2014年2月7日金曜日

赤尾兜子の句【テーマ:場末、ならびに海辺】/仲寒蝉

轢死者の直前葡萄透きとおる    『虚像』

これまた鑑賞に困る一句である。句の姿は定型を順守しているし「轢死者」という珍しい題材を扱ってはいるものの挿して難しい単語は使われていない。文法的にも難解さの欠片もない。だからこの句を解釈せよと言われれば書かれている通り「轢死者の直前に葡萄が透き通っている」というだけのこと。実に単純である。だがこの一句の意味を解いて鑑賞せよと言われると途端に一筋縄ではいかない困難さが生ずるのだ。

これまで見てきたように兜子の俳句の多くは同様の難解さを伴う。書かれていることはたぶん兜子自身が日常生活の中で経験したありふれた事実が元になっている。この句の場合実際に轢死の瞬間を見たのかどうか分からないが、恐らく轢死者の死体を見たか(記者なので)、少なくともかなり近いところでその事件に接したのだろう。また葡萄(恐らく赤や黒ではなく薄緑の)が透き通って向こう側の光を通過させている光景にも出くわしたのだろう。だがその二つの出来事がこうやって一句に仕立て上げられると俄然難しくなる。

普段から論理的な思考に慣れ、それを駆使して生きている人ほど俳句や詩に意味を求めたがる。なぜ轢死者の直前で葡萄が透き通るのか?それはどういう意味なのか?少なくともこの時点の作者にとってどういう意味をもったのか?それを知ろうとする。だが兜子が言いたいのはその句がもたらす意味ではなく、脈絡もなく放り出された二つの事実、その二つが並べられた所から立ちのぼる感じ、雰囲気、のようなものではないのか。つまり或る液体の中に或る物質が放り込まれた時に起こる化学反応、予期せぬ色の変化やにおい、場合によっては爆発などの現象、そのようなものではないか。

その意味では「なぜ」轢死者の直前で葡萄が透き通るのか?と問うても仕方がない。ただこの葡萄が死ぬ直前の轢死者が見た(であろう)ものなのか、轢死者を目撃した側(作者含め)が見たものなのか、或いは見たのでなく頭に浮かんだものなのかを決めないと鑑賞は曖昧になってしまう。これは恐らく作者自身が轢死者になった気持ちになって、その直前に例えば突進してくる電車のライト、自分を撥ねることになる自動車のヘッドライトが眼球という葡萄のようなものを通して向かって来る様を詠んだのであろう。

透き通る葡萄は何も眼球のメタファーとは限らないが、梅里書房版『昭和俳句文学アルバム 赤尾兜子の世界』の中で和田悟朗が指摘しているように『稚年記』の次の句でも死のイメージとして使われている。

青葡萄透きてし見ゆる別れかな

この本には和田によって轢死者の句が出来たときのエピソードが紹介されているので紹介しておこう。

私は兜子がこの句を得た日のことを今もよく憶えている。私が所用で兜子宅を訪れ、そのあと珍しく阪急御影駅まで送ってもらった。その夜道で、今日こんな句が出来たといって興奮しながらこの句を聞かされ、私はたいへん感動し、そのまま駅の改札口をはさんでしばらくこの句について話し合った。轢死という無機質な機械文明による殺戮に対して、美しい葡萄の透明感は古代から変わらない自然の生命の輝きそのものであると思った。兜子はその二十年後、そこからほんの二百メートル離れた個所で自身轢死したのであった。

兜子自身の轢死は偶然なのか、それとも轢死というものに対して彼自身拘りのようなものがあったのか(この立場を取る人達は自殺説を唱えるだろう)それは分らないが、この時点での掲出句の鑑賞とは無関係だ。それにしてもなぜ葡萄から死のイメージが生まれるのだろう。筆者には『稚年記』の句との共通点を認めつつもやはり轢死者の句の葡萄が透き通るイメージは電車や自動車のライトと切り離せないように思うのだが。


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