2025年4月25日金曜日

第245号

 次回更新 5/9

■新現代評論研究

新現代評論研究(第3回)各論:眞矢ひろみ、後藤よしみ、佐藤りえ、村山恭子、鈴木光影 》読む

新現代評論研究:音楽的俳句論 図像編 川崎果連 》読む
新現代評論研究:音楽的俳句論 解説編(第1回)川崎果連 》読む

新現代評論研究:『天狼』つれづれ 第1回:『天狼』と養徳社/米田恵子 》読む

現代評論研究:第6回総論・戦後俳句史を読む(私性) 》読む

現代評論研究:第6回各論―テーマ:「色」その他― 藤田踏青、土肥あき子、飯田冬眞、堺谷真人、岡村知昭、しなだしん、筑紫磐井、北川美美、深谷義紀、吉村毬子 》読む


■令和俳句帖(毎金曜日更新) 》読む

令和七年歳旦帖・春興帖
第一(4/25)仙田洋子・神谷 波・豊里友行・山本敏倖

令和六年冬興帖
第一(4/5)仙田洋子・神谷 波・豊里友行・山本敏倖・ふけとしこ
第二(4/11)鷲津誠次・加藤知子・杉山久子・小野裕三
第三(4/25)辻村麻乃・瀬戸優理子


■ 第49回皐月句会(2024/5月)[速報] 》読む

■大井恒行の日々彼是 随時更新中!※URL変更 》読む

俳句新空間第20号 発行※NEW!

■連載

英国Haiku便り[in Japan](52) 小野裕三 》読む

【連載通信】ほたる通信 Ⅲ(57) ふけとしこ 》読む

【鑑賞】豊里友行の俳句集の花めぐり27 谷口智行『星糞』 》読む

【豊里友行句集『地球のリレー』を読みたい】8 豊里友行句集『地球のリレー』 栗林浩 》読む

句集歌集逍遙 董振華『語りたい龍太 伝えたい龍太—20人の証言』/佐藤りえ 》読む

【加藤知子句集『情死一擲』を読みたい】④ 破局有情――加藤知子句集『情死一擲』について 関悦史 》読む

現代俳句協会評論教室・フォローアップ研究会 7 筑紫磐井 》読む

【抜粋】〈俳句四季9月号〉俳壇観測260 鷹羽狩行の晩年——『十九路』『二十山』を読む

筑紫磐井 》読む

【連載】伝統の風景――林翔を通してみる戦後伝統俳句

 7.梅若忌 筑紫磐井 》読む

【豊里友行句集『母よ』を読みたい】③ 豊里友行句集『母よ』より 小松風写 選句 》読む

【渡部有紀子句集『山羊の乳』を読みたい】⑯ 生き物への眼差し 笠原小百合 》読む

インデックス

北川美美俳句全集32 》読む

澤田和弥論集成(第16回) 》読む

およそ日刊俳句新空間 》読む

4月の執筆者(渡邉美保)…(今までの執筆者)竹岡一郎・青山茂根・今泉礼奈・佐藤りえ・依光陽子・黒岩徳将・仮屋賢一・北川美美・大塚凱・宮﨑莉々香・柳本々々・渡邉美保 …





■Recent entries

中村猛虎第一句集『紅の挽歌』を読みたい インデックス

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前衛から見た子規の覚書/筑紫磐井 インデックス

寒極光・虜囚の詠~シベリア抑留体験者の俳句を読む~㉜ のどか 》読む

俳句新空間を読む 》読む
…(主な執筆者)小野裕三・もてきまり・大塚凱・網野月を・前北かおる・東影喜子


筑紫磐井著『女帝たちの万葉集』(角川学芸出版)

新元号「令和」の典拠となった『萬葉集』。その成立に貢献した斉明・持統・元明・元正の4人の女帝、「春山の〈萬〉花の艶と秋山の千〈葉〉の彩を競へ」の天智天皇の詔を受けた額田王等の秘話を満載する、俳人初めての万葉集研究。平成22年刊/2,190円。お求めの際は、筆者までご連絡ください。

【新連載】新現代評論研究:各論(第3回):眞矢ひろみ、後藤よしみ、佐藤りえ、村山恭子、鈴木光影

【未完】 

★―2橋閒石の句 2 眞矢ひろみ

 詩も川も臍も胡瓜も曲がりけり   「和栲」昭和58年

 閒石は、病床にあった少年期より俳諧、俳句に親しみ、大学時代には英文学(エッセイ)を専攻し、その研究・教育を正業として生涯従事した。俳諧は、兵庫の俳諧師寺崎方堂に師事するが、俳句に関しては結社等に加わることもなく、「師も友人も持たず、もっぱら若年の頃の読書から得た我流」(*1)で始める。年譜を分野ごとに辿ると、この三分野の何れかが中心ということもなく、それぞれに力を注いでいる。昭和24年には、そのことを示すように、俳句・連句・随筆を三本柱に月刊誌「白燕」を創刊・主宰している。昭和49年、71歳で大学を退職するが、平成4年、89歳で亡くなる直前まで、俳句、連句はもとより各種評論や随筆などの執筆、講演などをこなして現役であり続けた。

 仮に俳句を中心にアングルを据えれば、その母胎である俳諧・連句のほか、西洋文学の造詣も脇に備える形となる。大雑把に言えば、閒石は俳句に対して通時、共時の両面から接近できる実作者であり、しかも我流を通した俳句は、ある意味最も自由に活動できる分野であったに違いない。

 揚句は、閒石句によく見られるリフレインを用いて「詩」「川」「臍」「胡瓜」を並置する。「曲がる」という語の多義性に支えられた構造で、読み手は胴体の上部から下部に視線を移すように四つの異分野の名詞を読み進め、一体どう続くのかと思いきや「曲がりけり」と落語の下げの如き体裁をとる。

 「詩」が意味するところは読み手に委ねられるが、特定のものではなく、古今東西の詩形全般を指していると読む。閒石は随想集「泡沫記」「俳諧余談」において、和歌における折句と古代ギリシャの遊戯詩・アクロスチックの共通点や、専門である19世紀英国のラム(*2)やハズリットの随筆に見られる掛詞や洒落地口について言及し、さらに間接的な屈折を本体とするイロニーを、日本短詩型の諧謔や英文学のユーモアに見出している。閒石にとって古今東西の詩は並びたつものであり、晩年に「俳諧は英文学の理解に役立ち、西欧文化の知識もまた、俳諧を批判するに有用であった」と述懐している。

 ところで、「和栲」には成句・慣用句のずらしを用いた句も多い。

 山を巻く一筋縄の涼しさよ

 草の根を分けても春を惜しむかな

 三枚におろされている薄暑かな

 なりふりを構うゆきどけ烏かな

 お浄土がそこにあかさたなすび咲く

 このような句は「和栲」前には見られない。ずらし方が絶妙で、鈴木六林男は「妙なる慣用語の揺蕩」と評している。全面を覆うのではなく、句意との絶妙なバランス、距離感が読む者に余裕を与え、言葉の面白さを増幅させる。

 遊びを感じさせる句は他にも多く、飯田龍太は「俳諧にのめりこんだ自在の詩情」を感じ取る。因みに、閒石自身によれば、遊びとは「粘着を厭う」「囚われない心さま」のこととしており、「巫山戯」などとは別のものである。

 さて、これらの句について、龍太をはじめ多くの論者は俳諧の影響を指摘する。末句の「あかさたな」が、一茶の「いろはにほ」の句を彷彿とさせるなど、確かに談林以降の諧謔を強く感じさせる。一方、英文学の影響はどうだろうか。閒石が大学の卒論の対象として以来、生涯を通じて研究したラムは、シェイクスピアをはじめ既存の文学作品の一部を引用し、自身の文脈に合わせてユーモラスに挿入する。これは、言語や適用する範囲(文・文節・句)の違いはあるにせよ、ずらしと原理的には同じ手法である。何らかの影響を受けたことは確実である。

 一方、精通する領域が多岐にわたり、いくら素材や技巧の幅が広がったとしても、そのことが作品の質向上に直結するわけではない。閒石の場合、俳諧、英文学、俳句の三分野の蘊蓄は、相互に影響しあいながらも個別に深まっていたが、晩年に至って「遊び」をキーワードに溶け合い、俳句実作に類を見ない深化をもたらした。深化というと何やら重い語感だが、閒石自身の言葉で申せば「「雲を踏む確かさ」に明け暮れる軽み」の境地を指す。この融合化・熟成とも呼ぶべき変化は、第5句集「荒栲」に始まり、第6句集「卯」を経て、「和栲」で大いなる収穫期を迎える。

 閒石が酒の席で、興を添えるため唄った自作の戯れ歌「ありがたぶし」(*3)が最晩年の有り様を如何なく表している。

   細いからだを軽みというて

   やがて消えます春の雪

 

*1 『橋閒石全句集』「雪」解題 和田悟朗 沖積舎 平成15年

*2 チャールズ・ラム(1775-1834)イギリスの随筆家、批評家、詩人。主著「エリア随筆」(随筆集)「シェイクスピア物語」。ウイリアム・ブレイク、ウイリアム・ワーズワース等とともに英文学浪漫主義時代を代表する作家。

*3 「和栲」あとがき 


★―3「高柳重信の風景」2/後藤よしみ

二 風景とは

    (一)

 初回の前稿では、風景と重信の句業の変化を指摘し、重信における風景を紹介した。

 今回の稿では、風景そのものにふれていきたい。現代につながる風景のありようであるが、明治期から取りあげてみる。

 まず、「アジアの旅人」として知られているイザベラ・バードの『日本奥地紀行』をひもとく。

〈エデンの園 とても暑いもののよく晴れた夏の日だった。雪をかぶる会津の峰々も、太陽の光にきらきら輝いているので、涼しげな感じはほとんどしなかった。南には繫栄する米沢の町、北には訪問者の多い温泉場である赤湯を擁する米沢平野〔盆地〕は、まさしくエデンの園である。「鋤の代わりに鉛筆で耕したかのよう」であり、米、綿、玉蜀黍、煙草、麻、藍、大豆、茄子、胡桃、西瓜、胡瓜、柿、杏、石榴が豊かに育っている。〉(『完訳 日本奥地紀行2』金坂清則訳注 東洋文庫 平凡社 二〇一二年)

 これは一八七八(明治十一)年の七月のみちのく山形の地の豊饒の風景である。

 日本人の筆によるものでは、一八九四(明治二十七)年の志賀重昂(卬は卭)の日本の風景に新しい美を見出す論がある。

〈花より明るく三芳野の春の曙みわたせば

   もろこし人も高麗人お大和心になりぬべし 頼 山陽

のところあらしむ。想う浩々たる造化、その大工の極を日本国にあつむ、これ日本風景の渾円球上に絶特なる所因、試みに日本風景の瀟洒、美、跌宕なるところをいうべきか。〉(『新装版 日本風景論』講談社学術文庫 二〇一四年)

 このように和歌・詩歌・随筆・漢詩文などが豊富に引用され、地理学的見地からこれまでの日本人の盆景的風景観を変えたと言われている(土方定一解説『前出』)。

 そして、柄谷行人は明治二十年代の文学作品において風景の発見がなされているとしている(『近代日本文学の起源』岩波現代文庫 二〇〇八年)。それは、国木田独歩の「武蔵野」(一八九八(明治三十一)年)に描かれているただの風景である。こうして、現代の日本人が感じる風景というものがあらわれて来たと言える。これには、「西洋近代の精神文化」などの「日本への流入があって、これらを受容する過程で初めて、自由な個人の覚醒、自然の美の世界への心的覚醒が日本人に生じ、これによって日本人は初めて、風景の発見・風景感情の覚醒へと導かれた」という背景がある(内田芳明『風景の発見』朝日選書 二〇〇一年)。

 それでは、風景とは具体的にどのようなものであろうか。フランスの感性の歴史学を打ち立てたというアラン・コルバンによると、「風景とは空間を検証し、評価するひとつの方法である。それゆえ時代により、また個人や集団によって、風景はたえず変化してきた。(略)要するに、空間を見つめる人間の解釈で成立するのが風景である。感覚の及ばぬところで空間を読解し、分析し、表象するやり方、美的評価に供するために風景を図式化し、さまざまな意味と情動を付与するやり方、これが『風景』なのである」とされている(柴田陽弘「風景論入門」『風景の研究』慶應義塾大学出版会 二〇〇六年)。

 他にも「風景というのは、美なるものとして、人間によって価値づけられた自然である」(今西錦司『今西錦司全集第九巻』講談社 一九九四年)、「風景とは、言うまでもなく、地に足をつけて立つ人間の視点から眺めた土地の姿である」(中村良夫『風景学入門』中公新書 一九八二年)などさまざま出されている。

 ふれられている通りに風景の定義は人により、時代によりさまざまであるため、本稿では上記内田芳明の風景を念頭に進めていくことにする。

 では、風景に関することばはどのようなものがあるだろうか。一番には「景色」があげられよう。景色とは「鑑賞に堪える、自然物のながめであり、直接にはかかわりのない、余裕の有る傍観者の立場からする言葉」とされ、風景よりも柔らかい、より身近な単語とされている(佐々木健一『日本的感性』中公新書 二〇一〇年)。さらに、ランドスケープとは「空間的な広がりであり、風景と景色を含むもの」されている(佐々木健一『前出』)。

    (二)

 これまで見たように風景はさまざまにとらえられ、一方ではわれわれの周囲にあり、日々われわれが接するものであると言えよう。その風景に接するとはどのような意味を持ってくるのであろうか。

 はじめに、「風景の他者性の発見」である。これは、風景に対する風景を見る立場が、人間側が中心となり語りかけるのではなく、風景側が中心であり、人間が風景を眺めて感得するという立場の転換が生じてくることである。風景に出ている己を見ることになる。これは内面の発見へとつながる。柄谷行人は、「風景はむしろ『外』をみない人間によってみいだされて」とし、「風景の発見」は「内面の発見」と軌を一にして生じているとする(『前出』)。この背景の一つとして、死の経験が深ければ深いほど作品のなかに風景が描き出されると言われている(内田芳明『前出』)。

 内面の点で言えば、風景は文化的アイデンティティの指標となるばかりでなく、そのアイデンティティを保証し、それが脅かされると、風景を拠り所にアイデンティティを逆に強化しようとさえするという(柴田陽弘『前出』)。その例としてあげられるのが、明治期に西欧化政策の行き過ぎへの反発からと当時の日清戦争のナショナリズムの昂揚と合わせて国粋主義的筆致を見せ、その先駆的表明とされている志賀重昂の冒頭の『日本風景論』となる。

 次に、連想作用である。風景を眺めやるということは人間の想像力のなかで「連想作用のメカニズムを刺激し、それ自体の価値を変えてしまうことがある」とする(オギュンスタン・ベルク『日本の風景・西欧の風景』篠田勝英訳 講談社現代新書 一九九〇年)。それは、風景に向けた眼差しがその人間の意志に左右されることをあらわしている。付け加えるならば、嵐山光三郎は「芭蕉の眼前にあらわれる風景は「見るものでなく感じるもの」である」として、その双方の一体の動きを指摘している(『芭蕉という修羅』新潮社 二〇一七年)。風景はさまざまな思いを人間の心に芽生えさせ、感得させていくのである。

 三番目に歴史的思考に働きかける点である。加藤典洋は丸山真男の言う「歴史意識の『古層』」(一九七二年)の持続低音につながるとしている(『日本風景論』講談社 一九九〇年)。風景が日本人の歴史意識を刺激する。

 そして、図式化の作用である。これは風景の知覚において大切な働きとなる。風景の喚起作用が名所を生み、いつしか歌枕へと進化をとげる。その図式化の作用により創造の領域を作り上げていく(オギュンスタン・ベルク『前出』)。たとえば、独歩の「武蔵野」が歓迎されたのは「社会の教養ある層に適切な図式を定着させてからのこと」(オギュンスタン・ベルク)で、つまり人が所属する社会環境に応じて、同じ風景を異なる形で知覚することになる。また、日本文学の「道行文」の図式化がそのよい例としてあげられている。これは名所めぐりをする架空の旅行記である(柴田陽弘『前出』)。高柳重信の『伯爵領』もいわばこの「道行文」につながってくるものと言える。


  蒙塵や

  重い水車の

    谷間の

     石臼  (高柳重信『伯爵領』)


 四番目には、この「道行文」の考えを押しひろげてみれば『古事記』の世界の自然の山や海や川が特別の力をもつという考えにたどり着く。その自然や風景を抜け出したところに自分の居場所を見つけようとするものが、さらに言えば村立てすべきよい土地をもとめてさすらい、高いところから見下ろしてよい土地を見出した。これが国見である(長谷川宏『日本精神史上』講談社学術文庫 二〇二三年)。その村立ての始原の世が神の世であり、神に見出された土地となると言う。こうして、国が作られ、国の風景の美しさを共有することが国家の精神的な拠り所となってゆく。これが近代になると風景の美意識がナショナル・アイデンティティを構築するために広まっていったのである(中川 理『風景学』共立出版 二〇〇八年)。それはしだいに国家において「精神的な国土を措定する規範」となった(中川 理『前出』)。このようにして、風景は国家風土創出の役割を担うことになる。そして、風景を拠り所としてアイデンティティを強化させようとしたのが、前出の志賀重昂の『日本風景論』となる(柴田陽弘『前出』)。この風景の役割は高柳重信の『日本海軍』に通底するものである。


  海の

  山も

  出雲かなしや

  紫なす     (高柳重信『日本海軍』)


 最後に神話的空間と創造の磁場にふれておきたい。日本人にとっては、山や海や川、森などは神霊、祖霊の住み処であり、その風景に立つことで霊感をえてきた。たとえば、三輪山や富士山は山が霊なる空間であり、ご神体と見なされてきた。また、日本人の深層にひそむ古代の呪術的な空間をも育んできた。そして、西行や芭蕉をはじめ、古い歌に詠まれた風景の前に立つのであればその土地の霊と一つになり、豊かな詩をもたらしてくれるものと信じられてきた。このように詩歌をはじめとする創造の磁場を風景は提供している。現代の普通の風景を共有する共同体が衰弱したなかでは、風景の地という根拠を持たない架空の風景を、架空の場所・地を創り出すことになる。しかし、それは仮構された場所・地であり、その場所・地の再生ではなく、あくまで失われてしまったところの代償でしかないと言う(中川 理『前出』)。これらの例としては、清朝の時代、皇帝は有名な風景を縮小再生したが、これは都から遠く離れた地を魔術的・呪術的に都に近づけようと意図されたものとされている(柴田陽弘『前出』)。これらは、仮構された空間という意味では、高柳重信の『伯爵領』『日本海軍』につながるであろう。

 以上のことから、風景はいかに多様で重層的な意味をはらんでいるかをみることができる。今一度、はじめのアラン・コルバンの風景の定義に戻ろう。風景とは「空間を読解し、分析し、表象するやり方、美的評価に供するために風景を図式化し、さまざまな意味と情動を付与するやり方」となる。そこには、風景の空間的は把握とともに時間的な把握も含まれよう。西行や芭蕉がおこなったように古人の過去へと駆け巡ることも可能となる。仮構された未知の土地を巡回することもできる。それは、『伯爵領』『日本海軍』に通底するものである。このようにして、風景から高柳重信が立ちあらわれてくることを発見することは可能であろう。

 次稿以降では、高柳重信にそって風景にふれてゆく。


★―5:清水径子を読む2 / 佐藤りえ

 寒卵撫でてやるその一つ割る

 引き続き句集『鶸』より。貴重な栄養源であるとともに、そのフォルムと使命(殻を破って産まれねばならない)から「かわいそかわいい」食べ物である卵。撫でてやる、という愛玩心と割っていただいてしまう残酷さがひと続きに綴られ、「る」の音韻と句跨がりのリズムにより、マジカルで印象深い句となっている。

 初出の「氷海」第17号(昭和27年7月)では「寒卵撫でてやるその一つを割る」と格助詞「を」が入るかたちだった。この句に限らず初心の頃の径子の句には新興俳句の影響下にある字余りが散見される。

 五月の丘鳩飛び去れば街現るる 「氷海」2号(昭和24年7月)

 屋上に人湧けり秋天恋ひ居るに 「氷海」9号(昭和25年12月)

 人入りて墓地囲む塀に雪つき初む 「氷海」12号(昭和26年7月)

 稍散文調でもあり、或るドラマを内包しようと、展開を予感させうる書き方がなされているように見える。

 ごく初期から径子の表現質は手元の観察を喜ぶ、といった域を超え、あくまで新興俳句の系譜に準じた現代性、ジェンダーロールにとらわれない視点を伺わせる。

 両親すでに亡く、婚姻生活を短く終え、独り身の径子にとっての身辺周囲の句材は、家族でも吾子でも夫でもない。生活、都市景観、自然を詠むにあたって或る意味自由であり、或る意味孤独である。写生が内包する規範―旧制度に基づく模範的女性像、よき母・よき妻みたいな―からはみ出した句は、クールな印象を帯びる。クールさというのは、親しい・近しい登場人物の少なさから来るのではないか。新興系俳句に径子が感じた魅力とは、そうした「自由さ」にもあったのではないだろうか。

