねぶの花」と記してあるのは、世間に多い芭蕉翁の塚石である。
真澄から芭蕉、安井から真澄そして芭蕉へ。先達からの言語の水脈が安井の俳句から想い起こされる。

象潟をいま過ぎ越しの夏の花              『汝と我』

 この想い起こしから、「定型の中で」の文中で語る安井の「さまざまな困難性に」思い到る。
 松尾芭蕉は「汝が俳句行為について考える。中世をさかのぼり、遠く荘子逍遥篇他に想いめぐらしながら、遂に、“風狂”として在ることの存在と当為が、俳句行為の決定的意味を担うはずだと考える」――汝が俳句行為“風狂”とは、芭蕉にとって狂い在ることだといい、そして「日常という地獄性の中に狂い在ることだけが」、芭蕉の「存在論の決定的意味というものではなかったか」と問う。
 「存在論の決定的意味」が「狂い在ることだけ」であることは、遠く芭蕉ひとりのことではない。趣味やコミュニティを求める生活を俳句生活と捉えての俳句から、詩・文学・芸術だと俳句を捉えてしまえば、俳句は決定的な存在論となる。存在論に当為論(いかに生くべきか)が伴わなければ、地獄性そのものが、ひとの縁となり、そして、その現象もまた形式のひとつの姿となる。この姿もまた、俳句の文体である。

 個我が「俳句形式を〈文体〉として捉えるとき」「文体とは、それ自身存在をめざすことなく、かえって“零”へ近づくだけであり」、俳句は「文体自身のままに果てるだろう」ならば、「《お前はどうするのか》に今こそ繋がってゆく他ない」。
 そして、「ザインとしての“風狂”を否定し、ゾルレンとしての“不可能性”を選ぼうと思い募る」。この思いが、さまざまな困難性へと向かう、安井の当為論となる。
 ところで、「安井浩司『俳句と書』展の図録(金魚屋プレス日本版)に、俳人安井浩司と生活・職業人・安井浩司についての鶴山裕司のインタビューがある。安井のインタビューでの発言は次のようである。
 (略)だがしかし、汝は我ならずと叫びつつも、汝は我にほかならなのではないか、汝から我は逃げられないのではないか、この矛盾律をどうすればよろしいのか。そこに神さえ介入できない、「汝と我」の宿命にして、なんとも不可解な、不条理の関係があるのです。(略)結語をいわせていただければ、安井浩司のカオスとしての俳句の原点、ささやか書道に挑む基点も、みなここにあるのではないか、と思うことがあります。
「有耶無耶の関」はこの「矛盾律」の場でもあろう。
 安井は存在論と言い、当為論と言う。
 たとえ、今、私達が「汝と我」を問わず、自己の道を求めているとしても、あきらめが存在論や当為論を遠ざけているとしても、安井の俳句を言(こと)解き、事解く思考が運ぶままにあるとき――。
 はっきりしない、あやふやな「有耶無耶」の意味を連なり連なりしてゆくと、渾沌となり、渾沌は虚無をも曖昧にし、したがって、言語による分節が不可能となる。そこは意識と無意識の境であろうから、ならばその境のその場所、〈トポス〉を存在のゼロ・ポイントと考えよう。だが、確認しておかなければならないのは、存在のゼロ・ポイントの場〈トポス〉はあやふやな処であり、絶対零度ではないということである。そして、無意識を言語化出来ない領域の比喩だとするエクリチュールのゼロ値すらも、安井の句ではあやふやなのである。
 この存在のゼロ・ポイントの場〈トポス〉を〈安井浩司〉の俳句の原点とし、ここを俳句の出発点と仮定する。
 「存在をめざすことなく」とは、いかに生きるべきかを問わず、俳人としての何がしかを認め合う俳句生活。そこに背を向け、自らの俳句、何故俳句なのかを問う俳句行為。

 ところで、攝津幸彦は、『汝と我』の句集名から思い出すように、マルティン・ブーバーの論作を読み返したという。ブーバーの『我と汝』は、「世界は人間のとる二つの態度によって二つとなる」に始まる西洋的二元論である。『汝と我』には、二元論を気遣いつつも東洋的思想の地脈へと手まねかれた感がある。零度としての主体(自己は変わることなく)から視る(作者の視点)俳句形式の思想。この思想を突き切り、仮設としての零地点を自己の俳句の出立地と定めた。安井の俳句はそのような俳句なのだと思えてくる。

