2025年4月11日金曜日

第244号

 次回更新 4/25



■新現代評論研究

新現代評論研究(第2回):仲寒蟬、杉美春、佐藤りえ 》読む

新現代評論研究:『天狼』つれづれ 第1回:『天狼』と養徳社/米田恵子 》読む

現代評論研究:第5回・戦後俳句史を読む(再び風土性について) 》読む

現代評論研究:第5回・テーマ:風土その他 藤田踏青、土肥あき子、飯田冬眞、堺谷真人、岡村知昭、しなだしん、筑紫磐井、北川美美、深谷義紀、吉村毬子 》読む


■令和俳句帖(毎金曜日更新) 》読む

令和六年冬興帖
第一(4/5)仙田洋子・神谷 波・豊里友行・山本敏倖・ふけとしこ
第二(4/11)鷲津誠次・加藤知子・杉山久子・小野裕三

令和六年秋興帖
第一(10/25)曾根毅・大井恒行・仙田洋子
第二(11/1)辻村麻乃・神谷波・瀬戸優理子
第三(11/15)岸本尚毅・坂間恒子・ふけとしこ・仲寒蟬

第四(12/13)豊里友行・木村オサム・中西夕紀
第五(12/20)山本敏倖・青木百舌鳥・冨岡和秀・花尻万博
第六(12/27)眞矢ひろみ・渡邉美保・村山恭子・松下カロ
第七(1/10)川崎果連・前北かおる・中嶋憲武・早瀬恵子・小林かんな
第八(1/17)鷲津誠次・下坂速穂・岬光世・依光正樹・依光陽子
第九(1/24)辻村麻乃・堀本吟・望月士郎
第十(2/14)小沢麻結・林雅樹
第十一(3/21)浅沼 璞・筑紫磐井・佐藤りえ
補遺(4/5)水岩瞳

令和六年夏興帖
第一(10/11)小野裕三・曾根毅・大井恒行・仙田洋子・辻村麻乃
第二(10/18)神谷波・瀬戸優理子・岸本尚毅・鷲津誠二・坂間恒子
第三(10/25)ふけとしこ・仲寒蟬・豊里友行
第四(11/1)木村オサム・中西夕紀
第五(12/13)山本敏倖・冨岡和秀・花尻万博・望月士郎・青木百舌鳥・加藤知子
第六(12/20)眞矢ひろみ・渡邉美保・村山恭子・川崎果連・前北かおる
第七(12/27)中嶋憲武・早瀬恵子・小林かんな
第八(1/10)下坂速穂・岬光世・依光正樹・依光陽子
第九(1/17)辻村麻乃・堀本吟
第十(1/24)小沢麻結・林雅樹
第十一(2/28)浅沼 璞・筑紫磐井・佐藤りえ
補遺(4/5)水岩瞳

■ 第49回皐月句会(2024/5月)[速報] 》読む

■大井恒行の日々彼是 随時更新中!※URL変更 》読む

俳句新空間第20号 発行※NEW!

■連載

【連載通信】ほたる通信 Ⅲ(56) ふけとしこ 》読む

【鑑賞】豊里友行の俳句集の花めぐり26 広瀬敬雄『風紋』 》読む

【豊里友行句集『地球のリレー』を読みたい】8 豊里友行句集『地球のリレー』 栗林浩 》読む

句集歌集逍遙 董振華『語りたい龍太 伝えたい龍太—20人の証言』/佐藤りえ 》読む

【加藤知子句集『情死一擲』を読みたい】④ 破局有情――加藤知子句集『情死一擲』について 関悦史 》読む

現代俳句協会評論教室・フォローアップ研究会 7 筑紫磐井 》読む

英国Haiku便り[in Japan](51) 小野裕三 》読む

【抜粋】〈俳句四季9月号〉俳壇観測260 鷹羽狩行の晩年——『十九路』『二十山』を読む

筑紫磐井 》読む

【連載】伝統の風景――林翔を通してみる戦後伝統俳句

 7.梅若忌 筑紫磐井 》読む

【豊里友行句集『母よ』を読みたい】③ 豊里友行句集『母よ』より 小松風写 選句 》読む

【渡部有紀子句集『山羊の乳』を読みたい】⑯ 生き物への眼差し 笠原小百合 》読む

インデックス

北川美美俳句全集32 》読む

澤田和弥論集成(第16回) 》読む

およそ日刊俳句新空間 》読む

4月の執筆者(渡邉美保)…(今までの執筆者)竹岡一郎・青山茂根・今泉礼奈・佐藤りえ・依光陽子・黒岩徳将・仮屋賢一・北川美美・大塚凱・宮﨑莉々香・柳本々々・渡邉美保 …




■Recent entries

中村猛虎第一句集『紅の挽歌』を読みたい インデックス

篠崎央子第一句集『火の貌』を読みたい インデックス

中西夕紀第四句集『くれなゐ』を読みたい インデックス

渡邊美保第一句集『櫛買ひに』を読みたい インデックス

なつはづき第一句集『ぴったりの箱』を読みたい インデックス

ふけとしこ第5句集『眠たい羊』を読みたい インデックス

加藤知子第三句集『たかざれき』を読みたい

眞矢ひろみ第一句集『箱庭の夜』を読みたい インデックス

葉月第一句集『子音』を読みたい インデックス

佐藤りえ句集『景色』を読みたい インデックス

眠兎第1句集『御意』を読みたい インデックス

麒麟第2句集『鴨』を読みたい インデックス

麻乃第二句集『るん』を読みたい インデックス

前衛から見た子規の覚書/筑紫磐井 インデックス

寒極光・虜囚の詠~シベリア抑留体験者の俳句を読む~㉜ のどか 》読む

俳句新空間を読む 》読む
…(主な執筆者)小野裕三・もてきまり・大塚凱・網野月を・前北かおる・東影喜子


筑紫磐井著『女帝たちの万葉集』(角川学芸出版)

新元号「令和」の典拠となった『萬葉集』。その成立に貢献した斉明・持統・元明・元正の4人の女帝、「春山の〈萬〉花の艶と秋山の千〈葉〉の彩を競へ」の天智天皇の詔を受けた額田王等の秘話を満載する、俳人初めての万葉集研究。平成22年刊/2,190円。お求めの際は、筆者までご連絡ください。

【新連載】新現代評論研究 『天狼』つれづれ(第1回):『天狼』と養徳社 神戸大学山口誓子記念館 米田恵子

  『天狼』は、昭和23(1948)年1月創刊の山口誓子主宰の俳句雑誌である。奈良の旅館日吉館で句会を開いていた西東三鬼、平畑静塔らが、戦時中橋本多佳子のもとに疎開させていた誓子の句集『激浪』の句稿を読み、誓子の並々ならぬ俳句への思いに感激し、新俳句雑誌の創刊を思い立ったのである。中心となったのは西東三鬼で、東京と関西をかけまわり発刊にいたった雑誌である。 

 ここまでは、知られていることだが、意外と知られていないのは『天狼』がどんな出版社からどのように発刊されたかである。

 『天狼』は天理市にある養徳社より出版された。これについてはよほどの誓子ファンでないと知らないかもしれない。養徳社は、『天狼』創刊当時の住所は奈良県丹波市町川原城で、今は天理市川原城町となっている。『天狼』が創刊された当時と変わりなく、養徳社は存続し、機関誌として『陽気』を出している。今は、主に天理教関係の出版をしているようである。

 このように、養徳社に関しては、知る人ぞ知るというぐらいにしか知られていないかもしれないが、私は平成13(2001)年開館の神戸大学山口誓子記念館に勤め、誓子の蔵書・資料・遺品の整理・管理の仕事をしているが、私は今から50年ほど前、言い換えれば山口誓子の仕事をする前から養徳社という出版社の名前を知っていた。若いころドイツ文学をかじっていたので、恩師であるリルケ研究者の高安国世の翻訳が、戦後まもない頃養徳社から出版されていたからである。リルケの『若き詩人への手紙』や『ミュゾットの手紙』、大山定一の『マルテの手記』などの翻訳が養徳社から出版されていたため、その名前を記憶していた。そして、『天狼』の出版社も養徳社であることを知り、驚いたり、少しご縁を感じたりして嬉しくなったものだった。 

 なぜ、京都大学の先生たちの訳書が、先生たちは天理教信者ではないし、天理の出版社から出ていたのは、正直不思議であった。しかし、山口誓子に関わるようになり、少し頭を働かせば、分かることであった。それは、第二次世界大戦の空襲で、大阪や東京は壊滅的な打撃を受けていた。印刷所も多くは焼けていた。しかし、天理は空襲もまぬかれ、紙もあったのだろう、だから、戦後数年の出版を養徳社が引き受けていたと考えられた。

 このたび、養徳社のHPを拝見すると、「営利にとらわれずに良書を発行し、わが國出版文化の発展に貢献する」という天理教2代真柱の構想のもとに、昭和19(1944)年10月14日に天理時報出版部を発展的解消して」新たに養徳社が設立されたということである。設立は昭和19年、まさに終戦の前年である。現在の養徳社社長の永尾教昭氏(前天理大学学長)のお話によると、戦争も拡大し、戦況も悪化するなかで、このままでは日本の良い文化も失われてしまうという危惧のもと、出版には欠かせない紙を、当時配給であったが、集め蓄えていったそうである。養徳社の設立の時には、谷崎潤一郎なども列席したそうである。

 この先見というのか、このままでは日本の文化がどうなるか分からないという危機感をいち早く持ち、どうしても日本の文化を守らなければならないという使命感とその意志に頭が下がる思いである。そのおかげで、リルケの翻訳や『天狼』が出版されたのである。山口誓子も救われたことだろうが、外国文学の研修者たちも感謝したのではないか。

 後年、養徳社に関して平畑静塔が次のような文を残している。


天理教の出版部であった養徳社が、当時監査では一番良心的な出版をして居り、実力資力のあったので、奈良方面の支持者の手で、「天狼」を引きうけてもらったが、創刊号は売切れた。(『創刊号物語』第2巻、俳人協会、邑書林、1998年)

 

 よくぞ、養徳社! 紙を蓄えていてくださった。ありがたいことだ。

 その後、『天狼』は、昭和25(1950)年、いつまでも養徳社の庇護のもとにあってはいけないということで、5月号に「發行所變更について」という小さな記事を載せ、発行所としての養徳社の名前は消える。翌6月号では巻頭のページに天狼俳句会と養徳社の連名で「御挨拶―発行所変更について―」という記事を掲載する。養徳社との円満な了解が成立し、経理の面でも引継ぎを完了したと記されている。

 『天狼』も創刊3年で養徳社から独立できたが、完全な自主経営は難しく、共同印刷社に発行経営を任せていたようだ。これが解消され、真の意味での自主経営が実現したのは、昭和35(1960)年3月、新発行所として、大阪市内伏見町の青山ビル(少彦名神社の北隣)に事務所を構えることができた。この青山ビルについても書き出すと長くなるので、今回はここまでにする。

