投稿日:2011年07月22日
●―1 近木圭之介の句/藤田踏青
大寒、かぜの中まぎれなく鉄うつ音のす
人臭い港。 シャボン玉に似る汽笛がいい
開高健が大江健三郎といっしょにモスクワに行った時の話である。開高はその中で「朝から晩まで毎日毎日おなじものを食べているせいであろうか、私がブウと鳴らすと彼もブウと鳴らし、ひょいと顔をだして、いまのはフランス語では“ブリュイ”というのでしょうか、”ソン“というのでしょうかと聞く。音響学的には前者でしょうが会計学的には後者でしょうと答える。*」と書いており、面白い分類である。音響学は音の成因、性質、作用などを研究する物理学の1部門であり、音色などが身体に影響を与える音響生理学などにも関連している。一方、会計学は財政状態と経営成績とに関するもので、音響学と会計学との間に「人間」を据えた場合には、それぞれが生理学的状況と経済水準状況によって「人間」が影響される事を示唆しており、判断分析の起点の相異がもたらす概念の位置付けを示している。
前句は昭和24年の作であり、戦後に生きる人間の姿が「鉄うつ音」を通して力強く浮び上ってきており、「鉄うつ音」は数字にも還元されるものであろうから、これは会計学的分類に入れても良いかな、と考える。この作品に先立って栗林一石路の「鉄を叩いて人間が空のどこかにいる(昭和4年作)」の句があり、圭之介はその作品も意識していたのではないであろうか。
後句は平成16年の作であり、人臭い港といっても戦後の様な重苦しい生活感はそれほど感じられない。それは句読点、一字空白などの手法でかなり詩的にまとめられている事にもよるのであろう。そしてシャボン玉の球面に次々に現れる光彩の如く、様々な汽笛の音色にも軽快さがあり、「音」に焦点が集約されているため単純に音響学的分類に入ると思われる。
銅版画の挿絵。何処かの林で寂しい風が吹いていた 昭和52年作
木の実が鳴るのは無意味におもえたが 平成2年作
これら両句の「音」は異空間の中で鳴り響いている。作者にとっての今現在という空間と、それに呼応するかのような過去というか、デジャビュのような空間がそれである。眼前にある銅版画の挿絵の中に吹く風、そして記憶の中の林で吹いていた風。頭上で木の実は鳴っているが、空白の頭の中では無音でしかない存在。無意味の意味を圭之介は追い求めているのであろうか。
月が明るく暗い指で鳴らす楽器 昭和30年作
耳を喪った月 時間が木々に明るい 昭和52年作
前句の月の明るさがもたらす楽の音は、暗い思いの回復につながる要因となろう。後句の月の沈黙は時間を透明にし、無音の安らぎと内的な曙光へと導いてゆくのであろう。月の能動的な面と受動的な面との照応が懐かしいもののようにもたらされてくる。
*「現代日本文学大系・開高健集」筑摩書房・昭和47年刊
●―2 稲垣きくのの句/土肥あき子
三時間ドラマ三時間見て夜の秋
昭和55年11月号の「春燈」に掲載された作品である。
きくのは蒲田松竹のサイレント時代の映画女優であった。その後トーキー作品となってからは『春琴抄』(1935)と『家族会議』(1936)の二本しか出演作品はない。松竹が蒲田から大船に移転する機会に、20代で見切りをつけたような女優業だったが、年代というよりサイレントからトーキーへの大きな転換期についていけなかったのかもしれない。女優時代を振り返るような文章を一切残していないきくのではあるが、昭和14年東宝映画が開設された頃には
すみれ好き東寳が好き嫁仕度(「縷紅」昭和14年9月号)
があり、また
映画みにゆく出来こころ柳の芽(『榧の実』)
など、女優を辞めたあとも、映画は好んで観ていたようである。
