2025年4月25日金曜日

【新連載】新現代評論研究:各論(第3回):眞矢ひろみ、後藤よしみ、佐藤りえ、村山恭子、鈴木光影

【未完】 

★―2橋閒石の句 2 眞矢ひろみ

 詩も川も臍も胡瓜も曲がりけり   「和栲」昭和58年

 閒石は、病床にあった少年期より俳諧、俳句に親しみ、大学時代には英文学(エッセイ)を専攻し、その研究・教育を正業として生涯従事した。俳諧は、兵庫の俳諧師寺崎方堂に師事するが、俳句に関しては結社等に加わることもなく、「師も友人も持たず、もっぱら若年の頃の読書から得た我流」(*1)で始める。年譜を分野ごとに辿ると、この三分野の何れかが中心ということもなく、それぞれに力を注いでいる。昭和24年には、そのことを示すように、俳句・連句・随筆を三本柱に月刊誌「白燕」を創刊・主宰している。昭和49年、71歳で大学を退職するが、平成4年、89歳で亡くなる直前まで、俳句、連句はもとより各種評論や随筆などの執筆、講演などをこなして現役であり続けた。

 仮に俳句を中心にアングルを据えれば、その母胎である俳諧・連句のほか、西洋文学の造詣も脇に備える形となる。大雑把に言えば、閒石は俳句に対して通時、共時の両面から接近できる実作者であり、しかも我流を通した俳句は、ある意味最も自由に活動できる分野であったに違いない。

 揚句は、閒石句によく見られるリフレインを用いて「詩」「川」「臍」「胡瓜」を並置する。「曲がる」という語の多義性に支えられた構造で、読み手は胴体の上部から下部に視線を移すように四つの異分野の名詞を読み進め、一体どう続くのかと思いきや「曲がりけり」と落語の下げの如き体裁をとる。

 「詩」が意味するところは読み手に委ねられるが、特定のものではなく、古今東西の詩形全般を指していると読む。閒石は随想集「泡沫記」「俳諧余談」において、和歌における折句と古代ギリシャの遊戯詩・アクロスチックの共通点や、専門である19世紀英国のラム(*2)やハズリットの随筆に見られる掛詞や洒落地口について言及し、さらに間接的な屈折を本体とするイロニーを、日本短詩型の諧謔や英文学のユーモアに見出している。閒石にとって古今東西の詩は並びたつものであり、晩年に「俳諧は英文学の理解に役立ち、西欧文化の知識もまた、俳諧を批判するに有用であった」と述懐している。

 ところで、「和栲」には成句・慣用句のずらしを用いた句も多い。

 山を巻く一筋縄の涼しさよ

 草の根を分けても春を惜しむかな

 三枚におろされている薄暑かな

 なりふりを構うゆきどけ烏かな

 お浄土がそこにあかさたなすび咲く

 このような句は「和栲」前には見られない。ずらし方が絶妙で、鈴木六林男は「妙なる慣用語の揺蕩」と評している。全面を覆うのではなく、句意との絶妙なバランス、距離感が読む者に余裕を与え、言葉の面白さを増幅させる。

 遊びを感じさせる句は他にも多く、飯田龍太は「俳諧にのめりこんだ自在の詩情」を感じ取る。因みに、閒石自身によれば、遊びとは「粘着を厭う」「囚われない心さま」のこととしており、「巫山戯」などとは別のものである。

 さて、これらの句について、龍太をはじめ多くの論者は俳諧の影響を指摘する。末句の「あかさたな」が、一茶の「いろはにほ」の句を彷彿とさせるなど、確かに談林以降の諧謔を強く感じさせる。一方、英文学の影響はどうだろうか。閒石が大学の卒論の対象として以来、生涯を通じて研究したラムは、シェイクスピアをはじめ既存の文学作品の一部を引用し、自身の文脈に合わせてユーモラスに挿入する。これは、言語や適用する範囲(文・文節・句)の違いはあるにせよ、ずらしと原理的には同じ手法である。何らかの影響を受けたことは確実である。