【鑑賞】豊里友行の俳句集の花めぐり26 句集『風紋』(広瀬敬雄 著、2024年刊、角川書店)。

 風紋は沖よりのふみ夕千鳥

 先ずは、帯文を記しておく。

 風紋は、風によって作られる砂紋のこと。時を経ずして、風や波で消えゆくが、津波で亡くなった方も含め、冥界の懐かしい方からの便りと思うと、愛おしい。それゆえにこそ、私もまた、日常の生活のなかでの哀歓、笑いも含め、現在を生きた証を俳句で留めたいと願う。

 豊里なりの俳句鑑賞も添えてみる。その砂浜を綾なす風紋の衣を纏うのは、人の記憶なのかもしれない。沖より綾なされる文として夕焼けに消え入りそうな千鳥のさえずりが2011年3月11日からずっと震災の記憶を留めている。此処では、沖よりの風紋の文は、震災で亡くなられた人たちの記憶の続きをずっと忘れないように心にとどめて生き続けている人々の心模様までも俳句からひしひしと伝わってくる。

 一本の冬木を父と思ひけり

 父と子と揃へて干せり祭足袋

 煤逃げ同士黙礼を交わしけり

 一本の冬木を父と思ってしまう。そんな心情に父への哀切な思いがあり、父を心に生かし続ける術(すべ)として冬木の一本を心の拠り所にしている。

 父と子で祭りに参加する。その祭りの後を詠んだ秀句だ。父と子の祭の足袋を揃えて干す。そこには、祭りで得た充実した父子の後ろ姿が浮かんでくるように二人分の足袋が浮ぶ。

 煤(すす)から逃げる同士がぶつからないように瞬間の黙礼(会釈)を交わす。

 拡大解釈されていく家族模様が、その生きる風土にある。

 戦争は海市の消えしあたりより

 海市(かいし)の異称は、蜃気楼。

 広瀬敬雄俳句では、珍しい社会性の俳句だ。現代の世界情勢を徹底的に観察の練磨がなされてきた俳人たちがこの生きる世界を俳句に詠み込むことが出来るとしたら俳句界もさらなる飛翔の展開を迎えるだろう。ここでは、手を伸ばしても遠ざかる海市を追いかけて追いかけていつの間にか消え去ったその辺りに戦争があるのかもしれない。だけれども戦争の一片にさえ巻き込まれると、その手に触れてしまえば指の肉や骨を剥いでしまうような弾丸だったり、命さえ奪い去る。そんな戦争の逃げ水の消えた辺りに戦争の存在を感知する想像力の翼があり、平和だからこそ抵抗の力となる。

 丸刈りになりし少年はるいちばん

 ぐいと穂を揺らして蘆を刈り倒す

 睡蓮を揺らす波その返し波

 崩れつつ噴水なほも突き上がり

 瑠璃蜥蜴去り残響のありにけり

 今伐りし年輪匂ふ雪催

 菜の花をゆくずんずんと溺れさう

 なまはげの零せる藁を祀りけり

 運ばるる逢瀬の二体菊人形

 猪肉をどすんと置いて二三言

 ほどほどに嚙んで海鼠を呑み込めり

 一服も蓮田の中や蓮根掘

 丸刈りの少年と春一番の組み合わせの愛燦燦。

 蘆を刈り倒す際にぐいっと穂を揺らしていることを感知している心の眼も。

 睡蓮を揺らす波の描写力も観察眼の日々の鍛錬の賜物。

 噴水の水の崩れながら上りくる様も年輪の匂いの五感のアンテナを稼働しながら菜の花畑を溺れそうになりながら突き進む実感も得ながら俳人がより良く生きる俳句の種を蒔く。

 「なまはげの零せる藁」や逢瀬の「菊人形」、猪肉の置く無造作な会話、「海鼠」をほどほどに嚙んで呑み込む人それぞれの気質も煙草を燻らせて一服する蓮田の中の人々の風土性も。

 それぞれの俳人の視座は、季語を育んできた俳句の伝統の賜物であり、地球俳句なるものの意義が取りざたされる今だからこそこの俳人の視座は、それぞれの人々の視座は、確かな結実を成している。

 2011年3月11日からずっと震災の記憶を留めているのは、被災者ひとりひとりであると同時に共に歩もうとする様々な人々の心の中にとどめ、生かされているは、砂浜を綾なす風紋の衣を纏う地球の生きとし生きるもの全てがどこかで繋がりあって紡ぎ合って織り成され続けているようだ。合掌。

その他の共鳴句もいただきます。


星凉しアンモナイトの渦の芯

一本の杭に鳥来る冬景色

大海亀空のかなたに去りにけり

童謡は斉唱がよしチューリップ

新海苔の罐のよき音よき軽さ

忘れられて人は二度死ぬ花石榴

蛍狩昭和の闇の濃かりけり

車窓に置く蜜柑ふたつやずつと海

夕立や力士の開く小さき傘

綿虫は淋しい人に近づきぬ

湯気を噴くアイロン勤労感謝の日

顔出してバックするなり焼芋屋

涅槃図に昼月があつたかどうか

米櫃のどんとありたる昭和の日

しやかしやかと土用蜆の殻を捨つ

ゴーヤーチャンプルなるようにしかならぬ

【連載通信】ほたる通信 Ⅲ(56)  ふけとしこ

 渡りの沼

しろがねのよもぎしろがねのあまつぶ

芹を摘む渡りの沼といふ水辺

春霰が叩く切株苔を帯び

この町に知る人ひとり初つばめ

昆虫館までの坂道つばくらめ


・・・

 〈箱根の山は天下の険……〉とは有名なフレーズである。

 太田土男著『季語深耕 田んぼの科学 ―驚きの里山の生物多様性―』(2022年/コールサック社)を読み直していて、その中にもこの箱根山がチラッと出てくるのを面白く思った。

 箱根山、この峠を越えなければ東西を跨ぐことができないという東海道きっての難所である。

 時代小説などに箱根の山より先には云々ということが出てくることがある。つまり箱根の山のあっち側とこっち側には境界線があるということだ。

 私は岡山県西部の生まれだが、子供の頃、つまり昭和20~30年頃の夏には、蝉は油蝉・にいにい蝉が主流だった。たまに熊蝉のシャーシャーという声が聞こえると、庭木に目をこらした。捕まえることができたらその子は英雄扱いされるくらい珍しかった。

 昆虫標本を自由研究に提出する子もいたが、その標本に熊蝉があったりすると、甲虫の雄などと共に注目の的であった。

 私が俳句を始めた頃が丁度平成と重なるのだが、その頃熊蝉の句を作ったりすると、関東の句友達に驚かれたりした。

 それが次第に東上してゆき、いつの間にやら誰も驚かなくなった。

 熊蝉が箱根の山を越えたのである。

 脱線が長くなった。話を戻すと、太田土男さんの著書の中にモグラについて述べられた箇所がある。

 日本に棲むモグラの主な種はアズマモグラとコウベモグラだという。その分布は東海から北陸を結ぶ線を境に棲み分けているとのことだが、最近では西軍のコウベモグラが東へと押し気味なのだそうな。今現在箱根の山辺りで、鍔迫り合い、陣取り合戦をしているらしいと。

 〈天下分け目の箱根山です〉とこの文は締められているのだが、この一言で、太田さんの柔和な顔が、さらにニンマリとしたようにも思えて、私もクスッと笑いながら読んだのであった。

 はっきり憶えていないが、蛙でも同様なことが起きていると読んだことがあったような……。

 単なる勢力争いで押しているのか、地球温暖化によるせいなのかは私には分からないが、研究者には興味の尽きないことであろう。 

(2025・3)

※管理人からのお詫び:「俳句新空間」の更新が遅れたために4月に食い込みました。お詫び申し上げます。4月中にもう1回連載したいと思います。

【連載】現代評論研究:第5回・戦後俳句史を読む(再び風土性について) /北村虻曳・堀本吟・筑紫磐井

(投稿日:2011年07月01日)


筑紫:風土というものは、個人の属する環境で宿命的に決まってしまうものかと言えば必ずしもそうではない。これは風景論を援用したほうがわかりやすい。前回、「風景があって風景思想が生まれるのではなく、風景思想があって目の前の自然から風景を切りとってくると言うことである」と述べた。風土によって与えられる客観的環境から風景が生まれるのではなく、作者の主観的な思想が風景思想を作り出し、それによって風景が生まれる。風土も同様でそれを宿命的な風土と感じない限り(つまり風土思想が生まれない限り)、風土は生まれない。一例を挙げてみよう。

 仲寒蝉が、「戦後俳句を読む(第5回の1)」で赤尾兜子(本名は赤尾俊郎。大阪外語専門学校、のちの大阪外国語大学に学ぶ)について「兜子の俳句ほど「風土」という言葉のそぐわないものはない。実際には彼は兵庫県揖保郡網干町(現在は姫路市網干区)の出身であるがその俳句にふるさとのにおいはない」と述べている。しかし、兜子には兄の赤尾龍治がおり、駒沢大学に学んだ後、網干にこだわった人生を送っている。

 世界的に著名な禅の研究家鈴木大拙が最も高く評価した日本の禅僧は江戸時代初期の臨済宗の盤珪禅師であった(現在も岩波文庫で入手できる『盤珪禅師語録』は大拙の代表的な編著となっている)。難解な禅を一般庶民にわかりやすく説いた盤珪は、禅宗の範疇を超えて、近代日本の大衆思想に大きな影響を与えたと言われている。そしてこの盤珪は網干の出身であった。浄土真宗の家系であった龍治(もちろん兜子もそうであるが)にとって直接的な関係のなかった盤珪であるが、幼少から地元の名士盤珪に親しんでいたことから盤珪研究をすすめ、ついに鈴木大拙さえ果たせなかった完璧な『盤珪禅師全集』を刊行している(大蔵出版)。この全集は現在も盤珪研究の金字塔となっているのである。もちろん、盤珪への関心は全国的、いや世界的にあるのだが、一方で地域の名士でもあり、ローカルな色彩を抜きにして盤珪を語ることもできない。網干の風土が生んだ思想であるということはできると思うのである。

 さて、同じ環境で生まれた赤尾兜子と赤尾龍治にとって、風土性が生まれる契機は、かれらが風土を構成する要素をどのように眺めていたかによる。外的な風土要素が風土を作るのではなくて、内的な風土を眺める目が、風土性を決定するのである。兜子はそれに失敗し、龍治は成功した。これは全く余計な推測なのだが、兜子が盤珪の思想に親しんでいたら、あのような悲劇的な最後はなかったのではないかと思われてならない(盤珪の思想は極めて厳格厳粛ではあるが、肯定的で楽観的である)。

 風土俳句に戻れば、村上しゅらが「北辺有情」を詠む前から風土は存在したと思われがちだが、村上を通さないでは風土の存在は確認できなかったという方が正確であろう(もちろんプレ風土俳句があったことはすでに述べたとおりであるが)。前回、風景と風土は全く違うとは述べたのだが、一方でその発生は極めてよく似ていることも確かである。何れにしてもその主体性こそが問われるべきなのである。

