⑥ ライバルとの競争
「沖」の二十代作家は恵まれていたと述べた。その一例として、毎年の沖の二十代・青年作家特集を掲げた。これからこの特集のその後の展開を眺めてみたいと思うのだが、その前に一言、こうして取り上げられた作家たちの相互の関係を眺めておきたい。
若い作家たちも相互に競いあった上で、結社の様々な評価を受けてゆく。一つの指標が「同人」となることで、キャリアを積んだ若手は結社の運営や作品の中心となる場としてこうした一種の企業の職場での昇格のような仕組みで上部へ組みあげられてゆく。沖創刊後の二十代作家の同人昇格をあげてみよう。
【20代作家たちの同人昇格】[]は現状
51年 大関靖博(28歳)[轍主宰]、能村研三(27歳)[沖主宰]
53年 柳川大亀(31歳)
54年 鎌倉佐弓(26歳)[吟遊編集人]
55年 小澤克己(31歳)[遠嶺主宰→平成22年没・終刊]
56年 田中耕一郎(34歳)、筑紫磐井(31歳)[豈発行人]、正木ゆう子(29歳)[紫薇同人]
57年 森岡正作(33歳)[出航主宰]
59年 中原道夫(33歳)[銀化主宰]
60年 猪村直樹(32歳)、渡辺鮎太(32歳)
[]の現状が掲げられていない人たちの中にはもうすっかり俳句から撤退した人たちもいる。さてこうして同人となったなかでは、大関、能村、鎌倉が若くなり、それ以外の多くは30歳前後まで同人昇格を待つこととなったようである。「沖」という雑誌からはこの3人が格段に期待されていたと言うことだろうか。
もう一つは結社の顕彰として様々な賞がもうけられているが、二十代・青年作家を対象とした賞としては、「沖」では新人賞・同人賞が設けられていた。その受賞状況を掲げてみよう。
[20代作家たちの新人賞・同人賞]
能村研三=59年同人賞
鎌倉佐弓=60年同人賞
田中耕一郎=56年新人賞
中原道夫=59年新人賞・2年同人賞
これも同人となる順番と併せて、期待度を表しているものだろう。中原道夫がそろそろ頭角を現してきている。
さらに、昭和53年5月「特集沖の20代・10代」では、作品特集と併せて青年による座談会「俳句の未来を考える」が開かれており、各自の俳句を語っているが、二十代では、大関靖博、能村研三、鎌倉佐弓が出席している。上の同人となった順番や顕彰とよく合致している。また、同じく号の俳句作品の選評で鎌倉佐弓が五席で取り上げられている。それはこれでよいのだが、能村登四郎の選評が、「もうすっかり沖句会のアイドルになってしまった佐弓ちゃん。先ごろお父様を亡くされたが、それにもめげず句会で勉強されている。二十代のうちにうちに何かせい一ぱいかけようとするけなげな気持ちは尊い。それだけ情熱があるから、句はやはり抜群にうまい。」という、鼻白む選評であった。
若手が優遇されていると言われる「沖」にいた正木ゆう子にしても、私にしても、短い期間とはいえ中断の時期があるのだが、こうした妙な優等生的雰囲気に嫌気がささないわけではなかったのである。私だけでなく、正木ゆう子も鬱屈した時代を送っていたのではないかと思う。
では、それらの若手たちがその後、結社以外でどうなったかの途中経過を参考までに書いておこう。
[20代作家たちの協会賞等]
能村研三=平成4年俳人協会新人賞
鎌倉佐弓=平成13年現代俳句協会賞受賞
筑紫磐井=平成6年俳人協会評論新人賞・平成16年正岡子規国際俳句賞特別賞・平成24年俳人協会評論賞
正木ゆう子=平成11年俳人協会評論賞・平成14年芸術選奨文部科学大臣賞
中原道夫=平成元年俳人協会新人賞・平成5年俳人協会賞
優等生となるばかりが道ではないだろうとはそのころから思っていたことである。
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個人的な感想を述べさせてもらえれば、文学結社は会社ではあるまいし、同人ー結社賞ー協会賞などというヒエラルキーで忠勤を励んでみてもしょうがないだろうと感じた。そこで、以後、一切俳句作品はあきらめた。しかし、当時「沖」は評論活動に熱心であったこともあり、せっせと評論は送りまくったものだ。数年にわたる長編連載評論を何回も書かせてもらった(というより、勝手に編集長に送るとそのまま掲載されるのである)。初めは、不定期に送稿していたが、やがて懸賞論文にも応じるようになった(沖は評論コンクールが盛んであったのだ)。それも初めは評論だけだったが、文章であれば何でもよいと随筆にまで応募している。その結果が次の通りであった。その意味で私にとってはまことにありがたい雑誌であった。
【筑紫磐井受賞】
5周年記念作品 論文入選1位「俳句と近代について」
100号記念作品 論文入選2位(このとき1位なし)「女流俳句論」
10周年記念作品 論文入選1位「雅びの系譜」
15周年記念作品 論文入選なし、随筆入選2位「パンの実のごとやさし」
200号記念作品 論文入選1位「「第二芸術」四十年」、随筆入選1位「桑名」(15周年落選論文を随筆に書き換えて応募)
20周年記念作品 論文入選1位「虚子の系譜と子規の系譜」、随筆入選2位「黄金の茶室」
25周年・300号記念では論文賞選者になっていたから、応募できず、代わりに模範となる選者論文「風景新論」を発表させてもらっている。しかし、言っておくが結社賞からは全く無縁であった。優等生の戦略ではないのである。
こうした邪道を取らなかったのが正木ゆう子である。様々なコンクールに応募することもなく、角川俳句賞などにも応募することなく、営々と同人欄に作品発表することによって後世に注目される作品を作り出していった(もちろん句会だけはせっせとやっていたが)。内側に向う力こそが正木ゆう子の力であったと思っている。
このようなことを書いているのも、理由は二つある。一つは若い作家たちに、自分たちの道は自分たちで切り開いて行くものであるということに目をひらいて欲しいからである。大人たちの示す道にろくなものはない、少なくとも自分たちの作り上げた道を進むことで失敗したとしても後悔は少ないであろう。
二つ目は、俳句は俳句作品ばかりが目的ではない、評論は重要な分野であるということだ。昨年の俳人協会賞(句集)は252編の対象句集で受賞は1編、当選率0.4%、俳人協会評論賞は8編の対象句集で受賞は2編、当選率25.0%。60倍の確率である。青年はよろしく評論を書くべきである(もちろん俳人協会賞など目じゃないという青年作家もいるであろう、そういう青年には深く敬意を表するが、最近眺めてみると我々の時代以上にやたらと賞をほしがる青年達が多いのも実態であるように思う)。