 句集に収録されたかたちの掲句は格助詞をひとつ除いたのみとはいえ、モチーフ「寒卵」の選択、その詩的な処理の仕方、一句一章としての完成度の高さなど、径子の性質がすでに十全に発揮されている。

 ちなみに同時期「氷海」在籍の小宮山遠はつぎのように詠んだ。

 寒卵わるとき火事に似しおもい 小宮山遠

 径子があくまで卵に専心したのとは対象的に、遠の句の眼目はやはり「火事に似しおもい」だろう。取り合わせの飛躍は小から大へ、つめたさから灼熱へ、イマージュの展開が「おもい」でふっと閉じられる。初期「氷海」で径子は小宮山、林屋清次郎、そして実弟・清水野笛ら同期と妍を競い合っていた。

 ところで「寒卵」はその後も径子の句にたびたび登場し、印象深い句を残している。

 日没におどろきて寒卵生む 『哀湖』

 寒卵こつんと他界晴れわたり 『夢殻』

 寒玉子のこる一つは夢みがち 『雨の樹』

 「寒卵」は径子にとって身近でありつつ、抒情そのものの生まれる源であったのだろう。

 

★―7:藤木清子を読む1 / 村山 恭子

0. はじめに

 藤木清子は昭和十年前後の短い期間に俳句にかかわりました。

 宇多喜代子は編著書『ひとときの光芒―藤木清子全句集』(沖積舎、平成24年)の解説で、藤木清子を〈時期的にも作品的にも、一閃の光芒を放って消えた短距離ランナーのような作家〉、〈けっして文学意識の高い教養人でもなければ、技巧的に優れた俳人でもない、面白い俳句を作った人でもない。知名度などないに等しいです。ただ、発言のむつかしいあの時代に、精一杯生きた一女性が、偽りのない声を俳句という入れ物にどうにかして詰め込もうとして奮闘した〉と述べています。

 今回、前述の全句集掲載460余句を読み進め、藤木清子の俳句表現の変遷をたどります。

1. 昭和6年 安芸 藤木水南女で出句 

  曼殊沙華抱へて溝を飛びにけり      蘆火2号(昭和6年12月号)

 曼殊沙華の赤が際立ちます。〈持ちて〉や〈提げて〉ではなく〈抱へて〉の表現から、両腕一杯に大量の曼殊沙華を抱え、溝を一気に跳び越す勇敢な姿が浮かびます。

溝は実景でしょうが、曼殊沙華は天界に咲く赤い花を表す梵語。別名「彼岸花」から、彼岸と此岸を飛び越えているような感覚を引き起こします。

 毒を持つので「家に持ち帰ると火事になる。」ともいわれ、忌み嫌われました。溝を飛び越えた後は、抱えたまま家へ駆け込んだのでしょうか。家の人に怒られ、泣く泣く捨てに行く姿も想像でき、微笑ましくもあります。 

季語=曼殊沙華(秋)

 むき合ふてすわる母子や障子貼り     同

 障子に向き合って座る母と子。秋のさわやかな天気のもと、丁寧に障子紙を剥がし、桟を洗います。しばらく日に干し乾いたころに、刷毛で桟へ糊を広げ、二人で呼吸を合わせながら障子紙を貼り、霧吹きします。光が霧吹きの水滴をきらめかせ、出来上がった障子は真っ白な紙がぴんと張りあがり、清々しいです。母子はほっとしたでしょう。

 年中行事をつつがなく送れる日々はかけがえのないもので、母子や家族の平穏へ繋がり、貴重な思い出になりました。  

季語=障子貼り(秋) 

 この二句は「赤」と「白」の対比があり色彩からも印象的です。

*生没年未詳。旧号水南女。「蘆火」「天の川」「京大俳句」に投句後、昭和10年「旗艦」に投句し、日野草城に師事。夫と死別後、広島から神戸に転居。寡婦として閉塞時代を生きる境涯俳句に鋭敏な詩情を発揮、新興俳句随一の女性俳人。16年以後、俳句界から消息を断つ。(川名大『挑発する俳句 癒す俳句』筑紫書房、平成22(2010)年)


★―8正木ゆう子を読む(1)鈴木光影

 美しいデータとさみしいデータに雪(句集『玉響』2023・春秋社)

 『正木ゆう子集』(2004・邑書林)巻末「略歴」の十六歳の項に「好きな科目は数学」とあった。掲句の「美しいデータ」とは、この世界の法則が理路整然とした数値や記号の連なりによって記述されることで「美しい」とすら感じる、数学の方程式のようなものなのかもしれない。

 一方「さみしいデータ」といわれて私が想起したのは、新型コロナウイルス感染症大流行時の「感染者数」や「死者数」である。数年前のあの時期、私達は毎日ニュースで流れて来る、人間ひとりひとりが数に置き換えられた膨大な「データ」の推移の前で、なすすべもなかった。さらに十四年前にさかのぼれば、東日本大震災発生後、地震や津波による「死者数」「行方不明者数」、福島原発事故後の「放射線量」「避難者数」なども思い起こされてくる。

情報社会が高度化していくにつれて、私たち現代人は日々様々なデータの恩恵を受け、またデータに踊らされたりして生きている。今後もその流れは止まることはないだろう。

 掲句の、自然物であり季語である「雪」は、その現代社会の状況を静かに肯定しつつ、姿も形も匂いも無い「データ」の肥大してゆく暴ぶる動力の熱を、冷まそう、鎮めよう、癒そうとしているかのようだ。

 掲句に関連して、正木氏の前句集『羽羽』(2016・春秋社)の最終句を挙げたい。

 降る雪の無量のひとつひとつ見ゆ

 「無量」は「量のはかり知れないほどに多いこと」だが、雪の一片一片に、作者は「無量」を見ている。この句からも読み取れるのは、正木氏にとって「雪」とは、自然現象として目に見える有限の確かさを持つと同時に、その奥に無限の時空を蔵している両義的な存在であるということだ。掲句の「ひとつひとつ」は、先の句の「データ」とも重なってくるように思われる。また、この二つの句は、約十七音の限られた字数によって豊穣のイメージを現出しうる俳句の、これまで作られてきた膨大な量を蓄積したデータベースとしても読みたくなってくる。

 再び〈美しいデータとさみしいデータに雪〉の句に戻る。「データ」は、それ自体には形はなく無機質な数字の羅列なのだが、人間に「美しい」というポジティブな感情と、「さみしい」というネガティブな感情を生じさせる二面性を有している。また、「データ」つまりデジタルの概念そのものが世界を分節化して表現しようとする二元論によって成立している。そのデータの一つ一つが雪の一片一片にも見えるし、雪がばらばらのデータの上に降り積もって白一色で塗り重ねるイメージも浮かぶ。

 掲句における「雪」とは、このような二元論を、一元論、つまり人為によって分節化される以前の混沌の世界をそのままに感受させてくれる自然の力ではないだろうか。そう考えてみると、『玉響』帯文の「からだもこころも食べ物も飲み物も/喜びも悲しみも山も海も」というばらばらに思える事物の羅列が、統合されたひとつの「アナログ」の宇宙として感じられてくる。つまり「からだ/こころ」「食べ物/飲み物」「喜び/悲しみ」「山/海」という同一カテゴリー内における対比だけでなく、例えば「からだ」と「山」、「こころ」と「海」などのカテゴリーを超えた事物が、一つの「アナログ」的感性では繋がってくるのである。

 そしてその宇宙では、「データ」すら、人間という「アナログ」な生物が生み出したのだから、「アナログ」の一部と言ってよいのではないだろうか。正木ゆう子俳句における「アナログ」とは、デジタルは対立概念ではなく、デジタル的な人間性をも包み込む、掲句の「雪」のようなものとして思われてくる。

英国Haiku便り[in Japan](52)  小野裕三

 グレン・グールドの愛した俳句的小説

 夏目漱石の作品は英語の翻訳書もいくつもあるし、彼の滞在したロンドンには漱石を記念する小さな施設もある。とは言え率直に言って、漱石は決して西洋では有名ではない。少なくとも僕がイギリス人と会話して、漱石の名前が触れられたことは未だにない。だが、漱石に注目する西洋人がいないわけでもない。

 カナダの著名なピアニスト、グレン・グールドは漱石の作品をこよなく愛したらしい。グールドは決して日本文化全般に関心が深かったわけではなく、来日の経験もない。だが、なぜだか漱石のみを彼は好んだ。彼は英訳された漱石の本をすべて持っていただけでなく、読めないのに日本語で書かれた漱石の本も集めていたとか。中でも特に彼は漱石の一冊の本を愛読した。だから彼がこの世を去った時、彼の枕元には二冊の本が置かれていた。その一冊は聖書、そしてもう一冊が漱石の『草枕』。彼は、カナダのラジオ放送局で『草枕』の一章を朗読したというし、『草枕』を元にしたラジオ劇を彼が企画する構想まであったらしい。

 こんな『草枕』や漱石をグールドが深く愛した事実がまったく世間に知られていないのは理由があって、グールドを論じる西洋の音楽研究者は誰も漱石についての知識などなく、それゆえにこの事実が注目されることもなかったらしい。

 「詩人とは自分の屍骸を、自分で解剖して、その病状を天下に発表する義務を有している。その方便は色々あるが一番手近なのは何でも蚊でも手当り次第十七字にまとめて見るのが一番いい。」

 こんな『草枕』の一節を西洋人の天才ピアニストはどう思って読んだのか。一体、何が彼の心を掴んだのか。『草枕』は、漱石自身が「普通にいふ小説とは全く反対」で「美を生命とする俳句的小説」(「余が『草枕』」)と位置づけた独特な作品だ。作品中にはいくつも俳句が登場し、主人公はしきりと俳句の推敲に頭を巡らせもする。とすれば、グールドは『草枕』を通じて俳句の世界にも深く触れたとも言え、いよいよ謎は深まる。

 漱石はこの作品を「唯だ一種の感じ——美くしい感じが読者の頭に残りさへすればよい」として、「この俳句的小説が成立つとすれば、文学界に新らしい境域を拓く訳である。この種の小説は未だ西洋にもないやうだ」とも言う。まさに西洋にない独特の俳句的美学を小説形式に導入した作品が、グールドという西洋の偉大な音楽家を虜にした事実はどれだけ注目してもしすぎることはあるまい。

 果たしてグールドの音楽は間接的であれ俳句から何かを学んだのか。そのことは実証が難しいが、彼に限らず、必ずしも自らhaikuを作らずともhaikuの影響を何かの形で受けた、という西洋の芸術家はけっこういるのではないかと思う。


※グールドの漱石への関心のことは、「Glenn Gould and Natsume Soseki」https://dajf.org.uk/event/glenn-gould-and-natsume-sosekiが詳しい。写真も当サイトより引用。

(『海原』2024年3月号より転載)

【連載】現代評論研究:第6回総論・戦後俳句史を読む(私性)

吉澤・筑紫・堀本鼎談

吉澤:川柳ではもともと私性というものは追求されていなかった。発生的に自分の思いを相手に伝える手段として発達してきた和歌と違って、古川柳は作者個人の名前が必要ではなかった。「母親はもつたいないがだましよい」という古川柳の書き方と、現在のサラリーマン川柳の書き方とは、読者が作者名を気にしなくてよいという点で同じである。サラリーマン川柳だけでなく、大結社の句の多くもそうである。新聞の見出しレベルのものとか、道徳的な教訓とか、そういう句が多い。

筑紫:俳句では、客観写生句と主観句がかなり早くから分化していた(大正初期)。難聴の村上鬼城、吉野に隠棲していた原石鼎、絵師の渡辺水巴などは後者の代表であるし、療養俳句や生活苦を詠み続けた石田波郷系統の作家もこれに次ぐ作家たちである。私小説の影響を受けていた波郷系統の作家は境涯俳句と呼ばれており、たぶん川柳で言う「私性」が強いと思われる。しかし、戦後の俳句はこうした傾向はほとんど無くなっている。私俳句というと、古い境涯俳句と誤解される可能性がある。

 春寒やぶつかり歩く盲犬       村上鬼城

 生きかはり死にかはりして打つ田かな

 冬蜂の死にどころなく歩きけり

 桔梗や男も汚れてはならず      石田波郷

 綿虫やそこは屍の出で行く門

 現代ではこういう境涯性を詠む作家は極めて少ないのではないか。今の関心は、うまさやテクニックである。

 秋の淡海かすみ誰にもたよりせず 森澄雄

 寒晴やあはれ舞妓の背の高き 飯島晴子

 うつくしきあぎととあへり能登時雨 飴山実

 ほとんどそこに私性がないであろう。

吉澤:川柳では古川柳や狂句から脱して近代的個を獲得するために、明治以降多くの努力がなされてきた。現在でも川柳人は「自分の思いを吐け」と教えられている場合が多いようだ。他の誰でもない、かけがえのない自分自身を確立するためである。しかし、そのことは《作中主体=作者》という構図を強固なものにした。川柳人の読みでは、書かれているのは作者自身の経験であり、思いであると理解されることがほとんどである。句は、その背後の作者の実体験や思いによって保証される。だから、何が書かれているかが関心の大きな部分を占める。その意味で、時実新子は私性川柳として読まれたと想像している(もちろん、新子の評価はそれ以外の面を含めてなされるべきだが)。境涯句ももちろん私性川柳である。

 悲しみは遠く遠くに桃をむく   時実新子

 別れねばならない人と象を見る

 一束の手紙を焼いて軽くなる   

 灯台の届かぬ海に置く心

 あかつきの梟よりも深く泣く

 真夜中の玩具の猿が止まらない

 これらの句を、多くの読者は時実新子の体験に裏付けられた時実新子自身の心理と読み、その個人的な悲しみに共感したのだろうと想像している。

筑紫:読者を意識した女性俳句を私は劇場型俳句と呼んでみた(「俳句」7月号大特集<女性俳句のこれから>より「劇場型から深慮まで」)。短歌で言えば与謝野晶子のような初期型の女性俳句に多い。これらは、時実に匹敵する女としての私性(境涯性)があると言ってよいだろうか。

 短夜や乳ぜり泣く子を須可捨焉乎(すてちまおか) 竹下しづの女

 汗臭き鈍(のろ)の男の群れに伍す

 足袋つぐやノラともならず教師妻         杉田久女

 たてとほす男嫌ひの単帯

 月光にいのち死にゆく人と寝る          橋本多佳子

 雄鹿の前吾もあらあらしき息す

 雪はげし抱かれて息のつまりしこと

 体内に君が血流る星座に耐ふ           鈴木しづ子

 まぐはひのしづかなるあめ居とりまく

 コスモスなどやさしく吹けば死ねないよ

吉澤:印象としては前掲の時実の句と同じと感じる。

 社会性や女性性という主題主義は、川柳の質の変化というより、《大きな物語の崩壊》という時代の変化によって有効性を失っていった。主題主義が有効性を失ったからといって、川柳では技巧万能主義にはなっていない。大きな主題の代わりに、個々の思いに共感してもらいたい、あるいは共感したいということをポイントにして、書かれたり読まれたりしているからだろう。

筑紫:俳句も、社会性俳句、風土俳句、前衛俳句と主題性をもった俳句が続いたが、昭和年代を持って終焉した。俳句は角川書店の秋山実の戦略により、「結社の時代」(実際は、俳句上達法の時代)に突入し、ほとんどの結社主宰者がこれを受け入れたため、川柳とは違い、技巧・技法万能主義に陥っている(つまり文学性の忌避)。ただし、俳句の本質が実は技巧・技法ではないかという気も多少はしなくはないのである。最も目先の利く俳人楠本健吉は俳句はレトリックであるとも言っている。これは俳句本質論として、慎重に考察してみないといけない問題である。

吉澤:実は、戦後川柳を牽引した中村富二も「川柳に残されたものは技術だけだ」という意味のことを言っている。短詩にとって興味深い問題だと思う。

 話を共感に戻すと、この共感というものが曲者である。共感しにくい句(例えば、イメージの句、虚構の句、コトバ自体のつながりや連想などによる句)は、受け入れられにくい。実生活のどこの部分に落とし込めばいいか、わからないからである。多くの場合、難解句として無視される。実生活のどこかに基盤を持たない(あるいは基盤が見つけにくい)、非日常の感覚を題材にした句は共感を得にくい。

筑紫:ここではあえて深く触れないが、季語を入れてしまうとなんとか共感が成り立ってしまうという効果が俳句にあるのは事実だ。全詩歌分野で、最も激しく喧嘩している割には、もっともお互いの共感が近いところにいるのが俳人たちである。季語を使う使わないを問わず、伝統派であっても前衛派であっても芭蕉をはじめとする作家の名句についてはほとんど共感し合っている。

吉澤:さらに、川柳が句会大会を中心として回ってきたという事情がある。選者に取り上げられることを「抜ける」というが、抜けるか抜けないかというオールオアナシングの世界である(選評を言う句会大会はごく一部である。ほとんどは句を読み上げるだけである)。選者の共感を得られない句は日の目を見ることがない。となると、選者にわかってもらえることが優先されるだろう。俳句と比較して、川柳では読者論がより必要ではないかと思われる。句会大会中心主義には一長一短があるが、短所を挙げると、川柳評の発達を促さなかったことと、句集を出すという発想を育てなかったことである。

筑紫:俳句は、結社雑誌の雑詠俳句欄を中心に回っている。句会は、雑詠を補完する修練のための場であり、ここで提出した句も雑詠の主宰選を経ないと認知されない。更に雑詠に投句された句をまとめて最終的に主宰の最終選を経て、句集名を頂いて、序文を賜って、角川の何とかシリーズに入れてもらって、はじめて句集が出来上がる。およそ句集に収録されない名句は存在しない。「戦後俳句を読む」でも必ず句集名が載っているのはこうした理由である。

 主宰は1回の句会で句の価値を決定するのではなくて、雑詠欄の長い投句傾向の中で人格的評価も含めて行うので吉澤のいう(大会で)「選者に分かって貰える」という感覚はわかりにくい。選者に(自分の人格を含めて)分かってもらえるから弟子になるのである。あるいは、選者に人格的に没入してその価値観に所属するから所属結社が決まるのである。その意味で結社内でしかわからない句もしばしばある。

吉澤:俳句の句集がそういう経緯でできるとは驚きだった。主宰ということの意味が川柳とは全然違うようだ。先輩に聞くと、30年ほど前は主宰にかなりの力があったようだが、現在では、川柳の結社の主宰にはそういう力はない。自分の句集を出すのに誰かの許可が要るという発想は、川柳にはない。評価にしても、川柳誌で同人作品の選評を外部の人に依頼するということはよくある。「雑詠欄の長い投句傾向の中で人格的評価も含めて行う」ということは、優れた評者を抱えている一部の誌では可能だが、多くの川柳誌では難しくなっているのではないか。また、大会で「抜ける」ことが一つの評価になるが、投句は無記名であり、選は作者名がわからない状態で行なわれるので、一句一句の単独の評価になる。

筑紫:話をもどして女性作家の私性を論ずる際に、時実と対比したく思うのは、「戦後俳句を読む」の中で土肥あき子が取り上げている稲垣きくのである。女優として、20代には東亜キネマ、松竹映画に出演。1937年、大場白水郎の下で投句を開始、戦争で一時中断後、戦後久保田万太郎を師としたという経歴自身、戦後の劇場型女性俳人の代表と言えるかもしれない。土肥あき子の力作鑑賞のおかげで、鈴木真砂女よりはるかに面白い作家として浮かび上がってきている。今まで取り上げられて来た句を見ても、

 夏帯やをんなの盛りいつか過ぎ

 つひに子を生まざりし月仰ぐかな

 バレンタインデーか中年は傷だらけ

 まゆ玉やときにをんなの軽はづみ

 牡丹もをんなも玉のいのち張る

 先立たる唇きりきりと噛みて寒

 噴水涸れをんなの欠片そこに佇つ

 かなかなや生れ直して濃き血欲し

 私性(境涯性)は濃厚に現れていると思うが、やはり俳句としての特性ゆえか、季語との配合を配慮し、それによるぎりぎりの抑制を図っていることであろう。俳句にあっては、私性(境涯性)はBGMであり、本質は表現の巧緻さを競っているのである。

 例えば、冒頭句の「をんなの盛りいつか過ぎ」では全く昼のメロドラマに堕してしまう内容を、「夏帯や」という季語と切字を配することで芸として昇華させていると見るべきだろう。多くの俳人であれば「をんなの盛りいつか過ぎ」の手柄を20点、「夏帯や」という配合を80点と評価するのではなかろうか。

