2017年5月26日金曜日

第66号

●更新スケジュール(2017年6月9日)

二十八年度芸術選奨文部科学大臣賞受賞‼
恩田侑布子句集『夢洗ひ』

第4回攝津幸彦記念賞 募集‼ 》詳細
※※※〆切は5月末日※※※

各賞発表プレスリリース
豈59号 第3回攝津幸彦記念賞 全受賞作品収録 購入は邑書林まで



平成二十九年 俳句帖毎金00:00更新予定) 
》読む

平成二十九年 春興帖

第七(6/2)前北かおる・神谷波・青木百舌鳥・辻村麻乃・浅沼 璞・中村猛虎
第八(6/9)羽村美和子・渕上信子・関根誠子・岸本尚毅・小野裕三・山本敏倖・五島高資
第九(6/16)下坂速穂・岬光世・依光正樹・依光陽子・真矢ひろみ・西村麒麟・望月士郎
第十(6/23)水岩瞳・仙田洋子・北川美美・早瀬恵子・佐藤りえ・筑紫磐井


第六(5/26)渡邉美保・ふけとしこ・坂間恒子・椿屋実梛
第五(5/19)内村恭子・仲寒蟬・松下カロ・川嶋健佑
第四(5/12)仙田洋子・木村オサム・小林かんな・池田澄子
第三(5/5)夏木久・網野月を・林雅樹
第二(4/28) 杉山久子・曾根 毅・堀本 吟
第一(4/21) 加藤知子・田中葉月・花尻万博



●新シリーズその1
【西村麒麟特集】北斗賞受賞記念!
受賞作150句について多角的鑑賞を試みる企画
西村麒麟・北斗賞受賞作を読む インデックス  》読む
【西村麒麟・北斗賞受賞作を読む0】 序にかえて …筑紫磐井
【西村麒麟・北斗賞受賞作を読む1】北斗賞150句 …大塚凱
【西村麒麟・北斗賞受賞作を読む2】「喚起する俳人」…中西亮太
【西村麒麟・北斗賞受賞作を読む3】麒麟の目 …久留島元  》読む


●新シリーズその2
【平成俳壇アンケート】
間もなく終焉を迎える平成俳句について考える企画
【平成俳壇アンケート 回答1】 筑紫磐井 …》読む
【平成俳壇アンケート 回答2・3】 島田牙城・北川美美 …》読む
【平成俳壇アンケート 回答4・5】 大井恒行・小野裕三》読む


【抜粋】
<俳句四季」6月号> 俳壇観測173/還暦作家の回顧するわが人生
ーー島田牙城と伊藤伊那男の狂気・敗残・至福 
筑紫磐井 》読む


  • 「俳誌要覧2016」「俳句四季」 の抜粋記事  》見てみる




<WEP俳句通信>





およそ日刊俳句空間  》読む
    …(今までの執筆者)竹岡一郎・青山茂根・今泉礼奈・佐藤りえ・依光陽子・黒岩徳将・仮屋賢一・北川美美・大塚凱・宮﨑莉々香・柳本々々 … 
    • 5月の執筆者 (柳本々々・渡邉美保) 

      俳句空間」を読む  》読む   
      …(主な執筆者)小野裕三・もてきまり・大塚凱・網野月を・前北かおる・東影喜子
       好評‼大井恒行の日々彼是  》読む 




      【評論】
      アベカン俳句の真髄 ー底のない器ー   … 山本敏倖  》読む

      【短詩時評41話】
      ちょっと気になっただけです … 柳本々々  》読む




      あとがき  》読む



      冊子「俳句新空間 No.7 」発売中!
      No.7より邑書林にて取扱開始いたしました。
      桜色のNo.7


      筑紫磐井 新刊『季語は生きている』発売中!

      実業広報社


      題字 金子兜太

      • 存在者 金子兜太
      • 黒田杏子=編著
      • 特別CD付 
      • 書籍詳細はこちら (藤原書店)
      第5章 昭和を俳句と共に生きてきた
       青春の兜太――「成層圏」の師と仲間たち  坂本宮尾
       兜太の社会性  筑紫磐井



      2016年度版 俳誌要覧 必見!


      【PR】
      『いま、兜太は』 岩波書店
      金子兜太 著 ,青木健 編
      寄稿者=嵐山光三郎,いとうせいこう,宇多喜代子,黒田杏子,齋藤愼爾,田中亜美,筑紫磐井,坪内稔典,蜂飼耳,堀江敏幸.



      俳句年鑑2017年度版・年代別2016年の収穫に筑紫磐井執筆‼
      「二つの力学」筑紫磐井
      【紹介作家】池田瑠那・高瀬祥子・阪西敦子・西山ゆりこ・大高翔・日下野由季・津久井健之・前北かおる・北大路翼・藤本夕衣・鎌田俊・冨田拓也・杉原祐之・村上鞆彦・椿屋実梛・大谷弘至・藤井あかり・杉田菜穂・高柳克弘・涼野海音・中本真人・松本てふこ・抜井諒一・音羽紅子・伊東裕起・小川楓子・神野紗希・西村麒麟・佐藤文香・山口優夢・野口る理・中山奈々・小林鮎美
      まだご覧になっていない方は是非!



      特集:「筑紫磐井著-戦後俳句の探求-<辞の詩学と詞の詩学>」を読んで」
      執筆:関悦史、田中亜美、井上康明、仁平勝、高柳克弘

      筑紫磐井著!-戦後俳句の探求
      <辞の詩学と詞の詩学>

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      第66号 あとがき


       BLOG俳句新空間も順緒に更新が進み始めているようだ。画像の処理が心もとないので雑誌の広告は中止していたが、そろそろ開始したい。見本代わりに、最新刊の拙著(『季語は生きている』)を掲げさせていただいた。失敗してもあまり迷惑をかけないからである。
       そうこうしているうちに、あっという間にいろいろな事件が起こっている。
         *     *
       熊谷市で開かれた海程の全国大会(5月20日)で、金子兜太が主宰する「海程」を兜太が99歳を迎える来年9月での終刊を決めたと発表したそうだ。年齢を重ねるにつれ、主宰が担うべき役割の限界が近づいている由、今上天皇の退位の発言に似たものを感じる。ただ、主宰を離れることで、より自分にこだわった生き方をしたいといっているから、現役を引退するわけではないようだ。
      「海程」は昭和37年同人誌として創刊、後に兜太の主宰誌となったが、終始中心には兜太がいたわけで、兜太の肉体の限界は「海程」の限界でもあるのだろう。1年間の猶予期間は、この間の同人会員の動向を見定めるためであるようだ。
       考えてみるとこの話題を私が俳句新空間で取り上げたのは、昨年4月22日の記事で、武田の次のような編集後記を引用したことから始まる。

