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2025年9月12日金曜日

【連載】口語俳句の可能性について・1  金光 舞

連載開始に当たって 筑紫磐井

 この夏、大学俳句会の「全国学生俳句会合宿2025」に招かれ評論研究の議論に参加させて頂いた。この合宿はわりあい歴史があるようで、第1回は2017年筑波で(講師に関悦史、神野紗季氏)、第2回は2019年彦根で(講師に関悦史、対中いずみ氏)、第3回は2023年群馬県水上で(講師に林桂氏)、今回は新潟県村上の瀬波温泉で行われることとなった。数年の間合いがあるから、前回出た人が又来ることはほとんどないようなので学生にとっては一期一会に近いかもしれない。さらに、北大、東大、京大及び関西俳句会、愛媛大、九州等多くのエリアの俳句会の学生が参集することになるので初対面の人が殆どだったが、旧知の仲のように和気藹々だったのは楽しかった。

 今回の合宿が従前と違うのは、今回は評論研究をテーマとすることにしたことだ。世の中に俳句実作の研究の機会は多くあるが、評論の研究は珍しいものである。若いうちから評論に携わることは、意欲的な評論を作り出すためにも役立つだろうし、実作のために必要な客観的鑑賞眼を養うことにも役立つと思う。今までこうした機会がなかったことが不思議なことなのである。評論研究に人が集まるかしらと心配だったが、参加者30人と今までと比べても記録的な盛況だったのは嬉しいことだ。

 今回、合宿の場で多くの意欲的な評論を読ませていただき、心地よい疲労感を持って帰ってきたが、その中で金光舞さんの「口語俳句の詩情について」は大いに気になった。私自身かつて『定型詩学の原理』を書き、詩(俳句)の原理の究明を志したことがあるからである。金光さんの狙いも、口語俳句という限定はあるものの、詩学の原理を究明しようという意志がはっきり見て取れたからである。

 講評の席上で、またその後の雑談の機会で、私の経験も踏まえて大いに激励したのである。すると、「口語俳句の可能性について」という原稿の束をどさっと渡されたのである。―――いやこれは昔流の、作家誕生の場面の言い方だ(明治初期、正岡子規が幸田露伴のもとに小説「月の都」の原稿をどさっと持ち込んだという伝説がある)。現在の大学生は、スマホをぱっと開き、膨大な原稿をスクロールして見せてきたのだ。講評論文を書く準備として用意したものか、或いはその後の続編として既に膨大な原稿を書き継いでいるのか分からないが、口語俳句論以上に、大いに感動した。多少玉石混交となっても、評論の奥義はともかく書くことである。トランプ大統領ではないが、書いて書いて書きまくれ、である。書かなくては何も進まない。書いたうえで、反省もし、添削もし、軌道修正もすればよい。彼女はすでにスタートラインから大きく踏み出している。何もフライングをとがめる必要はない、後はどんどん走り出せばいいのだ。

 こんなことを言って連載評論の執筆を勧めた。まだ生成途中の論だから、むしろ読者から批判をして頂く事も必要だし、私もいろいろ意見を言っていきたいと思っている。ぜひご覧の皆さんも温かい目で見て批評していただきたい。批判こそが、成長の糧であるからだ。そしてほかの若い批評家たちにも、彼女に続いていただきたいと思うのである。BLOGは無限の機会を提供するつもりである。

 金光舞「口語俳句の可能性について」の自序の前に、この連載が始まる趣旨を一言加える所以である。


  序


 従来の俳句は、文語を基調とし、五七五の定型、季語の使用、そして簡潔な描写によって成立してきた。芭蕉以来、俳句は「不易流行」の理念を掲げながら、形式の中に自然や人生の普遍性を織り込み、詩的な余白を大切にする芸術として磨かれてきた。しかし二十世紀以降、とりわけ戦後以降の現代俳句においては、その「形式の美しさ」がしばしば「硬直」にもつながり、言葉が生きたものとしての息づかいを失いかけていた。そうした状況において登場したのが「口語俳句」という試みである。これは単なる表現技法の変化ではなく、俳句を現代の言語感覚へとつなぎ直す営みであり、その可能性は今も拡張し続けている。この発表では、越智友亮『ふつうの未来』(2022)に収められた句を基に口語俳句の可能性について考える。まず、一句を見てゆきたい。