しかし、掲句の〈三時間ドラマ〜〉の句では、ドラマ自体には積極的な興味も期待もまるで込められていない。見るでもなくつけていたテレビドラマを、エンディングまで見てしまったのだ。気がつけば映画よりずっと長い、3時間という時間を無為に過ごしてしまったことに、我ながらあきれ果てているといった風情である。人恋しさに音を求め、またストーリーを追ってしまったことへ、秋の夜長というだけではない、女優をしていた身ゆえのわびしさと自嘲がにじむ。
映画監督でもあり同結社「春燈」の同人でもあった五所平之助が1981年に亡くなった折り、きくのはテレビの追悼番組に出演した。カメラ慣れしているはずのきくのは、出演者のなかでも際立って凛として美しかっただろうと想像したが、実際には画面の向こう側のきくのは、どこか居心地悪そうに、四方から映されるカメラに終始緊張の面持ちであったという。
●―4 齋藤玄の句/飯田冬眞
木の暗〔くれ〕の暗き主に呼ばれをり
昭和53年作。第5句集『雁道』(*1)所収。
年譜によるとこの年の春、玄は体調に異常を覚え、砂川市立病院に入院。直腸がんの診断を受けている。4月12日手術。7月5日に再手術を受けている。全句集の配列を見る限りにおいては、掲句は7月の再手術直後の作と思われる。
一読して不意を突かれた作者の不安な心象風景が、ぺたりと貼り付いてくるような不気味な読後感がある。夏の木立の下闇がみえてくるとともに湿った土のにおいが鼻腔によみがえる。ことに中七下五の「暗き主に呼ばれをり」の幻聴が、句全体に死の予感を漂わせ、象徴詩の趣すら与えている。
掲句は発表当時、特定の季語を持たない無季作品と解されていたようだ。それは、飯田龍太が「『雁道』の秀句」のなかで〈特定の季語を持たぬが、作品内容から「木の暗〔くれ〕」は下闇、あるいは木下闇と解すべきだろう〉(*2)と記していることからもうかがえる。現在では『角川俳句大歳時記』等が「木下闇」の傍題として「木の晩〔くれ〕」を取り上げており、掲句が用例として挙げられているものもある。ある意味、掲句が詠まれなければ季語「木の暗」は存在しなかったといえる。龍太が「木の暗」を「下闇、あるいは木下闇と解すべき」とした根拠は、不明だが、おそらく『万葉集』の歌が念頭にあったのではないだろうか。というのも、「木の暗」の詩歌における用例を探すと『万葉集』巻8の1487番歌「霍公鳥〔ほととぎす〕思はずありき木の暗〔くれ〕のかくなるまでになにか来〔き〕鳴かぬ 大伴家持」にまでさかのぼるからだ。
ちなみに『万葉集』において木の下闇の意で用いられる「木の暗」「木の晩」を含む和歌・長歌は10首あり、そのうちの7首に「ほととぎす」が登場する(*3)。「ほととぎす」は、死出の山を越えてくる鳥、冥途の鳥と伝えられてきた。つまり「死」を象徴させる鳥である。若い頃から日本および西洋の詩歌に耽溺してきた玄にとって、そのことは周知のことだったはずだ。木下闇でほととぎすの声を聞いたという実体験を万葉歌の伝統を踏まえて「死出の田長」から「冥途の主」、「暗き主」と詩語に昇華させたのではないか。
そう考えるならば、なぜ玄が、上五を「下闇の」あるいは「木下闇」とせずに「木の暗」としたのかが理解できるだろう。飯田龍太が言うように「下闇では主〔あるじ〕に輪郭がありすぎてしまう」「暗〔くれ〕と暗〔くら〕きと、その異音の屈折に托した情念に作品のいのちがある」から(*2)とするのが妥当な解釈であるのだろう。そのことに異論はないのだが、ここではさらに一歩踏み込んで、「木の暗」の語を日本の詩歌史のなかに位置づけて考えてみた。
*1 第5句集『雁道』 昭和54年永田書房刊 『齋藤玄全句集』 昭和61年 永田書房刊 所載
*2 飯田龍太 「『雁道』の秀句」 『俳句』昭和55年6月号所収 角川書店刊
*3 中西進・校注 『万葉集』 昭和55年 講談社文庫