 今回(第5回)で深谷が述べている成田千空の、逃れられない風土性と、風土性から外れようとする努力は、あらゆる運動体に共通しているように思われる。例えば、「前衛」と言えばその前衛に拘束されないように自らは前衛ではないと多くの前衛的作家はいう。しかし、前衛が生まれる前の、脳天気な前衛以前の素朴さを肯定しているわけでもない。やはり「前衛」という掛け声は何がしか必要であったのである。「前衛」と言った瞬間の論理以前の、直感的な概念は貴重でもあり、また時代の要請を受けていたものでもあった。「風土性」も同様であったのである。


北村:ご存知のように、5・7・5型式は、二つの性質を持つ。一つは歴史の古い壇林的俳諧性、もう一つは芭蕉以後の象徴性の強い詩に上昇した俳諧性である。それを経て近代の詩精神の高みに置き換えた子規の「俳句」宣言がある。前者は諧謔・アイロニーを重視する。典型的川柳は諧謔・機知の極端なものである。一方近代以後の俳句は方法的に何を重んじるか。それは視覚に特化したもののような気がする。俳句においては、現在に至るまで視覚性が大きな位置を占めている。いわゆる子規のとなえた「写生」の重視である。

 前回まで、私は「風土」という語を地方性という程度に捉え、風景との区別をあまり意識していなかったが、筑紫は区別を唱え「俳句のキャッチフレーズは風景となじみやすい」とした。すると「風土」はどういうことになるか。身も蓋もない言い方になるが、風土には人の生活が絡んでいて、17文字にそれを取り込むことは難しい。筑紫も言うように、風景も人からの視線・見方が無ければ成立しないが、風土となると生活と景の相互作用であり、時間経過まで伴っている。したがって、風土性の判別は難しい。そこに俳諧性が伴う場合もあるだろう。たとえばネットからこの季節の語を持つ句として選んだ

 昼月や水たつぷりと茄子植うる  高倉恵美子(「空」2008年8月)

 曲りたる山河の味の茄子・胡瓜  関根洋子 (「風土」2006年9月)

などはどうか。ここまで述べてやっと気がついた、「風土」は、一句では成立しがたいのだ。風土を感知させるには、句を積み上げることが必要となるようだ。

 ところで、思想の表出を重視した現代詩の詩人たちにおいては、視覚的ということはしばしば蔑む言葉として用いられた。この場合、思想という言葉は社会・政治思想を指すものである。吉本隆明は「戦後詩史論」(大和書房1978年)において、そのような意味での思想詩に強い共感を示しつつ、それは戦争を通過した世代のものであり、もはや生まれなくなっていると論じている。その後の世代の詩人は日常思想として現在を感受し、孤となり詩は通常の意味・脈絡を解体していく。否定性が詩の内容だけでなく言語にまで及んでいく。現代詩を貫くものは否定性という主張であろう。この評論も視覚性に点が辛く、諧謔性にも乏しいなど冒頭に述べたような俳句とは相性が悪い。その上いつも肝心なところで「倫理」「論理」などというキーワードで躓く私は、吉本のよき読者ではない。しかしこの詩の「内容の否定性」までは納得できる。

 俳句における「風土」も日常思想なのであるが、そこには肯定性が強い。これは生活精神の荒廃に対する抵抗=否定と見ることもできるのだが。

 しかし現代の流れは容赦なく風土を脅かす。吉本は昭和初期のの不定職の詩人たちを重視しているが、今またフリーターの時代が巡ってきた。人の帰属の根を奪い、デラシネの生を産んでいる現代の流れは、古典的な風景を変え風土を消去していく。しかも、もう一つ伝統的な風土を脅かすものが現れた。生活のヴァーチャル化である。人は街を歩いても街を見ないで携帯にログインしている。少数のオタクをのぞけば、しゃがんで蟻の穴をのぞいたりしない。検索で済ます。ノスタルジーもゲームやアニメなどヴァーチャルな世界に向かう。風土はより広い抽象的な景へ拡散していく。これらのことは詩に影響せずにはおかないはずだ。いま俳句や短歌に実際何をもたらしているのだろうか。これは今の若者の多くの作品に触れていない私には難問である。

 第三回で触れた斉藤玄や安井浩司なども、実在を離れ観念世界に入り込むという点では一種の否定性を備えている。むろん彼らは現代の若い世代のような意味での浮遊民ではなく、風土に住み込んだ俳人である。言語構成についても、玄は端正、浩司もまずまず。もっと強烈に否定性の出ている俳句作家も多く存在するが、言語構成の解体の動機までは持たない私には、心底からの共感が湧かない。私にとっては玄や浩司が先達である。


堀本:

(風土&風景についての言説)

 今回の風景論とか風土論についての思考は、近代俳句からはじまり現代にも敷衍している「写生」の思想と密接にかかわってくる。さらに、写生万能では表現しきれない存在の詩たる俳句にむきあうことにもなる。

 即ち我々は「風土」に置いて、我々自身を、間柄としての我々自身を見出すのである。

              和辻哲郎『風土』(昭和10年)(引用は岩波文庫版)

 人間学を基礎におく和辻の風土論では、人間は「寒さ」というのは、「寒いですね」と言う挨拶となりそれが隣人との関係を結び、寒さをしのぐ「家」や「衣服」「暖房」、などもひきよせる、風土とはそう言う社会関係を取り結ぶ自己了解の概念である、と言う。

 また、柄谷行人の『日本近代文学の起源』(講談社学芸文庫)では。

 近代文学のリアリズムは、明らかに風景の中で成立する。なぜならリアリズムによって描写されるものは、風景または、風景としての人間——平凡な人間——であるが、そのような風景ははじめから外にあるのではなく、「人間から疎遠化された風景としての風景」

として見出されなければならなかったのである。(掲出書のうち。《風景の発見》)

 この論理は難解だが惹かれる。検討は今後の宿題とする。

(風土認識としての「富士山」)

 明治期の志賀重昂や正岡子規にあっては、例えば「富士山」に向かう場合は内面よりも社会関係よりも抽象的精神的である。重昂は、地質学の視点にくわえてごった煮のように様々の俳諧や漢詩古歌を並べてしまう。つよく風土に呪縛されているナショナリストの原感情がはっきりでている。先回に、先回の川柳人近江砂人の戦後の富士山の句は、おおかたの日本人ならだれでもそう考えるわかりやすい理想の「富士山」=日本像である。

 すでに子規も「富士山」に同じようなシンボル性を認めていた。以下の詩篇は、明治三十二年作。新体詩風4連各6行第1連。

 直立一千二百丈

 足もとよりぞ起りける

 夏猶寒き白雪は

 空の真中に積りけり

 仰げや高き富士の山

 富士は御国の鎮めなり

(詩篇《富士山》部分。)(筆者註・漢字表記は新字体に直している、それぞれの連の最後はすべてこのくり返し。)

 この詩では、最初に風景を書き締めくくりには共同幻想としての「富士山」が立ち上がる。

 この富士山熱は、明治時代の流行だったそうである。

 さらに、『俳諧大要』の、なかに古句をお手本に作句法などを啓蒙しているそのなかで、こういう「富士山」が出てくる。

 例へば頭巾という題を得たる時に頭巾を主としてものすれば俗に陥りやすく陳腐に傾きやすし。故に時々この題を軽く詠みこみて他へそらすことも忘るべからず。

   初めて東武に下る時

 頭巾とり衿繕ふや富士の晴れ  湖春 

といふが如き富士を主としたるものをものするも差支えなし。このごとくならざれば尽く陳腐に流れてしかも変化すべき区域狭くなるべし。(正岡子規。同書中)

 取り合わせと言う技法の効果を言い尽くしている名鑑賞だが、この句には写生的な観点はあたえていない。頭巾が俗ならば、富士山に関する一般的な観念もまた俗である。とは子規は考えなかった。これが、まさにかれの(明治の庶民の)風土的認識、ナショナリズムの感性的な根拠だった。これをみる限りは、我々は俳句史の上で、写生や季節の呪縛が解けないと同時に、富士山のある日本という精神風土に生きている、現在に至るまでその特別な思いからもまだぬけだしていない。

 と、さらに、文庫本新版の解説が加藤楸邨、ここにこういう「風土」の用法がある。

 (筆者註・日本に生じる文化現象が、従来のやり方では処理できないことを指摘)事に、近時、異質の風土に身を置いたり、旅したりすることがすこぶる多くなり。砂漠とか、極地とかを踏む機会すら多くなってみると、在来の短詩型文学に都合が悪いからとして避けて通るのは/許されない逃避であろう。(歴史上の革新の例を挙げ、子規を近代の先蹤とたたえ)今俳句つくりとしては子規の「俳諧大要」が土台となってあらためてもうひとつの「新しい俳諧大要」が一人一人の課題とならなければならない。(加藤楸邨《新版後記—子規の今日的意義》。昭和58年岩波文庫版前掲書。)

 『俳諧大要』(明治28初出「日本」。岩波文庫所収は初版昭和30年、新版昭和58年)に「俳句は文学の一部なり。文学は美術の一部なり。故に美の標準は文学の標準なり。」(岩波文庫。新版昭和58年より引用)と書き出されている。開明的合理的であると共に、内向と言うことが解っていないな、と思わせるが、読むたびに発見のある警世の啓蒙書である。

 楸邨が言う一人一人の俳諧大要の中で、「風土」という概念も、何らかの転換をはたしうるのだろうか?たとえば、「東北」というキーワードのもとで。これも、宿題とする。了

【連載】現代評論研究:(第5回) ― テーマ:「風土」その他 ― 藤田踏青、土肥あき子、飯田冬眞、堺谷真人、岡村知昭、しなだしん、筑紫磐井、北川美美、深谷義紀、吉村毬子

投稿日:2011年07月01日

●―1:近木圭之介の句/藤田踏青

 海の鳴るランプが覚書的風情

 このテーマの「風土」とは、心象風景の中での作者の原風景を意味しており、それが作品に裏打ちされたものを示唆しているものと考える。それは福永武彦がボードレールを例にとって「未来の詩集とは、彼の持つ世界Kosmosの全部の表現であり、これは最早一季節では無く、季節の推移によって生じる風土である。彼が詩人として得た精神の、また人間として得た人生の、精髄としての風景が、そこではパノラマのように一眸の下に眺め渡せる」「彼は紙上に定着される前の詩を書いていたのだ」【注】と述べている事と相通じるものがある。

 掲句は昭和23年の作品であり、その背景には前に述べた下関、門司での生活がある。よって鳴るのは海鳴りであり、船の汽笛であり、海峡を超えて聞こえてくる機関車の汽笛であり、ランプのチリチリと燃える音でもあろうか。戦後復興の玄関口でもある海港ではあるが、まだまだ戦傷の思いは漂っている。その忘れるはずもないものをメモする如く、「覚書的風情」と突き放した表現にする処に圭之介の俳人としての知的方法論が垣間見られる。この様な表現は下記の句の如く多くみられる。

 砂丘、非具象の月が出ている          昭和37年作

 朝 卵が一個古典的に置かれていた       昭和59年作

 「非具象」も「古典的」も「覚書的」同様、その主眼とするものが意味性というよりもむしろ絵画的描写の手法に傾いているように思われる。更に各句ともに画家・圭之介によって描かれた一幅の画に置き換えることも出来るのではないか。また「言葉を点のようにおいて、その点との構成が、全体的に朧化する方法で、掴みどころのない影像を、何とか形象にしようとする探求を積みかさねている作家」として井上三喜夫が圭之介を評しているのもその描写法に通じるものがあり、頷ける。言葉の構成による形象化と言えよう。