      ○「海程」4月号編集後記
      「海程」の内外で、〈近いうちに海程はなくなる〉という噂が流れているという。事の発端は、1月の東京例会で、金子主宰が「白寿で海程主宰を辞する」と述べた、新年の挨拶にあるらしい。金子主宰も誤った風評に驚いて、2月の例会では「白寿で主宰の座からは下りるが、海程は存続する」とのご意向を示すとともに、早とちりや誤解の元となるような情報は発しないよう注意があった。5月の全国大会では、海程の今後についての指針が示されると思うので、惑うことのないようにして欲しい。(武田伸一)

       結局は、ここに書いているとおりで進み始めたわけである。噂はまったくのうわさではなかったわけだ。
       ただ、これで兜太が大人しくなるとも思われない。ホトトギスの選者を息子の年尾に譲り、ますます元気になった高浜虚子の例もある。実際、名著『虚子俳話』は引退してからの仕事である。虚子は倒れる寸前まで、これを綴り続けていた。まあ、ライフワークを完成するためのエネルギーの再配分だと考えればよいのかもしれない。
       とはいえ、この平成の終わりに時代を画する事件がいろいろとあることは感慨を禁じ得ない。平成の終了とともに、中村草田男の創刊した「萬緑」と兜太の「海程」が終了するとは、予想もできないことであった。
         *     *
       時代の終わりを感じさせる事件がもう一つあった。東アジア反日武装戦線「狼」部隊のメンバー大道寺将司が、この5月24日午前、東京拘置所で病死した。大道寺は、昭和49年8月30日、8人の死亡者を出した三菱重工爆破事件の主犯として逮捕され、死刑判決を受けていたが、ここ数年がんを患っていたという。

       この年は私が社会人となった年であり、丸の内界隈は多少縁ができ始めたときであったから、衝撃であった。その少し前、昭和46年の新宿クリスマスツリー爆弾事件は大学生の時代であり、かつ場所も新宿追分派出所前であったからもっと身近であったが、こちらは死者はいなかった。この事件は死者が大量に出、それも被害者が大企業のエリート社員たちであったということで、テロの性格が大きく変わった事件であると感じられた。
       しかし、もっと驚いたのは、数年前、大道寺が収監中に俳句を始め、出口善子の雑誌「六曜」の同人となり、句集をまとめたと聞いたことである。句集『棺一基』は、日本一行詩大賞の俳句部門を受賞したという。
       「六曜」の最新号(46号)に作品は見えなかったが、その前の秋の句は、「癌囚」と題されている、まさしく病にむしばまれている句であった。

       死者たちも見しをちかたの粧ふ山
       霧深き海にかそけく骨を撒け
       夜着重く骨の軋みし霧襖

       日本一行詩大賞の受賞の彼の言葉は、次の通りであった。

      「私の句はいまだ狭小な世界のとばぐちに立つばかりですが、時間の許す限り、今後も句作を続けてまいります。」

      【西村麒麟・北斗賞受賞作を読む3】麒麟の目/久留島元


      よく「見ている」作家である。

       踊子の妻が流れて行きにけり
       友達が滑つて行きぬスキー場
       春風や蛸捕る舟が次々と

      また、よく「見られている」作家である。

       文鳥に覗かれてゐる花疲れ
       角隠し松の手入に見られつつ
       喘息の我を見てゐる竹夫人

      傍観者然たるその視線は、祭りの中を流れていく「妻」と、蛸を捕る海上の「舟」を、まるで同じように、淡々と眺めている。優しいような、おかしいような、しかしそこに「作者」は入り込まない。「踊子」の輪に入ることもないし、「スキー」に加わることもない。(もちろん作品内の話題である)観察に徹した主体は、低温とも感じられる。
      その視点は自分自身にも向けられ、ときとして「文鳥」や「松」「竹夫人」などの人外に憑依して「我」を見つめる。
      しかもその目にうつる「我」は、どうも必ず弱っている。
      弱々しく、他と交じることができない「我」が、「妻」を見、「友達」を見、そして「文鳥」や「竹夫人」に見られている。
      相変わらず淡々としているが、案外、自意識過剰なのかもしれぬ。
      とはいえ弱々しい姿に似合わず、図太く、日常の幸せを謳歌しているらしい風もある。


       大鯰ぽかりと叩きたき顔の
       山椒魚そろそろ月の出る頃か
       鈴虫を褒め合つてゐる新居かな

      その日常は、ほとんど桃源郷といってよい。
      思わず叩いてみたくなるほどの「大鯰」、月の出を待つ「山椒魚」、あまり日常に見られぬ生物たちと、作者は楽しげな友だちづきあいをしているようだ。特に大鯰の句など、つきすぎでそのままなのだが、昭和漫画的な間抜けなオノマトペでふてぶてしさがよく出ている。
      そしてなにより、言い争いもせず「鈴虫」の声を褒め合う新居の、なんと平和で楽しげなことか。私は作者の、衒いのない日常賛歌が好きである。
      ほかにも日常の豊かさを垣間見せる句は多い。


       鯖鮓や机上をざつと片付けて
       夕立が来さうで来たり走るなり
       筋肉を綺麗に伸ばす冬休み

      ささいな、まったくささいな日常であるが、「鯖鮓」や「夕立」などのいたって日常的な季語を喜ぶことのできる余裕が、とても豊かでうらやましい。ちょっとした体操を「綺麗」ととらえることができるおおらかさは、他の追随を許さない作者の手練であろう。

       みかん剥く二つ目はより完璧に
       寒鯛のどこを切つても美しき
       太陽の大きな土佐や遍路笠

      無内容の、驚きのない日常を、驚きと喜び、余裕に変えられる。いささかの時代錯誤さえ感じさせる、江戸趣味的な道具立て、舞台設定も、やはり桃源郷のような夢を見させてくれる。時代劇的な、一種の郷愁をともなった理想郷である。
      虚子や井月など、古今の俳句・俳諧作品に親炙する、作者ならではの技術であると思う。
      ただし、作者の世界が、そうした俳句の培ってきた「技術」の延長上にのみ現れるのだとしたら、特筆すべき作家ではなくただ技巧が賞讃されて終わるだろう。 作者の本質は、こうした明るく楽しげな日常賛歌に底流する、辛さ、息苦しさにある。
      先に見えた弱々しさもそのひとつだが、今回の句群では病を思わせる句が多い。