なお「木の暗(木の晩)」と「ほととぎす」を含む7首は下記のとおり。巻数のあとの数字は新編国歌大観番号。
○霍公鳥〔ほととぎす〕思はずありき木の暗〔くれ〕のかくなるまでになにか来〔き〕鳴かぬ 大伴家持 巻8-1487
○木の晩〔くれ〕の夕闇なるにほととぎす何処〔いづく〕を家と鳴き渡るらむ 大伴家持 巻10-1948
○多胡〔たこ〕の崎木の暗茂〔くれしげ〕にほととぎす来〔き〕鳴き響〔とよ〕めばはだ恋めやも 大伴家持 巻18-4051
○木の暗になりぬるものをほととぎす何か来〔き〕鳴かぬ君に逢へる時 久米広縄 巻18-4053
○…木の暗の 四月〔うづき〕し立てば 夜隠〔よごも〕りに 鳴く霍公鳥〔ほととぎす〕… 大伴家持 巻19-4166(長歌)
○…木の暗の繁〔しげ〕き谷辺を…鳴く霍公鳥〔ほととぎす〕… 大伴家持 巻19-4192(長歌)
○木の暗の繁〔しげ〕き峰〔を〕の上〔へ〕をほととぎす鳴きて越ゆなり今し来〔く〕らしも 大伴家持 巻20-4305
●―5堀葦男の句/堺谷真人
機械の中をころげ去るものなにかが嗤い
『機械』(1980年)所収。
天窓から射す光の中を綿ぼこりが舞う織物工場。耳を聾する自動織機の稼動音にまじり、一瞬、機械の中を異物がころげ去る乾いた音がした。まるで悪意に満ちた何者かの忍び笑いのように。
生産現場の責任者にとって、異音は面倒な事態の始まりを意味する。操業を一旦止めて異状の有無を点検しなければならない。場合によっては、機械を分解して異物を回収し、組み立て直してから再起動させることになる。その間、工場の稼働率は下がり、悪くすると、生産計画、労務管理、そして納期にまで影響が及ぶ。葦男自身は工場の現場責任者ではなかった。が、リスクに敏感な「生産現場の耳」は持っていた。だから、面倒な事態を瞬時に直覚し、そこに機械の悪意を感じたのかもしれない。
葦男は形象詩としての俳句の可能性を窮めようとし、柔軟にして鋭敏な視覚の働きを見せたが、音や声を詠むことに消極的であったわけではない。第一句集『火づくり』の冒頭近く、新婚生活のスケッチである
戸を繰つて妻朝鵙の声の中
書に朝日大根刻める音きこえ
などの作例に始まり、解離性大動脈瘤に倒れる直前、1993年1月の新年詠
わが撞きし音の中なる初景色 『過客』
に至るまで、生涯にわたって健全な聴覚の働きを示す作品を数多く残している。
しかし、その一方、『火づくり』後半、「地の章」「火の章」に相当する時期、すなわち、1952年から1962年に至る約10年間の壮年期作品には、どこか病的な音表現、不安神経症的な聴覚の句がしばしば現れるのだ。
機銃音よりひややかに計機自動せり
ぼくという蜜の流出 浴びる電話
音でたたかう局員の胃にどさどさ封書
音が刺さつた脳たちが過ぎ濡れるベトン
機銃音よりも冷酷な自動計算機の音。自己の内面を溶融、流出させる電話のベル。そして、人々の胃や脳に日々過大なストレスを与える騒音や命令・叱責の声。これらの作品には前衛俳句を生み出した時代のアクチュアリティ=前期高度成長期の躍動感と疲労感が、聴覚的表現により色濃く焼き付けられている。
さて、ここで冒頭の句にもどる。
筆者は先ほど「生産現場の耳」と書いた。だが、機械の異音に嗤笑を聞く葦男の聴覚は、すでに単なる産業戦士の職業的聴覚という範疇を超えていよう。機械の声が聞こえる耳。それは山川草木に憑りつく精霊と対話する古来のアニミズムとは一見無関係に見えながら、実は深いところで通底する「反自然的アニミズムの耳」ともいえるのではないだろうか。
●―8青玄系作家の句/岡村知昭
爆音に声を獲られて道化めく 林田紀音夫
「青玄」昭和29年(1954年)2月号掲載、第一句集『風蝕』に収録。