 この閑かな時間に正しく海に向いている椅子   昭和26年作

 汽船が灯る菜畑受胎              昭和28年作

 漁夫の手に濃い夜があるランプ         昭和30年作

 シャッターチャンスの如く時間を一瞬に切り取ったような描写であるが、やはりその裏には微かな時間の揺れがあり、その対象の中で反対に自己が揺すぶられているかの如き感覚があり、詩的な流離感も漂っている。その詩的感覚の由って来る所以は地方都市のある種のプチ都会的感覚を伴なっているからでもあろうか。

 霜がかじ屋のまえ朝の道、もう鉄をうつ     昭和24年作

 互に鉄うつ男である遠く海のたいらにある      同

 かじ屋のぽっと火が秋の遠くまで見ゆる夜る     同

 かじ屋のにわとり道にいておやじと村の人達     同

 かじ屋を点景にした連作である。縦軸に一日の時間の流れが、横軸に季節の推移が交叉する処に作品を成立させ、意識的に複層的に構成したものである。「朝の道」「海のたいら」「ぽっと火が」「にわとり、村の人達」等はかじ屋を取りまき、包み込んでいる存在でもある。「風土」とはその風景に溶け込んだ人間の生活そのものなのかもしれない。

 *「ボードレールの世界」福永武彦・著 平成元年 講談社刊


●―2稲垣きくのの句/土肥あき子

 春近しふるさとの菓子手にとれば(『冬濤』所収)

 厚木に生まれ、関東大震災を機に座間へと転居。疎開先は信州小諸から一里半ばかり入った浅間山麓の農村だというが、その後の東京生活は赤坂、平河町、新宿という都心での転居を繰り返したきくのの風土性は、目を凝らさなければ見えてこない。きくのの俳句に「ふるさと」の言葉が入ったものは掲句を含め3句のみである。

 数珠玉にうから失せゆくふるさとよ(「春燈」49年1月号)

 ふるさとは相模大野の目借りどき(『花野』所収)

 先日、きくのの姪にあたる栄田さんに、きくのが眠っている墓所に案内していただいた。寺は、きくのの父親の生家である座間の先にあり、父親の生家は相模川で舟宿を営んでいたという。

 画用紙を広げたような梅雨空がはらはらと雨をこぼすなか、相模川のほとりの寺に着いた。見おろせば相模川、晴れていれば正面に大山が見えるという地に、きくのは眠っていた。両親や弟が眠るこの墓に、生前きくのは親族を率先して熱心に墓参していたという。

 山門を入ってすぐに大きな榧の木が茂っており、栄田さんは「子どもの頃、来るたびに実を拾わされた」と思い出すように大樹を見上げている。

 きくのの第一句集名は「榧の実」だが、集中榧の実どころか、樹木としてさえ見当たらず不思議に思っていた。晩年になり〈榧の木がかやの実こぼす墓まゐり〉(「春燈」53年1月号)と、真正面から詠んでいるが、きくのには最初からこの清冽な香りを放つ榧が、故郷を象徴するシンボルツリーだったのだろう。

 墓参には田んぼがずっと続く畦道を歩いて、土筆を摘んだり、蛙をつかまえたりしたという土地も、今ではカラフルな住宅が並び、すっかり整備されていたが、幅広い堰と大きな水門が残る相模川の姿はそのままであるという。周辺を歩いていると、古くからこのあたりに住んでいるという方があれこれと尋ねてきたが、それは特定の名字を言えば、どこそこの誰であるかがたちまち判別できるといったような、小さな集落特有の「くちさがない」環境であることをじゅうぶんに示唆するやりとりだった。

 ひと、われにつらきショールを掻合はす(『榧の実』所収)

 一瞥に怯みし伏目春ショール(『冬濤以後』所収)

 人のくらしに立入り禁止花ざくろ(『花野』所収)

 人との機微にことさら敏感だったきくののこと。どれほど愛着を感じても、この地に永住することは決してできなかっただろうと確信した。

 きくのが徹底して都会を好んだのは、人間関係が淡白で済まされることがなにより大きかったと思われる。そして、都会で暮らすことは、つねに仮住まい感覚であり、家を放って旅に出ることになんの躊躇も感じなくてもすむ。〈青胡桃旅を栖といふことば〉(『冬濤』所収)と、涼しい顔で言い放つきくのの俳句に「旅」の文字が入っている作品は73句にものぼる。先のふるさとと比較すると、どれほどの比重であるかがわかる。

 しかし、それでもきくのの俳句にも確固たる風土は存在する。幼い頃育った環境に山があり水があり、心の景色に刻んでいたものがふと去来するといったそれらの表出の仕方には、捨てても捨て切れないという粘度はない。

 軽井沢を好み、夏になるたびに二ヶ月もの長い期間を過ごし、多くの句を残していることを思うと、きくの自身も自分のなかにある懐かしい記憶が消えてしまわないように、時折確認する必要があったのだと思われる。都会に暮らし、旅を重ねているだけでは、自分の芯が消えてなくなってしまうような不安を覚えたのかもしれない。

 軽井沢の山や川は、故郷を思わせ、それでいて自分との距離を置いてくれる最適の場所であったのだろう。軽井沢での作品は、馴染みの地であることの心安さが生んだ親しさで詠まれている。

 山の日のすでに秋めけりパン買ひに(『榧の実』所収)

 落葉松の秋風をこそ聴くべかり(『冬濤』所収)

 栗育つ朝はあさ霧夜は夜霧(『冬濤以後』所収)

 澄む水のゑくぼ生れては消ゆる(「春燈」昭和45年11月号)

 しかし、どれほど愛しい第二の故郷であっても、ひとわたり確認が終われば、「また来年」と手を振るように、ごくあっさりと帰京する。

 晩年、鵠沼に戻ったり、東京に転居したり、終の住処となる場所はどこにいっても、いつまでたっても持てないきくのに、風土性にこだわらなかった淡白さがここに災いしたのかもしれないと、思わず身につまされるのだ。

 つき合ひもなき短夜のドアぐらし(「春燈」昭和57年8月号)


●―4:齋藤玄の句/飯田冬眞

 いつの日の山とも知れず夏大空

 掲句はいわゆる「風土俳句」ではない。筑紫磐井がいう「風土俳句」の定義「地方在住の作家による土地固有の自然と人間の生活をテーマにした俳句」(*1)からはあきらかに外れている。あえて今回この句を選んだ理由は後に述べることにする。

 玄にも「風土を詠んだ社会性俳句」はあるので、それらをいくつか見ていこう。

 うなだるる馬に凍河の砂利積み上ぐ

 馬は肋(あばら)のなりに皺みて凍砂利牽く

 農乙女堕つる未踏の雪一路

 漁婦等の落涙湾を漂ふ冬菜屑

 殖ゆる凍光竹輪工場へチャルメラ吹く

 上記5句はいずれも昭和31年作で第3句集『玄』(*2)所収。齋藤玄は昭和28年第2次「壺」を休刊後、断筆時期があったことは以前述べた。昭和30年からわずかながら句作を再開。札幌在住時代に土岐錬太郎、寺田京子らと同人誌「楡派」を刊行する。上記の句はその頃のもの。句集では「北見玄冬 六十二句」の前書がある。

 一句目と二句目は北海道北見市滝の上で砂利川を詠んだ連作「(一)滝の上」の中の句。凍った砂利を満載した車を肋骨の透けた痩せ馬に牽かせている風景を詠んでいる。三句目は凶作にみまわれた農家の冬の生活をスケッチ風にまとめた連作「(二)凶作地帯」のひとつ。貧農の娘が身売りするために足跡もない雪深い道を街に向かって歩いて行く後ろ姿が浮かぶ。四句目と五句目は「(三)紋別港」の連作から。厳冬の中、ちくわ工場で働く女工たちの姿を描く。

 これらは筑紫の言葉を借りるならば、「地域在住者による社会性俳句」という句群。筑紫の言うように「倫理的態度(滅びゆく村や苛酷な肉体労働への同情)」は濃厚である。単なる写生句ではないが「北国の生活」という類型的な「風土」のイメージを打ち破るまでには到っていない。凝視したものを内面化したうえで、詩語に昇華させてゆく晩年の齋藤玄の句風とはあきらかに異なる。むしろ晩年の句風は、こうしたスケッチ句の積み重ねで鍛えた基礎表現力に裏打ちされたものなのであろう。

 こうした玄の「風土を詠んだ社会性俳句」を踏まえて、掲句について見ていこう。「いつの日の山とも知れず夏大空」は、昭和52年作、第5句集『雁道』(*3)所収。この年の3月、玄は前立腺手術のために北海道の砂川市立病院で一ヶ月余りの入院生活を送る。掲句は退院後の作であると思われるが、入院生活者にとって、窓から見える風景が唯一の自然であり、外界である。ことに山多き北海道の地であれば、窓から見える山の姿が病者の心を慰めたであろうことは想像に難くない。それは眼前の山の風姿と病者の入院生活の喜怒哀楽・別離とが結びついて記憶のひだに刻み込まれてゆくからである。事実、玄は入院生活中に窓から見た山を次のように詠んだことがある。

 今死なば瞼がつつむ春の山 昭和49年作『狩眼』

 昭和49年春、胆嚢炎を患い滝川市立病院に入院した折のもの。玄にとって「生まれて初めての入院で、気持が甚だ落ちつかなかった」という(*4)。その不安を解消するためか、作句に打ち込み、「入院句録四十句」を残している。そのなかの一句である。この句について玄は自註で次のように記す。

「病床上で、もし今死んだら、という思いが頻りにした。窓から見える長閑な山のたたずまいを、瞼(まぶた)に持ってゆけるだろうと」(*4)

 入院中の玄にとって「窓から見える長閑な山」が病者を慰撫する“風景”であったことは、この自註からも感じられるだろう。まさに入院生活の日々の記憶を象徴するのが「春の山」なのである。生命力に満ち溢れた「春の山」を病床の作者が目に焼き付けてあの世に持ってゆく。まさに風景は死と対価なのだ。「瞼がつつむ」の措辞にも凝視の作家である玄の姿勢がうかがえて、秀抜である。

 49年の入院が玄に晩年意識を芽生えさせたことは、第4句集『狩眼』後記に「もはや、そう長くもない生の日々であれば、一層密度の濃い俳句を作らねばならない」と記していることからも推察できる。この49年あたりから玄の作風は変化し始めている。

 あらためて掲句に戻ることにする。自註に玄は次のように記す。

 夏の大空の下に山があった。いつの日か、どこかで見た山であった。そしていつも見なれている山でもあった。夏の大空の下では妙な現象も起きる。(*4)