 一方、精通する領域が多岐にわたり、いくら素材や技巧の幅が広がったとしても、そのことが作品の質向上に直結するわけではない。閒石の場合、俳諧、英文学、俳句の三分野の蘊蓄は、相互に影響しあいながらも個別に深まっていたが、晩年に至って「遊び」をキーワードに溶け合い、俳句実作に類を見ない深化をもたらした。深化というと何やら重い語感だが、閒石自身の言葉で申せば「「雲を踏む確かさ」に明け暮れる軽み」の境地を指す。この融合化・熟成とも呼ぶべき変化は、第5句集「荒栲」に始まり、第6句集「卯」を経て、「和栲」で大いなる収穫期を迎える。

 閒石が酒の席で、興を添えるため唄った自作の戯れ歌「ありがたぶし」(*3)が最晩年の有り様を如何なく表している。

   細いからだを軽みというて

   やがて消えます春の雪

 

*1 『橋閒石全句集』「雪」解題 和田悟朗 沖積舎 平成15年

*2 チャールズ・ラム(1775-1834)イギリスの随筆家、批評家、詩人。主著「エリア随筆」(随筆集)「シェイクスピア物語」。ウイリアム・ブレイク、ウイリアム・ワーズワース等とともに英文学浪漫主義時代を代表する作家。

*3 「和栲」あとがき 


★―3「高柳重信の風景」2/後藤よしみ

二 風景とは

    (一)

 初回の前稿では、風景と重信の句業の変化を指摘し、重信における風景を紹介した。

 今回の稿では、風景そのものにふれていきたい。現代につながる風景のありようであるが、明治期から取りあげてみる。

 まず、「アジアの旅人」として知られているイザベラ・バードの『日本奥地紀行』をひもとく。

〈エデンの園 とても暑いもののよく晴れた夏の日だった。雪をかぶる会津の峰々も、太陽の光にきらきら輝いているので、涼しげな感じはほとんどしなかった。南には繫栄する米沢の町、北には訪問者の多い温泉場である赤湯を擁する米沢平野〔盆地〕は、まさしくエデンの園である。「鋤の代わりに鉛筆で耕したかのよう」であり、米、綿、玉蜀黍、煙草、麻、藍、大豆、茄子、胡桃、西瓜、胡瓜、柿、杏、石榴が豊かに育っている。〉(『完訳 日本奥地紀行2』金坂清則訳注 東洋文庫 平凡社 二〇一二年)

 これは一八七八(明治十一)年の七月のみちのく山形の地の豊饒の風景である。

 日本人の筆によるものでは、一八九四(明治二十七)年の志賀重昂(卬は卭)の日本の風景に新しい美を見出す論がある。

〈花より明るく三芳野の春の曙みわたせば

   もろこし人も高麗人お大和心になりぬべし 頼 山陽

のところあらしむ。想う浩々たる造化、その大工の極を日本国にあつむ、これ日本風景の渾円球上に絶特なる所因、試みに日本風景の瀟洒、美、跌宕なるところをいうべきか。〉(『新装版 日本風景論』講談社学術文庫 二〇一四年)

 このように和歌・詩歌・随筆・漢詩文などが豊富に引用され、地理学的見地からこれまでの日本人の盆景的風景観を変えたと言われている(土方定一解説『前出』)。

 そして、柄谷行人は明治二十年代の文学作品において風景の発見がなされているとしている(『近代日本文学の起源』岩波現代文庫 二〇〇八年)。それは、国木田独歩の「武蔵野」(一八九八(明治三十一)年)に描かれているただの風景である。こうして、現代の日本人が感じる風景というものがあらわれて来たと言える。これには、「西洋近代の精神文化」などの「日本への流入があって、これらを受容する過程で初めて、自由な個人の覚醒、自然の美の世界への心的覚醒が日本人に生じ、これによって日本人は初めて、風景の発見・風景感情の覚醒へと導かれた」という背景がある(内田芳明『風景の発見』朝日選書 二〇〇一年)。

 それでは、風景とは具体的にどのようなものであろうか。フランスの感性の歴史学を打ち立てたというアラン・コルバンによると、「風景とは空間を検証し、評価するひとつの方法である。それゆえ時代により、また個人や集団によって、風景はたえず変化してきた。(略)要するに、空間を見つめる人間の解釈で成立するのが風景である。感覚の及ばぬところで空間を読解し、分析し、表象するやり方、美的評価に供するために風景を図式化し、さまざまな意味と情動を付与するやり方、これが『風景』なのである」とされている(柴田陽弘「風景論入門」『風景の研究』慶應義塾大学出版会 二〇〇六年)。