少し離れたところにいる相手に何か伝えようと呼びかけてみようとするのだが、轟く「爆音」に自分の声が紛れてしまって相手は「はあ?」と疑問のまなざしをむけて来る。ならばとばかりに声を張り上げてみるのだが、何度やっても自分の声は「爆音」にかき消されてしまうばかりでどうしても届かない。これではどうしようもないと今度は身振り手振りで伝えようとするのだが、それでも伝わっているのかいないのかは実に心もとない。だんだんと大きくなる身振り手振りで何とか相手になにごとかを伝えようとする自分の姿は確かにサーカスの道化役のそれかもしれない。道化役を見物客として笑っていた自分が、いまは笑われても仕方ない姿を周りに見せているのがどうにもたまらなく哀しくてならないのだが、その気持ちをこらえて大きな身振り手振りは繰り返されるしかないのである、私のこの思いがなんとか相手に届いてくれないか、との願いをすべての身振り手振りに込めて。
上掲の1句において自分の声をかき消してしまった「爆音」が、いったいどこからもたらされたものなのかは一切明らかにはされていないが、雑誌掲載時の上掲句の前後を見てみると、
鉄橋の下の古風な薄暮に遇ふ
汽車鳴りて夜は遠国へ行くごとし
といった句があるところからして、上掲句の「爆音」は線路沿いで目の当たりにした列車の通過音と見るのが適当だろう。さらに見てみると、鉄道の響きをモチーフにしたと作品としては、
機関車の滾りて黒き声発す (昭和28年6月号、句集未収録)
ことごとく車輛ひびけり金魚沈む (昭和28年9月号 同上)
重車輛過ぎてあはれに梁軋る (昭和29年8月号 同上)
といったものがあり、どの句においても列車の響きは自分自身の存在のあり方を強く脅かしかねないものとしてそれぞれの作品に表われてくる。「黒き声」は蒸気機関車の黒い車体と相まって自分に迫り、とどろき渡る通過音に無力であるしかない「金魚」に「梁」にはは自分自身の無力さの表れがはっきりと込められている。
列車の通過音を表す言葉としては飛行機や自動車のほうが似合っていそうな「爆音」より「轟音」のほうがふさわしく思えるところもあるが、それでも紀音夫は「爆音」を選び、とどろく音に振り回されている自分自身を「道化」と描くことによって、耐えられないほどの自分の卑小さと、その現実を引き受けなければならない現実を笑ってみようとしたのかもしれない。それは自嘲とか自虐とかいった言葉にはどうも収まりきれないものを持っているのだが、どこかで自分を笑う存在に対して自分のいまの「道化」の姿を見せつけようとしているかのようでもある。紀音夫の耳には列車の通過音に工業地帯の重機たちが発する機械音の響きが途切れることなく響き渡っている。そんな「爆音」のまっただなかにあって、卑小極まりない自分自身の像をなんとか立ち上がらせようとする紀音夫、この前年(昭和28年)には同人誌「十七音詩」が創刊、俳人としての歩みは日々の鬱屈の中にあっても着実に進みつつあった。
●―9上田五千石の句/しなだしん
水透きて河鹿のこゑの筋も見ゆ 五千石
第一句集『田園』所収。昭和42年作。この句の自註(*1)には、
甲州下部温泉に、高野寒甫、鈴木只夫と遊ぶ。下部川の清流に眼を洗い、河鹿の笛に耳を浄めた。
とある。
下部(しもべ)温泉は、甲府の南側、富士山の西側に位置し、下部川の上流域にある温泉で、古くは“信玄の隠し湯“と云われた温泉街である。
去る六月初旬、私もこの下部温泉に脚を向けた。私がこの地を訪れたのは、この下部の近くの一色というところで螢を見るためで、少しであるが、久しぶりに螢を見ることもできた。宿泊したのは、下部温泉の中でも老舗と言われる“湯本ホテル”である。この湯本ホテルは下部川の川沿いにある、築30年という鄙びた宿だ。