       舌の上にどんどん積もる風邪薬
       腸捻転元に戻してから昼寝

      粉薬の質感を伝えて余りある、とても苦そうな、飲みにくそうな句。だが飲まねば治らぬ。治れば日常に戻ることできる。「腸捻転」でさえ、戻れば「昼寝」にはいることができる。生き辛いことを、辛いと語る句はない。日常に復する、日常を楽しむ句が、同時にとても生き辛い日常を抱え込んでいるのだ。

       鳥好きの亡き先生や冬の柿
       金魚死後だらだらとある暑さかな

      生き辛い日常は、常に「死」に囲まれているからでもある。
      生きていることを「綺麗」と呼べるのは、「亡き先生」を思う作者だからであり、
      人外の目に成り代わることができるのは生物の「死後」を見据える作者だからである。


       鮟鱇の死後がずるずるありにけり

      恐らくこのあと作者は「鮟鱇」の鍋を、美味いとむさぼり喰い、酒を飲んで酔っ払うのであるが、その食事が殺されて「ずるずる」と引きずられた鮟鱇であることを、つまらない理屈をこねることなく、日常の淡々のなかで受け止められる作者なのである。
      作者の日常賛歌が「桃源郷」であって、先行する世代の「日常詠」と決定的に異なるのは、作者が決定的に生き辛さを抱えており、郷愁と諦観のなかで仮構された理想郷だからだろう。
      作者の直面する生き辛さ、息苦しさは、とても普遍的な、それこそ生老病死の四苦に通じるようなとても普遍的な苦しさである。
      だが、きわめて現代的な、人とうまく混じれない、ささいなきっかけで心に疵を作ってしまう、ナイーブな青年像をも垣間見せる。
      だからこそ彼の日常詠は美しく、また古典に消費されない特異な個性を光らせるのだ。


       向き合つてけふの食事や小鳥来る


      (編集者より。前前号で、「西村麒麟北斗賞受賞評論公募!」として、「本BLOGの読者の中で、西村麒麟論を書いてみたいという方は、本BLOGの編集部ないし西村麒麟自身にご連絡を頂きたい。未公開の150句をお送りするので読んだうえ評論を送っていただければありがたい。」と申し上げたが、事故があり編集部では取り次がないので直接西村麒麟にご連絡ください。kirin.nishimura.819@gmail.com)

      【平成俳壇アンケート 第4・5回】大井恒行・小野裕三


      アンケート回答 ●大井恒行●

      1.回答者のお名前(大井恒行

      2.平成俳句について

      ①平成を代表する1句をお示しください(攝津幸彦「国家よりワタクシ大事さくらんぼ」

      ②平成を代表する俳人をお書きください。判断が難しいので2つに分けて結構です。

      ➊大家・中堅(攝津幸彦 現役では安井浩司・高山れおな
      ➋新人(鴇田智哉

      ③平成を代表する句集・著作をお書きください。(「陸々集」平成4年刊 )

      ④平成を代表する雑誌をお示しください。(

      ⑤平成俳句のいちばん記憶に残る事件を示してください。(攝津幸彦の死、『新撰21』の刊行

      ⑥比較のために、俳句と関係のない大事件を示してください。(2001.9.11ニューヨーク同時多発テロ 

      3.俳句一般

      ①時代を問わず最も好きな俳人を上げてください。( 髙柳重信 )

      ②時代を問わず最も好きな俳句を示してください。(重信「しづかに/しづかに/耳朶色の/怒りの花よ」

      4.その他
      (自由に、平成俳壇について感想をお書きください)
      僕が年齢を加えてしまったせいか、俳壇的な動向に特別な関心はない。ただ、新しい時代にしか、新しい感性、認識の俳句は生まれない。というわけで、僕は相変わらず古い感性で句を書き続けるだろう。そして、俳句の未来については、当然ながら、若い俳人たちに期待せざるを得ない。





      アンケート回答 ●小野裕三●

      1.回答者のお名前( 小野裕三 

      2.平成俳句について

      ①平成を代表する1句をお示しください(ひとりづつ呼ばるるやうに海霧に消ゆ(照井翠)

      ②平成を代表する俳人をお書きください。判断が難しいので2つに分けて結構です。

      ➊大家・中堅(中原道夫氏・鴇田智哉氏
      ➋新人(絶対にこの人、という名前が浮かびません。すみません。

      ③平成を代表する句集・著作をお書きください。(「龍宮」(照井翠)

      ④平成を代表する雑誌をお示しください。( 「オルガン」 

      ⑤平成俳句のいちばん記憶に残る事件を示してください。(少なくとも俳句に関しては、「事件」と呼べるような全体像を持つものは特になかったのでは、と思います。

      ⑥比較のために、俳句と関係のない大事件を示してください。(人類史的な観点について言うなら、インターネットや人工知能の急速な進化・普及は大事件です。

      3.俳句一般

      ①時代を問わず最も好きな俳人を上げてください。( 高浜虚子 

      ②時代を問わず最も好きな俳句を示してください。( 箒木に影といふものありにけり 

      4.その他
      (自由に、平成俳壇について感想をお書きください)
      私は俳句には関心があるのですが、俳壇にはあまり関心はないので、平成俳壇と言われてもあまり詳しくは存じ上げません。唯一、十五年近くの間友人である照井翠さんがここ数年で経験されたことは、私にとっても間接的ながら重い意味を持つ出来事でしたので、そのことは上記の回答に触れておきました。

      【抜粋】<俳句四季」6月号>俳壇観測173/還暦作家の回顧するわが人生 ――島田牙城と伊藤伊那男の狂気・敗残・至福 筑紫磐井

      それぞれに俳壇で一応の成果を示したこともあるのだろうか、圧倒的多数を占める団塊の世代を中心に、七〇~六〇歳の中堅作家群が人生の総集編的な成果をまとめ始めている。それも、俳句作品というよりは、随筆や評論など様々な形で自己の半生を問い直し、自己表現を行っているのである。

