2018年10月26日金曜日

第100号

●更新スケジュール(2018年11月9日)

第4回攝津幸彦記念賞発表! 》詳細
※※※「豈」61号に作品一挙掲載※※※
 購入は邑書林まで



【「BLOG俳句新空間」100号記念】
俳句新空間は本号で100号を迎えました。執筆者の皆様、閲覧者の皆様に感謝申し上げます。

思い出すことなど   北川美美

【100号記念・俳句新空間を振り返る】対談シリーズ全回の記録[完全版]

【100号記念・俳句新空間を振り返る】現代風狂帖鑑賞




「兜太TOTA」創刊号の刊行――兜太元年へ

◇◇◇11/17(土)開催 入場無料※要申込み◇◇◇






【「BLOG俳句新空間」100号記念】
特集『俳句帖5句選』
その1(飯田冬眞・浅沼璞・内村恭子)》読む
その2(神谷波・五島高資・小沢麻結)》読む
その3(坂間恒子・岸本尚毅・加藤知子)》読む



平成三十年 俳句帖毎金00:00更新予定) 
》読む

平成三十年 秋興帖

第一(10/26)松下カロ・仙田洋子・杉山久子・岸本尚毅



平成三十年 夏興帖

第十(10/19)望月士郎・五島高資・佐藤りえ・筑紫磐井
第九(10/12)中村猛虎・仲寒蟬・ふけとしこ・水岩瞳・花尻万博
第八(10/5)小沢麻結・椿屋実梛・林雅樹・池田澄子・浅沼 璞
第七(9/28)木村オサム・のどか・真矢ひろみ・前北かおる・堀本 吟
第六(9/21)下坂速穂・岬光世・依光正樹・依光陽子・渕上信子
第五(9/14)青木百舌鳥・早瀬恵子・坂間恒子・近江文代・北川美美
第四(9/7)加藤知子・夏木久・飯田冬眞・田中葉月・渡邊美保
第三(8/31)辻村麻乃・中西夕紀・杉山久子・山本敏倖・神谷 波
第二(8/24)大井恒行・曾根 毅・網野月を
第一(8/17)松下カロ・小林かんな・西村麒麟・仙田洋子・岸本尚毅





【新連載・辻村麻乃特集】
麻乃第2句集『るん』を読みたい
はじめに   筑紫磐井  》読む
1 風の伽藍    中村安伸  》読む
2 辻村麻乃句集『るん』を読む    堺谷真人  》読む



【新連載・黄土眠兎特集】
眠兎第1句集『御意』を読みたい
1 『御意』傍らの異界   大井さち子  》読む
2 つくることの愉しみ   樫本由貴  》読む
3 相克する作句姿勢~黄土眠兎第一句集『御意』~   川原風人  》読む
4 黄土眠兎はサムライである。   叶 裕  》読む
5 生活者の目線   天宮風牙  》読む
6 御意てっ!   仲田陽子  》読む
7 重なる日常と不思議   本多伸也  》読む
8 私の声が言葉の声であること   曾根 毅  》読む
9 北京ダックまでは前菜花氷   森本直樹  》読む
10 出会うべくして――『御意』を詞書から探る   岡村知昭  》読む
11 案外な  黄土眠兎句集『御意』を読む   久留島 元  》読む
12 仲間たちへ   三木基史  》読む
13 敵 黄土眠兎句集『御意』を読む   中山奈々  》読む
14 手札の中のモノ   黒岩徳将  》読む


【新連載・西村麒麟特集2】
麒麟第2句集『鴨』を読みたい
0.序に変えて   筑紫磐井  》読む
1.置いてけぼりの人  野住朋可  》読む
2.ささやかさ  岡田一実  》読む
3.乗れない流れへの強烈な関心  中西亮太  》読む
4.ある日の麒麟さん句会  服部さやか  》読む
5.千年宇宙のパースペクティブ  佐藤りえ  》読む
6.鴨評   安里琉太  》読む
7.水熱く――西村麒麟『鴨』の一句   堀下翔  》読む
8.私信 麒麟さんへ   藤井あかり  》読む
9.西村麒麟句集「鴨」を読む -多様な光―   小沢麻結  》読む
10.『鴨』――その付合的注釈   浅沼 璞  》読む



【新連載】
前衛から見た子規の覚書  筑紫磐井 
(1)子規の死   》読む
(2)子規言行録・いかに子規は子規となったか①   》読む
(3)いかに子規は子規となったか②   》読む
(4)いかに子規は子規となったか③   》読む
(5)いかに子規は子規となったか④   》読む
(6)いかに子規は子規となったか⑤   》読む
(7)いかに子規は子規となったか⑥   》読む
(8)いかに子規は子規となったか⑦   》読む
(9)俳句は三流文学である   》読む
(10)朝日新聞は害毒である   》読む
(11)東大は早稲田に勝てない   》読む
(12)子規別伝1・子規最大のライバルは落合直文   》読む
(13)子規別伝2・直文=赤報隊・東大古典講習科という抵抗   》読む
(14)(9-2)俳句は三流文学である――続編   》読む
(15)子規別伝3・新体詩の創始者落合直文   》読む
(16)子規別伝4・明治書院・大倉書店と落合直文   》読む





【抜粋】
〈「俳句四季」11月号〉俳壇観測190 
爽波忌に若き弟子たちを思う
筑紫磐井 》読む


  • 「俳誌要覧2016」「俳句四季」 の抜粋記事  》見てみる








<WEP俳句通信>




およそ日刊俳句空間  》読む
    …(今までの執筆者)竹岡一郎・青山茂根・今泉礼奈・佐藤りえ・依光陽子・黒岩徳将・仮屋賢一・北川美美・大塚凱・宮﨑莉々香・柳本々々・渡邉美保 … 
    • 10月の執筆者 (柳本々々・渡邉美保) 

      俳句空間」を読む  》読む   
      …(主な執筆者)小野裕三・もてきまり・大塚凱・網野月を・前北かおる・東影喜子
       好評‼大井恒行の日々彼是  》読む 





      —筑紫磐井最新編著—
      虚子は戦後俳句をどう読んだか
      埋もれていた「玉藻」研究座談会
      深夜叢書社刊
      ISBN 978-4-88032-447-0
      ¥2700
      アマゾン紀伊國屋ウェブストア他発売中


