第45回現代俳句講座「季語は生きている」 筑紫磐井講師/
11月20日(土)ゆいの森あらかわ
(2-5)前衛のまとめ
以上は、もっぱら新興俳句と前衛俳句という用語の使用開始の時点における違いを眺めて来ました。いわばターミノロジー問題です。ただそのためには、新興俳句と前衛俳句というより、新興と前衛の使用開始時点を眺めてみる必要がある事、俳句だけではなく他のジャンル(短歌や詩、芸術)との比較を眺めてみる事が重要であると思います。それにより新興俳句と前衛俳句の違いと共通点が浮かび上がってくると思うのです。
そうした意味では、前衛俳句とは何かを閉鎖的に考えても意味がないように思います。堀田氏が言うように、当時の前衛(俳句)はもはや伝統(俳句)である、ということになるのでしょうが、しかし、逆に私が申しあげたように「当時の前衛は今の前衛ではない」と考えた方がいいかもしれません。これは往時の前衛を懐かしむか、前衛の前向きな発展と見るか、郷愁を伴う情緒問題と見るかどうかという違いでしかないかもしれません。
俳句新空間の本号で小野裕三氏が「ある言語とある言語は、決してすべてが等しく結ばれてはいない。例えば、英語ではよく使うけど、日本語にはそれに該当する一語がない、という単語がある」と体験談を述べていますが、実は新興俳句も前衛俳句も言葉としてはこれに見合う外国語を持っていないのが実態ではないでしょうか。
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次は前衛俳句の「内容」を考えてみます。前衛俳句を海外から流入したと考えると、高踏派、象徴派、未来派、ダダイズム、立体派、超現実主義、イマジズム等が前衛と通説では言われています。しかし新興文学についても、矢張り通説ではプロレタリア文学、未来派、表現派、超現実派などと言われています(もちろん人によってその内容はそれぞれ差があるようです。新興芸術派などプロレタリア文学を排除していましたが)。新興俳句と前衛俳句とをこうした定義で区分するっことはなかなか難しいようです。新興俳句と前衛俳句はその歴史性に負っているという事が出来そうです。
手近な手掛かりになるのは、川柳です。川柳は、他のどの定型短詩よりも早く新興を叫んだのです。新興川柳が生まれてから、新興短歌も、新興俳句も生まれました。新興川柳なかりせば果たして新興短歌・新興俳句も生まれたかどうかわかりません。では前衛は?そもそも前衛川柳という言葉が存在していないようです(小池一博は『はじめまして川柳』で「現代川柳」は「革新川柳」、「前衛川柳」と受け取られていた、と述べていますが、一般的通念となってはいないようです)。前衛詩から前衛短歌が、そして前衛俳句が生まれていますが、とうとう前衛川柳は生まれていないようです。新興、前衛という言葉だけの論争はこんなところも踏まえる必要がありそうです。
もう少し歴史を眺めてみましょう。そもそも、俳句も短歌も日本語で構成されているわけですから、俳句や短歌における「前衛」は日本語で解決できるはずです。
さかのぼれば、中世は「前衛と伝統」の対立に相当するものが、「新儀非拠」の基準で語られています。藤原定家と六条家をめぐる論争の中で生まれた言葉であり、もともとは定家の歌に対する批判用語として使われたのですが、定家一派が歌壇を圧倒するとともに新しい理念として理解できるようになります。今風の言葉に言い換えれば、「新儀」とは新興、「非拠」とは反伝統と理解できます。こうして中世歌壇は新興反伝統一色になったのです。もちろん中世歌壇が定家以上の成果を生まなかったのは、新興反伝統のせいではなくて、月並みとなった新興反伝統によるものと思われますす。それは、赫々たる成果を上げた新興俳句が沈滞したのと同じ理由だと思います。
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ここで2-1に戻っていえば、前衛をだれが親殺ししたかということが大事になります。親殺ししたことによって、新しい運動が生まれるのです。むしろ親殺しされたことが、前衛の名誉となるのです。しかし、前衛の親殺しは(前衛の創始者である)金子兜太がなすべきことではないでしょう。兜太の次の世代こそ、「新俳句――新傾向――新興俳句――前衛俳句」に責任を持つべきでしょう。
もちろん俳句四季の前衛特集が間違っていったというわけではありません。おそらく、編集者の意図は、私が図示するところ、「新俳句――新傾向――新興俳句――前衛俳句」をもって前衛という考え方を持っていたのだろうと思います。いや、そうした答えを期待しての特集であったと思います。私はかつてこれらをコントロ・コレント(反流・逆流)と呼んでみましたが、こうした反流は必ずあるものなのでしょう。その意味では、前衛は永遠に不滅なのです。その証拠に誰に聞いても、戦後の俳句は伝統と前衛だと言ってきます。
【注】全くの余談となりますが、前衛のまとめの号となるので、前回の記憶術の補足をしておこうと思います。誰も知らない話――私と山口誓子しか関心がない話ではあります。先に記憶術の系譜を、井上円了、渡辺彰平、渡辺剛彰と書いておきました。これを少し解説しておきましょう。
井上円了は僧籍にありながら哲学を学び東洋大学を創始しました。大学で哲学・倫理学を教授するとともに、哲学の実用に関心が深かったようです。そうした傾向がよく表れたのが、妖怪学講義と記憶術講義(又は失念術講義)で、アカデミックから見たら不思議な研究を行っています。ちなみに妖怪学は、怪しげな怪奇哲学ではなく、世の中の妖怪現象にすべて合理的な解説を施し、そのあとに残った不思議な現象こそが(人間がまだであったことのない新しい)哲学に値すると考えたもののようです。合理的な考えであり、その意味ではカント哲学に近いかもしれません。
井上円了の記憶術に関しては、
『記憶術講義』明治27年
『新記憶術 : 活用自在』大正6年
があります。
渡辺彰平は学校にも入らず苦学の末に弁護士となった立志伝中の人で、井上の著書から学んで新しい記憶術を開発しました。生涯の著作は多いのですが、初期のものは記憶術に関するものです。渡辺の記憶術が弁護士の資格試験の受験に相応しあったことを示しているようです。後の渡辺剛彰の記憶術の手法の過半がこの時期に完成していたようです。
『心理応用記憶力発現法』大正12
『万有記憶論』大正14
渡辺剛彰は東大文学部から司法試験に合格し、弁護士の傍ら膨大な記憶術の著作や講演を行い、記憶術の父と言ってもいい人となりました。現在色々行われている●●式記憶術の手法は、渡辺の講習会で記憶術を学んだ人たちが改良した手法だと言われています。主な著書だけでも次の通りあり、『記憶術の実際』は100版を超えるベストセラーとなっています。
『記憶術の実際 : 早く覚えて忘れぬ法』1961
『英語の記憶術』1961
『記憶する技術』1966
『新しい記憶術 : 電話番号から司法試験まで』1970
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『大学受験の記憶術』1982
『即戦力をつくる記憶術』1987
『一発逆転ワタナベ式記憶術』1996
このように、現代の記憶術は渡辺父子が開発したものですが、この親子は双生児のような人生を送っています。二人は近代詩吟の祖と言われる木村岳風に師事し、渡辺彰平(雅号を詩吟学院時代は岳神、吟道学院時代を龍神)は岳風の創始した日本詩吟学院の後継者として理事長を務め、その後日本吟道学院を創設し初代理事長となり、渡辺剛彰(岳神→吟神)が二代目を継いでいます。弁護士、記憶術、詩吟と多くの分野で父子協業している稀有な例であります。あるいは、弁護術、記憶術、詩吟の発声法が共通するところがあるのかもしれません。