投稿日:2011年07月01日
●―1:近木圭之介の句/藤田踏青
海の鳴るランプが覚書的風情
このテーマの「風土」とは、心象風景の中での作者の原風景を意味しており、それが作品に裏打ちされたものを示唆しているものと考える。それは福永武彦がボードレールを例にとって「未来の詩集とは、彼の持つ世界Kosmosの全部の表現であり、これは最早一季節では無く、季節の推移によって生じる風土である。彼が詩人として得た精神の、また人間として得た人生の、精髄としての風景が、そこではパノラマのように一眸の下に眺め渡せる」「彼は紙上に定着される前の詩を書いていたのだ」【注】と述べている事と相通じるものがある。
掲句は昭和23年の作品であり、その背景には前に述べた下関、門司での生活がある。よって鳴るのは海鳴りであり、船の汽笛であり、海峡を超えて聞こえてくる機関車の汽笛であり、ランプのチリチリと燃える音でもあろうか。戦後復興の玄関口でもある海港ではあるが、まだまだ戦傷の思いは漂っている。その忘れるはずもないものをメモする如く、「覚書的風情」と突き放した表現にする処に圭之介の俳人としての知的方法論が垣間見られる。この様な表現は下記の句の如く多くみられる。
砂丘、非具象の月が出ている 昭和37年作
朝 卵が一個古典的に置かれていた 昭和59年作
「非具象」も「古典的」も「覚書的」同様、その主眼とするものが意味性というよりもむしろ絵画的描写の手法に傾いているように思われる。更に各句ともに画家・圭之介によって描かれた一幅の画に置き換えることも出来るのではないか。また「言葉を点のようにおいて、その点との構成が、全体的に朧化する方法で、掴みどころのない影像を、何とか形象にしようとする探求を積みかさねている作家」として井上三喜夫が圭之介を評しているのもその描写法に通じるものがあり、頷ける。言葉の構成による形象化と言えよう。
この閑かな時間に正しく海に向いている椅子 昭和26年作
汽船が灯る菜畑受胎 昭和28年作
漁夫の手に濃い夜があるランプ 昭和30年作
シャッターチャンスの如く時間を一瞬に切り取ったような描写であるが、やはりその裏には微かな時間の揺れがあり、その対象の中で反対に自己が揺すぶられているかの如き感覚があり、詩的な流離感も漂っている。その詩的感覚の由って来る所以は地方都市のある種のプチ都会的感覚を伴なっているからでもあろうか。
霜がかじ屋のまえ朝の道、もう鉄をうつ 昭和24年作
互に鉄うつ男である遠く海のたいらにある 同
かじ屋のぽっと火が秋の遠くまで見ゆる夜る 同
かじ屋のにわとり道にいておやじと村の人達 同
かじ屋を点景にした連作である。縦軸に一日の時間の流れが、横軸に季節の推移が交叉する処に作品を成立させ、意識的に複層的に構成したものである。「朝の道」「海のたいら」「ぽっと火が」「にわとり、村の人達」等はかじ屋を取りまき、包み込んでいる存在でもある。「風土」とはその風景に溶け込んだ人間の生活そのものなのかもしれない。
*「ボードレールの世界」福永武彦・著 平成元年 講談社刊
●―2稲垣きくのの句/土肥あき子
春近しふるさとの菓子手にとれば(『冬濤』所収)
厚木に生まれ、関東大震災を機に座間へと転居。疎開先は信州小諸から一里半ばかり入った浅間山麓の農村だというが、その後の東京生活は赤坂、平河町、新宿という都心での転居を繰り返したきくのの風土性は、目を凝らさなければ見えてこない。きくのの俳句に「ふるさと」の言葉が入ったものは掲句を含め3句のみである。
数珠玉にうから失せゆくふるさとよ(「春燈」49年1月号)
ふるさとは相模大野の目借りどき(『花野』所収)
先日、きくのの姪にあたる栄田さんに、きくのが眠っている墓所に案内していただいた。寺は、きくのの父親の生家である座間の先にあり、父親の生家は相模川で舟宿を営んでいたという。
画用紙を広げたような梅雨空がはらはらと雨をこぼすなか、相模川のほとりの寺に着いた。見おろせば相模川、晴れていれば正面に大山が見えるという地に、きくのは眠っていた。両親や弟が眠るこの墓に、生前きくのは親族を率先して熱心に墓参していたという。
山門を入ってすぐに大きな榧の木が茂っており、栄田さんは「子どもの頃、来るたびに実を拾わされた」と思い出すように大樹を見上げている。
きくのの第一句集名は「榧の実」だが、集中榧の実どころか、樹木としてさえ見当たらず不思議に思っていた。晩年になり〈榧の木がかやの実こぼす墓まゐり〉(「春燈」53年1月号)と、真正面から詠んでいるが、きくのには最初からこの清冽な香りを放つ榧が、故郷を象徴するシンボルツリーだったのだろう。
墓参には田んぼがずっと続く畦道を歩いて、土筆を摘んだり、蛙をつかまえたりしたという土地も、今ではカラフルな住宅が並び、すっかり整備されていたが、幅広い堰と大きな水門が残る相模川の姿はそのままであるという。周辺を歩いていると、古くからこのあたりに住んでいるという方があれこれと尋ねてきたが、それは特定の名字を言えば、どこそこの誰であるかがたちまち判別できるといったような、小さな集落特有の「くちさがない」環境であることをじゅうぶんに示唆するやりとりだった。