      「兜太 TOTA」創刊号
      アマゾン藤原書店他発売中




      *発売中*
      冊子「俳句新空間」No.9 
      特集:平成雪月花集
      購入は邑書林まで

      「第5回 詩歌トライアスロン」 詩歌梁山泊 代表 森川雅美

       現在、複数の詩型の表現を試みる書き手も少なくありませんが、多くは1つの詩型に限っての表現をしています。しかし、これからの詩歌の可能性を考えるには、複数の詩型を考えることもひとつの道でしょう。
      「三詩型交流」を目的とする「詩歌梁山泊」では、1人による3つのすべての詩型の作品(三詩型ないものは無効です)、あるいは三詩型の二つ以上の要素を含んだ作品を公募いたします。
      公募は2つのタイプになります。
      ◆Aタイプ 「自由詩1篇・短歌3首・俳句3句」のセット。
      ◆Bタイプ 詩型融合型作品。自由詩に俳句や短歌を織り込む、自由詩に準ずる前書(詞書)と短詩型を組み合わせる、短詩型を連ねて自由詩を構成するなど。
      Bタイプは、1つの詩型がオリジナルであれば、他の詩型は既存作品の引用でも構いません。

      締め切り 2019年1月30日必着
      お送り先アドレス masami-m@muf.biglobe.ne.jp
      選者 佐藤弓生、榮猿丸、野村喜和夫
      主催 詩歌梁山泊
      選考 3月終わりごろに公開選考会を予定しています。
      ・応募多数の場合は第一選考を行います。
      ・受賞者には「詩客」での隔月の連載を1年間(6作)お願いいたします。

      過去の受賞者
      第1回 中家菜津子
      第2回 横山黒鍵
      第3回 亜久津歩
      第4回 戸田響子

       2018年10月1日
      詩歌梁山泊 代表 森川雅美
      TEL・FAX 03-3328-3230
      Eメール masami-m@muf.bigulobe.ne.jp

      【抜粋】〈「俳句四季」11月号〉俳壇観測190/爽波忌に若き弟子たちを思う ――― 筑紫磐井

      (前略)
       爽波(敬直)は祖父が宮内大臣という名門の出身で、学習院在学時代からホトトギスに投稿していた。ちなみに、三島由紀夫(俳号平岡青城)は同級であった。その後、京都大学に入り春菜会を結成、ホトトギス最年少同人となった。当時ホトトギスにあっては、東京の新人会(上野泰、清崎敏郎、深見けん二ら)、春菜会、そして孤高の福岡の野見山朱鳥が注目されていた。しかし、爽波は虚子が選者を退いた後の年尾選のホトトギスに飽き足らず、春菜会を中心に「青」を主宰、ホトトギス系の四誌連合会や前衛俳人との交流を深める。「俳句題詠」「多作多捨」「俳句スポーツ説」など俳句の独自性に基づいた刺激的な指導法を唱え、晩年は藤田湘子とならぶ俳壇の寵児となり、結社を超えて若手作家の高い人気を維持した。私も宴席に侍した記憶がある。
       主宰する「青」は、創刊当初の大峯あきら、宇佐美魚目、友岡子郷、若手では岸本尚毅、田中裕明、島田牙城、中岡毅雄が活躍したが、爽波の没後終刊した。
       没後二七年目(一〇月一八日が命日だ)となるが、ここに爽波を取り上げるのは、最近になって大峯あきら(二七年)、友岡子郷(三〇年)が蛇笏賞を、山口昭男が読売文学賞(三〇年)を受賞したというばかりではない。爽波の愛した若者たちがそれぞれに結実期を迎えているように思われるからだ。
       岸本尚毅(現在「天為」「秀」)は現在八面六臂の活躍中である。今年も、『岸本尚毅集』『相互批評の試み』(宇井十間との共著)『「型」で学ぶはじめての俳句ドリル』(夏井いつきと共著)が出されているが、特に爽波の実践的面である「多作多捨」「俳句スポーツ説」の思想をよく受け継いでいる。
       島田牙城(現在「里」)は、評論家・編集人・邑書林代表として有名だ。「青」の最後の編集長島田刀根夫を親としているのは血を争えない。孤軍奮闘して『波多野爽波全集(全三巻)』を刊行したが、その時はすでに爽波ブームが去っており、少しも売れなかったと嘆いたことを思いだす。「しばかぶれ」第二集(三〇年七月刊)では「青」に若手作家が続々と登場し始めた頃を回想しているが、これを語れるのも牙城ぐらいしかいないであろう。
       中岡毅雄(現在「藍生」)は、すでに俳人協会新人賞、俳人協会評論賞等を受賞し、七月から今井豊と「いぶき」を発行している。指導者の道を歩き始めたと言うことだろう。
      ただひとり田中裕明(元「ゆう」主宰)は四二歳で夭折した(平成一六年)が、本年八月『田中裕明の思い出』が四ッ谷龍によって刊行された。裕明の初めての評伝ではないかと思う。夭折作家の評伝が書かれるというのも一つの結実期ではないかと思う。
       これらを見ると、爽波は六十代という働き盛りで亡くなり、「青」も早々に終刊しけっして恵まれなかったといえるが、爽波の蒔いた種は実は様々なところに芽吹いたのである。更に言えば、現代の若い世代の向いている方向は爽波のそれに近かったのではないか。彼らを通して、現代俳句の原点に爽波がありはしないか、と言うのが最近の私の感想である。

       ※詳しくは「俳句四季」10月号をお読み下さい。





      【新連載・辻村麻乃特集】麻乃第2句集『るん』を読みたい 2 辻村麻乃句集『るん』を読む 堺谷真人

       『るん』の著者、辻村麻乃さん。彼女の周りにはいつも人垣が絶えない。家族、ビジネス関係者、俳句の師や同志、音楽の仲間。人々を引き寄せる独特のオーラを発散している。社交的なのだ。

       しかし、ある時、彼女のfacebookの投稿を閲覧していてふと気づいたことがある。彼女の関心は圧倒的に「今日只今」の人間関係に集中しており、例えば同窓会などの懐古的人脈への言及が殆ど見られないのだ。

       普通、40代後半くらいから人は懐古的となる。若かりし日の無謀や失敗を語りあうのが楽しく、思い出話を反復するため同窓会にしげしげと顔を出す。それ自体決して悪いことではない。が、畢竟、同窓会とは子育てや出世競争の喧噪から解放された人々のつかのま癒しの場、アジールであるに過ぎない。それが前景化するとき、処世態度の減速感は否めない。

