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2026年6月12日金曜日

【豊里友行句集『赤ん坊オーケストラ』を読みたい】3 『赤ん坊(あかんぐわ)オーケストラ』豊里友行句集を読んで  辻村麻乃(俳人)

 句集の中には一ページを使って行間を空けたものや、ずらしてデザインのように書いたもの(岡田隆彦の詩集にもあった)上五の季語を揃えた連作があって興味深い。

 また前作『地球のリレー』のテーマを引き継いで「リレー」というワードもいくつかの句に使われている。

 豊里氏は沖縄の俳句作家で、カメラマンでもあり、多くの作品を発表されている。「月と太陽(てぃだ)」代表。

 作品の中にはあちこちに沖縄の言葉も盛り込まれていて、風土性を強く感じる作家でもある。


  感情を隠すマスクの捕虫網

  いらぶーに国境線を任せてある

  芽吹き出す蔓まで軍事要塞化

  指紋まで解く人頭税の渦

  黒潮を描く与那国の猫小(まやーぐわぁ)の尾

  国境線を奏でるイラブチャーの虹


 沖縄なので国境線の問題は生活と密着している。毎日を詠むことは歴史や政治に触れることにも繋がる。


  こつこつと積もる清明の心音

  (こつこつ24句より)

  西瓜食う平和の種をぷぷぷぷぷ

  天体が弾む赤ん坊(あかんぐゎ)オーケストラ


 こつこつ24句の試みは面白かった。

 ぷぷぷぷぷは種を吐くようなオノマトペが小気味いい。

 赤ん坊(読み方が方言)


  李白と杜甫を転がす月の盃

  戦世の風化のなみだ 蝸牛

  血液の宇宙よ「命の御祝(ぬちのぐすーじ)さびら」 


 様々な句で送り仮名をされていて、それが沖縄独特の読み方とわかる。


  基地強化の整理縮小飛蝗とぶ


がちゃ

   がちゃ

      がちゃ 軍靴の雨音 

   がちゃ

がちゃ   

 

 分かち書き、更に改行もすることで前後左右にがちゃが響く。

 

  死者も僕らも血潮のリレーよ赤ん坊(あかんぐゎ)

  銀漢のこだま被弾した水筒

  とんとんみーの太陽系を渡り切る

  うりずんに愛されるための蕾よ

  天体のエイサー太鼓の月のと太陽(てぃだ)


 今の私たちの生き様を時代を超えて、宇宙間から俯瞰したような作品群は言霊となって唄い続けるだろう。


2026年5月15日金曜日

【豊里友行句集『赤ん坊オーケストラ』を読みたい】2  「軍靴の雨音の清真な響き」:石原昌光(歴史家)

 がちゃ

   がちゃ

      がちゃ 軍靴の雨音

   がちゃ

がちゃ

(赤ん坊オーケストラ 73ページ)


軍靴の足音が聴こえる 


 私が知る中で一番陳腐な慣用句だ

 新聞でテレビでこの言葉を目にする度に 本当に警鐘を鳴らす気があるなら もっと言葉に気をつかえと思う

 これを出せば視聴者は怖気るとか 番組が或いは紙面が締まると思って そうしているなら その人は 今でも、ガチョーンといえば リビング大爆笑と思うのだろう

 言葉がキツイかな? わりーね、わりーね マレーネ・ディートリッヒ さて、 がちゃ がちゃ がちゃ 軍靴の雨音 がちゃ がちゃ だが、軍靴にも雨音はあるんだと 真新しい衝撃に打たれた。 

 乾いた、ザッ!ザッ!という音だけが軍靴ではないのだ。 軍靴もガチャ、ガチャ、いうのである

 雨の中の軍靴と言えば 私は学徒出陣を思い出す。 

 白黒フィルムの中の荘重なBGM しかしその中の学徒達は 悲愴な一言だ。 

 そこで思う… あの雨の神宮球場の泥まみれの学徒の靴も、また軍靴なのだと

 威圧を与える軍靴もあれば 悲愴な運命と共に地面を蹴る軍靴もある。

 軍靴という反戦プロパガンダに塗れた言葉が軍靴の雨音でしんとして しみじみ考える言葉になった。

  俳人、豊里友行の誠に面目躍如たるものではないか

  言葉は無力ではない

  使うものの創造性の欠如が言葉を陳腐にするのだ。

  これは私も含め、 全ての言葉を操る人々が肝に銘ずるべきだろう

  がちゃ がちゃ がちゃ 軍靴の雨音 がちゃ がちゃ 


2026年5月1日金曜日

【鑑賞】豊里友行句集『赤ん坊オーケストラ』を読みたい 1 豊里友行句集『赤ん坊オーケストラ』:杉山久子

  写真、俳句という二つの表現方法によって沖縄の過去、現在、未来を問い続ける作者。

 今回の句集では赤ん坊という人の出発点とも言える存在を前面に、命に向き合う姿勢が更に強固になっていく感覚がある。


天体が弾む赤ん坊オーケストラ

 「友人の赤ん坊の感触は、やわらかな血潮がこの世界と繋がり合って生きていけるような希望に満ちた感覚を覚えた。」と、あとがきにあるが、自身の体を通してダイレクトに感じた今生きている血の躍動が、赤ん坊とそれをとりまく世界全体の躍動と共振共鳴していくように思える。

 小さな命を包む大きな命をまた小さな命が包んで…。


 「琉球弧の波紋」という章では、そんな作者の正月の日常風景(日常の中の正月風景とも言えるか)を垣間見ることができる。

 ドミノ倒しの埴輪ういるす籠り

 一気に折り重なる埴輪の様態は、次々に罹患してゆく人間たちなのだろうか。緊張感と脱力感に滑稽味もある。

 

 こんな日は写真事務所の海鼠なり

 思うように取材には出られず籠っている身を自嘲気味に詠んだものか。


 これからも独自の表現方法をもって真摯に命という大きなテーマに向き合っていかれるであろう豊里さんには、たまには事務所で海鼠になる「こんな日」を適度に入れていただきたいとも思うのだった。