2025年5月23日金曜日

第247号

  次回更新 6/12


■新現代評論研究

新現代評論研究:『天狼』つれづれ 第2回:『天狼』創刊号の「こほろぎ」/米田恵子 》読む

新現代評論研究(第5回)各論:眞矢ひろみ、横井理恵 》読む

現代評論研究:第8回総論・戦後俳句史を読む(私性③) 》読む

現代評論研究:第8回各論―テーマ:「肉体」その他― 藤田踏青、土肥あき子、飯田冬眞、堺谷真人、岡村知昭、しなだしん、筑紫磐井、北川美美、深谷義紀、吉村毬子 》読む

新現代評論研究:音楽的俳句論 図像編 川崎果連 》読む

新現代評論研究:音楽的俳句論 解説編(第1回)川崎果連 》読む


■令和俳句帖(毎金曜日更新) 》読む

令和七年歳旦帖・春興帖
第一(4/25)仙田洋子・神谷 波・豊里友行・山本敏倖
第二(5/9)ふけとしこ・加藤知子・杉山久子・小野裕三
第三(5/23)辻村麻乃・瀬戸優理子

令和六年冬興帖
第一(4/5)仙田洋子・神谷 波・豊里友行・山本敏倖・ふけとしこ
第二(4/11)鷲津誠次・加藤知子・杉山久子・小野裕三
第三(4/25)辻村麻乃・瀬戸優理子


■ 第49回皐月句会(2024/5月)[速報] 》読む

■大井恒行の日々彼是 随時更新中!※URL変更 》読む

俳句新空間第20号 発行※NEW!

■連載

【鑑賞】豊里友行の俳句集の花めぐり29 藤田哲史『楡の茂る頃とその前後』 》読む

英国Haiku便り[in Japan](53) 小野裕三 》読む

【連載通信】ほたる通信 Ⅲ(57) ふけとしこ 》読む

【豊里友行句集『地球のリレー』を読みたい】8 豊里友行句集『地球のリレー』 栗林浩 》読む

句集歌集逍遙 董振華『語りたい龍太 伝えたい龍太—20人の証言』/佐藤りえ 》読む

【加藤知子句集『情死一擲』を読みたい】④ 破局有情――加藤知子句集『情死一擲』について 関悦史 》読む

現代俳句協会評論教室・フォローアップ研究会 7 筑紫磐井 》読む

【抜粋】〈俳句四季9月号〉俳壇観測260 鷹羽狩行の晩年——『十九路』『二十山』を読む

筑紫磐井 》読む

【連載】伝統の風景――林翔を通してみる戦後伝統俳句

 7.梅若忌 筑紫磐井 》読む

【豊里友行句集『母よ』を読みたい】③ 豊里友行句集『母よ』より 小松風写 選句 》読む

【渡部有紀子句集『山羊の乳』を読みたい】⑯ 生き物への眼差し 笠原小百合 》読む

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北川美美俳句全集32 》読む

澤田和弥論集成(第16回) 》読む

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5月の執筆者(渡邉美保)…(今までの執筆者)竹岡一郎・青山茂根・今泉礼奈・佐藤りえ・依光陽子・黒岩徳将・仮屋賢一・北川美美・大塚凱・宮﨑莉々香・柳本々々・渡邉美保 …




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…(主な執筆者)小野裕三・もてきまり・大塚凱・網野月を・前北かおる・東影喜子


筑紫磐井著『女帝たちの万葉集』(角川学芸出版)

新元号「令和」の典拠となった『萬葉集』。その成立に貢献した斉明・持統・元明・元正の4人の女帝、「春山の〈萬〉花の艶と秋山の千〈葉〉の彩を競へ」の天智天皇の詔を受けた額田王等の秘話を満載する、俳人初めての万葉集研究。平成22年刊/2,190円。お求めの際は、筆者までご連絡ください。

新現代評論研究:『天狼』つれづれ 第2回:『天狼』創刊号の「こほろぎ」/米田恵子

 『天狼』は養徳社から昭和23年1月に出版された。「出発の言葉」にある「根源」が問題になり、同人たちが各々の見解を展開していく。結局、誓子自身は人それぞれに根源があるというようなことを言って、主宰として自分の「根源俳句」については明らかにしなかったように思われる。「思われる」としたのは、正直に言うと、私自身まだよくわかっていないためであり、いつかは自分なりの考えを持つことが出来たらと思う。

 今回は、『天狼』に掲載している「実作者の言葉」について述べてみたい。これは、毎号の『天狼』に載る誓子自身の言葉であり、昭和42年11月号まで続く。そこには、誓子の現時点での関心事や調べたことの詳細が載る。では、創刊号の「実作者の言葉」には、いったいどんなことを話題にしているのか、どんな俳句が紹介されているのかは、興味を持つところだと思う。

 誓子が一番初めに挙げたのは「こほろぎの無明に海のいなびかり」という句であった。

 誓子はいきなり「この句から私の衰退がはじまつたと云ふひとがある」から始める。概して、「実作者の言葉」には自分が書いた俳句や随筆の記述に対しての言い訳が多いように思うのは私だけではないだろう。まず、誓子は次のように自解する。

 暗夜で、庭にこほろぎが鳴いてゐた。ときどき、海にいなびかりが閃いて、海を照らし、庭を照らしした。そのひかりは一瞬、こほろぎを照らしたであろう。しかし、もとより眼の見えぬこほろぎの感知する筈もない。

 陸の空ならで、海の空に閃くいなびかりを、あはれと私は見たが、それにも増して、身をいなびかりに照らされつつ、それを感知せぬこほろぎを一層あはれと思はずにはゐられなかつた。こほろぎの、黒一色の世界にかかはりなく、いなびかりは又しても海のおもてをひらめかす。

 私はこれを句にしたのだが、わからない人も多い。

 最後に、「わからない人も多い」と誓子は歎く。この「わからない」理由の一つを誓子は「蟋蟀は眼が見えない」ということを人は知らないということに求めた。私ももちろん蟋蟀は眼が見えないということは知らなかった。誓子は、吉植庄亮の短歌「白露の光のなかの蟋蟀は眼に見ゆる何ものもなし」を引いて、蟋蟀の「眼が見えない」をすでに短歌にしている人がいる。吉植の短歌の前には斎藤茂吉の「ふりそそぐあまつひかりに眼の見えぬ黒き蛼(いとど)追いつめにけり」「畑ゆけばしんしんと光降りしきり黒き蟋蟀の目の見えぬところ」の句があり、蟋蟀は眼が見ないことは既に先人も詠っていることにより証明する。

 次に、掲句をさらにわかりにくくしているのは、「無明」という言葉ではないかと行きつく。誓子は蟋蟀の眼が見えないことを「明無し」と「無明」という仏語(仏教用語)で表したのである。「無明」を「仏語」ではなく「詩語」として使ったのだが、それがかえって読む人に誤解を与えたのではないかと考え、本来の「無明」の意味を調べ始める。誓子は『大蔵法数』『仏教字典』『宗鏡録』『大法炬経』『仏説決定義経』という辞典類をひもとき、漢文を1つ1つ載せているのである。いちいち調べるその執念に驚かされるが、この執念(言葉は悪いが「ひつこさ」)は後々の「実作者の言葉」にも見られる。

 こうして、「無明」の意味は、「明了スル所無シ」つまり「無知(知らないこと)」が元の意味であるため、わかりにくくしていることを悟る。ただ、誓子の弁明として、「眼が見えないこと」を仏語の「無明」を詩語として使ってもいいではないかということと、蟋蟀は眼が見えないというのは斎藤茂吉も詠っているのだという2つの弁解を述べて終わる。

  こほろぎの無明に海のいなびかり

 私は、この句から誓子の「衰退がはじまつた」とはけっして思わない。病を得て、療養のため四日市という海と山に恵まれた新しい環境で、新境地を開いたと言ってもいいのではないかと考える。

 最近この句の軸をネットオークションで手に入れ、今年(2025年)の秋の山口誓子特別展に展示する予定である。「誓子と戦争」というテーマであるが、転地療養に来ていた四日市の海辺の家で、しかも昭和17年、ちょうど太平洋戦争が始まり日本が泥沼にはまり込んでいくときに詠んだ句として紹介するつもりである。展示のためのキャプションには上記に書いたようなことまでは書けないので、書く機会を得て幸いである。

【新連載】新現代評論研究:各論(第5回):眞矢ひろみ、横井理恵①〜③⑤

 ★―2橋閒石の句 4/眞矢ひろみ

 階段が無くて海鼠の日暮れかな  「和栲」昭58年

 閒石といえば、まずこの句を思い浮かべる人も多いはず。一方、鈴木六林男の出版直後の書評、また「和栲」を蛇笏賞とした選考委員4名(*1)の選評にも抄出されておらず、「和栲」が俳句愛好家の話題となる中で、徐々に注目を集めた句なのだろう。平易な言葉を用いて詩の重層性を強調した閒石らしく、読み手毎に句意が異なり、またそのことを読み手自身にも承知させるような句である。その昔、高校の現国授業で「読むとは、作者の意図や背景等とは関係なく、言葉のみから、作品が最も輝く解釈を発見して鑑賞すること」などと教わったが(*2)、そんなことは不可能と一読して途方に暮れるような句でもある。

 その要因は明らかで、「階段が無い」「海鼠の日暮れ」の二フレーズを「て」で結ぶが、各フレーズの意味内容やフレーズを繋ぐ脈絡等が不明のまま、読み手の想像に丸投げされてしまうことにある。正木ゆう子は、二フレーズの間には深い切れがあるのに、「無い」「海鼠」の「な」音のリフレインと「て」の軽い接続によって、一句一章のような印象を読み手に与えていることを指摘する(*3)。

 因みに、「和栲」において、同様の「て、して」を用いた句として、次のものが挙げられる。

 茄子割れてなまものしりの日暮れたり

 口下手にして河骨の曇るなり

 男女七才にして冬の沼凪げり

 「て、して」は、単独で順接、逆説、原因結果等の接続の意味合いを示すことはできず、読み手は前後の文脈から、海鼠句で言えば二フレーズ及び「階段」「海鼠」等の語彙から読み取らなければならない。時枝誠記の詞辞の論に拠ると(*4)、「階段」等の詞は客体を、「て」「かな」の辞は作者・詠み手の種々の立場を表し、両者が絡み合いつつ総体として表現を構成する。「日暮れかな」と強調・詠嘆して結ぶのに、「て」が単なる並列接続では居心地が悪く、読み手は二フレーズの脈絡を何とか見つけ出そうとする。逆説的に言えば、この脈絡が遠ければ遠いほど句の衝撃度は大きくなる。上記の三句についても、「て」+断定・強調の構造であり、一つの慣用の型のようにも見えてくる。各句とも面白み、不思議感を有するが、その背景には辞の機能をベースにした句の構造がある。

 但し、海鼠句の異様さは三句に比べても際立つ。「階段」「無い」「海鼠」「日暮れ」という詞とその取合せの妙であろう。そもそも「階段が無い」という冒頭が唐突で、景の描写なのか、何らかの喩なのか戸惑うし、「て」の機能によって続くフレーズに「無い」の意味付けを期待させるが、これも又裏切られる。読み手が色々と思いを巡らせ、しっくりくる脈絡を掴めないまま放置すると、「海鼠」「日暮れ」等の詞に対する印象がそのまま句の読みに繋がってしまう。寂寥感、滑稽感、醜悪感といった鑑賞が出てくる所以だろう。重層性を純粋に追い求めて、色々な意味等が溶解した出汁を煮詰めた後に残ったような句であり、抽象と象徴の曖昧さ、その浮遊感を遊び楽しむことに意義があるのかもしれない。

 以下は余談である。

 海鼠句のように、読み手が脈絡と「て」の意味合いを読み取るような句を、僅かながらも手元にある句集や資料等に探ってみた。

 顎老いてひとひらの杜若かな 永田耕衣 「冷位」昭50年

 ひあたりの枯れて車をあやつる手 鴇田智哉 「凧と円柱」平26年

 大根の咲いて半熟卵かな 山口昭男 「木簡」平29年

 目に付いたのはこの程度で、意外と少ない。多くは動作・作用の推移や連続、原因・理由と結果、手段・方法と結果、時間の経過と結果等々を指す接続助詞として特定できるものが多い。抽出した上記三句にしても、単純な並列、動作等の推移、取合せの句としても読めるかもしれない。

 また、「和栲」にしても「て」を使った句は他にも多くある。

 眉上げて二月の幹を離れたり

 肺透けてさわらび山の風明り

 桜など描きて冬の寺襖

 ただ、これらは「て」の繋ぐ前後のフレーズや詞に手掛かりがあり、関連性を読み取れるため、途方に暮れるようなことはない。

 さらに脱線する。俳句を外国語に訳す場合、「て」のような辞・接続助詞をどう翻訳するのか。読み手の読みの内容に拠って機能そして訳語が変化するような辞の場合である。翻訳する言語に、同等の多義性を有する語彙はなかなか見つからないと想像できる。より一般化すれば、閒石の句ように重層性を含み、しかもそこに意義を有する俳句をどう訳すべきなのだろう。因みに、上記の耕衣句には次の訳が編訳としてある(*5)。

   my aging chin

         a single iris petal

*1 野澤節子、森澄雄、飯田龍太、沢木欣一

*2 当時話題となったロラン・バルト「作者の死」(昭42年)の影響と思われる。

*3 「橋閒石全句集」栞 沖積舎 平15年

*4 「日本文法」 時枝誠記 講談社学術文庫 令2年

*5 「この世のような夢 永田耕衣の世界」 鳴戸奈菜 満谷マーガレット(編訳) 透土社 平12年


●―15中尾寿美子の句/横井理恵(5)

 媼いま桃のひとつを遡る  『老虎灘』

 和辻哲郎の『風土』は、人間の存在契機を気候風土に見ようとする。また、存在論では、人間を社会的存在と個人的存在に二分して見ようとする。中尾寿美子を戦後俳句論の中で扱おうとする時最も困難を感じるのは、社会的存在としての寿美子をどう扱うかである。寿美子俳句の特徴は極めて個人的な「今・ここ」にある自分を詠むことにある。存在を育んだ風土や社会といった背景を探るのには不向きと言わざるを得ない。前回のテーマ「死」で時代としての死ではなく個人的な死を扱ったように、今回、寿美子の「風土」では、社会的風土ではなく極めて個人的に選び取った風土、即ち「精神の風土」を扱いたいと思う。

 昭和五十二年、師、秋元不死男が没し、翌年「氷海」が終刊すると、寿美子は句友清水径子と共に、永田耕衣率いる「琴座」に移る。この時寿美子は、永田耕衣の世界を自らの精神風土として選び取ったのである。

 昭和六十二年に刊行された第五句集『老虎灘』のあとがきに、寿美子はこう書いている。

永田耕衣先生妙観のほとりを徘徊すること早くも七年、病弱に甘え不勉強に過ぎた日々を思えば野菊の道も薄氷の野も鯰の池もまだまだ遠く思われます。前句集「舞童台」は永年住みなれた古巣を去り、困難と知りつつ耕衣世界へ参入した変転の時期の整理でした。それより六年、今にして見えてくるもの、人の心や我が身の生きざま、世のなりゆきなど老いてゆく日もなかなかに面白く、あるときは哀しく未だに混沌とした途中感の中にいますが、生きて在るかぎりこの思いは消え去ることはないでしょう。この句集「老虎灘」は今日以後をなお歩まねばならぬ私の一里塚でもあります。

 「野菊の道も薄氷の野も鯰の池も」と耕衣の作品世界をめざしながら、寿美子が巻頭に置いた句は、

 夢の世やとりあへず桃一個置く

であった。「とりあへず」とは寿美子の途中感の現れであろうか。「困難と知りつつ」参入した「耕衣世界」とは

 夢の世に葱を作りて寂しさよ      永田耕衣『驢鳴集』

 泥鰌浮いて鯰も居るというて沈む        『悪霊』

 白桃を今虚無が泣き滴れり

 少年や六十年後の春の如し           『蘭位』

 野菊道数個の我の別れ行く

 薄氷と遊んで居れば肉体なる          『肉体』

等に代表される世界――永田耕衣が体現する精神風土としか言いようのない境地である。自ら師とすべきものとして選び取ったその境地に向き合い、挨拶を送りつつ、一方で、寿美子は自らの「今・ここ」のあり方を探っている。

 粗玉のたましひ葱の匂ひせり

 白桃にならんならんと鏡の間

 天元に白桃ひとつ泛びゐる

 「存在」を突き詰めようとする耕衣の精神風土に寄り添いながらも、寿美子の句はより感覚的である。

 媼いま桃のひとつを遡る

 あをぞらの何処かぬかるむ桃の傷

 その感覚は単なる五感にとどまるものではない。精神としての個を保ちつつ、感覚の触手は世界に遍く行き渡っている。「桃のひとつを遡る」感覚と「あをぞらの何処かぬかるむ」という感覚とは、「今・ここ」の私と遥かなものとの交感をうたっている。

 寿美子の句においては、今ここの「わたくし」を享受し、寿ぐために、そして、これからも続く世界を肯定するために、あらゆる感覚が世界に向かって開かれている。生きることの喜怒哀楽の全てを抱きとめる――対抗するのでもなくあきらめるのでもなく――それが寿美子の選び取った精神風土だったのだろう。


現代評論研究第1回~第3回に漏れている横井理恵氏の「中尾寿美子の句」鑑賞をまとめて紹介する。

●―15中尾寿美子の句/横井理恵(1)

 肉体を水洗ひして芹になる     (昭和六三年)

 掲句は、中尾寿美子の没後に出された句集『新座』に収められている。「肉体を水洗いしたら芹になるだろう」と言っているのではない。本当に「水洗いして」いま正に「芹になる」瞬間が詠まれているのだ。言葉の上からそう読むべきであるだけでなく、寿美子の句集を順に追っていくと、芹になるに至る寿美子の姿が見えて来る。今ここにいる「わたくし」を突き詰めていって、寿美子が到達した一つの確かな存在感、それが、清々しい「芹」の姿だったのである。

 上記は『天為』200号記念特集「検証・戦後俳句」もう一つの俳人の系譜(平成19年)に掲載された拙論「中尾寿美子論 ――わたくしを水洗いして―― 」の冒頭の一節である。掲句は、作者の寿美子が本当に自分自身をざぶざぶ洗って清々としている実感を詠んでいる。昭和五五年の句「はればれと水のむ吾れは芹の類」で予感していたが、やっぱり寿美子は芹だった。みごと芹になりおおせた寿美子の感覚が、読み手である私の体にも、すうっと染み通ってきた。

 かつて、平成15年の天為150号記念シンポジウム―「不易流行」試論について―で、川本皓嗣氏はパネリストたちにこう問いかけた。

 素直に今を生きている自分、それを詠むことが新しみを出すことだという(中略)―でも、そんなに素直に今を生きることはできますか。

 川本氏は、俳句というものは伝統でがんじがらめになっているジャンルであり、自分というものの素直な流露を妨げるものの方が多いことを指摘した。そして、そこから解放される努力が必要だと説いたのである。

 言葉にするという行為が生の実感から遠ざかる危険なものであることを、私たちは経験的に知っている。だからこそ、詩は短くあらざるをえないのだ。世界で一番短い詩、俳句は、説明せず、生きて今ここにあることの感覚をそのまま言葉に写し取ることができる。中尾寿美子の晩年の句は、感覚の素直な流露を体現している。その代表が、掲句である。

 川本氏の問いかけに対し、今ならこう答えられる。

「晩年の寿美子は、それができましたよ。」

と。(その1 了) 


●―15中尾寿美子の句/横井理恵(2)

 傘寿とはそよそよと葉が付いている  『老虎灘』

 句集名『老虎灘』は「ろおこたん」と読む。中国大連の景勝地として有名な地名(ピン音ではlǎohŭtān)である。実はこの地名は、寿美子にとって敗戦引き上げの苦難の記憶と結び付くものであったという。しかし、句集刊行の昭和62年にはすでに、懐かしい思い出として扱われている。苦しみも悩みも、年月に濾過されて、「ろおこたん」という、まろやかな音のみが、寿美子の中にこだましていたのである。