      足遅き群衆にゐて春夕焼
      我々が我になる時冬花火
      爽やかや腹立つ人が隣の座
      人とゐて人と進みて初詣


       筆者がまず注目したのはこれらの句群である。そこにはいつも誰かと一緒にいる麻乃さんの姿がある。しかし、人垣の中の麻乃さんはいつも幸福なわけではない。時には集団の同調圧力に疲れ、社交生活の虚栄に倦むこともある。自己を守ってくれつつも閉じ込めようとする繭のような人間関係への苛立ち。孤高の精神が疼くのである。

      引鶴の白吸はれゆく空の孔
      次こそのこその不実さ蚕卵紙
      象の鼻一つは夏の星を指し
      嫉妬てふ限りなきものサングラス
      口開けし金魚の中の赤き闇
      鬼一人泣きに来てゐる曼珠沙華


       社交性の中に卓然として屹立する孤高の精神。その淵源はやはり少女時代にまで遡るであろう。詩人、俳人を両親に持ち、芸術的天分に恵まれた多感な少女は、自己と周囲との差異に敏感であり、傷つきやすかったと思われる。引鶴の白に象徴される痛々しいまでの孤独を愛し、うわべだけの巧言を憎み、天上の星のごとき超越性を志向する聖少女・麻乃がいる。その一方で、ネガティブな通俗的情緒をもてあまし、自我の内面に巣食う闇におののき、人ならぬあやかしの身と化して慟哭する黒少女・麻乃がいる。
       そんな少女は芸術や文学に救いを求めた。渇きを癒そうとして詩歌の森に分け入った。が、却って詩歌の毒にあてられて更なる渇きに苦しむ結果となった。恐らくはそのような若き日の彷徨と葛藤の痕跡が麻乃俳句に独特の魅力と陰翳とを与えるに至ったのである。

      言ひ返す夫の居なくて万愚節
      階上の夫の寝息や髪洗ふ
      娘てふ添ひ難きもの鳥渡る
      夫の持つ脈の期限や帰り花


       翻って、家族を詠んだ麻乃俳句は「日常生活のかるみ」とでも呼びたくなるほど良い味を出している。夫婦、親子の間の距離感は絶妙で、不可侵の領域の存在を互いにきちんと認め合っている。冷めているわけではない。個を尊重し、共依存の陥穽にはまらぬよう濃やかに意を用いているのである。
       穿った見方をするなら、詩歌の世界こそ麻乃さんのリアルな喜怒哀楽が炸裂する人生の修羅場、真剣勝負の主戦場なのだ。それに比べれば家族や家庭は遙かに平和で安全な場所に違いない。大抵の問題には冷静に対処できるからである。安息の中から自ずと滲み出る鷹揚さ。それが彼女の家族俳句にあたかも上質の麻のような肌触りをもたらす。

      總持寺 六句
      住職の夢のお告げや冬安居
      きゆつきゆつと百間廊下の冬日向
      寒牡丹百五十人の座禅かな
      雲板のばあいんと鳴りて大根汁
      振鈴で明くる朝や冬館
      入れ込みの僧堂行鉢日の短か


       昨年の初冬、麻乃さんらと横浜市鶴見区の曹洞宗大本山總持寺で吟行をした。そのときの作である。
       吟行には俳人の個性が如実に表れる。麻乃さんは入念な下調べを欠かさないが、自らの世界観ありきで句材を取捨選択する人ではない。新たな事物、情況に対して常にオープンかつニュートラルなたたずまいで接する。履物と百間廊下のこすれ合う「きゆつきゆつ」のむずむず感。青銅製打鳴具である雲板の「ばあいん」という間延びした響き。これら的確無比なオノマトペは、第一義的には彼女の鋭敏な聴覚がとらえたものである。と同時に全方位的に開かれた五感の持ち主でなければ享受することが許されない種類のものでもあろう。

       ところで、麻乃さんはAdeleの「Skyfall」が好きでよく歌う。シリーズ23作目、2012年公開の『007スカイフォール』の主題歌である。Skyfallとはラテン語の”Fiat justitia ruat caelum”(たとへ天が落つるとも正義は行はれよ)に由来する語。この格言は古来多くの政治家や法学者が引用する有名なものらしいが、9.11後を生きる我々にとっては寧ろ原理主義やテロリズムを連想させる危険な香りがする。

       麻乃さんの鳥肌の立つような絶唱にこの格言を重ね合わせるとき、筆者はあらぬ妄想をして不安になる。彼女がいつしか偏狭な俳句原理主義者になり、俳句の中の非俳句的なものに対して苛烈な聖戦を宣するのではないかと。そしてまたすぐに己が妄想を打ち消すのだ。次のような句を詠む人が俳句原理主義者になることなど決してあるはずはない、と。

      鳩吹きて柞の森にるんの吹く
      おお麻乃と言ふ父探す冬の駅


      【「BLOG俳句新空間」100号記念】特集『俳句帖5句選』その3


      坂間恒子
      皇帝ダリア
      冬の星一直線に頭と尾骨
      蕗の薹虚子の系譜のねむらない
      深海の尾ひれのそよぐ夕桜
      棺出るとき皇帝ダリアに風
      紛争に終わりのなくてしろさざんか


      岸本尚毅
      憤死して落葉の宮に祀らるる
      世紀末過ぎて久しき昼寝かな
      南瓜抱く夕焼村の村長は
      灯籠やお供へものを蜂が這ひ
      歪めたる顔のやうなる茸かな


      加藤知子
      少し湿る花びらほどの霊安室
      水中花睡眠障害症候群
      炎天として震洋艇とすれ違う
      秋暑し小股にはさむ大言海
      ちちろ鳴くあなたにちかづくための闇


      【100号記念・俳句新空間を振り返る】現代風狂帖鑑賞


      「現代風狂帖」は俳句新空間の前身・「俳句空間―戦後俳句を読む」から「俳句新空間」の初期まで掲載された作品コーナーで、おもに俳句(ときどき短歌、散文)を幅広い作者から寄せていただきました。
      100号にあたり、編集子の精選した作品を鑑賞してみたいと思います。
      (各作品タイトルより当該号の作品ページに移動できます)

      第14号
      花衣悋気の人と見受けけり  中西夕紀「初蝶」
      「悋気の人」は見知らぬ人なのだろう。妬いているっぽいひとを「見受ける」という表現の距離感と、花衣の取り合わせが賑やかな気配を伝える。

      越えられぬ壁の手前の石鹸玉  三木基史「東京メトロ」
      シャボン玉が壁の手前で往生しているように見える。人生っぽく難渋に読むよりは、シャボン玉の自由気ままさを楽しみたい。

