吉澤・北村・堀本
吉澤:前回の問題に戻ってみて、一部では《作中主体=作者》という構図から抜け出る動きも目立ちつつある。
23ページのメロン図について 森茂俊
カモメ笑うもっともっと鴎外 小池正博
ララランリリリンララルラ曲がり切りなさい 兵頭全郎
これらの句は日常的な意味や経験にも結びつかないし、作中主体が作者ではないのは明らかである。
北村:まあ音で言えば、70年代後半のロック、パンク・ミュージックみたいなものだ。パンクの場合は、以後に最も影響を与えたジョニー・ロットンなどは、髪を緑に染めているのを見込まれてセックス・ピストルズというグループにスカウトされたという伝説があるぐらいで、壮大な技巧主義に陥っていたロック界に対する反逆となっていた。だから音は直線的で非調和だけども、歌詞は(モーレツ否定的な)メッセージに満ちている。
上の吉澤の挙げる川柳は、自己の確立とか、主題主義といったものからの訣別を目指すものであって、文章として意味を結ばない。茂俊の句など、文脈もないから当然作中主体どころではない。川柳ばなれしたクールなデザインがメリットだろうか。
このような句も、変わりたいという志を持つ川柳人の空気に置いて読むと、意味の外で作者の志向が見えてくる。それが推察できれば、全郎の句の「曲がりき」ることを勧めている意味さえ現れてくる。でもそれは深読みで、作品の独立性という点では弱い。明るさが取り柄であることは言うまでもないが。私の古い知己である正博の場合は、この句は鴎のくすぐりでナンセンスをつないでいるが、本来周到な技巧派と見る。パンクのメッセージのようなものも浮いてしまう時代、詠み方も読み方も難しいね。
ところで、このような文脈をたどれない句は、当然俳句にもあったと思うんだけど、どうなんだろうか。「未定」なんかではどうですか。
堀本:意図的に方法として、意味の攪乱を試みているのは、古いところでは、
島津亮(意味の攪乱句の宝庫)、晩年に到るまで、前衛俳句時代の痕跡を残す。
ひかる乳房へ棒状の黴もつ目 (『紅葉寺境内』昭26) 島津亮
皇居・むらさきの陰茎の苔を刺繍する(昭34〜5)
いつか来るキャベツ畑にジェノサイド (平成7〜8遺遺構)
※出典 死後家族編集になる「島津亮の世界」より
さすがに、亮も晩年はだんだんわかりやすくなっているが、初期の感性を最後まで貫いている。加藤郁乎が、彼らの同人誌に、本来的な意味で前衛のなにふさわしい、といったことがある。
赤尾兜子(仲寒蟬の鑑賞に注意していてほしい。)
広場に裂けた木 塩のまわりに塩軋み 赤尾兜子
髪の毛ほどの掏摸消え赤い蛭かたまる 赤尾兜子
堀葦男(堺谷真人の鑑賞に注意していてほしい)
ぶつかる黒を押し分け押し来るあらゆる黒 堀葦男『火づくり』
彼らこそ、前衛俳句の中心になったひとたちで「旗艦」から「靑玄」、「天狼」から「雷光」、「梟」、「夜盗派」「縄」、と言うように転成したり解体したり別れたりして、おもに、同人誌に拠って彼らの句は発表の場を得ている。そういう前衛俳句時代の雰囲気の影響下に攝津幸彦、坪内稔典、大本義幸、らが、「日時計」「黄金海岸」という戦後世代の同人誌をだしはじめ、これもいくつか変転して現在の表現につながってきている。
それから、重要な戦後作家として、加藤郁乎、阿部完市の二人の存在は忘れられない。
ふらここでのむあみだぶつはちにんこ 加藤郁乎『形而情学』
豊旗雲の上にでてよりすろうりい 阿部完市『軽のやまめ』
郁乎については仁平勝が言葉あそびとしての俳句、完市については川名大が『現代俳句』などの熱心な解説で多少理解できるようになった。次に述べる、攝津幸彦などは、明らかに先代の彼ら前衛俳句から刺激を受けて色々な言葉遊びやシュールリアリズムの試行を重ねている。
坪内稔典、攝津幸彦、大本義幸等の同人誌「日時計」
「発行所尼崎市南塚口町1−26−27坪内方」。頒価200円。同人には、1971年坪内稔典、攝津幸彦、ほか、澤好摩。矢上新八、鶴田(三宅)博子、糸山由紀子、馬場善樹など。見ていると隔世の感有り。
攝津幸彦「日時計」8号【攝津幸彦作品特集】より
《流体力学上、中、下》
自殺系空中きりんうるむなり 《流体力学 下》。
ゆふりらべのむどぼくりのゆふりらべ 《宙毒》
やむなびびろふぞくけさむばろふぼふ 《宙毒》
(と、以下17字の文字1行で21行の構成となっている。)
これらは、ある種の身体感覚をくすぐる、ので、そういうところで読者に意味をつむいでほしかったのかもしれない。要は、この実験意識を是とする青春期の詩と俳句への関わり方が、現在へ導いている。
お断りしておきたいことは、この例示は、当時の薄っぺらな同人誌「日時計」本誌の引き写しである。後に出される『鳥子』や『全句集』では、旧仮名文語文法に改められており。捨てられた句も多いが、原点という意味で発表当時のまま挙げている。攝津や坪内稔典らはこういう風に初期の実験俳句を通ってきている。この例示した「句」配列に、一貫したルールがあるのか、でたらめなのかどうかは不明。意味がとれそうなところがあるので、あるいは島津亮の句にあるような〈パズル解く檻と縞馬しばしば換え・亮〉、のたぐいの種明かしがあるのかも知れないが、暇な人は考えてみてほしい。ただ、これではとても大向こうの一般的な俳句の観念や俳句史の常識に拘る人たちの共感は得られない。しかしながら、狭い範囲であっても、既成の文学観へのアンチテーゼをもとめるその姿勢を共有したであろう、と推察する。現在だってあり得ることだ。
「京大俳句」の上野ちづこが《意味からの遁走》という評文で、文化的価値観(パラダイム)が変わってきていることを主張した、そういう二十世紀末の時代思潮を反映している。
攝津幸彦がとある日の雑談でいっていたことでは、赤尾兜子の「第三イメージ」という考えを、第五第六イメージあたりまで降りていきたかった、そうだ。だから、彼には、意味をまとめようとする志向はあるのだ。ただこの頃の「日時計」など同人誌は、それぞれが自分の方法を模索し自己決定しているのだから、「新しい俳句」と言う場合の幅や方法意識の多様性も、考えに入れておかねばならない。吉澤が挙げた川柳人達の言葉の配列のしかたや構想には、言葉遊び、ライトバースと言う意味で、前衛俳句の作家や戦後世代俳句青年の表現解体のあり方と似ている。川柳の今、と相通じる状況であると思うのだが、如何?