 跋文は永田耕衣が書いている。

 耕衣は、ウイリアム・ブレイクの詩の一節

 あるべきさまにあるこそよけれ。

 人が世にあるは歓喜よろこびと苦悩なやみのためなり。

をひき、「歓喜」と「苦悩」とは「一如」であり、人間不断に必須とする「自己救済」のエネルギイにほかならないとする。そして、掲句について、耕衣は、「そよそよ」という措辞を「謙虚な自祝」であると言う。

 この「謙虚な自祝」に至るまでの寿美子には、「苦悩」と「自嘲」の句が少なくなかった。

 鳥が逃げても飛べない女赤い芥子     (35年)『天沼』

 めんどりが卵を置いて去る花野      ( 同 ) 同

 白髪一本ひつぱつて寒ただならぬ     (42年)『狩立』

 死なば樹にならんと思ふ朧の夜      (43年) 同

 消えぬため笑ふ茫々菜種梅雨       (45年)『草の花』

 三椏の花の無口は身にひびく       (48年) 同

 なんとも寂しい。「自嘲」と「苦悩」のためいきが読む者にも染みてくるようだ。特に、『草の花』には、ためいきの結晶のような句が目立つ。

 その『草の花』刊行2年後の昭和52年7月、師、秋元不死男が没する。寿美子が病気の悪化に苦しんでいた時期でもあった。翌53年「氷海」が終刊し、「狩」同人となるが、その翌54年には辞し、不死男の年忌明けをもって、句友清水径子と共に、永田耕衣率いる「琴座」に移る。同年10月には、「琴座」の同人となり、2年後の昭和56年8月には、第四句集『舞童台』が刊行されている。

 このころから、寿美子の句は、苦悩を突き抜けたかに見える「さっぱりとした感じ」をまとい始める。病床を詠んでも、嘆くのではなくむしろそこに命のあることをかみしめているかのようであり、徐々に、寂しさを透視する勁さが備わってくる。

 階段の途中にて寒明けにけり      (53年)

 眼の中も暮れてしまへば葱畑      (54年)

 初夏やたたみ目のつく素魂など     (55年)

 そよそよと今日のところは野水仙    (56年)

 とことんまで悩み、寂しさをかみしめ尽くしたからこそ、からりとした明るさが開けてきたのだろう。『舞童台』という句集には、そんな寿美子の羽化の跡を見ることができる。

 傘寿とはそよそよと葉が付いている

 かつては「今日のところは野水仙」と控えめすぎるほど控えめだった寿美子も、いつか大樹となって葉がそよぐ歓びをうたっている。(本人は決して大樹だなどとは言っていないのだが、読む者は、年輪を重ねた大樹がにこにこと風に吹かれているのを仰ぎ見る様を思い描く。)それでもまだあくまでも「そよそよ」というところが慎ましく、耕衣の言う「謙虚な自祝」のよろしさが好もしい。

 こんなふうに年をとれたらいいなあと、心から寿ぎたくなるのである。


●―15中尾寿美子の句/横井理恵(3)

 白髪の種花種に混ぜておく 『老虎灘』

 「寿美子の句ってわからな~い」と言われた時に例として挙げられた句である。

 「白髪の種って何?」「なんでそんなもの混ぜるの?」「何がしたいわけ?」というのが素直な反応なのだろう。この句を解説するためにはまず寿美子と白髪・もしくは寿美子と「白」との関係を解きほぐしておくことが必要と思われる。

 かつて寿美子は句集に「白髪」という名をつけようとしたことがあったという。師の秋元不死男に反対され『狩立(かりたて)』となったこの句集には、白をモチーフとした句が目立つ。

 白髪一本ひつぱつて寒ただならぬ

 白髪と見て秋風の嬲りもの

 悲しみや声より白く日の落葉

 ひぐらしや白ければ樺ゆれ易し

 これらの句には、「白」を――直接的には「白髪」を「老い」の兆とみておそれる心理が反映されているだろう。

 白地着ていましばらくを老いまじく

の句では、老いに立ち向かう「白」の心意気が見られる。寿美子の中では、「老い」と白とが対をなすもの、切り離せないものとなっていのだ。

 一方には、直接「白」とは言わずに心象の白を詠んだ句がある。

 三鬼亡し落花が見せぬ潦

 蓬摘む洗ひ晒しの母の指

 骨壺や風に日に世に簾して

 ここに透けて見える「白」は、何かすがすがしく洗い晒したおももちがある。

 寿美子は、自らの「白髪」におびえながらも、あえて句集名にと考えるほど、そこから気持ちをそらすことができずにいた。目をそらさずに見つめることで、「白」という色の奥底を見極めようとしていたのかもしれない。

 次の句集『草の花』では、「白」はより寿美子に近くなり、「白髪」は寿美子の一部になりおおせている。

 白髪は風棲みやすし初御空

 影のなき一日白し鵙の声

 白髪のしきりにさわぐ花野かな

 晩年の思ひちらつく白桔梗

 胸がざわつくような特別な思いを持って「白」を見つめるのではなく、もっと自然な構えで、寿美子は「白」に目をやっている。確かに「白」も「白髪」も老いと結び付いているけれど、さらにはその先の死にも結び付いてはいるけれど、でも、それが自然なのよね、という声が聞こえてきそうだ。

 鶯やことりと吾れに老いの景

 霞まんとしてむづかしや足二本

 自らの「老い」を悲しまず、軽々と見て取るまなざしを、寿美子は獲得したのだろう。

 そして掲句を納めた『老虎灘』のあとがきで寿美子はこう述べている。

 今にして見えてくるもの、人の心や我が身の生きざま、世のなりゆきなど老いてゆく日もなかなかに面白く、あるときは哀しく未だに混沌とした途中感の中にいます(略)

 混沌とした途中感の中にあって寿美子は「謙虚な自祝」のよろしさを抱いている。今ここの「わたくし」を享受し、寿ぐために、そして、これからも続く世界を肯定するために、軽やかな目を世界に向けている。

 霞草わたくしの忌は晴れてゐよ

 白髪の種花種に混ぜておく

 「謙虚な自祝」の境地を開いた寿美子にとって、「霞草」も、やがて花咲く「白髪」も、未来を予祝する「白」なのだ。花種に混ぜておくのは、そんなささやかな予祝である。いつかだれかが驚くだろう、その顔を思い浮かべながらのいたずらであるかもしれない。

 かつては恐れの象徴でもあった「白髪」の白も、晴々と来るべき日を予祝する色となり芽吹く日を待っている。これはそんな、老いを言祝ぐお茶目な句なのだ。

【鑑賞】豊里友行の俳句集の花めぐり29 『楡の茂る頃とその前後』(藤田哲史)を再読する。 豊里友行

  『新撰21』で御一緒した藤田哲史さんの丁寧に見る俳句の現代五感に顔を思わず赤らめたり、しんみりしたり、青春を謳歌している藤田哲史俳句がまぶしい。

 私は、藤田哲史さんの鷗(かもめ)の俳句が好きだ。

 共鳴句とコメントを。


冬鷗何の忘却も快く

 たいていの冬は生物の活動を停滞させるのだが、生きることの意味を感じるのも大半は、一生懸命に生きる時で、厳しい冬なのではないだろうかと私は思う。鷗たちは、一生懸命に漁の船が引き揚げる魚たちを狙って船に寄せて来る。まるで鷗は一生懸命に生きることが、本能なのかとも。作者は、どんな忘却も快くあるがまま生きる冬鷗に魅せられる。


啓蟄や光が示す宙の雨

 フォトグラフは、光の画である。作者の光を言葉によって捉え直したのに瞠目。土中から這い出す虫たちの啓蟄に雨が太陽の光を纏い宇宙を成す。


蟷螂にコップ被せて閉ぢ込むる

 蟷螂(かまきり)にコップを被せて観察する。その発想と行動に人間の残酷さを垣間見る。好奇心と視覚的な面白みがある。観察眼の光る俳句だ。


戯れに裸撮りあふ関係なり

 いーなっ。いーなっ。現代を己の五感で感受する。それもひとつの俳句ヒストリー。


朝曇シャワーカーテン貼りつく背

 いとしい日常が視覚スケッチできる俳人ってすごくないっ?!


卓上の梨が詩集に置き換わる

 生活のうつろいを俳句日記にする。大切な宝物です。


鯖雲が今日のさぼりの理由です

 そーなんだ。こんな句が出来るならさぼりがいがある。


夜明けまであとひとときの穭です

 ふーん。ちゃんと睡眠確保して欲しいが、こんな素敵な俳句ができるなら寝不足もいいね。


ファクシミリ刷られて落ちる猟期です

 言葉の狩人かな。


朴落葉一枚拾ふ会ひたいとき

 日常の恋歌を俳句にできる。素敵ですね。


躊躇無く人のマフラーして君は

 きゃっ。いーな。いーな。私も恋活しよっ。


マスカットほのかに種の見ゆるかな

 日常は発見の宝箱だ。


眩しさはわつと散らばる冬鷗

 万物に降り注ぐ太陽の光をはね返すほど白く、懸命に躍動し飛翔する冬鷗。その弾けて散らばる生きる躍動の瞬間を言葉で永遠にとどめる俳人の現代五感をこれからも丁寧に生きて欲しい。


【読み切り】「鷗寄る現代五感の豊漁なり」『楡の茂る頃とその前後』(藤田哲史) 豊里友行
https://sengohaiku.blogspot.com/2020/05/137-002.html


【連載】現代評論研究:第8回総論・戦後俳句史を読む(私性➂) 

堀本: 私性と言うことに関連して、想い出すことがある。

 川柳と俳句など短詩型超ジャンルの「北の句会」をはじめたころ、連句に長けた人が来ていて、全く無知の段階から手ほどきを受けたことがある。

 その時、一緒に連句を巻いた川柳人が怒ってしまった。自分の句を勝手になおした、と言うのだ。でも私には怒る理由が解る気がした。自分のかつての俳句の結社への反発によく似ていたからだ。初心者だから、連句のルールをまだ知らぬこともあったが、同時に、その人の川柳の作り方が自分一個の内面の表現をめざしたもの、共同製作するとか、付ける付けられるというルールを受け入れにくいのであった。連句ではその場に合わぬ「私性」は捨てられるのである。川柳人の立場では、いな、俳句にあっても、自分のモチーフを大事にする作者が消されることは認めがたい。これは、今でも根強く残っている。

 しかし、私は、先ず連句での捌きの権限がひじょうに強いことに驚いた。それはルールであること、と納得したので私の場合はそのまますすんでいるが、自由詩を書いていたころは「下手でもいいから自分の思いを自分の言葉で」、と考えていたからだ、しかし、歌仙の仕組みにしたがってその共同製作に参加する過程で、自分の個性と署名性の自覚が消えてゆくこと、文台下りれば即ち反古なり、と言うその歌仙を巻く時間の平等が保証されているーこれも一種の舞台装置であること、その場の仮構性自体が連句のひとつの面白みであることも理解できる。詩の構造そのものが、このように、個も包みこんだ世界像を象徴的に完結させている。こういうのも、詩のあり方としてはめずらしいのではないだろうか。

 俳句、もちろん一句独立の詩であると言う宣言自体が近代の作家主体の権利をもとめる反映と見てもいいのだが、連句との葛藤は常にある。だが、結社の殆どのところが添削の権限を主宰にゆだねているのは、近代の作家意識と、この座の文芸としての俳諧連歌のを結合しているからだ。こういう形で俳句はだんだん短くなりながら、俳諧の制度をまだのこしているのだ、ともいえる。いまや、川柳でも急速に川柳のアイデンティティや連句俳句の詩形の相互理解は深まっている(はずだ)。

 「私性川柳」の押しつけに自家中毒するあまり、川柳人が(吉澤やその同行者のように)、作品にあって私性を表現する必要がない(たとえ虚構化しても)、と感じはじめたのではないのか?もしそうであっても、その選択自体は止めるわけには行かない。それはそれで一つの立場だ。また、作者という自覚を得てゆくにつれて、句集を欲し、署名性を欲する、という個人の創作家=作家的志向が主張が強くなるのも当然ではないか。近代川柳の固有のモチーフ「私性」は、作品内容にではなくむしろ作家の方法の自由の主張として現れているのが川柳の時代的な現段階であろう。

 そして、その姿勢は、従来のパフォーマンス的な川柳の共同性とどのように折り合い、改善させてゆくのか興味がある。

吉澤:川柳が一句屹立を目指しているのはその通りだが、「句集を欲し、署名性を欲する」ということには違和感がある。連句との関係で言えば、川柳も俳句も一句屹立を目指す文芸であるので、俳人でも主宰以外の人に自分の句を変えられるのは嫌がるだろう。要は、連句の場でのルールを受け入れるかどうかの問題であって、川柳の特質という問題ではないと思う。

 さらに、「固有のモチーフ「私性」はむしろ作家の方法の自由の主張として現れているのが川柳の現段階であろう」という意見にも違和感がある。私性は川柳の固有のモチーフではなく、近代的個の確立とともに現れた。「私の思いを書く」のが川柳であると一般的に考えられてきて、90年あたりからそれを不自由に感じる川柳人が出てきた。多くの川柳にとって私性は固定観念であり、ごく一部の川柳人にとって、私性は自由ではなく桎梏であった。虚構やイメージや音韻による句は、思いが書かれていないという理由で否定されていたのである。川柳の先端では、私性の絶対性(言いかえれば、川柳の近代的個)が相対化されるという過程にさしかかりつつあるというのが現状である。

堀本:この意味は、川柳に於ける近代固有のモチーフとして言われている「私性」と理解してほしい。本格川柳、ひいては詩性川柳といわれる文学性追求の核は、「私」性の追究ということではなかったのだろうか?むろん、「私性」のみが川柳の表現としての特質とか本質ではないと私も思うのだが、しかし、目下の克服課題は、近代川柳の重要な特質として、「思いを述べること」が自己目的視されていることであったのだと、吉澤は言っているようだが。作り方もそうだし、読み方もそうだ。じつはそのことは、俳句でも、似てくるところがある。(特に女性の書き方など、私の評文のデビューもそうだったが、「女性俳句」という特殊なテーマがまずある。)。川柳人でも女性の「情念川柳」というようなもの。自己のモチーフにこだわっている。これは私にはひじょうに印象つよい。これも私性、あるいは自我追究のひとつのあらわれのように思ってきたのだが。

 それから、作者の現在の条件が創作動機や方法を大きく規定することがある。俳句でも問題は同じだ。それは立ち位置のちがいもあるし。個人差もあるかと思う。いっぽう、近代文学や戦後文学は、私小説が主流であるし、川柳でも俳句でも詩でも、むろん短歌でも、「作中主体=作者」とされてきた。

吉澤:近代文学や戦後文学で「作中主体=作者」となされていたという堀本発言については、疑義がある。作中主体が作者の体験や思想に色濃く染められているとしても、「作中主体=作者」とは言えないのではないか。

 志賀直哉を私小説作家と言えても、第三の新人の安岡章太郎や内向の世代の古井由吉を私小説作家とは分類しない。詩で言っても、鮎川信夫の「繋船ホテルの朝の歌」や田村隆一の「幻を見る人」には、作者にとっての戦後の空虚感が反映されているが、ノンフィクションではない。作中主体は作者自身を背負っていても、何らかのデフォルメが施されているはずであり、厳密な意味では作中主体は作者ではない。読者は書かれていることが作者の実感や実体験に裏付けられているのだろうと予想しながらも、幾分かは虚構が混ざりこんでいるはずだと想像している。そのデフォルメのされ方に作者の思考があると読み、作中の描写が本当の事実ではないと怒ったりはしない。

 私が「戦後俳句を読む」で担当している時実新子の場合、その微妙な違いが重要だった。

堀本:「作中主体が作者の体験や思想に色濃く染められているとしても、「作中主体=作者」とは言えないのではないか。」《吉澤の疑義より》

 うーん、ここは微妙に認識がずれる。戦後の表現意識は体験をはなれようとしても、「戦争」という私事にして普遍的な体験があった、「私」も自己の内面深く潜らざるをえない、言葉の外がわからそういうモチーフをとらせられる、と言う意味で、この時代の問題作や代表作家を、方法や姿勢を含めて「存在」の文学であり、「作家」であると称びたい気持ちがある。ほんとうの主役は「実際の私=作者主体」で、その実存探求に即して思想や方法の違いがでてきている。「作品の主語=作者」ではなくとも作者の思いを投影したものが殆どではないのだろうか?仁平勝はたしか、作品と作者の人生観を結びつける書きかたや読みかたについて、「人文主義」という言い方をしていた。日本では、「私性」は、知識人の実存追究の核のように考えられてきて、狭い意味での身辺告白もそこに含まれているはずだ。伝奇小説家や。泉鏡花のようなファンタジックな様式性を持つ人以外は、「私」やそれを抽象化した「個」の実存意識から出発しているのではないだろうか。「私」は仮構されることでひとつのカテゴリーとして自由に追究されはじめた、ともいえる。

 そして、戦後文学、戦後詩、短歌。俳句の共通したテーマは、前代の国家主義全体性の強圧が個の表現の芽を容赦なく奪っていったところから急に解放された地点から始まっている。急に西欧的自由の観念が出てきたために、彼らはむしろ、与えられた外的な自由と自分の内面の統合に創作のテーマを集中したのではないだろうか?

 詩で言うならば、彼らの戦後体験は鮎川信夫のように現在の自己の存在証明の為に。戦争の追憶を仮構していった、「橋上の人」、とか。「イシュメール」。「繋船ホテルの朝の歌」などは。ノンフィクションではないが、完全なフィクションではない。

 しかし。戦後詩はその実在性を離れようとして、「喩」という仮構空間を切り開いた、これが詩や俳句に及んでいると考える。

 もちろん、「私」に膠着しすぎることの弊害はある。でも私は、一概に私性を否定できない。詩で1960年代の鈴木志郎康のように「極私的」という独自のスタイルを開いた詩人もいるし、「私性」というカテゴリーの上でひらかれた言葉の領域は、戦後詩の必然的テーマだった。

 川柳では、渡部可奈子は、わたしが知る限り「私性」それを普遍化し抽象化して「個」の領土を極めようとする作家であった。私性をおいつめて、かなり深い場面で内面世界を対象化している。

 連句を受け入れるかどうか、というのは、言葉足らずで誤解されたのなら残念なので、個人差とか興味の問題であるとして。別の切り口を見つけよう。

 連句と川柳の詩形の特質についていえば、個人差もあろうが、「私の存在証明」という立場が強烈だと、捌きが大幅に添削したり、点々と場面が変わる運行のルールには入りにくいだろう。私性川柳の立場で、作中主体=作者という理念が内面化している人では特にそうである。もちろん、だからといって私の立場からは、当時のそういう川柳的立場を否定しているつもりはない。また、連句のルールをもっと知れば、それをうけいれて、興味をもつかも知れないことだ。ただ、俳句でも、一作者による一句屹立の独立性を求める余り、連句を拒む人たちはいる。連句をやったら俳句が下手になる、とよく言われた。いずれも、やるやらないは本人の意志である。私などは。数人のレンキストの友人から、道をつけてもらったことは幸運だと思っている。

 しかしながら、一つ、訊きたいことがあるのは、川柳ジャンルが、前句付けから独立する過程で、自己の詩形の近くに連句を置かなかったのは歴史的な事実であろうが、その影響をどう考えるか?俳句では、正岡子規が俳諧(連俳)否定したが、鈴木漠の力説しているのだが、子規は晩年はまた連句に関心を持ったそうだ。ともかく、高濱虛子が「連句」という言葉をつくったほど、連句と俳句とは相手を意識している。むしろ不即不離である。

吉澤:俳句は連句の発句から独立したものだから、連句を意識するのはある意味当然のことと言える。しかし、川柳は前句付けから発展したものだから、短歌や詩より連句を特別視しなければならない必然性がない。また、季語を中心に進行していく連句と俳句が近いのは当然だろう。

堀本:「しかし、川柳は前句付けから発展したものだから、短歌や詩より連句を特別視しなければならない必然性がない。」(吉澤)・・そういうものなのか?

