九堂夜想さん(くどう・やそう、1970年生まれ、「LOTUS」同人)の第1句集『アラベスク』(2019年2月刊、六花書林)の特筆すべき点は、メタファー(暗喩)の怒濤のパッションを凍結して海底深く静かに想いを込めて鎮められているようだ。その鑑賞者をこの句集が待ちわびているような気さえしている。
九堂夜想さんの俳句の初見は、俳誌「海程」だった。
私も当時、俳句の武者修行のため金子兜太先生の海程会員として俳句を切磋琢磨する。
九堂夜想さんは、あっという間に独自の作風で頭角を現していく鮮烈な印象を受けた。
もうすでに海程で金子兜太先生に見出された逸材であったことは、云うまでもない。
『セレクション俳人 プラス 新撰21』(邑書林)にて入集者は越智友亮、藤田哲史、山口優夢、佐藤文香、谷雄介、外山一機、神野紗希、中本真人、高柳克弘、村上鞆彦、冨田拓也、北大路翼、豊里友行、相子智恵、五十嵐義知、矢野玲奈、中村安伸、田中亜美、九堂夜想、関悦史、鴇田智哉。
私も私自身を含めて若手俳人21人の鮮烈な登場に大いに刺激を受けた。
その中でも北大路翼さんと九堂夜想さんの俳句には、衝撃的な俳句の視界の拡大に戦慄さえ覚えた。
春深く剖かるるさえアラベスク
冒頭の〈春深く剖(ひら)かるるさえアラベスク〉は、まるで手術台に立ちメスを踊らせる舞台のように春を深く鮮やかに解体してみせるとアラベスクの世界が展開している。
アラベスクとは、モスクの壁面装飾に通常見られるイスラム美術の一様式で、幾何学的文様(しばしば植物や動物の形をもととする)を反復して作られている。
九堂夜想俳句のある種のマジックに魅了される。
快楽の歓喜も悶絶の苦痛も九堂夜想俳句の鮮やかな世界観で展開されている。
みずうみを奏でる断頭台なれや
母踊り来るやまなうらの離れより
燃えずの火濡れずの水をわたり馬
花という花からびゆく相聞(あえぎこえ)
月よみや水に憑かれて海という
断頭台とは、死刑執行人が斬首刑を行う時に使用する木製の台である。その行為の戦慄とは裏腹にみずうみを奏でる断頭台への祈り。
眼裏(まなうら)の離(はな)れより母が踊り来る記憶。
燃えない火も濡れない水をも馬がさっそうと渡る幻想的な世界観。
「からびゆく」は、ねび行く(ねびゆく)として読み解くと次第に花の成長していくエロスさえ萌芽する。
月光圏の水に魅せられ憑かれてしまう魔性を海と名づけよう。
みなみかぜ貝殻は都市築きつつ
九堂夜想俳句の醍醐味は、AというモノをBという世界へと異化する超リアリズム的な俳句的錬金術とでもいうべき世界観の構築にある。
貝は瞳のように柔らかに誕生しつつも堅い貝殻になってもなお都市を築きあげながら増殖しつづけている。
南風の生まれ出る貝殻は、絶えることのない永久無窮の九堂夜想俳句の都市を築きあげ続けているのかもしれない。
死に顔へ海市はこばれゆく夜会(ソワレ)
海市(かいし)とは、気温の相違により、地上や海面上の大気の密度が一定ではないときに、光の異常な屈折が原因で、遠方の景色が見えたり、船が逆さまに見えたりするなど、物が実際とは異なって見えるような現象のことである。死者の顔へと海市は、夜会(ソワレ)の宴に誘われる。
九堂夜想俳句のエロスとタナトスへの誘いの絶頂の波に呑み込まれていく。
その世界観をこれからもジックリと読み解きながら私は私なりの俳句世界を切り拓き続けたい。
【読み切り】「タナトスとエロス呑み込む貝は都市 ~九堂夜想句集『アラベスク』より~」 豊里友行(2020年8月7日金曜日)
https://sengohaiku.blogspot.com/2020/08/142-002.html
共鳴句というよりもこの句集『アラベスク』全体が、1句1句に芸術性が高くメタファーによって優れた俳句世界を孕んでいる。それは、貝殻の増殖のように城を構築しているな句集なのだ。
これらの俳句鑑賞は、粘り強く読み込みながら1句1句を俳句鑑賞しながら多くの読者によってそれぞれの鑑賞がなされることを期待して止まない。もしかしたら故人となった金子兜太先生もその現代俳句世界の裾野を広げる担い手として先見の明を以って九堂夜想さんを見出されていたのだと今の私はひしひしと感じている。