 他にも「風景というのは、美なるものとして、人間によって価値づけられた自然である」(今西錦司『今西錦司全集第九巻』講談社 一九九四年)、「風景とは、言うまでもなく、地に足をつけて立つ人間の視点から眺めた土地の姿である」(中村良夫『風景学入門』中公新書 一九八二年)などさまざま出されている。

 ふれられている通りに風景の定義は人により、時代によりさまざまであるため、本稿では上記内田芳明の風景を念頭に進めていくことにする。

 では、風景に関することばはどのようなものがあるだろうか。一番には「景色」があげられよう。景色とは「鑑賞に堪える、自然物のながめであり、直接にはかかわりのない、余裕の有る傍観者の立場からする言葉」とされ、風景よりも柔らかい、より身近な単語とされている(佐々木健一『日本的感性』中公新書 二〇一〇年)。さらに、ランドスケープとは「空間的な広がりであり、風景と景色を含むもの」されている(佐々木健一『前出』)。

    (二)

 これまで見たように風景はさまざまにとらえられ、一方ではわれわれの周囲にあり、日々われわれが接するものであると言えよう。その風景に接するとはどのような意味を持ってくるのであろうか。

 はじめに、「風景の他者性の発見」である。これは、風景に対する風景を見る立場が、人間側が中心となり語りかけるのではなく、風景側が中心であり、人間が風景を眺めて感得するという立場の転換が生じてくることである。風景に出ている己を見ることになる。これは内面の発見へとつながる。柄谷行人は、「風景はむしろ『外』をみない人間によってみいだされて」とし、「風景の発見」は「内面の発見」と軌を一にして生じているとする(『前出』)。この背景の一つとして、死の経験が深ければ深いほど作品のなかに風景が描き出されると言われている(内田芳明『前出』)。

 内面の点で言えば、風景は文化的アイデンティティの指標となるばかりでなく、そのアイデンティティを保証し、それが脅かされると、風景を拠り所にアイデンティティを逆に強化しようとさえするという(柴田陽弘『前出』)。その例としてあげられるのが、明治期に西欧化政策の行き過ぎへの反発からと当時の日清戦争のナショナリズムの昂揚と合わせて国粋主義的筆致を見せ、その先駆的表明とされている志賀重昂の冒頭の『日本風景論』となる。

 次に、連想作用である。風景を眺めやるということは人間の想像力のなかで「連想作用のメカニズムを刺激し、それ自体の価値を変えてしまうことがある」とする(オギュンスタン・ベルク『日本の風景・西欧の風景』篠田勝英訳 講談社現代新書 一九九〇年)。それは、風景に向けた眼差しがその人間の意志に左右されることをあらわしている。付け加えるならば、嵐山光三郎は「芭蕉の眼前にあらわれる風景は「見るものでなく感じるもの」である」として、その双方の一体の動きを指摘している(『芭蕉という修羅』新潮社 二〇一七年)。風景はさまざまな思いを人間の心に芽生えさせ、感得させていくのである。

 三番目に歴史的思考に働きかける点である。加藤典洋は丸山真男の言う「歴史意識の『古層』」(一九七二年)の持続低音につながるとしている(『日本風景論』講談社 一九九〇年)。風景が日本人の歴史意識を刺激する。

 そして、図式化の作用である。これは風景の知覚において大切な働きとなる。風景の喚起作用が名所を生み、いつしか歌枕へと進化をとげる。その図式化の作用により創造の領域を作り上げていく(オギュンスタン・ベルク『前出』)。たとえば、独歩の「武蔵野」が歓迎されたのは「社会の教養ある層に適切な図式を定着させてからのこと」(オギュンスタン・ベルク)で、つまり人が所属する社会環境に応じて、同じ風景を異なる形で知覚することになる。また、日本文学の「道行文」の図式化がそのよい例としてあげられている。これは名所めぐりをする架空の旅行記である(柴田陽弘『前出』)。高柳重信の『伯爵領』もいわばこの「道行文」につながってくるものと言える。


  蒙塵や

  重い水車の

    谷間の

     石臼  (高柳重信『伯爵領』)