      ●島田牙城『俳句の背骨』(二〇一七年二月邑書林刊)
      邑書林の社主島田牙城(六〇歳。「里」代表)の評論集である。挑発的な評論を数多く発表することでも知られているが、意外なことに牙城自身にとって初めての評論集(本人は散文集と言っている)だそうである。他人の句集・評論集の出版に熱中する余り自分のことには手が回らなかったらしい。牙城はこの二十年余り膨大な発信を俳壇に対しており、邑書林からの企画と相俟って俳壇を騒がせてきた。特に若い世代の信頼は厚いものがある。
      この評論集は、おおまかにくくれば芭蕉、季語、文語、仮名遣い、虚子、其十、爽波、裕明等を論じていることになるが、冒頭の講演録をまとめた「芭蕉と現代俳句」は、芭蕉と言うよりは島田牙城の人生そのものを語っているようなので先ず紹介したい。何しろ先ずその講演が、入院中の精神病院を抜け出して駆けつけて来た牙城が語るという異常なシチュエーションだったからである。それ程重症ではなかったらしいが、講演の中でも語っているし、牙城そのものが刊行に関係していた岩淵喜代子の『二冊の鹿火屋』は原石鼎の評伝である(俳人協会評論賞受賞)が、――それが描く晩年の狂気の石鼎は圧巻である――実はその本の校正を、牙城は精神病院で行っていたのである。その他にも、狂院で亡くなった杉田久女、自らLSDを体験した精神科医の阿波完市など、痴れた人々が次々に登場する。
      次に狂気は神となる。じっさい石鼎は自ら神名を名告っていた。ここから、後世の人から神とさせられた芭蕉(実際、明治には「花之本大明神」として祀られたという)を語り始める。ここでは芭蕉を語ることも重要なのだが、実はその芭蕉に痴れた人々――加藤楸邨や森澄雄を牙城はこよなく愛している。「痴れる」と言うこと自体、牙城にとってのポジティブな価値なのであった。牙城が、たっぷり時間を費やして書いている爽波、裕明も痴れた側面をよく描いている。 実際私は知っている。邑書林が手がけた『加藤楸邨初期評論集成』『波多野爽波全集』も殆ど売れなかった。出版人としても牙城は楸邨や爽波に痴れていたのである。しかしそれは美しいことだと思う。
      (中略)

      ●青木亮人『俳句の変革者たち』(二〇一七年四月NHK出版刊)
       少し本論から離れて、若手の本を紹介しよう。NHKラジオのテクストである(四~六月放送)。新鋭俳句評論家である青木亮人(四五歳。愛媛大準教授)が、正岡子規から現代の若手までを視野に入れた俳句史を紹介しているのだが、定説化した一九六〇年までの俳句史に加えて、それ以降の俳句の変革者を書いていることに注目する。二十一世紀以降のいわゆる『新撰21世代』はまだ定評もし難いがたいが、攝津幸彦、坪内稔典たち、雑誌で言えば「日時計」「黄金海岸」「現代俳句(南方社)」に拠った戦後世代・団塊世代作家たちが位置づけられていることだ。小川軽舟の『現代俳句の海図』が伝統派に特化していたこともあり、このテクストでは視野が広げられている。こうした通史によって、前出の島田牙城や伊藤伊那男の世代の痛恨を汲み取ることも現代俳句史の宿題ではないかと思う。戦後派と呼ばれた金子兜太や飯田龍太のような英雄時代ではなくなっているのだ。

      ※詳しくは「俳句四季」6月号をご覧ください。


      2017年5月5日金曜日

      第65号

      ●更新スケジュール(2017年5月26

      二十八年度芸術選奨文部科学大臣賞受賞‼
      恩田侑布子句集『夢洗ひ』

      第4回攝津幸彦記念賞 募集‼ 》詳細
      各賞発表プレスリリース
      豈59号 第3回攝津幸彦記念賞 全受賞作品収録 購入は邑書林まで



      平成二十九年 俳句帖毎金00:00更新予定) 
      》読む

      平成二十九年 春興帖

      第六(5/26)渡邉美保・ふけとしこ・坂間恒子・椿屋実梛
      第五(5/19)内村恭子・仲寒蟬・松下カロ・川嶋健佑
      第四(5/12)仙田洋子・木村オサム・小林かんな・池田澄子


      第三(5/5)夏木久・網野月を・林雅樹
      第二(4/28) 杉山久子・曾根 毅・堀本 吟
      第一(4/21) 加藤知子・田中葉月・花尻万博



      ●新シリーズその1
      【西村麒麟特集】北斗賞受賞記念!
      受賞作150句について多角的鑑賞を試みる企画
      【西村麒麟・北斗賞受賞作を読む0】 序にかえて  …筑紫磐井  》読む
      【西村麒麟・北斗賞受賞作を読む1】北斗賞150句 …大塚凱  》読む
      【西村麒麟・北斗賞受賞作を読む2】「喚起する俳人」 中西亮太  》読む


      ●新シリーズその2
      【平成俳壇アンケート】
      間もなく終焉を迎える平成俳句について考える企画

      【平成俳壇アンケート 回答1】  筑紫磐井 》読む
      【平成俳壇アンケート 回答2・3】  島田牙城・北川美美 》読む



        【抜粋】

      <「俳句四季」5月号> 俳壇観測172/堀切克洋の俳人協会新鋭評論賞
      ――後藤夜半の「滝の上に」の句の時間性 
      筑紫磐井 》読む


      • 「俳誌要覧2016」「俳句四季」 の抜粋記事  》見てみる




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        およそ日刊俳句空間  》読む
          …(今までの執筆者)竹岡一郎・青山茂根・今泉礼奈・佐藤りえ・依光陽子・黒岩徳将・仮屋賢一・北川美美・大塚凱・宮﨑莉々香・柳本々々 … 
          • 5月の執筆者 (柳本々々・渡邉美保) 

            俳句空間」を読む  》読む   
            …(主な執筆者)小野裕三・もてきまり・大塚凱・網野月を・前北かおる・東影喜子
             好評‼大井恒行の日々彼是  》読む 




            【評論】
            アベカン俳句の真髄 ー底のない器ー   … 山本敏倖  》読む

            【短詩時評40話】
            ちょっと気になっただけです … 柳本々々  》読む



            あとがき  》読む



            冊子「俳句新空間 No.7 」発売中!
            No.7より邑書林にて取扱開始いたしました。
            桜色のNo.7


            題字 金子兜太
            • 存在者 金子兜太
            • 黒田杏子=編著
            • 特別CD付 
            • 書籍詳細はこちら (藤原書店)
            第5章 昭和を俳句と共に生きてきた
             青春の兜太――「成層圏」の師と仲間たち  坂本宮尾
             兜太の社会性  筑紫磐井



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            金子兜太 著 ,青木健 編
            寄稿者=嵐山光三郎,いとうせいこう,宇多喜代子,黒田杏子,齋藤愼爾,田中亜美,筑紫磐井,坪内稔典,蜂飼耳,堀江敏幸.