 広く、深い真夏の大空の下で、玄は見慣れた山を見ていた。見ているうちに「いつの日か、どこかで見た山」に思えてくる。それは先に掲げた滝川市立病院の窓から見た「春の山」であったかもしれない。眼前の風景がいつの日か見た山の記憶にすり替わり、今ここにいる自身の存在すら揺らいでくる。素肌に刺さるほどの太陽の光と鼻腔をくすぐる草木の香、虫たちのかまびすしいまでの鳴き声に満ち溢れた生命のるつぼのなかで、山を仰ぎ見ている自分は消え、山そのものとなって夏空を見上げている。それが自註で言う「夏の大空の下」で起こった「妙な現象」だったのではないか。

 死を予感している玄には生活報告のための風土など必要なかったのだ。旅行者でも地域在住者でもない、まさに幻視ともいえる視座で、山河と向き合い、「自然」と一体化することこそが「死」という瞬間を乗越えるために必要であったからだ。


*1 「詩客」2011年6月3日配信「第3回戦後俳句史を読む」のなかでの筑紫磐井の発言。

*2 『玄』昭和46年発行。『齋藤玄全句集』昭和61年 永田書房刊 所載

*3 『雁道』昭和54年永田書房刊、『齋藤玄全句集』昭和61年 永田書房刊 所載

*4 自註現代俳句シリーズ・第二期16『斎藤玄集』昭和53年 俳人協会刊


●―5:堀葦男の句/堺谷真人

 縄より窶れて竜巻あそぶ砂礫の涯

 句集『火づくり』(1962年)所収「太陽の専制」50句より。

 1960年5月15日、葦男は東京を発ち、空路メキシコシティへ向かった。国際棉花諮問委員会に外務省調査員の資格で出席するためである。6月3日、アメリカに入国。ワシントン、ニューヨーク、ダラス等を歴訪し、西部綿作地帯を視察の後、7月にメキシコ再入国、西海岸を約1週間自動車旅行した。更にロスアンジェルス、サンフランシスコ、ホノルルを経て、7月14日に帰国。まる2ヶ月に亘る海外体験であった。

 海を欲る輸送車こぼれつぐ棉花       『火づくり』

 悩む眉間たち太陽と繰綿機(ジン)の挟撃    同

 脛の革具の集団の音滅びの音          同

 この年の日本人海外渡航者数は11万9千人余。半世紀後の1,663万7千人(*1)の僅か140分の1に過ぎない。葦男は同時代の俳人としては稀有ともいえる海外詠の機会を持ったのである。帰国後発表した連作「太陽の専制」は、山口誓子(*2)や高柳重信(*3)の批判を浴びた。しかし、前衛俳句の旗手として都市生活者の暗鬱な抒情の詠出に傾斜していた葦男が、メキシコという日本とは全く異質の風土から摑み取ったものは大きかった。

 昭和三十五年のメキシコ旅行吟は、それまでの体験や概念を吹き飛ばす程の「心意のデモンの爆発」となった。堀はその事情を「自然と親和関係にあった「季」の美学では、到底立ち迎えられない必殺の自然との対峙」といっており・・・(*4)

 上記は安西篤による葦男論の一節であるが、特殊日本的風土に依拠する「風土俳句」が漸く俳壇の注目を集めつつあった当時、「季」の美学だけでは太刀打ちできない風土の存在を改めて強烈に印象づけた葦男作品は実にポレミカルな問題を提起していたのだ。それは、俳句の国際化、外国語俳句など、風土的多様性と俳句との関連性を論ずる際に今なお繰り返し俎上にのぼる諸問題の、いわば濫觴といってもよかった。

 さて、後年、還暦前後になると、葦男の関心は風土よりもむしろ風景へと向かってゆく。「姿情一如」を説き、良い風景と出会うための心の在り方を重視するに至るのである。とはいえ、下のような文章を目睹するとき、「我々は風土において我々自身を、間柄としての我々自身を、見いだすのである」(*5)という和辻哲郎の風土論のエッセンスが、葦男流に咀嚼され、風景論として再構成された形跡を筆者はそこに見る思いがするのである。

・・・・・姿情一如の表現を旨とする思いが高まって来た。作句の積み重ねを通じて、自己が他者において自己を見る、という態度が、多少とも身について来た、ということでもあろうか。

 このような態度を自覚するにつれて、例えば、風景、風物、風姿などのことばに冠された風の字には、どうやら、享受者または表現者の価値観に基づく主体的選択ないし判断のはたらきが暗示されているように思われて来て、ひたすら景や物の客体的表現につとめても、そこにおのずから風の字が暗示する主体のはたらきが加わっているのだと思うようになった。(*6)

*1 法務省『出入国管理統計』2010年出国者数

*2 『朝日新聞』大阪本社版1960年10月11日「前衛を探る」

*3 『俳句年鑑』1960年12月「人物スポット」

*4 『堀葦男句集』1970年「解説(堀葦男小論)」

*5 『風土―人間学的考察』岩波文庫1979年

*6 『山姿水情』1981年「あとがき」


●―8:青玄作家(日野晏子)の句/岡村知昭

 夫の過去わが過去月に照らさるる

 「日野晏子遺句集」(平成7年)の昭和21年~昭和30年の章より。一句に書かれた言葉そのものは、長年連れ添った夫婦の感慨として一読すぐに納得できるものなのだが、肝心の「月に照らさるる」過去が夫と自分自身のそれぞれのものであることに気づくとき、1句に潜んでいたかすかな陰翳を次第に帯びてくるように思われるのが、読んでいて興味深く感じたところである。夫の過去にいったい何があったのか、もしくは自らの過去に何事が起こったのかはともかくとして、輝ける月光の下に曝け出されたふたつの過去が、いま互いに寄り添うように佇んでいることに対する妻としての喜びが、かすかな陰翳として1句において彩りを添えているのだ。

 「風土」というものを自らが拠って立つ場所、更には「原点」という風に読み替えてみるとき、草城を慕って「青玄」に集まった若き俳人たちと晏子とは同じ「日野草城」という俳人を自ら拠って立つ場所として選びながら、草城に対する実際の立ち位置においては微妙な違いを見て取れるように思う。ほとんどの「青玄」の若き俳人たちにとっての草城へのまなざしは、戦前に新興俳句の雄として「旗艦」に拠り、「ミヤコホテル」に代表されるモダニズムあふれた作品の数々を発表した俳人の肖像へ向けられたものでもあり、戦後の病床生活を余儀なくされた草城の姿を目の当たりにしても深い思いは決して揺らぐことはなかった。彼ら彼女たちにとってまぎれもなく草城の作品こそが自らが拠って立つ原点であったわけである。

 一方、晏子にとっても草城の存在の大きさは計り知れないものがあるのだが、その原点となっているのは、いまこのときに自らが看護している夫そのものの姿である。新興俳句の雄としての夫は俳句を作っているとは知っていながらもどこか遠い存在であり、ましてや大いに物議をかもした連作「ミヤコホテル」に登場する幼な妻に擬されたことなど、彼女にとってはまったくの遠い場所で起こった出来事でしかなかった。新興俳句の雄であった草城を知らないままの晏子にとっては、俳句を作るにあたっての自ら拠って立つ原点はあくまでも目の前で病に臥せる夫であり、その夫とともにある自分自身の姿である。ある時は俳句を書くようになってはじめて知った夫の俳人としての顔へ驚き、またある時には自らの俳句を真剣なまなざしで読もうとしている夫の姿に深い喜びを得る、そのような日々の連なりこそが「日野晏子」という俳人の原点なのである。

 あまりにも作者の伝記的な要素を強調し過ぎるのは作品鑑賞にはふさわしからぬ振る舞いであろうとは承知の上で、それでも草城と晏子の夫婦が歩んだ道のりを踏まえて掲出の1句を見直してみると、月光の下に曝け出される「夫の過去」とはもしかすると新興俳句の雄だった頃の草城の姿ではないだろうかとの思いにかられる。彼女は俳句という月光によって夫の過去と現在をくまなく照らし出し、これまでの自分自身が知り得なかったもうひとりの夫、俳人「日野草城」に出会った。過去も現在もくまなく照らし出された病床の夫に向かい合う彼女の姿が深い官能的な喜びに包まれているようにすら見えるのは、互いの原点を曝け出しあう関係となった夫と自分との間に、確かな交感のときが訪れているのを全身でくまなく感じ取っているからではないだろうか。


●―9:上田五千石の句/しなだしん

 上田五千石、本名・明男は、昭和8年10月24日、父・傳八、母・けさの三男として東京に生れる。

 生家の代々木上原では満ち足りた幼年期を過ごすが、戦時に信州へ疎開し、その後細かく長野、山梨、静岡と転居する。その間、昭和20年には東京の自宅を空襲で失う。

 五千石の作品には、この戦時の身の上から“流寓(りゅうぐう)”を使ったものが散見される。流寓とは放浪して異郷に住むこと。句集『田園』では〈流寓のながきに過ぎる鰯雲〉がそれである。

 そんな流寓の中でも明男は、文学に、剣道に、遊びにと少年期を謳歌する。

 昭和22年、明男14歳とのとき、静岡県立富士中学校(現、富士高校)2年に転入し、校内文芸誌「若鮎」の制作に加わり、その「若鮎」に自ら次の句を発表する。

 青嵐渡るや加島五千石      明男

 著書『春の雁』(*1)でこの句に触れ、この句が校内で多少評判になったと記し、「加島五千石」とは、江戸時代、富士川のデルタ地帯に造成された新田・五千石のこと、と述べている。

 さらに、この句を引っ提げ、富士宮浅間大社で開かれた水原秋櫻子の句会に出かけたが、句会はスコンクであったこと、そして秋櫻子がこの「加島五千石」というものを知らなかったのではないか、などのことを書き連ねている。

    ◆

 もうお分かりの通り、“五千石”という俳号は、この句による。

 父・傳八は、「大人の句会に勇を鼓して出たことを賞し」て、この「五千石」の句は「天下の秋櫻子の目をくぐった句、これを縁に俳号を“五千石”にせよ」と言ったのだという。

 ちなみに、父・傳八も俳人で、俳号を古笠(こりゅう)といい、明治30~40年代もっとも俳句に熱中したとのこと。同書の別な項には次のように記されている。

 内藤鳴雪選『遼東日報』に、

 青嵐渡るや国のあるかぎり    古笠

 梁山伯八百人の夜長かな     〃

というスケールの大きな句を発表している。

     ◆

 さて、この古笠の一句と、先の明男少年の「五千石」の句を並べてみよう。

 青嵐渡るや国のあるかぎり    古笠

 青嵐渡るや加島五千石      明男

 そう、「青嵐渡るや」が同じなのだ。そして句の景の大きいところも似ている。

 遡れば、上田家では折に触れて句会が開かれ、明男も幼年の頃から指を折って作句した、と『春の雁』にも記されている。この一致を見ると、子は親を見て育つ、との思いをあらたにする。

     ◆

 なお、五千石の風土性といえば、〈虎落笛風の又三郎やーい〉を含め、賢治の盛岡を挙げるのもひとつの考えであろう。しかし私は、少年期を実際に過ごした山梨がやはり五千石の風土にふさわしく、五千石としての正式な発表句とは云えないが、俳号の由来となったこの「五千石」の句こそが、五千石の風土の根底と云ってよいではないか思うのである。