【この間沈黙】

堀本:結社で師弟関係を結ぶと言うことは、添削されるのはいやなときもあるが、修行途中である以上そちらの方が句としてできが良くなればアドバイスとして受け入れる場合もある。強烈なモチーフを持ったときにはその限りではない。破門されても主宰の言うことを拒否する。この自由はあるが、ふつうすぐれた主宰は、引き受けた弟子を育てるためには、撰や添削に骨身を削っているはずだ。それが結社主宰の権限でもあり、自負、誇りでもあるのだ、実際のところ、近代俳句のスターは、そのような契約された私塾での修行を経て大成して名句をのこしているのだから、それを否定してなお自立しようとするならば、相当な覚悟をして別の「場」、別の構想を持つ必要があるのである。川柳大会での選者は、庶民的で好感が持てるが、撰の基準は、川柳の通念に照らして厳しい判断をしている、と思う。違うのかな?

 座の文芸で、作家として立つと言うことの琴線に触れてくる話になってしまったが・・。

吉澤:信頼できる川柳の先輩によると、川柳大会の成否は選者で決まる、とのことだ。選者であるから一所懸命選をしているのは間違いない。ただ、照らすべき「川柳の通念」にかなり大きな差がある。

 選者は様々な基準を設定して選をする。破調は取らないとか、この題でこういう言葉を使ったら取らないとか。この春に岡山で行なわれた「バックストローク岡山大会」(川柳大会)の選者の関悦史の基準は、季語がある句は取らないということだった。俳人として、川柳人の季語の使い方に違和感があったのだろう。そういった選者なりの基準は、選者に任されている。投句者は「……という句は取らない」と被講(川柳大会で選んだ句を選者が読み上げること)の際に言われれば、やむなしということになる。しかし、そのように選の基準だからしかたない、と思える場合はまだいいのだが…。

筑紫:少し戻って言うが、堀本の連句の体験を読んで、半ば笑いつつ納得した。私の体験(連歌であったが)からしても、36句の歌仙はさばき手の作品であり、参加者は単に補助的参加者でしかないであろうと思う(それくらい別格に知識と経験を持った人にさばき手を頼むのでなければフラストレーションが残るばかりである。本格的連歌では私の「言葉」のなにひとつも残らなかったぐらい手直しを受けるし、それも数箇月後に手紙で連絡が来たりする。これは現代俳句・川柳の前提としている文学ではないだろうという気がする)。それに不満であれば参加しなければ良いわけである。その意味で「詩客」で今後開始が予想されている連詩がどのような顛末になるか興味津々というところである(「戦後俳句を読む」のメンバーが既に参加を登録済みである)。彼らの感想を聞いてみたい。おそらく連句と最も相容れない詩型が川柳であるのだろう。

 句会について言えば、俳句の句会、川柳の句会、雑俳の句会と膨大な「種類」の句会があり、それぞれの句会がそれぞれの短詩型のジャンルの理念を作っているのではないかと思う。理念が先にあって、それの実践の場が句会としてあるのではない。俳句でさえ更にいくつかの句会の種類があり、例えば典型的にいえば、題詠句会と雑詠句会がある。そして「題詠句会」で真摯に作品を極めれば極めるほど花鳥諷詠になるに決まっているし、「雑詠句会」は必ずその中に無季俳句を萌芽しないでは置かない。これは作者の思想とは関係なく、おかれた制度が花鳥諷詠と無季を作り出すということなのだ。俳句や川柳が純粋な文学や詩に徹したいなら、句会とは縁を切らなければいけないかもしれない(それがいいことか悪いことかは別である)。

私は、あまり我々の伝統が古くからあったと思わないほうがいいと思っている。俳句の句会は明治25年から始まったにすぎない。川柳の句会は前句付の「取次」に由来しているとみるべきなのだろうが、現在のような句会の歴史はそんなに古くはないのではないか。もっとも由来の古いのは雑俳で、雑俳の興行形態から現代の句会は生まれてきたことを知っておくべきだ(明治時代の句会用語の多くは雑俳から借用していた)。

【連載】現代評論研究:第8回 各論―テーマ:「肉体」その他  藤田踏青、土肥あき子、飯田冬眞、堺谷真人、岡村知昭、しなだしん、筑紫磐井、北川美美、深谷義紀、吉村毬子

 ●―1近木圭之介の句/藤田踏青

 月の美しいからだを売る

 「身体」とは頭から足に至る単なる総称であり、「肉体」とはその生きている身体を指す。しかし、掲句の「からだ」は明らかに生きているそれを意味しており、ひらがな表現によってしなやかな女性の肢体と「生」と「性」をも示唆している。掲句は昭和25年の作であり、下関か門司の港町の街娼への眼差しであろうか。「月の」で、その静もった光の中に照り映える女体を浮び上らせ、その静もりは哀しい性をも合わせて導き出している。

 からだ売る青い石ゆびに      昭和28年

 前句と同じような状況の句であるが、「青い石」はその虚飾として体を売る行為への僅かな抵抗感なのであろうか。「虚飾 指の」(昭和63年作)という圭之介の句もあった。

 両句共に二句一章の構成の中で、下句が上句へと還流してゆく様は、売春という日々の生活の不毛をも重ねて見る事が出来る。因みに売春防止法は昭和31年に施行され、昭和33年3月までに所謂、赤線の灯は完全に消えた。赤線の語源は、戦前から警察では、遊郭などの風俗営業が認められる地域を、地図に赤線で囲んで表示した事によるが、その言葉も今では死語になりつつある。

 「桃」

 かのおんなの魂は

 昇天してしまった

 あとに残っているものは

 脂粉の香を放つ

 肉体のみである

 

 桃の木の下に桃が

 一個おちている

 この詩は「近木圭之介詩抄」所収の昭和26年の作であり、上掲二句の間に発表されているが、その対象が街娼とは限らない。この肉体は死に包まれているが、「桃」という存在に香りとやわ肌、そして崩れやすい女性に対する静かな眼差しが感じられる。精神と肉体という対立形質にたてば、この肉体はモノローグとして「桃」に表象されているのであろう。

 影も手がはたらいている      昭和49年

 肉体を直接的では無く、影を通して間接的にその動きを表現している。それによって心象風景が拡がり、深められる効果があるようだ。「手」という一部分から体全体の動きへと、そしてそれから類推される生活そのものまでにまで思いが至るようである。更に「影も」という措辞により、忙しく働いている生き生きとした様が想像される。言葉の暗示性としての「影」は、言葉が持っている意味以上のある一つのものを表現しようとして暗示的な作用を作品の構造に及ぼしているのではないか。

 影 完璧に歩はば      平成18年

 この年、圭之介は94歳を迎えており、その影に肉体の衰え「老い」をはっきりと認める事が出来る。更にその十音の短律は、老人の影の小ささ、歩幅の短さを自嘲的に示してもいる。また、この様な「影」を通した間接的な表現方法の句は「層雲」の自由律俳句によくみられる。

 つくづく淋しい我が影よ動かして見る   尾崎放哉

 影もそまつな食事をしている       住宅顕信

 顕信は特に放哉の句に心酔していた事もあり、各々の病の上に生まれて来た境涯句としての淋しさにも共通項が認められる。その身体的、経済的、社会的弱者としての否定性は私小説的な意味合いを持ち、石田波郷の「俳句は私小説である」にも相通じるものがある。

 インフルエンザ。鼻の中に不安な地形がある  昭和51年

 耳の形が夕日の形が 悪魔を吐く       平成3年

 風が止んだままの形で背骨にいた       平成4年

「鼻」や「耳」や[背骨]といった身体の一部をもって心象を俳句化することはよくみられる傾向である。しかし、境涯句のように身体を己自身の存在感に引き寄せるのではなく、掲句のようにそれ等を硝子の向こうの世界において、二重構造のように眺めることによって作品のベクトルの拡がりを求めるのも新しい傾向であろう。


●―2稲垣きくのの句/土肥あき子

 春暁の手を伸ばしてに触るるもの  「春蘭」昭和14年6月号所載

 大場白水郎主宰「春蘭」に掲載された掲句は、きくのが投句を始めて3年ほどの作品である。

 春暁が招く明かりに、漂わせた手に触れるものはなんだったのだろうか。

 きくのの俳句のなかで、もっとも印象的に登場する肉体は「手」である。女優を辞めたのち、茶道教授をしていたこともあり、ひときわ仕草の美しさを意識していたのかもしれない。茶道の無駄のない流れるような所作は、すべて美しい手の表情によってより際立つ。

 春愁やはたらかぬ手の指ほそく 『榧の実』所収

 随筆集『古日傘』のなかで「手」という文章が残されている。銀座の「Y」という額縁屋で、あるとき画帳を出され、手型を押してくれ、と頼まれたという。「(中略)見ると、もうたくさん押されてあって、画家、作家、俳優、音楽家といったような芸術家が多く、墨で押された手型にも濃いのうすいの、べとべとなのといろいろあり、傍らにそれぞれサインとわた手によせる文字がつづられている。『おお、いとしのが手よ』とかいてあるのは、如何にも指の長いソプラノ歌手であった。『お前はおれの最も親しいやつだ。おれの悪事をお前はみんな知っている』これは漫画家である。」と印象に残ったものを挙げているが、はたして自分はといえば「かいた文句は忘れてしまった」とつれない。つい最近、別の作家のエッセイを読んでいて、この「Y」という額縁屋が銀座8丁目にあった「八咫家」であることがわかった。現在は大田区千鳥に移転したそうで、早速画帳が今もあるか、あればぜひ見せてほしい旨をたずねてみたのだが、先代は亡くなり、電話口に出られた方は「話しは聞いた記憶はあるが、見たことはない」という返事だった。きくのは画帳にどの句を記したのだろう。手にまつわる句であったのだろうか。はたまた手型はべったり派か、薄墨派だったのか。まぼろしの画帳を今しばらく追ってみようかと思う。

 春昼や男手を待つ壜の蓋  「春燈」昭和49年5月号所載

 きくのに詠まれると男手も単なる労力ではなく、力ある色香を感じさせる。句集『冬濤』では、切なくも愛おしいくつもの手が登場する。

 暖かやさしのべられし手に縋り

 滝の音によろけて掴む男の手

 春の夜の触れてさだかにをとこの手

 触れし手のぬくもりのわがものならず

 そして、中年以降の女であれば誰でも知っていることだが、年齢がもっとも如実に刻まれるのは顔でも髪でもなく、手である。60歳を目前としたきくのがことのほか情けなく思ったのは、老いの表情を見せるようになった我が手であった。

 手袋の手の老いを愧づ人しれず  『冬濤』所収


●―4齋藤玄の句/飯田冬眞

 青葦原ふたつの目玉なにもせず

 昭和52年作。第5句集『雁道』(*1)所収。

 句集では、「風土」の項で取り上げた〈いつの日の山とも知れず夏大空〉の次に配列されている。この句は、〈知れず〉という受動的なことばを用いながら過去と現在という記憶の揺らぎを〈夏大空〉によってとらえた秀句であった。

 この年の三月、六十三歳の玄は前立腺手術のために北海道の砂川市立病院で一ヶ月余りの入院生活を送る。掲句は退院後の作であると思われる。自註を見るとこうある。

 見渡す限りの青葦原。それを見ている二つの目玉。青葦原を見る他は何もしない目玉。しまいには青葦原も見なくなった目玉。(*2)

 上五〈青葦原〉と中七以下のフレーズとの間に、ある行為とそれに伴う時間の経過が省略されている。軽く切れながら繋がっていく句の構造は、晩年の玄の作風でもある。〈青葦原〉という大きな景色と〈ふたつの目玉なにもせず〉という微細な描写を並べたことで、シュルレアリスムの絵画を見た時のような不思議な印象を与える。それは、肉体からふわふわと〈ふたつの目玉〉が抜け出して、空間に静止した状態で〈青葦原〉を見下ろしているイメージとでもいおうか。やがてその目玉は〈なにもせず〉に宙に浮いたまま消えてゆき、〈青葦原〉だけが風に揺れている。前句の〈いつの日の山とも知れず夏大空〉では、山を見ていた作者が〈夏大空〉の視点にすり替わって、記憶の中の山や眼前の山、そして死後の山を見下ろしていたが、それとは異なる趣を持つ。目玉のあったもとの場所には、暗い穴がぽっかりとあいている。もはやそこには魂すら宿っていない。下五〈なにもせず〉が虚脱した作者の心理状態を暗示させる。青葦原の実景は作中主体の眼前にありありと映っている。しかし心はすでに肉体から遊離して、うつろである。そうした無音で無色の精神世界が描かれているともいえるだろう。なまなましい〈ふたつの目玉〉が肉体性を象徴しているとするならば、それが「見る」という機能を果たさなくなったとき、心もまた、なにもしないということになるのだろう。死者の視点といってもよい。

 こうした機能不全に陥った肉体を詠むことは何を意味するのだろうか。肉体の意の「肉」あるいは「肉〔しし〕」という語を読み込んだ句をいくつかあげてみよう。

 しんしんと肉の老いゆく稲光  昭和47年作

 痛まねば肉〔しし〕といふもの春惜む  昭和49年作

 流燈を送るは肉〔しし〕を櫓〔やぐら〕とし  昭和50年作

 最初の句では、稲を豊かに実らせると信じられてきた光、つまり稲妻と深く静かに老いに蝕まれてゆく作者の肉体との対比が視覚的に把握されている。ここでの肉体は稲光という自然によって照らし出されたことで、回避することのできない「老い」を自覚したという生きるものの哀しみが描かれている。二句目では、病による痛みがなければ肉体を意識することができなかったという作者の述懐を〈春惜む〉という詠嘆的な季語に重ね合わせている。痛覚と季節の移ろいを対比させた点はユニークだが、情感が勝ちすぎて、詩としての純度が高いとは言えない。三句目には、流れ去る燈籠をたたずんで見送ることで、生の実感を味わっている作者がいる。肉体とは死者の魂を見つめ続けるだけの櫓のようなものという認識は、痛切。

 睡りては人をはなるる露の中  昭和53年作

 病中の作という背景を知らずとも〈人をはなるる〉の一語から強い詩情を受け止めることができる。生の悲しみに溺れることなく実景をとらえる目のたしかさがある。肉体から目や魂が遊離して実景だけが存在するというモチーフは、掲句やこの句のほかにも繰り返し詠まれている。滅び行く肉体を凝視することで至りついた静寂さをたたえた智慧の光をこれらの句から感じる。


*1 第5句集『雁道』 昭和54年永田書房刊 『齋藤玄全句集』 昭和61年 永田書房刊 所載 

*2 自註現代俳句シリーズ・第二期16『斎藤玄集』 昭和53年 俳人協会刊


●―5堀葦男の句/堺谷真人

 これやこの痩脛皺腹初風呂に

 『過客』(1996年)所収。葦男にとって今生最後の新年となる1993年正月の作。

初風呂につかる。なみなみと溢れる湯の中で四肢をくつろげ、顔をさすっていると、気分は極楽、生まれ変わったようだ。が、湯を透かしてつくづく我が身を眺めると、やはり年齢相応の衰えは蔽うべくもない。なるほどそうか、これが世にいう痩せ脛と皺腹そのものなのだ。

 葦男は同世代の中では長身であった。晩年、少し猫背になってからでも、筆者の目測で170センチは優に超えていた。学生時代、陸上競技で鍛え上げた肉体には相当の自信があったらしく、徴兵検査も甲種合格確実と観念していたという。しかし、1941年7月の検査結果は第三乙種合格。同時に胸部疾患の疑いを申し渡され、1年間を日本赤十字兵庫療養院で過ごすこととなった。25歳の時である。戦中戦後期はしばし小康を得るも、1949年6月に突然再発し、絶対安静2ヶ月、自宅療養1ヶ年を余儀なくされる。

 黒揚羽声もがれたるわれに飛ぶ 『火づくり』

 蒲団饐(す)うるにほひ生きんとするにほひ   同

 酷暑去る十指の爪に溝鐫(え)りつけ   同

 近現代俳句には「闘病の文芸」という一面がある。自己の肉体の変化や病状を客体視して叙述する子規の筆法をどこかで意識したのか、『火づくり』「水の章」の連作「鏡中の夏」には2度目の療養生活を淡々と叙する作品が目立つ。ただ、子規の肺患が重篤化し、やがて肉体崩壊の惨状を呈したのに対し、葦男の肉体は古傷を内に包み込んでゆっくりと生育する樹木の如く、二豎を制御することに成功した。年譜を見る限り、壮年期以降は大病に見舞われることなく年を重ねてゆく。

 さて、ここで冒頭の初風呂の句である。

 浴槽の中で痩せ脛と皺腹に対面する葦男は自己の肉体の衰えを嘆いているだけなのであろうか。筆者はそうではないと思う。加齢に伴う肉体の変化を興味深く観察し、あたかも一幅の俳画のような軽みをもってさらりと言い止める。そこには老いへの好奇心こそあれ、重くれた悲傷は見られない。

 更に付け加えるならば、歌舞伎をこよなく愛し、酔って興至れば名場面の身振り・声色を披露した葦男にとって、例えば皺腹とは単なる老醜の即物的表象ではなかった。むしろ老年の侠気と気概とを(多少コミカルに)示す道具立てであった。

 今になつて川越が娘と言ふて得心あらふか、

 卑怯至極と思し召す御心根も面目なし、皺腹一つが御土産。

 『義経千本桜』「堀川御所の段」。九郎判官に詰め寄り切腹しようとする川越三郎の科白である。ことによると葦男は湯気の中で音吐朗々と川越の声色を使いつつ、皺腹を撫してすこぶる上機嫌だったのかもしれない。

 それにしても、「これやこの」という大時代な上五といい、「初風呂」というめでたい季語といい、この句には様式美を踏まえた遊びがふんだんに織り込まれている。自己の肉体を一個の形象として凝視する「リアリズムの目」を失わず、なおかつ状況を演劇的に俯瞰する「桟敷の目」も働いている。千両役者・葦男の面目躍如というところであろう。


●8-青玄系作家の句/岡村知昭

 航空機胃の上を過ぎる餉後しょうごの臥   日野草城

 戦後の俳句における「肉体」の一句というテーマを考えていくと、ふたつの身体のありようが浮かび上がってくる。ひとつは結核療養者に代表される「病める身体」、このモチーフの作品として当時から反響の大きかったのが石田波郷の『惜命』である。もうひとつは労働をモチーフにした「働く身体」、こちらのほうは「社会性俳句」との絡みもあってモチーフとしての存在感を増してゆくことになる。どちらもそれまでに書かれなかった訳ではないのだが、これまでとモチーフの扱い方において大きく異なる点と考えられるのは、どちらの身体も個人的であると同時に、これまで以上に社会的な存在感を持つようになってきたところではないだろうか。もちろんいま挙げたような簡単な割り切りでは漏れる部分も多いはずなので、これからもさらに考えを深めていけるようにしたいと思っている。今回はひとまず「病める身体」の側面を見ていくことにしたいが、そうなると一番に登場するのは当然のことながら病床から「青玄」を引っ張り続けている日野草城その人である。

 掲出句は昭和25年(1950)7月号初出、句集「人生の午後」に収録。句集の章扉にはこの年の病状について「一月、発熱を押へてストレプトマイシン5グラム注射、効果顕著。」「病状は前年より安定し、作つた俳句の数も多かった」と記されている。

 病める身体に鞭打つかのようにようやくの食事を済ませて、疲れ切って横たわっているというところであろうか。病める身体への意識は食事を済ませてより鋭くなっているのか、胃の中では先ほど口から入れたばかりの食べ物をどうにか消化しようとするうごめきが感じられてやまない。自分の家の上空を通り過ぎる飛行機がとどろかせる爆音の大きさもまた自分の体に強く響き渡り、病める体にさらなる疲れをもたらしていくのである。