            俳句年鑑2017年度版・年代別2016年の収穫に筑紫磐井執筆‼
            「二つの力学」筑紫磐井
            【紹介作家】池田瑠那・高瀬祥子・阪西敦子・西山ゆりこ・大高翔・日下野由季・津久井健之・前北かおる・北大路翼・藤本夕衣・鎌田俊・冨田拓也・杉原祐之・村上鞆彦・椿屋実梛・大谷弘至・藤井あかり・杉田菜穂・高柳克弘・涼野海音・中本真人・松本てふこ・抜井諒一・音羽紅子・伊東裕起・小川楓子・神野紗希・西村麒麟・佐藤文香・山口優夢・野口る理・中山奈々小林鮎美
            まだご覧になっていない方は是非!





            特集:「金子兜太という表現者」
            執筆:安西篤、池田澄子、岸本直毅、田中亜美、筑紫磐井
            、対馬康子、冨田拓也、西池冬扇、坊城俊樹、柳生正名、
            連載:三橋敏雄 「眞神」考 北川美美


            特集:「突撃する<ナニコレ俳句>の旗手」
            執筆:岸本尚毅、奥坂まや、筑紫磐井、大井恒行、坊城俊樹、宮崎斗士
              


            特集:筑紫磐井著-戦後俳句の探求-<辞の詩学と詞の詩学>」を読んで」
            執筆:関悦史、田中亜美、井上康明、仁平勝、高柳克弘

            筑紫磐井著!-戦後俳句の探求
            <辞の詩学と詞の詩学>

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            第65号 あとがき


            ゴールデンウィークを直前にしてトラブルが生じた。このため、更新の日時を少しずらすことになったが、お許しいただきたい。これもあって、色々自由度の高かった誌面が少しの間不自由になるかも知れない。

            「週刊俳句」に比べ我々のBLOGは、この9年の間に「豈ーWeekly」→「俳句樹」→「詩客」→「BLOG俳句空間」→「BLOG俳句新空間」とめまぐるしく変化してきた。これは我々のBLOGが限定会員方式であり、一般投稿者によって運営されていないためであろう。限られた会員の趣向の変化に応じて、内容も変わってしまう。「BLOG俳句空間」のURLが「sengohaiku」を使っているのは、当時「戦後俳句を読む」のシリーズを続けるつもりでいたからだが、いつの間にかたち消えてしまった。URLだけが残っている。今は、「西村麒麟北斗賞受賞記念鑑賞」と「平成俳壇アンケート」がいつまで続くか分からないままに進んでいる。アミーバーのように形を変えながら進めて行くこともBLOGとしては健全だと思っている。
            また何よりの特徴は、紙媒体と結びついていることで、BLOGは読まないが、冊子「俳句新空間」は読んでいただいている方もいるということである。選択は読者にまかせられている。足の速い問題をBLOGで取り上げ、紙媒体にするのは、慌ただしい時代にふさわしいことかも知れない。それに対応できなくなっているのが、従来の雑誌かも知れない。

            つい先頃も「萬緑」が終刊したが、もっとみじかで驚いたのは、川柳作家樋口由紀子氏が発行していた「川柳カード」「MANO」がそれぞれ3月、4月に終刊したことだ。この2誌に参加されているいわゆる現代川柳の作家たちは、私たちとも馴染みが深く、一部の人は我々のBLOGに一時期参加していただいていたことがある。「萬緑」のような歴史がある雑誌が継続困難になる一方で、若い世代が中心となり機動的と思われている「川柳カード」「MANO」も継続できない理由があるわけだ。個人の意志だけでどうにもならない、周囲の状況がそうした結論を導き出すのだろうか。もちろんこれらの雑誌の終刊は上に縷々述べたこととは関係ないことかも知れないが、同じ雑誌発行者として身につまされることではある。(T)

            【抜粋】<「俳句四季」5月号> 俳壇観測172/堀切克洋の俳人協会新鋭評論賞 ――後藤夜半の「滝の上に」の句の時間性 筑紫磐井


            俳人協会評論賞の受賞者なし

            俳人協会の各賞の選考が一月に行われ発表された。中でも評論関係の賞に関心を持った。理由は、私自身受賞したり、賞の選考に加わったことが何回かあるからである。また賞とは関係ないが、俳人協会の評論の紀要の委員も長いこと続けており、いわゆる伝統俳人たちの評論の水準には関心があるのだ。
            その意味で、今回の評論賞の結果には驚いた。本賞も新人賞も受賞者が一人もいないというのだ。おそらく評論賞が始まって以来、本賞も新人賞も出なかった年は初めてではないだろうか(本賞は昭和五四年に創設され、隔年で授賞。平成五年からは毎年授賞となった。また、同年から新人賞も創設された)。新人賞が出ない年はしばしばあったが、さすがに本賞のない年はなかったはずである。
            評論賞の過去の受賞者は、澤木欣一、石原八束、川崎展宏等の大家から、仁平勝、岸本尚毅らの本格的評論家、さらに中堅・新人まで、あまり世代にこだわらず授与されている。その意味では句集を顕彰する俳人協会賞と比べて対照的であり、風通しが良いものとなっている(そういえば、評論賞ではないが、俳句文学館紀要にはかつて夏石番矢が国際俳句について論じた評論を掲載していたことがある。有季定型の条件に厳しい伝統俳句と違って、評論については俳人協会もおおらかなところがあるのだ)。
            評論と言えば、ひところは総合誌では社会性俳句系・前衛系の俳人の評論が中心で、伝統俳人はそういう理屈っぽいものは書かないというのが風潮であった。そうした傾向が変わったのは、俳人協会評論賞の功績かもしれない。現代俳句協会も評論賞を募集して顕彰しているが、現代俳句協会のそれよりはすそ野が広いのが特徴だ。両々相まって、評論が充実し、実りある論争も行われるだろう。そうした期待があっただけに今回の受賞者なしは残念であった。

            新鋭評論賞

            俳人協会評論賞及び評論新人賞に代わって、今回ひときわ目を引いたのが、第三回新鋭評論賞の大賞を受賞した堀切克洋の「見性としての写生 後藤夜半の滝の句をめぐって」であった。
            新鋭評論賞とは、俳人協会が公募する俳句評論に対する賞で、四九歳以下の協会会員による評論が対象となっている。同じ新人を対象としながらも、評論新人賞が、刊行された評論集を対象としており、比較的若い世代に与えられるものの年齢を切っていないのと比較すると、本当に若手評論の顕彰の意味を持っている(そもそも若手には評論は書けても、評論集を刊行する経済的余裕はないであろう)。
            堀切の今回の応募評論は、後藤夜半のよく知られた「滝の上に水現れて落ちにけり」を論じたものだが、本人の言葉によれば、一九二〇年代後半の文脈――特に高野素十と水原秋櫻子の論争を踏まえて考えてみたものだという。
            この受賞作品は、俳人協会のホームページで簡単に読めるので触りだけを書けば、高野素十と水原秋櫻子、そして素十を評価し秋櫻子を批判した中田みずほの三者が評論で使う「技巧」の意味の違いを分析するところから始まり、「技巧が見えない技巧」とは何かを考える。もちろん、堀切によれば、「滝の上に」の句には「技巧が見えない技巧」があるのだと考えているわけである。
            (以下略)