 四番目には、この「道行文」の考えを押しひろげてみれば『古事記』の世界の自然の山や海や川が特別の力をもつという考えにたどり着く。その自然や風景を抜け出したところに自分の居場所を見つけようとするものが、さらに言えば村立てすべきよい土地をもとめてさすらい、高いところから見下ろしてよい土地を見出した。これが国見である(長谷川宏『日本精神史上』講談社学術文庫 二〇二三年)。その村立ての始原の世が神の世であり、神に見出された土地となると言う。こうして、国が作られ、国の風景の美しさを共有することが国家の精神的な拠り所となってゆく。これが近代になると風景の美意識がナショナル・アイデンティティを構築するために広まっていったのである(中川 理『風景学』共立出版 二〇〇八年)。それはしだいに国家において「精神的な国土を措定する規範」となった(中川 理『前出』)。このようにして、風景は国家風土創出の役割を担うことになる。そして、風景を拠り所としてアイデンティティを強化させようとしたのが、前出の志賀重昂の『日本風景論』となる(柴田陽弘『前出』)。この風景の役割は高柳重信の『日本海軍』に通底するものである。


  海の

  山も

  出雲かなしや

  紫なす     (高柳重信『日本海軍』)


 最後に神話的空間と創造の磁場にふれておきたい。日本人にとっては、山や海や川、森などは神霊、祖霊の住み処であり、その風景に立つことで霊感をえてきた。たとえば、三輪山や富士山は山が霊なる空間であり、ご神体と見なされてきた。また、日本人の深層にひそむ古代の呪術的な空間をも育んできた。そして、西行や芭蕉をはじめ、古い歌に詠まれた風景の前に立つのであればその土地の霊と一つになり、豊かな詩をもたらしてくれるものと信じられてきた。このように詩歌をはじめとする創造の磁場を風景は提供している。現代の普通の風景を共有する共同体が衰弱したなかでは、風景の地という根拠を持たない架空の風景を、架空の場所・地を創り出すことになる。しかし、それは仮構された場所・地であり、その場所・地の再生ではなく、あくまで失われてしまったところの代償でしかないと言う(中川 理『前出』)。これらの例としては、清朝の時代、皇帝は有名な風景を縮小再生したが、これは都から遠く離れた地を魔術的・呪術的に都に近づけようと意図されたものとされている(柴田陽弘『前出』)。これらは、仮構された空間という意味では、高柳重信の『伯爵領』『日本海軍』につながるであろう。

 以上のことから、風景はいかに多様で重層的な意味をはらんでいるかをみることができる。今一度、はじめのアラン・コルバンの風景の定義に戻ろう。風景とは「空間を読解し、分析し、表象するやり方、美的評価に供するために風景を図式化し、さまざまな意味と情動を付与するやり方」となる。そこには、風景の空間的は把握とともに時間的な把握も含まれよう。西行や芭蕉がおこなったように古人の過去へと駆け巡ることも可能となる。仮構された未知の土地を巡回することもできる。それは、『伯爵領』『日本海軍』に通底するものである。このようにして、風景から高柳重信が立ちあらわれてくることを発見することは可能であろう。

 次稿以降では、高柳重信にそって風景にふれてゆく。


★―5:清水径子を読む2 / 佐藤りえ

 寒卵撫でてやるその一つ割る

 引き続き句集『鶸』より。貴重な栄養源であるとともに、そのフォルムと使命(殻を破って産まれねばならない)から「かわいそかわいい」食べ物である卵。撫でてやる、という愛玩心と割っていただいてしまう残酷さがひと続きに綴られ、「る」の音韻と句跨がりのリズムにより、マジカルで印象深い句となっている。

 初出の「氷海」第17号(昭和27年7月)では「寒卵撫でてやるその一つを割る」と格助詞「を」が入るかたちだった。この句に限らず初心の頃の径子の句には新興俳句の影響下にある字余りが散見される。

 五月の丘鳩飛び去れば街現るる 「氷海」2号(昭和24年7月)

 屋上に人湧けり秋天恋ひ居るに 「氷海」9号(昭和25年12月)

 人入りて墓地囲む塀に雪つき初む 「氷海」12号(昭和26年7月)