吉澤:川柳人は「夏帯や」にあまり点を配分しない。ほとんどの川柳人にとっては、どんな思いが書かれているかが関心事であるため、「をんなの盛りいつか過ぎ」という作中主体の感慨に焦点をあてて鑑賞し、評価するだろう。「夏帯や」は、「夏帯をした時の」ぐらいの情況背景と理解する。「夏帯や」の80点がないわけであるから、この句は川柳では平凡な感慨の句となり、評価は高くないだろう。さらに、現代の生活で帯をする女性、しかもそれをただの帯ではなく「夏帯」と感じられるほど和服を着ている女性がどれほどいるだろうかと、一句を鑑賞する前に思ってしまう。私個人に「夏帯」というものの実感がない。それも「夏帯や」を評価の対象にできない理由だろう。

 あるいは、前掲の「真夜中の玩具の猿が止まらない」の句で、止まらない玩具の猿を心理状態の喩と読むように、「夏帯」とは何の喩であり、何を象徴しているのだろうと考える川柳人は多いかもしれない。

 「俳句としての特性ゆえか、季語との配合を配慮し、それによるぎりぎりの抑制を図っていることであろう」という季語による抑制は、もちろん川柳では不可能である。ではどうなるかというと、「一束の手紙を焼いて軽くなる」「灯台の届かぬ海に置く心」「あかつきの梟よりも深く泣く」などのように、一句を私性でストレートに充満させるか、「悲しみは遠く遠くに桃をむく」「別れねばならない人と象を見る」などのように、「桃をむく」「象を見る」のように落としどころを作るか、ということになる。この落としどころとは、問答体の書き方での答えに当たる。こう考えてみると、あまりに当たり前すぎる感想だが、季語の機能の違いだなと改めて感じる。

筑紫:20点、80点の話は私の誇張もあるが、私の言いたいことを典型的に言うとこのようになるのではないかということで書いた。

 例えば俳句においては100年も前にこんな議論が行われたことがある。正岡子規の唱道した写生法は、その結果、印象明瞭の句を多く生むようになった。あたかも眼前に実物・実景を見るように感じさせるもので、これを「直叙法」の句と名づけた。直接叙述する、いきいきと表現すると言うことだ。一方、直叙法の反対の描写法を「暗示法」と名づけたが、これは本体を彷彿とさせ、輪廓を描かずして色を出そうとする方法と言えた。暗示法の句は余情余韻に富むと言う。

 「直叙法」の句はすでに(子規没後10年ほどで)複雜・精緻に進んで俳句表現において限界にきているが、「暗示法」はまだ複雜にも精緻にも進む余地がある。「暗示法」は特性を指示して本体を彷彿させるから、連想の範囲が広くかつ自由である。我々の心動かされる性格美を直接に叙述しようとすれば多くは「暗示法」になるのである。

これは大須賀乙字という俳人の主張であり、彼は、

 赤い椿白い椿と落ちにけり   碧梧桐

 若鮎の二手になりて上りけり  子規

の二句を「直叙法」の代表とし、この傾向はもう限界に来ていると判断した。そして

 思はずもヒヨコ生まれぬ冬薔薇 碧梧桐

を「暗示法」とした。ヒヨコと冬薔薇は直接関係ないが、あえかに生まれるヒヨコの可憐さは冬薔薇と対比するとひときわよく浮かび上がる。少なくとも何が何したという「活現法」とは句のふくらみが全く違う。

 一読して分かるように、これは必ずしも新しい文学運動の提唱ではなく、正岡子規以降の俳句の変質に関する観察だったが、同時代の人はこれを新傾向運動とよんだのである。

 前述のきくのの句で言えば「夏帯や」は季語夏帯の暗示法的利用である。夏帯が何々であるからとは言っていないから「直叙法」ではない。ただ、一句全体をある雰囲気で盛り上げているだろう。

 吉澤の議論の中で特に面白いと思ったのは、<現代の生活で帯をする女性、しかもそれをただの帯ではなく「夏帯」と感じられるほど和服を着ている女性がどれほどいるだろうかと、一句を鑑賞する前に思ってしまう。私個人に「夏帯」というものの実感がない。>といっているところである。俳人の大半も「夏帯」に川柳作家と同じ実感のなさを感じている(「戦後俳句を読む」を読んでいる人は夏帯を締めたことのない人ばかりだ)が、だからこそ頭の中の幻想として(あるいは歳時記の中の知識として)季感や過去の伝統を感じてしまうのだ。

堀本:筑紫&吉澤の両者の議論に触れて、触発されるものがあった。

 川柳で言う「喩」とは、俳句が季語を詩語としてみようとする方法の開拓とはすこし違うようだ。

 全般に、現代俳句は一句全体の喩的効果(詩語化)をもとめて現代詩に近づいている。川柳の「喩」はそう言う意味で現代詩に近くなるのかどうか、そこは未だよくわからない。

 上の両者の応答に即して言うなら、季語論の進み方を見ると、たとえば「夏帯」、この言葉それ自体を独立した言語空間(共感の場)として定式化しようとする志向がある。「季感」もある意味では実感そのものではない、さらに季語の共同性を土台にして「喩性」「象徴性」を季語の概念に加え、そこに架空の関係を想定して行くのである。「夏帯」を季感で見るか、喩的に読むか、どちらに重点を置くか、など、一つの言葉に様々な喩の広がりの機能を与えようとする。その季語空間に取り合わせる(関係づける)別の世界がまた取り合わされてゆく。・・「季語」の言葉として生かし切るならば、季節感を越えた詩的空間を作る方向が出てくる。「季語」という言い方がすでにふさわしくないのかも知れないが、季感のみの概念ではない。筑紫もいうように、このことは昔から反省もされ新しい試みもなされていることである。今では。詩語としての季語という考え方は一般的に受け入れられており。随分柔軟になっている。

 川柳では、「喩」と言う場合、それ以外の言葉や情景に直接的に結びつける用いかたなのだろうか?それとも独自な「川柳喩」というべき詩的言語空間を構想するのだろうか?

 川柳の読み方からして、季語の配分を重くしないという理由は分かる。しかし。逆に、夏に用いる絽とか紗の「帯」だけだと即物的指示性の強いものから引き出す「夏の帯」の日常的イメージばかりでは、色っぽいとか、涼しい、から転じて、例えばエロス性という形にしかおさまらない。でもこれではかえって「夏の帯」が存在感、イメージや意味が固定されてしまう。俳句が「季語」の呪縛を逆手にとって想像世界をふくらませようと試行錯誤しているところを、ともに楽しむ必然性がないのだから、面白くないのは当然である、(もっとも、俳人の中にも、そこまでは季語に固執しない傾向もでてきている。)。俳句では、一物仕立ての俳句にあっても、二句一章の場合ほどは極端にあらわれないが、それでも。「夏帯」が句の中にあるとないとでは、ちがうなあ、というところがあるはずだ。筑紫の例を再見すれが、「暗示法」の発見は俳句の技法に大きな影響があるのではないだろうか?

 吉澤が言うような「川柳の喩」をこれから注意して見てみたいが、他の言葉との喩的な結びつき方、はまだわたしには上手く見えてこない。何かを喩えていたとしても、俳句からというより「詩」としては物足りないと感じることが多い 一応のまとめをしてみると、川柳が「夏帯」を「喩」として考えるあり方と、俳句で季語「夏帯」を「喩」であると概念化する考え方とでは、微妙な違いが出てくるようだ。

 これは、逆に、俳人が川柳の「うがち」とか「滑稽」を、川柳固有の味わいとして取りるときに、川柳固有の歴史性がなかなか摑みにくいゆえに、誉めていても相手は誉められた気がしないらしいことと、よく似てくる。双方の、隣の芝生を誉めたり批評したりする場合に、詩形の性格についての無知無理解が多少とも克服される必要がある。歴史的に積み重ねられてきた川柳の良さを損ねないで。より深遠な世界を表現する技巧の開発をいまなそうとしている、ということなのだろう、と思いたい。

筑紫:俳句が求めているのは明らかに「俳句らしさ」である。俳句が何であるかを決めないで「俳句らしさ」と定義するのもひどいものだが、俳句はそうしたメタ的な定義しかできないものである。季語とか切字はそうした「俳句らしさ」を保証するものであり、無季俳人は季語を使わないで「俳句らしさ」を獲得しようとする特殊な(お茶目な)一派である。堀本説に関連して言えば、何れにしても「季語」は西洋詩学的な「喩」ではなくて、俳句らしくする道具であるのだろう。「亀鳴く」は絶対比喩にはならない(もちろん、妻の横暴に夫が泣くのは「喩」であるが)。昔からの俳句の道具なのだ。単なる道具だからこそ、その自由さから「暗示法」が成り立つのだろう。

 そうすると、川柳は非俳句であるとすれば、「俳句らしさ」を求めない575詩型と定義されることになるだろうか。つまり、詩、短歌と同様詩的論理に従って解釈されるべきものではなかろうか。

 だから俳句から川柳を考えるより、詩→川柳→俳句と遠心方的に考えたほうが間違いが少ないように思う。虚子は俳句を「後方文学」としている。俳句はあらゆる文学の中で最も後ろから出てゆく文学なのである。詩、川柳、短歌のように前方にあってはならないという戒めである。

吉澤:堀本の「言葉それ自体を独立した言語空間(共同観念)として定式化への志向があるという気がする」という発言は同感である。俳句には季語という共有財産があって、俳句を書くということは、言い方は悪いが、季語とどう付き合うかということであるような気がする。それは筑紫の「季語とか切字はそうした「俳句らしさ」を保証するものであり」という意見と通底していると感じる。

 季語という共有財産を巡って、肯定であれ、否定であれ(無季自由律がそうなのかと思うが)、それに何を付け加えていくか、という発想が俳句にはあるのではないかという気がする。季語という伝統装置を典型的に象徴するのが歳時記ではないだろうか。一つの季語に対してどう爪跡をつけてきたかという集積が一冊の書物になっている。個々の俳人にとって壁でもあり、スプリングボードでもあったのが季語ではないかと思われる。壁であっても、スプリングボードであっても、俳人は季語と対峙することで多くの佳句を産み出してきたのではないかと思う。自明の壁(もしくはスプリングボード)を持たない川柳人からすると、それが川柳と俳句の違いの最も大きな点の一つかなと思う。

見渡せば花も紅葉もなかりけり浦の苫屋の秋の夕暮れ    定家

 定家は「花」も「紅葉」も書かないことで、逆に鮮烈に「花」と「紅葉」を書いた。「花」と「紅葉」の不在は、読者に強烈に「花」と「紅葉」についての想像を刺激することがわかっていたからだ。どのような「活現法」もこのような効果を持つことはできないだろう。ただし、その前提として、「花」と「紅葉」の重要性とイメージが読者に共有されていることが必要である。定家のその仕掛けと、筑紫の「俳人の大半も「夏帯」に川柳作家と同じ実感のなさを感じている(これを読んでいる人は夏帯を占めたことのない人ばかりだ)が、だからこそ頭の中の幻想として(あるいは歳時記の中の知識として)季感や過去の伝統を感じてしまうのだ。」という意見とは、同じ心理構造を言っているのではないか。和歌では季語とは言わないが、季語のような伝統装置が作句の際に働いているのは同じである。そうであれば、その俳句と和歌(短歌といえるかどうか)との類縁性から、川柳は少し離れている。


【連載】現代評論研究(第6回)各論―テーマ:「色」その他― 執筆者:藤田踏青、土肥あき子、飯田冬眞、堺谷真人、岡村知昭、しなだしん、筑紫磐井、北川美美、深谷義紀、吉村毬子

投稿日:2011年07月08日 

―1 近木圭之介の句/藤田踏青

 心に絵の具とり散らしていた

 掲句は「ケイノスケ句抄」所収、昭和39年の作であり<自画像>の1篇。画家でもある圭之介にとって、「色」とは心象風景にとても身近な存在であった。心そのものにパレットナイフで色々な色を直接に塗りたくっている様であり、白い空間と絵の具の凹凸感が心もようの起伏を描き出している。

 心に一つの色彩をもち雪の純白         昭和31年作

 心 黒い手袋をする              昭和49年作

 同じ<自画像>の中の句であるが、こちらは陰画(ネガ)のごとく、心に印画されている。特に後句は前に述べた「黒」の意識を強く押し出した作品である。この作品については「この黒い手袋の指先に閉じ込められた楕円の闇の実体を引きずりだす行為がその創作の原点だ」と評する者もいた。ちなみに、この作品に先立って下記の圭之介の詩が存在している。

  『黒のある風景』

 漆黒の蝶がとんでいた

 帯の様な海峡に碇泊している船も黒い

 〈マストに三角の旗が音もなく上る

 街の上の枯れつくした丘に

 黒い手袋のひとがひとりいた

 これは「近木圭之介詩抄」所収、昭和27年の詩である。句と詩作品にある「黒い手袋」の主体は当然、作者自身でもある。鬱屈したものは自己の心だけではなく、蝶や船やそれを取り巻く時代そのものであり、それらを押し隠すごとく「黒い手袋」が一人の人物に貼り付けられている。このモノクロの世界は愛読していた「コクトオ詩抄」(堀口大学・訳)の影響もあり、それがデッサン化したものとも考えられる。コクトウ自身、デッサンに熱中した時代があり、それを彼は<図形による詩>とも称していた。尚、この「コクトオ詩抄」は山頭火が何度も圭之介から借り出して読んでいたそうである。

 自画像の顔の不機嫌をまたぬる          昭和30年作

 自画像 青い絵の具で蝶は塗りこめておく     昭和41年作

 私に棲む青いガラス質の一匹です         昭和57年作

 自画像関連の句であるが、「塗る」行為の対象とは時間であり、異物であり、秘すべきもののようでもある。また「青い絵の具」や「青いガラス質」の喩とするところは、詩人としての純粋性と繊細さであろう。そしてその圭之介の一行詩的な傾向は、昭和51年に荻原井泉水が亡くなってから、より一層顕著になったように思われる。それは井泉水の自由律俳句論を受け継ぎつつも、それらを超えて圭之介自身の新たな自由律俳句の展開が始まった事をも意味している。

 何処いくんだネ 原野に赤い三輪車        平成6年作

 路地裏だ 赤い自転車一つみだら         平成10年作

 赤という色にはまがまがしさが漂っているが、赤い三輪車は原野という解放的な未知の人生における端緒を示しており、赤い自転車は結果としての現実世界の帰着点を示しており、共に心象風景の中で展開してゆく圭之介ミステリーでもある。


●―2 稲垣きくのの句/土肥あき子

 あぢさゐにうづまりて死も瑠璃色か

 『冬濤以後』に所収されているきくの63歳の作である。広辞苑によると瑠璃色とは、紫色を帯びた紺色とある。また他の辞書では、薄青色、深い紫味の青、濃い赤味の青と一定しない。掲句では紫陽花の色としているが、この美しいけれども不安定な、どこか定まらぬ色こそが、きくのの瑠璃なのであろう。瑠璃色については他にも

 色鳥の抜羽ひろひぬ瑠璃濃ければ(『冬濤以後』所収)

 草の実のるり色燦と枯はじむ(『冬濤以後』所収)

と、きくのはときに手にとり、ひときわ目を留める色であった。

 きくのの随筆集『古日傘』のなかに、「自分の色」というエッセイがある。そこには、自分の身につける服装の色に関して「赤色はむやみに興奮させ、黒色は大声で笑えなくなる、白色は静かに眠って胸の上に両手を組みたくもなる」とユーモアいっぱいに書かれている。続いて「この頃のように明るい色彩の中に溺れていると、何だか軽佻浮薄に流れやすいような気がする」とあり、電車で見かけた海軍士官の制服の紺色を「この紺の美しさは生涯なにかにつけおもい出す色であろう」と締めくくっている。ゆるぎない紺色を「考えても息が弾むような気がする」ほど美しいと思うきくのにとって、瑠璃色とは紺色に近い色として認識していたのだろうか、はたまた大胆で派手なあくどい彩りとして映っていたのだろうか。

 きくのが参加していた「縷紅」昭和17年8月号に35歳のきくのが詠んだ掲句と対となすような句を見つけた。

 紫陽花やこころ憂き日は瑠璃濃ゆく

 若く美しいきくのの目に物憂げに映った瑠璃色は、先に引いた30年を経た63歳になっても繰り返し鬱蒼ときくのを責めているのだった。美しく咲き誇る大ぶりの紫陽花の毬に囲まれたとき、そのしずかな潤いのなかに立っていることに目眩のような不安がよぎる。

 きくのが好んだ牡丹にも薔薇にも、その色は存在しない。紫陽花だけが見せる瑠璃色には、美しい紺色を思わせながら、払っても払っても追ってくる死の横顔が貼りついていたのかもしれない。

 瑠璃かけす美し老後など欲しくなし(『冬濤以後』所収)


●―4 齋藤玄の句/飯田冬眞

 青き踏むより踏みたきは川の艶

 色の句を探して全句集収録句を幾度となく逍遥した。2800余の句を行きつ戻りつしているうちに、感覚が麻痺してきた。字面の色を探しているうちに、言葉の作用によって景が立ち上がり、そこに色彩がまとわり付いてくる。ことに、字面には現われないが、季節自体にも色調をあてはめて感受している自分を発見して驚いた。

 中国古代の五行説では、色と季節を対応させている。日本の文人もその影響を強く受けて詩歌を残してきた。つまり、春は青、夏は朱(赤)、秋は白、冬は玄(黒)というものだ。熟語にしてみると、「青春」「朱夏」「白秋」「玄冬」となり、いずれも季語である。現代においてもなお、色と季節を対応させて世界を認識するという枠組みは、俳句の季語に色濃く残っている。

 色の代表句を選ぶということは、その作家を表す季節を選ぶということにもなる。では、われらが齋藤玄を色で表すならば、何色だろうか。真っ先に思い浮かぶのは、俳号に見える「玄」すなわち黒色だ。黒の句といえば、次のもの。

 玄冬の鷹鉄片のごときかな 昭和16年作 (*1)

 一読して、冬空を飛翔する鷹の姿が見えてくる。分厚い雲に覆われた厳寒の冬空は、「玄冬」の語こそふさわしい。作者のうえに重くのしかかる冬空は、戦争に突き進んでいる時代の空気と自身の生活を支配する存在を象徴していると読むことも可能だ。権威、権力、圧力を加える支配者。自己を抑圧するすべてのものの象徴が「玄冬」に託されている。そして「玄冬」に挑むかのように「鷹」は冬空の高みへと向かって飛ぶ。鷹はみるみる小さくなる。まるで鉄の破片のようだ。その小さな「鉄片」が大きな空に突き刺さっているように見えた。小さな鉄片が、凍てついた冬の空を突き破れば、光に満ち溢れた春の青空が広がるだろう。けれども冬の空はいともたやすく鉄片を跳ね返し、何事もなかったかのように作者を見下ろし続ける。

 冬空を舞う鷹は、当時27歳の齋藤玄自身の投影だろう。まだ本名の三樹雄を名乗っていた頃だ。空を見上げながら三樹雄は、これまでの人生と自分をとりまく人間たちのことを考えていたに違いない。

 昭和13年春、齋藤玄は早稲田大学を卒業した。満州での就職を希望していたが、祖父の強制で函館に帰郷。祖父の斡旋で北海道銀行函館支店に就職。孫の顔を見てから死にたいという祖父の願いに服して、昭和14年1月、25歳で結婚。5歳のときに父を亡くした三樹雄を経済的にも精神的にも支配していたのは、明治後年に函館の地に移り住み、一代で函館市の名士にのし上がった祖父だった。祖父の言いなりになって銀行員として暮らす三樹雄の鬱屈は想像するに難くない。そんな忸怩たる内面を抱えた三樹雄を驚かす事件がその後、相継いで起こる。

 15年2月、大学時代、従兄の杉村聖林子に誘われて参加した「京大俳句」が終刊。3月、「京大俳句」で指導を受けた西東三鬼と石橋辰之助が、それぞれ句集『旗』、『家』を刊行。5月、「京大俳句」に誘ってくれた従兄の杉村聖林子と石橋辰之助が京都府警に検挙(第2次 京大俳句事件)。8月、西東三鬼が特高警察に検挙。9月、日独伊三国同盟結成。

 そうした世情に呼応するかのように同年10月、26歳の三樹雄は「壺俳句会」を結成し、「壺」を創刊する。「鉄片」として「玄冬」に挑んだのだ。三樹雄は創刊号発刊の言葉として、新興俳句運動の「指導的機関建設の埋石」になると記している。

 16年3月、小野蕪子から「壺」主宰を辞任するならば「鶏頭陣」に同人として迎える準備があるという主旨の脅迫めいた手紙が届く。小野は京大俳句事件の黒幕と目される人物で、前年12月に発足した「日本俳句作家協会」の常任理事である。16年6月、長女誕生。句集には「吾子出生 八句」と「赤ん坊(二十二句)」が残る。平穏な日々が続くかに見えたが、国家権力による新興俳句弾圧は、三樹雄にも及んだ。「京大俳句」「天香」で西東三鬼・石橋辰之助らの指導を受けたという理由から函館特高警察や憲兵の来訪をしばしば受け、蔵書を押収された。