            ※詳しくは「俳句四季」4月号をご覧ください。

            【平成俳壇アンケート 第2・3回】 島田牙城・北川美美


            アンケート回答 ●島田牙城●

            1.回答者のお名前(島田牙城
            2.平成俳句について

            ①平成を代表する1句をお示しください
            人類に空爆のある雑煮かな  関悦史

            ②平成を代表する俳人をお書きください。判断が難しいので2つに分けて結構です。

            ➊大家・中堅(金子兜太
            ➋新人(佐藤文香

            ③平成を代表する句集・著作をお書きください。(高野ムツオ『萬の翅』

            ④平成を代表する雑誌をお示しください。(「週刊俳句」

            ⑤平成俳句のいちばん記憶に残る事件を示してください。(俳句甲子園の定着

            ⑥比較のために、俳句と関係のない大事件を示してください。(インターネットの普及

            3.俳句一般

            ①時代を問わず最も好きな俳人を上げてください。(波多野爽波
            ②時代を問わず最も好きな俳句を示してください。(チューリップ花びら外れかけてをり 波多野爽波

            4.その他
            (自由に、平成俳壇について感想をお書きください)
            平成の俳句は平穏であることの素晴らしさを教えてくれるものだったように思う。
            平穏の象徴としての、関悦史の「雑煮」を思う。
            大きな動きがないのは、イデオロギーの時代ではなくなったからであり、さして問題ではなかろう。

            それよりも、平穏であるということは、社会的に付け入る隙が多々あるということでもある。
            そこのところを、俳句を作る一人の「人」として注意していきたい。
            兜太さんを上げたのは、多くの昭和俳人が平成の前半から半ばには他界しておられるのに、終に平成を全うされようとしているからだ。

            ところで、平成の後半は、一気にインターネットが普及し、それまでにワープロに慣れてきていて俳人たちが、もっと精度の高い、容易で安価な印刷技術を手に入れたこともあり、少人数の同人誌が多く創刊された。
            それとともに、SNSの普及で個人的にインターネットで俳句を発信するという俳句との接し方も生まれた。
            半面、従来からの主宰誌は多く会員減少による財政難に悩まされ始め、 統合や廃刊に追い込まれるというケースも散見される。
            今後、同人誌の役割が格段に増すだろう。
            その中で主宰誌がどのような存在感を示してゆくのかが問われている。 桂信子が言うた「本当の俳句」に出合う場、森澄雄が言うた「真剣な遊び」としての句会の場、をいかに確保するのか、または、そういう場は必要ないのか、次の世へ持ち越された大きな課題ではある。


            アンケート回答 ●北川美美●

            1.回答者のお名前( 北川美美 )

            2.平成俳句について
            ①平成を代表する1句をお示しください(人類に空爆のある雑煮かな 関悦史
            ②平成を代表する俳人をお書きください。判断が難しいので2つに分けて結構です。
            ➊大家・中堅( 金子兜太、金原まさ子 )
            ➋新人( 関悦史 )

            ③平成を代表する句集・著作をお書きください。( 山本紫黄 「瓢箪池」 )
            →非常に個人的理由。発刊直後に自分の師でもあった作者が急逝。昭和に出されるはずだったものが先延ばしで平成になった。池田澄子氏の勧めがあり本人を動かし実現した句集だが、自分にとって忘れられない句集となった。

            ④平成を代表する雑誌をお示しください。( 「WEP俳句通信」 )
            →ひねくれ回答かつ拙稿掲載誌になるが、取扱書店が少なく、なかなか普及するまでに至らない俳句雑誌の割には、内容が濃いと読むほどに思う。アンチ若者という風情もあり、俳句甲子園系の若者に全く迎合していない雑誌という印象がある。作品に於いては結社主宰、大家の作品が掲載され、新鋭とされる実力派の作品も堪能できる。紙離れの平成の世に、不思議と継続し続けているレアな俳句雑誌である。

            対極として、「週刊俳句」「豈weekly」「増殖する歳時記」インターネットで俳句が読める革新的な雑誌が読者数を伸ばしたことが挙げられる。

            ⑤平成俳句のいちばん記憶に残る事件を示してください。(「関揺れる」「天使の涎」など社会事象的側面を持ちながら即座に句集が作られたこと。そこにはSNSや携帯などの通信の発達があるのだろう。

            ⑥比較のために、俳句と関係のない大事件を示してください。(事象としては、インターネット、PC、を含む通信の急速な発達と普及。二万人が亡くなられた事件と捉えれば東日本大震災。

            3.俳句一般

            ①時代を問わず最も好きな俳人を上げてください。(三橋敏雄

            ②時代を問わず最も好きな俳句を示してください。(いつせいに柱の燃ゆる都かな

            4.その他
            (自由に、平成俳壇について感想をお書きください)
            個人的には、昭和63年平成元年の1989という数字を私は忘れることはないだろう。個人的回想はさておき、時代としての平成のみを想えば、昭和の影を引きずりながら、永遠に昭和が終わらない時代、いや、昭和の終焉を無理やりにでも型をつけていかなければならない状況に陥ったのが平成であったのではないかと思う。そして、平らかに穏やかな時代、ロハス、ストリートファッション、エコ、リラクゼーション、などの言葉がその時代性を物語っているのではないだろうか。

            さて、平成俳壇として考えた場合はどうか。万人にわかる俳句、平穏性を重んずる風潮、故に、主宰がカリスマとして、作品の魔力で団体を引率した時代は朧げにすでに終っている印象がある。それゆえに、結社誌や同人誌の終焉、結社離れ、協会離れ、紙離れが起き、読者は数多の選択肢から選ぶことが出来るようになった反面、何がどうよい作品なのか、読者は何を信じて俳句を読んでいったらよいのかが不明瞭になった時代とも言えるだろう。

