『天狼』は、昭和23(1948)年1月創刊の山口誓子主宰の俳句雑誌である。奈良の旅館日吉館で句会を開いていた西東三鬼、平畑静塔らが、戦時中橋本多佳子のもとに疎開させていた誓子の句集『激浪』の句稿を読み、誓子の並々ならぬ俳句への思いに感激し、新俳句雑誌の創刊を思い立ったのである。中心となったのは西東三鬼で、東京と関西をかけまわり発刊にいたった雑誌である。
ここまでは、知られていることだが、意外と知られていないのは『天狼』がどんな出版社からどのように発刊されたかである。
『天狼』は天理市にある養徳社より出版された。これについてはよほどの誓子ファンでないと知らないかもしれない。養徳社は、『天狼』創刊当時の住所は奈良県丹波市町川原城で、今は天理市川原城町となっている。『天狼』が創刊された当時と変わりなく、養徳社は存続し、機関誌として『陽気』を出している。今は、主に天理教関係の出版をしているようである。
このように、養徳社に関しては、知る人ぞ知るというぐらいにしか知られていないかもしれないが、私は平成13(2001)年開館の神戸大学山口誓子記念館に勤め、誓子の蔵書・資料・遺品の整理・管理の仕事をしているが、私は今から50年ほど前、言い換えれば山口誓子の仕事をする前から養徳社という出版社の名前を知っていた。若いころドイツ文学をかじっていたので、恩師であるリルケ研究者の高安国世の翻訳が、戦後まもない頃養徳社から出版されていたからである。リルケの『若き詩人への手紙』や『ミュゾットの手紙』、大山定一の『マルテの手記』などの翻訳が養徳社から出版されていたため、その名前を記憶していた。そして、『天狼』の出版社も養徳社であることを知り、驚いたり、少しご縁を感じたりして嬉しくなったものだった。
なぜ、京都大学の先生たちの訳書が、先生たちは天理教信者ではないし、天理の出版社から出ていたのは、正直不思議であった。しかし、山口誓子に関わるようになり、少し頭を働かせば、分かることであった。それは、第二次世界大戦の空襲で、大阪や東京は壊滅的な打撃を受けていた。印刷所も多くは焼けていた。しかし、天理は空襲もまぬかれ、紙もあったのだろう、だから、戦後数年の出版を養徳社が引き受けていたと考えられた。
このたび、養徳社のHPを拝見すると、「営利にとらわれずに良書を発行し、わが國出版文化の発展に貢献する」という天理教2代真柱の構想のもとに、昭和19(1944)年10月14日に天理時報出版部を発展的解消して」新たに養徳社が設立されたということである。設立は昭和19年、まさに終戦の前年である。現在の養徳社社長の永尾教昭氏(前天理大学学長)のお話によると、戦争も拡大し、戦況も悪化するなかで、このままでは日本の良い文化も失われてしまうという危惧のもと、出版には欠かせない紙を、当時配給であったが、集め蓄えていったそうである。養徳社の設立の時には、谷崎潤一郎なども列席したそうである。
この先見というのか、このままでは日本の文化がどうなるか分からないという危機感をいち早く持ち、どうしても日本の文化を守らなければならないという使命感とその意志に頭が下がる思いである。そのおかげで、リルケの翻訳や『天狼』が出版されたのである。山口誓子も救われたことだろうが、外国文学の研修者たちも感謝したのではないか。
後年、養徳社に関して平畑静塔が次のような文を残している。
天理教の出版部であった養徳社が、当時監査では一番良心的な出版をして居り、実力資力のあったので、奈良方面の支持者の手で、「天狼」を引きうけてもらったが、創刊号は売切れた。(『創刊号物語』第2巻、俳人協会、邑書林、1998年)
よくぞ、養徳社! 紙を蓄えていてくださった。ありがたいことだ。
その後、『天狼』は、昭和25(1950)年、いつまでも養徳社の庇護のもとにあってはいけないということで、5月号に「發行所變更について」という小さな記事を載せ、発行所としての養徳社の名前は消える。翌6月号では巻頭のページに天狼俳句会と養徳社の連名で「御挨拶―発行所変更について―」という記事を掲載する。養徳社との円満な了解が成立し、経理の面でも引継ぎを完了したと記されている。
『天狼』も創刊3年で養徳社から独立できたが、完全な自主経営は難しく、共同印刷社に発行経営を任せていたようだ。これが解消され、真の意味での自主経営が実現したのは、昭和35(1960)年3月、新発行所として、大阪市内伏見町の青山ビル(少彦名神社の北隣)に事務所を構えることができた。この青山ビルについても書き出すと長くなるので、今回はここまでにする。