 「玄冬の鷹鉄片のごときかな」はこうした時代背景のなかで生まれた青年の鬱屈と自由への憧憬に満ちた頌歌である。青春俳句史の一隅に記されてよい佳句といえる。しかし、この頃の玄(三樹雄)は、いまだ五行説の枠組みから出ていない。それは、春を前提としての「玄冬」を斡旋し、眼前の鷹に自己を投影させるという作句姿勢からもあきらかだ。唯一「鷹」を「鉄片」に見立てた比喩がこの句に個性を与えている。

ここで、掲句を見ていこう。

 青き踏むより踏みたきは川の艶 昭和50年作 (*2)

 「青き踏む」は、三月はじめの巳の日(上巳)に青草を踏み、酒宴を催したという中国の風習「踏青」が日本に伝わったもの。墓参の後、桃の花を愛でながら逍遥するさまが唐代の詩に詠まれている。今は三月三日に限らず春の野辺を散策することをいう。

 半歳の雪が消えて、蘇った青草は懐かしく美しい。川べりの散策はいつか川面の艶に見せられ、そこへ足を踏み入れたほうが余計愉しいと思った。(*3 自註)

 この句の一年前(昭和49年3月)、玄は胆嚢炎を患い、滝川市立病院での入院生活を余儀なくされた。このまま死んだら病室の窓から見える春の山を瞼に焼き付けて、あの世に持っていくつもりだった。川べりの青草を踏みしめながら玄の胸中をよぎったのは、一年前のあの想いととともに、生きて歩けることの意味だったのではないか。それが「青き踏む」から読み取ることができる。だが、この句を単なる春の喜びの感懐に終わらせていないのは、季語に寄りかかるのではなく、むしろ季語の枠を乗り越えようとしているところにある。だからこそ「より踏みたきは」と、あえて句またがりにして韻律を崩しているのだ。そこに既成の季語の情趣を打ち破ろうとする意欲を感じる。「川の艶」とは、陽光に反射した川面の光沢をさす。色として知覚する前段階の「光」そのものをとらえた玄の目は、色からも季節からも自由に解き放たれたといえるのではないだろうか。


*1 第1句集『舎木』 昭和17年 北海道俳句作家連盟出版部発行 『齋藤玄全句集』昭和61年 永田書房刊 所載 

*2 第5句集『雁道』 昭和54年永田書房刊 『齋藤玄全句集』 昭和61年 永田書房刊 所載 

*3 自註現代俳句シリーズ・第二期16『斎藤玄集』 昭和53年 俳人協会刊


●――5堀葦男の句/堺谷真人

 蝙蝠(かわほり)や入江晩紅さめつくし

 遺句集『過客』(1996年)所収。1986年から1988年、昭和の終焉を目前にして日本経済が空前の活況に沸いていた頃の作品から成る、第2章「海景」の句である。

 僻陬の漁村であろうか。ぎらつく夏の太陽が水平線に没したあともしばらく、海と空は奇蹟のように荘厳な茜色に染まる。岬に黒々と抱かれた入江。とろりと凪いだ海面。きらめく残照。しかし、家々に灯りがともる頃、入江一面に揺曳していた紅は光を失い、夜の闇と溶け合いはじめている。ふと仰げば、夕映えの名残の中、蝙蝠のかそけきシルエットが幾つもひらひらと宙を舞っているのであった。

 葦男は俳句における形容詞の使用に慎重であった。形象性の追求は「物のかたち」を徹底的に観る姿勢となって現れた。色彩表現も例外ではなく、筆者の参加した句会の席では、「赤き○○」「白き△△」「黒き□□」等々、色彩を表す形容詞の限定用法は説明的であるとして退けられた記憶がある。

 一方、葦男の実作を見てゆくと、色彩を名詞、つまり体言として使用する例が目に付く。冒頭の句の「晩紅」がまさしくそうであるが、代表句である「ぶつかる黒を押し分け押し来るあらゆる黒」をはじめとして、次のような作例には事欠かない。

 死の国の黒葉桜のはしばしに 『火づくり』

 ぎんなんのさみどりふたつ消さず酌む 『朝空』

 川幅を天の黄金冬すすき 『朝空』

 常識的見解に従えば、色彩は重さや固さ、においや温度などと同じく形ある物の属性のひとつである。しかし、色彩語の名詞的用法は、時に色そのものに独特の質感、存在感を賦与することがある。例えば、葦男が生後満3ヶ月の嬰児だった1916年9月18日に夏目漱石がものした七言律詩が参考になるかもしれない。この詩の頸聯「黄は霜に耐え来たりて籬菊乱れ、白は月従(よ)り得て野梅寒し」について、中国文学者の吉川幸次郎は以下のように評している。(*)

 漢詩における色彩語の効果に敏感な先生は、この聯に至って、ついに、黄の字を、下の句の白従月得の白の字とともに、一句のとっぱじめに置くことに、成功した。

 吉川によれば、このような句法は杜甫の「何将軍の山林に遊ぶ」に見える「緑は垂る風に折れし筍、紅は綻ぶ雨に肥ゆる梅」などにもとづくらしい。ここからは筆者の想像に過ぎないが、年少の頃より漢籍に親しんだ葦男が、色彩語の名詞的用法を知らず識らず我が有とし、これを俳句作品に愛用したとしても何ら不思議はない。

 最後に、色彩に関連した造語という問題に触れておきたい。

 生(せい)噛みしめる海辺の卓癒着いろの乾果 『火づくり』

 怒るアフリカ咽喉いろの雷火立つ 『機械』

 身震う牡鹿朝日溢れて楽器いろ 『残山剰水』

 ではと別れのガスいろの春ゆうべ 『過客』

 パステルには12色、24色、さらに120色といったプロ仕様のものがある。日本語には浅葱(あさぎ)、褐色(かちいろ)、黄檗(きはだ)、黒橡(くろつるばみ)、蘇芳(すおう)など伝統的で典雅な色彩名称がある。だが、それら多種多様な色相、彩度、明度をもってしても、葦男が「癒着いろ」「咽喉いろ」「楽器いろ」「ガスいろ」といった不安定な造語でしか表現し得なかった何ものかに迫ることは恐らく不可能であろう。

 ある瞬間の直観的な対象把握とそれに随伴するユニークな情緒や気分。固有で強烈なアクチュアリティを持つ半面、再現性に乏しい何ものかを、それでも葦男はなんとか書きとめようとした。そのとき、ぎりぎりの切羽詰った状況で飛び出したのが「○○いろ」等の造語だったのではないか。それは「意味不明」の謗りと隣り合わせの禁断の裏技であり、葦男俳句の究極の色彩表現であった。

* 『漱石詩注』1978年 岩波新書


●―8 青玄系作家の句/岡村知昭

 秋の暮行く牛も色減らしをり  林田紀音夫

 林田紀音夫は「青玄」昭和25年(1950)から昭和32年(1957)まで同人として作品を発表しており、上掲句は昭和28年(1953)1月号発表の作品で句集には未収録。この号には代表作である「鉛筆の遺書ならば忘れ易からむ」も掲載。この句も含めた1年間の作品により第4回「青玄賞」を受賞している。

 農耕に励む牛か、もしくはモータリゼーション発達前の荷車を引く牛なのであろうか、牛の全身がまるで夕映えに溶け込んでいくかのような雰囲気を漂わせている様子が見て取れる。昼間は滴り落ちる汗もあって光り輝いていた牛の身体はこれでもかと言わんばかりに生命感に溢れていたのだが、夕映えの中の牛の身体はその輝きを次第に失い、風景と一体となっていくかのようである。「色減らし」との的確な措辞によって、溢れんばかりの生命の輝きから遠ざかりつつある牛の姿を鮮明捉えており、一句としての出来には十分なものがある。だが紀音夫がこの一句を句集に入れなかったのは、むしろ出来のよさが自らが求めていたものではなかったからではないだろうか。

 柿の色悪しき位牌に見下ろされ

 同じ号に掲載された一句。この句の「悪しき位牌」とは家族や血縁といったものへの憎悪に近い感情の表れであろうか。仏壇に供えられた柿のみずみずしさを位牌たちが吸い取ってしまっているかのようであり、そこには面々と連なり続けた血のつながりから遂に逃れられない自分自身への絶望感すら感じ取れる。

 黄と青の赤の雨傘誰から死ぬ

 こちらは昭和32年に発表された紀音夫の代表句のひとつ。一見カラフルな雨の日の街の情景が映し出されているのだが、それぞれの雨傘を差して歩く「誰から」死んでしまうのだろう、との認識は同時に雨傘を見下ろす、もしくは雨傘を差して歩く自分もまた「誰」のひとりとして死んで行くのだろうか、との苦い思いをもたらしてしまう。

 引用した2句はどちらも「色」を描きながら、その「色」は自分自身の負の感情によって塗りつぶされてしまう存在でもある。ここには執拗に「色」を塗りつぶす行為によって、自分自身はますます今このときの存在の卑小さを高めていく、との構造が成り立っており、作品は今の卑小さを生きなくてはならない自分自身に突きつけられた刃と化す。

 上掲句に戻ると、牛の「色」は確かに夕映えに失われつつある。しかしその様子はあくまでも風景の中にきちんと収められ、「減らしをり」に込めようとした自らの感情もまた牛の像を塗りつぶすまでには至らない。そこで「秋の暮」の情趣に作品が負けていると考えが浮かんだとしても決して不思議ではないだろう。だから紀音夫は第一句集「風蝕」に「柿の色」「雨傘」の句を選びながら、作品の出来としては良いはずの「秋の暮」の句は選ばなかった。選んだのは今このときを人間として、逃れられない卑小さを抱え込んだまま生きる自分自身のための一句であり、情趣と風景とが一体化する世界に生かされる自分自身のための一句ではなかったのだ。「青玄」での紀音夫はこの自らの志向を確かなものにするべく、さらなる試行錯誤を続けることになるのである。


●—9 上田五千石の句/しなだしん

 火を入れてかへりのみちの螢籠     五千石

 第一句集『田園』所収。昭和38年作。

 この句の自註(*1)には「火を入れてよりはじめて、名実ともに螢籠となる」とある。「火を入れて」、つまり、螢を入れてはじめて「螢籠」であるという明快な句意である。「かえりのみち」からは、とっぷり暗い里の道に、籠の螢の“緑色”の明滅だけが浮かんでくる。

     ◆

 五千石には多くの「螢」の句がある。特に 『田園』には、「老螢」というおそらく秋の螢のことと思われる句を含め、12句が収められている。『田園』300句弱の句数の割合から見ても非常に多いことが分かるだろう。以下、掲出句を除く11句である。

 老螢掌よりこぼせば火を絶ちし

 生き残る螢葉隠れ草隠れ

 老螢末期の光凝らすなり

 朝日出て螢の生死忘れられ

 掌中に一殊の螢旅稼ぎ

 初螢いづくより火を点じ来し

 手を執つて青き螢火握らしむ

 見えぬ手がのびて螢の火をさらふ

 一螢火高樹に沿ひて昇天す

 流水にみちびかれ行く螢狩

 老螢わが見れば火を燃やしぬる

 これらの螢の句は、多分に前掛かりな、つまり感情過多の傾向が強いものが多い。それでいてその感情は詩的昇華を遂げているかといえば、ある種の空周りも感じられなくもない。

 ちなみに第二句集『森林』(*2)には次の句がのこる。

 初めての螢水より火を生じ   昭和46年

 この句について自註に、“「初螢いづくより火を点じ来し」の答えが、ようやく出来た。”と、先の11句の中の1句を挙げている。

     ◆

 掲句にもどろう。前述のようなやや感情過多の螢の句のなかにあって、掲句はとてもシンプルで、淡々としている。

 螢籠はその言葉の印象からも、それだけでさびしい存在。また、螢籠に捕えられた螢ももちろんさびしいものだが、自由に川辺を舞っていても、螢はそれだけでもの悲しい。

 五千石は『田園』の後書に“省みれば、私の句は全て「さびしさ」に引き出されて成ったようである”と記している。

 私には、掲句の螢火の儚い“緑色”こそが、五千石の「さびしさ」の象徴であるように思えてならない。


*1 『上田五千石句集』自註現代俳句シリーズⅠ期(15)」 俳人協会刊

*2 第二句集『森林』 昭和53年 牧羊社刊


●―10 楠本憲吉の句/筑紫磐井

 過去は何色冬の朝日はローズ色

 第3句集『孤客』より。昭和46年の作品。

 憲吉の句を取り上げるにあたって、最も有名な憲吉の代表句集である『隠花植物』は取り上げない。憲吉の本領はこの第1句集で汲み取れないからだ。現代俳句協会の主要幹事として、また「俳句」「俳句研究」の論客として、さらに俳句出版社琅かん(=玉偏に干)堂の責任者として八面六臂の活躍をしていた憲吉だが、昭和37年現代俳句協会から戦中派作家が脱退して俳人協会を設立した事件で両協会から絶縁したことにより、大きく人生が狂う。よりマスコミへの露出度を高めることにより、新しい活躍の分野を見出しながらも、伝統俳句と前衛俳句という対立を深めていった「俳壇」からは阻害されてゆくようになる。これは常に変わらぬ現象であり、最近では、松本恭子とか黛まどかがそうした道を歩いているように思える。

 いずれにしろそうした時期をふくんだ句集が『孤客』(昭和26~50年)であり、ドラマティックであるだけに際立って面白い。

 昭和31年(34歳)に灘萬代表取締に就任しているから経済的不如意とは関係ないが、文学的野心からの鬱屈は大きいものがあったろうと思われる。伝統俳句にしろ前衛俳句にしろいわば専門家集団として閉鎖的な共同体を形成していたわけだから、ここから脱落した憲吉のゆく道は開放的な大衆路線しかない。憲吉の俳句の醍醐味はそこにある。

 短歌や詩がどのように制度化されているかは知らない(俳句の制度化は「結社」により完璧に俳人を拘束している)が、制度のあるところに対しては常に憲吉の俳句は魅力的であろうと感じている。

 掲出句、これは歌謡曲調である。才能のある憲吉であるからそれと分かるよう露骨にボロを出すことはないが、こんな俳句もこんな心情も近代俳句は詠んでこなかったと思う。これは俳句でも文学でもないと思われている。しかし、酒と女のまとわりついた生活を俳句的レトリックで詠むとこのようになる。芭蕉の求道も、子規の探究心も、虚子のような陰謀もない、平凡な市民である我々そしてあなたにはぐっとくるのではないか。そして、「ローズ色」こそ、萬葉以来詠まれた最も美しい色ではないかと思ったりする。


●―12 三橋敏雄の句/北川美美

 鬼赤く戦争はまだつづくなり

 三橋敏雄は、戦後の句集『まぼろしの鱶』から『畳の上』まで絶対的「赤」のイメージがある。掲句は『眞神』二句目(『現代俳句全集四』では三句目)に収録されている。実際、「赤」の使用句は、『眞神』6/130(4.6%)、『鷓鴣』6/162(3.7%)と厳選と思える収録数でこの数字である。

 霧しづく體内暗く赤くして    『眞神』

 産みどめの母より赤く流れ出む

 またの夜を東京赤く赤くなる   『鷓鴣』

 めでたくもあり、恐ろしくもあり、妖艶で興奮の気配ある「赤」。ゴダール映像の中の鮮やかな「赤」、『追憶』のケイティ(B・ストライサンド)の爪の「赤」、血の色のムスタングの「赤」、鮮明な赤色が敏雄句から想起される。

 いつせいに柱の燃ゆる都かな   『青の中』『まぼろしの鱶』

 燃える炎も赤である。戦場へ赴いた者にとって「赤」のイメージは単なる空想の産物ではありえないだろう。復興を遂げて豊かさを取り戻しつつある目の前の現実が、どこか嘘臭く、「流れる血」「母の胎内」が二重写しのように浮んできたとしても、不思議ではない。

「鬼赤く」の掲句に、白泉と赤黄男の句を思う。

 赤く靑く黄いろく黑く戦死せり  渡邊白泉

 石の上に 秋の鬼ゐて火を焚けり 冨澤赤黄男

 新興俳句は「青」や「白」にモダンな詩情を託し、「頭の中で白い夏野となってゐる」(高屋窓秋)「少年ありピカソの靑の中に病む」(敏雄)「白の秋シモオヌ・シモンと病む少女」(高篤三)など色の秀句が多い。昭和12年に、渡邊白泉が新興俳句の業績を省みて、「こういう青の俳句に対して、次に誰が赤のリアリズムをつくるか」と言っている。(*1) 青・白そして赤へ。白泉の言葉を引き継ぐように敏雄の赤へのこだわりがうかがえる。

 白泉は、色の三原色を合成し黒焦げになり死に絶える人(あるいは、たましい)を句にした。アンディ・ウォーホールがだどたどしい日本語で「アカ、アオ、ミドリ、グンジョーイロ、キレイ」(*2)とテレビを抱えていたCMが戦争を忘れつつある昭和の平和を映し出していたように思えてくる。赤黄男は狂気のような鬼が火を焚くことを句にした。戦争を見たものだけが知る得体の知れない鬼がいる。そして敏雄は、地獄、邪悪、女・・・日本古来からの多様な恐さを持つ鬼が「赤く」なる、それ故に「つづく」戦争。ここでもまた使用されている係助詞「は」。断定・強調の「なり」と対置し、何かは終わったが、戦争はまだ「つづいている」という含みがある。嘘臭い平和は終っても鬼が赤くなる戦争はまだつづく。戦争とは恐いことなのだ。

 「赤く」なるとは、紅潮すること、血潮の色である。不思議と三橋晩年の句集『しだらでん』(1996年76歳)に「赤」の文字が入る句が無い。


*1)アサヒグラフ(昭和63年7月増刊号・俳句入門)『昭和はどう詠まれたか』宇多喜代子・川名大対談

*2)TDKビデオテープのCM。1983年製作。プロデューサー:浅葉克己、コピーライター:眞木準(Youtubeにて閲覧)


●―13 成田千空の句/深谷義紀

 雪割ると仄めくみどり鳩の胸

 千空作品で最も多い季語は「雪」である。津軽の地に住み、俳句を書き続けた千空だから、その作品を語るうえで雪は大きな存在感を持つ。千空自身、次のように語っている。

「津軽の人間の表現には抜き差しならない風土の影響があります。それは雪ですねえ。津軽は雪国だという宿命があります。」(角川選書「証言・昭和の俳句」)

 そして、雪といえば真っ先に思い浮かべる色は一般的には「白」だろう。だが、雪を題材(季語)とする千空の作品に、白という色彩感を前面に押し出したものはあまり多くない。例えば次のような句を読んで、白を感じるだろうか。

 降る雪の舞ふ雪となり花となる    「忘年」

 そもそも「雪は白い」のだろうか。馬鹿なことを言うなとお叱りを受けそうだが、なかなかどうして、雪という存在は一筋縄ではいかない代物である。

 一例をあげれば、前回言及した相馬遷子に次のような句がある。

 くろぐろと雪片ひと日空埋む     「山国」

 ここで雪は黒いのである。

 また千空にも、こんな句がある。

 滾々と雪ふる夜空紅きざす      「地霊」

 ここで雪は赤くなる。

 果たして雪は何色というべきか。敢えて乱暴な言い方をすれば、雪は何色でもない、モノクロームな存在ではないだろうか。

 闇に現れ雪に紛るる女の荷      「地霊」

 では、千空作品において存在感を発揮する色は何か。最も印象に残るのは緑(「青」を含む)である。

 掲句はその代表例である。句集「地霊」に所収。この緑はいわばミクロの緑である。小さな、まだ予兆というべき程度の濃さではあるが、千空はそこに確かな命の息吹あるいはその再生の兆しを発見したのであり、その歓びを率直に表わした。

 これに対して、大きなスケールのマクロの緑も登場する。

 青山河紙ヒコーキは手より発つ    「忘年」

 千空にとってモノクロームの世界に対比すべき色彩が緑なのである。そう考えると、緑は、千空にとって死から生への転回の象徴の色だったのではないだろうか。

 そして愛妻への深い愛情を示した句に、次のようなものがある。

 夏柑にみどりの小星妻癒えよ      「人日」


●―14 中村苑子の句【テーマ:水妖詞館ーあの世とこの世の近代女性精神詩】3./吉村毬子

2013年3月15日金曜日

 3. 河の終りへ愛を餌食の鴉らと

「愛」という崇高な究極的な大きな曖昧に対して「餌食」にすると云う。

 愛を育みながらではなく、犠牲にして生を得る鴉。貪欲に愛を貪り、狡猾に自己の空を翔び続ける鴉に象徴されたものは何であろうか。雀でも鳩でもない、そんな鴉らと一緒にいる我もまた鴉と相似しているのか、同類なのか。

一羽ではないらしい。「鴉ら」と複数である。

 幾多の紫色の濡羽の鴉らと我は、河の終りへ向かっている。河の終りは此の世の果てか。いや、河口であるかも知れない。終りには始まりがある。まして、「愛を餌食の鴉ら」と我なのだから、果てしもなく「愛を餌食」にしていくことだろう。