客室の窓の下は下部川で、その川瀬の音の大きさにやや戸惑った。それと同時に聞こえるのが、清流にしか棲まないと云われる河鹿蛙の声である。河鹿笛は清らかな瀬音に相応しい美しい声で鳴き、普通声のみが聞こえるだけでその姿を見るのは難しいと云われるが、この日、偶然に姿を見ることもできた。
五千石もこの地で河鹿笛に親しんだのだろう。
ちなみにこの下部温泉は虚子が逗留したことでも知られており、逗留時の作「裸子をひつさげあるくゆの廊下」があり、当地には「裸子」という俳誌もあって俳句が根付いている。
なお、この“湯本ホテル”には、虚子逗留時の記念写真が残っており、宿の主人にその写真の幾つかを見せていただいた。きっと虚子も河鹿を聞いたはずである。
◆
さて、今回のテーマ「音」について、はたと困った。五千石に「音」という文字を使った句はほぼ無く、音を喚起させる句さえ非常に少ないのだ。
渡り鳥みるみるわれの小さくなり 五千石
萬緑や死は一弾を以て足る
水馬水ひつぱつて歩きけり
いちまいの鋸置けば雪がふる
女待つ見知らぬ町に火事を見て
これ以上澄みなば水の傷つかむ
たまねぎのたましいいろにむかれけり
などの五千石の代表作を見ても、音を感じさせる句が無い。それどころか、そこにあるのは深い無音と言ってもいい。
五千石の作句は、“眼前直覚”という言葉からも、自らの研ぎ澄まされた視覚と、そこから得られる情念から産み落とされていたのではないかと思うのである。
◆
そういう意味で、冒頭の「河鹿」の句はとても貴重な「音の一句」である。しかし、実はこの句も、「河鹿笛」を読みながら、その聴覚から”こゑの筋“という視覚への転換がなされていることは見逃せない点である。
*1 『上田五千石句集』自註現代俳句シリーズⅠ期(15)」 俳人協会刊
●―10 楠本憲吉の句/筑紫磐井
オルゴール亡母(はは)の秘密の子か僕は
音といって、多くの人に思い出される憲吉の俳句はこの句であろうか。桂信子も憲吉の愛唱句としてあげていたと思う。それにしても桂信子という激しい女流と、いい加減な楠本憲吉が日野草城の同門で付き合いがあったということ自体面白く思われる。ただ桂信子のこの句の解釈は読み違いがあるように思われる。信子が述べているような母恋の句などではないように思うからだ。憲吉35歳の時に母親はなくなっているが、いかにも作りごとのような俳句である。だから私はむしろ次の句が好きだ。
終い湯の妻のハミング挽歌のごと
恐怖心が漂ってくるような句だ。憲吉の家庭俳句は、半分虚構、半分事実であろうし、ことによると沈黙したまま語らない危険な部分もあっただろう。フィクションとしてのクスモト家を憲吉全集からたどることはまことに面白い。ここには何らかの人生の真実がある。
ところである著名な女性俳人に、憲吉の俳句を読むようにすすめたところ、「女や火遊びに自信があるのだろう、読者が男ならおもしろいかもしれないが、女からすると感じがよくない、こんな男の本心が見えたらうんざりでこんな男は敬遠したい」と言われた。以来私の人格そのものを疑われているところがある。あまり人に俳句を読むことを勧めるのは考えものだと反省している。
しかし、源氏物語の光源氏だとて、同時代人だと見たらたまったものではない。憲吉もなくなっているからこそ安心して句を鑑賞できるのだ。
「終い湯」につかっている妻は一見謙虚に見えるが、湯に浸りながら鼻歌で歌う「挽歌」は夫の心胆を寒からしめるものがある。湯船の中で開放された意識の中で、どこかうっすらと夫のなくなったあとの年金や保険金を想像したり、再婚の可能性もまだまだ捨てたものではないと思っているかもしれない、若干の殺意があったっておかしくはない。良妻賢母を詠むことに慣れている俳句に対して、シニカルな真実を憲吉は提供する。川柳とは全く異質だ。笑ったあとで顔面が凍りつくようだ。