 稍散文調でもあり、或るドラマを内包しようと、展開を予感させうる書き方がなされているように見える。

 ごく初期から径子の表現質は手元の観察を喜ぶ、といった域を超え、あくまで新興俳句の系譜に準じた現代性、ジェンダーロールにとらわれない視点を伺わせる。

 両親すでに亡く、婚姻生活を短く終え、独り身の径子にとっての身辺周囲の句材は、家族でも吾子でも夫でもない。生活、都市景観、自然を詠むにあたって或る意味自由であり、或る意味孤独である。写生が内包する規範―旧制度に基づく模範的女性像、よき母・よき妻みたいな―からはみ出した句は、クールな印象を帯びる。クールさというのは、親しい・近しい登場人物の少なさから来るのではないか。新興系俳句に径子が感じた魅力とは、そうした「自由さ」にもあったのではないだろうか。

 句集に収録されたかたちの掲句は格助詞をひとつ除いたのみとはいえ、モチーフ「寒卵」の選択、その詩的な処理の仕方、一句一章としての完成度の高さなど、径子の性質がすでに十全に発揮されている。

 ちなみに同時期「氷海」在籍の小宮山遠はつぎのように詠んだ。

 寒卵わるとき火事に似しおもい 小宮山遠

 径子があくまで卵に専心したのとは対象的に、遠の句の眼目はやはり「火事に似しおもい」だろう。取り合わせの飛躍は小から大へ、つめたさから灼熱へ、イマージュの展開が「おもい」でふっと閉じられる。初期「氷海」で径子は小宮山、林屋清次郎、そして実弟・清水野笛ら同期と妍を競い合っていた。

 ところで「寒卵」はその後も径子の句にたびたび登場し、印象深い句を残している。

 日没におどろきて寒卵生む 『哀湖』

 寒卵こつんと他界晴れわたり 『夢殻』

 寒玉子のこる一つは夢みがち 『雨の樹』

 「寒卵」は径子にとって身近でありつつ、抒情そのものの生まれる源であったのだろう。

 

★―7:藤木清子を読む1 / 村山 恭子

0. はじめに

 藤木清子は昭和十年前後の短い期間に俳句にかかわりました。

 宇多喜代子は編著書『ひとときの光芒―藤木清子全句集』(沖積舎、平成24年)の解説で、藤木清子を〈時期的にも作品的にも、一閃の光芒を放って消えた短距離ランナーのような作家〉、〈けっして文学意識の高い教養人でもなければ、技巧的に優れた俳人でもない、面白い俳句を作った人でもない。知名度などないに等しいです。ただ、発言のむつかしいあの時代に、精一杯生きた一女性が、偽りのない声を俳句という入れ物にどうにかして詰め込もうとして奮闘した〉と述べています。

 今回、前述の全句集掲載460余句を読み進め、藤木清子の俳句表現の変遷をたどります。

1. 昭和6年 安芸 藤木水南女で出句 

  曼殊沙華抱へて溝を飛びにけり      蘆火2号(昭和6年12月号)

 曼殊沙華の赤が際立ちます。〈持ちて〉や〈提げて〉ではなく〈抱へて〉の表現から、両腕一杯に大量の曼殊沙華を抱え、溝を一気に跳び越す勇敢な姿が浮かびます。

溝は実景でしょうが、曼殊沙華は天界に咲く赤い花を表す梵語。別名「彼岸花」から、彼岸と此岸を飛び越えているような感覚を引き起こします。

 毒を持つので「家に持ち帰ると火事になる。」ともいわれ、忌み嫌われました。溝を飛び越えた後は、抱えたまま家へ駆け込んだのでしょうか。家の人に怒られ、泣く泣く捨てに行く姿も想像でき、微笑ましくもあります。 

季語=曼殊沙華(秋)

 むき合ふてすわる母子や障子貼り     同

 障子に向き合って座る母と子。秋のさわやかな天気のもと、丁寧に障子紙を剥がし、桟を洗います。しばらく日に干し乾いたころに、刷毛で桟へ糊を広げ、二人で呼吸を合わせながら障子紙を貼り、霧吹きします。光が霧吹きの水滴をきらめかせ、出来上がった障子は真っ白な紙がぴんと張りあがり、清々しいです。母子はほっとしたでしょう。

 年中行事をつつがなく送れる日々はかけがえのないもので、母子や家族の平穏へ繋がり、貴重な思い出になりました。  

季語=障子貼り(秋) 