            俳諧が正岡子規により俳句となり、4S、新興俳句、と長らくの句座、団体を重んじる風潮が俳句にはあった。昭和の終焉を経て、座、団体とは関係なく、個として活躍する場へと移って来たのが平成俳壇ではないか、と客観的に思う。自由になった反面、何がよいのかを読者、実作者は失いかけているとも思える。 読者、実作者である個の判断がこれから試される厳しい時代なのではないかと思う。

            【短詩時評40】ちょっと気になっただけです/柳本々々

            「現代俳句協会創立70周年記念事業 青年部第149回勉強会 【読書リレー「ただならぬ虎と然るべくカンフー】」において田島健一さんの句集『ただならぬぽ』を読ませていただくという機会をいただいた。そのときの経験から、〈俳句を読む〉という行為をめぐって、のちに、断片的に、さまざまなことを思った。これはその、後日にあらわれた〈俳句を読むこと〉と〈読むこと〉をめぐる「ちょっと気になっただけ」の断片である。

                *

            自分にとって色川武大という存在は長い間凄く大きな存在としてあったが、ただ色川武大をどう読めばいいかわからずずっと色川のそばをただ何年もうろうろしていた。田島健一さんの句集を読む作業を通してとつぜん色川の読み方がわかったが、しかし俳句を通してわかる小説表現とはいったいなんなのだろう。俳句を読むという行為は、なにか、ひとの、読む経験を、変質させてしまうようなところがあるのだろうか。〈読む〉ことそのものをとらえかえしてしまうような。俳句を〈読む〉行為は、〈読むこと〉そのものを〈読み直す〉ことにもつながっているのではないか。わたしが、読み直される。

                *

            そもそも、ものが「見える」というのはある意味で幻想なんです。たまたまそういうふうに「見えて」いる。「見えてしかたがないもの」があって。意味のレベルじゃなくて、泥んこ。/田島健一『オルガン』2号、2015年」

                *

            橋本直さんの岡村知昭さん句集『然るべく』の講座をきいていてはっとしたのが、橋本さんがそこで〈読むことをしくじる可能性〉のような事を話されていたことだった。うまく読むことはできるかもしれない。しかし、うまく失敗しながら読むことはどのように到達できるのだろう。俳句はそれを時に要請する。俳句を、うまーく読んだときに、俳句は、こう言うかもしれない。おまえそれちがうよ。おまえそれなんかちがうよ、と。わたしは、聴いている。

                *

            わたしは小さな田舎町を散歩していた。突然私は心臓部に強い衝撃を受けた。それは事物の境界を崩壊させ、定義をばらばらに分解し、事物や思考の意味をなくさせてしまった。わたしはつぶやいた。これ以外に、これ以外に真実はなにもないのだ、と。/イヨネスコ『過去の現在 現在の過去』」

                *

            だから私が今回現代俳句協会のイベントでいちばん勉強になったのは、読むこと、読みの経験とはどのようなものなのだろうということをとても考えさせられたことだった。多摩図書館でわたしはそれをかんがえていた。それはあの一日の一貫したテーマだったと思う。俳句を読む行為は、ふだんの読む行為をとらえ返し、再考させる。読む経験に変質を迫る。ときどき机につっぷしそうになる。人生でたった一冊でもほんとうに〈読む〉ことができた本があったのかどうか。いろんな本を読んだけれど。わたしは、耐えている。

                *

            なぜ、私は読んだらそれについて何かを言わなければならないと思うのか。私は何かを言うために読んでいるのか。なぜ、 黙って、反芻するようにただひたすら読もうとしないのか。/山城むつみ「文学のプログラム」」

                *

            生駒大祐さんが私の隣で「この句を《ただたんに》読むこともできると思うんです」と言われた時に、山城むつみと小林秀雄の事を思い出した。数年前にこの時評で書いたのだが、読むということは、読むことをいったん放棄することであり、書き写すことなのではないか。それはボルヘスもドン・キホーテを通して語っていた。メナールさんを通して。メナールさんが提出していた《ただたんに》の経験。読む、とはときに、読まないこと、読むことをしくじらせながらたどりつくということ。生駒さんは言う。「たまねぎを切る。ただたんに見る、たまねぎの切った断面をただたんに見る。ちがいますか」 私は、聴いている。

                *

            白鳥定食いつまでも聲かがやくよ/田島健一

                *

            俳句を読む行為は、その読みの行為のなかに《失敗の経験》を含ませていく行為でもある。うまく読めれば読めるほど、失敗やしくじりが伸びしろとして広がっていく。その意味で俳句の読み手になる事は大失敗に自ら身を投じていく行為でもある。しかし実は読むことの原体験ってそういうものなのではないか。この読むことをめぐる失敗はどこかで消えてしまう。しかし、俳句はそれを想起させる。思い出せ、という。読むことの死をわすれるなと。田島健一さんの句集は、詩=死を思い出せ、で始まり、詩=死を忘れるな、で終わっていた。

                *

            「白鳥定食は現実界そのものなんですよ」という小津夜景さんの言葉。「だからいつまでもえいえんに輝くんですよ。たどりつかないから」

                *

            国際電話とは、いったいなんなのか。

                *

            積極的に失敗すること、読むことの死にちかづくこと、それが詩に転轍されることというのはどういうことなのか。

                *

            「もしもし。あの、すみません。やぎもとです」

                *

            会場のいちばんうしろ、いちばん奥で、田島さんが聞いている。いちばん奥できいている田島さん。みずからが白鳥定食そのものとなって、ことばがたどりつくかたどりつかないかわからないおくで、季語のように、すわって、聴いている。

                *

            鶫がいる永遠にバス来ないかも/田島健一

                *

            「安福望さんに、『鶫』ってなんて読むんですか、ってきかれたときに、それは『ひよどり』って読むんですよ、って言ったんですよ。でも、後で調べたら『つぐみ』だった。だから、安福さんはいまでも『鶫』を『ひよどり』って読んでいるはずです。そういうことがあるんですよ。生きてると」

                *

            「たとえば紅茶椅子というものがあったとしますよね。で、紅茶椅子を持ってきてくださいと言ったときに、はいわかりました、と言われて、持ってきてこられてしまったらまずいわけです。やばいなと思うわけです」と話すわたし。聴いている生駒さん。

                *

            例えば村上春樹の『ノルウェイの森』の主人公は突然冒頭プルーストのように航空機の中で回想をはじめるのだが、しかし、かれはその回想から戻ってこられなくなる。〈かれ〉は、みずからの回想を読むことをはじめ、『ノルウェイの森』を語り、想起しているのだが、しかしその〈読むこと〉に失敗したのだ。回想に失敗してしまったひとりの男。ビートルズの「ノルウェーの森」の歌詞のように部屋にひとり取り残されたおとこ。