一句を支えているのは「航空機」と「胃の上」の位置関係の把握の仕方である。病床の自分と上空の航空機との間にある屋根瓦、天井といったものは一切省かれており、さらには自分自身の身体そのものではなく「胃」に焦点を絞ることによって、病める自分自身の身体を揺さぶってやまない「航空機」の存在をより高め、一句から浮かび上がってくる像を鮮やかなものとしている。このあたりの構成のうまさはさすが草城と言うところで、無季俳句の作り手としての力量は、この一句からも十分に伝わってくるのである。

 ここで気をつけて見ておきたいのが「航空機」の存在だ。空から自分の身体に押し寄せてくる音のとどろきや物象から来る威圧的な存在感といったものを、どうして一句に的確に把握できたのかを考えるとき、草城の自宅「日光草舎」が大阪空港からそれほど離れてはいない大阪府池田市にあることも影響しているだろう。戦前 から軍用空港として使われていた大阪空港は、敗戦後は連合軍に接収され「伊丹エアベース」と呼ばれていたという(大阪空港が「伊丹空港」とも呼ばれるのはその時の名残と言われる)。昭和25年の6月には朝鮮戦争がはじまり、空港と朝鮮半島を行き来する軍用機の数は日々増していったであろうことは想像に難くない。掲出句が作られた時期はおそらく朝鮮戦争のはじまる前なのだろうが、ただ「病める身体」を自宅に横たえることしか出来ない草城は、毎日絶えずのしかかって来る軍用機の爆音を自分の身体で受け止めながら、ようやく訪れたと思われた静かな時間が、再びも戦争の危機にさらされてしまっているのを「病める身体」の視点ゆえに微細に感じ取っていたのかもしれない。

 先ほど引用した句集「人生の午後」の章扉には次のような記述もある。「三月、温子豊中桜塚高校卒業、進学の志を捨てて母校事務室へ就職」。自らの「病める身体」がもたらしてしまった家族の苦難の一端を草城は記す。このとき草城の身体には病魔だけではなく家族の生活の苦難が、さらには再びの戦乱への恐れもがのしかかっていたのだろうが、「病める身体」は全身でそれらを受け止めながら自らの求める「戦後俳句」と向かい合うのである。


●―9上田五千石の句/しなだしん

 どの石も蜥蜴の腹をあたためず     五千石

 第一句集『田園』所収。

 前回の「音」でも書いたが、五千石の作句は研ぎ澄まされた視覚が中心であり、今回のテーマ「肉体」「身体」についても、己の身体を詠った句、他人の肉体を詠った句、またそれを連想する言葉が使われた句は見出すことができなかった。

     *

 掲出句。強いて言えば、蜥蜴の「身体」を詠んだ句である。

 だがこの句の面白いところは、蜥蜴の腹のことを自分の身体の感覚のように詠んでいるところだ。まるで己の腹で石ひとつひとつの温度を確かめたような断定のしかたである。

 五千石の作句信条といえば「眼前直覚」だが、五千石はしばしばその眼前を飛び越え、対象物と同化して作品を成すことがあるように思う。

たとえば、

 渡り鳥みるみるわれの小さくなり     五千石

は、その例として分かりやすいかもしれない。

 この「蜥蜴」の句も、対象物である蜥蜴の「身体」と同化して、蜥蜴の感覚が五千石の「身体」を通じて言葉に成った作品ではないかと思うのだ。

     *

 第一句集『田園』は、章題とは別に、概ね二句ごとにタイトルが付けられた構成になっていることはよく知られたことで、この構成については否定的な意見が大半を占めるようだ。

 この句を含む二句に付けられてたタイトルは「寒い夏」。このタイトルはいただけない。蜥蜴の腹があたたまらないのは、その年の「寒い夏」のせいだ、という答えになってしまっている。これは作品にとって大きなマイナスと言わざるを得ない。

 いずれにしても、視覚を通り越して対象物と同化し、その言葉を表現する、こういう作句姿勢に学びたいと思った作品である。


●―10楠本憲吉の句/筑紫磐井

 散る柳スリムK氏の背に肩に

 昭和54年、『方壺集』より。

 肉体といった場合に、楠本憲吉の全身をどのように表現するかは難しい。「我」では、精神的な意味が強いであろう。ところが、憲吉は不思議な表現を発見する。掲出の「K氏」である。もとより楠本憲吉氏の略称であるから、それ以上の情報が付加されているわけではないだろうが、彼の作品の中では「K氏」は妙に痩身の自己の肉体を際立たせているようなのである。

 K氏が帰る愛と死をその双翼に

 不惑K氏に夕陽全円熟れて落つ

 蟻が蟻の屍運ぶ参道 K氏が去る

 秋嶺見ゆ白面K氏の肩越しに

 蟇とK氏の隠微な散歩で夏逝く森

 中共見ゆ脚長K氏の双脚越し

 眼(まなこ)窪ませてK氏の避暑期去る

 金星泛べK氏山荘は四月尽

 冬灯ちりばめK氏遺愛のボールペン

 こんなたぐいなのである。確かに、「我」というよりは、小説の中の主人公のように客観化された存在が浮かび上がる。「A少年」「少女B」なら一層現代的だろうが、それだけ人の特定は難しい。「K氏」は目をつぶれば確かにそのシルエットが浮かび上がりそうな人物である、特に「K氏」の表記は軽薄な感じが楠本憲吉以上にふさわしい。ちなみにショートショートの神様星新一は、大半の主人公を「エヌ氏」にしている。中性的な感じがよい、「N氏」ではダメだというのである。ということで、昔の小説であれば、『阿Q正伝』の「阿Q」に相当するものといっておこう。

 「柳散る」は秋の季語。芭蕉に、「庭掃いて出るや寺に散る柳」があるが、あまり上々の句とも言えない。もともと、連歌では「一葉散る」といい桐の葉と柳の葉を広・細一対にして初秋の風情としたが、前者には「桐一葉日当たりながら落ちにけり(虚子)」の極め付けの名句があるのに対して、後者にはない。案外この句など、芭蕉に匹敵する句と言ってもよいかもしれない。

     *

 なお参考までに。「我」に独特の表記をしている歌人に前田透がいる。

 中国に行かぬ太郎が歩みおり今日乾き明日も乾かん舗道

 企業使用人太郎が出口に佇ちおれば平俗米人笑みつつぞ来る

 硝子かがやく資本の城に日が照りて太郎の負える責もむなしき

 <我、汝に何を為せばぞ>斯く三次(たび)打たるることを太郎は許す

 前田透の場合「太郎」が我である。膨大な全歌集を読み通すと、我の中に(歌人は、俳人に比べてはるかに我について語ることが多いのだ)時折、「太郎」が登場する。企業や資本主義の中での疎外された自己を歌うとき突然「太郎」が現れるようなのだ。


●―12三橋敏雄の句/北川美美

 晩春の肉は舌よりはじまるか

 「肉体」というテーマに官能的と思える句を選んだ。掲句、大正男の肉欲を想像させる。戦争の前線にいた男のセックスに違いがあるのだろうか。肉欲は率直である。けれど「はじまるか」である。舌という部位から身体の肉がはじまるのでしょうか、という率直な意味はもちろん、情事がはじまる予感をせしめるのである。現代の草食系男子というのは男の正道でない子供ということになり(よって男子なのだろう)、迷わず肉欲の男が男なのである(迷うことなく肉を選んだ@『男の滑走路』作詞・横山剣)。では、「晩春」とは何なのか、単なる季語としての背景ではあるまい。人生の季節で「晩春」を迎える男のエロス、同時にタナトスの到来を予感する寂寞の感が背景にある。「春」という語が俗であり雅であることを改めて想う。読み手側の心拍数の上がる句ということに違いはない。

 敏雄の官能句と思わせる句には、したたかにエロティックなものと、母者ものといわれるものがあるが、前者は男性視点で語られることが多く、後者は女性からの支持が多いようだ。実際、加藤郁乎は掲句を『眞神』のなかの最高作としていた(*1)。女は「する」ことにより、男は「みる」ことにより官能が刺激されるという説(*2)が関係しているのだろうか。

 時代背景としての話になるが、敏雄より10年若い吉岡康弘の『吉岡康弘写真集』(*3)は予想以上に強烈だ。人体、女性性器が肉のオブジェとして石ころ同様に映っている。篠山紀信氏が公然わいせつで家宅捜索を受けたレベルの露出度ではない。愛は肉からはじまる場合がある、いや、はじまるのである。「見ること、それは眼を閉じること」は、ヴォルスの言葉である。戦後1960年代、世界的に前衛(avant-garde)といわれる芸術活動が盛んだった。

 掲句が収録されている『眞神』に下記の肉体に関連する句もある。

 肉附の匂ひ知らるな春の母

 「春の母」とは何者なのか。単なる季節ではない『眞神』の時空とでもいえるものが春、青春の母。母の肉附の中に隠れている自分、水子かも一寸法師かもしれない自分を母は知らない。「春」という言葉により淫靡さを思いがちであるが、それ以前に自己のルーツと思える句であり『眞神』のキーとなる句と思える。二句とも昭和46年の作である(「肉附」の句が100句目、「肉は舌より」の句が102句目である)。

 體溫を保てるわれら今日の月 『疊の上』

 人閒も他の生物ぞ泣き泥鰌  『長濤』

 肉體に依つて我在り天の川  『しだらでん』

 敏雄は肉体を聖なるエロス、霊、たましいの宿る物体として捕えている。前述の吉岡康弘の女性性器も同じく聖なる物体なのである。遡れば、アルチュール・ランボーの『太陽と肉体』を見ても肉体を突き放しているところに詩として共通点を感じる。更に遡って聖書における肉(ヘブライ語:バーサール)は「霊」と対比された人間の物質的な部分、全存在を意味している。敏雄句そのものになるが、「肉体に依って我あり」のとおり人間の聖なる原点が肉体そのものだ。詩歌をつくるものに敏雄句の肉体に潜むようなエロスの神は、そう簡単に降りて来てはくれないだろう(*4)。

 そして掲句、またも、係助詞「は」の使用句である。


*1)『俳句季刊』昭和49年1月号/書評集『旗の台管見』(コーベブックス刊)収録

*2) 『オール・アバウト・セックス』鹿島茂/文藝春秋2002年

*3) 吉岡康弘(写真家1935-2002年)1961年、読売アンデパンダン展に出品した写真作品が「ワイセツ」との理由で開催4日目にして撤去された。吉岡康弘はそれに抗議するかたちで、撤去された作品を主に写真集『吉岡康弘作品集』を自費出版した(1962年)。寄稿者に中原祐介、滝口修造、黛俊郎、安部公房、勅使河原宏、石元泰博が名を連ねる。

*4) とはいえ、「女は無意識にエロスの句をつくる」と三橋敏雄がよく言っていたようだ(故・山本紫黄談)。やはり女は「する」こと、あるいは出産という生殖の神秘が無意識に言葉に働くのだろうか。


●―13成田千空の句/深谷義紀

 虫送る生身の潤び女たち      

 第四句集「白光」所収。

 松明の灯の連なりが揺れ、晩夏の夜の湿った空気が肌にまつわる。農村行事、虫送りの光景である。神事の色彩もあるため、実際にはこの行事に恐らく女性は参加していなかったのであろうが、千空はそこから女性たちの「肉体=生身の潤び(ほとび)」の確かな存在を感じ取ったのである。

 千空には、ある種の野趣を感じさせる作品がある。例えば、

 快晴や土筆ちんぽこいちめんに      「忘年」

 雄の馬のかぐろき股間わらび萌ゆ     「白光」

などである。これらの作品を読んで、初めに想起したのは金子兜太の、

 曼珠沙華どれも腹出し秩父の子

であった。この二人は創作活動においてほとんど交わることがなかった筈だが、それぞれがお互いを語るとき、お互いが抱く親近感が伝わってくる。それは二人が同年代であることに加え、こうした野趣を二人が根底に有していたことが影響していたからだと思えてならない。

 掲句にも、そうした野趣が認められる。そして、この野趣は「原郷としての津軽」を意識してこそ生まれてくるものである。横澤放川は、掲句について「濃厚な風土体質」を指摘し、千空の作品は「その風土が時代における人間性の普遍に達している」と言う(角川書店「俳句・成田千空の生涯と仕事」より)が、同感である。

 さらにもう一人、この句から連想するのは同郷の画家棟方志功である。志功の絵に描かれた女たちはいずれも生命力に溢れている。しかもその生命力は時空を越え、永遠性を感じさせるものである。譬えて言えば「縄文の生命力」だ。津軽は縄文の地であり、掲句の「火と女たち」から縄文の匂いが色濃く漂ってくるのである。


●―14中村苑子の句【テーマ:水妖詞館ーあの世とこの世の近代女性精神詩】11.12.13.14./吉村毬子

11 わが襤褸絞りて海を注ぎ出す

 海へ行き、波を被ったのか、着物のまま海へ入ってしまい、遊んだのか。海水に濡れた着物を絞る様子を詠んだともとれるのだが・・・。

 かつては美しかった絹の着物が「襤褸」となる頃、それを絞ると、歳月が「海」の如く溢れてくるのだと解釈したい。母なる海―女と海の関係は詩に詠われるものである。水を好む苑子は、海も好んでいた。女としての、昏く、そして華やかな人生を過ごした時間は、大海原を漂流した船乗りのように、その疲れ果てた「襤褸」から絞り出されるのだ。「わが」と強調したところにも思いが感じられる。それは、辛く透明な汗と泪の混じる深い青い色をした「海」なのであろう。

 「海を注ぎ出す」という表記に寄り、「襤褸」という語が稀な美しさを表出し、輝きを放つ。

 そして、「襤褸」と「海」の二語で、自身の人生という時間を十七文字で表現し得る俳句形式の強さを感じずにはいられない句である。

12 おんおんと氷河を辷る乳母車

 初めてこの句に出遭った時、(すでに二十年以上も前だが。)松本清張rの『砂の器』の父子が凩の中、海辺を黙々と歩く姿が重なった。

 「おんおん」と泣いているのは、赤ん坊か我か―。氷河は、「おんおん」と音をたてて崩れては、流れては、形を変えていく。全てが「おんおん」と鳴り響くその目くるめく怒涛の中、乳母車と共に氷河に身をまかせていくしかない女の姿。それは、女『子連れ狼』の如くにも感じられる。

 橋本多佳子の句

乳母車夏の怒涛によこむきに

とは、明らかな違いがある。夏の荒波にも耐え、しっかりと立つ多佳子の乳母車が、海に抱かれたその光景は、逞しくおおらかであり、爽やかでさえある。

 人は、平坦で緩やかな場所ばかりを歩んで来るわけではないが、苑子が「氷河」を舞台設定にしたその思いと覚悟は、如何なるものであったろうか。夫が戦死し、俳句を術に氷塊のような固く冷たい世間を歩けば、足元から崩れることもある。安定など有り得ない。大海原に浮かぶ氷塊を、乳母車と共に辷りながら、縋りつきながら生きていくことこそ、苑子の詠う母の詩である。苑子の生き様も描かれていると同時に「母」という名の精神性を最も享受できる句であろう。

13 貌を探す気抜け風船木に跨がり

 風船の空気が抜けて、木に引っ掛かっている様子であろう。大空は快適で自由であったが、いつの間にか風に流されて木に引っ掛かってしまったのである。

 空気がたっぷりと入って溌溂と大空を回遊していた風船が、時間が経つにつれて空気が抜けて萎んでいくことは、必然である。人もまた、時間経過と共に身体は衰えてゆくのだが、この句は「風船」を「貌」に喩えている。

 苑子は、少女の頃、お転婆であったと話していた。凧揚げや木登りもよくしていたらしい。無垢な強さを身に纏っていた頃を思い出しながら、静かに現在の己を見詰めているようである。

 歩いて来た俳句人生の道程を振り返りながらも、老年に差し掛かった将来への不安と焦燥を少しは感じるが、木に跨り、地より浮いたその場所で本当の自分を探している手段は、諦めに似た落ち着きを持つ。

 しかしながら、この句には、確かに自分を「気抜け風船」だと認識している倦怠が窺える。

 果たして「貌」は、何処へいったのだろうか・・・。

14 貌が棲む芒の中の捨て鏡

 前句の「貌」が行き着いたところか・・・。

 「風船」であったはずの「貌」は、生気を喪ったが、鏡の中で己を取り戻したのか・・・。

 見開きの右側一頁に、11・12の句、そして左側の頁に13.14の「貌」の句が置かれている。(毎回、この四句づつ書き進めているのだが。)13の「貌を探す・・・」と並べられているということは、意図的であり、意味を持たせているのだろう。

 この句は、苑子の代表句としてよく取り上げられる句である。

 倉阪鬼一郎氏も著書『怖い俳句』で解説している。

 いちめんの芒の中にぽつんと一枚、鏡が捨てられています。その中に、人知れずえたいの知れない貌が棲みついています。それがいかなる貌なのか、なぜ鏡の中に棲むようになったのか、俳句は何も説明してくれません。(中略)鏡を捨てた者が貌として宿るようになったのか、あるいは物の怪のたぐいが棲みつくようになったのか、これまた短かすぎる俳句の言葉は伝えようとしません。

  一読、誰もが倉阪氏と同じ思いを抱くだろう。

 俳句の形体に迷いがない。まず、上五で「貌が棲む」と言い放っている。そして、鏡が芒原に在ることも、想像を掻き立てるに事欠かない設定であり、その中に棲む「貌」は、異様としか言いようがない。

 鏡を捨てるということ自体が、非日常的であり、割れてしまったのかも知れないが、それは、不吉を予感させられると言われている。持ち主が亡くなってしまったのなら、形見としての存在が許されなかった女のものだったのか・・・。

 いずれにしても、鏡の中に棲む貌は、そこへ定住しながら生き永らえていくのである。芒は、陽光を浴びながらサワサワと揺れ続ける。逆行の夕景、晩秋の宵闇、枯芒の頼りない揺れの中も鏡はそこにある。まるで、古代よりその地に棲みつき、存在していたかのように。一筋の諦念を髪に携えながらも、終の棲家の鏡の中に納まっている。憎悪や復讐などは、とうに芒原の風に吹かれ、永遠に原野の一部となる。全てを捨てられ、捨てた貌は、怒りに満ちた貌よりもずっと恐ろしく見えるのではないか。

 今回の四句は、前回の叙情で詠う「母・女」よりも、更に激しく、母として、女としての性(さが)を焦点を絞り詠い挙げている。現代を生きる女性にも、その一欠けらは共感するものと信じたい。


2025年5月9日金曜日

第246号

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…(主な執筆者)小野裕三・もてきまり・大塚凱・網野月を・前北かおる・東影喜子


筑紫磐井著『女帝たちの万葉集』(角川学芸出版)

新元号「令和」の典拠となった『萬葉集』。その成立に貢献した斉明・持統・元明・元正の4人の女帝、「春山の〈萬〉花の艶と秋山の千〈葉〉の彩を競へ」の天智天皇の詔を受けた額田王等の秘話を満載する、俳人初めての万葉集研究。平成22年刊/2,190円。お求めの際は、筆者までご連絡ください。

英国Haiku便り[in Japan] (53)  小野裕三


 
俳句、この別世界

 「黒人文学」の先駆者とされる米国の小説家リチャード・ライトは、最晩年に多くのhaikuを作り、没後四十年近くを経て編纂され一冊の句集になった。その書名が『俳句、この別世界(HAIKU This Other World)』である。彼が作った四千の句のうちの約八百句、かつ娘による序文や編者の解説がこの本に収められる。

 総覧すると、その作風の幅広さが印象に残る。自然の風景を丁寧に観察した、いわゆる俳句らしい優れた句も多い。


 Shaking the water

 Off his dripping body,

 The dog swims again.

 滴る体から/水を振り払い/犬はまた泳ぐ


 その一方で感覚的な飛躍のある句や、もはや創作に近い想像豊かな句もある。


 The blue of this sky

 Sounds so loud that it can be heard

 Only with our eyes.