 この二句は「赤」と「白」の対比があり色彩からも印象的です。

*生没年未詳。旧号水南女。「蘆火」「天の川」「京大俳句」に投句後、昭和10年「旗艦」に投句し、日野草城に師事。夫と死別後、広島から神戸に転居。寡婦として閉塞時代を生きる境涯俳句に鋭敏な詩情を発揮、新興俳句随一の女性俳人。16年以後、俳句界から消息を断つ。(川名大『挑発する俳句 癒す俳句』筑紫書房、平成22(2010)年)


★―8正木ゆう子を読む(1)鈴木光影

 美しいデータとさみしいデータに雪(句集『玉響』2023・春秋社)

 『正木ゆう子集』(2004・邑書林)巻末「略歴」の十六歳の項に「好きな科目は数学」とあった。掲句の「美しいデータ」とは、この世界の法則が理路整然とした数値や記号の連なりによって記述されることで「美しい」とすら感じる、数学の方程式のようなものなのかもしれない。

 一方「さみしいデータ」といわれて私が想起したのは、新型コロナウイルス感染症大流行時の「感染者数」や「死者数」である。数年前のあの時期、私達は毎日ニュースで流れて来る、人間ひとりひとりが数に置き換えられた膨大な「データ」の推移の前で、なすすべもなかった。さらに十四年前にさかのぼれば、東日本大震災発生後、地震や津波による「死者数」「行方不明者数」、福島原発事故後の「放射線量」「避難者数」なども思い起こされてくる。

情報社会が高度化していくにつれて、私たち現代人は日々様々なデータの恩恵を受け、またデータに踊らされたりして生きている。今後もその流れは止まることはないだろう。

 掲句の、自然物であり季語である「雪」は、その現代社会の状況を静かに肯定しつつ、姿も形も匂いも無い「データ」の肥大してゆく暴ぶる動力の熱を、冷まそう、鎮めよう、癒そうとしているかのようだ。

 掲句に関連して、正木氏の前句集『羽羽』(2016・春秋社)の最終句を挙げたい。

 降る雪の無量のひとつひとつ見ゆ

 「無量」は「量のはかり知れないほどに多いこと」だが、雪の一片一片に、作者は「無量」を見ている。この句からも読み取れるのは、正木氏にとって「雪」とは、自然現象として目に見える有限の確かさを持つと同時に、その奥に無限の時空を蔵している両義的な存在であるということだ。掲句の「ひとつひとつ」は、先の句の「データ」とも重なってくるように思われる。また、この二つの句は、約十七音の限られた字数によって豊穣のイメージを現出しうる俳句の、これまで作られてきた膨大な量を蓄積したデータベースとしても読みたくなってくる。

 再び〈美しいデータとさみしいデータに雪〉の句に戻る。「データ」は、それ自体には形はなく無機質な数字の羅列なのだが、人間に「美しい」というポジティブな感情と、「さみしい」というネガティブな感情を生じさせる二面性を有している。また、「データ」つまりデジタルの概念そのものが世界を分節化して表現しようとする二元論によって成立している。そのデータの一つ一つが雪の一片一片にも見えるし、雪がばらばらのデータの上に降り積もって白一色で塗り重ねるイメージも浮かぶ。

 掲句における「雪」とは、このような二元論を、一元論、つまり人為によって分節化される以前の混沌の世界をそのままに感受させてくれる自然の力ではないだろうか。そう考えてみると、『玉響』帯文の「からだもこころも食べ物も飲み物も/喜びも悲しみも山も海も」というばらばらに思える事物の羅列が、統合されたひとつの「アナログ」の宇宙として感じられてくる。つまり「からだ/こころ」「食べ物/飲み物」「喜び/悲しみ」「山/海」という同一カテゴリー内における対比だけでなく、例えば「からだ」と「山」、「こころ」と「海」などのカテゴリーを超えた事物が、一つの「アナログ」的感性では繋がってくるのである。

 そしてその宇宙では、「データ」すら、人間という「アナログ」な生物が生み出したのだから、「アナログ」の一部と言ってよいのではないだろうか。正木ゆう子俳句における「アナログ」とは、デジタルは対立概念ではなく、デジタル的な人間性をも包み込む、掲句の「雪」のようなものとして思われてくる。