おそらくどんなに愛している妻にしても、5%ぐらいはこうした意識があるはずである。ことによると95%納得する妻もいるかもしれない。そうした真実を、ことのほか憲吉は愛していた。憲吉しか詠めなかった世界である。憲吉を読むと、世の常の愛妻俳句など嘘っぽくて読めなくなる。
●―12 三橋敏雄の句/北川美美
正午過ぎなほ鶯をきく男
掲句、至る所で鶯が鳴いている光景が浮かぶ。けれど、この男、鶯を本当に聞いているのであろうか。「正午過ぎなほ」これは、小原庄助さんを兼ね備えつつマニアックでマイペースな男である。午前中からずっと鶯の声を聞き、午後になってもまだ聞いている。「きく」と書いてあるが、この男、実は「聞いていない」と解釈する。それは、「なほ」からくるもので、尋常ではないことを想わせ、想像力が働く。男に焦点を当て、この男が別の事、言うなれば人生について思い巡らしていると想像する。往々にして三橋作品から音が聞こえない気がする。
凩や耳の中なる石の粒 (*1) 『しだらでん』
梟や男はキャーと叫ばざる
すさまじい凩の音よりも耳に入った石粒が気になる。男はキャーと叫ばない。やはり筆者に「音」は聞こえてこない。白泉は、「玉音を理解せし者前に出よ」「マンボでも何でも踊れ豊の秋」「オルガンが響く地上に猫を懲す」「鶯や製茶會社のホッチキス」などの音から起因する句、それも一拍ずれているような音が聞こえる気がするが、敏雄の「音」は消えている。極め付けなのは、下記の句。
長濤を以て音なし夏の海 『長濤』
映画の中でミュートをかけたように意図的に数秒間「音」が消え、映像だけが流れる効果に似ている。敏雄は、唯一、音楽が苦手だったようだ。「やはり」と思ってしまう。それが俳句の上で効果となっている。「音」を読者に届けるのではなく「言葉」による音の想起を促している。ひとつの物音も俳句を通し読者に想像させる力を持つのである。欲しいのは言葉、そして俳句ということか。
「鶯をきく男」、ウィスキーグラスを片手にただ遠く流れた時間そして人生を想っている気がしてならない。
李白の詩がある。
『春日醉起言志(春日 酔より起きて志を言ふ)』(*2)
處世若大夢 世に處(を)ること 大夢の若し
胡爲勞其生 胡爲(なんすれ)ぞ 其の生を勞する
所以終日醉 所以(ゆゑ)に終日醉ひ
頽然臥前楹 頽然として前楹に臥す
覺來眄庭前 覺め來りて庭前を眄 (なが)むれば
一鳥花間鳴 一鳥 花間に鳴く
借問此何時 借問す 此(いま)は何の時ぞと
春風語流鶯 春風 流鶯に語る
感之欲歎息 之に感じて歎息せんと欲し
對酒還自傾 酒に對して還(ま)た自ずから傾く
浩歌待明月 浩歌して明月を待ち
曲盡已忘情 曲尽きて已に情を忘る
「鶯をきく男」の句は李白の詩そのものである。マーラー(*3)はこの李白の詩を原作とし連作歌曲『大地の歌(Das Lied von der Erde)』を1902年48歳のとき作曲している(*4)。そして敏雄は、1969 (昭和44)年49歳のときに掲句を得た。俳句形式となった17音は読者の脳波に変換され響き渡るのである。李白をもとにマーラー、敏雄と古典は永遠に人を酔わせ新たな名作を生む力がある。
敏雄は、永い船上勤務で、ひとり、遠く陸を想う時間を過ごしたであろう。「なほ鶯をきく男」はやはり酒を呑みながら世をながめている男であったか。鶯の鳴声(「なお鳴く鶯」すなわち「老鶯」であろう)は、敏雄の中で静かに消されている気がする。
*1)ちなみに白泉に「木枯や目より取出す石の粒」がある。
*2)李白(701-762年)『李白詩選』(松浦知久訳/岩波文庫)
*3)マーラー(Gustav Mahler, 1860 – 1911)