ひと、われにつらきショールを掻合はす(『榧の実』所収)
一瞥に怯みし伏目春ショール(『冬濤以後』所収)
人のくらしに立入り禁止花ざくろ(『花野』所収)
人との機微にことさら敏感だったきくののこと。どれほど愛着を感じても、この地に永住することは決してできなかっただろうと確信した。
きくのが徹底して都会を好んだのは、人間関係が淡白で済まされることがなにより大きかったと思われる。そして、都会で暮らすことは、つねに仮住まい感覚であり、家を放って旅に出ることになんの躊躇も感じなくてもすむ。〈青胡桃旅を栖といふことば〉(『冬濤』所収)と、涼しい顔で言い放つきくのの俳句に「旅」の文字が入っている作品は73句にものぼる。先のふるさとと比較すると、どれほどの比重であるかがわかる。
しかし、それでもきくのの俳句にも確固たる風土は存在する。幼い頃育った環境に山があり水があり、心の景色に刻んでいたものがふと去来するといったそれらの表出の仕方には、捨てても捨て切れないという粘度はない。
軽井沢を好み、夏になるたびに二ヶ月もの長い期間を過ごし、多くの句を残していることを思うと、きくの自身も自分のなかにある懐かしい記憶が消えてしまわないように、時折確認する必要があったのだと思われる。都会に暮らし、旅を重ねているだけでは、自分の芯が消えてなくなってしまうような不安を覚えたのかもしれない。
軽井沢の山や川は、故郷を思わせ、それでいて自分との距離を置いてくれる最適の場所であったのだろう。軽井沢での作品は、馴染みの地であることの心安さが生んだ親しさで詠まれている。
山の日のすでに秋めけりパン買ひに(『榧の実』所収)
落葉松の秋風をこそ聴くべかり(『冬濤』所収)
栗育つ朝はあさ霧夜は夜霧(『冬濤以後』所収)
澄む水のゑくぼ生れては消ゆる(「春燈」昭和45年11月号)
しかし、どれほど愛しい第二の故郷であっても、ひとわたり確認が終われば、「また来年」と手を振るように、ごくあっさりと帰京する。
晩年、鵠沼に戻ったり、東京に転居したり、終の住処となる場所はどこにいっても、いつまでたっても持てないきくのに、風土性にこだわらなかった淡白さがここに災いしたのかもしれないと、思わず身につまされるのだ。
つき合ひもなき短夜のドアぐらし(「春燈」昭和57年8月号)
●―4:齋藤玄の句/飯田冬眞
いつの日の山とも知れず夏大空
掲句はいわゆる「風土俳句」ではない。筑紫磐井がいう「風土俳句」の定義「地方在住の作家による土地固有の自然と人間の生活をテーマにした俳句」(*1)からはあきらかに外れている。あえて今回この句を選んだ理由は後に述べることにする。
玄にも「風土を詠んだ社会性俳句」はあるので、それらをいくつか見ていこう。
うなだるる馬に凍河の砂利積み上ぐ
馬は肋(あばら)のなりに皺みて凍砂利牽く
農乙女堕つる未踏の雪一路
漁婦等の落涙湾を漂ふ冬菜屑
殖ゆる凍光竹輪工場へチャルメラ吹く
上記5句はいずれも昭和31年作で第3句集『玄』(*2)所収。齋藤玄は昭和28年第2次「壺」を休刊後、断筆時期があったことは以前述べた。昭和30年からわずかながら句作を再開。札幌在住時代に土岐錬太郎、寺田京子らと同人誌「楡派」を刊行する。上記の句はその頃のもの。句集では「北見玄冬 六十二句」の前書がある。
一句目と二句目は北海道北見市滝の上で砂利川を詠んだ連作「(一)滝の上」の中の句。凍った砂利を満載した車を肋骨の透けた痩せ馬に牽かせている風景を詠んでいる。三句目は凶作にみまわれた農家の冬の生活をスケッチ風にまとめた連作「(二)凶作地帯」のひとつ。貧農の娘が身売りするために足跡もない雪深い道を街に向かって歩いて行く後ろ姿が浮かぶ。四句目と五句目は「(三)紋別港」の連作から。厳冬の中、ちくわ工場で働く女工たちの姿を描く。
これらは筑紫の言葉を借りるならば、「地域在住者による社会性俳句」という句群。筑紫の言うように「倫理的態度(滅びゆく村や苛酷な肉体労働への同情)」は濃厚である。単なる写生句ではないが「北国の生活」という類型的な「風土」のイメージを打ち破るまでには到っていない。凝視したものを内面化したうえで、詩語に昇華させてゆく晩年の齋藤玄の句風とはあきらかに異なる。むしろ晩年の句風は、こうしたスケッチ句の積み重ねで鍛えた基礎表現力に裏打ちされたものなのであろう。
こうした玄の「風土を詠んだ社会性俳句」を踏まえて、掲句について見ていこう。「いつの日の山とも知れず夏大空」は、昭和52年作、第5句集『雁道』(*3)所収。この年の3月、玄は前立腺手術のために北海道の砂川市立病院で一ヶ月余りの入院生活を送る。掲句は退院後の作であると思われるが、入院生活者にとって、窓から見える風景が唯一の自然であり、外界である。ことに山多き北海道の地であれば、窓から見える山の姿が病者の心を慰めたであろうことは想像に難くない。それは眼前の山の風姿と病者の入院生活の喜怒哀楽・別離とが結びついて記憶のひだに刻み込まれてゆくからである。事実、玄は入院生活中に窓から見た山を次のように詠んだことがある。