 そして、そこからは海が始まるのかも知れない。

 ドラマティックな句である。

 「終り」「餌食」「鴉」の語彙から、一見エキセントリックな感覚ではあるが、一句から読み取れるロマンティシズムは、やはり「愛」という語が根幹なのだろう。

 私には、「鴉ら」が、重信をはじめとした俳句評論の同人達に感じられて仕方がないのだが・・・。

 いづれにしても、大河と大空を背景にしたそのドラマに終りがないことを読手に感じさせながら、強固な生命力が河口より大海原へ羽ばたく可能性も垣間見えてくるのである。

 4. 跫音や水底は鐘鳴りひびき

 跫音がやって来る。透明で静かな場所へ、ひたひたとやって来る。帰る跫音かも知れない。けれども、「鐘」は、その跫音によって確かに鳴り響くのだ。水底とは、心象であろう。「水底の」ではなく「水底は」と言い切る。水底にある、或いは沈んだ鐘が鳴り響くのではない。自身の水底に鐘があり、水底が鳴っているのだ。

 苑子は「水」が好きである。苑子に限らず、詩人、日本人、生物、皆、水から恩恵を受ける。しかしながら、苑子の詠む「水」はなぜか粘りを持つ。跫音は冴え、水は透明でさらさらと流れ、鐘の音は美しく澄む。だが、苑子の水底に捕まると、それらも清澄なものを湛えながら絡まっていくのである。

 下五の「鳴りひびく」が上五の「跫音や」に返り、跫音と鐘の音は、永遠に響き、そして、絡まっていくのであろう。

 5. 撃たれても愛のかたちに翅ひらく

 苦笑しながら、「お若いあなたは、この句をどう思う?」と聴かれたことがある。しかし、私が答える前に「少々、面映ゆいわ。あんな句が良いなんて。」と、遠くを見ながら言った。おそらく、誰かに絶賛されたのであろう。その時の苑子は、八十歳くらいであったが、その句を作った当時を思い出しながら、私を見ずに遥かを見て、一瞬、一時、その頃に戻ったのだろう。後日、鑑賞する

 人妻に春の喇叭が遠く鳴る

について聴かれた時も、そんな瞬間があった。彼女は、時折、そうゆう時間を持っていた。

 この句は、非常にストレートで健気である。「愛」に勝てるものはないと断言すればするほど、「翅」の薄さが愛おしくてならなくなる。『水妖詞館』は、62歳刊行だが、編年体ではない句集の為、いつ頃の作品かは解らないが、初期の作品とも思われる。

 今回の4句の鑑賞句は、見開きで1頁に2句づつ並べられているが、この4句での物語を感じながら鑑賞することもお勧めしたい。

 6. 鴉いま岬を翔ちて陽の裏へ

 愛を餌食にしている鴉が「いま岬を翔ちて」次は何処へ行くのか・・・。

 「陽の裏」とは、日の当たらない日陰であるのか。不確かでありながら、確かな場所設定よりも「陽の裏」は詩の確信を得る。もとより鴉には「裏」が似合う。

 「陽の裏」によって、陽を浴びる岬が浮かびあがり、白波や風も描かれている。そして、「裏」へ入るということは、表の陽を知り尽くし、表にはない別の陽がまた垣間見えるような余韻が残る。

 苑子の句は「終り」「底」「裏」と「愛」「陽」などを、同時に直視し提示することで、プラスとマイナス、凹と凸の互いの言葉の交わいが詩を成り立たせている。相反するものを絡ませる技が彼女の身のうちに備わっていたのだろう。詩人の身体感覚は、詩的感覚に繋がっているはずである。


【連載通信】ほたる通信 Ⅲ(57)  ふけとしこ

    ひそひそ

 春光や頬骨高き女の絵

 惜春やアッサムティーを濃く淹れて

 暁暗をひそひそひそと幣辛夷

 行く春を律儀に並ぶ碍子かな

 命毛を失ふ筆と春の暮

                 ・・・

 個包装された菓子は、分け合うのに都合がよくて吟行中や句会の席などで配られることもある。

 席題句会の時など、部屋中をキョロキョロしたり、仲間の持ち物に目を留めたり、配られた菓子は無論のこと、それを包んでいる小袋をしげしげと見ることもある。さもしいことではあるがヒントを得なければどうにもならないから。

 ある時配られた菓子の袋に、表に蟻を図案化した可愛い絵、裏にちょっとしたお話が書かれていた。

 〈(略)〇〇と△△は働きアリの中に休んでいるアリを見つけてアリンコと命名!(略)アリンコの一言「休むことも大事」〉とあった。別に命名なんて大仰に言わなくても、アリンコって昔から言われてるんじゃ……と突っ込みながら読んだのだった。

 そういえば何年か前に働き蟻の何割かはサボっているという研究だったか論文だったかが話題になったことがあったような。詳しくは知らないけれど、そう言われれば確かに列から逸れていくものや、1匹だけでウロウロしているのも確かにいる。

 随分前のことだが、ある大きな神社で長々と続く蟻の列を見つけたことがあった。どこへ何をしに行っているのだろうかと気になって、追ってみたことがあった。ずーっと続いていたのだが、地面が砂地から小石へと変り、草が増えてきた辺りから列が崩れて、蟻達の姿は見えなくなってしまった。潜って行くような穴も見当たらない。不思議だった。彼らは何処へ消えてしまったのだろう?

 働いている! と思える蟻は獲物を運んだり、巣穴へ出入りをしている蟻達。大きな獲物を穴へ入れようとしている時には多くが集まって右往左往している。そうこうしながらも、いつの間にやら穴の中へと引っ張り込んでいるから何とも感心するばかりである。   

 巣の拡張工事でもしているのかと思えるのは、土の粒などを咥えて出てきてはまた元へと戻って行く彼ら。出入り口辺りへ積み上げられた土の粒は見る見るうちに乾いて白っぽくなる。そこへ地下から運び上げた黒っぽい土がまた加えられる。童話なら現場監督がいて旗でも振っているところだろうか。

 熊谷守一画伯ならもっともっと詳しいことをご存じだっただろう。

 ありんこに働き口のある晴天   としこ

(2025・4)


【鑑賞】豊里友行の俳句集の花めぐり27『星糞』(谷口智行、2019年12月刊、邑書林)豊里友行

 谷口智行俳句のいただき。

 この俳人の俳句開拓者としてのいただきを私なりに共振を持って俳句鑑賞する。

 帯文の言葉をかりて云うならば「神々が恋をするやうに俳人は熊野とまぐはふのである」。

 湧き立つような熊野に生きるこの俳人の喜びは、土着を突き抜け、抱擁し、交わり、普遍的なポエジーを孕む。

その予兆の期待感を持って私たち読者も熊野に魅せられていく。

 星糞の季語のダイナミックなタイトルがいい。

 句集の見返しの表裏の荘厳な藤岡裕二氏の絵画、カバーや造本の島田牙城マジックとでも言おうか魅力的な句集の装丁に仕上がる。

 熊野の風土を丁寧に取り込みながら俳句の物語の近くを切り、遠くを繋ぐ飛躍に富む。

 それによる言葉の硬直を打破しようとする風格を成しているし、一読するだけでも俳句鑑賞者を圧倒するだけの勢いもある。

 この風格と勢いで風土を詠む。

 それは、概知の言葉に息吹を与え命の鼓動となる。

 それらは、中央を中心に編まれた季語たちに匹敵するだけのポエジーを宿す。

 谷口智行俳句の視座には、確かな熊野の言霊が、胎動する。

 俳句の定型や韻律と風土の融合。

 いわゆる俳人たちの俳句形式の土俵を多様な日本風土のひとつ、熊野から谷口智行の視座の宇宙さえ萌芽していく感じさえある。

 そこには、俳人たちが口中で言葉を転がし続け季語を見出だしてきたように自らの熊野の風土の韻律の俳句形式を熊野という器と融合しながら注ぎ込む神業が、俳人に課せられている。

 それは、これまでの俳句の土俵を破壊し、自らのいただきの領域の覚悟と自負を持って創造されるのかもしれない。

 そういう無茶ぶりから期待を持って、共鳴句を戴きます。


仕留めたる猪を猫車で運ぶ

弾丸(たま)喰いの猪は一等恐ろしと

獣糞のなかに通草の種あまた

木の股に懸けてゐたるは猪の腸

狩詞話せり熊に聞かれぬやう

犬どれも元気猟夫の訃を知らず


 私の住む沖縄の島々にも猪(いのしし)は棲むので沖縄の猪として鑑賞してみる。

とある離島の畑は、ほそぼそ老人たちが成している畑が多く、山から降りて来た猪が作物を荒らして放棄された畑が増えていると島びとは、嘆く。

 猪の荒らした1平方メートルくらいの土の掘り跡は、妖怪か魔物の舞台を連想してしまう。

猪を狙う猟夫の弾丸は心臓の部位を射止めたいのだが、神々の踊るように猪の畏敬が迫りくる。

 そんな猪を仕留めて猫車で運ぶという。

 木の股に懸けていのるのは猪の腸という風土の記憶。

 狩詞(かりことば)を盗まれないようにひそひそ語り合う。

 この神々のまぐわいとも思えるほどの猟もまた命懸けなのは、言うまでもない。

 そんな猟師の人間性を描きつつも人間だれしも訪れる死への旅立ち。

 その訃報の、主人の不在を猟犬は、知らないで元気にはしゃぐ。


元いさな捕りに抱かれて七五三


 いさな捕りを引退したおじいさんが、孫を抱いている七五三の微笑ましい光景が立ち上がる。

 風土詠を俳句の器にただ当てはめても所詮は、土や風、火が宿してきた言葉の息吹、器が違う。

 その言葉の器の錬金術は、至難の業で、まるで神の成せる業のように思えてしまう。

 谷口智行俳句の慧眼は、風土を超えて普遍へ、人間の唄をなしていく。


ありあはせなれどともいふ鹿の肉

股ぐらもしつかり拭いて生身魂

野良風になぶられてゐる裸かな

いづれ旨しや猿酒と鶚鮨

竹伐りてゐるらし山の揺れゐるは


 ありあわせと鹿肉を遠慮がちに薦めつつも豪快に。

 生身魂の季語と風土の融合でお盆の先祖を敬う儀式も赤裸々に。

 野良風に抱かれている心地良さ。

 猿酒と鶚鮨(みさごずし)が体中を踊るようにめぐるめぐる。

 竹伐っているのだろうと山が揺れるとダイナミックに感受する。

 通う道の種が星屑のようにあまたに獣糞の中に拡がる。


ふくらかにしなふ浦波初しののめ

ふんだんに星糞浴びて秋津島

神ときに草をよそほふ冬の月


 まぐわいとは、性交のことだが、熊野に抱かれる人、生きとし生ける全てを包み込み、抒情性が何度も歓喜を波のように連想させる。

 もうこれ以上を語るのは、野暮かもしれない。

 最後に作者のあとがきから引用して、その谷口智行俳句の世界を多くの方に堪能して欲しい。


 「私たちの祖先は鳥獣、草木虫魚などに対しても自然の恩寵と畏怖を抱き、そこに篤い信仰を見出してきたのである。」


【関連資料】

-BLOG俳句新空間- : 【単発鑑賞】猪も神もまぐわう歓喜の熊野  『星糞』(谷口智行) 豊里友行


【新連載】新現代評論研究 音楽的俳句論 図像編 川崎果連

解説ページへ 


【新連載】新現代評論研究 音楽的俳句論 解説編(第1回) 川崎果連

●提起
 ①俳句は3小節の「リズム詩」である。
 ②歴史や人種を超えて人間が体得した表現方法が「呼吸」である。
 ③リズムは呼吸から生まれる。


●結論
 俳句はリズム上の休符(切れ)と表現上の「言葉のひびき」の融合作品である。


※「切れ」の正体=休符
 直後が休符になる場合は、51音すべてが切字となり得る。
「ん」→「いざ行かん」「青蜜柑(秋)」など。


★パターン1 夏草や―
【解説】一般的に「や」は強い切れだと言われるが、それはあくまでも文字(切字)としての表現上の約束のようなことに過ぎない。音楽的には「ヤ行」の響きは非常に柔らかい →「や」は直後の休符へフェイドアウトしていく切れである。
※強く切るか弱くやさしく切るかは最後の音で決まる。
 →パターン7「句末の『や』」参照。
※この例句の中七は厳密には「6+1」である。例としては〈五月雨を集めて早し最上川〉などのほうがわかりやすいが、「や」の特徴を示すためと、ここで示すすべてのパターンが「基本パターン」であり、他はすべてここから派生する「バリエーション」であることを示すために、あえてこの句を用いた。


★パターン2 古池や―
【解説】休符がリズムをつくることは昔から知られていた―ということを証明する型。
歴史や人種を超えて人間が体得した表現方法が「呼吸」である。音楽で言う「ブレス」は単なる「息継ぎ」ではなく「呼吸を整えて次の音を出す」という意味である。


★パターン3 目には青葉―
【解説】最初の字余りの部分を「目には」で1拍(3連符)とし「青」は8分音符2つで1拍、「葉」は4分音符1つで1拍とする。3連符は本来2等分・4等分すべきところを3等分した音符。1拍の中を3拍子(ワルツ)にすると思えばよい。スピード感が出ると同時にリズムが安定する。
※このパターンの1小節目については、このかたちのほかに、①2拍目も3連符(「青葉」)とし、3拍目と4拍目を2分休符とする。②1小節目そのものを2/4拍子として8分音符の3連符2つ(目には青葉)とし、2小節目から」4/4拍子にもどす―という考え方もできる。
※このパターンの考察を進めていくと、上五・中七・下五のどの部分においても、リズムのなかに収まるかどうかが問題であり、収まらないケースは「字余り」というより「音余り」であるという結論が得られる。


★パターン4 夏草に―
【解説】一般的に「ナ行」は柔らかいが、「に」と「ね」、つまり「イ音」と「エ音」が入るとやや硬くなる。中八は「リズムが崩れる」と言われるが、音楽的には4拍目の4分音符を2つに分割しただけで小節の中にきちんと収まっている。言葉の選び方次第でこの句のようにたたみかけるダイナミズムを表現できる。


★パターン5 浮浪児昼寝す―
【解説】字面だけ見ると野放図に見えるが、周到に計算されている。普通この手のセンテンスはノン・ブレスで一気にたたみかけるが、テンポによっては小節線の境目で微妙なブレス(切れ)が入ることもある。


★パターン6 咳の子の―
【解説】なぜ句末に切字をおいたか。句末はどんな字を置こうがリズム的には無条件に切れている(休符がくる)。句の内容と関係がある。「し」でもよいのだが、「し」は硬くて突き放す感じ。「や行」は「い」「え」を除いて柔らかい。「風邪に苦しむ子への思い」が「や」を選ばせた。


★パターン7 花衣―
【解説】①パターン2で見た中七の「スイング感」を下五でわざと消している。「迷い」を見事に表現したと言える。②1小節目で「はなごろもぬぐや」と8分音符8個でカウントし、2小節目の始まりを2分休符にする(切れる)という考え方などもできそうだが、そうなると①が成り立たない。はたしてどうか。引き続き検討する。


★パターン8 夜桜や―
【解説】三段切れというのはほとんどが「字面」のこと。それを証明しているのがこの句。リズム的には切れない。休符がないから。ただ、「見えない切れ」というか「かすかなブレス」が2小節目の末尾で発生する可能性はある。いずれにしても「意味がつながっているから三段切れにはならない」という論は検証が必要。切れはあくまでも音楽的には休符である


★パターン9 ひつぱれる―
【解説】上五の切れは本来、あとに続く中七・下五をブレスなしで一気に続けるための自然発生的な空白。この句こそが三段切れと言える。わざわざ中七でいったん息継ぎ(ブレス)をして、下五を力強く叩きつける。下五で特別なパワーを表現するには適した方法。


●マブソン青眼氏の提唱する5・7・3俳句
【解説】仮に3小節目の3音が「4分音符3つ」ではなく「8分音符2つ+4分音符1つ」であったとしても、後半に2拍分の休符が発生することは自明の理である。


以上

2025年4月11日金曜日

第244号

 次回更新 4/25



■新現代評論研究

新現代評論研究(第2回):仲寒蟬、杉美春、佐藤りえ 》読む

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令和六年冬興帖
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第七(12/27)中嶋憲武・早瀬恵子・小林かんな
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第九(1/17)辻村麻乃・堀本吟
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筑紫磐井著『女帝たちの万葉集』(角川学芸出版)

新元号「令和」の典拠となった『萬葉集』。その成立に貢献した斉明・持統・元明・元正の4人の女帝、「春山の〈萬〉花の艶と秋山の千〈葉〉の彩を競へ」の天智天皇の詔を受けた額田王等の秘話を満載する、俳人初めての万葉集研究。平成22年刊/2,190円。お求めの際は、筆者までご連絡ください。

【新連載】新現代評論研究 『天狼』つれづれ(第1回):『天狼』と養徳社 神戸大学山口誓子記念館 米田恵子

  『天狼』は、昭和23(1948)年1月創刊の山口誓子主宰の俳句雑誌である。奈良の旅館日吉館で句会を開いていた西東三鬼、平畑静塔らが、戦時中橋本多佳子のもとに疎開させていた誓子の句集『激浪』の句稿を読み、誓子の並々ならぬ俳句への思いに感激し、新俳句雑誌の創刊を思い立ったのである。中心となったのは西東三鬼で、東京と関西をかけまわり発刊にいたった雑誌である。 

 ここまでは、知られていることだが、意外と知られていないのは『天狼』がどんな出版社からどのように発刊されたかである。

 『天狼』は天理市にある養徳社より出版された。これについてはよほどの誓子ファンでないと知らないかもしれない。養徳社は、『天狼』創刊当時の住所は奈良県丹波市町川原城で、今は天理市川原城町となっている。『天狼』が創刊された当時と変わりなく、養徳社は存続し、機関誌として『陽気』を出している。今は、主に天理教関係の出版をしているようである。

 このように、養徳社に関しては、知る人ぞ知るというぐらいにしか知られていないかもしれないが、私は平成13(2001)年開館の神戸大学山口誓子記念館に勤め、誓子の蔵書・資料・遺品の整理・管理の仕事をしているが、私は今から50年ほど前、言い換えれば山口誓子の仕事をする前から養徳社という出版社の名前を知っていた。若いころドイツ文学をかじっていたので、恩師であるリルケ研究者の高安国世の翻訳が、戦後まもない頃養徳社から出版されていたからである。リルケの『若き詩人への手紙』や『ミュゾットの手紙』、大山定一の『マルテの手記』などの翻訳が養徳社から出版されていたため、その名前を記憶していた。そして、『天狼』の出版社も養徳社であることを知り、驚いたり、少しご縁を感じたりして嬉しくなったものだった。 

 なぜ、京都大学の先生たちの訳書が、先生たちは天理教信者ではないし、天理の出版社から出ていたのは、正直不思議であった。しかし、山口誓子に関わるようになり、少し頭を働かせば、分かることであった。それは、第二次世界大戦の空襲で、大阪や東京は壊滅的な打撃を受けていた。印刷所も多くは焼けていた。しかし、天理は空襲もまぬかれ、紙もあったのだろう、だから、戦後数年の出版を養徳社が引き受けていたと考えられた。

 このたび、養徳社のHPを拝見すると、「営利にとらわれずに良書を発行し、わが國出版文化の発展に貢献する」という天理教2代真柱の構想のもとに、昭和19(1944)年10月14日に天理時報出版部を発展的解消して」新たに養徳社が設立されたということである。設立は昭和19年、まさに終戦の前年である。現在の養徳社社長の永尾教昭氏(前天理大学学長)のお話によると、戦争も拡大し、戦況も悪化するなかで、このままでは日本の良い文化も失われてしまうという危惧のもと、出版には欠かせない紙を、当時配給であったが、集め蓄えていったそうである。養徳社の設立の時には、谷崎潤一郎なども列席したそうである。

 この先見というのか、このままでは日本の文化がどうなるか分からないという危機感をいち早く持ち、どうしても日本の文化を守らなければならないという使命感とその意志に頭が下がる思いである。そのおかげで、リルケの翻訳や『天狼』が出版されたのである。山口誓子も救われたことだろうが、外国文学の研修者たちも感謝したのではないか。

 後年、養徳社に関して平畑静塔が次のような文を残している。


天理教の出版部であった養徳社が、当時監査では一番良心的な出版をして居り、実力資力のあったので、奈良方面の支持者の手で、「天狼」を引きうけてもらったが、創刊号は売切れた。(『創刊号物語』第2巻、俳人協会、邑書林、1998年)

 

 よくぞ、養徳社! 紙を蓄えていてくださった。ありがたいことだ。

 その後、『天狼』は、昭和25(1950)年、いつまでも養徳社の庇護のもとにあってはいけないということで、5月号に「發行所變更について」という小さな記事を載せ、発行所としての養徳社の名前は消える。翌6月号では巻頭のページに天狼俳句会と養徳社の連名で「御挨拶―発行所変更について―」という記事を掲載する。養徳社との円満な了解が成立し、経理の面でも引継ぎを完了したと記されている。