 空の青は/あまりに大きな音なので/我々の目だけに聞こえる


 社会的現実を見つめた句もある。


 Upon crunching snow,

 Childless mothers are searching

 For cash customers.

 雪をザクザクと/子のない母たちは/現金払いの客を探す


 時に川柳に似たユーモアも示す。


 Would not green peppers

 Make strangely lovely insects

 If they sprouted legs?

 ピーマンに/もしも脚が生えたら/なんともかわいい虫にならないだろうか?


 最晩年のライトのhaikuへの傾倒ぶりについて、娘による序文にはこうある。「(父は)俳句のバインダーをいつも小脇に抱えていました。どこでもいつでも俳句を書きました。一年間のつらい闘病から次第に回復するベッドの中でも。」

 そんな作品に見られる多様さは、彼が試行錯誤しつつhaikuで実験を続けた痕跡とも思えるし、実際、彼も友人に宛てた手紙でこう書き綴る。「病気の間、俳句と呼ばれる日本の詩形式を実験しました(experimented)。約四千句作りましたが、それらがいいかどうかを確認するために、いま吟味しています。」さらに、ライトの伝記を書いた作家はこう指摘する。ライトはhaikuについて「なぜそんなに現代的に(such a modern note)彼の耳に響くのかを知るために、深く調べなければならなかった。」

 多くの西洋の作家・詩人たちにとってhaikuは〝きわめて現代的な実験の場〟であり続けている、というのが英語haikuを見て感じる僕の実感だが、半世紀以上も前にhaikuの虜になった米国の黒人作家にもその感覚は共有されていたようだ。それは、日本語のしがらみを離れた英語という異言語のフィルターを通して見えるhaikuの純粋な姿なのだろう。

(『海原』2024年4月号より転載)

【鑑賞】 豊里友行の俳句集の花めぐり28 九堂夜想句集『アラベスク』 豊里友行

 九堂夜想さん(くどう・やそう、1970年生まれ、「LOTUS」同人)の第1句集『アラベスク』(2019年2月刊、六花書林)の特筆すべき点は、メタファー(暗喩)の怒濤のパッションを凍結して海底深く静かに想いを込めて鎮められているようだ。その鑑賞者をこの句集が待ちわびているような気さえしている。

 九堂夜想さんの俳句の初見は、俳誌「海程」だった。

 私も当時、俳句の武者修行のため金子兜太先生の海程会員として俳句を切磋琢磨する。

 九堂夜想さんは、あっという間に独自の作風で頭角を現していく鮮烈な印象を受けた。

もうすでに海程で金子兜太先生に見出された逸材であったことは、云うまでもない。

 『セレクション俳人 プラス 新撰21』(邑書林)にて入集者は越智友亮、藤田哲史、山口優夢、佐藤文香、谷雄介、外山一機、神野紗希、中本真人、高柳克弘、村上鞆彦、冨田拓也、北大路翼、豊里友行、相子智恵、五十嵐義知、矢野玲奈、中村安伸、田中亜美、九堂夜想、関悦史、鴇田智哉。

 私も私自身を含めて若手俳人21人の鮮烈な登場に大いに刺激を受けた。

 その中でも北大路翼さんと九堂夜想さんの俳句には、衝撃的な俳句の視界の拡大に戦慄さえ覚えた。


春深く剖かるるさえアラベスク


 冒頭の〈春深く剖(ひら)かるるさえアラベスク〉は、まるで手術台に立ちメスを踊らせる舞台のように春を深く鮮やかに解体してみせるとアラベスクの世界が展開している。

 アラベスクとは、モスクの壁面装飾に通常見られるイスラム美術の一様式で、幾何学的文様(しばしば植物や動物の形をもととする)を反復して作られている。

 九堂夜想俳句のある種のマジックに魅了される。

快楽の歓喜も悶絶の苦痛も九堂夜想俳句の鮮やかな世界観で展開されている。


みずうみを奏でる断頭台なれや

母踊り来るやまなうらの離れより

燃えずの火濡れずの水をわたり馬

花という花からびゆく相聞(あえぎこえ)

月よみや水に憑かれて海という


 断頭台とは、死刑執行人が斬首刑を行う時に使用する木製の台である。その行為の戦慄とは裏腹にみずうみを奏でる断頭台への祈り。

  眼裏(まなうら)の離(はな)れより母が踊り来る記憶。

燃えない火も濡れない水をも馬がさっそうと渡る幻想的な世界観。

 「からびゆく」は、ねび行く(ねびゆく)として読み解くと次第に花の成長していくエロスさえ萌芽する。

 月光圏の水に魅せられ憑かれてしまう魔性を海と名づけよう。


みなみかぜ貝殻は都市築きつつ


 九堂夜想俳句の醍醐味は、AというモノをBという世界へと異化する超リアリズム的な俳句的錬金術とでもいうべき世界観の構築にある。

 貝は瞳のように柔らかに誕生しつつも堅い貝殻になってもなお都市を築きあげながら増殖しつづけている。

南風の生まれ出る貝殻は、絶えることのない永久無窮の九堂夜想俳句の都市を築きあげ続けているのかもしれない。


死に顔へ海市はこばれゆく夜会(ソワレ)


 海市(かいし)とは、気温の相違により、地上や海面上の大気の密度が一定ではないときに、光の異常な屈折が原因で、遠方の景色が見えたり、船が逆さまに見えたりするなど、物が実際とは異なって見えるような現象のことである。死者の顔へと海市は、夜会(ソワレ)の宴に誘われる。

 九堂夜想俳句のエロスとタナトスへの誘いの絶頂の波に呑み込まれていく。

その世界観をこれからもジックリと読み解きながら私は私なりの俳句世界を切り拓き続けたい。


【読み切り】「タナトスとエロス呑み込む貝は都市 ~九堂夜想句集『アラベスク』より~」 豊里友行(2020年8月7日金曜日)

https://sengohaiku.blogspot.com/2020/08/142-002.html


 共鳴句というよりもこの句集『アラベスク』全体が、1句1句に芸術性が高くメタファーによって優れた俳句世界を孕んでいる。それは、貝殻の増殖のように城を構築しているな句集なのだ。

 これらの俳句鑑賞は、粘り強く読み込みながら1句1句を俳句鑑賞しながら多くの読者によってそれぞれの鑑賞がなされることを期待して止まない。もしかしたら故人となった金子兜太先生もその現代俳句世界の裾野を広げる担い手として先見の明を以って九堂夜想さんを見出されていたのだと今の私はひしひしと感じている。

【新連載】新現代評論研究:各論(第4回): 仲寒蟬、眞矢ひろみ、佐藤りえ、筑紫磐井、横井理恵

 ★―1「シン・兜子を読む」3  仲寒蟬

4. こゝろ虚(むな)し蜩ニもの思ふこともなし

 蜩は『万葉集』のむかしから和歌に詠まれてきた。

 巻第十、「夏相聞」に「蟬に寄す」の前書で詠み人知らずとして

ひぐらしは時と鳴けども恋ふるにしたわやめ我は時わかず哭く

これは片思いの歌らしい。

 また巻第十七に大目秦忌寸八千島の作として

ひぐらしの鳴きぬる時はをみなへし咲きたる野辺を行きつつ見べし

これも男女の思いを裏に感じさせる。

 大好きな『新古今和歌集』からは式子内親王の歌

夕立の雲もとまらぬ夏の日のかたぶく山にひぐらしの声

 伝統的に蜩には「日暮らし」という意味を掛けて使われてきた。『徒然草』序段の「日ぐらし硯に向かひて」の「日ぐらし」も、もちろん一日中ということではあるが、その背景に蜩の声が聞こえる気がする。

 そのような蜩の声を聴けば普通であれば何か物思いをするのであろうが今の俺には思うことすらないというのがこの句の心である。何故物を思わないかと言えば上五に「こころ虚し」とある通り心の中が虚ろ、何もないからである。何もないところには物思いすら出現しない。

 では何故この時の兜子の心は虚ろであったのか。恋ではあるまい。恋ならばむしろそのことで心は一杯のはず。恐らくまだ敗戦のショック、『蛇』のあとがきにある「日本の崩壊、偶像の瓦解、物心両面の廃墟のなかで、主体的な精神のよりどころを喪失した」ということではなかったか。

 

5. かまつかの紅(あけ)濃し恋ふる影と繋(つなが)る

 こちらの句は恋の句であろう。

 かまつか=雁来紅は葉鶏頭のことで秋の季語。雁が来る頃に葉の色が赤や黄色に色づくのでこう呼ばれる。鶏頭も葉鶏頭も同じヒユ科だそうだ。ただ色は鶏頭に似ていても花は小さくて目立たない。葉鶏頭の学名はAmaranthus tricolorという。

 「かまつか」というのは何に由来する名であろうか。初出は『枕草子』六四段「草の花は」に

 又、わざととりたてて人めかすべくもあらぬさまなれど、かまつかの花、らうたげ也。名もうたてあなる。雁の来る花とぞ文字には書きたる。

とある。江戸時代の歳時記には雁来紅を「かまつか」と振り仮名してあるので「かまつか」=雁来紅との認識は出来上がっていたのだろう。

 その鮮やかで美しい雁来紅の紅色を愛で、「恋ふる影」つまり恋しい人の面影に繋がるのだと詠んでいる。この恋しい人が誰であるのかは知る由もない。

 

6. 枝豆の醜(しこ)嗜(す)く姉の嫁がざる

 これはちょっとひどい句だ。まず枝豆を「醜」、つまり醜いもの、不快なものと決めつけている。さらにその枝豆を好む姉を「嫁がざる」と紹介している。これではまるで枝豆なんぞ好きだから嫁に行けないのだ、と言わんばかりではないか。

 それにしても、と思う。作者自身は枝豆が好きなのだろうか。また兜子の俳句に父と母以外の肉親が出てくることは少ないのだが、この姉のことを本当はどう思っているのだろうか。この姉のその後がどうなったのかも気になる。


★―2橋閒石の句 3 眞矢ひろみ

 蜥蜴青く睦むも涸れし泉の底   「無刻」昭和32年

 ある一点が青く生涯橋わたる   「風景」同38年

 逆流や心の襞の草青み      「荒栲」同46年

 わがいのち風花に乗りすべて青し 「卯」 同53年

 一月の山青し困った男かな    「和栲」同58年

 閒石が句に用いた語彙としては、雪、芹、蝶、白など故郷・金沢や母親に繋がるものが多いが、昭和20年代から50年代にかけては青もよく使われる。挙句はその一部だが、多義的であるため、各々の青の受け止め方は読み手に委ねられる。五句だけでは判別しにくいが、「荒栲」「卯」を境に句風は徐々に大きく変化し、これに伴い青の句は減少する。自我意識の強さによって滲んだ青が薄らぎ、大人としての遊びの中で、雪の白さだけが残るといった風情かもしれない。

 閒石の句風変化はこれが初めてではない。小学生の授業で俳句に興味を持って以来、師も持たず結社等に加わることもなく、読書からの我流で作句を続けていたが、昭和24年、連句のほだしから逃れる形で「白燕」を創刊し、連句、エッセイと並び俳句実作にも本格的に向き合うこととなる。齢は既に五十路に入ろうとしていた。京大三高俳句会が「続いていれば、播水、誓子、草城、静塔らの人々と早くから関りができていた」(*1)と悔やんでも詮なきこと。まず流派を問わず広く交わることに努め「係累の無い気楽さから自由に振る舞う」ことで耕衣、兜子、六林男、重信等と懇意となる。折しも社会性俳句、前衛俳句の興隆期を迎えており、これを支えた俳人たちとの交流の影響は「無刻」「風景」の句となって表出し、句風は激変する。当時の実験的な手法を取り入れ、無季や下六の句が多くなり、郷愁俳人の面影は消えて、思念的で不条理な世界に浸かる。自我意識の強さが土台にあるとの指摘もあるが、「風景」には自己の名でもある橋という語彙をメタファーとした句も多く、その証左かもしれない。旧派の系譜を引く俳諧宗匠と前衛俳句の取合せとなるが、閒石自身は後日「現代西欧の文学芸術に強い関心を寄せていたので、意外な事象など何ひとつなかった」(*2)とし、「そこから得た見聞と刺激とは、私の内部発展にどれほど多くの寄与をしたか」と回想している。

 しかし一方、この時期の句への評価は極めて低い。「メタファーの自壊とイメージの雑駁さが目立つ」(恩田侑布子)、「気迫で迫るでもなく、修辞で唸らせるケレンもない」(高山れおな)、「修辞の屈折が多出していて、おおかたは不成功(略)それがまた微笑ましい」(金子兜太)といった具合である。ただし次の句を除く。

 柩出るとき風景に橋かかる 「風景」

 閒石の代表句の一つ。酷評渦巻く句群の中に佇立する姿も異様だが、風景が句集の名となり、橋も用いていることから、閒石自身にもそれなりの思いがあったに違いない。柩を橋に見立てるのか、現実の橋か、現世から来世への夢幻の橋か、橋は作者のメタファーか、能の橋懸りに繋がるのか等々、想像を膨らませることができる。悪い例えかもしれないが、連句であれば、多くの可能性の中で自分なりの読みを確定させて、付けを楽しむことができそうである。

 色々な読みが可能となる要因は、「出るとき」で結ぶ平明な文体や、風景という抽象性の高い語彙の選択にある。手元の資料だけの検索だが、昭和30年代までに風景を句に入れた例は極めて少ない。元来、漢語であることに違いないが、明治に入り西洋landscapeの翻訳語として用いられ定着した。西欧文学上の風景の発見は、閒石の専門である18~19世紀のロマン派に依るところ大である。風景は単なる背景ではなく、感情や内面を映し出す鏡のような存在となる。我が国の詩歌は自然の風物に人の思いを託す手法を古来有するが、この場面でも異文化の潮流は交錯する。無論、ここでの風景とは、個別具体的な風物を集合的、抽象的に指しているのだが、句の中に風景という語彙そのものを取り込めば、客観的な対象というより、ロマン主義的な主観・自意識の反映という色合いも俄然帯びてくる(*3)。この世から見ているのか、あの世から見ているのか、具象か非具象か、二極的なアングルが混然となって読み手に迫る。

 一方、この句は約二十年後の「和栲」に見られる、悠然として諧謔味たっぷりな句風の端緒と見る向きもあり、句の性格上そういう読みも可能だろう。閒石は亡くなる直前のエッセイで「どれほど学識才能を備えていようとも、それなるがゆえに却ってその灰汁が抜けなくてはこの種の文芸の境地は望めない。(略)囚われない心が要なのである。」(*4)とある。この種の文芸とは、エッセイのほか俳句連句等の俳諧文学全般を含めると見てよい。この句には灰汁がまだ残っているようにも感じるのだが、どうであろう。


*1 「わが来し方」 『俳句研究』10月号 昭和58年

 なお、当時の閒石が接したであろう関西前衛の様子は「豈39-2 特別号関西篇 2004」に詳しい。

*2(参考)閒石は随筆等のなかで、ワーズワースの詩論が芭蕉前後の俳論と似通っていること、イェーツの「個性と非個性、具象と非具象とが手を握る次元における客体、そういった意味の「物」に行きつこうとする態度に」深く共鳴すること等に言及し、パウンドやローウェル等イマジストにおける俳諧の影響等について、詩を引用しながら具体的に分析している。金子兜太は昭和30年代半ばごろ、閒石から、己が俳句観を裏付けるために欧米の文献も読むよう諭されたことを述懐している(「橋閒石全句集」栞 平成15年)。

*3(参考)「風景の発見」『日本近代文学の起源』柄谷行人 昭和55年

*4 「俳諧余談」 白燕俳句会 平成21年


★ー5 清水径子を読む3 佐藤りえ

 降る雪の中に薄給わたさるる

 引き続き『鶸』より。初出は「氷海」昭和29年3月号〈雪の中にて薄給を渡さるゝ〉。

 詩語としてなじみ難そうな「薄給」の一語が、「降る雪」も相まっていよいよ悲しい。現金支給の給料袋を、はかなさのあまり受け取り損ねてしまいそうである。

 この前年(昭和28年)、社会性俳句の話題が総合誌「俳句」などで取り沙汰される時期にあるが、この句はその枠組みには入らないように思われる。昭和27年、「氷海」発行所のあった大同社を辞した折には「耺はなれ春の浮雲小さけれ」「耺欲しや雪後の灯あしもとに」(句集未収録)と詠んだこともあった。「薄給」も「耺欲しや」ももちろん実感を表しているが、「降る雪」「春の浮雲」「雪後の灯」といった季感、それも詩的な状況のなかに置かれ、リアルな境涯詠とは一線を画している。ただし、自らの句境を詩的な世界へ抛り、幻想に浸ろうということでなく、作品として成立させる緊張感、美感によって統制されているものと感じる。

 樹がなくて音がして降る工場の雪

 前出句と同じ「氷海」昭和29年3月号の「工場」一連が初出の句。

 庭木であれ、里山であれ、樹木に降る雪は音立てて降る、という感じはあまりしない。雪が降っているのに気づくのは、窓からにしろ、表へ出た折にしろ、それを目にした時である。

 掲句はトタンか金属か、建造物に雪もしくは雪雫が当たり、見えないながら雪が降っていることを室内で感じている景と取れる。

 同じ一連に「足袋継ぐも物書くも壁壁が向く」(句集未収録)がある。工場の室内、それも窓のない部屋で忙しく働くうち、普段感じない何かの音がしているのに気づく。あるいは、工場の作業音の止み間の出来事だったろうか。見えないけれど、外は雪だ。積もる樹もなく、雪は建物と雨樋を経て側溝へ排出される。

 高度成長期に差し掛かろうとするこの時期、径子の住まう東京はインフラ整備、工業発展などにより環境汚染、公害が進み、人間は自然を置き去りにしつつあった。「あはれ」でも「みやび」でもなくとも、雪は降る。現在性を強く感じさせる一句。

『鶸』には雪の句が30句収録されている。第二句集『哀湖』以降に比べて格段に多い割合である。

 降る雪の見えぬ部屋にて落付けず 「鏡」

 雪を掻き舗道の新しき十字 〃

 生きて朝ぬくきこの一面の雪 「火の色」

 雪、寒さといった事象がこの時期通奏低音として径子の中に流れている。「氷海」昭和29年7月号の女流特集に「現在四十四才勤人、文京区西片町に自炊す。」と記した径子の戦後も、厳しい雪に降られながらの道程だった。


●―10 現代の句集(清水径子余論)/筑紫磐井

 佐藤りえの「清水径子の一句」の掲載に当たり、清水の第1句集『鶸』(牧羊社昭和48年刊行)について質問を受けた。「処女句集シリーズ」と銘打っている理由である。牧羊社の処女句集シリーズには若干情報が錯綜しているところがある。いくつか回答したのだが、それらをまとめてそもそも牧羊社という俳句出版社の概要について述べておいた方がいいのではないかと思われた。角川書店の俳句界における貢献や迷惑はよく知られているが、特に昭和期後半の牧羊社の位置づけを知らないと、現代俳句のありさまが見えてこないからである。一言で言えば、昭和40年代以降のシリーズ方式で名句集を噴出させたのが牧羊社であったのである。

 簡単に言えば、牧羊社という新興俳句出版社は目覚ましい出版活動を果たし、戦後派作家のアンソロジーを出した。特に、40年代後半の【現代俳句15人集】というシリーズで、高柳を除くほとんどの戦後俳人を網羅した感があり、このシリーズにより戦後俳句派は脚光を浴びることとなったと言ってよい。


【現代俳句15人集】

➀『忘音』飯田龍太[雲母]【読売文学賞受賞】

➁『竹取』石川桂郎[風土・鶴]

➂『操守』石原八束[秋]

④『冬濤以後』稲垣きくの[浜]

⑤『真名井』加倉井秋を[冬草・若葉]

⑥『神々の宴』角川源義[河]

⑦『暗緑地誌』金子兜太[海程・寒雷]