彼らが、おとなしく結社で勉強していたなら、けっしてこういうかたちでは出てこられなかったはずだ。
旧来の制度が古くなれば、同人誌などで、現況を撃革新の砦という使命感が強くでてくる。その意味で自由でありポレミークである、と言う無私の爽やかさがある。
私性という問題への切り込み方は、これも時代に拠って重点が違ってくるのではないだろうか。
戦後の前半の「前衛俳句」には、私=自我の統合主張を強く感じ、ニューウエーブには自我解体のいわば「私捜し」の迷いを見る。
現在の川柳の新人達がどういう意味で作る「私」を構想し、そのもとに作品世界に虚構の「私」を入れ込んでいるのか。吉澤さんの分析などですこしづつあきらかになるだろう。
吉澤:上野ちづこの《意味からの遁走》という評文のことは知らなかったが、《意味からの遁走》という言葉で言っていることは何となくわかるような気がする。川柳では「意味」という言葉がそもそもきちんと定義されていないと私は思っている。ある言葉がある意味内容を表すという、シニフィアン(記号表現)とシニフィエ(記号内容)の日常的な関係の範囲の中で「意味」という言葉が使われているように思う。極端な言い方になるが、前衛とはこの日常的関係を壊すことから始まったのではないか。摂津の「流体力学」の句を見るとそのように思える。よくは知らないが、堀本のあげる攝津の「やむなびびろふぞくけさむばろふぼふ」という句は評価されているのか?
現代詩でも70年あたり以降のシュールレアリズムは、はっきり言って私にはついていけない。川柳でも表現解体が試行錯誤されているのだが、「やむなびびろふぞくけさむばろふぼふ」という形にはならない。誰も読んでくれないからだ。川柳の試みはさまざまにあるだろうが、とりあえず一つあげると、日常的な意味からの離脱という形がある。
オルガンとすすきになって殴りあう 石部明
びっしりと毛が生えている壷の中
縊死の木か猫かしばらくわからない
桜山らんぷは逆さ吊りがよい 清水かおり
エリジウム踵を削る音がする
果実を食べると海越えてくる蛇
おそらくこれらの句は、日常的な言葉の意味に着地しない。「オルガン」や「すすき」が何を意味しているのか、「毛が生えている壷」とは何の象徴か、「逆さ吊りがよい」のはなぜか、などと考えても、あまり意味はないのではないか。無理やり解釈しようとすればこじつけられないこともないだろうが、無理やりの解釈では肝心なものがこぼれてしまいそうな気がする。しかし、コトバとコトバのつながり方によってもたらされる、ある感じがある。それを説明するのに、日常的な論理や意味では無理なのだ。堀本が(第6回)で「何かを喩えていたとしても、俳句からというより「詩」としては物足りないと感じることが多い」と言っていて、ほとんどの川柳はその通りなのだが、川柳の一部では、このように「直接的に」何かに結び付けにくい句も書かれている。仮にこれらが喩であるとしたら、狭い意味の喩ではなく、世界そのもののありようの喩とでもいうべきだろう。
堀本:吉澤の「よくは知らないが、堀本のあげる攝津の〈やむなびびろふぞくけさむばろふぼふ〉という句は評価されているのか?」という疑問について。
このフレーズが「句」なのか、詩の一部なのか、もはやよくわからない。当時の批評も見あたらない。
ただ、私は、攝津幸彦が、戦後世代の前衛俳人と言われる理由を了解するのは、こういう『鳥子』以前の模索の事例をみるからである。私がであったときには、彼はすでに、『鸚母集』のころで、すでに、形式という観念を受け入れていた。その時期からの彼に前衛性を認めるとしたら「しずかなる壇林」をめざす、俳諧師に足を突っ込んでいる立ち位置であった。しかし、若い日にこのような、チョー現代詩的な逸脱を試みた、ということがやはり、攝津幸彦に、転向と気づかせないハイレベルの転向を可能にさせたのである。それが前世紀末(昭和時代後半に成熟した団塊の世代のー「俳句ニューウエーブ」の存在理由だ。この軌跡と私性がどう絡むか、次の回で意見交換しよう。