*4) 1986年サントリー・ローヤルのCM(http://www.youtube.com/watch?v=NSlVsnMbZ48)に『大地の歌Mov. 3』(http://www.youtube.com/watch?v=lb9KnrrvDc8)が使われた。
●―13成田千空の句/深谷義紀
藁打つ音くぐもり轍深みゆく
第一句集「地霊」所収の句である。
「音」にまつわる千空の句は、前回の「色」の句に比べるとその数は少ないが、二つの傾向に大別されるように思う。
一つは、作品の対象そのものして「音」が採り上げられたもの。
牛飼ひの大声秋の戸口より 「人日」
早苗饗のあいやあいやと津軽唄 「天門」
畜産に携わる男の野太い声、早苗饗で披露される十八番のあいや節。いずれも津軽の郷土色豊かな作品である。
他方、現実世界ではなく、心象風景のなかの「音」を捉えた作品もある。
娶らんとこころに藁戸藁の音 「地霊」
墨磨れば墨の声して十三夜 「白光」
こちらは多様多彩である。
津軽の地で生涯を送った千空であるが、存外(と言ってしまうと語弊はあるが)その作品の幅は広い。とりわけ「墨磨れば」のように繊細な感覚が発揮された作品に心惹かれるものが多い。他の例を挙げれば、
ハンカチをいちまい干して静かな空 「地霊」
冬深し秤が元へ戻る音 「 〃 」
などである。「冬深し」の句は、実際には秤の微かな音を耳にしたことで一句が生れたわけであるが、描かれているのは冬の厳しさに向かい合う心である。
さて、掲句である。上記分類の“止揚形”とでもいえようか。この句も、冬の夜、戸内で藁を打つ音を聞いたことが制作の契機になっているが、そこから眼を転じ、戸外の雪道に思いを馳せたことで詩情が生れた。轍の深さは雪の多さや冬の厳しさの象徴であり、更にはその地で生き抜く人々の暮らしぶりが見えてくる。津軽に生きた千空らしい一句だと思う。
●―14 中村苑子の句【テーマ:水妖詞館ーあの世とこの世の近代女性精神詩】吉村鞠子7.8.9.10.
2013年3月29日金曜日
7 遠き日へ稲妻走る蝸牛
誰しも「遠き日」を持つ。一般的な俳句でそれを詠めば、懐かしき回想や郷愁の句になることが多いが、此の句にはその種の抒情は感じない。遠き日は、辛苦の日々であったのだろうか。消したい過去の出来事なのか。身を劈くような恋であったのか。
稲妻のゆたかなる夜も寝べきころ 中村汀女
いなびかりひとと逢ひしき四肢てらす 桂信子
汀女の「ゆたかなる」は、秋の実りを願う明るい稲妻であり、信子の「いなびかり」は、艶やかに閃光を放つ。この二句の具象性に比較すると、苑子の句は、具体性がない。「遠き日」の説明がない為、読み手は、戸惑いつつ稲妻が走ってゆく衝撃を感受するだけである。
「稲妻が走る」というその表記に寄り、稲妻が鳴ると、遠き日へ一瞬のうちに呼び戻されるという仕掛けがある。
苑子には、曖昧に何かを匂わせる句が多いが、此の句もその一つであろう。終わってしまった出来事よりも、稲妻が鳴ると、躰が戦慄するその異様な感覚だけを書き留めておきたかっただけかも知れない。
そして、その「遠き日」の忘れ物のように、蝸牛は背に堅い殻を負い、稲妻を聞きながら静かに濡れている。
苑子は、蝸牛に自を投影しているのではないだろうか。
8 母音漂ひ有刺線を蔓巻く唄
「母音」本来の意味よりも、末尾の「唄」に「母」の「音」が響いてくるように仕立てられている。
「母音」は漂って、「唄」は蔓を巻く。七、六、六の破調構成が、唄の余韻と有刺線の絶対的威嚇に絡まりながらも、苑子の半生では、日常に見掛けたであろう錆びた有刺線に昭和の郷愁なども窺える。
けれども、母音、即ち母の音、母の存在とは、有刺線の如きものを破ろうと葛藤するのではなく、ゆっくりと知らぬ間に蔓を巻くのである。無論、母は有刺線から逃げない。錆びきった有刺線が活き活きとした植物の蔓に巻かれて、いつしか朽ちていくこともあるかも知れない。苑子の母の時代、また、苑子自身の母という名の女の強さ確かさと、「有刺線」という語彙を選択した時代背景の女の情念が此の一句に込められているのではないか。