⑧『素志』 香西照雄[万緑]

⑨『沖縄吟遊集沢木欣一[風・天狼]

⑩『夏帯』鈴木真砂女[春燈]

⑪『二人称』津田清子[天狼]

⑫『鳳蝶』野澤節子[(蘭)・浜]【読売文学賞受賞】

⑬『枯野の沖』能村登四郎[沖・馬酔木]

⑭『白面』藤田湘子[鷹]

⑮『花眼 』森澄雄[(杉)・寒雷]


 大事なことは、読売文学賞はそれまでほとんど歌人ばかりがとっていたことで、ごくまれに松本たかしや石田波郷も受賞したが、水原秋櫻子も中村草田男も受賞できなかった。【現代俳句15人集】で初めて読売文学賞が受賞できたことである。このメンバーの中で、後年森澄雄や鈴木真砂女も受賞しているからこの顔ぶれが強力であったことはまちがいない。始めて俳句が短歌に追いついた事件だった。

 【現代俳句15人集】は引き続く中堅の処女句集シリーズに影響を与えている。【現代俳句15人集】の結社構成に準じて第1句集を出していない作家から中堅の「処女句集シリーズ」が編まれ、この中に清水の第1句集『鶸』があるのである。

 ちなみに牧羊社の「処女句集シリーズ」は2種類あり、昭和40年代末のシリーズは中堅俳人対象のもの、昭和60年度初頭は新人対象のものである。【処女句集シリーズ(中堅)】のラインアップを見てみよう。


【処女句集シリーズ(中堅)】

➀『白繭』櫛原希伊子[浜]

➁『愛鷹』中拓夫[寒雷・杉]

➂『海上』桜井博道[寒雷・杉]

④『月見草』嶋田摩耶子[ホトトギス]

⑤『鶸』清水径子[氷海]

⑥『海の記憶』鈴木詮子[秋]

⑦『海の石』須並一衛[雲母]

⑧『生国』竹本健司[海程・國]

⑨『風色』成瀬桜桃子[春燈]

⑩『石階』橋本美代子[天狼]

⑪『完流』平井さち子[万緑]

⑫『鳥語』福永耕二[馬酔木・沖]

⑬『傷痕』細川加賀[鶴]

⑭『雪浪』本多静江[雪解]

⑮『猿田彦』松本旭[河]

⑯『避暑散歩』森田峠[かつらぎ]


 私の知らない作家は誰一人おらず、また中堅というよりは大物も混じっている。この中で印象に残るのは、沖にいた福永耕二で私もいろいろ教わっている、これも名句集である。

 面白いのは、これほどの中堅・大物がいい年をして初めて処女句集を出していることで、その後のくちばしの青い新人たちがわれもわれもと句集を出しているのと対照的である。句集の考え方がわずか10年ぐらいの間に大きく変わったのである。清水径子もここに上がっている。

 少し中休みのようになるが、実はこの「処女句集シリーズ」(【処女句集シリーズ(中堅)】)に引き続き、牧羊社は「精鋭句集シリーズ」という企画も刊行している。


【精鋭句集シリーズ】

➀『火のいろに』大木あまり[河]

➁『氷室』大庭紫逢[鷹]

③『絢鸞』大屋達治[豈]

④『鵬程』島谷征良[風土]

⑤『花間一壷』田中裕明[青]

⑥『メトロポリティック』夏石番矢[未定]

⑦『窓』西村和子[若葉]

⑧『海神』能村研三[沖]

⑨『古志』長谷川櫂[槇]

⑩『銅の時代』林桂[未定]

⑪『芽山椒』保坂敏子[雲母]

⑫『午餐』和田耕三郎[蘭]

(これらは必ずしも第一句集ではない)


 【現代俳句15人集】【処女句集シリーズ(中堅)】につぐ世代として、牧羊社が売り出したい新人だったことは予想がつく。このラインアップもほとんど現在でも知られている俳人であり、前2つのシリーズの編集方針を継いでいることは間違いない。

 しかし、ここから牧羊社の経営方針が大きく変わる。【処女句集シリーズ(新人)】が出るのだが、その物量から言ってもこの「処女句集シリーズ」が驚異的であったことは否めない。【精鋭句集シリーズ】が戦後俳句世代(飯田龍太や金子兜太ら)やそれに次ぐ準世代の後継を発掘育成しようとしていたのに対し、「処女句集シリーズ」は「結社の時代」を予見するかのようにあらゆる結社の内部にくさびを打ち込み若手を無秩序に発掘しようとしていたのだ。その意味では、かつて「特集・俳句の未来予測」で、私は「巨人の時代は終わった」と述べたのだが、巨人の時代から、巨人のいない時代に向かっての潮流を作ったということが出来るかもしれない。

 経済的に恵まれない若い世代に句集を出版させるため、魁に当たる【処女句集シリーズ(新人)Ⅰ】を59年から出版開始した(全56巻)。総ページ70頁、収録句数200句程度、安価なペーパーバックスで定価1000円と【精鋭句集シリーズ】に比べてかなり簡易である。当時このシリーズで第一句集を刊行した作家は現在の60~70代作家のかなりを占めていると言ってよいだろう。句集名と作家名をあげてみる。ただここに掲げた作家たちは、その後の著名俳人もいるが、多くが行方がよくわからない。様々な流転の人生をたどっているわけで、【現代俳句15人集】【処女句集シリーズ(中堅)】【精鋭句集シリーズ】と違う俳句人生を歩んでいるらしいのである。従って所属結社[]はここでは上げない。


【処女句集シリーズ(新人)Ⅰ】

➀『明日』赤松湘子

➁『仁王』新井康村

➂『藍』荒巻日出子

④『早婚』石毛喜裕

⑤『花折々』五十嵐貞子 

⑥『風の扉』稲田眸子

⑦『北限』今井聖

⑧『坐』岩月通子

⑨『走者』遠藤真砂明

⑩『自分史』大槻一郎

⑪『山径』岡本欣也

⑫『満月の蟹』金子青銅

⑬『全身』金田咲子

⑭『雨の歌』片山由美子

⑮『潤』鎌倉佐弓

⑯『華』加茂志津子

⑰『藤房』唐沢富貴子

⑱『海月の海』久鬼あきゑ

⑲『水路』窪田久美

⑳『構図』黒部祐子

㉑『みむらさき』斉藤芳子

㉒『海図』佐野典子

㉓『花に燃え』塩田恭子

㉔『紐育にて』柴原美紀子

㉕『太山抄』白井真貫

㉖『風花』杉浦東雲

㉗『月明の樫』鈴木貞雄

㉘『深雪』関久江

㉙『冬椿』谷中隆子

㉚『環状陸橋』田村千代子

㉛『水晶』千葉孝子

㉜『桃』辻桃子

㉝『雪舞』外川 玲子

㉞『父子』富田正吉

㉟『喇叭音』永野史代

㊱『風の的』中村尭子

㊲『赤鉛筆』中村姫路

㊳『花摺』西坂三穂子

㊴『風の調べ』二塚元子

㊵『海星』長谷川登美

㊶『シャガ-ル展』羽鳥美奈子

㊷『湖神』福沢宏子

㊸『清世志苑』福嶋延子

㊹『破魔矢』星野高士

㊺『青垣』前川菁道

㊻『目礼』松田小恵子

㊼『妙光』松田貞男

㊽『平均台』松永浮堂

㊾『十一月』松本康男

㊿『銅鐸』三井量光

51『火事物語』皆吉司

52『雪の音』宮川みね子

53『魚と遊びし』山上カヨ子

54『山日』横岡たかを

55『深秋』吉田成子

56『手足』龍野龍


 【処女句集シリーズ(新人)】は以後平成5年ごろまでⅡ~Ⅷと出され、収録作家だけで二百名近く、中にはⅠに劣らぬ多くの作家を輩出している。主な作家と句集を掲げて見よう。


Ⅱ⑤『砧』小澤實⑧『鶏頭』岸本尚毅 

Ⅲ③『さくら』いさ桜子⑤『神話』遠藤若狭男⑩『髪』佐怒賀直美⑭『愛国』対馬康子 

Ⅳ➀『海彦』赤塚五行⑥『岳』石島岳⑨『日差集』上田日差子⑯『海市』小林貴子㉖『浮巣』中岡毅雄㉗『蛍の木』名取里美㉚『檸檬の街で』松本恭子 

Ⅴ➁『鶴の邑』藺草慶子⑧『気流』大竹多可志⑳『虎刈』寺沢一雄㉓『陽炎の家』高野ムツオ㊼『一葉』山本一歩㊾『雪意』若井新一 

Ⅵ➀『祭酒』山口剛⑦『水を聴く』高浦銘子


 さて、【処女句集シリーズ(新人)】は【精鋭句集シリーズ】のライバルに当たるわけだが、後発簡易版の【処女句集シリーズ(新人)】のメンバー、金田咲子、片山由美子、鎌倉佐弓、鈴木貞雄、星野高士、小澤實、岸本尚毅、小林貴子、高野ムツオらが、【精鋭句集シリーズ】らに劣るわけでもない。またその後、東京四季出版においても「新鋭句集シリーズ」(全30巻)を刊行しているし、単発で句集刊行した正木ゆう子、中原道夫もいた。出版社の企画そのものが意味があったわけではなく、それに呼応して生まれた時代の雰囲気が大きかったというべきであろうか。 


●―15 中尾寿美子の句 1/横井理恵

 2011年から始まった「戦後俳句を読む」のシリーズで横井理恵さんに「中尾寿美子の一句」の鑑賞を行っていただいたが、2025年からの【評論研究】での参加には、メールの不通でご返事がいただけなかった。しばらくしてから、佐藤りえさんが【清水径子の一句】を開始するに当たり、是非中尾寿美子も併せて読みたいという気持ちが強まった。これは佐藤さんも同感という事であった。なぜなら、二人は「氷海」、その終刊後「琴座」と双生児の様に歩んだ女流としてよく知られていたからだ。径子を知るためには寿美子を、寿美子を知るためには径子を研究する必要がある。今回遅れたが、横井さんから掲載の了解を得られたので【新評論研究】として掲載することとした。(筑紫磐井)

    *

 天為の横井理恵です。お仲間に加えていただきましてありがとうございます。

 天為の二百号記念特別号の特集「検証・戦後俳句――もう一つの俳人の系譜」で中尾寿美子を担当するまで、寿美子についてはほとんど何も知りませんでした。俳句文学館に通って資料を集め、ひたすら作品と向き合ううちに、私が少女時代を過ごした天沼に住んでいたこと、やや土地勘のある新座が終の地であったことなどを知り、親しみを感じるようになっていきました。切り口について考えあぐねていた時に、天為の会で、ある方から「寿美子の句ってわかんない!」と言われ、この人に、「なるほど、わかった!」と言ってもらいたい、という思いを強くしました。寿美子の軌跡と俳句というモノの在り方とは、あたかも年代を追って並べられた絵画展を見るように、必然を感じさせるものとして展開していくのです。その妙味を広く知っていただくことができたら幸せです。

 中尾寿美子:大正8年生まれ、平成元年没。その生涯は軽やかな転身と言えるでしょう。

    *

中尾寿美子の句/横井理恵

 霞草わたくしの忌は晴れてゐよ   中尾寿美子

 「死」というテーマを与えられた時、最初に頭に浮かんだのは「時代の死」であった。

 「戦没の友のみ若し霜柱(三橋敏雄)」
 「前ニススメ前ニススミテ還ラザル(池田澄子)」

 死者が近しい人であれ見知らぬ大勢であれ、戦没者たちはある時代の象徴であり、それぞれの個を太い筆でべったりと塗りつぶされた存在に見える。時代に殺サレタ人々への思いは同じ色調を帯びるように思われるのだ。今回東日本を襲った地震と大津波による死者もそうだ。誰かの友であり誰かの家族であり、一人一人に紡いできた物語がありながら、あの黒い、あまりにも黒い海の水に巻き込まれ、全ての人が一色に塗り込められてしまった。「時代の死」は私たちに問いかける。「おまえに責任はないのか」「なすべきことは何か」と。答える術のない問いをつきつける――それが「時代の死」だと思う。

 寿美子の句にはその意味での「死」は見られない。寿美子は敗戦引き上げを体験した世代であるが、俳句をはじめたのは戦後であり、日本の高度経済成長期である。最も「時代の死」から遠いところで寿美子は生き、作句していた。だから、今回のテーマでは書けないのではないかと最初は思った。しかし、よくよく考えてみると、「死」とはきわめて個人的なものである。むしろ「時代」によらない「死」こそがあるべき姿なのかもしれない。

 時代背景を無視することはできないにしても、生者は時代に塗りつぶされることなく自らの物語を紡いでいく力を持つ。戦後を生きた女性としての寿美子は、きわめて純粋に個人的な「死」を見ていたと言えるだろう。そんな一個人における「死」をテーマに、寿美子の句を見てみよう。

 人は生きていれば必ず誰かの死に出会い、やがては自らの死を迎える。寿美子の句において最初に出会った「死」は俳句開眼の師高木風駛の死であった。

 冬ばら抱き男ざかりを棺に寝て     『天沼』

 「高木風駛師急逝一句」という前書きのあるこの句の破調は、定型という器に納まらぬ溢れだす哀切の響きを持っている。人は死ぬときを選べない。生きてあることは親しい人の死に出会うことと切り離せない。俳句によって「今ここを生きる」道を歩み始めた寿美子は、そのことをかみしめていただろう。

 第二句集『狩立』から第三句集『草の花』にかけて、寿美子の句には「老婆」が多く登場する。鷹羽狩行は、「寿美子には老婆の句が多い。それのみならず、自分を老婆と類客観視する。」と書いている。そして同時に「死」という文字を句の中に入れた句、「自らの死」をモチーフにした句を作り始める。

 咳けばまさしく日本の老婆風の中   『狩立』

 梅林の余白に婆の影法師      

 死なば樹にならんと思ふ朧の夜     

 婆の死後野の涯にさく白菫      『草の花』

 桜冷ゆ瞑ればすぐ死ねさうに

 死後の景すこし見えくる花八ッ手

 冬耕のいつしか風になる老婆

 「生老病死」の「老」と「死」を見据えながら生きる寿美子であるが、これらの句は受け手にとってちょっと重い。見る目が据わっているかのようだ。それが、軽やかで楽しげな視線に変わっていくのが次の第四句集『舞童台』である。

 余生とは菜の花に手がとどくなり    『舞童台』

 老人も鶯である朝な朝な

 つばな笛黄泉明るむと思はずや

 鶯やことりと吾れに老いの景    

 明るく光のさす句が並ぶ。そして、第五句集『老虎灘』を象徴するのは「白桃」である。

 夢の世やとりあへず桃一個置く     『老虎灘』

 白桃にならんならんと鏡の間

 媼いま桃のひとつを遡る

 天元に白桃ひとつ泛びゐる

 みずみずしい「白桃」とその萎びかげんは、ユーモラスでまろやかな感覚に満ちている。自嘲的だった「婆」も今や雅びやかな「媼」となり、晴々と世界と交感しているのである。

 そして、掲句。

 霞草わたくしの忌は晴れてゐよ

 やがて来る自らの「死」を、寿美子はこんなに晴々とうたっている。今をしっかりと生きていれば、死でさえもこんなに晴々と思い描くことができるのだ。寿美子の句はそのことを教えてくれる。私たちは「時代の死」に立ち会わなかったことを、死者に含まれなかったことを気に病む必要はないのだ。あくまでも「個人的な死」を意気揚々と迎えることこそ、真に生きることなのだから。


【連載】現代評論研究 戦後俳句史を読む(第7回)・戦後俳句史を読む(私性②)

吉澤・北村・堀本


吉澤:前回の問題に戻ってみて、一部では《作中主体=作者》という構図から抜け出る動きも目立ちつつある。

 23ページのメロン図について       森茂俊

 カモメ笑うもっともっと鴎外        小池正博

 ララランリリリンララルラ曲がり切りなさい 兵頭全郎

 これらの句は日常的な意味や経験にも結びつかないし、作中主体が作者ではないのは明らかである。

北村:まあ音で言えば、70年代後半のロック、パンク・ミュージックみたいなものだ。パンクの場合は、以後に最も影響を与えたジョニー・ロットンなどは、髪を緑に染めているのを見込まれてセックス・ピストルズというグループにスカウトされたという伝説があるぐらいで、壮大な技巧主義に陥っていたロック界に対する反逆となっていた。だから音は直線的で非調和だけども、歌詞は(モーレツ否定的な)メッセージに満ちている。

 上の吉澤の挙げる川柳は、自己の確立とか、主題主義といったものからの訣別を目指すものであって、文章として意味を結ばない。茂俊の句など、文脈もないから当然作中主体どころではない。川柳ばなれしたクールなデザインがメリットだろうか。

 このような句も、変わりたいという志を持つ川柳人の空気に置いて読むと、意味の外で作者の志向が見えてくる。それが推察できれば、全郎の句の「曲がりき」ることを勧めている意味さえ現れてくる。でもそれは深読みで、作品の独立性という点では弱い。明るさが取り柄であることは言うまでもないが。私の古い知己である正博の場合は、この句は鴎のくすぐりでナンセンスをつないでいるが、本来周到な技巧派と見る。パンクのメッセージのようなものも浮いてしまう時代、詠み方も読み方も難しいね。

 ところで、このような文脈をたどれない句は、当然俳句にもあったと思うんだけど、どうなんだろうか。「未定」なんかではどうですか。

堀本:意図的に方法として、意味の攪乱を試みているのは、古いところでは、

 島津亮(意味の攪乱句の宝庫)、晩年に到るまで、前衛俳句時代の痕跡を残す。

 ひかる乳房へ棒状の黴もつ目 (『紅葉寺境内』昭26)       島津亮

 皇居・むらさきの陰茎の苔を刺繍する(昭34〜5)   

 いつか来るキャベツ畑にジェノサイド  (平成7〜8遺遺構)

  ※出典 死後家族編集になる「島津亮の世界」より

 さすがに、亮も晩年はだんだんわかりやすくなっているが、初期の感性を最後まで貫いている。加藤郁乎が、彼らの同人誌に、本来的な意味で前衛のなにふさわしい、といったことがある。


 赤尾兜子(仲寒蟬の鑑賞に注意していてほしい。)

 広場に裂けた木 塩のまわりに塩軋み   赤尾兜子 

 髪の毛ほどの掏摸消え赤い蛭かたまる  赤尾兜子


 堀葦男(堺谷真人の鑑賞に注意していてほしい)

 ぶつかる黒を押し分け押し来るあらゆる黒  堀葦男『火づくり』


 彼らこそ、前衛俳句の中心になったひとたちで「旗艦」から「靑玄」、「天狼」から「雷光」、「梟」、「夜盗派」「縄」、と言うように転成したり解体したり別れたりして、おもに、同人誌に拠って彼らの句は発表の場を得ている。そういう前衛俳句時代の雰囲気の影響下に攝津幸彦、坪内稔典、大本義幸、らが、「日時計」「黄金海岸」という戦後世代の同人誌をだしはじめ、これもいくつか変転して現在の表現につながってきている。

 それから、重要な戦後作家として、加藤郁乎、阿部完市の二人の存在は忘れられない。

 ふらここでのむあみだぶつはちにんこ 加藤郁乎『形而情学』

 豊旗雲の上にでてよりすろうりい 阿部完市『軽のやまめ』

 郁乎については仁平勝が言葉あそびとしての俳句、完市については川名大が『現代俳句』などの熱心な解説で多少理解できるようになった。次に述べる、攝津幸彦などは、明らかに先代の彼ら前衛俳句から刺激を受けて色々な言葉遊びやシュールリアリズムの試行を重ねている。


坪内稔典、攝津幸彦、大本義幸等の同人誌「日時計」

 「発行所尼崎市南塚口町1−26−27坪内方」。頒価200円。同人には、1971年坪内稔典、攝津幸彦、ほか、澤好摩。矢上新八、鶴田(三宅)博子、糸山由紀子、馬場善樹など。見ていると隔世の感有り。

攝津幸彦「日時計」8号【攝津幸彦作品特集】より

《流体力学上、中、下》

 自殺系空中きりんうるむなり 《流体力学 下》。

 ゆふりらべのむどぼくりのゆふりらべ 《宙毒》

 やむなびびろふぞくけさむばろふぼふ 《宙毒》

  (と、以下17字の文字1行で21行の構成となっている。)


 これらは、ある種の身体感覚をくすぐる、ので、そういうところで読者に意味をつむいでほしかったのかもしれない。要は、この実験意識を是とする青春期の詩と俳句への関わり方が、現在へ導いている。

 お断りしておきたいことは、この例示は、当時の薄っぺらな同人誌「日時計」本誌の引き写しである。後に出される『鳥子』や『全句集』では、旧仮名文語文法に改められており。捨てられた句も多いが、原点という意味で発表当時のまま挙げている。攝津や坪内稔典らはこういう風に初期の実験俳句を通ってきている。この例示した「句」配列に、一貫したルールがあるのか、でたらめなのかどうかは不明。意味がとれそうなところがあるので、あるいは島津亮の句にあるような〈パズル解く檻と縞馬しばしば換え・亮〉、のたぐいの種明かしがあるのかも知れないが、暇な人は考えてみてほしい。ただ、これではとても大向こうの一般的な俳句の観念や俳句史の常識に拘る人たちの共感は得られない。しかしながら、狭い範囲であっても、既成の文学観へのアンチテーゼをもとめるその姿勢を共有したであろう、と推察する。現在だってあり得ることだ。

 「京大俳句」の上野ちづこが《意味からの遁走》という評文で、文化的価値観(パラダイム)が変わってきていることを主張した、そういう二十世紀末の時代思潮を反映している。

 攝津幸彦がとある日の雑談でいっていたことでは、赤尾兜子の「第三イメージ」という考えを、第五第六イメージあたりまで降りていきたかった、そうだ。だから、彼には、意味をまとめようとする志向はあるのだ。ただこの頃の「日時計」など同人誌は、それぞれが自分の方法を模索し自己決定しているのだから、「新しい俳句」と言う場合の幅や方法意識の多様性も、考えに入れておかねばならない。吉澤が挙げた川柳人達の言葉の配列のしかたや構想には、言葉遊び、ライトバースと言う意味で、前衛俳句の作家や戦後世代俳句青年の表現解体のあり方と似ている。川柳の今、と相通じる状況であると思うのだが、如何?