*1 『春の雁―五千石青春譜』1993年10月24日邑書林刊 (10月24日は五千石の誕生日)


●―10楠本健吉の句/筑紫磐井

 枝豆は妻のつぶてか妻と酌めば

 昭和49年。第2句集『孤客』より。

 「風土」というテーマを選んでおきながら、憲吉には風土的な俳句は少ない。大阪の北浜に生まれたから、大阪が風土?そんなことはありはしない。初代灘屋萬助が天保年間に大阪で料理屋を開業、2代目が明治になってから長崎料理の味を加えて大阪今橋に料亭「灘萬」を開く。3代目は第1次世界大戦講和会議の日本全権大使である西園寺公望公爵の料理人として随行、灘萬を世界に知らしめた。経営の才に闌けていた3代目は、食堂やらスーパーマーケットなどの新機軸を打ち出し、大衆化路線も兼ね備えた。それが功を奏したのが戦後で、大阪の本店を、東京のホテルニューオータニ山茶花荘に移し、昭和61年東京サミットの公式晩餐会をこの山茶花荘で開催した。この時の首脳は、中曽根康弘首相、レーガン大統領、サッチャー首相だったとか。関係ないことながら、昨今のサミット首脳の何と小粒になったことか。憲吉はこの店のぼんぼんとして育ち、専務を務めていたから、憲吉の風土は「灘萬」だったと言わねばならない。伝統的でありながら、洒落ていて西洋かぶれで、大正デモクラシーのうきうきとした気分に乗った楠本憲吉は灘萬の中から生まれた男であったといえよう。憲吉の師の日野草城もそうした風土にある時期なくはなかった。

     *

 今回選んだのは、そうした外在的な風土ではなく、自らがつくり出した風土である。今見ても女性に好かれそうなタイプ、というよりは俳壇史上もっともいい男で金があった【注】から至る所で遊びまくり、自らも語り周囲もそれを知っていた。その家庭がどういう状況になっているかは想像するに難くない。先日も、夜中まで遊びまくってタクシーで自宅に帰ったが、奥方は先に寝てしまっており、憲吉先生は勝手口からそっと家に消えていった話をその場で見送ったお弟子さんからじかに聞いたが、これは「風土俳句」の舞台である東北より、もっと修羅の地であった。

 掲出句、ある和睦が成り立って酒を酌み合っているが、いつ何時噴火が始まらないとも限らない緊張した平和である。つぶてとなって飛んでくるのは、言葉か、枝豆か。武器こそ違えここは戦場なのである。なお、どう見てもここで飲んでいる酒はビールである。成功した俳句は、何も描かなくてもそうしたディテールを浮かび上がらせてくれる。独特の言語世界が存在している。

 だからこうした家庭風土俳句は枚挙のいとまもないほどであるが、みなそれぞれに成功している。

 ヒヤシンス鋭し妻の嘘恐ろし 52年4月

 ヒヤシンス紅し夫の嘘哀し  52年5月

 言っておくがこれはよく見る「連作」ではない。心を新たにして俳句を読むのであるが、家庭風土がちっとも変わらないからついつい翌月も自己模倣的に同じテーマで詠んでしまうのである。嘘が充ち満ちている家庭、妻は恐ろしく、夫は哀しいと作者は言うのだが、元凶は99%自分である。第一、ちっとも深刻でないことが憲吉の反省のなさを物語っている。しかしこれが文学であるのだ。詩人や純文学者が認めてくれるかどうか知らないが、「黄表紙」「洒落本」の世界に通じる、2流志向の本格文学である。昨今の1流志向の末流文学(俳句)とは違うのである。その証拠に、我々は癒される。

【注】憲吉は俳書の収集家としても有名で、憲吉が死んだときは、蔵書が市場に出回るのではないかと言うことで、神田では俳句関係の古書が値崩れを起こしたという伝説がある。


●―12:三橋敏雄の句 / 北川美美

 絶滅のかの狼を連れ歩く

 収録の句集『眞神』。これにより三鬼とも白泉とも異なる三橋独自の作品へ昇華した。掲句は、1969(昭和44)年、49歳の作と言われている。

 『眞神』には、日本の風土を行き場のない復員兵が彷徨う気配を感じる。そこは昭和の激動から忘れられた山村。すべてが戦前と同じように息を潜めるように生きている。われわれが置き去りにした日本の風土、古来の習慣、家族、一句一句に戦場へ赴いた人間の枯渇を感じさせる。戦後昭和の風景がみえる。阿部公房・松本清張原作の映画がフラッシュバックする。

 『まぼろしの鱶』で感じた洋行の眼は、『眞神』以降、確実に日本の風土に向けられていることがわかる。ただし、日本のどこそこという限定のものではない。

 草荒す眞神の祭絶えてなし 『眞神』

 日本の風土にわれわれの血に宿る共通意識(アイデンティティ)がある。それは、「季語」と似ている。言葉が五感として働き、一語一語が意識の中に鎮まっていくことを発見する。シナリオでなく、まず言葉。言葉から生れてくるものを俳句の「型」との葛藤をもって、俳句形式の「形」の上に解放した。先に没頭した新興俳句、しいては戦火想望俳句と決別し、独自の無季句を得たいという執念が伺える。『眞神』同時期製作の句集に『鷓鴣』がある。*1)

 「かの狼」。絶滅のニホンオオカミの表現を「かの」としている。この「かの」の着地点はどこなのだろうか。「個々の読者が個々の全経験をかけて、どのようにでも参加してくださることを望みたい。」(自作ノート『現代俳句全集 四』1977年/立風書房)とある三橋のコメントに従うには全経験は心許無いばかりであるが。

   『麦藁帽子』 西条八十 

 母さん、僕のあの帽子、どうしたんでせうね?

 ええ、夏、碓氷から霧積へゆくみちで、

 谷底へ落としたあの麦わら帽子ですよ。

 (略)

 『人間の証明』(森村誠一1976年/角川書店)の有名な詩。この詩の妙は「あの」の2回使いである。読者に特別なものであることを想わせる。映画『人間の証明』(1977年公開)の中にも「あの」による不可解さの効果が発揮されている。

 では掲句、「かの狼」。特別な「狼」であることを思う。どこかにある共通の記憶、すでに明治時代に「絶滅」とみなされ、信仰として崇められた「かの狼」。絶滅品種である確約はなく、ニホンオオカミを見たという話は伝説のように言い伝えられている。神と崇められた狼を絶滅させたのは人間である。*2)アイロニーという見方もある。「かの狼」と特別な位置に置かれた言葉がインプットされ、狼にまつわることを思い、五官が動く。そして意識となった五感を「連れ歩く」。失われた狼の手触りが伝わってくる。西条八十の「あの」の二回使い効果は、帽子が母子の迷宮である予感を与え、三橋の「かの」には俳句形式の迷宮を感じる。「かの」は「絶滅の狼」を越えるもの、その予感を示唆していると読める。

 俳句形式そのものが三橋敏雄の主題である。日本の風土の中にある共通意識(アイデンティティ)を読者との連結とし、今までにない俳句、五感に迫るリアルなもの、その一句一句が『眞神』にある。

 北欧神話の中に詩の神オーディンにつく一対の狼「ゲリとフレキ」がいる。すなわち詩を連れ歩く。絶滅の詩を連れ歩く「予感」、それは、作者・三橋敏雄本人。掲句「絶滅のかの狼」は三橋の代表句であると思う。

 三橋敏雄は、風土を五感として捉え俳句形式に臨むことを終生詠んでいる。*3)

*1)『眞神』(収録句数130句)。『鷓鴣』(収録句数162句)。現在、文庫化されたものが入手可能。『眞神・鷓鴣』(三橋敏雄句集・邑書林句集文庫・¥945税込)

*2)「日本オオカミ協会」という団体がある。さらに映画「赤ずきん」(アメリカ映画2011年公開)全世界で狼ブームか。

*3) 晩年の句集『しだらでん』では、「みづから遺る石斧石鏃しだらでん」と詠んでいる。全句を通してみると、直球の意味のみならず俳句形式自体を詠んでいることがよくわかる。


●―13:成田千空の句/深谷義紀

 大粒の雨降る青田母の故郷(くに)

 千空は生涯津軽に執し、その地を離れることなく一生を終えた。萬緑関係者から再三東京に出てくるように勧められたが、決して首を縦に振ることはなかったという。千空が俳句を志したときその心にあったのは「津軽の俳人はいかにあるべきか」という課題であり、結局、最後まで「津軽の俳人」としてその生を全うしたのである。したがって、旅吟を除けば、句作の対象は津軽の事物であり、その作品の多くが津軽の風土色を帯びたものにならざるを得なかったのは、ある意味で当然の帰結である。ちなみに、第1句集の名も「地霊」である。

 さて「詩客」2011年6月3日配信の「第3回戦後俳句史を読む」のなかでの筑紫磐井が風土俳句について述べた発言は、戦後俳句史におけるその立ち位置を的確に指摘したものであり、そうした流れに千空がどう関り、それをどう受け止めていたかを少しみていきたい。

 上記のように「津軽の俳人」たることを貫徹した千空であるが、実は風土俳句には否定的であった。

 私なんか、八戸のいわゆる風土俳句に批判があるわけです。風土風土って、風土だけを売りものにしてどうなるんだ、もっと普遍的な俳句の世界があるだろうって。で、あるとき、アンソロジーにこう書いたことがあるんです。「われわれは風土に生きていることは間違いない。と同時に、現代に生きているんだ。現代に生々しく生きているということと風土に生きているということ、この二つの問題を俳句の世界で生かす必要があるだろう」と。

                      (角川選書「証言・昭和の俳句」より)

 ここで千空の言う「いわゆる風土俳句」は、先の筑紫磐井の言を借りれば下記のようなものである。

 風土俳句とは、昭和34年の角川俳句賞で村上しゅらが受賞した「北辺有情」を契機として生まれた俳句の傾向で、地方在住の作家による土地固有の自然と人間の生活をテーマにした俳句をいう。

 そして、村上しゅらこそが千空の言う「八戸のいわゆる風土俳句」の中心作家であり、八戸俳句会の「北鈴」の編集長を務めていた。当時の八戸俳句会における風土俳句熱は凄まじいものがあり、「完全に風土性俳句を目標とする」(角川選書「証言・昭和の俳句」における千空の発言)ことにより村上しゅら以降も15年間に北鈴からは木附沢麦青、米田一穂、山崎和賀流、加藤憲曠、河村静香と角川賞受賞作家が5人輩出することとなった。筑紫磐井が挙げた角川俳句賞を受賞した風土俳句の代表作家たちが全て含まれており、戦後俳句史を振り返ったとき風土俳句の実作という点ではかなりの部分をこのメンバーが担っていたといえるのではないだろうか。