 俳句の読みに思想が必要かと問われたなら、必要であり、必要ではないと言えるだろう。
 しかし、やはり、安井の俳句には、思想としての当為論がある。それならば、「有耶無耶の関」の句は、表層と深層の意識と存在の自己矛盾的関係で結ばれた場〈トポス〉に、俳句の原点を仮説したと改めて想う。
 このような俳句の原点から出立した安井の句は、経験の言語で表現されながら、深層意識的な言語で表現され、「私的絶対化の道(当為論)」の成立によってあるという。
自己の深層意識における光(救済)と深い闇(狂気)でもある汝と我。現実が充分に地獄性に満ちているにしても地獄性を負い求めるのは自己の内なる汝と我である。当為論とは、己の深層意識へ、表層意識へ、どのように生き抜くべきかという己自身の問いである。そして、この思考は言語の内にあり、問うて生きる他ないが為の思考である。詩は思考であり、言語である。この言語は個我と個我を繋いでゆぐ。俳句に生きるのではなく、俳句を生きる俳句観があることを安井の句によってはじめて知るのである。
 現象的な存在世界そのものの窮極的起点がコトバの意味分節にある。(『意識の形而上学』井筒俊彦)
井筒俊彦の広大な東洋思想と俳句が結び合う。だが、俳論として言語化するのは、不可能に近い。それでも、「窮極的起点がコトバの意味分節にある」ことが「有耶無耶の関」における「汝と我」の俳句の原点であり、ここに「詩が要求された」と安井は直感したのではないかと思える。
 只今「詩が要求されたということは意味の新しい次元が要求されたことに外ならない」(「現代の英文学」)と深瀬基寛はいう。この意味すらも「仮りの名(空)」仮象であるという安井の俳句は、当為論をもって、零地点「有耶無耶の関」から、「句篇全六巻」俳句の旅へと出立した。

【抜粋】〈俳句四季7月号〉俳壇観測210 現実社会を見るということ――小林貴子とコロナに触れながら 筑紫磐井 その2<コロナ禍>

[「俳句四季」の俳壇観測7月号の記事を転載しようと思ったが、2か月前に書いた記事はすでに古いものになってしまっている。雑誌の締め切りは2か月前であるがから現実のスピードに追い付いていないのだ。BLOGに転載するには加筆しなければ意味がない。以下は新版である。]

コロナの現実と言説
 さて、コロナ禍は、数週間で感染数・死者は劇的に増加し、今後の予測不可能を特色としている(百年前のスペイン風邪は三波にわたり二年半続き全世界の死者数千万人に及んでいたという)。一方、この二か月の識者たちの言説はめまぐるしく変化し、何が正しかったのは終焉するまでわからない状況にある。この三か月間の推移を眺めてみよう。

①発生源は中国・武漢であり、その拡散が進んでも水際で制圧できると考え、日本では他人事のような意識が強かった。
②水際で失敗したのちは、感染源を追跡することで抑制しようとし、「コロナを制圧」「明るい社会でオリンピックを」が国民のキャッチフレーズとしてマスコミを賑わわせた。
③にもかかわらず、アメリカ、イタリア、スペインは歯止めがきかず、中国、韓国は一足先に収まるのに日本は行方が知れない状況が続いた。テレビでは再放送と静止画像が提供され、オリンピック年であるにもかかわらず、スポーツ選手がスポーツでなく、自室での体操やエールで表現するようなわびしい風景が提供されるようになった。
④やがて欧州で感染が横ばいとなり、日本もめどがついてきた一方で、先行国の中国・韓国で再流行が始まる。長い自粛、または繰り返しの自粛が予想され、「新しい生活様式」「コロナと共生」が新しいキャッチフレーズになった。
⑤3か月にわたる営業停止は経済に大きな影響を与えたところから、すべての営業の自粛が解除されることとなる。都知事が、これからは「自衛の時代」だというのである。
⑥しかし、一部営業の解除が行われたとたんに緊急事態宣言以前の感染者数レベルに戻りつつあり、都知事は「感染拡大要警戒」という新しい用語を開発した。経済再生担当大臣は「また緊急事態宣言の時期に戻りたくないでしょうと絶叫し、都知事は国の緊急事態宣言を出せば営業自粛の要請を考えると責任を擦り付け合っている。