今死なば瞼がつつむ春の山 昭和49年作『狩眼』
昭和49年春、胆嚢炎を患い滝川市立病院に入院した折のもの。玄にとって「生まれて初めての入院で、気持が甚だ落ちつかなかった」という(*4)。その不安を解消するためか、作句に打ち込み、「入院句録四十句」を残している。そのなかの一句である。この句について玄は自註で次のように記す。
「病床上で、もし今死んだら、という思いが頻りにした。窓から見える長閑な山のたたずまいを、瞼(まぶた)に持ってゆけるだろうと」(*4)
入院中の玄にとって「窓から見える長閑な山」が病者を慰撫する“風景”であったことは、この自註からも感じられるだろう。まさに入院生活の日々の記憶を象徴するのが「春の山」なのである。生命力に満ち溢れた「春の山」を病床の作者が目に焼き付けてあの世に持ってゆく。まさに風景は死と対価なのだ。「瞼がつつむ」の措辞にも凝視の作家である玄の姿勢がうかがえて、秀抜である。
49年の入院が玄に晩年意識を芽生えさせたことは、第4句集『狩眼』後記に「もはや、そう長くもない生の日々であれば、一層密度の濃い俳句を作らねばならない」と記していることからも推察できる。この49年あたりから玄の作風は変化し始めている。
あらためて掲句に戻ることにする。自註に玄は次のように記す。
夏の大空の下に山があった。いつの日か、どこかで見た山であった。そしていつも見なれている山でもあった。夏の大空の下では妙な現象も起きる。(*4)
広く、深い真夏の大空の下で、玄は見慣れた山を見ていた。見ているうちに「いつの日か、どこかで見た山」に思えてくる。それは先に掲げた滝川市立病院の窓から見た「春の山」であったかもしれない。眼前の風景がいつの日か見た山の記憶にすり替わり、今ここにいる自身の存在すら揺らいでくる。素肌に刺さるほどの太陽の光と鼻腔をくすぐる草木の香、虫たちのかまびすしいまでの鳴き声に満ち溢れた生命のるつぼのなかで、山を仰ぎ見ている自分は消え、山そのものとなって夏空を見上げている。それが自註で言う「夏の大空の下」で起こった「妙な現象」だったのではないか。
死を予感している玄には生活報告のための風土など必要なかったのだ。旅行者でも地域在住者でもない、まさに幻視ともいえる視座で、山河と向き合い、「自然」と一体化することこそが「死」という瞬間を乗越えるために必要であったからだ。
*1 「詩客」2011年6月3日配信「第3回戦後俳句史を読む」のなかでの筑紫磐井の発言。
*2 『玄』昭和46年発行。『齋藤玄全句集』昭和61年 永田書房刊 所載
*3 『雁道』昭和54年永田書房刊、『齋藤玄全句集』昭和61年 永田書房刊 所載
*4 自註現代俳句シリーズ・第二期16『斎藤玄集』昭和53年 俳人協会刊
●―5:堀葦男の句/堺谷真人
縄より窶れて竜巻あそぶ砂礫の涯
句集『火づくり』(1962年)所収「太陽の専制」50句より。
1960年5月15日、葦男は東京を発ち、空路メキシコシティへ向かった。国際棉花諮問委員会に外務省調査員の資格で出席するためである。6月3日、アメリカに入国。ワシントン、ニューヨーク、ダラス等を歴訪し、西部綿作地帯を視察の後、7月にメキシコ再入国、西海岸を約1週間自動車旅行した。更にロスアンジェルス、サンフランシスコ、ホノルルを経て、7月14日に帰国。まる2ヶ月に亘る海外体験であった。
海を欲る輸送車こぼれつぐ棉花 『火づくり』
悩む眉間たち太陽と繰綿機(ジン)の挟撃 同
脛の革具の集団の音滅びの音 同
この年の日本人海外渡航者数は11万9千人余。半世紀後の1,663万7千人(*1)の僅か140分の1に過ぎない。葦男は同時代の俳人としては稀有ともいえる海外詠の機会を持ったのである。帰国後発表した連作「太陽の専制」は、山口誓子(*2)や高柳重信(*3)の批判を浴びた。しかし、前衛俳句の旗手として都市生活者の暗鬱な抒情の詠出に傾斜していた葦男が、メキシコという日本とは全く異質の風土から摑み取ったものは大きかった。
昭和三十五年のメキシコ旅行吟は、それまでの体験や概念を吹き飛ばす程の「心意のデモンの爆発」となった。堀はその事情を「自然と親和関係にあった「季」の美学では、到底立ち迎えられない必殺の自然との対峙」といっており・・・(*4)
上記は安西篤による葦男論の一節であるが、特殊日本的風土に依拠する「風土俳句」が漸く俳壇の注目を集めつつあった当時、「季」の美学だけでは太刀打ちできない風土の存在を改めて強烈に印象づけた葦男作品は実にポレミカルな問題を提起していたのだ。それは、俳句の国際化、外国語俳句など、風土的多様性と俳句との関連性を論ずる際に今なお繰り返し俎上にのぼる諸問題の、いわば濫觴といってもよかった。