 彼らが、おとなしく結社で勉強していたなら、けっしてこういうかたちでは出てこられなかったはずだ。

 旧来の制度が古くなれば、同人誌などで、現況を撃革新の砦という使命感が強くでてくる。その意味で自由でありポレミークである、と言う無私の爽やかさがある。

 私性という問題への切り込み方は、これも時代に拠って重点が違ってくるのではないだろうか。

 戦後の前半の「前衛俳句」には、私=自我の統合主張を強く感じ、ニューウエーブには自我解体のいわば「私捜し」の迷いを見る。

 現在の川柳の新人達がどういう意味で作る「私」を構想し、そのもとに作品世界に虚構の「私」を入れ込んでいるのか。吉澤さんの分析などですこしづつあきらかになるだろう。

吉澤:上野ちづこの《意味からの遁走》という評文のことは知らなかったが、《意味からの遁走》という言葉で言っていることは何となくわかるような気がする。川柳では「意味」という言葉がそもそもきちんと定義されていないと私は思っている。ある言葉がある意味内容を表すという、シニフィアン(記号表現)とシニフィエ(記号内容)の日常的な関係の範囲の中で「意味」という言葉が使われているように思う。極端な言い方になるが、前衛とはこの日常的関係を壊すことから始まったのではないか。摂津の「流体力学」の句を見るとそのように思える。よくは知らないが、堀本のあげる攝津の「やむなびびろふぞくけさむばろふぼふ」という句は評価されているのか?

 現代詩でも70年あたり以降のシュールレアリズムは、はっきり言って私にはついていけない。川柳でも表現解体が試行錯誤されているのだが、「やむなびびろふぞくけさむばろふぼふ」という形にはならない。誰も読んでくれないからだ。川柳の試みはさまざまにあるだろうが、とりあえず一つあげると、日常的な意味からの離脱という形がある。

 オルガンとすすきになって殴りあう   石部明

 びっしりと毛が生えている壷の中

 縊死の木か猫かしばらくわからない

 桜山らんぷは逆さ吊りがよい      清水かおり

 エリジウム踵を削る音がする

 果実を食べると海越えてくる蛇

 おそらくこれらの句は、日常的な言葉の意味に着地しない。「オルガン」や「すすき」が何を意味しているのか、「毛が生えている壷」とは何の象徴か、「逆さ吊りがよい」のはなぜか、などと考えても、あまり意味はないのではないか。無理やり解釈しようとすればこじつけられないこともないだろうが、無理やりの解釈では肝心なものがこぼれてしまいそうな気がする。しかし、コトバとコトバのつながり方によってもたらされる、ある感じがある。それを説明するのに、日常的な論理や意味では無理なのだ。堀本が(第6回)で「何かを喩えていたとしても、俳句からというより「詩」としては物足りないと感じることが多い」と言っていて、ほとんどの川柳はその通りなのだが、川柳の一部では、このように「直接的に」何かに結び付けにくい句も書かれている。仮にこれらが喩であるとしたら、狭い意味の喩ではなく、世界そのもののありようの喩とでもいうべきだろう。

堀本:吉澤の「よくは知らないが、堀本のあげる攝津の〈やむなびびろふぞくけさむばろふぼふ〉という句は評価されているのか?」という疑問について。

 このフレーズが「句」なのか、詩の一部なのか、もはやよくわからない。当時の批評も見あたらない。

 ただ、私は、攝津幸彦が、戦後世代の前衛俳人と言われる理由を了解するのは、こういう『鳥子』以前の模索の事例をみるからである。私がであったときには、彼はすでに、『鸚母集』のころで、すでに、形式という観念を受け入れていた。その時期からの彼に前衛性を認めるとしたら「しずかなる壇林」をめざす、俳諧師に足を突っ込んでいる立ち位置であった。しかし、若い日にこのような、チョー現代詩的な逸脱を試みた、ということがやはり、攝津幸彦に、転向と気づかせないハイレベルの転向を可能にさせたのである。それが前世紀末(昭和時代後半に成熟した団塊の世代のー「俳句ニューウエーブ」の存在理由だ。この軌跡と私性がどう絡むか、次の回で意見交換しよう。

【連載】現代評論研究:第7回各論―テーマ:「音」その他―  藤田踏青、土肥あき子、飯田冬眞、堺谷真人、岡村知昭、しなだしん、筑紫磐井、北川美美、深谷義紀、吉村毬子

 投稿日:2011年07月22日 


●―1 近木圭之介の句/藤田踏青

 大寒、かぜの中まぎれなく鉄うつ音のす

 人臭い港。 シャボン玉に似る汽笛がいい

 開高健が大江健三郎といっしょにモスクワに行った時の話である。開高はその中で「朝から晩まで毎日毎日おなじものを食べているせいであろうか、私がブウと鳴らすと彼もブウと鳴らし、ひょいと顔をだして、いまのはフランス語では“ブリュイ”というのでしょうか、”ソン“というのでしょうかと聞く。音響学的には前者でしょうが会計学的には後者でしょうと答える。*」と書いており、面白い分類である。音響学は音の成因、性質、作用などを研究する物理学の1部門であり、音色などが身体に影響を与える音響生理学などにも関連している。一方、会計学は財政状態と経営成績とに関するもので、音響学と会計学との間に「人間」を据えた場合には、それぞれが生理学的状況と経済水準状況によって「人間」が影響される事を示唆しており、判断分析の起点の相異がもたらす概念の位置付けを示している。

 前句は昭和24年の作であり、戦後に生きる人間の姿が「鉄うつ音」を通して力強く浮び上ってきており、「鉄うつ音」は数字にも還元されるものであろうから、これは会計学的分類に入れても良いかな、と考える。この作品に先立って栗林一石路の「鉄を叩いて人間が空のどこかにいる(昭和4年作)」の句があり、圭之介はその作品も意識していたのではないであろうか。

 後句は平成16年の作であり、人臭い港といっても戦後の様な重苦しい生活感はそれほど感じられない。それは句読点、一字空白などの手法でかなり詩的にまとめられている事にもよるのであろう。そしてシャボン玉の球面に次々に現れる光彩の如く、様々な汽笛の音色にも軽快さがあり、「音」に焦点が集約されているため単純に音響学的分類に入ると思われる。

 銅版画の挿絵。何処かの林で寂しい風が吹いていた   昭和52年作

 木の実が鳴るのは無意味におもえたが         平成2年作

 これら両句の「音」は異空間の中で鳴り響いている。作者にとっての今現在という空間と、それに呼応するかのような過去というか、デジャビュのような空間がそれである。眼前にある銅版画の挿絵の中に吹く風、そして記憶の中の林で吹いていた風。頭上で木の実は鳴っているが、空白の頭の中では無音でしかない存在。無意味の意味を圭之介は追い求めているのであろうか。

 月が明るく暗い指で鳴らす楽器            昭和30年作

 耳を喪った月 時間が木々に明るい          昭和52年作

 前句の月の明るさがもたらす楽の音は、暗い思いの回復につながる要因となろう。後句の月の沈黙は時間を透明にし、無音の安らぎと内的な曙光へと導いてゆくのであろう。月の能動的な面と受動的な面との照応が懐かしいもののようにもたらされてくる。

 *「現代日本文学大系・開高健集」筑摩書房・昭和47年刊


●―2 稲垣きくのの句/土肥あき子

 三時間ドラマ三時間見て夜の秋

 昭和55年11月号の「春燈」に掲載された作品である。

 きくのは蒲田松竹のサイレント時代の映画女優であった。その後トーキー作品となってからは『春琴抄』(1935)と『家族会議』(1936)の二本しか出演作品はない。松竹が蒲田から大船に移転する機会に、20代で見切りをつけたような女優業だったが、年代というよりサイレントからトーキーへの大きな転換期についていけなかったのかもしれない。女優時代を振り返るような文章を一切残していないきくのではあるが、昭和14年東宝映画が開設された頃には

 すみれ好き東寳が好き嫁仕度(「縷紅」昭和14年9月号)

があり、また

 映画みにゆく出来こころ柳の芽(『榧の実』)

など、女優を辞めたあとも、映画は好んで観ていたようである。

 しかし、掲句の〈三時間ドラマ〜〉の句では、ドラマ自体には積極的な興味も期待もまるで込められていない。見るでもなくつけていたテレビドラマを、エンディングまで見てしまったのだ。気がつけば映画よりずっと長い、3時間という時間を無為に過ごしてしまったことに、我ながらあきれ果てているといった風情である。人恋しさに音を求め、またストーリーを追ってしまったことへ、秋の夜長というだけではない、女優をしていた身ゆえのわびしさと自嘲がにじむ。

 映画監督でもあり同結社「春燈」の同人でもあった五所平之助が1981年に亡くなった折り、きくのはテレビの追悼番組に出演した。カメラ慣れしているはずのきくのは、出演者のなかでも際立って凛として美しかっただろうと想像したが、実際には画面の向こう側のきくのは、どこか居心地悪そうに、四方から映されるカメラに終始緊張の面持ちであったという。


●―4 齋藤玄の句/飯田冬眞

 木の暗〔くれ〕の暗き主に呼ばれをり

 昭和53年作。第5句集『雁道』(*1)所収。

 年譜によるとこの年の春、玄は体調に異常を覚え、砂川市立病院に入院。直腸がんの診断を受けている。4月12日手術。7月5日に再手術を受けている。全句集の配列を見る限りにおいては、掲句は7月の再手術直後の作と思われる。

 一読して不意を突かれた作者の不安な心象風景が、ぺたりと貼り付いてくるような不気味な読後感がある。夏の木立の下闇がみえてくるとともに湿った土のにおいが鼻腔によみがえる。ことに中七下五の「暗き主に呼ばれをり」の幻聴が、句全体に死の予感を漂わせ、象徴詩の趣すら与えている。

 掲句は発表当時、特定の季語を持たない無季作品と解されていたようだ。それは、飯田龍太が「『雁道』の秀句」のなかで〈特定の季語を持たぬが、作品内容から「木の暗〔くれ〕」は下闇、あるいは木下闇と解すべきだろう〉(*2)と記していることからもうかがえる。現在では『角川俳句大歳時記』等が「木下闇」の傍題として「木の晩〔くれ〕」を取り上げており、掲句が用例として挙げられているものもある。ある意味、掲句が詠まれなければ季語「木の暗」は存在しなかったといえる。龍太が「木の暗」を「下闇、あるいは木下闇と解すべき」とした根拠は、不明だが、おそらく『万葉集』の歌が念頭にあったのではないだろうか。というのも、「木の暗」の詩歌における用例を探すと『万葉集』巻8の1487番歌「霍公鳥〔ほととぎす〕思はずありき木の暗〔くれ〕のかくなるまでになにか来〔き〕鳴かぬ 大伴家持」にまでさかのぼるからだ。

 ちなみに『万葉集』において木の下闇の意で用いられる「木の暗」「木の晩」を含む和歌・長歌は10首あり、そのうちの7首に「ほととぎす」が登場する(*3)。「ほととぎす」は、死出の山を越えてくる鳥、冥途の鳥と伝えられてきた。つまり「死」を象徴させる鳥である。若い頃から日本および西洋の詩歌に耽溺してきた玄にとって、そのことは周知のことだったはずだ。木下闇でほととぎすの声を聞いたという実体験を万葉歌の伝統を踏まえて「死出の田長」から「冥途の主」、「暗き主」と詩語に昇華させたのではないか。

 そう考えるならば、なぜ玄が、上五を「下闇の」あるいは「木下闇」とせずに「木の暗」としたのかが理解できるだろう。飯田龍太が言うように「下闇では主〔あるじ〕に輪郭がありすぎてしまう」「暗〔くれ〕と暗〔くら〕きと、その異音の屈折に托した情念に作品のいのちがある」から(*2)とするのが妥当な解釈であるのだろう。そのことに異論はないのだが、ここではさらに一歩踏み込んで、「木の暗」の語を日本の詩歌史のなかに位置づけて考えてみた。


*1 第5句集『雁道』 昭和54年永田書房刊 『齋藤玄全句集』 昭和61年 永田書房刊 所載 

*2 飯田龍太 「『雁道』の秀句」 『俳句』昭和55年6月号所収 角川書店刊

*3 中西進・校注 『万葉集』 昭和55年 講談社文庫 


 なお「木の暗(木の晩)」と「ほととぎす」を含む7首は下記のとおり。巻数のあとの数字は新編国歌大観番号。


○霍公鳥〔ほととぎす〕思はずありき木の暗〔くれ〕のかくなるまでになにか来〔き〕鳴かぬ 大伴家持 巻8-1487

○木の晩〔くれ〕の夕闇なるにほととぎす何処〔いづく〕を家と鳴き渡るらむ  大伴家持 巻10-1948

○多胡〔たこ〕の崎木の暗茂〔くれしげ〕にほととぎす来〔き〕鳴き響〔とよ〕めばはだ恋めやも 大伴家持 巻18-4051

○木の暗になりぬるものをほととぎす何か来〔き〕鳴かぬ君に逢へる時 久米広縄 巻18-4053

○…木の暗の 四月〔うづき〕し立てば 夜隠〔よごも〕りに 鳴く霍公鳥〔ほととぎす〕… 大伴家持 巻19-4166(長歌)

○…木の暗の繁〔しげ〕き谷辺を…鳴く霍公鳥〔ほととぎす〕… 大伴家持 巻19-4192(長歌)

○木の暗の繁〔しげ〕き峰〔を〕の上〔へ〕をほととぎす鳴きて越ゆなり今し来〔く〕らしも 大伴家持 巻20-4305


●―5堀葦男の句/堺谷真人

 機械の中をころげ去るものなにかが嗤い

 『機械』(1980年)所収。

 天窓から射す光の中を綿ぼこりが舞う織物工場。耳を聾する自動織機の稼動音にまじり、一瞬、機械の中を異物がころげ去る乾いた音がした。まるで悪意に満ちた何者かの忍び笑いのように。

 生産現場の責任者にとって、異音は面倒な事態の始まりを意味する。操業を一旦止めて異状の有無を点検しなければならない。場合によっては、機械を分解して異物を回収し、組み立て直してから再起動させることになる。その間、工場の稼働率は下がり、悪くすると、生産計画、労務管理、そして納期にまで影響が及ぶ。葦男自身は工場の現場責任者ではなかった。が、リスクに敏感な「生産現場の耳」は持っていた。だから、面倒な事態を瞬時に直覚し、そこに機械の悪意を感じたのかもしれない。

 葦男は形象詩としての俳句の可能性を窮めようとし、柔軟にして鋭敏な視覚の働きを見せたが、音や声を詠むことに消極的であったわけではない。第一句集『火づくり』の冒頭近く、新婚生活のスケッチである

 戸を繰つて妻朝鵙の声の中

 書に朝日大根刻める音きこえ

などの作例に始まり、解離性大動脈瘤に倒れる直前、1993年1月の新年詠

 わが撞きし音の中なる初景色  『過客』

に至るまで、生涯にわたって健全な聴覚の働きを示す作品を数多く残している。

 しかし、その一方、『火づくり』後半、「地の章」「火の章」に相当する時期、すなわち、1952年から1962年に至る約10年間の壮年期作品には、どこか病的な音表現、不安神経症的な聴覚の句がしばしば現れるのだ。

 機銃音よりひややかに計機自動せり

 ぼくという蜜の流出 浴びる電話

 音でたたかう局員の胃にどさどさ封書

 音が刺さつた脳たちが過ぎ濡れるベトン

 機銃音よりも冷酷な自動計算機の音。自己の内面を溶融、流出させる電話のベル。そして、人々の胃や脳に日々過大なストレスを与える騒音や命令・叱責の声。これらの作品には前衛俳句を生み出した時代のアクチュアリティ=前期高度成長期の躍動感と疲労感が、聴覚的表現により色濃く焼き付けられている。

 さて、ここで冒頭の句にもどる。

 筆者は先ほど「生産現場の耳」と書いた。だが、機械の異音に嗤笑を聞く葦男の聴覚は、すでに単なる産業戦士の職業的聴覚という範疇を超えていよう。機械の声が聞こえる耳。それは山川草木に憑りつく精霊と対話する古来のアニミズムとは一見無関係に見えながら、実は深いところで通底する「反自然的アニミズムの耳」ともいえるのではないだろうか。


●―8青玄系作家の句/岡村知昭

 爆音に声を獲られて道化めく   林田紀音夫

 「青玄」昭和29年(1954年)2月号掲載、第一句集『風蝕』に収録。

 少し離れたところにいる相手に何か伝えようと呼びかけてみようとするのだが、轟く「爆音」に自分の声が紛れてしまって相手は「はあ?」と疑問のまなざしをむけて来る。ならばとばかりに声を張り上げてみるのだが、何度やっても自分の声は「爆音」にかき消されてしまうばかりでどうしても届かない。これではどうしようもないと今度は身振り手振りで伝えようとするのだが、それでも伝わっているのかいないのかは実に心もとない。だんだんと大きくなる身振り手振りで何とか相手になにごとかを伝えようとする自分の姿は確かにサーカスの道化役のそれかもしれない。道化役を見物客として笑っていた自分が、いまは笑われても仕方ない姿を周りに見せているのがどうにもたまらなく哀しくてならないのだが、その気持ちをこらえて大きな身振り手振りは繰り返されるしかないのである、私のこの思いがなんとか相手に届いてくれないか、との願いをすべての身振り手振りに込めて。

 上掲の1句において自分の声をかき消してしまった「爆音」が、いったいどこからもたらされたものなのかは一切明らかにはされていないが、雑誌掲載時の上掲句の前後を見てみると、

