2025年4月11日金曜日

【連載】現代評論研究:第5回・戦後俳句史を読む(再び風土性について) /北村虻曳・堀本吟・筑紫磐井

(投稿日:2011年07月01日)


筑紫:風土というものは、個人の属する環境で宿命的に決まってしまうものかと言えば必ずしもそうではない。これは風景論を援用したほうがわかりやすい。前回、「風景があって風景思想が生まれるのではなく、風景思想があって目の前の自然から風景を切りとってくると言うことである」と述べた。風土によって与えられる客観的環境から風景が生まれるのではなく、作者の主観的な思想が風景思想を作り出し、それによって風景が生まれる。風土も同様でそれを宿命的な風土と感じない限り(つまり風土思想が生まれない限り)、風土は生まれない。一例を挙げてみよう。

 仲寒蝉が、「戦後俳句を読む(第5回の1)」で赤尾兜子(本名は赤尾俊郎。大阪外語専門学校、のちの大阪外国語大学に学ぶ)について「兜子の俳句ほど「風土」という言葉のそぐわないものはない。実際には彼は兵庫県揖保郡網干町(現在は姫路市網干区)の出身であるがその俳句にふるさとのにおいはない」と述べている。しかし、兜子には兄の赤尾龍治がおり、駒沢大学に学んだ後、網干にこだわった人生を送っている。

 世界的に著名な禅の研究家鈴木大拙が最も高く評価した日本の禅僧は江戸時代初期の臨済宗の盤珪禅師であった(現在も岩波文庫で入手できる『盤珪禅師語録』は大拙の代表的な編著となっている)。難解な禅を一般庶民にわかりやすく説いた盤珪は、禅宗の範疇を超えて、近代日本の大衆思想に大きな影響を与えたと言われている。そしてこの盤珪は網干の出身であった。浄土真宗の家系であった龍治(もちろん兜子もそうであるが)にとって直接的な関係のなかった盤珪であるが、幼少から地元の名士盤珪に親しんでいたことから盤珪研究をすすめ、ついに鈴木大拙さえ果たせなかった完璧な『盤珪禅師全集』を刊行している(大蔵出版)。この全集は現在も盤珪研究の金字塔となっているのである。もちろん、盤珪への関心は全国的、いや世界的にあるのだが、一方で地域の名士でもあり、ローカルな色彩を抜きにして盤珪を語ることもできない。網干の風土が生んだ思想であるということはできると思うのである。

 さて、同じ環境で生まれた赤尾兜子と赤尾龍治にとって、風土性が生まれる契機は、かれらが風土を構成する要素をどのように眺めていたかによる。外的な風土要素が風土を作るのではなくて、内的な風土を眺める目が、風土性を決定するのである。兜子はそれに失敗し、龍治は成功した。これは全く余計な推測なのだが、兜子が盤珪の思想に親しんでいたら、あのような悲劇的な最後はなかったのではないかと思われてならない(盤珪の思想は極めて厳格厳粛ではあるが、肯定的で楽観的である)。

 風土俳句に戻れば、村上しゅらが「北辺有情」を詠む前から風土は存在したと思われがちだが、村上を通さないでは風土の存在は確認できなかったという方が正確であろう(もちろんプレ風土俳句があったことはすでに述べたとおりであるが)。前回、風景と風土は全く違うとは述べたのだが、一方でその発生は極めてよく似ていることも確かである。何れにしてもその主体性こそが問われるべきなのである。

 今回(第5回)で深谷が述べている成田千空の、逃れられない風土性と、風土性から外れようとする努力は、あらゆる運動体に共通しているように思われる。例えば、「前衛」と言えばその前衛に拘束されないように自らは前衛ではないと多くの前衛的作家はいう。しかし、前衛が生まれる前の、脳天気な前衛以前の素朴さを肯定しているわけでもない。やはり「前衛」という掛け声は何がしか必要であったのである。「前衛」と言った瞬間の論理以前の、直感的な概念は貴重でもあり、また時代の要請を受けていたものでもあった。「風土性」も同様であったのである。


北村:ご存知のように、5・7・5型式は、二つの性質を持つ。一つは歴史の古い壇林的俳諧性、もう一つは芭蕉以後の象徴性の強い詩に上昇した俳諧性である。それを経て近代の詩精神の高みに置き換えた子規の「俳句」宣言がある。前者は諧謔・アイロニーを重視する。典型的川柳は諧謔・機知の極端なものである。一方近代以後の俳句は方法的に何を重んじるか。それは視覚に特化したもののような気がする。俳句においては、現在に至るまで視覚性が大きな位置を占めている。いわゆる子規のとなえた「写生」の重視である。