 この数か月の記事を日記からまとめてみたものだが、その都度の政策に踊らされてきたような気もする。最近の状況だけ見ても我々の生活指針はまだ混迷に陥りそうだ
 一方で、5~6月に届いた俳句雑誌を見るとほとんど句会を中止している。7月までキャンセルしている例も珍しくない。一刻も早くコロナが已むことを期待し、それまで会員は我慢することを呼びかける主宰の声は悲痛でさえある。俳句雑誌にとって句会が開けないということがこれほど致命的と思わなかった。ネット句会が補完的に行われているが、主宰を頂く結社にはそれだけでは十分ではないのだ。

我々の行動指針
 実を言うとこの原稿を3月以降何度も書き直している。俳壇観測7月号も書き直したし、その後7月末に刊行予定の「奔」にも書き改めて書いている。その間、白と黒ぐらい結論の違うバージョンになってしまっている。一見国内の流行は収まったようだが、南北アメリカはまだこれからだ。一方、多くの感染者・死亡者を出す犠牲をはらった国は抗体を獲得し、日本はほとんど獲得していない。日本は、今後長期にわたって海外からの受け入れを拒むことになろう。この原稿を書いているのは7月5日だがこの記事が発表になるときの状況の変化は予測もできない。(追加:79日では、とうとう東京都の新規感染者は224名となり過去最多の数に上った。過去最多が417日の206人であったから、もうコロナが収束段階に入ったとは誰も考えていない。)
 ただコロナの生物学的予測はできないが、人間行動の原理については言えると思う。兼好法師の『徒然草』に引用されて有名な、鎌倉時代の名著『一言芳談抄』の「しやせまし、せずやあらましと思ふ事は、おほやうは、せぬはよきなり(しようか、しまいか、迷うときは大体しない方がいいのだ)」は不滅の金言であろう。迷うこと自身で既にその人の結論が出ているからだ。そして、これこそ、高齢者の、俳人の究極の行動指針なのである。
 考えてみると、自粛が解除になったというが、これは本当の「自粛」ではない、戦前から続くお上の圧力の大きな成果であり、誰一人自分で判断して自制したものではない。こうした官制の「自粛」が終わった後で、初めて国民は自分で考えて「自粛」するのである(都知事は「自衛」と言っている)。お上の行動指針とは違い、他人のためではなく自分のためである。
 例えば、「新しい生活様式」「コロナと共生」とは、意味が分からない言葉だ。どんどん経済社会活動はすべきだがルールを守れと言うことらしい。自分のためにではなく社会のために守れと言っているからだ。
 しかし、三密(三密というのは実は真言密教による秘儀であり、身・口・意の合致による不可思議世界の実現を言う。コロナの予防法として言うのは失礼な言葉だ)を避けると言うのが予防科学的に正しいのなら、自分の身を守るためには、経済と両立などと言わす、①風俗産業(「接待を伴う飲食店」「夜の街」ともいう)に近づかない、②酒食を共にした交際をしない(特に風俗産業に行ったと思われる人とは)、③怒号絶叫抱腹歓喜接触接吻を伴う観戦・興業・冠婚葬祭・祝賀会・励ます会にでかけない、ということだろう。

自粛の基準
 だから自粛には、自分を納得させる合理的判断が必要である。その一例として、東京都23区における感染発症リストを作ってみた。
 東京では初期は世田谷区が最も感染者が多かったが、これは当然である、世田谷区の居住人口が最も多いからである。そこで居住人口を感染者数で割った、感染者1人を出す人口(大きければ大きいほど安全である)をリストアップした。歌舞伎町のある新宿区が最も危険で、第2位が新橋・六本木のある港区である。世田谷区、杉並区が中位で多いのは新宿区を経由しての帰宅者が多いせいではないか。不思議なのは、足立区、江戸川区、北区などが安全なことで、工場地帯のせいかとも思うが、あるいは危険な港区、新宿区から遠い(少なくとも両区で酒食をして帰る人が少ない)せいかもしれない。安全地帯と危険地帯を比較すると、7倍近い差が出る。県だけでなく区を越えた移動も問題なのだ。
 自分や家族のために必要な場合は死ぬ気で行かざるを得ないが、宣伝に乗ってふわふわと買い物や旅行・遊興に出かけるのは、これを見るととてもできなさそうだと言うのはよく分る。