さて、後年、還暦前後になると、葦男の関心は風土よりもむしろ風景へと向かってゆく。「姿情一如」を説き、良い風景と出会うための心の在り方を重視するに至るのである。とはいえ、下のような文章を目睹するとき、「我々は風土において我々自身を、間柄としての我々自身を、見いだすのである」(*5)という和辻哲郎の風土論のエッセンスが、葦男流に咀嚼され、風景論として再構成された形跡を筆者はそこに見る思いがするのである。
・・・・・・姿情一如の表現を旨とする思いが高まって来た。作句の積み重ねを通じて、自己が他者において自己を見る、という態度が、多少とも身について来た、ということでもあろうか。
このような態度を自覚するにつれて、例えば、風景、風物、風姿などのことばに冠された風の字には、どうやら、享受者または表現者の価値観に基づく主体的選択ないし判断のはたらきが暗示されているように思われて来て、ひたすら景や物の客体的表現につとめても、そこにおのずから風の字が暗示する主体のはたらきが加わっているのだと思うようになった。(*6)
*1 法務省『出入国管理統計』2010年出国者数
*2 『朝日新聞』大阪本社版1960年10月11日「前衛を探る」
*3 『俳句年鑑』1960年12月「人物スポット」
*4 『堀葦男句集』1970年「解説(堀葦男小論)」
*5 『風土―人間学的考察』岩波文庫1979年
*6 『山姿水情』1981年「あとがき」
●―8:青玄作家(日野晏子)の句/岡村知昭
夫の過去わが過去月に照らさるる
「日野晏子遺句集」(平成7年)の昭和21年~昭和30年の章より。一句に書かれた言葉そのものは、長年連れ添った夫婦の感慨として一読すぐに納得できるものなのだが、肝心の「月に照らさるる」過去が夫と自分自身のそれぞれのものであることに気づくとき、1句に潜んでいたかすかな陰翳を次第に帯びてくるように思われるのが、読んでいて興味深く感じたところである。夫の過去にいったい何があったのか、もしくは自らの過去に何事が起こったのかはともかくとして、輝ける月光の下に曝け出されたふたつの過去が、いま互いに寄り添うように佇んでいることに対する妻としての喜びが、かすかな陰翳として1句において彩りを添えているのだ。
「風土」というものを自らが拠って立つ場所、更には「原点」という風に読み替えてみるとき、草城を慕って「青玄」に集まった若き俳人たちと晏子とは同じ「日野草城」という俳人を自ら拠って立つ場所として選びながら、草城に対する実際の立ち位置においては微妙な違いを見て取れるように思う。ほとんどの「青玄」の若き俳人たちにとっての草城へのまなざしは、戦前に新興俳句の雄として「旗艦」に拠り、「ミヤコホテル」に代表されるモダニズムあふれた作品の数々を発表した俳人の肖像へ向けられたものでもあり、戦後の病床生活を余儀なくされた草城の姿を目の当たりにしても深い思いは決して揺らぐことはなかった。彼ら彼女たちにとってまぎれもなく草城の作品こそが自らが拠って立つ原点であったわけである。
一方、晏子にとっても草城の存在の大きさは計り知れないものがあるのだが、その原点となっているのは、いまこのときに自らが看護している夫そのものの姿である。新興俳句の雄としての夫は俳句を作っているとは知っていながらもどこか遠い存在であり、ましてや大いに物議をかもした連作「ミヤコホテル」に登場する幼な妻に擬されたことなど、彼女にとってはまったくの遠い場所で起こった出来事でしかなかった。新興俳句の雄であった草城を知らないままの晏子にとっては、俳句を作るにあたっての自ら拠って立つ原点はあくまでも目の前で病に臥せる夫であり、その夫とともにある自分自身の姿である。ある時は俳句を書くようになってはじめて知った夫の俳人としての顔へ驚き、またある時には自らの俳句を真剣なまなざしで読もうとしている夫の姿に深い喜びを得る、そのような日々の連なりこそが「日野晏子」という俳人の原点なのである。
あまりにも作者の伝記的な要素を強調し過ぎるのは作品鑑賞にはふさわしからぬ振る舞いであろうとは承知の上で、それでも草城と晏子の夫婦が歩んだ道のりを踏まえて掲出の1句を見直してみると、月光の下に曝け出される「夫の過去」とはもしかすると新興俳句の雄だった頃の草城の姿ではないだろうかとの思いにかられる。彼女は俳句という月光によって夫の過去と現在をくまなく照らし出し、これまでの自分自身が知り得なかったもうひとりの夫、俳人「日野草城」に出会った。過去も現在もくまなく照らし出された病床の夫に向かい合う彼女の姿が深い官能的な喜びに包まれているようにすら見えるのは、互いの原点を曝け出しあう関係となった夫と自分との間に、確かな交感のときが訪れているのを全身でくまなく感じ取っているからではないだろうか。
●―9:上田五千石の句/しなだしん
上田五千石、本名・明男は、昭和8年10月24日、父・傳八、母・けさの三男として東京に生れる。
生家の代々木上原では満ち足りた幼年期を過ごすが、戦時に信州へ疎開し、その後細かく長野、山梨、静岡と転居する。その間、昭和20年には東京の自宅を空襲で失う。