 『天狼』も創刊3年で養徳社から独立できたが、完全な自主経営は難しく、共同印刷社に発行経営を任せていたようだ。これが解消され、真の意味での自主経営が実現したのは、昭和35(1960)年3月、新発行所として、大阪市内伏見町の青山ビル(少彦名神社の北隣)に事務所を構えることができた。この青山ビルについても書き出すと長くなるので、今回はここまでにする。

【鑑賞】豊里友行の俳句集の花めぐり26 句集『風紋』(広瀬敬雄 著、2024年刊、角川書店)。

 風紋は沖よりのふみ夕千鳥

 先ずは、帯文を記しておく。

 風紋は、風によって作られる砂紋のこと。時を経ずして、風や波で消えゆくが、津波で亡くなった方も含め、冥界の懐かしい方からの便りと思うと、愛おしい。それゆえにこそ、私もまた、日常の生活のなかでの哀歓、笑いも含め、現在を生きた証を俳句で留めたいと願う。

 豊里なりの俳句鑑賞も添えてみる。その砂浜を綾なす風紋の衣を纏うのは、人の記憶なのかもしれない。沖より綾なされる文として夕焼けに消え入りそうな千鳥のさえずりが2011年3月11日からずっと震災の記憶を留めている。此処では、沖よりの風紋の文は、震災で亡くなられた人たちの記憶の続きをずっと忘れないように心にとどめて生き続けている人々の心模様までも俳句からひしひしと伝わってくる。

 一本の冬木を父と思ひけり

 父と子と揃へて干せり祭足袋

 煤逃げ同士黙礼を交わしけり

 一本の冬木を父と思ってしまう。そんな心情に父への哀切な思いがあり、父を心に生かし続ける術(すべ)として冬木の一本を心の拠り所にしている。

 父と子で祭りに参加する。その祭りの後を詠んだ秀句だ。父と子の祭の足袋を揃えて干す。そこには、祭りで得た充実した父子の後ろ姿が浮かんでくるように二人分の足袋が浮ぶ。

 煤(すす)から逃げる同士がぶつからないように瞬間の黙礼(会釈)を交わす。

 拡大解釈されていく家族模様が、その生きる風土にある。

 戦争は海市の消えしあたりより

 海市(かいし)の異称は、蜃気楼。

 広瀬敬雄俳句では、珍しい社会性の俳句だ。現代の世界情勢を徹底的に観察の練磨がなされてきた俳人たちがこの生きる世界を俳句に詠み込むことが出来るとしたら俳句界もさらなる飛翔の展開を迎えるだろう。ここでは、手を伸ばしても遠ざかる海市を追いかけて追いかけていつの間にか消え去ったその辺りに戦争があるのかもしれない。だけれども戦争の一片にさえ巻き込まれると、その手に触れてしまえば指の肉や骨を剥いでしまうような弾丸だったり、命さえ奪い去る。そんな戦争の逃げ水の消えた辺りに戦争の存在を感知する想像力の翼があり、平和だからこそ抵抗の力となる。

 丸刈りになりし少年はるいちばん

 ぐいと穂を揺らして蘆を刈り倒す

 睡蓮を揺らす波その返し波

 崩れつつ噴水なほも突き上がり

 瑠璃蜥蜴去り残響のありにけり

 今伐りし年輪匂ふ雪催

 菜の花をゆくずんずんと溺れさう

 なまはげの零せる藁を祀りけり

 運ばるる逢瀬の二体菊人形

 猪肉をどすんと置いて二三言

 ほどほどに嚙んで海鼠を呑み込めり

 一服も蓮田の中や蓮根掘

 丸刈りの少年と春一番の組み合わせの愛燦燦。

 蘆を刈り倒す際にぐいっと穂を揺らしていることを感知している心の眼も。

 睡蓮を揺らす波の描写力も観察眼の日々の鍛錬の賜物。

 噴水の水の崩れながら上りくる様も年輪の匂いの五感のアンテナを稼働しながら菜の花畑を溺れそうになりながら突き進む実感も得ながら俳人がより良く生きる俳句の種を蒔く。

 「なまはげの零せる藁」や逢瀬の「菊人形」、猪肉の置く無造作な会話、「海鼠」をほどほどに嚙んで呑み込む人それぞれの気質も煙草を燻らせて一服する蓮田の中の人々の風土性も。

 それぞれの俳人の視座は、季語を育んできた俳句の伝統の賜物であり、地球俳句なるものの意義が取りざたされる今だからこそこの俳人の視座は、それぞれの人々の視座は、確かな結実を成している。

 2011年3月11日からずっと震災の記憶を留めているのは、被災者ひとりひとりであると同時に共に歩もうとする様々な人々の心の中にとどめ、生かされているは、砂浜を綾なす風紋の衣を纏う地球の生きとし生きるもの全てがどこかで繋がりあって紡ぎ合って織り成され続けているようだ。合掌。

その他の共鳴句もいただきます。


星凉しアンモナイトの渦の芯

一本の杭に鳥来る冬景色

大海亀空のかなたに去りにけり

童謡は斉唱がよしチューリップ

新海苔の罐のよき音よき軽さ

忘れられて人は二度死ぬ花石榴

蛍狩昭和の闇の濃かりけり

車窓に置く蜜柑ふたつやずつと海

夕立や力士の開く小さき傘

綿虫は淋しい人に近づきぬ

湯気を噴くアイロン勤労感謝の日

顔出してバックするなり焼芋屋

涅槃図に昼月があつたかどうか

米櫃のどんとありたる昭和の日

しやかしやかと土用蜆の殻を捨つ

ゴーヤーチャンプルなるようにしかならぬ

【連載通信】ほたる通信 Ⅲ(56)  ふけとしこ

 渡りの沼

しろがねのよもぎしろがねのあまつぶ

芹を摘む渡りの沼といふ水辺

春霰が叩く切株苔を帯び

この町に知る人ひとり初つばめ

昆虫館までの坂道つばくらめ


・・・

 〈箱根の山は天下の険……〉とは有名なフレーズである。

 太田土男著『季語深耕 田んぼの科学 ―驚きの里山の生物多様性―』(2022年/コールサック社)を読み直していて、その中にもこの箱根山がチラッと出てくるのを面白く思った。

 箱根山、この峠を越えなければ東西を跨ぐことができないという東海道きっての難所である。

 時代小説などに箱根の山より先には云々ということが出てくることがある。つまり箱根の山のあっち側とこっち側には境界線があるということだ。

 私は岡山県西部の生まれだが、子供の頃、つまり昭和20~30年頃の夏には、蝉は油蝉・にいにい蝉が主流だった。たまに熊蝉のシャーシャーという声が聞こえると、庭木に目をこらした。捕まえることができたらその子は英雄扱いされるくらい珍しかった。

 昆虫標本を自由研究に提出する子もいたが、その標本に熊蝉があったりすると、甲虫の雄などと共に注目の的であった。

 私が俳句を始めた頃が丁度平成と重なるのだが、その頃熊蝉の句を作ったりすると、関東の句友達に驚かれたりした。

 それが次第に東上してゆき、いつの間にやら誰も驚かなくなった。

 熊蝉が箱根の山を越えたのである。

 脱線が長くなった。話を戻すと、太田土男さんの著書の中にモグラについて述べられた箇所がある。

 日本に棲むモグラの主な種はアズマモグラとコウベモグラだという。その分布は東海から北陸を結ぶ線を境に棲み分けているとのことだが、最近では西軍のコウベモグラが東へと押し気味なのだそうな。今現在箱根の山辺りで、鍔迫り合い、陣取り合戦をしているらしいと。

 〈天下分け目の箱根山です〉とこの文は締められているのだが、この一言で、太田さんの柔和な顔が、さらにニンマリとしたようにも思えて、私もクスッと笑いながら読んだのであった。

 はっきり憶えていないが、蛙でも同様なことが起きていると読んだことがあったような……。

 単なる勢力争いで押しているのか、地球温暖化によるせいなのかは私には分からないが、研究者には興味の尽きないことであろう。 

(2025・3)

※管理人からのお詫び:「俳句新空間」の更新が遅れたために4月に食い込みました。お詫び申し上げます。4月中にもう1回連載したいと思います。

【連載】現代評論研究:第5回・戦後俳句史を読む(再び風土性について) /北村虻曳・堀本吟・筑紫磐井

(投稿日:2011年07月01日)


筑紫:風土というものは、個人の属する環境で宿命的に決まってしまうものかと言えば必ずしもそうではない。これは風景論を援用したほうがわかりやすい。前回、「風景があって風景思想が生まれるのではなく、風景思想があって目の前の自然から風景を切りとってくると言うことである」と述べた。風土によって与えられる客観的環境から風景が生まれるのではなく、作者の主観的な思想が風景思想を作り出し、それによって風景が生まれる。風土も同様でそれを宿命的な風土と感じない限り(つまり風土思想が生まれない限り)、風土は生まれない。一例を挙げてみよう。

 仲寒蝉が、「戦後俳句を読む(第5回の1)」で赤尾兜子(本名は赤尾俊郎。大阪外語専門学校、のちの大阪外国語大学に学ぶ)について「兜子の俳句ほど「風土」という言葉のそぐわないものはない。実際には彼は兵庫県揖保郡網干町(現在は姫路市網干区)の出身であるがその俳句にふるさとのにおいはない」と述べている。しかし、兜子には兄の赤尾龍治がおり、駒沢大学に学んだ後、網干にこだわった人生を送っている。

 世界的に著名な禅の研究家鈴木大拙が最も高く評価した日本の禅僧は江戸時代初期の臨済宗の盤珪禅師であった(現在も岩波文庫で入手できる『盤珪禅師語録』は大拙の代表的な編著となっている)。難解な禅を一般庶民にわかりやすく説いた盤珪は、禅宗の範疇を超えて、近代日本の大衆思想に大きな影響を与えたと言われている。そしてこの盤珪は網干の出身であった。浄土真宗の家系であった龍治(もちろん兜子もそうであるが)にとって直接的な関係のなかった盤珪であるが、幼少から地元の名士盤珪に親しんでいたことから盤珪研究をすすめ、ついに鈴木大拙さえ果たせなかった完璧な『盤珪禅師全集』を刊行している(大蔵出版)。この全集は現在も盤珪研究の金字塔となっているのである。もちろん、盤珪への関心は全国的、いや世界的にあるのだが、一方で地域の名士でもあり、ローカルな色彩を抜きにして盤珪を語ることもできない。網干の風土が生んだ思想であるということはできると思うのである。

 さて、同じ環境で生まれた赤尾兜子と赤尾龍治にとって、風土性が生まれる契機は、かれらが風土を構成する要素をどのように眺めていたかによる。外的な風土要素が風土を作るのではなくて、内的な風土を眺める目が、風土性を決定するのである。兜子はそれに失敗し、龍治は成功した。これは全く余計な推測なのだが、兜子が盤珪の思想に親しんでいたら、あのような悲劇的な最後はなかったのではないかと思われてならない(盤珪の思想は極めて厳格厳粛ではあるが、肯定的で楽観的である)。

 風土俳句に戻れば、村上しゅらが「北辺有情」を詠む前から風土は存在したと思われがちだが、村上を通さないでは風土の存在は確認できなかったという方が正確であろう(もちろんプレ風土俳句があったことはすでに述べたとおりであるが)。前回、風景と風土は全く違うとは述べたのだが、一方でその発生は極めてよく似ていることも確かである。何れにしてもその主体性こそが問われるべきなのである。

 今回(第5回)で深谷が述べている成田千空の、逃れられない風土性と、風土性から外れようとする努力は、あらゆる運動体に共通しているように思われる。例えば、「前衛」と言えばその前衛に拘束されないように自らは前衛ではないと多くの前衛的作家はいう。しかし、前衛が生まれる前の、脳天気な前衛以前の素朴さを肯定しているわけでもない。やはり「前衛」という掛け声は何がしか必要であったのである。「前衛」と言った瞬間の論理以前の、直感的な概念は貴重でもあり、また時代の要請を受けていたものでもあった。「風土性」も同様であったのである。


北村:ご存知のように、5・7・5型式は、二つの性質を持つ。一つは歴史の古い壇林的俳諧性、もう一つは芭蕉以後の象徴性の強い詩に上昇した俳諧性である。それを経て近代の詩精神の高みに置き換えた子規の「俳句」宣言がある。前者は諧謔・アイロニーを重視する。典型的川柳は諧謔・機知の極端なものである。一方近代以後の俳句は方法的に何を重んじるか。それは視覚に特化したもののような気がする。俳句においては、現在に至るまで視覚性が大きな位置を占めている。いわゆる子規のとなえた「写生」の重視である。

 前回まで、私は「風土」という語を地方性という程度に捉え、風景との区別をあまり意識していなかったが、筑紫は区別を唱え「俳句のキャッチフレーズは風景となじみやすい」とした。すると「風土」はどういうことになるか。身も蓋もない言い方になるが、風土には人の生活が絡んでいて、17文字にそれを取り込むことは難しい。筑紫も言うように、風景も人からの視線・見方が無ければ成立しないが、風土となると生活と景の相互作用であり、時間経過まで伴っている。したがって、風土性の判別は難しい。そこに俳諧性が伴う場合もあるだろう。たとえばネットからこの季節の語を持つ句として選んだ

 昼月や水たつぷりと茄子植うる  高倉恵美子(「空」2008年8月)

 曲りたる山河の味の茄子・胡瓜  関根洋子 (「風土」2006年9月)

などはどうか。ここまで述べてやっと気がついた、「風土」は、一句では成立しがたいのだ。風土を感知させるには、句を積み上げることが必要となるようだ。

 ところで、思想の表出を重視した現代詩の詩人たちにおいては、視覚的ということはしばしば蔑む言葉として用いられた。この場合、思想という言葉は社会・政治思想を指すものである。吉本隆明は「戦後詩史論」(大和書房1978年)において、そのような意味での思想詩に強い共感を示しつつ、それは戦争を通過した世代のものであり、もはや生まれなくなっていると論じている。その後の世代の詩人は日常思想として現在を感受し、孤となり詩は通常の意味・脈絡を解体していく。否定性が詩の内容だけでなく言語にまで及んでいく。現代詩を貫くものは否定性という主張であろう。この評論も視覚性に点が辛く、諧謔性にも乏しいなど冒頭に述べたような俳句とは相性が悪い。その上いつも肝心なところで「倫理」「論理」などというキーワードで躓く私は、吉本のよき読者ではない。しかしこの詩の「内容の否定性」までは納得できる。

 俳句における「風土」も日常思想なのであるが、そこには肯定性が強い。これは生活精神の荒廃に対する抵抗=否定と見ることもできるのだが。

 しかし現代の流れは容赦なく風土を脅かす。吉本は昭和初期のの不定職の詩人たちを重視しているが、今またフリーターの時代が巡ってきた。人の帰属の根を奪い、デラシネの生を産んでいる現代の流れは、古典的な風景を変え風土を消去していく。しかも、もう一つ伝統的な風土を脅かすものが現れた。生活のヴァーチャル化である。人は街を歩いても街を見ないで携帯にログインしている。少数のオタクをのぞけば、しゃがんで蟻の穴をのぞいたりしない。検索で済ます。ノスタルジーもゲームやアニメなどヴァーチャルな世界に向かう。風土はより広い抽象的な景へ拡散していく。これらのことは詩に影響せずにはおかないはずだ。いま俳句や短歌に実際何をもたらしているのだろうか。これは今の若者の多くの作品に触れていない私には難問である。

 第三回で触れた斉藤玄や安井浩司なども、実在を離れ観念世界に入り込むという点では一種の否定性を備えている。むろん彼らは現代の若い世代のような意味での浮遊民ではなく、風土に住み込んだ俳人である。言語構成についても、玄は端正、浩司もまずまず。もっと強烈に否定性の出ている俳句作家も多く存在するが、言語構成の解体の動機までは持たない私には、心底からの共感が湧かない。私にとっては玄や浩司が先達である。


堀本:

(風土&風景についての言説)

 今回の風景論とか風土論についての思考は、近代俳句からはじまり現代にも敷衍している「写生」の思想と密接にかかわってくる。さらに、写生万能では表現しきれない存在の詩たる俳句にむきあうことにもなる。

 即ち我々は「風土」に置いて、我々自身を、間柄としての我々自身を見出すのである。

              和辻哲郎『風土』(昭和10年)(引用は岩波文庫版)

 人間学を基礎におく和辻の風土論では、人間は「寒さ」というのは、「寒いですね」と言う挨拶となりそれが隣人との関係を結び、寒さをしのぐ「家」や「衣服」「暖房」、などもひきよせる、風土とはそう言う社会関係を取り結ぶ自己了解の概念である、と言う。

 また、柄谷行人の『日本近代文学の起源』(講談社学芸文庫)では。

 近代文学のリアリズムは、明らかに風景の中で成立する。なぜならリアリズムによって描写されるものは、風景または、風景としての人間——平凡な人間——であるが、そのような風景ははじめから外にあるのではなく、「人間から疎遠化された風景としての風景」

として見出されなければならなかったのである。(掲出書のうち。《風景の発見》)

 この論理は難解だが惹かれる。検討は今後の宿題とする。

(風土認識としての「富士山」)

 明治期の志賀重昂や正岡子規にあっては、例えば「富士山」に向かう場合は内面よりも社会関係よりも抽象的精神的である。重昂は、地質学の視点にくわえてごった煮のように様々の俳諧や漢詩古歌を並べてしまう。つよく風土に呪縛されているナショナリストの原感情がはっきりでている。先回に、先回の川柳人近江砂人の戦後の富士山の句は、おおかたの日本人ならだれでもそう考えるわかりやすい理想の「富士山」=日本像である。

 すでに子規も「富士山」に同じようなシンボル性を認めていた。以下の詩篇は、明治三十二年作。新体詩風4連各6行第1連。

 直立一千二百丈

 足もとよりぞ起りける

 夏猶寒き白雪は

 空の真中に積りけり

 仰げや高き富士の山

 富士は御国の鎮めなり

(詩篇《富士山》部分。)(筆者註・漢字表記は新字体に直している、それぞれの連の最後はすべてこのくり返し。)

 この詩では、最初に風景を書き締めくくりには共同幻想としての「富士山」が立ち上がる。

 この富士山熱は、明治時代の流行だったそうである。

 さらに、『俳諧大要』の、なかに古句をお手本に作句法などを啓蒙しているそのなかで、こういう「富士山」が出てくる。

 例へば頭巾という題を得たる時に頭巾を主としてものすれば俗に陥りやすく陳腐に傾きやすし。故に時々この題を軽く詠みこみて他へそらすことも忘るべからず。

   初めて東武に下る時

 頭巾とり衿繕ふや富士の晴れ  湖春 

といふが如き富士を主としたるものをものするも差支えなし。このごとくならざれば尽く陳腐に流れてしかも変化すべき区域狭くなるべし。(正岡子規。同書中)

 取り合わせと言う技法の効果を言い尽くしている名鑑賞だが、この句には写生的な観点はあたえていない。頭巾が俗ならば、富士山に関する一般的な観念もまた俗である。とは子規は考えなかった。これが、まさにかれの(明治の庶民の)風土的認識、ナショナリズムの感性的な根拠だった。これをみる限りは、我々は俳句史の上で、写生や季節の呪縛が解けないと同時に、富士山のある日本という精神風土に生きている、現在に至るまでその特別な思いからもまだぬけだしていない。

 と、さらに、文庫本新版の解説が加藤楸邨、ここにこういう「風土」の用法がある。

 (筆者註・日本に生じる文化現象が、従来のやり方では処理できないことを指摘)事に、近時、異質の風土に身を置いたり、旅したりすることがすこぶる多くなり。砂漠とか、極地とかを踏む機会すら多くなってみると、在来の短詩型文学に都合が悪いからとして避けて通るのは/許されない逃避であろう。(歴史上の革新の例を挙げ、子規を近代の先蹤とたたえ)今俳句つくりとしては子規の「俳諧大要」が土台となってあらためてもうひとつの「新しい俳諧大要」が一人一人の課題とならなければならない。(加藤楸邨《新版後記—子規の今日的意義》。昭和58年岩波文庫版前掲書。)

 『俳諧大要』(明治28初出「日本」。岩波文庫所収は初版昭和30年、新版昭和58年)に「俳句は文学の一部なり。文学は美術の一部なり。故に美の標準は文学の標準なり。」(岩波文庫。新版昭和58年より引用)と書き出されている。開明的合理的であると共に、内向と言うことが解っていないな、と思わせるが、読むたびに発見のある警世の啓蒙書である。

 楸邨が言う一人一人の俳諧大要の中で、「風土」という概念も、何らかの転換をはたしうるのだろうか?たとえば、「東北」というキーワードのもとで。これも、宿題とする。了

【連載】現代評論研究:(第5回) ― テーマ:「風土」その他 ― 藤田踏青、土肥あき子、飯田冬眞、堺谷真人、岡村知昭、しなだしん、筑紫磐井、北川美美、深谷義紀、吉村毬子