 前回まで、私は「風土」という語を地方性という程度に捉え、風景との区別をあまり意識していなかったが、筑紫は区別を唱え「俳句のキャッチフレーズは風景となじみやすい」とした。すると「風土」はどういうことになるか。身も蓋もない言い方になるが、風土には人の生活が絡んでいて、17文字にそれを取り込むことは難しい。筑紫も言うように、風景も人からの視線・見方が無ければ成立しないが、風土となると生活と景の相互作用であり、時間経過まで伴っている。したがって、風土性の判別は難しい。そこに俳諧性が伴う場合もあるだろう。たとえばネットからこの季節の語を持つ句として選んだ

 昼月や水たつぷりと茄子植うる  高倉恵美子(「空」2008年8月)

 曲りたる山河の味の茄子・胡瓜  関根洋子 (「風土」2006年9月)

などはどうか。ここまで述べてやっと気がついた、「風土」は、一句では成立しがたいのだ。風土を感知させるには、句を積み上げることが必要となるようだ。

 ところで、思想の表出を重視した現代詩の詩人たちにおいては、視覚的ということはしばしば蔑む言葉として用いられた。この場合、思想という言葉は社会・政治思想を指すものである。吉本隆明は「戦後詩史論」(大和書房1978年)において、そのような意味での思想詩に強い共感を示しつつ、それは戦争を通過した世代のものであり、もはや生まれなくなっていると論じている。その後の世代の詩人は日常思想として現在を感受し、孤となり詩は通常の意味・脈絡を解体していく。否定性が詩の内容だけでなく言語にまで及んでいく。現代詩を貫くものは否定性という主張であろう。この評論も視覚性に点が辛く、諧謔性にも乏しいなど冒頭に述べたような俳句とは相性が悪い。その上いつも肝心なところで「倫理」「論理」などというキーワードで躓く私は、吉本のよき読者ではない。しかしこの詩の「内容の否定性」までは納得できる。

 俳句における「風土」も日常思想なのであるが、そこには肯定性が強い。これは生活精神の荒廃に対する抵抗=否定と見ることもできるのだが。

 しかし現代の流れは容赦なく風土を脅かす。吉本は昭和初期のの不定職の詩人たちを重視しているが、今またフリーターの時代が巡ってきた。人の帰属の根を奪い、デラシネの生を産んでいる現代の流れは、古典的な風景を変え風土を消去していく。しかも、もう一つ伝統的な風土を脅かすものが現れた。生活のヴァーチャル化である。人は街を歩いても街を見ないで携帯にログインしている。少数のオタクをのぞけば、しゃがんで蟻の穴をのぞいたりしない。検索で済ます。ノスタルジーもゲームやアニメなどヴァーチャルな世界に向かう。風土はより広い抽象的な景へ拡散していく。これらのことは詩に影響せずにはおかないはずだ。いま俳句や短歌に実際何をもたらしているのだろうか。これは今の若者の多くの作品に触れていない私には難問である。

 第三回で触れた斉藤玄や安井浩司なども、実在を離れ観念世界に入り込むという点では一種の否定性を備えている。むろん彼らは現代の若い世代のような意味での浮遊民ではなく、風土に住み込んだ俳人である。言語構成についても、玄は端正、浩司もまずまず。もっと強烈に否定性の出ている俳句作家も多く存在するが、言語構成の解体の動機までは持たない私には、心底からの共感が湧かない。私にとっては玄や浩司が先達である。


堀本:

(風土&風景についての言説)

 今回の風景論とか風土論についての思考は、近代俳句からはじまり現代にも敷衍している「写生」の思想と密接にかかわってくる。さらに、写生万能では表現しきれない存在の詩たる俳句にむきあうことにもなる。

 即ち我々は「風土」に置いて、我々自身を、間柄としての我々自身を見出すのである。

              和辻哲郎『風土』(昭和10年)(引用は岩波文庫版)

 人間学を基礎におく和辻の風土論では、人間は「寒さ」というのは、「寒いですね」と言う挨拶となりそれが隣人との関係を結び、寒さをしのぐ「家」や「衣服」「暖房」、などもひきよせる、風土とはそう言う社会関係を取り結ぶ自己了解の概念である、と言う。