五千石の作品には、この戦時の身の上から“流寓(りゅうぐう)”を使ったものが散見される。流寓とは放浪して異郷に住むこと。句集『田園』では〈流寓のながきに過ぎる鰯雲〉がそれである。
そんな流寓の中でも明男は、文学に、剣道に、遊びにと少年期を謳歌する。
昭和22年、明男14歳とのとき、静岡県立富士中学校(現、富士高校)2年に転入し、校内文芸誌「若鮎」の制作に加わり、その「若鮎」に自ら次の句を発表する。
青嵐渡るや加島五千石 明男
著書『春の雁』(*1)でこの句に触れ、この句が校内で多少評判になったと記し、「加島五千石」とは、江戸時代、富士川のデルタ地帯に造成された新田・五千石のこと、と述べている。
さらに、この句を引っ提げ、富士宮浅間大社で開かれた水原秋櫻子の句会に出かけたが、句会はスコンクであったこと、そして秋櫻子がこの「加島五千石」というものを知らなかったのではないか、などのことを書き連ねている。
◆
もうお分かりの通り、“五千石”という俳号は、この句による。
父・傳八は、「大人の句会に勇を鼓して出たことを賞し」て、この「五千石」の句は「天下の秋櫻子の目をくぐった句、これを縁に俳号を“五千石”にせよ」と言ったのだという。
ちなみに、父・傳八も俳人で、俳号を古笠(こりゅう)といい、明治30~40年代もっとも俳句に熱中したとのこと。同書の別な項には次のように記されている。
内藤鳴雪選『遼東日報』に、
青嵐渡るや国のあるかぎり 古笠
梁山伯八百人の夜長かな 〃
というスケールの大きな句を発表している。
◆
さて、この古笠の一句と、先の明男少年の「五千石」の句を並べてみよう。
青嵐渡るや国のあるかぎり 古笠
青嵐渡るや加島五千石 明男
そう、「青嵐渡るや」が同じなのだ。そして句の景の大きいところも似ている。
遡れば、上田家では折に触れて句会が開かれ、明男も幼年の頃から指を折って作句した、と『春の雁』にも記されている。この一致を見ると、子は親を見て育つ、との思いをあらたにする。
◆
なお、五千石の風土性といえば、〈虎落笛風の又三郎やーい〉を含め、賢治の盛岡を挙げるのもひとつの考えであろう。しかし私は、少年期を実際に過ごした山梨がやはり五千石の風土にふさわしく、五千石としての正式な発表句とは云えないが、俳号の由来となったこの「五千石」の句こそが、五千石の風土の根底と云ってよいではないか思うのである。
*1 『春の雁―五千石青春譜』1993年10月24日邑書林刊 (10月24日は五千石の誕生日)
●―10楠本健吉の句/筑紫磐井
枝豆は妻のつぶてか妻と酌めば
昭和49年。第2句集『孤客』より。
「風土」というテーマを選んでおきながら、憲吉には風土的な俳句は少ない。大阪の北浜に生まれたから、大阪が風土?そんなことはありはしない。初代灘屋萬助が天保年間に大阪で料理屋を開業、2代目が明治になってから長崎料理の味を加えて大阪今橋に料亭「灘萬」を開く。3代目は第1次世界大戦講和会議の日本全権大使である西園寺公望公爵の料理人として随行、灘萬を世界に知らしめた。経営の才に闌けていた3代目は、食堂やらスーパーマーケットなどの新機軸を打ち出し、大衆化路線も兼ね備えた。それが功を奏したのが戦後で、大阪の本店を、東京のホテルニューオータニ山茶花荘に移し、昭和61年東京サミットの公式晩餐会をこの山茶花荘で開催した。この時の首脳は、中曽根康弘首相、レーガン大統領、サッチャー首相だったとか。関係ないことながら、昨今のサミット首脳の何と小粒になったことか。憲吉はこの店のぼんぼんとして育ち、専務を務めていたから、憲吉の風土は「灘萬」だったと言わねばならない。伝統的でありながら、洒落ていて西洋かぶれで、大正デモクラシーのうきうきとした気分に乗った楠本憲吉は灘萬の中から生まれた男であったといえよう。憲吉の師の日野草城もそうした風土にある時期なくはなかった。
*
今回選んだのは、そうした外在的な風土ではなく、自らがつくり出した風土である。今見ても女性に好かれそうなタイプ、というよりは俳壇史上もっともいい男で金があった【注】から至る所で遊びまくり、自らも語り周囲もそれを知っていた。その家庭がどういう状況になっているかは想像するに難くない。先日も、夜中まで遊びまくってタクシーで自宅に帰ったが、奥方は先に寝てしまっており、憲吉先生は勝手口からそっと家に消えていった話をその場で見送ったお弟子さんからじかに聞いたが、これは「風土俳句」の舞台である東北より、もっと修羅の地であった。
掲出句、ある和睦が成り立って酒を酌み合っているが、いつ何時噴火が始まらないとも限らない緊張した平和である。つぶてとなって飛んでくるのは、言葉か、枝豆か。武器こそ違えここは戦場なのである。なお、どう見てもここで飲んでいる酒はビールである。成功した俳句は、何も描かなくてもそうしたディテールを浮かび上がらせてくれる。独特の言語世界が存在している。
だからこうした家庭風土俳句は枚挙のいとまもないほどであるが、みなそれぞれに成功している。