      第15号
      疑問符を握り芒をなぎ倒す  木村修「とんがり帽子」
      「疑問符のような鎌」ではなく、コミック風にものさしぐらいの大きさの疑問符を実際に握っているところを想像してしまった。するどい疑問符だったら、それはとてもよく切れそうだ。

      第17号
      海髪【いぎす】として靡く千年若狭かな  曾根毅「傘の骨」
      イギスは紅藻の一種。若狭湾の海中でそよそよそよぐ千年も悪くない。しかし現実の、現在の若狭湾は原発銀座とも呼べそうな、日本でも有数の原子力発電所の集中する地帯である。「傘の骨」は原発をめぐる骨太の一連である。

      第18号
      念力の通じてうごく花筏  岡田由季「爆発」
      花の時期はあらゆる奇跡がゆるされる季節でもある。思いがけない美しさに(おちゃめに)出会った一句。

      蝶の来る軌跡こんがらがつてをり  小川春休「ソーセージ六百本」
      花畑などではない特定の場所で小さな蝶が群れているのに出会うことがある。とくに移動するでもなく、上を下へのからまり具合で飛び回っている、一匹ずつに糸でもつけようものならあっというまにこんがらがってしまうだろう。「こんがらがつて」が活きの良さを伝えている。

      第19号
      腕時計外せば飛べる春の空  中村猛虎「春の白日夢」
      飛べない、と思うとき、ほんとうに重いのは気持ちなのだろう、とも思う。腕時計を外せば、というところまでは来た。飛べるまであともう少しなのである。

      第20号
      さらりさらり月に歩める守宮かな  依光陽子「無辺際」
      人間の目からすると、守宮のあゆみは己の足下を確かめるがごとく、慎重に運ばれているようにも見える。月を目指しているのだとしたら、それは慎重にならざるを得ない。神聖さすら感じさせる「月に歩める」という把握。

      第21号
      輪投げの輪かぶりて春を惜しむなり  山田耕司「その春の日の」
      的に当てるでもなく、目標に投げつけるでもなく、手遊びする、その輪をかぶってしまう。春の倦怠感がある。

      葉桜にいつも面白さうな犬  依光正樹「寛大」
      犬は楽しそうだな、と感じることがある。楽しいというより面白いというほうが、より上機嫌な気がする。

      第27号
      映るたび壊し泉を私す  近恵「リインカーネーション」
      水面に映った自分の像を、なんらかの力を持って壊す。像ですら誰にも分け与えるつもりはない。ほんとうは、そんな形で水そのものを寡占しているのだという。ミニマムでいて永久機関のごとく繰り返される、心地よいナルシズム。

      第29号
      竹皮を脱ぐ大河内伝次郎  太田うさぎ「素手」
      大河内伝次郎といえば丹下左膳、丹下左膳といえば大河内伝次郎。隻眼の剣士が竹皮を脱いでつるりと現れるイメージは必殺のものがある。とまれ、素顔の大河内はつるりとした面相の美男であった。

      第32号
      鞭のごと布団は干され嘶けり  後藤貴子「桜鯛」
      干された布団を叩く、という描写を目にしたことはあるが、それが叩かれて「嘶いて」いる、とは思いもよらなかった。最後の直線で騎手がくれる鞭ほどに激しく布団を打つ情景。

      第42号
      葱の花頭大きは俳人なる  花尻万博「南紀」
      「葱の花」でいちど切れ、(一般的に)頭が大きいひとは俳人だ、と読むより、頭にあたる部分の大きな葱は俳人である、と読んだほうがより面白いことに気がついた。傾いだところなど、実に俳人くさい。

      第45号
      ふゆいちご空間(ところ)と時間(とき)のふたなりに  小津夜景「遠近法と灰猫」
      時間と空間の哲学を思うとき、きゅうに目の前が明るく、遠近感が狂いだし、手元の物体が「何」なのかすらわからなくなってしまうことがある。へたのつながった苺、そうだ、それぞれが「空間」と「時間」だったんだ、そんなことをなぜ今まで忘れていたのだろう。

      第48号
      さくらえび布教のごとくひろげ干す  しなだしん「薄明の海」
      さくらえびの天日干しは河川敷などの広大な土地を使って行われるのだそうだ。「布教のごとく」が言い過ぎとは感じられない程度にたくさん干す。その光景はさながら花畑のようである。もくもくと休みなく行われる熱心さに、そのような感慨を覚えるのも道理である。

      鶏肉に挟まれて葱嬉しいか  望月士郎「海市元町三-一」
      時々、食べ物に対して妙な感興をおぼえることがある。たとえばお好み焼きの上で踊るかつおぶしや、焼けて変形するするめいかなど。この葱の嬉しさを食らう背徳感。

      第50号
      うつし世の全米販の「お米券」  山田露結「アラッバプー族の場合」
      お米券は米を買うためにあった。商品券であるはずが、物質そのものの謂であるように感じられるのは、なぜか。米という「豊穣の象徴」が紙切れ一枚に集約されていたから、といったら大袈裟か。

      第55号
      水を見て日を見て春の懈怠かな  西原天気「流体力学」
      水にも日の光にも、太陽そのものの見え方にも、春は現れている。このものうさが動きなく表されている、ものうさがよい。

      第57号
      黙しあひ揉みあひ春のもすらかな  小津夜景「固有名のある風景」
      特撮映画のモスラであるととってもよいし、子供の折「モスラ」と名指した、芋虫の類いの景ととってもよいだろう。口数のない生き物の蠢くさまが愛らしい。

      第66号
      駄馬の蹴破るわが胸板も万愚節  竹岡一郎「春疲れた」
      この前後、竹岡さんはご厳父の死にまつわる作品を発表されている。その脱力、苦悶が集約された一連。駄馬に蹴破られた胸はさぞかし痛かろう。傷も深傷であるに違いない。

      第71号
      針運ぶ雹降る音と思いつつ  ふけとしこ「十句」
      不思議な句だ。「針運ぶ」を手芸の運針と思って読むと、「雹降る音」は分厚い布を縫うせいか何かで、不規則な縫い目を作る音かとも思うが、レコード針の音として読むと、「雹降る音」はノイズのことなのかとも思えてくる。

      第75号
      ゆきなさい海星に生まれたのだから  小津夜景「雨の思ひ出」
      ヒトデの生態でもっとも驚くのは胃を反転させて口から体外に出し、餌を直接包み込んで消化吸収できる、というところ。動かぬ星のように見えながらアグレッシブな特徴をいろいろ持った生き物だ。この句の呼びかけも因果を含めたようで、魂に強く働きかけてくる。

      (文責:佐藤りえ)