 俳句賞受賞の文学的価値自体については、受賞如何が作品の優劣をそのまま表わすものではないという意見をはじめ、種々の議論があるだろう。しかし、中央から離れた地方においてその地域の俳人たちに大いなる勇気をもたらしたことは間違いあるまい。この時期、八戸俳句会と千空の属する青森俳句会のメンバーは交流を深め、それぞれの所属結社の垣根を越え合同句集を発刊するなど、千空が「青森の俳句ルネッサンス」と称する隆盛期を迎えることになる。実は、この頃中央俳壇では現代俳句協会の分裂騒動があり、その余波が青森の俳句界に及ぶことを回避しようと、千空は心を砕いた。千空の中では「(社会性俳句が志向する)風土性のあり方」よりも「青森の俳壇のありよう」の方がずっと大切だったのである。

 この辺で、掲出句に戻ろう。

 津軽といえば、誰しも想起するのは雪である。その意味では、前回採り上げた

 人が死に人が死に雪が降る

なども、千空の風土詠として無視できない作品だと思う。他にも津軽を詠んだ佳句は数多く、敢えて一句を選ぶのはなかなか悩ましい作業であるが、ここでは掲出句を選んだ。

 句集「地霊」所収。昭和22年、千空の初期の作品である。当時、千空は帰農生活を送っており、ある日農作業の帰り道で俄か雨が降ってきて青田がざわめいた。そのときに大地の息吹きを感じ、一句を得たという。何の作為もない、確かに「口を衝いて生れた一句」(本人談)であろう。

 青森空襲で地獄を見てしまった心が、一転して母郷の青田の生気に触発された句だったと思われます。(角川学芸出版 成田千空著「俳句は歓びの文学」より)

 上記筑紫磐井発言の最後に採り上げられた相馬遷子と千空を比べてると、両者とも社会性俳句作家ととらえられていないのは当然として、風土俳句作家ともいえない。この点は共通している。両者の差異は、作者とその居住地との「距離感」であろう。遷子にとって佐久への帰郷はやむにやまれぬ事情があってのことであり、当初は地元の人達とも打ち解けるというには程遠い関係だったようである。そのためか、ある時期までは佐久の地で開業医を営む自分にもどかしさを感じていたようなところがある。それに対し千空にとっての津軽は、まさに掲出句のように母なる故郷であり、その地こそが安住の土地だったのである。


●―14:中村苑子の句【テーマ:水妖詞館ーあの世とこの世の近代女性精神詩】2./吉村毬子

(2013年3月1日金曜日)

 第1回でテーマを決めていなかった為、第三句集『中村苑子句集』集中の「四季物語」(昭和54年)から一句を揚げる。

 俳句とは業余のすさび木の葉髪

 高柳重信の富士霊園の墓に刻まれている次句がある。

 わが尽忠は俳句かな   高柳重信

 文字通り、俳句に忠義を尽くすということである。

 俳句の渦の中で半生を共に生きた二人の俳句への思いの違いは何であろうか。

 「業余」(ぎょうよ)は、本業を果たした余力でする仕事。「すさび」は、気の向くままにすること、気慰みの技。

「木の葉髪」で表現されているように、老年に差し掛かった66歳刊行の句集の作品であるが、その4年前に『水妖詞館』、3年前に『花狩』という強烈な個性の句集を出版してから、間もない句にしては、落ち着き過ぎている。

 重信が「わが尽忠」と断言した俳句を、私には、「業余のすさび」だと言い放つ。

 高柳重信の要請に寄り、苑子が在籍8年の「春燈」を辞して、重信と『俳句評論』を創刊したのが昭和33年(45歳)であるから、20年余りの歳月を、自宅を発行所にして、共に支えあい、才能溢れる個性豊かな同人達と俳誌を続けていくことは、想像を絶する。

 苑子は、大正2年に生まれ、一女性として家庭を持ち子も育てあげた。前夫を戦争で亡くし、自身も戦前、戦中、戦後を生き抜いた。関東大震災も経験している。

 10年間の苑子の指導の間に間に聴いたそれらの話を繋ぎ合せれば、死にたくとも死には導かれなかった。寄って貫かれた「生」が本業であり、俳句は「業余」であると書き留めた意味は深い。苑子はその「すさび」に命を懸けて挑んだのである。

 傘寿の祝いの会で

「苑子先生は、本当にお元気で長生きですね。」

と言った私に

「私は業(ごう)が深いのよ。」

と答えた顔が忘れられない。


 さて、『水妖詞館』一句鑑賞に戻る。

 恐れつつ葉裏にこもり透とほる

 中村苑子の第一句集『水妖詞館』は、昭和50年(62歳)に刊行されている。

 前号の年譜に記したように、戦死した新聞記者であった夫の遺品の句帳をきっかけに俳句を書き始めたのが32歳である。

 それまでは、小説家を目指し、家出をしたこともあり、母の反対を押し切って日本女子大学に入学するが、結核に侵され中退している。ある会で、林芙美子から「あなたは、躰が弱いから、俳句のような短いものが合っているわよ。」と言われたことも、夫の句帳と共に、俳句を選ぶ要因の一つだったかも知れないと、話していた。

 昭和20年(33歳)には、藤沢に疎開中、久米正雄・川端康成・高見順・中山義秀の四氏が設立、運営する貸本屋「鎌倉文庫」の事務を手伝い、本格的に俳句を始める以前に、文学関係の方々と交流していた。その頃のことを話すときは、本当に楽しそうであった。その頃のことを随筆集に残している。苑子は、随筆に長けていると思う。俳句とは違う、飾りのない素直な文章で読みやすい。

 昭和22年(35歳)に「鶴」の石橋秀野選に3回入選。(私は、石橋秀野を読みなさい。と言われ続けていたが、昨年やっと古本市で見つけ、墓参で報告した次第・・・)

 翌年、日野草城「青玄」に三樹美子の名で三句入選。

 枯菊を刈らむとするに香を放つ

 ふるさとに来て旅愁はも菜の花黄

 冬虹見しやさしき心にて訪へり

 そして、昭和26年(37歳)久保田万太郎「春燈」に入会。初入選は

 人の気配する雛の間を覗きけり

 以後は、句会歩きも投句も止めて「春燈」一筋。

 しかしながら、先にも記したように、重信の要請で『俳句評論』を設立する。

 そして、満を持して17年後、62歳にして処女句集『水妖詞館』を発刊した。この句集は、1頁に二句を納め、全句で139句という、30年間に亘る俳句苦業に於いて、厳選を重ねたと思われる。

 高屋窓秋の序文を抜粋する。

「(前略)通読していて心のやすまるひまもないような気がして、すこしぐらい息ぬきになる作品が含まれていてもよいではないかと、正直いって、ぼくはそう思った。しかしながら、句集というものは、一句一句を、ゆっくり心深く読むべきものであろう。」

 第2句目は、前号で鑑賞した第1句目と並んで、見開きの左側に置かれている。

 喪をかかげ今生み落とす竜のおとし子

 怖れつつ葉裏にこもり透きとほる

 一句目の「今、私は、死を纏いながら、竜のような神秘的な詩群を産み落とします。」という沈降的な強さの女性性に対して、嫋やかさを唱えながらのナルシズムが窺える。

 何に怖れているのか・・・怖れながらも決して逃げずに、葉の裏にこもり、そして、自身は透き通ると言う。透き通って見えなくなるようになるのだとも解釈できるが、一句一章の流れに乗り、詩的耽美さを感じてしまうように描かれている。

 永い句業の果ての、処女句集の一頁目に置かれたこの二句の効果は、成功しているのであろう。

「生み落としたけれども、儚いものなのだ・・・」と、強く弱く読み手を誘いながら、二頁目を繰らせるのである。

 追記すれば、苑子は、此の句集を出版する頃、病に襲われていたと本人から聞いたことがある。最初で最後の句集だと思い、全身全霊を入れたとのこと。「喪をかかげ」には、その思いもあるのかも知れない。

【新連載】新現代評論研究(第2回):仲寒蟬、杉美春、佐藤りえ

 ★赤尾兜子を読む2/仲寒蟬

 2. 蜘蛛とわれと背き一日を秋雨(あめ)降れり

 蜘蛛と言えば『蛇』の「鉄階にいる蜘蛛智慧をかがやかす」を思い出す。この『飈』からは数年後の作ということになろうか。鉄階の蜘蛛は下等生物ではなく智恵を持ったものとして描かれている。そう言えば岸の蛇も音楽を解しはしまいがどこか知能を持った雰囲気がある。

 それではこの句の蜘蛛はどうか。「われと背き」という表現からは作者と対等であるかのような印象を受ける。背くは心情の上のそれではなく単なる位置関係であろう。つまり作者が右を向いているとすれば蜘蛛は左、この蜘蛛は室内にいるものだとすれば小虫を捕獲するためにひねもす蜘蛛の囲に張り付いていることであろう。作者は作者でやることがあろうから蜘蛛を凝と見ている訳にはいかない。だから「背き」なのである。つまりてんでに別々のことをしている。だが作者はふとそこに蜘蛛がいることに気付いた。蜘蛛の方も作者を認識したかもしれない。

外では一日中雨が降り続いている。わざわざ「秋雨」と書いて秋の長雨を思わせる。ただの雨ならば季語は「蜘蛛」で季節は夏ということになるが、こう断わることで季語は「秋雨」、季節は秋ということになる。『蛇』以降は無季の句を量産する兜子にしては季節や季語に対して実に細かい配慮である。

 3. 承書必謹日本ハ朝顔の如き國か

 「承書必謹」とは難しい、戦前の大日本帝国を引きずっているような語彙である。字が違うが「承詔必謹」であれば聖徳太子の十七条憲法の第三条にあり「詔を承けては必ず謹め」と読み下す。恐らくこれのことだろう。十七条のうちでは第一条の「和を以って貴しと爲し・・・」が有名であるが、憲法と言っても現在のそれとは異なり当時の宮廷人や官僚の心得、道徳を説いたもの。

 「承詔必謹」とは「天皇の命を受けたら必ず従え」という意味である。この憲法は長らく忘れられていたが明治の尊王思想で復活し軍部もこれを利用した。そのお蔭で国は滅び国民は酷い目に遭った。兜子は陸軍機甲整備学校の特別甲種幹部候補生として入隊し、東京空襲の際に救出トラックで出動した体験を持つ。空襲の惨状を間近に見ていたのである。何という愚かな戦争をしたのだろうという国への怒りと自分もその軍の一員であったという後ろめたさが心の中で葛藤する。

 この句で朝顔が出てくるのは、朝顔は朝になると一斉に花開いて太陽の方を向く、このことが「承詔必謹」に通じるというのであろう。だから日本は古来「承詔必謹」の国であってお上の命令に忠実に従う、そういう国柄であるから先の戦争のようなことが起こったのだという省察と一種の諦めか。


★ー4藤木清子を読む1 「白い昼」/杉美春 

はじめに

 新興俳句運動の中で、数少ない女性俳人として頭角を現わし、優れた作品を発表しながら、忽然と姿を消してしまった藤木清子。「ひとときの光芒」(宇多喜代子)ではあったが、その残像は今も俳句史に残る。戦前・戦中の困難な時代を病弱な夫を支える妻として、後に寄食する寡婦として生きた俳人。その足跡を俳句で辿ることは、新たな戦前を生きる私たちにとって何らかの意味があると思われる。