                *

            かれの居場所は最終的には世界のどこにも位置づけられない電話ボックスのなかにある。そこからいますぐきみに会いたい、きみにどうしても会いたい、と愛するひとに呼びかける。かれは、回想を失敗し、回想を読むことも失敗し、場所の確保も失敗し、愛に失敗し、それでもどこでもない場所から呼びかける。もういちどやりなおしたい、読み直したい、と。

                *

            どこに、ゆくのか。

                *

            私は症状である竹の秋/阿部完市

                *

            ホワイトボードに向かって田島健一句集における季語と現実界のイメージを図解するわたし。ふと手をとめて「キ語のキっていう字が書けないんですけど、どうしましょう」と困った顔をして生駒さんをみるわたし。生駒さんが指をさしだし、宙に書いてくれる。、と。

                *

            白鳥定食いつまでも聲かがやくよ/田島健一

                *

            このしくじりながらも呼びかける行為は、俳句を読む行為にも似ている。変な話だが、俳句を読む行為と村上春樹『ノルウェイの森』(を読む行為)は似ている。あらゆる失敗や挫折を経験したどりついてしまったそのどこでもない場所から、それでもこう読みましたこう読むしかなかったんですよと呼びかける行為。

                *

            凄く乱暴に言うと、俳句主体と初期の村上春樹主体は〈ぼんやり〉や〈僕にはわからない〉〈やれやれ〉などの理解への到達しがたさが少し似ているところがあるんじゃないかと思ったりする。「古池や蛙とびこむ水の音やれやれ」と村上春樹も言っていたような気がするのだ。ただ、これは。ちょっと気になっただけです。

                *

            「--私自身、よくわからないのです。私はいつも理屈で筋道をつけようとしないものですから、気持の中をご説明できません」
            医者は小さく頷いた。/色川武大「狂人日記」」

                *

            ここには、わけのわからないことが、いっぱいあるわ。だけど、ほんとうは、なんでもじぶんのなれているとおりにあるんだと思うほうがおかしいのじゃないかしら?/ムーミンママ「ムーミン谷の夏まつり」」

                *

            鴇田智哉さんの句に「人参を並べておけば分かるなり」がある(池田澄子さんのピーマン句、田島健一さんの玉葱句と比較すると面白いかもしれない。鴇田さんは野菜を並べて有無を言わせず「分か」らせる)。この「分かる」の「やれやれ、世界はなるようにしかならないのだ」感は村上春樹のような奇妙な世界肯定感がある。

                * 

            村上春樹の初期の小説がもつ〈気分〉、たえずさまざまなことを理解しそこね失敗しながら、たどりついてゆく場所にたどりついてゆかざるをえない〈気分〉、それは俳句を読むことに少し似ている。「ねじまき鳥と火曜日の女たち」の僕は妻との関係に失敗し猫をさがすことに失敗しなにか致命的な事柄になんとなく失敗する。

                *

            ワタナベ・ノボル
             お前はどこにいるのだ?
             ねじまき鳥はお前のねじを
             巻かなかったのか?/村上春樹「ねじまき鳥と火曜日の女たち」」

                *

            読むことと失敗をめぐる経験。俳句を読むことと失敗をめぐる経験。でも。これは。

                *

            ちょっと気になっただけです。




            【西村麒麟・北斗賞受賞作を読む2】「喚起する俳人」/中西 亮太


             麒麟さん。僕が東京に来て二年間、俳句関係で一番親しくしてくださった人だ。この度、麒麟さんの北斗賞受賞作「思ひ出帳」を拝読する機会をいただいた。「おもいっきり、好きに書いてくれたら嬉しい」と言ってくださった麒麟さんの胸をお借りして、ラーナーlearnerの視点から作品を鑑賞したい。
            結論から言うと、「喚起すること」の意味を考えさせられた。「思ひ出帳」は麒麟さんの体験・感性に根ざしている(ように見える)し、時としてそれを直接的に表明する句もある。句が提供する景色や物語は、(フランスポストモダン風に言えば解釈は他者の手に渡ってしまうのかもしれないが、)固有の作家が他者に喚起するものなのである。

              夕方の空まだ青し夕爾の忌

            ここでは「まだ」に着目したい。僕が想像する夕方は(一般的だと信じるが、)「16時~17時くらい」「太陽が沈み初めて、オレンジ色になっている時」などである。「夕方の」句はこの想像とのギャップを「まだ」で捉えようとしている。夕方なのに「まだ」、夕爾っぽく叙情的な句を作りたいのに「まだ」、なのである。この「まだ」は麒麟さんの心情が吐露された言葉ではないだろうか。焦点は夕方の青い空であるが、それを見る麒麟さんがはっきりと浮かぶ。
            描かれる人間(麒麟さんだろう)の心情を汲み取ることで鑑賞を楽しむことができる句が受賞作にはふんだんに盛り込まれている。いや、すべての句がそうした視点から楽しむことができると言っても過言ではない。

              雪の日や大きな傘を持たされて

              焚火して宇宙の隅にゐたりけり

              秋の庭どこへも行かぬ人として

            これらの句は「ポジティブな諦観」を表明するものとして解釈できないだろうか。「傘を持たされているけれど/隅にいるけれど/どこにも行かないけれど、それもまたいいでしょ?」と言うような。
            しかし(/やはり?)、そんな人間も時としてダークな部分を見せてしまう。

              学校のうさぎに嘘を教えけり

            句が解釈される時、もはや句は作者のものではなくなってしまう。これはある種の必然である。となれば、その必然を逆手にとって「俳句は他者に読まれるもの」と想定する必要があるのではないか。もし俳句が他者に読まれることを内包するものだとしたら、麒麟さんの句のように何かを喚起する句であるべきなのではないか。他者に景色や物語を喚起することが作家である俳人の役割であり、喚起されたもので他者を楽しませることができるのならば、それが「良い句」の(一)条件なのではないだろうか。
            僕は他者に何を喚起することができるだろうか。そういうことを頭の片隅に置いておきたい。
             麒麟さん、北斗賞受賞おめでとうございます。また、いろいろ教えてください。


            (編集者より。前号で、「西村麒麟北斗賞受賞評論公募!」として、「本BLOGの読者の中で、西村麒麟論を書いてみたいという方は、本BLOGの編集部ないし西村麒麟自身にご連絡を頂きたい。未公開の150句をお送りするので読んだうえ評論を送っていただければありがたい。」と申し上げたが、事故があり編集部では取り次がないので直接西村麒麟にご連絡ください。)

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