      【100号記念】思い出すことなど(1) I thank youありがとうあなた   北川美美

      ※サブタイトルを <I thank you ありがとうあなた> とした (2018.11.15)

      100号。 

      BLOG俳句新空間としてスタートした2014年10月17日に筑紫さんの<創刊について>掲載があり初心に戻ることが出来ありがたい。この日の俳句時評に外山一機さんと堀下翔さんの名前があり、現在は休載が続いているが俳句時評の筆者の皆さまの名前が躍動感をもって蘇ってきた。

      思い起こすと、時評欄は、「詩客」当時の高山れおなさん選出のメンバーに声を掛け、承諾してくださったのが外山一機さんと湊圭史さんだった。

      現在、外山一機といえば、“時評”というイメージがある。社会的事象あるいは事件と現行の俳句を結びつけ、創作の根底にある時代背景を記録する視線は今も変わらない。群馬県出身と伺っているので、上毛新聞記者から作家に転向した横山秀夫が少しタブる。俳句社会小説…が生まれてくるのか否か…。あくまで個人的妄想。

      湊さんの時評にはトレンディ情報が盛り込まれ、将棋の電脳戦や英語俳句の回などが思い出される。ふと英語俳句からオノヨーコの人気詩集「grapefruits」を書棚から出してみて読み直す機会が持てた。オノヨーコの詩は俳句の音律が元になっているのかも、と気が付く。オノヨーコの80年代個展「踏絵」のときに作品に書が含まれ、それに関連して御本人が学習院時代に俳句を詠んだということを話されていた。私の中での湊さんはオタク感とオシャレ感の狭間をさわやかにゆくウィットに富んだ筆者像がある。

      時評とは、筆者と読者のチャンネルが一致する時、面白いのだと思う。そのツボは狙ってハマるわけでもなくハマる。俳句や川柳の人の文章は、物を見るその視点が面白いのだろう。まぁいわゆる変な視点なのだろう…。

      湊さんの後任をしばらく探していたところ、邑書林の島田牙城さんから高校生で書ける青年がいるという情報を頂き、連絡をとってみたのが、旭川から上京する前の堀下翔さんだった。高校生とどう接してよいのか緊張したことを思い出す。いろいろなやり取りの後、書いてみたい、という前向きな回答をいただき、大学生の俳句時評がはじまった。

      堀下さんが大学一年生になった直後の2014年4月25日が初掲載だった。その後、堀下さんは石田波郷俳句賞の新人賞を受賞され、狛江にお祝いに出向きそこで初めて堀下さんと挨拶し、会場にいたたくさんの参加者は、現在”若手俳人”とテレビでお見かけしたりする。堀下さんは現在、大学を卒業されて研究課程にすすまれているようだ。

      堀下さんが時評を書く二あたり質問をした先輩に外山一機さんと松本てふ子さんがいらしたらしい(とお二人に伺った)。時評師弟関係ともいえ素直に質問できる純心な素質が堀下さんにはあるのだろう。時評には堀下さんの洞察眼ともいえるスナイパーさとそれにともなう研究心が伺える。特に文法を踏まえた読みは信頼が持て、末は俳文学者なのか…と堀下さんの創成期に当時評欄で活躍していただいたことが読者の皆様の記憶の中に残るといいなと思う。ご本人所属の同人誌「里」での俳句時評は一冊にまとまるらしい。おめでとうございます。

      そして、外山さんの後に、登場していただいたのが柳本々々さんだ。柳本さんは兎に角、文章が淀みなく湧き出てくる。ツイッターを通してあるいは葉書などに絵を描かれて送ってくださったりする。柳本さんの文体あるいは絵からなのか、私の中では、文章を読み始めると水森亜土的なわくわく楽しい世界が広がる。柳本さんは、ご自身が命名された<短詩時評>、そして<およそ日刊俳句新空間>を場として気に入っていただけたようで、それはもう沢山書いて頂きました。いまでも楽しく拝見しています。

      俳句が俎板に乗る”評”…という目で読まれる時評ゆえに書き手に緊張が伴う。

      執筆者の皆様のご尽力に感謝申し上げます。
      そしてたまに俳句新空間を思い出していただけるとありがたいです。

      ※各執筆者の名前でタグ検索するとその執筆者の記事が読めます。

      【100号記念・俳句新空間を振り返る】対談シリーズ全回の記録[完全版]


      2015年から2016年にかけて、俳句新空間では往復書簡形式による対談シリーズが企画されました。
      話題は「評論とは、批評とは」というテーマから出発し、俳句は文学である、文学であるべきである、俳句における詩学とは何か、といった方向へ展開、変化を見せる長大な連載となりました。
      また、そこから派生するかたちで、作曲家としても活動する仮屋賢一との「俳句と芸術」をめぐる対話、こもろ日盛り俳句祭りのシンポジウムから「字余り」について、中西夕紀との対話も行われました。
      おのおのの記事は今読み直しても興味深く、示唆を含む内容となっています。
      このページでは、それらを振り返り、すべての記事のインデックスリンクを掲載します。


      評論・批評・時評とは何か?――堀下、筑紫そして・・・ 


      その1(第8号)筑紫磐井/堀下翔  ≫読む

      その2(第9号)筑紫磐井/堀下翔  ≫読む

      その3(第10号)筑紫磐井/中西夕紀/堀下翔  ≫読む

      その4(第11号)筑紫磐井/中西夕紀/堀下翔  ≫読む

      その5(第12号)筑紫磐井/堀下翔  ≫読む

      その6(第13号)堀下翔  ≫読む

      その7(第14号)筑紫磐井  ≫読む

      その8(第16号)筑紫磐井/堀下翔  ≫読む

      番外編(第19号)福田若之/筑紫磐井  ≫読む

      番外編その2(第20号)福田若之/筑紫磐井  ≫読む

      続番外(第22号)筑紫磐井 澤田和弥の過去と未来  ≫読む

      その9(第23号)堀下翔 『新撰21』以降の世代  ≫読む

      その10(第24号)筑紫磐井 花尻万博「鬼」について  ≫読む

      その11(第25号)筑紫磐井/堀下翔  ≫読む

      その12(第26号)筑紫磐井  ≫読む

      その13(第33号)堀下翔  ≫読む

      その14(第37号)筑紫磐井  ≫読む


      芸術から俳句へ――仮屋、筑紫そして・・・ 


      その1(第27号)筑紫磐井/仮屋賢一  ≫読む

      その2(第29号)筑紫磐井/仮屋賢一  ≫読む

      その3(第32号)筑紫磐井/仮屋賢一  ≫読む

      その4(第36号)筑紫磐井/仮屋賢一  ≫読む


      字余りを通じて、日本の中心で俳句を叫ぶ


      その1(第31号)中西夕紀/筑紫磐井  ≫読む

      その2(第34号)中西夕紀/筑紫磐井  ≫読む

      2018年10月12日金曜日

      第99号

      ●更新スケジュール(2018年10月26日)