ヒヤシンス鋭し妻の嘘恐ろし 52年4月
ヒヤシンス紅し夫の嘘哀し 52年5月
言っておくがこれはよく見る「連作」ではない。心を新たにして俳句を読むのであるが、家庭風土がちっとも変わらないからついつい翌月も自己模倣的に同じテーマで詠んでしまうのである。嘘が充ち満ちている家庭、妻は恐ろしく、夫は哀しいと作者は言うのだが、元凶は99%自分である。第一、ちっとも深刻でないことが憲吉の反省のなさを物語っている。しかしこれが文学であるのだ。詩人や純文学者が認めてくれるかどうか知らないが、「黄表紙」「洒落本」の世界に通じる、2流志向の本格文学である。昨今の1流志向の末流文学(俳句)とは違うのである。その証拠に、我々は癒される。
【注】憲吉は俳書の収集家としても有名で、憲吉が死んだときは、蔵書が市場に出回るのではないかと言うことで、神田では俳句関係の古書が値崩れを起こしたという伝説がある。
●―12:三橋敏雄の句 / 北川美美
絶滅のかの狼を連れ歩く
収録の句集『眞神』。これにより三鬼とも白泉とも異なる三橋独自の作品へ昇華した。掲句は、1969(昭和44)年、49歳の作と言われている。
『眞神』には、日本の風土を行き場のない復員兵が彷徨う気配を感じる。そこは昭和の激動から忘れられた山村。すべてが戦前と同じように息を潜めるように生きている。われわれが置き去りにした日本の風土、古来の習慣、家族、一句一句に戦場へ赴いた人間の枯渇を感じさせる。戦後昭和の風景がみえる。阿部公房・松本清張原作の映画がフラッシュバックする。
『まぼろしの鱶』で感じた洋行の眼は、『眞神』以降、確実に日本の風土に向けられていることがわかる。ただし、日本のどこそこという限定のものではない。
草荒す眞神の祭絶えてなし 『眞神』
日本の風土にわれわれの血に宿る共通意識(アイデンティティ)がある。それは、「季語」と似ている。言葉が五感として働き、一語一語が意識の中に鎮まっていくことを発見する。シナリオでなく、まず言葉。言葉から生れてくるものを俳句の「型」との葛藤をもって、俳句形式の「形」の上に解放した。先に没頭した新興俳句、しいては戦火想望俳句と決別し、独自の無季句を得たいという執念が伺える。『眞神』同時期製作の句集に『鷓鴣』がある。*1)
「かの狼」。絶滅のニホンオオカミの表現を「かの」としている。この「かの」の着地点はどこなのだろうか。「個々の読者が個々の全経験をかけて、どのようにでも参加してくださることを望みたい。」(自作ノート『現代俳句全集 四』1977年/立風書房)とある三橋のコメントに従うには全経験は心許無いばかりであるが。
『麦藁帽子』 西条八十
母さん、僕のあの帽子、どうしたんでせうね?
ええ、夏、碓氷から霧積へゆくみちで、
谷底へ落としたあの麦わら帽子ですよ。
(略)
『人間の証明』(森村誠一1976年/角川書店)の有名な詩。この詩の妙は「あの」の2回使いである。読者に特別なものであることを想わせる。映画『人間の証明』(1977年公開)の中にも「あの」による不可解さの効果が発揮されている。
では掲句、「かの狼」。特別な「狼」であることを思う。どこかにある共通の記憶、すでに明治時代に「絶滅」とみなされ、信仰として崇められた「かの狼」。絶滅品種である確約はなく、ニホンオオカミを見たという話は伝説のように言い伝えられている。神と崇められた狼を絶滅させたのは人間である。*2)アイロニーという見方もある。「かの狼」と特別な位置に置かれた言葉がインプットされ、狼にまつわることを思い、五官が動く。そして意識となった五感を「連れ歩く」。失われた狼の手触りが伝わってくる。西条八十の「あの」の二回使い効果は、帽子が母子の迷宮である予感を与え、三橋の「かの」には俳句形式の迷宮を感じる。「かの」は「絶滅の狼」を越えるもの、その予感を示唆していると読める。
俳句形式そのものが三橋敏雄の主題である。日本の風土の中にある共通意識(アイデンティティ)を読者との連結とし、今までにない俳句、五感に迫るリアルなもの、その一句一句が『眞神』にある。
北欧神話の中に詩の神オーディンにつく一対の狼「ゲリとフレキ」がいる。すなわち詩を連れ歩く。絶滅の詩を連れ歩く「予感」、それは、作者・三橋敏雄本人。掲句「絶滅のかの狼」は三橋の代表句であると思う。
三橋敏雄は、風土を五感として捉え俳句形式に臨むことを終生詠んでいる。*3)
*1)『眞神』(収録句数130句)。『鷓鴣』(収録句数162句)。現在、文庫化されたものが入手可能。『眞神・鷓鴣』(三橋敏雄句集・邑書林句集文庫・¥945税込)
*2)「日本オオカミ協会」という団体がある。さらに映画「赤ずきん」(アメリカ映画2011年公開)全世界で狼ブームか。
*3) 晩年の句集『しだらでん』では、「みづから遺る石斧石鏃しだらでん」と詠んでいる。全句を通してみると、直球の意味のみならず俳句形式自体を詠んでいることがよくわかる。
●―13:成田千空の句/深谷義紀
大粒の雨降る青田母の故郷(くに)