 また、柄谷行人の『日本近代文学の起源』(講談社学芸文庫)では。

 近代文学のリアリズムは、明らかに風景の中で成立する。なぜならリアリズムによって描写されるものは、風景または、風景としての人間——平凡な人間——であるが、そのような風景ははじめから外にあるのではなく、「人間から疎遠化された風景としての風景」

として見出されなければならなかったのである。(掲出書のうち。《風景の発見》)

 この論理は難解だが惹かれる。検討は今後の宿題とする。

(風土認識としての「富士山」)

 明治期の志賀重昂や正岡子規にあっては、例えば「富士山」に向かう場合は内面よりも社会関係よりも抽象的精神的である。重昂は、地質学の視点にくわえてごった煮のように様々の俳諧や漢詩古歌を並べてしまう。つよく風土に呪縛されているナショナリストの原感情がはっきりでている。先回に、先回の川柳人近江砂人の戦後の富士山の句は、おおかたの日本人ならだれでもそう考えるわかりやすい理想の「富士山」=日本像である。

 すでに子規も「富士山」に同じようなシンボル性を認めていた。以下の詩篇は、明治三十二年作。新体詩風4連各6行第1連。

 直立一千二百丈

 足もとよりぞ起りける

 夏猶寒き白雪は

 空の真中に積りけり

 仰げや高き富士の山

 富士は御国の鎮めなり

(詩篇《富士山》部分。)(筆者註・漢字表記は新字体に直している、それぞれの連の最後はすべてこのくり返し。)

 この詩では、最初に風景を書き締めくくりには共同幻想としての「富士山」が立ち上がる。

 この富士山熱は、明治時代の流行だったそうである。

 さらに、『俳諧大要』の、なかに古句をお手本に作句法などを啓蒙しているそのなかで、こういう「富士山」が出てくる。

 例へば頭巾という題を得たる時に頭巾を主としてものすれば俗に陥りやすく陳腐に傾きやすし。故に時々この題を軽く詠みこみて他へそらすことも忘るべからず。

   初めて東武に下る時

 頭巾とり衿繕ふや富士の晴れ  湖春 

といふが如き富士を主としたるものをものするも差支えなし。このごとくならざれば尽く陳腐に流れてしかも変化すべき区域狭くなるべし。(正岡子規。同書中)

 取り合わせと言う技法の効果を言い尽くしている名鑑賞だが、この句には写生的な観点はあたえていない。頭巾が俗ならば、富士山に関する一般的な観念もまた俗である。とは子規は考えなかった。これが、まさにかれの(明治の庶民の)風土的認識、ナショナリズムの感性的な根拠だった。これをみる限りは、我々は俳句史の上で、写生や季節の呪縛が解けないと同時に、富士山のある日本という精神風土に生きている、現在に至るまでその特別な思いからもまだぬけだしていない。

 と、さらに、文庫本新版の解説が加藤楸邨、ここにこういう「風土」の用法がある。

 (筆者註・日本に生じる文化現象が、従来のやり方では処理できないことを指摘)事に、近時、異質の風土に身を置いたり、旅したりすることがすこぶる多くなり。砂漠とか、極地とかを踏む機会すら多くなってみると、在来の短詩型文学に都合が悪いからとして避けて通るのは/許されない逃避であろう。(歴史上の革新の例を挙げ、子規を近代の先蹤とたたえ)今俳句つくりとしては子規の「俳諧大要」が土台となってあらためてもうひとつの「新しい俳諧大要」が一人一人の課題とならなければならない。(加藤楸邨《新版後記—子規の今日的意義》。昭和58年岩波文庫版前掲書。)

 『俳諧大要』(明治28初出「日本」。岩波文庫所収は初版昭和30年、新版昭和58年)に「俳句は文学の一部なり。文学は美術の一部なり。故に美の標準は文学の標準なり。」(岩波文庫。新版昭和58年より引用)と書き出されている。開明的合理的であると共に、内向と言うことが解っていないな、と思わせるが、読むたびに発見のある警世の啓蒙書である。

 楸邨が言う一人一人の俳諧大要の中で、「風土」という概念も、何らかの転換をはたしうるのだろうか?たとえば、「東北」というキーワードのもとで。これも、宿題とする。了