      *発売中!*
      冊子「俳句新空間」No.9 
      特集:金子兜太追悼
         平成雪月花句集
      *購入は邑書林まで

      第4回攝津幸彦記念賞発表! 》詳細
      ※※※「豈」60号・「俳句新空間」No.8に速報掲載※※※

      各賞発表プレスリリース
      豈60号 第4回攝津幸彦記念賞発表 購入は邑書林まで




      「兜太TOTA」創刊号の刊行――兜太元年へ








      【「BLOG俳句新空間」100号記念】
      特集『俳句帖5句選』その1   》読む
               その2   》読む



      平成三十年 俳句帖毎金00:00更新予定) 
      》読む

      平成三十年 夏興帖

      第九(10/12)中村猛虎・仲寒蟬・ふけとしこ・水岩瞳・花尻万博
      第八(10/5)小沢麻結・椿屋実梛・林雅樹・池田澄子・浅沼 璞

      第七(9/28)木村オサム・のどか・真矢ひろみ・前北かおる・堀本 吟
      第六(9/21)下坂速穂・岬光世・依光正樹・依光陽子・渕上信子
      第五(9/14)青木百舌鳥・早瀬恵子・坂間恒子・近江文代・北川美美
      第四(9/7)加藤知子・夏木久・飯田冬眞・田中葉月・渡邊美保
      第三(8/31)辻村麻乃・中西夕紀・杉山久子・山本敏倖・神谷 波
      第二(8/24)大井恒行・曾根 毅・網野月を
      第一(8/17)松下カロ・小林かんな・西村麒麟・仙田洋子・岸本尚毅





      【新連載・辻村麻乃特集】
      麻乃第2句集『るん』を読みたい
      はじめに   筑紫磐井  》読む
      1 風の伽藍    中村安伸  》読む



      【新連載・黄土眠兎特集】
      眠兎第1句集『御意』を読みたい
      1 『御意』傍らの異界   大井さち子  》読む
      2 つくることの愉しみ   樫本由貴  》読む
      3 相克する作句姿勢~黄土眠兎第一句集『御意』~   川原風人  》読む
      4 黄土眠兎はサムライである。   叶 裕  》読む
      5 生活者の目線   天宮風牙  》読む
      6 御意てっ!   仲田陽子  》読む
      7 重なる日常と不思議   本多伸也  》読む
      8 私の声が言葉の声であること   曾根 毅  》読む
      9 北京ダックまでは前菜花氷   森本直樹  》読む
      10 出会うべくして――『御意』を詞書から探る   岡村知昭  》読む
      11 案外な  黄土眠兎句集『御意』を読む   久留島 元  》読む
      12 仲間たちへ   三木基史  》読む
      13 敵 黄土眠兎句集『御意』を読む   中山奈々  》読む
      14 手札の中のモノ   黒岩徳将  》読む


      【新連載・西村麒麟特集2】
      麒麟第2句集『鴨』を読みたい
      0.序に変えて   筑紫磐井  》読む
      1.置いてけぼりの人  野住朋可  》読む
      2.ささやかさ  岡田一実  》読む
      3.乗れない流れへの強烈な関心  中西亮太  》読む
      4.ある日の麒麟さん句会  服部さやか  》読む
      5.千年宇宙のパースペクティブ  佐藤りえ  》読む
      6.鴨評   安里琉太  》読む
      7.水熱く――西村麒麟『鴨』の一句   堀下翔  》読む
      8.私信 麒麟さんへ   藤井あかり  》読む
      9.西村麒麟句集「鴨」を読む -多様な光―   小沢麻結  》読む
      10.『鴨』――その付合的注釈   浅沼 璞  》読む



      【新連載】
      前衛から見た子規の覚書  筑紫磐井 
      (1)子規の死   》読む
      (2)子規言行録・いかに子規は子規となったか①   》読む
      (3)いかに子規は子規となったか②   》読む
      (4)いかに子規は子規となったか③   》読む
      (5)いかに子規は子規となったか④   》読む
      (6)いかに子規は子規となったか⑤   》読む
      (7)いかに子規は子規となったか⑥   》読む
      (8)いかに子規は子規となったか⑦   》読む
      (9)俳句は三流文学である   》読む
      (10)朝日新聞は害毒である   》読む
      (11)東大は早稲田に勝てない   》読む
      (12)子規別伝1・子規最大のライバルは落合直文   》読む
      (13)子規別伝2・直文=赤報隊・東大古典講習科という抵抗   》読む
      (14)(9-2)俳句は三流文学である――続編   》読む
      (15)子規別伝3・新体詩の創始者落合直文   》読む
      (16)子規別伝4・明治書院・大倉書店と落合直文   》読む





      【—俳句空間—豈weeklyアーカイブ】
      ■第0号(創刊準備号)●俳句など誰も読んではいない・・・高山れおな  》読む

      ■第0号(創刊準備号)●アジリティとエラボレーション・・・中村安伸  》読む




      【抜粋】
      〈「俳句四季」10月号〉俳壇観測189 
      盛夏の語り部たち――大久保白村と江里昭彦
      筑紫磐井 》読む


      • 「俳誌要覧2016」「俳句四季」 の抜粋記事  》見てみる



      <WEP俳句通信>




      およそ日刊俳句空間  》読む
        …(今までの執筆者)竹岡一郎・青山茂根・今泉礼奈・佐藤りえ・依光陽子・黒岩徳将・仮屋賢一・北川美美・大塚凱・宮﨑莉々香・柳本々々・渡邉美保 … 
        • 10月の執筆者 (柳本々々・渡邉美保) 

          俳句空間」を読む  》読む   
          …(主な執筆者)小野裕三・もてきまり・大塚凱・網野月を・前北かおる・東影喜子
           好評‼大井恒行の日々彼是  》読む 





          —筑紫磐井最新編著—
          虚子は戦後俳句をどう読んだか
          埋もれていた「玉藻」研究座談会
          深夜叢書社刊
          ISBN 978-4-88032-447-0
          ¥2700
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          「兜太 TOTA」創刊号
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          *発売中*
          冊子「俳句新空間」No.8 
          特集:世界名勝俳句選集
          購入は邑書林まで