 鉄橋の下の古風な薄暮に遇ふ

 汽車鳴りて夜は遠国へ行くごとし      

といった句があるところからして、上掲句の「爆音」は線路沿いで目の当たりにした列車の通過音と見るのが適当だろう。さらに見てみると、鉄道の響きをモチーフにしたと作品としては、

 機関車の滾りて黒き声発す        (昭和28年6月号、句集未収録)

 ことごとく車輛ひびけり金魚沈む     (昭和28年9月号 同上)

 重車輛過ぎてあはれに梁軋る       (昭和29年8月号 同上)

といったものがあり、どの句においても列車の響きは自分自身の存在のあり方を強く脅かしかねないものとしてそれぞれの作品に表われてくる。「黒き声」は蒸気機関車の黒い車体と相まって自分に迫り、とどろき渡る通過音に無力であるしかない「金魚」に「梁」にはは自分自身の無力さの表れがはっきりと込められている。

 列車の通過音を表す言葉としては飛行機や自動車のほうが似合っていそうな「爆音」より「轟音」のほうがふさわしく思えるところもあるが、それでも紀音夫は「爆音」を選び、とどろく音に振り回されている自分自身を「道化」と描くことによって、耐えられないほどの自分の卑小さと、その現実を引き受けなければならない現実を笑ってみようとしたのかもしれない。それは自嘲とか自虐とかいった言葉にはどうも収まりきれないものを持っているのだが、どこかで自分を笑う存在に対して自分のいまの「道化」の姿を見せつけようとしているかのようでもある。紀音夫の耳には列車の通過音に工業地帯の重機たちが発する機械音の響きが途切れることなく響き渡っている。そんな「爆音」のまっただなかにあって、卑小極まりない自分自身の像をなんとか立ち上がらせようとする紀音夫、この前年(昭和28年)には同人誌「十七音詩」が創刊、俳人としての歩みは日々の鬱屈の中にあっても着実に進みつつあった。


●―9上田五千石の句/しなだしん

 水透きて河鹿のこゑの筋も見ゆ     五千石

 第一句集『田園』所収。昭和42年作。この句の自註(*1)には、

甲州下部温泉に、高野寒甫、鈴木只夫と遊ぶ。下部川の清流に眼を洗い、河鹿の笛に耳を浄めた。

とある。

 下部(しもべ)温泉は、甲府の南側、富士山の西側に位置し、下部川の上流域にある温泉で、古くは“信玄の隠し湯“と云われた温泉街である。

 去る六月初旬、私もこの下部温泉に脚を向けた。私がこの地を訪れたのは、この下部の近くの一色というところで螢を見るためで、少しであるが、久しぶりに螢を見ることもできた。宿泊したのは、下部温泉の中でも老舗と言われる“湯本ホテル”である。この湯本ホテルは下部川の川沿いにある、築30年という鄙びた宿だ。

 客室の窓の下は下部川で、その川瀬の音の大きさにやや戸惑った。それと同時に聞こえるのが、清流にしか棲まないと云われる河鹿蛙の声である。河鹿笛は清らかな瀬音に相応しい美しい声で鳴き、普通声のみが聞こえるだけでその姿を見るのは難しいと云われるが、この日、偶然に姿を見ることもできた。

 五千石もこの地で河鹿笛に親しんだのだろう。

 ちなみにこの下部温泉は虚子が逗留したことでも知られており、逗留時の作「裸子をひつさげあるくゆの廊下」があり、当地には「裸子」という俳誌もあって俳句が根付いている。

 なお、この“湯本ホテル”には、虚子逗留時の記念写真が残っており、宿の主人にその写真の幾つかを見せていただいた。きっと虚子も河鹿を聞いたはずである。

     ◆

 さて、今回のテーマ「音」について、はたと困った。五千石に「音」という文字を使った句はほぼ無く、音を喚起させる句さえ非常に少ないのだ。

 渡り鳥みるみるわれの小さくなり     五千石

 萬緑や死は一弾を以て足る

 水馬水ひつぱつて歩きけり

 いちまいの鋸置けば雪がふる

 女待つ見知らぬ町に火事を見て

 これ以上澄みなば水の傷つかむ

 たまねぎのたましいいろにむかれけり

などの五千石の代表作を見ても、音を感じさせる句が無い。それどころか、そこにあるのは深い無音と言ってもいい。

 五千石の作句は、“眼前直覚”という言葉からも、自らの研ぎ澄まされた視覚と、そこから得られる情念から産み落とされていたのではないかと思うのである。

     ◆

 そういう意味で、冒頭の「河鹿」の句はとても貴重な「音の一句」である。しかし、実はこの句も、「河鹿笛」を読みながら、その聴覚から”こゑの筋“という視覚への転換がなされていることは見逃せない点である。

*1 『上田五千石句集』自註現代俳句シリーズⅠ期(15)」 俳人協会刊


●―10 楠本憲吉の句/筑紫磐井

 オルゴール亡母(はは)の秘密の子か僕は

 音といって、多くの人に思い出される憲吉の俳句はこの句であろうか。桂信子も憲吉の愛唱句としてあげていたと思う。それにしても桂信子という激しい女流と、いい加減な楠本憲吉が日野草城の同門で付き合いがあったということ自体面白く思われる。ただ桂信子のこの句の解釈は読み違いがあるように思われる。信子が述べているような母恋の句などではないように思うからだ。憲吉35歳の時に母親はなくなっているが、いかにも作りごとのような俳句である。だから私はむしろ次の句が好きだ。

 終い湯の妻のハミング挽歌のごと

 恐怖心が漂ってくるような句だ。憲吉の家庭俳句は、半分虚構、半分事実であろうし、ことによると沈黙したまま語らない危険な部分もあっただろう。フィクションとしてのクスモト家を憲吉全集からたどることはまことに面白い。ここには何らかの人生の真実がある。

 ところである著名な女性俳人に、憲吉の俳句を読むようにすすめたところ、「女や火遊びに自信があるのだろう、読者が男ならおもしろいかもしれないが、女からすると感じがよくない、こんな男の本心が見えたらうんざりでこんな男は敬遠したい」と言われた。以来私の人格そのものを疑われているところがある。あまり人に俳句を読むことを勧めるのは考えものだと反省している。

 しかし、源氏物語の光源氏だとて、同時代人だと見たらたまったものではない。憲吉もなくなっているからこそ安心して句を鑑賞できるのだ。

 「終い湯」につかっている妻は一見謙虚に見えるが、湯に浸りながら鼻歌で歌う「挽歌」は夫の心胆を寒からしめるものがある。湯船の中で開放された意識の中で、どこかうっすらと夫のなくなったあとの年金や保険金を想像したり、再婚の可能性もまだまだ捨てたものではないと思っているかもしれない、若干の殺意があったっておかしくはない。良妻賢母を詠むことに慣れている俳句に対して、シニカルな真実を憲吉は提供する。川柳とは全く異質だ。笑ったあとで顔面が凍りつくようだ。

 おそらくどんなに愛している妻にしても、5%ぐらいはこうした意識があるはずである。ことによると95%納得する妻もいるかもしれない。そうした真実を、ことのほか憲吉は愛していた。憲吉しか詠めなかった世界である。憲吉を読むと、世の常の愛妻俳句など嘘っぽくて読めなくなる。


●―12 三橋敏雄の句/北川美美 

 正午過ぎなほ鶯をきく男

 掲句、至る所で鶯が鳴いている光景が浮かぶ。けれど、この男、鶯を本当に聞いているのであろうか。「正午過ぎなほ」これは、小原庄助さんを兼ね備えつつマニアックでマイペースな男である。午前中からずっと鶯の声を聞き、午後になってもまだ聞いている。「きく」と書いてあるが、この男、実は「聞いていない」と解釈する。それは、「なほ」からくるもので、尋常ではないことを想わせ、想像力が働く。男に焦点を当て、この男が別の事、言うなれば人生について思い巡らしていると想像する。往々にして三橋作品から音が聞こえない気がする。

 凩や耳の中なる石の粒 (*1)  『しだらでん』

 梟や男はキャーと叫ばざる

 すさまじい凩の音よりも耳に入った石粒が気になる。男はキャーと叫ばない。やはり筆者に「音」は聞こえてこない。白泉は、「玉音を理解せし者前に出よ」「マンボでも何でも踊れ豊の秋」「オルガンが響く地上に猫を懲す」「鶯や製茶會社のホッチキス」などの音から起因する句、それも一拍ずれているような音が聞こえる気がするが、敏雄の「音」は消えている。極め付けなのは、下記の句。

 長濤を以て音なし夏の海  『長濤』

 映画の中でミュートをかけたように意図的に数秒間「音」が消え、映像だけが流れる効果に似ている。敏雄は、唯一、音楽が苦手だったようだ。「やはり」と思ってしまう。それが俳句の上で効果となっている。「音」を読者に届けるのではなく「言葉」による音の想起を促している。ひとつの物音も俳句を通し読者に想像させる力を持つのである。欲しいのは言葉、そして俳句ということか。

 「鶯をきく男」、ウィスキーグラスを片手にただ遠く流れた時間そして人生を想っている気がしてならない。

 李白の詩がある。

  『春日醉起言志(春日 酔より起きて志を言ふ)』(*2)

 處世若大夢  世に處(を)ること 大夢の若し

 胡爲勞其生  胡爲(なんすれ)ぞ 其の生を勞する

 所以終日醉  所以(ゆゑ)に終日醉ひ

 頽然臥前楹  頽然として前楹に臥す

 覺來眄庭前  覺め來りて庭前を眄 (なが)むれば

 一鳥花間鳴  一鳥 花間に鳴く

 借問此何時  借問す 此(いま)は何の時ぞと

 春風語流鶯  春風 流鶯に語る

 感之欲歎息  之に感じて歎息せんと欲し

 對酒還自傾  酒に對して還(ま)た自ずから傾く

 浩歌待明月  浩歌して明月を待ち

 曲盡已忘情  曲尽きて已に情を忘る

 「鶯をきく男」の句は李白の詩そのものである。マーラー(*3)はこの李白の詩を原作とし連作歌曲『大地の歌(Das Lied von der Erde)』を1902年48歳のとき作曲している(*4)。そして敏雄は、1969 (昭和44)年49歳のときに掲句を得た。俳句形式となった17音は読者の脳波に変換され響き渡るのである。李白をもとにマーラー、敏雄と古典は永遠に人を酔わせ新たな名作を生む力がある。

 敏雄は、永い船上勤務で、ひとり、遠く陸を想う時間を過ごしたであろう。「なほ鶯をきく男」はやはり酒を呑みながら世をながめている男であったか。鶯の鳴声(「なお鳴く鶯」すなわち「老鶯」であろう)は、敏雄の中で静かに消されている気がする。


*1)ちなみに白泉に「木枯や目より取出す石の粒」がある。

*2)李白(701-762年)『李白詩選』(松浦知久訳/岩波文庫)

*3)マーラー(Gustav Mahler, 1860 – 1911)

*4) 1986年サントリー・ローヤルのCM(http://www.youtube.com/watch?v=NSlVsnMbZ48)に『大地の歌Mov. 3』(http://www.youtube.com/watch?v=lb9KnrrvDc8)が使われた。


●―13成田千空の句/深谷義紀

 藁打つ音くぐもり轍深みゆく

 第一句集「地霊」所収の句である。

 「音」にまつわる千空の句は、前回の「色」の句に比べるとその数は少ないが、二つの傾向に大別されるように思う。

 一つは、作品の対象そのものして「音」が採り上げられたもの。

 牛飼ひの大声秋の戸口より        「人日」

 早苗饗のあいやあいやと津軽唄      「天門」

 畜産に携わる男の野太い声、早苗饗で披露される十八番のあいや節。いずれも津軽の郷土色豊かな作品である。

 他方、現実世界ではなく、心象風景のなかの「音」を捉えた作品もある。

 娶らんとこころに藁戸藁の音       「地霊」

 墨磨れば墨の声して十三夜        「白光」

 こちらは多様多彩である。

 津軽の地で生涯を送った千空であるが、存外(と言ってしまうと語弊はあるが)その作品の幅は広い。とりわけ「墨磨れば」のように繊細な感覚が発揮された作品に心惹かれるものが多い。他の例を挙げれば、

 ハンカチをいちまい干して静かな空    「地霊」

 冬深し秤が元へ戻る音          「 〃 」

などである。「冬深し」の句は、実際には秤の微かな音を耳にしたことで一句が生れたわけであるが、描かれているのは冬の厳しさに向かい合う心である。

 さて、掲句である。上記分類の“止揚形”とでもいえようか。この句も、冬の夜、戸内で藁を打つ音を聞いたことが制作の契機になっているが、そこから眼を転じ、戸外の雪道に思いを馳せたことで詩情が生れた。轍の深さは雪の多さや冬の厳しさの象徴であり、更にはその地で生き抜く人々の暮らしぶりが見えてくる。津軽に生きた千空らしい一句だと思う。


●―14 中村苑子の句【テーマ:水妖詞館ーあの世とこの世の近代女性精神詩】吉村鞠子7.8.9.10.

2013年3月29日金曜日

7 遠き日へ稲妻走る蝸牛

 誰しも「遠き日」を持つ。一般的な俳句でそれを詠めば、懐かしき回想や郷愁の句になることが多いが、此の句にはその種の抒情は感じない。遠き日は、辛苦の日々であったのだろうか。消したい過去の出来事なのか。身を劈くような恋であったのか。

 稲妻のゆたかなる夜も寝べきころ    中村汀女

 いなびかりひとと逢ひしき四肢てらす  桂信子

 汀女の「ゆたかなる」は、秋の実りを願う明るい稲妻であり、信子の「いなびかり」は、艶やかに閃光を放つ。この二句の具象性に比較すると、苑子の句は、具体性がない。「遠き日」の説明がない為、読み手は、戸惑いつつ稲妻が走ってゆく衝撃を感受するだけである。

「稲妻が走る」というその表記に寄り、稲妻が鳴ると、遠き日へ一瞬のうちに呼び戻されるという仕掛けがある。

 苑子には、曖昧に何かを匂わせる句が多いが、此の句もその一つであろう。終わってしまった出来事よりも、稲妻が鳴ると、躰が戦慄するその異様な感覚だけを書き留めておきたかっただけかも知れない。

 そして、その「遠き日」の忘れ物のように、蝸牛は背に堅い殻を負い、稲妻を聞きながら静かに濡れている。

 苑子は、蝸牛に自を投影しているのではないだろうか。


8  母音漂ひ有刺線を蔓巻く唄

 「母音」本来の意味よりも、末尾の「唄」に「母」の「音」が響いてくるように仕立てられている。

 「母音」は漂って、「唄」は蔓を巻く。七、六、六の破調構成が、唄の余韻と有刺線の絶対的威嚇に絡まりながらも、苑子の半生では、日常に見掛けたであろう錆びた有刺線に昭和の郷愁なども窺える。

 けれども、母音、即ち母の音、母の存在とは、有刺線の如きものを破ろうと葛藤するのではなく、ゆっくりと知らぬ間に蔓を巻くのである。無論、母は有刺線から逃げない。錆びきった有刺線が活き活きとした植物の蔓に巻かれて、いつしか朽ちていくこともあるかも知れない。苑子の母の時代、また、苑子自身の母という名の女の強さ確かさと、「有刺線」という語彙を選択した時代背景の女の情念が此の一句に込められているのではないか。

 強い語彙を挟みながら、上下で郷愁を誘う手法は、前述の7「遠き日へ稲妻走る蝸牛」とも似ている。

 「有刺線」でなければつまらない母恋句になってしまう。

 尤も、苑子にとってはこれが、母恋句なのかも知れないが・・・。


9 木の国の女の部屋の霜格子

 「木の国」、それは、紀伊の国の旧名。また、紀州の神降ろしの祭文から説き起こした、吉原周辺の端唄の一つでもある。

 紀伊の国の女を詠んでいるとしても、近代までの繊細な日本女性の抒情を思わせる。

 「サンダカン娼館」という映画がある。以前、韓国の従軍慰安婦が世間を賑わせたが、その日本人版である。それは、戦争背景があるにはあるが、戦前(大東亜戦争前)は、口減らし、そして、家族の生活の為、貧しい生まれではあるが、普通の少女が売られていった。

 平塚雷鳥や市川房江らによって、婦人参政権を獲得してから、70年にも満たない。

 私は、少女時代に父の実家へ行くと、食事の際は、優しい祖父の膝の上に乗れるどころか、父が末っ子だった為、末席近くの卓に母や姉妹と座っていたのが不思議でならなかった。つい、40年前の話である。

 「霜格子」、それは、木の窓格子に沁みついた女達の汗や泪が霜と混じり合い、黒々と冷たく光る。雪のように白く柔らかく溶けてゆくのではない。

 国から部屋、そして、窓へとズームインしていきながら、霜格子に焦点を当てた書き方は、読み手が抵抗なく自然の流れの中に、薄倖な女を想像する効果を与えている。

 苑子を形作ったその時代は、7・8の句と続くように、現代とは較べようもない日本の女の在り方であり、忍耐の果ての強靭な生命力は、創造性を脈々と育成させて現代に繋げていったのだと思う。

 句集『水妖詞館』には、そういった時代に生きた女を見詰めつつ、自らも垣間見て、日本女性の現代に至るまでの過渡期を過ごした精神性の詩としても貴重であると思う。

 同時代を生きた女流俳人は、多々いるが、個々の女の生理感情を描いたり、嫋やかな大和撫子の抒情を書かれたりしているものも多く見受けられる。苑子は、時には自虐的に、客観的に、自己を通して日本女性を語っているのではないだろうか。


10 火の色の石あれば来て男坐す

 富澤赤黄男の昭和27年刊行の句集『蛇の笛』には、「石」の句が多く掲載されているが、その一部を抜粋する。

 石の上に 秋の鬼ゐて火を焚けり     富澤赤黄男

 冬の石 搏てば わが掌の石も鳴る

 夏ふかく むんずと坐る 石のくろさ

 石磈の上に わが影 黒く生きよ

 石を嚙む 氷 氷を嚙むか 石

 ひきずるは 石の棺の音と知れ

 苑子は、その5年後『俳句評論』を高柳重信と共に立ち上げているので、同人である赤黄男の句集は、熟読していたであろう。

 「石」の句は、有名、無名、多々あるが、赤黄男の句は硬質で凄絶である。無意識のうちに赤黄男の句を踏まえているように窺えるし、憧憬をも否めない。

 「火の色の石」に坐す男は、朱々と燃える石と同等な強烈な個性と肉体を兼ね備えた男、であると思い込んでいたが、どうやらそうでもないらしい。

 高橋睦郎氏の見解を引く。(『鑑賞女性俳句の世界第3巻』角川学芸出版)

 私たちはともすると、火は男、水は女と考えがちだが、ほんとうにそうだろうか。たとえば男を水の性と考えてみる。男が水の性ならば、女は火の性。水の性の男は火の性の女に惹かれる。惹かれるままに来て、女の上に坐る。男が女よりどっしりした存在だというのも、言い古された俗説にすぎないのではないか。女のほうが石のようにどっしりしているというべきではないか。洋の東西を問わず、伝説の中で石になるのは女だ。はんたいに男はたえずふらふら動きまわり、火の色の、つまり女という名の石があると、ふらふらと来て、その上に座る。火の石の上に座るのだから、水の男はたちまち蒸発を始め、だんだん稀薄になり、ついには消えてしまう。それが男の性で女の性だ。そういうことではなかろうか。

 「火の色の石」が女であるという観点は、古代より培われてきた女の性を、民話的且つ御伽噺のようなエロティシズムを含み、苑子の句に内包されるものを言い得ているようである。

 いずれにしても「火の色の石」は誠に魅力的であり、それを感受し、坐す男もまた繊細で逞しい魂を持ち得ているのであろう。

 苑子のもう一人の憧れの俳人、三橋鷹女の「石」の句も記しておく。(『羊歯地獄』所収)

 石に花 禁猟地帯石括れ        三橋鷹女