千空は生涯津軽に執し、その地を離れることなく一生を終えた。萬緑関係者から再三東京に出てくるように勧められたが、決して首を縦に振ることはなかったという。千空が俳句を志したときその心にあったのは「津軽の俳人はいかにあるべきか」という課題であり、結局、最後まで「津軽の俳人」としてその生を全うしたのである。したがって、旅吟を除けば、句作の対象は津軽の事物であり、その作品の多くが津軽の風土色を帯びたものにならざるを得なかったのは、ある意味で当然の帰結である。ちなみに、第1句集の名も「地霊」である。
さて「詩客」2011年6月3日配信の「第3回戦後俳句史を読む」のなかでの筑紫磐井が風土俳句について述べた発言は、戦後俳句史におけるその立ち位置を的確に指摘したものであり、そうした流れに千空がどう関り、それをどう受け止めていたかを少しみていきたい。
上記のように「津軽の俳人」たることを貫徹した千空であるが、実は風土俳句には否定的であった。
私なんか、八戸のいわゆる風土俳句に批判があるわけです。風土風土って、風土だけを売りものにしてどうなるんだ、もっと普遍的な俳句の世界があるだろうって。で、あるとき、アンソロジーにこう書いたことがあるんです。「われわれは風土に生きていることは間違いない。と同時に、現代に生きているんだ。現代に生々しく生きているということと風土に生きているということ、この二つの問題を俳句の世界で生かす必要があるだろう」と。
(角川選書「証言・昭和の俳句」より)
ここで千空の言う「いわゆる風土俳句」は、先の筑紫磐井の言を借りれば下記のようなものである。
風土俳句とは、昭和34年の角川俳句賞で村上しゅらが受賞した「北辺有情」を契機として生まれた俳句の傾向で、地方在住の作家による土地固有の自然と人間の生活をテーマにした俳句をいう。
そして、村上しゅらこそが千空の言う「八戸のいわゆる風土俳句」の中心作家であり、八戸俳句会の「北鈴」の編集長を務めていた。当時の八戸俳句会における風土俳句熱は凄まじいものがあり、「完全に風土性俳句を目標とする」(角川選書「証言・昭和の俳句」における千空の発言)ことにより村上しゅら以降も15年間に北鈴からは木附沢麦青、米田一穂、山崎和賀流、加藤憲曠、河村静香と角川賞受賞作家が5人輩出することとなった。筑紫磐井が挙げた角川俳句賞を受賞した風土俳句の代表作家たちが全て含まれており、戦後俳句史を振り返ったとき風土俳句の実作という点ではかなりの部分をこのメンバーが担っていたといえるのではないだろうか。
俳句賞受賞の文学的価値自体については、受賞如何が作品の優劣をそのまま表わすものではないという意見をはじめ、種々の議論があるだろう。しかし、中央から離れた地方においてその地域の俳人たちに大いなる勇気をもたらしたことは間違いあるまい。この時期、八戸俳句会と千空の属する青森俳句会のメンバーは交流を深め、それぞれの所属結社の垣根を越え合同句集を発刊するなど、千空が「青森の俳句ルネッサンス」と称する隆盛期を迎えることになる。実は、この頃中央俳壇では現代俳句協会の分裂騒動があり、その余波が青森の俳句界に及ぶことを回避しようと、千空は心を砕いた。千空の中では「(社会性俳句が志向する)風土性のあり方」よりも「青森の俳壇のありよう」の方がずっと大切だったのである。
この辺で、掲出句に戻ろう。
津軽といえば、誰しも想起するのは雪である。その意味では、前回採り上げた
人が死に人が死に雪が降る
なども、千空の風土詠として無視できない作品だと思う。他にも津軽を詠んだ佳句は数多く、敢えて一句を選ぶのはなかなか悩ましい作業であるが、ここでは掲出句を選んだ。
句集「地霊」所収。昭和22年、千空の初期の作品である。当時、千空は帰農生活を送っており、ある日農作業の帰り道で俄か雨が降ってきて青田がざわめいた。そのときに大地の息吹きを感じ、一句を得たという。何の作為もない、確かに「口を衝いて生れた一句」(本人談)であろう。
青森空襲で地獄を見てしまった心が、一転して母郷の青田の生気に触発された句だったと思われます。(角川学芸出版 成田千空著「俳句は歓びの文学」より)
上記筑紫磐井発言の最後に採り上げられた相馬遷子と千空を比べてると、両者とも社会性俳句作家ととらえられていないのは当然として、風土俳句作家ともいえない。この点は共通している。両者の差異は、作者とその居住地との「距離感」であろう。遷子にとって佐久への帰郷はやむにやまれぬ事情があってのことであり、当初は地元の人達とも打ち解けるというには程遠い関係だったようである。そのためか、ある時期までは佐久の地で開業医を営む自分にもどかしさを感じていたようなところがある。それに対し千空にとっての津軽は、まさに掲出句のように母なる故郷であり、その地こそが安住の土地だったのである。
●―14:中村苑子の句【テーマ:水妖詞館ーあの世とこの世の近代女性精神詩】2./吉村毬子
(2013年3月1日金曜日)