          【新連載・西村麒麟特集2】麒麟第2句集『鴨』を読みたい10 『鴨』――その付合的注釈 浅沼 璞

          こないだ麒麟くんと話す機会があった。二人とも酔っていた。
          俺「連句の付合みたいに読んでんだ、鴨を」
          麒麟「句の並びはアレコレ考えましたから」
          俺「じゃあ、連句的に註釈してもいいよね」
          麒麟「もちろん、お願いします」
          で、書いてる。もう酔ってない。

            水中りして凡兆を思ふかな
            禁酒して詰まらぬ人として端居   46頁


          水中りして→禁酒して、凡兆→詰まらぬ、思ふ→端居。
          初期俳諧的な言葉の連想による詞付(ことばづけ)。凡兆を思う人を「詰まらぬ」というのに諧謔あり。
          同一人物がならぶ、其人(そのひと)の付。

            火を囲み皆静かなる花見かな
            何もかもリュックの中や桜守    116頁


          火を囲み皆静か→何もかもリュックの中、でキャンプファイヤーを思わせながら、花見→桜守で意表をつく。
          皆→桜守の人情他による向付(むかいづけ)でもある。

            屏風絵の賑はつてゐる飯屋かな
            呼ぶ時は必ず手紙冬紅葉       167頁

            
          屏風絵→冬紅葉、賑はつてゐる飯屋→呼ぶ。
          この付合、手紙が意表をつく無心所着(しょじゃく)。

            何の鮨あるか見てゐる生身魂
            廻り来て再び猫や走馬燈       140頁


          前句を回転寿司と取成し、走馬燈をあしらった付。
          結果、回転寿司のレーンに猫がのってるイメージも。やはり無心所着である。

            虫籠に住みて全く鳴かぬもの
            小さき墓ばかりや秋の海が見え    150頁


          虫籠→秋の海、全く鳴かぬもの→小さき墓。
          連句の題材である「無常」の付。

          以上、麒麟くんを真似てスマホで打ってみたが、彼のようにはうまく打てない。
          慣れぬことはせぬものである。酒がほしい。  《未完》



          (【筑紫磐井注】辻村麻乃第2句集『るん』の出版記念会で、浅沼璞先生と西村麒麟がもりあがっていた。出版記念会の主人公をさておいて盛り上がっており、『鴨』を連句として読んでも良いかというのである。私は連句は素人なのであるが、「読み」の可能性としてはいろいろあると思う。ことによったら連句式の読みというのが一世風靡してもいいのではないかということでお願いした。麒麟君、《未完》とあるのだからもっともっと酒を差し上げて、続編を書いて貰ったらどうだろう。)

          【「BLOG俳句新空間」100号記念】特集『俳句帖5句選』その2


          神谷 波
          松過ぎの鴉がやけに親しげに
          稲妻や瞬きゆつくりアンドロイド
          桜から桜へ鱏のやうにゆく
          神の留守預かるスーパームーンかな
          冬の虹ひつかかつてる森の端


          五島高資
          鉄パイプ落ちて響ける枯野かな
          紙垂光る内はほらほら鳥総松
          嵩上げや小石に長き春の影
          金星の残るインフルエンザかな
          雛の間や川は夕べへ流れけり


          小沢麻結
          日銀短観データを拾ひ初仕事
          塔の如枯木あの辺りがリンク
          南風微睡みてなほ日は高き
          秋日和パレードは未だ見えねども
          札幌に男足止め雪女郎


          【新連載・黄土眠兎特集】眠兎第1句集『御意』を読みたい14 手札の中のモノ  黒岩徳将

          雪柳水の流るる方に驛

           川沿いの駅を思う。流れはそこまで速くない。駅は多くの人生が浅く交差する場所だ。しかし空港や船着き場と比べるとせわしなく、どこか淡白でクールな印象を受ける。リクルートスーツを着こなせない就活生は、保育園帰りのかしましいママ友たちを見向きもしなかったりするだろう。この句はそんな駅を少しだけ遠くから望む。川の水はただただ流れに従っているだけで、川の中の石や魚を隠すこともない。そよそよときらめきながら吹かれる雪柳も、世界の他者には干渉しない。あるがままの風景を書きとることは、そのまま世界の肯定に繋がる。
           眠兎の句は口ずさみやすい。だから、市民生活の違和感の表出は韻律ではなく、物と物とのぶつかり合いによって達成される。

          紙飛行機雛のまへを折り返す


           雛と紙飛行機という、並行に存在していた古いエンターテイメントが出会う。「過ぎる」ではなく、「折り返す」に構成の妙がある。雛の精神の気高さや、紙飛行機ごときでは近づけないのだという主人公のまなざしも背後にあるかもしれない。雛に速いものが通っても似合わないので紙飛行機のペラペラ感もあいまってきて楽しい。この句に比べると、隣の二句「雛の客箪笥をほめて帰りけり」「啓蟄や叩いてたたむ段ボール」はユーモアも連想も類型的である。

          朝寝して鳥のことばが少しわかる
          金魚田の金魚や泥に潜りたがる


           定型への意識を基本として、上六や下六のもたつきや逡巡を楽しむ。
           俳句らしく見える「パターン」も意識していそうだが、その意識は類型を免れるための意識である。「少し」は句集の中にこの句しかない。

          Amazonも楽天も好き種物屋
          菊人形肩より枯れてゆきにけり


           「好き」の口語の弾んでゆく感じも、文語のどっしりした構えも眠兎は好む。

          うかうかとジャグジーにゐる春の暮
          さばさばと茅の輪くぐりてゆきにけり
          やすやすとまんぷく食堂に西日
          たつぷりと落葉踏みたる影法師


           副詞で始まる句は四句あった。茅の輪の句と西日の句が、素材・季語に対して裏切りがあり、この裏切りが鋭くて爽快で心地よい。茅の輪の句は、ありがたがって茅の輪をくぐる人もいるだろうに、そうではない人に注目したところが俳句らしい。まんぷく食堂は三重県の近鉄宇治山田駅から徒歩一分の距離にあるB級グルメ「唐揚げ丼」で有名な店だが、そんなことを知らなくてもまんぷく食堂にさしかかるオレンジ色の光線が思い浮かぶ。ここで「夕焼」ではなく「西日」なのは、プラスではなくマイナスイメージも「まんぷく」に織り交ぜたかったのであろう。「西日」の方が「やすやすと」に響く。飽食の時代、エクスタシーである「食」を終えるときに立ち上がる感情は「太ることによる後悔」だけではなく、人間の業をも思わせる。