【区別感染率】感染者数は6月19日の数字。比率は人口÷6.19の感染者数。
  区名  人口   感染者 比率
①新宿区  348千人 551人 632人に1人
②港区   260千人 346人 751人に1人
③台東区  202千人 175人 1154人に1人
④渋谷区  230千人 194人 1186人に1人
   ・・・・
㉑板橋区  571千人 158人 3614人に1人
㉒足立区  691千人 159人 4346人に1人
㉓江戸川区 700千人 154人 4545人に1人

【新連載・俳句の新展開】第2回皐月句会(6月)[速報]

投句〆切  6/15 (月)
選句〆切  6/29 (月)

(5点句以上)
8点句

人間になろう五月の試着室(中村猛虎)

【評】 ようやく自分を取り戻す人間になれるか作者の願望をかなえたいものです。 ──松代忠博
【評】 五月は聖母の月である。それが関係しているかどうかはわからない。人間にもどる、ではなく、人間になろう、という表現に惹かれた。素肌を出す服。冬からの続く衣服からの解放のようだ。 ──中山奈々

7点句
青葉騒無数の鏡隠れゐる(田中葉月)

6点句
かはほりや仮面のごとくすれ違ひ(長嶺千晶)
【評】 夕方になると蝙蝠が飛び交う。蝙蝠はどこか「吸血鬼」のイメージ、不死だ。すれ違っているのは人と人だろうが、夕方の何とも言えない無表情、アンニュイな感じが出ている。人は疲れる、そして年を重ねやがて死ぬ。 ──なつはづき

遠雷にゴジラをおもふ昭和かな(真矢ひろみ)
【評】 ゴジラは飛躍があるが納得。下五の着地安全過ぎ? ──岸本尚毅
【評】 昭和という時代は、ゴジラに象徴されるのかもしれないと思った。 ──渡部有紀子
【評】 伊福部昭のテーマ曲が聞こえてくるような遠雷の響きに、昭和のゴジラの雰囲気は相応しいと思われました。 ──長嶺千晶
【評】 父はキングコングのこともゴジラという。昭和の強い、巨大な生物はみんなゴジラになるのかもしれない。遠くのあの雷、ゴジラは令和でも生きている。「昭和かな」は昭和生まれかなの意味を含んでいる。 ──中山奈々

5点句
瞬間をちぎり絵にして蛍飛ぶ(山本敏倖)

六月の綺麗な風となられしか(西村麒麟)

【評】 追悼句だろうか。六月は湿度が高いイメージがあるが、時折涼しい風が吹く。救いのような一筋の風。風となった方の人柄が偲ばれる一句。 ──篠崎央子

雨暫し産毛にとどめ袋角(内村恭子)
【評】 産毛の細やかさ、そしてまだ袋の中に入っている角の柔らかさが雨粒によって見えてくる。 ──渡部有紀子
【評】 産毛についた雨粒の一粒一粒は、袋角から透けて見える細胞を映しているだろう。鹿を取り囲む静謐な空間もまた、緑の地球の細胞の一つ。辺りの空気感がリアルに伝わってくる。 ──依光陽子

風薫る琵琶湖は白き舟ばかり(篠崎央子)
【評】 一読目映い湖上の白と湖国の初夏の風が心地良く、頂きました。 ──小沢麻結
【評】 何となくベタなところに現実味を感じます。 ──岸本尚毅
【評】 言い切ったのが良い。 ──西村麒麟
【評】 本来なら48,59…の評を…。しかし、やや古格で伝統的な…これを、すべてのバランスがいい、色・香り・動き・音・構図…、まあそいう風情の場所だが。そのバランスが二つのアンバランスを想い起させた。比良の結核療養所に入院していた打ち解け始めた父と見た景、湖畔の社会人研修所から研修の合間に眺めた景、その悲しみや矛盾のアンバランスを…。強かな景の強みか? ──夏木久