第1回でテーマを決めていなかった為、第三句集『中村苑子句集』集中の「四季物語」(昭和54年)から一句を揚げる。
俳句とは業余のすさび木の葉髪
高柳重信の富士霊園の墓に刻まれている次句がある。
わが尽忠は俳句かな 高柳重信
文字通り、俳句に忠義を尽くすということである。
俳句の渦の中で半生を共に生きた二人の俳句への思いの違いは何であろうか。
「業余」(ぎょうよ)は、本業を果たした余力でする仕事。「すさび」は、気の向くままにすること、気慰みの技。
「木の葉髪」で表現されているように、老年に差し掛かった66歳刊行の句集の作品であるが、その4年前に『水妖詞館』、3年前に『花狩』という強烈な個性の句集を出版してから、間もない句にしては、落ち着き過ぎている。
重信が「わが尽忠」と断言した俳句を、私には、「業余のすさび」だと言い放つ。
高柳重信の要請に寄り、苑子が在籍8年の「春燈」を辞して、重信と『俳句評論』を創刊したのが昭和33年(45歳)であるから、20年余りの歳月を、自宅を発行所にして、共に支えあい、才能溢れる個性豊かな同人達と俳誌を続けていくことは、想像を絶する。
苑子は、大正2年に生まれ、一女性として家庭を持ち子も育てあげた。前夫を戦争で亡くし、自身も戦前、戦中、戦後を生き抜いた。関東大震災も経験している。
10年間の苑子の指導の間に間に聴いたそれらの話を繋ぎ合せれば、死にたくとも死には導かれなかった。寄って貫かれた「生」が本業であり、俳句は「業余」であると書き留めた意味は深い。苑子はその「すさび」に命を懸けて挑んだのである。
傘寿の祝いの会で
「苑子先生は、本当にお元気で長生きですね。」
と言った私に
「私は業(ごう)が深いのよ。」
と答えた顔が忘れられない。
さて、『水妖詞館』一句鑑賞に戻る。
恐れつつ葉裏にこもり透とほる
中村苑子の第一句集『水妖詞館』は、昭和50年(62歳)に刊行されている。
前号の年譜に記したように、戦死した新聞記者であった夫の遺品の句帳をきっかけに俳句を書き始めたのが32歳である。
それまでは、小説家を目指し、家出をしたこともあり、母の反対を押し切って日本女子大学に入学するが、結核に侵され中退している。ある会で、林芙美子から「あなたは、躰が弱いから、俳句のような短いものが合っているわよ。」と言われたことも、夫の句帳と共に、俳句を選ぶ要因の一つだったかも知れないと、話していた。
昭和20年(33歳)には、藤沢に疎開中、久米正雄・川端康成・高見順・中山義秀の四氏が設立、運営する貸本屋「鎌倉文庫」の事務を手伝い、本格的に俳句を始める以前に、文学関係の方々と交流していた。その頃のことを話すときは、本当に楽しそうであった。その頃のことを随筆集に残している。苑子は、随筆に長けていると思う。俳句とは違う、飾りのない素直な文章で読みやすい。
昭和22年(35歳)に「鶴」の石橋秀野選に3回入選。(私は、石橋秀野を読みなさい。と言われ続けていたが、昨年やっと古本市で見つけ、墓参で報告した次第・・・)
翌年、日野草城「青玄」に三樹美子の名で三句入選。
枯菊を刈らむとするに香を放つ
ふるさとに来て旅愁はも菜の花黄
冬虹見しやさしき心にて訪へり
そして、昭和26年(37歳)久保田万太郎「春燈」に入会。初入選は
人の気配する雛の間を覗きけり
以後は、句会歩きも投句も止めて「春燈」一筋。
しかしながら、先にも記したように、重信の要請で『俳句評論』を設立する。
そして、満を持して17年後、62歳にして処女句集『水妖詞館』を発刊した。この句集は、1頁に二句を納め、全句で139句という、30年間に亘る俳句苦業に於いて、厳選を重ねたと思われる。
高屋窓秋の序文を抜粋する。
「(前略)通読していて心のやすまるひまもないような気がして、すこしぐらい息ぬきになる作品が含まれていてもよいではないかと、正直いって、ぼくはそう思った。しかしながら、句集というものは、一句一句を、ゆっくり心深く読むべきものであろう。」
第2句目は、前号で鑑賞した第1句目と並んで、見開きの左側に置かれている。
喪をかかげ今生み落とす竜のおとし子
怖れつつ葉裏にこもり透きとほる
一句目の「今、私は、死を纏いながら、竜のような神秘的な詩群を産み落とします。」という沈降的な強さの女性性に対して、嫋やかさを唱えながらのナルシズムが窺える。
何に怖れているのか・・・怖れながらも決して逃げずに、葉の裏にこもり、そして、自身は透き通ると言う。透き通って見えなくなるようになるのだとも解釈できるが、一句一章の流れに乗り、詩的耽美さを感じてしまうように描かれている。
永い句業の果ての、処女句集の一頁目に置かれたこの二句の効果は、成功しているのであろう。
「生み落としたけれども、儚いものなのだ・・・」と、強く弱く読み手を誘いながら、二頁目を繰らせるのである。
追記すれば、苑子は、此の句集を出版する頃、病に襲われていたと本人から聞いたことがある。最初で最後の句集だと思い、全身全霊を入れたとのこと。「喪をかかげ」には、その思いもあるのかも知れない。