 以下の点に注目しつつ、藤木清子の俳句を読み解いていきたいと思う。

1. 伝統俳句から新興俳句運動へ

 水南女から藤木清子へ~「京大俳句」を中心に

2.新興俳句運動の中で。「旗艦」を中心に

3.戦争と清子

4.「しろい昼」を中心に~断筆まで

  キーワードとしての「白」と「昼」が象徴するもの


1. ノラとならめ

 火を埋むノラとならめと思ひしころ 藤木水南女(昭和11年「京大俳句」1月号)

 近代演劇確立の礎石ともなった、と言われるイプセンの『人形の家』は、1879年の作。イプセンにおける女性解放の思想は、この作品に初めて色濃く現れてくる。平穏な生活を送っていた弁護士の妻ノラはかつての不正が露見し、夫から叱責を受ける。問題は解決するが、籠の鳥や人形のように生きることより、人間として生きたいと願ったノラは夫も子どもも捨てて家を出る。イプセンが本作を書いたきっかけは、1878年、ローマのスカンジナビア協会に対し、協会内の仕事に女性を採用し発言権を与えるように提案したところ、その定義が否決されたことだという。日本では、1911年に初めて上演された。当時の日本でも女性解放運動は徐々に発展しており、1900年には津田梅子が女子英語塾(前津田塾大学)を設立していた。また1911年には平塚らいてうが『青踏』を創刊、与謝野晶子も女性の教育や解放について論じるようになっていた。そして『人形の家』は日本で上演され、話題となった。このような状況を背景に、杉田久女の〈足袋つぐやノラともならず教師妻〉や藤木清子の〈火を埋むノラとならめと思ひしころ〉などの俳句が生まれたのであろう。

 藤木清子は、草城の「旗艦」で活躍した女流俳人である。昭和六年頃から夫とともに俳誌「廬火」や「天の川」に藤木水南女の名前で投句していた。「旗艦」が創刊されると2号から投句を初め昭和15年まで作品を発表し活躍したが、

 ひとすじに生きて目標うしなへり   藤木清子(昭和15年10月「旗艦」70号)

の俳句を最後に忽然と姿を消した。病身の夫を亡くした後、寄食した家で寡婦として片身の狭い暮らしをしていた。「ノラとならめ」という思いはあっても、時代的な背景を考えれば経済的な自立は困難であっただろう。やがて再婚話が持ち上がるが、再婚の条件は「俳句を捨てる」というものだった。

 久女と清子、この二人の女流俳人は才能を持ちながら「ノラ」にはなれず、ひとりは破門によって、ひとりは再婚によって、俳句への道を閉ざされたのである。

 藤木清子については、断筆後の情報は残っていない。そのため境涯から俳句を読み解くことは難しいので、作品そのものと作品を取り巻く状況を中心に読み解いていきたいと思う。


(1) 水南女から藤木清子へ

伝統俳句の時代

 (「蘆火」1931年(昭和6年)~1935年(昭和10年)「旗艦」入会まで)

 「蘆火」は、後藤夜半が昭和6年11月に創刊した俳誌で、「ホトトギス」の衛星誌。昭和9年10月、夜半の病気療養のため終刊。おもに関西の俳人が集っており、広島・安芸に住んでいた藤木清子も水南女の俳号で、夫の藤木北青とともに参加していた。表紙は東郷青児画伯のヌード画で「俳誌とヌードという取り合わせが、当時としては仰天するようなことだった・・・高屋窓秋の〈頭の中で白い夏野となってゐる〉に好意を寄せた文章が掲載されるなど、ここに新興俳句系の青年たちが集まりはじめた・・・」(『ひとときの光芒』藤木清子全句集 宇多喜代子解説「藤木清子とその周辺」より)

 曼珠沙華抱へて溝を飛びにけり (昭和6年12月「蘆火」2号)

 むき合ふてすわる母子や障子貼り(同)

 私たちが知ることのできる初出の俳句である。

 同じ「蘆火」2号には、夫の北青の俳句も一句、掲載されている。

 お手植えの松のかくれて祭店 (藤木北青)

 水南女も北青も「ホトトギス」系の写生句の域を出ていないが、「蘆火」を通して伝統的な俳句を学びつつ、新興俳句系の俳句と出会っていったのだろう。

 まち針を数へて夜なべ仕舞せり (昭和7年3月「蘆火」5号)

 藤木清子全句集には「蘆火」2号~5号までの7句が収録されている。

  昭和10年からは新興俳句誌「旗艦」「京大俳句」「天の川」に投句している。

 昭和12年後半からは「旗艦」がもっぱら創作発表の場となっていくが、まずは「京大俳句」を中心に清子俳句を見ていきたいと思う。


「京大俳句」への出句

 「京大俳句」は昭和8年(1933年)1月、三高・京大俳句会の平畑静塔、井上白文地、藤後左右、長谷川素逝らによって創刊された。編集人は静塔。昭和10年(1935年)から学外に門戸を開き、西東三鬼、高屋窓秋、石橋辰仁助、渡辺白泉、三橋敏雄らが参加している。新興俳句運動の中心誌として無季俳句や戦争俳句を多く取り上げたが、そのため1940年2月から8月にかけて多くのメンバーが特高警察によって検挙され、終刊を余儀なくされる。

 水南女は「蘆火」終刊後、「天の川」「京大俳句」「旗艦」の3誌を中心に作品を発表している。「京大俳句」に投句を始めたのは昭和10年8月から。それに先立ち同年2月から創刊まもない「旗艦」にも投句している。

   冬夜断想(京大俳句 昭和11年1月)

 冬を生く妻てふ名にぞあらがひて

 人こひし炭火は美しくはしくてれ

 火を埋むノラとならめと思ひしころ

 さびしさに湯気這ひのぼる吾が肋

 病弱な夫との生活は経済的にも精神的にも決して楽なものではなかっだろう。「妻てふ名にぞあらがひて」生きたいという思い、「ノラとならめ」という思いを埋火のように抱えながら、寂しさを募らせていったのではないだろうか。「湯気這ひのぼる吾が肋」という身体表現には、女性としての充たされない思いが溢れている。

  手記(京大俳句 昭和11年5月)

 不楽(さぶ)し妻荒びたる部屋がある

 ひしがれし涙が針にきらめくよ

 昭和11年9月から「旗艦」にも「京大俳句」にも、水南女改め藤木清子として出句している。9月7日に夫藤木北青が病死。その前後の心情が清子への改名のきっかけとなったのだろうか。

 あつき夜が四角な壁となりて責む (京大俳句 昭和11年9月、水南女改め 藤木清子)

 空は青磁ましろき蝶の孵りたる

 真っ青な空へ飛び立つ羽化したばかりの白い蝶。その蝶は清子の化身である。寡婦となった心細さ、寂しさと同時にある種の清々しさも湛えている。

 「旗艦」昭和12年2月(26号)後記に、安芸から神戸市への転居が報じられている。歯科の開業医だった兄を頼って寄宿したのである。以降、藤木清子として「京大俳句」への出句は昭和13年8月号まで続く。


★ー5清水径子を読む1/佐藤りえ

 風ときて寒柝消ゆる鏡かな

 清水径子は明治44年生まれ、義兄秋元不死男の「氷海」で俳句を始めたのが昭和24年、径子38歳の折のことである。中年の山に差し掛かるこの頃までに、径子は両親・祖母・弟と既に多くの肉親を失っていた。二十代のはじめには短期間の結婚、離婚を経験している。俳句という言葉の杖を操るまでに、ここまで多くの別離を経てきたことは、ウェットな意味だけでなく、径子のものを見る眼の下地として息づいているように思う。

 掲句は第一句集『鶸』の巻頭句。寒柝=冬の夜に打ち鳴らされる拍子木の音が風に乗って届き、消えた。窓辺に置かれた鏡台か、手鏡を覗いていたのか。いずれにせよ、書かれてはいないが喚起されるイメージとして、ひとりの情景が浮かぶ。ひとり居る部屋で、ひとりしか映らない鏡を、ひとりで見つめている。チョーン、チョーン、と乾いた音が窓外にあり、その音は遠く、室内の間近までは入ってこない。径子の俳句に色濃く漂うのはこうした「ひとりきり」の静けさである。

 序文に師・秋元不死男が「嘆きの詩性」と綴るように、径子の句には而して立つ身のかなしみ、嘆きがつよく漂っている。

 満月の下を下をとわがひとり

 降る雪の中に薄給わたさるる

 除夜の灯を金魚や草や木と領つ

 子を生(な)さず活けるそばから散るさくら

 しかし嘆きつつ、読む人をかなしませるものではなく、誰を責めるでもなく、痛いほどに屹立し、すうっと此の世を掬い取ってみせている。

 第一句集『鶸』は昭和48年刊行、句集題は不死男がつけてくれたものである。昭和40年以前の表記がある「鏡」から昭和47年の「蓬」まで九章428句を収める。この頃すでに俳歴は24年、径子は62歳になっている。

 序文に不死男が綴る「勝手な作り方」という見方は、不死男自身の作風に重ねたものでもあろうし、径子の作品についていえば肯定的な評言であると思う。心象をあらわす書きぶり、自然な音感の句跨がりの多用、印象的な直喩の多さ、後年師事する永田耕衣にも通じる、万物の位相が自己と一直線上にあるかのような捉え方など、『鶸』にはすでに径子の特徴と呼べる萌芽が散見する。

 あとがきに径子自身が魅力を感じたと挙げているのは、以下の三句。

 ピストルがプールの硬き面にひびき 山口誓子

 山鳩よみればまはりに雪がふる 高屋窓秋

 クリスマス地に来ちちはは舟を漕ぐ 秋元不死男

 硬質なスケッチ、リリシズム、来歴を語る言葉のわざ、径子の指向したものが見える選句である。また、この三句の選句だけからみても、強引に言ってしまえば、径子の試行がきわめて意識的に「現代俳句」を標榜していたように思う。すなわち自由な書きぶりでありつつ、散文化を周到に避けること。嘆きが感じられるのは句材、心情表現からのもので、切れ字による詠嘆が極めて少ないこと。伝統的な詠嘆を以てすれば、嘆いてみせることは、もっと容易いことだろう。径子はそうした手順を避け、きりっと、しゃんとしていることを選んだ。そのように見えて仕方がない。

〈俳句は「十七音の短詩」という考えを深めました〉と綴る、径子の考えを探っていきたいと思う。

【豊里友行句集『地球のリレー』を読みたい】8 豊里友行句集『地球のリレー』栗林浩

  沖縄の若い俳人を取材に出かけて豊里さんにあったのは、もう20年も前だろうか。

 求道の青年のように、沖縄を詠むことに懸けていた。その後の句集や写真集を見ても、それは変わっていない。

 『地球のリレー』を戴いたとき、すぐに次の一句を選んでいた。


  80 渋滞の中の快速かたつむり


 だが、多忙にかまけて鑑賞記を書いていなかった。今回、読み直して、次の句を戴いた。

 

  43 やわらかな折り鶴ですね京ことば


 京都を旅したのでしょう。沖縄と違った京言葉を耳にし、沖縄との違いを認識したのでしょうか。口語調でもあり、普段の豊里調の句と違う。そこに興味を感じた。