投稿日:2011年07月01日

●―1:近木圭之介の句/藤田踏青

 海の鳴るランプが覚書的風情

 このテーマの「風土」とは、心象風景の中での作者の原風景を意味しており、それが作品に裏打ちされたものを示唆しているものと考える。それは福永武彦がボードレールを例にとって「未来の詩集とは、彼の持つ世界Kosmosの全部の表現であり、これは最早一季節では無く、季節の推移によって生じる風土である。彼が詩人として得た精神の、また人間として得た人生の、精髄としての風景が、そこではパノラマのように一眸の下に眺め渡せる」「彼は紙上に定着される前の詩を書いていたのだ」【注】と述べている事と相通じるものがある。

 掲句は昭和23年の作品であり、その背景には前に述べた下関、門司での生活がある。よって鳴るのは海鳴りであり、船の汽笛であり、海峡を超えて聞こえてくる機関車の汽笛であり、ランプのチリチリと燃える音でもあろうか。戦後復興の玄関口でもある海港ではあるが、まだまだ戦傷の思いは漂っている。その忘れるはずもないものをメモする如く、「覚書的風情」と突き放した表現にする処に圭之介の俳人としての知的方法論が垣間見られる。この様な表現は下記の句の如く多くみられる。

 砂丘、非具象の月が出ている          昭和37年作

 朝 卵が一個古典的に置かれていた       昭和59年作

 「非具象」も「古典的」も「覚書的」同様、その主眼とするものが意味性というよりもむしろ絵画的描写の手法に傾いているように思われる。更に各句ともに画家・圭之介によって描かれた一幅の画に置き換えることも出来るのではないか。また「言葉を点のようにおいて、その点との構成が、全体的に朧化する方法で、掴みどころのない影像を、何とか形象にしようとする探求を積みかさねている作家」として井上三喜夫が圭之介を評しているのもその描写法に通じるものがあり、頷ける。言葉の構成による形象化と言えよう。

 この閑かな時間に正しく海に向いている椅子   昭和26年作

 汽船が灯る菜畑受胎              昭和28年作

 漁夫の手に濃い夜があるランプ         昭和30年作

 シャッターチャンスの如く時間を一瞬に切り取ったような描写であるが、やはりその裏には微かな時間の揺れがあり、その対象の中で反対に自己が揺すぶられているかの如き感覚があり、詩的な流離感も漂っている。その詩的感覚の由って来る所以は地方都市のある種のプチ都会的感覚を伴なっているからでもあろうか。

 霜がかじ屋のまえ朝の道、もう鉄をうつ     昭和24年作

 互に鉄うつ男である遠く海のたいらにある      同

 かじ屋のぽっと火が秋の遠くまで見ゆる夜る     同

 かじ屋のにわとり道にいておやじと村の人達     同

 かじ屋を点景にした連作である。縦軸に一日の時間の流れが、横軸に季節の推移が交叉する処に作品を成立させ、意識的に複層的に構成したものである。「朝の道」「海のたいら」「ぽっと火が」「にわとり、村の人達」等はかじ屋を取りまき、包み込んでいる存在でもある。「風土」とはその風景に溶け込んだ人間の生活そのものなのかもしれない。

 *「ボードレールの世界」福永武彦・著 平成元年 講談社刊


●―2稲垣きくのの句/土肥あき子

 春近しふるさとの菓子手にとれば(『冬濤』所収)

 厚木に生まれ、関東大震災を機に座間へと転居。疎開先は信州小諸から一里半ばかり入った浅間山麓の農村だというが、その後の東京生活は赤坂、平河町、新宿という都心での転居を繰り返したきくのの風土性は、目を凝らさなければ見えてこない。きくのの俳句に「ふるさと」の言葉が入ったものは掲句を含め3句のみである。

 数珠玉にうから失せゆくふるさとよ(「春燈」49年1月号)

 ふるさとは相模大野の目借りどき(『花野』所収)

 先日、きくのの姪にあたる栄田さんに、きくのが眠っている墓所に案内していただいた。寺は、きくのの父親の生家である座間の先にあり、父親の生家は相模川で舟宿を営んでいたという。

 画用紙を広げたような梅雨空がはらはらと雨をこぼすなか、相模川のほとりの寺に着いた。見おろせば相模川、晴れていれば正面に大山が見えるという地に、きくのは眠っていた。両親や弟が眠るこの墓に、生前きくのは親族を率先して熱心に墓参していたという。

 山門を入ってすぐに大きな榧の木が茂っており、栄田さんは「子どもの頃、来るたびに実を拾わされた」と思い出すように大樹を見上げている。

 きくのの第一句集名は「榧の実」だが、集中榧の実どころか、樹木としてさえ見当たらず不思議に思っていた。晩年になり〈榧の木がかやの実こぼす墓まゐり〉(「春燈」53年1月号)と、真正面から詠んでいるが、きくのには最初からこの清冽な香りを放つ榧が、故郷を象徴するシンボルツリーだったのだろう。

 墓参には田んぼがずっと続く畦道を歩いて、土筆を摘んだり、蛙をつかまえたりしたという土地も、今ではカラフルな住宅が並び、すっかり整備されていたが、幅広い堰と大きな水門が残る相模川の姿はそのままであるという。周辺を歩いていると、古くからこのあたりに住んでいるという方があれこれと尋ねてきたが、それは特定の名字を言えば、どこそこの誰であるかがたちまち判別できるといったような、小さな集落特有の「くちさがない」環境であることをじゅうぶんに示唆するやりとりだった。

 ひと、われにつらきショールを掻合はす(『榧の実』所収)

 一瞥に怯みし伏目春ショール(『冬濤以後』所収)

 人のくらしに立入り禁止花ざくろ(『花野』所収)

 人との機微にことさら敏感だったきくののこと。どれほど愛着を感じても、この地に永住することは決してできなかっただろうと確信した。

 きくのが徹底して都会を好んだのは、人間関係が淡白で済まされることがなにより大きかったと思われる。そして、都会で暮らすことは、つねに仮住まい感覚であり、家を放って旅に出ることになんの躊躇も感じなくてもすむ。〈青胡桃旅を栖といふことば〉(『冬濤』所収)と、涼しい顔で言い放つきくのの俳句に「旅」の文字が入っている作品は73句にものぼる。先のふるさとと比較すると、どれほどの比重であるかがわかる。

 しかし、それでもきくのの俳句にも確固たる風土は存在する。幼い頃育った環境に山があり水があり、心の景色に刻んでいたものがふと去来するといったそれらの表出の仕方には、捨てても捨て切れないという粘度はない。

 軽井沢を好み、夏になるたびに二ヶ月もの長い期間を過ごし、多くの句を残していることを思うと、きくの自身も自分のなかにある懐かしい記憶が消えてしまわないように、時折確認する必要があったのだと思われる。都会に暮らし、旅を重ねているだけでは、自分の芯が消えてなくなってしまうような不安を覚えたのかもしれない。

 軽井沢の山や川は、故郷を思わせ、それでいて自分との距離を置いてくれる最適の場所であったのだろう。軽井沢での作品は、馴染みの地であることの心安さが生んだ親しさで詠まれている。

 山の日のすでに秋めけりパン買ひに(『榧の実』所収)

 落葉松の秋風をこそ聴くべかり(『冬濤』所収)

 栗育つ朝はあさ霧夜は夜霧(『冬濤以後』所収)

 澄む水のゑくぼ生れては消ゆる(「春燈」昭和45年11月号)

 しかし、どれほど愛しい第二の故郷であっても、ひとわたり確認が終われば、「また来年」と手を振るように、ごくあっさりと帰京する。

 晩年、鵠沼に戻ったり、東京に転居したり、終の住処となる場所はどこにいっても、いつまでたっても持てないきくのに、風土性にこだわらなかった淡白さがここに災いしたのかもしれないと、思わず身につまされるのだ。

 つき合ひもなき短夜のドアぐらし(「春燈」昭和57年8月号)


●―4:齋藤玄の句/飯田冬眞

 いつの日の山とも知れず夏大空

 掲句はいわゆる「風土俳句」ではない。筑紫磐井がいう「風土俳句」の定義「地方在住の作家による土地固有の自然と人間の生活をテーマにした俳句」(*1)からはあきらかに外れている。あえて今回この句を選んだ理由は後に述べることにする。

 玄にも「風土を詠んだ社会性俳句」はあるので、それらをいくつか見ていこう。

 うなだるる馬に凍河の砂利積み上ぐ

 馬は肋(あばら)のなりに皺みて凍砂利牽く

 農乙女堕つる未踏の雪一路

 漁婦等の落涙湾を漂ふ冬菜屑

 殖ゆる凍光竹輪工場へチャルメラ吹く

 上記5句はいずれも昭和31年作で第3句集『玄』(*2)所収。齋藤玄は昭和28年第2次「壺」を休刊後、断筆時期があったことは以前述べた。昭和30年からわずかながら句作を再開。札幌在住時代に土岐錬太郎、寺田京子らと同人誌「楡派」を刊行する。上記の句はその頃のもの。句集では「北見玄冬 六十二句」の前書がある。

 一句目と二句目は北海道北見市滝の上で砂利川を詠んだ連作「(一)滝の上」の中の句。凍った砂利を満載した車を肋骨の透けた痩せ馬に牽かせている風景を詠んでいる。三句目は凶作にみまわれた農家の冬の生活をスケッチ風にまとめた連作「(二)凶作地帯」のひとつ。貧農の娘が身売りするために足跡もない雪深い道を街に向かって歩いて行く後ろ姿が浮かぶ。四句目と五句目は「(三)紋別港」の連作から。厳冬の中、ちくわ工場で働く女工たちの姿を描く。

 これらは筑紫の言葉を借りるならば、「地域在住者による社会性俳句」という句群。筑紫の言うように「倫理的態度(滅びゆく村や苛酷な肉体労働への同情)」は濃厚である。単なる写生句ではないが「北国の生活」という類型的な「風土」のイメージを打ち破るまでには到っていない。凝視したものを内面化したうえで、詩語に昇華させてゆく晩年の齋藤玄の句風とはあきらかに異なる。むしろ晩年の句風は、こうしたスケッチ句の積み重ねで鍛えた基礎表現力に裏打ちされたものなのであろう。

 こうした玄の「風土を詠んだ社会性俳句」を踏まえて、掲句について見ていこう。「いつの日の山とも知れず夏大空」は、昭和52年作、第5句集『雁道』(*3)所収。この年の3月、玄は前立腺手術のために北海道の砂川市立病院で一ヶ月余りの入院生活を送る。掲句は退院後の作であると思われるが、入院生活者にとって、窓から見える風景が唯一の自然であり、外界である。ことに山多き北海道の地であれば、窓から見える山の姿が病者の心を慰めたであろうことは想像に難くない。それは眼前の山の風姿と病者の入院生活の喜怒哀楽・別離とが結びついて記憶のひだに刻み込まれてゆくからである。事実、玄は入院生活中に窓から見た山を次のように詠んだことがある。

 今死なば瞼がつつむ春の山 昭和49年作『狩眼』

 昭和49年春、胆嚢炎を患い滝川市立病院に入院した折のもの。玄にとって「生まれて初めての入院で、気持が甚だ落ちつかなかった」という(*4)。その不安を解消するためか、作句に打ち込み、「入院句録四十句」を残している。そのなかの一句である。この句について玄は自註で次のように記す。

「病床上で、もし今死んだら、という思いが頻りにした。窓から見える長閑な山のたたずまいを、瞼(まぶた)に持ってゆけるだろうと」(*4)

 入院中の玄にとって「窓から見える長閑な山」が病者を慰撫する“風景”であったことは、この自註からも感じられるだろう。まさに入院生活の日々の記憶を象徴するのが「春の山」なのである。生命力に満ち溢れた「春の山」を病床の作者が目に焼き付けてあの世に持ってゆく。まさに風景は死と対価なのだ。「瞼がつつむ」の措辞にも凝視の作家である玄の姿勢がうかがえて、秀抜である。

 49年の入院が玄に晩年意識を芽生えさせたことは、第4句集『狩眼』後記に「もはや、そう長くもない生の日々であれば、一層密度の濃い俳句を作らねばならない」と記していることからも推察できる。この49年あたりから玄の作風は変化し始めている。

 あらためて掲句に戻ることにする。自註に玄は次のように記す。

 夏の大空の下に山があった。いつの日か、どこかで見た山であった。そしていつも見なれている山でもあった。夏の大空の下では妙な現象も起きる。(*4)

 広く、深い真夏の大空の下で、玄は見慣れた山を見ていた。見ているうちに「いつの日か、どこかで見た山」に思えてくる。それは先に掲げた滝川市立病院の窓から見た「春の山」であったかもしれない。眼前の風景がいつの日か見た山の記憶にすり替わり、今ここにいる自身の存在すら揺らいでくる。素肌に刺さるほどの太陽の光と鼻腔をくすぐる草木の香、虫たちのかまびすしいまでの鳴き声に満ち溢れた生命のるつぼのなかで、山を仰ぎ見ている自分は消え、山そのものとなって夏空を見上げている。それが自註で言う「夏の大空の下」で起こった「妙な現象」だったのではないか。

 死を予感している玄には生活報告のための風土など必要なかったのだ。旅行者でも地域在住者でもない、まさに幻視ともいえる視座で、山河と向き合い、「自然」と一体化することこそが「死」という瞬間を乗越えるために必要であったからだ。


*1 「詩客」2011年6月3日配信「第3回戦後俳句史を読む」のなかでの筑紫磐井の発言。

*2 『玄』昭和46年発行。『齋藤玄全句集』昭和61年 永田書房刊 所載

*3 『雁道』昭和54年永田書房刊、『齋藤玄全句集』昭和61年 永田書房刊 所載

*4 自註現代俳句シリーズ・第二期16『斎藤玄集』昭和53年 俳人協会刊


●―5:堀葦男の句/堺谷真人

 縄より窶れて竜巻あそぶ砂礫の涯

 句集『火づくり』(1962年)所収「太陽の専制」50句より。

 1960年5月15日、葦男は東京を発ち、空路メキシコシティへ向かった。国際棉花諮問委員会に外務省調査員の資格で出席するためである。6月3日、アメリカに入国。ワシントン、ニューヨーク、ダラス等を歴訪し、西部綿作地帯を視察の後、7月にメキシコ再入国、西海岸を約1週間自動車旅行した。更にロスアンジェルス、サンフランシスコ、ホノルルを経て、7月14日に帰国。まる2ヶ月に亘る海外体験であった。

 海を欲る輸送車こぼれつぐ棉花       『火づくり』

 悩む眉間たち太陽と繰綿機(ジン)の挟撃    同

 脛の革具の集団の音滅びの音          同

 この年の日本人海外渡航者数は11万9千人余。半世紀後の1,663万7千人(*1)の僅か140分の1に過ぎない。葦男は同時代の俳人としては稀有ともいえる海外詠の機会を持ったのである。帰国後発表した連作「太陽の専制」は、山口誓子(*2)や高柳重信(*3)の批判を浴びた。しかし、前衛俳句の旗手として都市生活者の暗鬱な抒情の詠出に傾斜していた葦男が、メキシコという日本とは全く異質の風土から摑み取ったものは大きかった。

 昭和三十五年のメキシコ旅行吟は、それまでの体験や概念を吹き飛ばす程の「心意のデモンの爆発」となった。堀はその事情を「自然と親和関係にあった「季」の美学では、到底立ち迎えられない必殺の自然との対峙」といっており・・・(*4)

 上記は安西篤による葦男論の一節であるが、特殊日本的風土に依拠する「風土俳句」が漸く俳壇の注目を集めつつあった当時、「季」の美学だけでは太刀打ちできない風土の存在を改めて強烈に印象づけた葦男作品は実にポレミカルな問題を提起していたのだ。それは、俳句の国際化、外国語俳句など、風土的多様性と俳句との関連性を論ずる際に今なお繰り返し俎上にのぼる諸問題の、いわば濫觴といってもよかった。

 さて、後年、還暦前後になると、葦男の関心は風土よりもむしろ風景へと向かってゆく。「姿情一如」を説き、良い風景と出会うための心の在り方を重視するに至るのである。とはいえ、下のような文章を目睹するとき、「我々は風土において我々自身を、間柄としての我々自身を、見いだすのである」(*5)という和辻哲郎の風土論のエッセンスが、葦男流に咀嚼され、風景論として再構成された形跡を筆者はそこに見る思いがするのである。

・・・・・姿情一如の表現を旨とする思いが高まって来た。作句の積み重ねを通じて、自己が他者において自己を見る、という態度が、多少とも身について来た、ということでもあろうか。

 このような態度を自覚するにつれて、例えば、風景、風物、風姿などのことばに冠された風の字には、どうやら、享受者または表現者の価値観に基づく主体的選択ないし判断のはたらきが暗示されているように思われて来て、ひたすら景や物の客体的表現につとめても、そこにおのずから風の字が暗示する主体のはたらきが加わっているのだと思うようになった。(*6)

*1 法務省『出入国管理統計』2010年出国者数

*2 『朝日新聞』大阪本社版1960年10月11日「前衛を探る」

*3 『俳句年鑑』1960年12月「人物スポット」

*4 『堀葦男句集』1970年「解説(堀葦男小論)」

*5 『風土―人間学的考察』岩波文庫1979年

*6 『山姿水情』1981年「あとがき」


●―8:青玄作家(日野晏子)の句/岡村知昭

 夫の過去わが過去月に照らさるる

 「日野晏子遺句集」(平成7年)の昭和21年~昭和30年の章より。一句に書かれた言葉そのものは、長年連れ添った夫婦の感慨として一読すぐに納得できるものなのだが、肝心の「月に照らさるる」過去が夫と自分自身のそれぞれのものであることに気づくとき、1句に潜んでいたかすかな陰翳を次第に帯びてくるように思われるのが、読んでいて興味深く感じたところである。夫の過去にいったい何があったのか、もしくは自らの過去に何事が起こったのかはともかくとして、輝ける月光の下に曝け出されたふたつの過去が、いま互いに寄り添うように佇んでいることに対する妻としての喜びが、かすかな陰翳として1句において彩りを添えているのだ。

 「風土」というものを自らが拠って立つ場所、更には「原点」という風に読み替えてみるとき、草城を慕って「青玄」に集まった若き俳人たちと晏子とは同じ「日野草城」という俳人を自ら拠って立つ場所として選びながら、草城に対する実際の立ち位置においては微妙な違いを見て取れるように思う。ほとんどの「青玄」の若き俳人たちにとっての草城へのまなざしは、戦前に新興俳句の雄として「旗艦」に拠り、「ミヤコホテル」に代表されるモダニズムあふれた作品の数々を発表した俳人の肖像へ向けられたものでもあり、戦後の病床生活を余儀なくされた草城の姿を目の当たりにしても深い思いは決して揺らぐことはなかった。彼ら彼女たちにとってまぎれもなく草城の作品こそが自らが拠って立つ原点であったわけである。

 一方、晏子にとっても草城の存在の大きさは計り知れないものがあるのだが、その原点となっているのは、いまこのときに自らが看護している夫そのものの姿である。新興俳句の雄としての夫は俳句を作っているとは知っていながらもどこか遠い存在であり、ましてや大いに物議をかもした連作「ミヤコホテル」に登場する幼な妻に擬されたことなど、彼女にとってはまったくの遠い場所で起こった出来事でしかなかった。新興俳句の雄であった草城を知らないままの晏子にとっては、俳句を作るにあたっての自ら拠って立つ原点はあくまでも目の前で病に臥せる夫であり、その夫とともにある自分自身の姿である。ある時は俳句を書くようになってはじめて知った夫の俳人としての顔へ驚き、またある時には自らの俳句を真剣なまなざしで読もうとしている夫の姿に深い喜びを得る、そのような日々の連なりこそが「日野晏子」という俳人の原点なのである。

 あまりにも作者の伝記的な要素を強調し過ぎるのは作品鑑賞にはふさわしからぬ振る舞いであろうとは承知の上で、それでも草城と晏子の夫婦が歩んだ道のりを踏まえて掲出の1句を見直してみると、月光の下に曝け出される「夫の過去」とはもしかすると新興俳句の雄だった頃の草城の姿ではないだろうかとの思いにかられる。彼女は俳句という月光によって夫の過去と現在をくまなく照らし出し、これまでの自分自身が知り得なかったもうひとりの夫、俳人「日野草城」に出会った。過去も現在もくまなく照らし出された病床の夫に向かい合う彼女の姿が深い官能的な喜びに包まれているようにすら見えるのは、互いの原点を曝け出しあう関係となった夫と自分との間に、確かな交感のときが訪れているのを全身でくまなく感じ取っているからではないだろうか。


●―9:上田五千石の句/しなだしん

 上田五千石、本名・明男は、昭和8年10月24日、父・傳八、母・けさの三男として東京に生れる。

 生家の代々木上原では満ち足りた幼年期を過ごすが、戦時に信州へ疎開し、その後細かく長野、山梨、静岡と転居する。その間、昭和20年には東京の自宅を空襲で失う。

 五千石の作品には、この戦時の身の上から“流寓(りゅうぐう)”を使ったものが散見される。流寓とは放浪して異郷に住むこと。句集『田園』では〈流寓のながきに過ぎる鰯雲〉がそれである。