団子蟲切株のなか梅雨のなか(平野山斗士)
【評】 もぞもぞと。 ──西村麒麟
【評】 切り株のなかに身を潜めていたいか、いざるを得ないか。 ──千寿関屋
【評】 腐食して中が空洞になった切株。その切り株の中にダンゴ虫がいた。それは梅雨の最中のできごとだった。散文にするとこういうことだ。この空洞になった切株のなかにいるダンゴ虫は一匹二匹ではあるまい。「蟲」と旧字体で記されていることから、複数のダンゴ虫が閉ざされた空間のなかで、うごめき、ひしめき合っている姿を想像する。あまりゾッとしない。しかも切株の空洞の中に梅雨が降り注いでいるのだ。グロテスクで残酷な描写は一切ない。だが、「切株のなか梅雨のなか」のリフレインが、迫りくる死を暗示して、恐怖を掻き立てる。ダンゴ虫は確実に死ぬ。それはコロナ禍によって「ステイホーム」を強いられている私たち自身の姿なのかもしれない。 ──飯田冬眞

ゆらゆらと金魚の前の患者かな(辻村麻乃)
【評】 水槽に金魚のいる風景はバー、病院、美容室、銀行などあったが最近はあまりお目にかかることはない。医師が水槽の金魚の前に座る患者を表現しているのだろう。先生もぼーっとしているときがある、と安心する。「ゆらゆら」が、まどろみのような、竜宮城のような感じがしていい。 ──北川美美
【評】 金魚ではなく患者がゆらゆらしている。 ──岸本尚毅

(選評若干)
草笛を鳴らし浅草湿らする 3点 篠崎央子
【評】 大阪からすると浅草はハイカラでありながら、東京下町のカラッとしたイメージ。草笛を鳴らすことでバックトゥーザヒューチャーしてしまう不思議さ。湿らすだから過去か。新世界が聳える。 ──中山奈々

晴子忌の切実に散る花びらよ 1点 依光陽子
【評】 切実が巧い。 ──西村麒麟

この夏やほつれと見えし花を剪り 2点 依光陽子
【評】 句の調子がよく、どことなく涼しい。 ──西村麒麟

雨あがる雀に崩さるる夏野 1点 中山奈々

【評】 雨が上がれば一斉に雀が鳴きだし、あちこちの土を啄む様を「夏野が崩される」と賑やかに表した点に共鳴。 ──渡部有紀子

先生の好みは素数青あらし 4点 真矢ひろみ

【評】 素数とは。1,2,3,5,7,11・・。加藤一二三先生かしら。 旗野十一郎(とりひこ)?海野十三。諸口十九。 ──筑紫磐井

古稀の春古きテレビを一日中 2点 筑紫磐井
【評】 人もテレビも古い。 ──岸本尚毅
【評】 ひと昔前の古稀の男性像という感じでしょうか。自分がそんな風に暮らしていることにはっとして、それを「春」と言ってみたのかなと思いました。これもまたよろしと思う大らかな受け止め方が素敵です。 ──前北かおる

紫陽花やもらひし拍手まだ耳に 4点 前北かおる

【評】 紫陽花がうれしい。 ──岸本尚毅
【評】 もらった拍手は心にいつまでも残るのだろう ──依光正樹

ヒロシマの記憶夾竹桃咲けり 1点 水岩瞳
【評】 飛行場へ向かう道路や国道沿い、ドライブウエイに観られる愛らしいがありふれた「夾竹桃」の存在感。インド原産中国を経て江戸時代に日本に根づいたものである。だが、広島市へ原爆投下の後、いち早く咲いたということで、夾竹桃」は市の花と制定され、復興の象徴となった。この花を見るたびに広島がヒロシマであるという記憶が再生される、という含意のある句。この取り合わせによって、戦後の日本が引きずる「ヒロシマ」の記憶と「夾竹桃」の関わりが文化の像としてて定着して、両者それぞれの歴史的な意味を考えさせられる。志賀重昂ではないが、「新・日本風景論」とでも言う本ができるならば、そこに加えたいような一句。 ──堀本吟