1 ゆず湯の柚子つついて恋を今している

 この一句を目にしたとき、私たちはまず「ゆず湯」という響きから冬至の風物詩を思い浮かべる。冷え込みの厳しい季節、湯船に浮かぶ黄色い柚子を手でつつきながら、体を芯から温めるあの光景が眼前に広がってくる。俳句において「ゆず湯」は伝統的に季語として扱われ、古くから数多くの作品に登場してきた。しかし、この句の真の魅力は、そこで立ち止まらず、最後の「恋を今している」というきわめて率直な表現に踏み込んでいる点にある。

 従来の俳句における恋の表現は、たとえば「夕暮れ」「花」「雨」といった自然や景物に寄り添わせることで、余情として匂わせるのが常であった。直接的に「恋」と口にすることはあっても、それはどこか含羞を帯び、言外に含みを残す形で読者の想像にゆだねられることが多い。しかしながら、この句においては「恋を今している」という宣言的で、しかも日常の会話に限りなく近いフレーズが、ためらいなく差し込まれているのだ。この「今」という語の持つ切実さ、時制の限定性がもたらすのは、まさに現在進行形の感情の迸りである。読者はこの瞬間、この場に立ち会わされる。

 そして、この直接さは単に率直であるというだけでなく、逆説的に余韻を強く生み出している点が驚きである。「恋をしている」と言われれば、それだけで感情は明らかになるはずだ。にもかかわらず、「柚子をつつく」という仕草と並置されることで、その恋が持つ温もりや照れくささ、さらには小さな幸福感までが立体的に立ち上がってくる。柚子の丸み、手に触れたときの感触、湯に広がる香り──それらがすべて「恋を今している」という感覚と共鳴し、心象風景を膨らませる。省略の美学とは別の、むしろ日常語の率直さがもたらす余情の広がりが、ここに生まれているのである。

 さらに注目したいのは、この句が俳句という伝統的な形式のなかにありながらも、現代的な口語の息遣いを見事に取り込んでいるという点だ。「今している」という語りは、古典文法や雅語には見られない。そこには、現代人がいま、たしかに呼吸している時間感覚が宿っている。伝統と現代が、湯気立つ浴槽のなかでぴたりと融合しているかのようだ。柚子の香りが過去からの風習を連想させつつ、その香りに包まれている人物は、まさに現在の恋に生きている。この対比が、句の温度を一層豊かにしている。

 結果として、この一句は単なる季節の描写にとどまらず、伝統俳句の文脈を踏まえつつ、その殻を破ろうとする挑戦の結晶となっている。「省略と余白の美」から一歩踏み出し、「口語の直接さが生む余韻」という新しい地平を開いているのだ。読者はその新鮮さに驚かされると同時に、自らの中に眠る恋心を呼び覚まされるかもしれない。俳句が持つ本来の短さと凝縮力を保ちながらも、ここには現代詩的な熱量、さらには個人的な感情の息遣いが見事にあらわれている。

 かくして〈ゆず湯の柚子つついて恋を今している〉は、伝統と革新、情緒と直截さの交差点に立つ一句として、読む者の感受を強く揺さぶるのである。口語俳句は、伝統的形式を内側から揺さぶり、古典的季語と現代的日常感覚を共存させることで、俳句の「現在性」を濃密に刻印する。今日の俳句シーンに見られる「生活俳句」「青春俳句」「SNS俳句」といった潮流とも呼応し、時代の呼吸を敏感に取り込む詩型として注目を集めている。

 もっとも、口語表現には「古びやすさ」という危うさが常につきまとう。たとえば2025年度口語詩句奨学生選考総評において、川柳人・暮田真名は次のように指摘している。

  2「詩歌における〈口語—書き言葉〉と、SNSにおける〈口語—書き言葉〉は同じではない。しかし口語である限り、その言葉はSNS圏の言葉として消費される運命にある。『あたらしい人々』には歓迎され、『ふるい人々』には眉をひそめられ、ものすごい速さで廃れ、やがて顧みられなくなる言葉であることから逃れられない」

 この批評は、現代における口語俳句の立ち位置を再考するうえで、重要な示唆を与えている。


【注】

1  『ふつうの未来』(2022) 著:越智友亮 15頁より引用

2  『2025年度口語詩句奨学生選考総評 暮田真名』(2025)著:暮田真名 1頁を参照

https://www.kougoshiku-toukou.com/media/files/2025%E5%B9%B4%E5%BA%A6%E5%A5%A8%E5%AD%A6%E7%94%9F%E7%B7%8F%E8%A9%95_%E6%9A%AE%E7%94%B0%E7%9C%9F%E5%90%8D.pdf