          大聖堂までの原っぱ日脚伸ぶ
          バレンタインデー軽量の傘ひらく
          カッパ巻きしんこ巻春惜しみけり
          峰雲や輓馬寄り来る診療所
          出典者D冬空に本売りぬ
          歳晩や尻ポケットのドル紙幣


          ひと揺れに舟出でゆけり春の虹
          丸洗ひされ猫の子は家猫に
          雛の家綺麗にパンを焦がしけり
          春風や開港を待つ滑走路


           即物的描写に徹した句と、機智・把握を開陳している句のバランスは六対四といったところだろうか。「モノ俳句は素材で勝負」「いや素材だけではだめだ。構成・何に詩を感じたかの提示が必要だ」という二つの価値観を行き来させている。


          秋深しギリシャ数字の置時計

           つまり、手札がいろいろあるので飽きない。

          【新連載・辻村麻乃特集】麻乃第2句集『るん』を読みたい1 風の伽藍  中村安伸

           空を眺めていて、この空を吹く全ての風がひとつひとつ色分けされていたなら、どんな光景が見えるだろうかと思うことがある。風の塔をめぐる風の回廊——大伽藍のような景をまのあたりにできるのではないだろうか。
           「るん」とは風を意味する語なのだそうである。その名を冠したこの句集の作者は、もしかしたら私には見ることのできない空と風の構造を、何らかの方法を用いて視認することができるのかもしれない。

            引鶴の白吸はれゆく空の孔

           北へと帰る鶴は自らの意志で風を選び、その風に身を委ねつつ飛び去ってゆくのであるが、この句によれば、空に穿たれた不可視の孔へ吸われてゆくのだという。この句は、知識に基づいて把握した世界の概念を捨て去り、目の前にある現実の世界を改めて把握し直すことによって生まれたのであろう。

            一斉に川に引かるる桜かな
            舳先より展がりゆける花の闇


           これらの句の出発点が自らの目で見た景であったとしても、言葉に変換され俳句作品として再構成される過程で虚構の光沢をまとってゆく。そして、その光沢によって読者を幻惑させ、魅了する。これは俳句形式そのものの特質であり、それを使いこなす作者の力量でもある。

           風は草木の靡く様子などを通して間接的にしかその存在を視ることができない。しかし、風に触れることはできる、というよりも風に「触れられる」ことができると言うべきだろうか。かたちのない風に関心を寄せる作者が、もののかたちを描こうとするとき、ある独特の感覚が働いているように思われる。

            日本地図能登を尖らせ秋麗
            楊貴妃の睫毛の如く曼殊沙華


           「尖らせ」は地図もしくは地形そのものに意志の存在を認めるような表現である。それに比較すると二句めの直喩はわかりやすいが、いづれの句も本来静的なものに、動きを見出そうとする言葉の働きがある。
           静的であるとされるものも、人の認知のスケールを外れるほどの長い期間、あるいは小さな距離においては動きつづけているのである。

           数多く存在する「風」を意味する語のなかで、句集名として「るん」が選ばれたのは、畢竟その音韻に快楽を見出したからではないだろうか。

            雲板のばあいんと鳴りて大根汁
            ちちちゆちゆと声降らしをりかじけ鳥


           「ばあいん」「ちちちゆちゆ」というオノマトペは、定型を少しはみ出しつつ、ひらがな表記で書かれている。これは熟したオノマトペではなく、音が語に変容する途中の段階にあり、新鮮かつ野趣に富むものである。
           風を見ることはできなくても、その音の存在感は確かである。「るん」という語は風を意味する外国語であると同時に、風の音をあらわす斬新なオノマトペでもあるだろう。

           音と語の関係という点では、この句集の中でもすでに代表句とみなされている、

            おお麻乃と言ふ父探す冬の駅

          についてであるが、この句の「おお麻乃」は父の発したセリフであり、これがどのような声音と調子で発せられたかは読者に委ねられている。この句集を手に取る読者は、作者の父が故人であることを知っており、作中主体=作者が探すのは父の面影であると読むだろう。そのうえで私は、この「おお」を殊更強い詠嘆の調べに乗せることを好まない。たとえば一日の業を終えて帰宅した父が、出迎える娘に呼びかけるような、なにげなくもあたたかい、なつかしい調子を読み取りたいと思う。
           娘が自らの名を媒介として父への思いを詠んだ句としては、星野立子の「父がつけしわが名立子や月を仰ぐ」という人口に膾炙した先行作があるが、それとは異なる肌合いでありながら、肩を並べ得るものと思う。

           さて、闇とは光がない状態であり、光がなければ色もない、はずである。

            口開けし金魚の中の赤き闇
            鮭割りし中の赤さを鮭知らず


           この二句に書かれている内容は共通している。身体の中の空間は光の入らない闇であり、腹を割かない限り自分自身では視ることができない。しかしその空間は「赤い」のである。それは知識としてそのことを知っているというだけではない。自分自身の中に炎のような色の血が流れていることを実感しているのだろう。

           そして、この句集のなかで私が最も興味深く感じるのは、実は明瞭に解釈することが困難な句である。

            大夕焼ここは私の要らぬ場所


           この句は幾通りかの解釈が可能であるが、どの解釈に沿って読んでみてもその底にある情念の塊のようなものは、同じ感触をともなって伝わってくる。この句の多義性は「省略」によって生み出されたものである。

            着膨れて七人掛けの浮力かな
            立つといふ点と線あり麦の秋


           これらもまた、大胆な省略が施された句である。省略は俳句という短い詩形を成立させるため、必然的に生まれた技法であるが、それとともに他の文芸にはあまりみられない特徴を俳句にもたらしている。一句がひとつの文として成立するかどうかの瀬戸際を、少し超えたところまで省略をすすめることにより、多義性が生じ読者の想像力が喚起されるのである。
           作者の意図した内容を正確に読者に伝達することよりもむしろ、読者の想像力を掻き立て、読みの可能性を最大にすることを優先し、深々と省略の刃を振るう。そのためには誤解などものともしない潔さが必要である。この句集の作者は、俳人にとって最も大切な資質である潔さを十分に備えている。

            竹の秋深き港の音させて
            眠るやう交はるやうに秋の蝶


           季語を確かな柱として据え、詩的感覚をとりあわせたこれらの句は、句集のなかでもとくに高く完成されたものといえる。

           世界の半ばを占めるであろう不可視の領域をこそ描きたいという作者の願望が「るん」という句集のタイトルにあらわれており、句集におさめられた作品を読み終えて、その願いはある程度達せらたのだと思った。