真ん中に宙を張りつめ大茅の輪 4点 渡部有紀子

【評】 大茅の輪の真ん中の、人を潜らせ祓いを行う空間を、宙を張りつめと把握した詩的発見。 ──山本敏倖

紫蘭咲く病院非常階段に水 2点 辻村麻乃
【評】 最後の伸びがゆっくり落ちたであろう水、ゆっくり広がる水を思わせる。庭の紫蘭をこそっと花瓶に入れて持ってきたのか。エレベーターを避けるように言われ、使っているのか。自分だけでなく誰かも「非常階段」を使っているしるしにはっとした。 ──中山奈々

小鳥屋に小鳥を見たる若葉かな 3点 依光正樹
【評】 特選。 季語は無論「若葉」。「小鳥」は通常は秋の季語として詠まれますが、この句の場合、小鳥屋にいる小鳥に季語性はありません。小鳥屋では、秋の渡り鳥としての小鳥のみならず、インコ、カナリヤ、文鳥など、世界各地から集められた小鳥たちが、籠の中で、季節と無関係に売られてゆくのを待っています。若葉薫る麗しい夏の始めなのに。そんな小鳥への作者のsympathyが感じられます。 ──渕上信子
【評】 小鳥屋って今もあるのでしょうか。東直子の「そうですかきれいでしたかわたくしは小鳥を売ってくらしています」という歌を思い出します。「小鳥屋」は、物語めきます。また、この句は、単純で素直で阿保らしくもあり、でも味があり、すぐ覚えてしまえる句です。 ──水岩瞳

夏館いいえ蛹を飼う館 3点 小林かんな
【評】 夏草をかき分け進むうちに迷いこんでしまった空間に館を発見し助かったと安堵したのも束の間、それが人家でないことに気づくのに時間はかからなかった。廊下には夥しい繭、「養蚕?」声無き主の答は「いいえ」何を問うても「いいえ」柱や壁には蚕じゃない何かのサナギが無数に蠢いている。夢中で早く覚めようとするのだが。 ──妹尾健太郎

ひかがみの白さに薔薇の滅びゆく 3点 飯田冬眞
【評】 窪みフェチにとって、ひかがみは圧倒的、かつほぼ手つかずのことばであり表象。例示的に申せば、ひかがみで有名な女優はいない。薔薇などとは比べ様もなく、作句インセンティブを頂戴した。 ──真矢ひろみ
【評】 ひかがみは、膝の裏側のくぼみ。ふと気づくと確かに真っ白なのだ、薔薇も驚くくらい。以前浅草橋で「おしりとひかがみ展」なる写真展に行ったことがある。オタクの集まりかと思いきや若いカップルでごった返していて拍子抜けした。 ──中村猛虎

白百合の花粉こぼれる断頭台 1点 小林かんな

【評】 花びらではなく、花粉。供えられたものではない。試し斬りが白百合だったのか。断頭台に茶色の、落ちにくい花粉のにちゃつきに身が引けてしまう。 ──中山奈々

指ほそき男でありし走り梅雨 3点 松下カロ
【評】 指の太い男は無骨ではあるが包容力のある人を連想し、甘えん坊の自分なんか好きなタイプ。その反対に指の細い男は繊細で毀れやすいイメージ。それはそれで女心をくすぐられるかも。走り梅雨が何かを予感させる。 ──田中葉月

雲の峰天馬暴るるたび崩れ 2点 仙田洋子
【評】 雲の峰を、豪宕の趣そのままに讃える詠みぶりに感じ入ります。「崩れ」と云うのだが讃えている。そこには天馬という虚の存在が効いている次第で、そんな神話的想像力をむくむく働かしたのは、作者は芭蕉の例の句も念頭に置いていることでしょう。「雲の峰」は往往にして、悔恨・慕情・郷愁・懐旧・大願などなど人情に絡めて句に作られることが多いようで。その観点からしても本句は、表面上は人情を抜いてあり、品の宜しい句と思います。 ──平野山斗士

暑いねェたましひの話でもするか 3点 渕上信子
【評】 単なる「たましひ」ではなく、『たましいの話』の池田澄子さんへのオマージュともとれる。 ──仙田洋子
【評】 下町の喫茶店で、冷たい珈琲を一口飲むや否や、こんなことを言い出している不思議なお客(はたまた新興宗教の勧誘か?)を想像した。 ──渡部有紀子

草茂る鉄条網は錆び歪み 2点  小沢麻結

【評】 錆びてしかも歪む、リアル。暑さも。 ──西村麒麟