2014年2月21日金曜日

【西村麒麟『鶉』を読む6】 (一句鑑賞) 鶴と亀  / 田中亜美

 華やかな鶴と優しき大きな亀


 麒麟さんの句には、麒麟の名前のごとく、動物やその周辺を題材にしたものが多い。<秋蝉や死ぬかも知れぬ二日酔ひ><虫籠に胡瓜が入るほどの穴><黄金の寒鯉がまたやる気なし> <働かぬ蟻のおろおろ来たりけり>などである。何だか書き写しながら、たしかに動物は動物だけど、犬や猫や馬や狼など、いかにも詩の題材となる生きものではない、ニッチというか微妙な存在感の生きものが多いなと思う。それにそもそも、当の「麒麟」の登場することが、全くない。あの首が長くて、眼が優しそうで微妙に曇っていて、高い梢の木の葉をもぐもぐしているようで、されど、目の前に肉があったらそれはそれでむぐむぐしそうな生きものを、直接登場させることはないのだ。

 だけど、先にあげた<秋蝉>や<虫籠(に居る虫)>、<寒鯉><蟻>には、濃淡の差こそあれ、いずれも「麒麟」が隠れている、言い換えれば、麒麟さんの自画像が投影されているような気がする。しょっちゅう二日酔いで、日本酒のお供に胡瓜は欠かせなくて、俳句とお酒以外はまあ、そんな感じ。
 だんだん、悪口みたいになってきましたが、スピカの「きりんの部屋」で、私の酒癖をバラすのは、止めて下さい(笑)。

 掲句は、そうした私小説風の「麒麟調」とは一風変わって、「鶴」と「亀」という生きものだけが、ぽんと置かれた感じが斬新な気がする。「鶴」と「亀」は言うまでもなく、千年万年という長いスパンの時間軸を貫くめでたさを象徴するもの。それを、紅白の水引であるとか、金銀の派手な装飾といった具体的なイメージに仮託させることなく 、「華やかな」「優しき」「大きな」という形容詞三つで、すらりとやわらかく言いとめた。

 普通、一句の中で、形容詞が重なることは、句をごてごてと重くしがちだが、この句の場合は、形容詞が足し算ではなく引き算として、すなわち、句をどんどん軽くしていく方向に機能させている気がする。ほっそりとたたずむ鶴と、その鶴を、どっしりと受け止める亀。「華やかな」「優しき」「大きな」という三つの形容詞の先にある、第四の形容詞は、いったい何だろう。たぶん、それは、とても幸せな、あたたかな何かだ。この句は、最終的に、その「何か」を言おうとしているのかもしれない。
 いささか飛躍した読みであることを承知で、私はこの句に祝婚歌というか、たとえば麒麟さんの奥さんと麒麟さんの姿を重ね合わせてしまう。ただし、この句の持つスケール感は、私小説にとどまるのではなく、もっと大きな、人類に向けた叙事詩のような何かだ。

 …人類というか、まあ、鶴と亀だけど。

 句集刊行おめでとうございます。著者・西村麒麟、発行者・西村A子、発行所・西村家。「きりんの部屋」の更新スピードにはかなわないながらも、いろいろと句集を読んでいるつもりですが、著者略歴に入籍日が記されたものは、初めて見ました。

 昨春の結婚のお祝いには伺えず、失礼しました。

 結婚2年目ですね。

 遅くなりましたが、末永くお幸せに。





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