 そんな流寓の中でも明男は、文学に、剣道に、遊びにと少年期を謳歌する。

 昭和22年、明男14歳とのとき、静岡県立富士中学校(現、富士高校)2年に転入し、校内文芸誌「若鮎」の制作に加わり、その「若鮎」に自ら次の句を発表する。

 青嵐渡るや加島五千石      明男

 著書『春の雁』(*1)でこの句に触れ、この句が校内で多少評判になったと記し、「加島五千石」とは、江戸時代、富士川のデルタ地帯に造成された新田・五千石のこと、と述べている。

 さらに、この句を引っ提げ、富士宮浅間大社で開かれた水原秋櫻子の句会に出かけたが、句会はスコンクであったこと、そして秋櫻子がこの「加島五千石」というものを知らなかったのではないか、などのことを書き連ねている。

    ◆

 もうお分かりの通り、“五千石”という俳号は、この句による。

 父・傳八は、「大人の句会に勇を鼓して出たことを賞し」て、この「五千石」の句は「天下の秋櫻子の目をくぐった句、これを縁に俳号を“五千石”にせよ」と言ったのだという。

 ちなみに、父・傳八も俳人で、俳号を古笠(こりゅう)といい、明治30~40年代もっとも俳句に熱中したとのこと。同書の別な項には次のように記されている。

 内藤鳴雪選『遼東日報』に、

 青嵐渡るや国のあるかぎり    古笠

 梁山伯八百人の夜長かな     〃

というスケールの大きな句を発表している。

     ◆

 さて、この古笠の一句と、先の明男少年の「五千石」の句を並べてみよう。

 青嵐渡るや国のあるかぎり    古笠

 青嵐渡るや加島五千石      明男

 そう、「青嵐渡るや」が同じなのだ。そして句の景の大きいところも似ている。

 遡れば、上田家では折に触れて句会が開かれ、明男も幼年の頃から指を折って作句した、と『春の雁』にも記されている。この一致を見ると、子は親を見て育つ、との思いをあらたにする。

     ◆

 なお、五千石の風土性といえば、〈虎落笛風の又三郎やーい〉を含め、賢治の盛岡を挙げるのもひとつの考えであろう。しかし私は、少年期を実際に過ごした山梨がやはり五千石の風土にふさわしく、五千石としての正式な発表句とは云えないが、俳号の由来となったこの「五千石」の句こそが、五千石の風土の根底と云ってよいではないか思うのである。

*1 『春の雁―五千石青春譜』1993年10月24日邑書林刊 (10月24日は五千石の誕生日)


●―10楠本健吉の句/筑紫磐井

 枝豆は妻のつぶてか妻と酌めば

 昭和49年。第2句集『孤客』より。

 「風土」というテーマを選んでおきながら、憲吉には風土的な俳句は少ない。大阪の北浜に生まれたから、大阪が風土?そんなことはありはしない。初代灘屋萬助が天保年間に大阪で料理屋を開業、2代目が明治になってから長崎料理の味を加えて大阪今橋に料亭「灘萬」を開く。3代目は第1次世界大戦講和会議の日本全権大使である西園寺公望公爵の料理人として随行、灘萬を世界に知らしめた。経営の才に闌けていた3代目は、食堂やらスーパーマーケットなどの新機軸を打ち出し、大衆化路線も兼ね備えた。それが功を奏したのが戦後で、大阪の本店を、東京のホテルニューオータニ山茶花荘に移し、昭和61年東京サミットの公式晩餐会をこの山茶花荘で開催した。この時の首脳は、中曽根康弘首相、レーガン大統領、サッチャー首相だったとか。関係ないことながら、昨今のサミット首脳の何と小粒になったことか。憲吉はこの店のぼんぼんとして育ち、専務を務めていたから、憲吉の風土は「灘萬」だったと言わねばならない。伝統的でありながら、洒落ていて西洋かぶれで、大正デモクラシーのうきうきとした気分に乗った楠本憲吉は灘萬の中から生まれた男であったといえよう。憲吉の師の日野草城もそうした風土にある時期なくはなかった。

     *

 今回選んだのは、そうした外在的な風土ではなく、自らがつくり出した風土である。今見ても女性に好かれそうなタイプ、というよりは俳壇史上もっともいい男で金があった【注】から至る所で遊びまくり、自らも語り周囲もそれを知っていた。その家庭がどういう状況になっているかは想像するに難くない。先日も、夜中まで遊びまくってタクシーで自宅に帰ったが、奥方は先に寝てしまっており、憲吉先生は勝手口からそっと家に消えていった話をその場で見送ったお弟子さんからじかに聞いたが、これは「風土俳句」の舞台である東北より、もっと修羅の地であった。

 掲出句、ある和睦が成り立って酒を酌み合っているが、いつ何時噴火が始まらないとも限らない緊張した平和である。つぶてとなって飛んでくるのは、言葉か、枝豆か。武器こそ違えここは戦場なのである。なお、どう見てもここで飲んでいる酒はビールである。成功した俳句は、何も描かなくてもそうしたディテールを浮かび上がらせてくれる。独特の言語世界が存在している。

 だからこうした家庭風土俳句は枚挙のいとまもないほどであるが、みなそれぞれに成功している。

 ヒヤシンス鋭し妻の嘘恐ろし 52年4月

 ヒヤシンス紅し夫の嘘哀し  52年5月

 言っておくがこれはよく見る「連作」ではない。心を新たにして俳句を読むのであるが、家庭風土がちっとも変わらないからついつい翌月も自己模倣的に同じテーマで詠んでしまうのである。嘘が充ち満ちている家庭、妻は恐ろしく、夫は哀しいと作者は言うのだが、元凶は99%自分である。第一、ちっとも深刻でないことが憲吉の反省のなさを物語っている。しかしこれが文学であるのだ。詩人や純文学者が認めてくれるかどうか知らないが、「黄表紙」「洒落本」の世界に通じる、2流志向の本格文学である。昨今の1流志向の末流文学(俳句)とは違うのである。その証拠に、我々は癒される。

【注】憲吉は俳書の収集家としても有名で、憲吉が死んだときは、蔵書が市場に出回るのではないかと言うことで、神田では俳句関係の古書が値崩れを起こしたという伝説がある。


●―12:三橋敏雄の句 / 北川美美

 絶滅のかの狼を連れ歩く

 収録の句集『眞神』。これにより三鬼とも白泉とも異なる三橋独自の作品へ昇華した。掲句は、1969(昭和44)年、49歳の作と言われている。

 『眞神』には、日本の風土を行き場のない復員兵が彷徨う気配を感じる。そこは昭和の激動から忘れられた山村。すべてが戦前と同じように息を潜めるように生きている。われわれが置き去りにした日本の風土、古来の習慣、家族、一句一句に戦場へ赴いた人間の枯渇を感じさせる。戦後昭和の風景がみえる。阿部公房・松本清張原作の映画がフラッシュバックする。

 『まぼろしの鱶』で感じた洋行の眼は、『眞神』以降、確実に日本の風土に向けられていることがわかる。ただし、日本のどこそこという限定のものではない。

 草荒す眞神の祭絶えてなし 『眞神』

 日本の風土にわれわれの血に宿る共通意識(アイデンティティ)がある。それは、「季語」と似ている。言葉が五感として働き、一語一語が意識の中に鎮まっていくことを発見する。シナリオでなく、まず言葉。言葉から生れてくるものを俳句の「型」との葛藤をもって、俳句形式の「形」の上に解放した。先に没頭した新興俳句、しいては戦火想望俳句と決別し、独自の無季句を得たいという執念が伺える。『眞神』同時期製作の句集に『鷓鴣』がある。*1)

 「かの狼」。絶滅のニホンオオカミの表現を「かの」としている。この「かの」の着地点はどこなのだろうか。「個々の読者が個々の全経験をかけて、どのようにでも参加してくださることを望みたい。」(自作ノート『現代俳句全集 四』1977年/立風書房)とある三橋のコメントに従うには全経験は心許無いばかりであるが。

   『麦藁帽子』 西条八十 

 母さん、僕のあの帽子、どうしたんでせうね?

 ええ、夏、碓氷から霧積へゆくみちで、

 谷底へ落としたあの麦わら帽子ですよ。

 (略)

 『人間の証明』(森村誠一1976年/角川書店)の有名な詩。この詩の妙は「あの」の2回使いである。読者に特別なものであることを想わせる。映画『人間の証明』(1977年公開)の中にも「あの」による不可解さの効果が発揮されている。

 では掲句、「かの狼」。特別な「狼」であることを思う。どこかにある共通の記憶、すでに明治時代に「絶滅」とみなされ、信仰として崇められた「かの狼」。絶滅品種である確約はなく、ニホンオオカミを見たという話は伝説のように言い伝えられている。神と崇められた狼を絶滅させたのは人間である。*2)アイロニーという見方もある。「かの狼」と特別な位置に置かれた言葉がインプットされ、狼にまつわることを思い、五官が動く。そして意識となった五感を「連れ歩く」。失われた狼の手触りが伝わってくる。西条八十の「あの」の二回使い効果は、帽子が母子の迷宮である予感を与え、三橋の「かの」には俳句形式の迷宮を感じる。「かの」は「絶滅の狼」を越えるもの、その予感を示唆していると読める。

 俳句形式そのものが三橋敏雄の主題である。日本の風土の中にある共通意識(アイデンティティ)を読者との連結とし、今までにない俳句、五感に迫るリアルなもの、その一句一句が『眞神』にある。

 北欧神話の中に詩の神オーディンにつく一対の狼「ゲリとフレキ」がいる。すなわち詩を連れ歩く。絶滅の詩を連れ歩く「予感」、それは、作者・三橋敏雄本人。掲句「絶滅のかの狼」は三橋の代表句であると思う。

 三橋敏雄は、風土を五感として捉え俳句形式に臨むことを終生詠んでいる。*3)

*1)『眞神』(収録句数130句)。『鷓鴣』(収録句数162句)。現在、文庫化されたものが入手可能。『眞神・鷓鴣』(三橋敏雄句集・邑書林句集文庫・¥945税込)

*2)「日本オオカミ協会」という団体がある。さらに映画「赤ずきん」(アメリカ映画2011年公開)全世界で狼ブームか。

*3) 晩年の句集『しだらでん』では、「みづから遺る石斧石鏃しだらでん」と詠んでいる。全句を通してみると、直球の意味のみならず俳句形式自体を詠んでいることがよくわかる。


●―13:成田千空の句/深谷義紀

 大粒の雨降る青田母の故郷(くに)

 千空は生涯津軽に執し、その地を離れることなく一生を終えた。萬緑関係者から再三東京に出てくるように勧められたが、決して首を縦に振ることはなかったという。千空が俳句を志したときその心にあったのは「津軽の俳人はいかにあるべきか」という課題であり、結局、最後まで「津軽の俳人」としてその生を全うしたのである。したがって、旅吟を除けば、句作の対象は津軽の事物であり、その作品の多くが津軽の風土色を帯びたものにならざるを得なかったのは、ある意味で当然の帰結である。ちなみに、第1句集の名も「地霊」である。

 さて「詩客」2011年6月3日配信の「第3回戦後俳句史を読む」のなかでの筑紫磐井が風土俳句について述べた発言は、戦後俳句史におけるその立ち位置を的確に指摘したものであり、そうした流れに千空がどう関り、それをどう受け止めていたかを少しみていきたい。

 上記のように「津軽の俳人」たることを貫徹した千空であるが、実は風土俳句には否定的であった。

 私なんか、八戸のいわゆる風土俳句に批判があるわけです。風土風土って、風土だけを売りものにしてどうなるんだ、もっと普遍的な俳句の世界があるだろうって。で、あるとき、アンソロジーにこう書いたことがあるんです。「われわれは風土に生きていることは間違いない。と同時に、現代に生きているんだ。現代に生々しく生きているということと風土に生きているということ、この二つの問題を俳句の世界で生かす必要があるだろう」と。

                      (角川選書「証言・昭和の俳句」より)

 ここで千空の言う「いわゆる風土俳句」は、先の筑紫磐井の言を借りれば下記のようなものである。

 風土俳句とは、昭和34年の角川俳句賞で村上しゅらが受賞した「北辺有情」を契機として生まれた俳句の傾向で、地方在住の作家による土地固有の自然と人間の生活をテーマにした俳句をいう。

 そして、村上しゅらこそが千空の言う「八戸のいわゆる風土俳句」の中心作家であり、八戸俳句会の「北鈴」の編集長を務めていた。当時の八戸俳句会における風土俳句熱は凄まじいものがあり、「完全に風土性俳句を目標とする」(角川選書「証言・昭和の俳句」における千空の発言)ことにより村上しゅら以降も15年間に北鈴からは木附沢麦青、米田一穂、山崎和賀流、加藤憲曠、河村静香と角川賞受賞作家が5人輩出することとなった。筑紫磐井が挙げた角川俳句賞を受賞した風土俳句の代表作家たちが全て含まれており、戦後俳句史を振り返ったとき風土俳句の実作という点ではかなりの部分をこのメンバーが担っていたといえるのではないだろうか。

 俳句賞受賞の文学的価値自体については、受賞如何が作品の優劣をそのまま表わすものではないという意見をはじめ、種々の議論があるだろう。しかし、中央から離れた地方においてその地域の俳人たちに大いなる勇気をもたらしたことは間違いあるまい。この時期、八戸俳句会と千空の属する青森俳句会のメンバーは交流を深め、それぞれの所属結社の垣根を越え合同句集を発刊するなど、千空が「青森の俳句ルネッサンス」と称する隆盛期を迎えることになる。実は、この頃中央俳壇では現代俳句協会の分裂騒動があり、その余波が青森の俳句界に及ぶことを回避しようと、千空は心を砕いた。千空の中では「(社会性俳句が志向する)風土性のあり方」よりも「青森の俳壇のありよう」の方がずっと大切だったのである。

 この辺で、掲出句に戻ろう。

 津軽といえば、誰しも想起するのは雪である。その意味では、前回採り上げた

 人が死に人が死に雪が降る

なども、千空の風土詠として無視できない作品だと思う。他にも津軽を詠んだ佳句は数多く、敢えて一句を選ぶのはなかなか悩ましい作業であるが、ここでは掲出句を選んだ。

 句集「地霊」所収。昭和22年、千空の初期の作品である。当時、千空は帰農生活を送っており、ある日農作業の帰り道で俄か雨が降ってきて青田がざわめいた。そのときに大地の息吹きを感じ、一句を得たという。何の作為もない、確かに「口を衝いて生れた一句」(本人談)であろう。

 青森空襲で地獄を見てしまった心が、一転して母郷の青田の生気に触発された句だったと思われます。(角川学芸出版 成田千空著「俳句は歓びの文学」より)

 上記筑紫磐井発言の最後に採り上げられた相馬遷子と千空を比べてると、両者とも社会性俳句作家ととらえられていないのは当然として、風土俳句作家ともいえない。この点は共通している。両者の差異は、作者とその居住地との「距離感」であろう。遷子にとって佐久への帰郷はやむにやまれぬ事情があってのことであり、当初は地元の人達とも打ち解けるというには程遠い関係だったようである。そのためか、ある時期までは佐久の地で開業医を営む自分にもどかしさを感じていたようなところがある。それに対し千空にとっての津軽は、まさに掲出句のように母なる故郷であり、その地こそが安住の土地だったのである。


●―14:中村苑子の句【テーマ:水妖詞館ーあの世とこの世の近代女性精神詩】2./吉村毬子

(2013年3月1日金曜日)

 第1回でテーマを決めていなかった為、第三句集『中村苑子句集』集中の「四季物語」(昭和54年)から一句を揚げる。

 俳句とは業余のすさび木の葉髪

 高柳重信の富士霊園の墓に刻まれている次句がある。

 わが尽忠は俳句かな   高柳重信

 文字通り、俳句に忠義を尽くすということである。

 俳句の渦の中で半生を共に生きた二人の俳句への思いの違いは何であろうか。

 「業余」(ぎょうよ)は、本業を果たした余力でする仕事。「すさび」は、気の向くままにすること、気慰みの技。

「木の葉髪」で表現されているように、老年に差し掛かった66歳刊行の句集の作品であるが、その4年前に『水妖詞館』、3年前に『花狩』という強烈な個性の句集を出版してから、間もない句にしては、落ち着き過ぎている。

 重信が「わが尽忠」と断言した俳句を、私には、「業余のすさび」だと言い放つ。

 高柳重信の要請に寄り、苑子が在籍8年の「春燈」を辞して、重信と『俳句評論』を創刊したのが昭和33年(45歳)であるから、20年余りの歳月を、自宅を発行所にして、共に支えあい、才能溢れる個性豊かな同人達と俳誌を続けていくことは、想像を絶する。

 苑子は、大正2年に生まれ、一女性として家庭を持ち子も育てあげた。前夫を戦争で亡くし、自身も戦前、戦中、戦後を生き抜いた。関東大震災も経験している。

 10年間の苑子の指導の間に間に聴いたそれらの話を繋ぎ合せれば、死にたくとも死には導かれなかった。寄って貫かれた「生」が本業であり、俳句は「業余」であると書き留めた意味は深い。苑子はその「すさび」に命を懸けて挑んだのである。

 傘寿の祝いの会で

「苑子先生は、本当にお元気で長生きですね。」

と言った私に

「私は業(ごう)が深いのよ。」

と答えた顔が忘れられない。


 さて、『水妖詞館』一句鑑賞に戻る。

 恐れつつ葉裏にこもり透とほる

 中村苑子の第一句集『水妖詞館』は、昭和50年(62歳)に刊行されている。

 前号の年譜に記したように、戦死した新聞記者であった夫の遺品の句帳をきっかけに俳句を書き始めたのが32歳である。

 それまでは、小説家を目指し、家出をしたこともあり、母の反対を押し切って日本女子大学に入学するが、結核に侵され中退している。ある会で、林芙美子から「あなたは、躰が弱いから、俳句のような短いものが合っているわよ。」と言われたことも、夫の句帳と共に、俳句を選ぶ要因の一つだったかも知れないと、話していた。

 昭和20年(33歳)には、藤沢に疎開中、久米正雄・川端康成・高見順・中山義秀の四氏が設立、運営する貸本屋「鎌倉文庫」の事務を手伝い、本格的に俳句を始める以前に、文学関係の方々と交流していた。その頃のことを話すときは、本当に楽しそうであった。その頃のことを随筆集に残している。苑子は、随筆に長けていると思う。俳句とは違う、飾りのない素直な文章で読みやすい。

 昭和22年(35歳)に「鶴」の石橋秀野選に3回入選。(私は、石橋秀野を読みなさい。と言われ続けていたが、昨年やっと古本市で見つけ、墓参で報告した次第・・・)

 翌年、日野草城「青玄」に三樹美子の名で三句入選。

 枯菊を刈らむとするに香を放つ

 ふるさとに来て旅愁はも菜の花黄

 冬虹見しやさしき心にて訪へり

 そして、昭和26年(37歳)久保田万太郎「春燈」に入会。初入選は

 人の気配する雛の間を覗きけり

 以後は、句会歩きも投句も止めて「春燈」一筋。

 しかしながら、先にも記したように、重信の要請で『俳句評論』を設立する。

 そして、満を持して17年後、62歳にして処女句集『水妖詞館』を発刊した。この句集は、1頁に二句を納め、全句で139句という、30年間に亘る俳句苦業に於いて、厳選を重ねたと思われる。

 高屋窓秋の序文を抜粋する。

「(前略)通読していて心のやすまるひまもないような気がして、すこしぐらい息ぬきになる作品が含まれていてもよいではないかと、正直いって、ぼくはそう思った。しかしながら、句集というものは、一句一句を、ゆっくり心深く読むべきものであろう。」

 第2句目は、前号で鑑賞した第1句目と並んで、見開きの左側に置かれている。

 喪をかかげ今生み落とす竜のおとし子

 怖れつつ葉裏にこもり透きとほる

 一句目の「今、私は、死を纏いながら、竜のような神秘的な詩群を産み落とします。」という沈降的な強さの女性性に対して、嫋やかさを唱えながらのナルシズムが窺える。

 何に怖れているのか・・・怖れながらも決して逃げずに、葉の裏にこもり、そして、自身は透き通ると言う。透き通って見えなくなるようになるのだとも解釈できるが、一句一章の流れに乗り、詩的耽美さを感じてしまうように描かれている。

 永い句業の果ての、処女句集の一頁目に置かれたこの二句の効果は、成功しているのであろう。

「生み落としたけれども、儚いものなのだ・・・」と、強く弱く読み手を誘いながら、二頁目を繰らせるのである。

 追記すれば、苑子は、此の句集を出版する頃、病に襲われていたと本人から聞いたことがある。最初で最後の句集だと思い、全身全霊を入れたとのこと。「喪をかかげ」には、その思いもあるのかも知れない。