強い語彙を挟みながら、上下で郷愁を誘う手法は、前述の7「遠き日へ稲妻走る蝸牛」とも似ている。
「有刺線」でなければつまらない母恋句になってしまう。
尤も、苑子にとってはこれが、母恋句なのかも知れないが・・・。
9 木の国の女の部屋の霜格子
「木の国」、それは、紀伊の国の旧名。また、紀州の神降ろしの祭文から説き起こした、吉原周辺の端唄の一つでもある。
紀伊の国の女を詠んでいるとしても、近代までの繊細な日本女性の抒情を思わせる。
「サンダカン娼館」という映画がある。以前、韓国の従軍慰安婦が世間を賑わせたが、その日本人版である。それは、戦争背景があるにはあるが、戦前(大東亜戦争前)は、口減らし、そして、家族の生活の為、貧しい生まれではあるが、普通の少女が売られていった。
平塚雷鳥や市川房江らによって、婦人参政権を獲得してから、70年にも満たない。
私は、少女時代に父の実家へ行くと、食事の際は、優しい祖父の膝の上に乗れるどころか、父が末っ子だった為、末席近くの卓に母や姉妹と座っていたのが不思議でならなかった。つい、40年前の話である。
「霜格子」、それは、木の窓格子に沁みついた女達の汗や泪が霜と混じり合い、黒々と冷たく光る。雪のように白く柔らかく溶けてゆくのではない。
国から部屋、そして、窓へとズームインしていきながら、霜格子に焦点を当てた書き方は、読み手が抵抗なく自然の流れの中に、薄倖な女を想像する効果を与えている。
苑子を形作ったその時代は、7・8の句と続くように、現代とは較べようもない日本の女の在り方であり、忍耐の果ての強靭な生命力は、創造性を脈々と育成させて現代に繋げていったのだと思う。
句集『水妖詞館』には、そういった時代に生きた女を見詰めつつ、自らも垣間見て、日本女性の現代に至るまでの過渡期を過ごした精神性の詩としても貴重であると思う。
同時代を生きた女流俳人は、多々いるが、個々の女の生理感情を描いたり、嫋やかな大和撫子の抒情を書かれたりしているものも多く見受けられる。苑子は、時には自虐的に、客観的に、自己を通して日本女性を語っているのではないだろうか。
10 火の色の石あれば来て男坐す
富澤赤黄男の昭和27年刊行の句集『蛇の笛』には、「石」の句が多く掲載されているが、その一部を抜粋する。
石の上に 秋の鬼ゐて火を焚けり 富澤赤黄男
冬の石 搏てば わが掌の石も鳴る
夏ふかく むんずと坐る 石のくろさ
石磈の上に わが影 黒く生きよ
石を嚙む 氷 氷を嚙むか 石
ひきずるは 石の棺の音と知れ
苑子は、その5年後『俳句評論』を高柳重信と共に立ち上げているので、同人である赤黄男の句集は、熟読していたであろう。
「石」の句は、有名、無名、多々あるが、赤黄男の句は硬質で凄絶である。無意識のうちに赤黄男の句を踏まえているように窺えるし、憧憬をも否めない。
「火の色の石」に坐す男は、朱々と燃える石と同等な強烈な個性と肉体を兼ね備えた男、であると思い込んでいたが、どうやらそうでもないらしい。
高橋睦郎氏の見解を引く。(『鑑賞女性俳句の世界第3巻』角川学芸出版)
私たちはともすると、火は男、水は女と考えがちだが、ほんとうにそうだろうか。たとえば男を水の性と考えてみる。男が水の性ならば、女は火の性。水の性の男は火の性の女に惹かれる。惹かれるままに来て、女の上に坐る。男が女よりどっしりした存在だというのも、言い古された俗説にすぎないのではないか。女のほうが石のようにどっしりしているというべきではないか。洋の東西を問わず、伝説の中で石になるのは女だ。はんたいに男はたえずふらふら動きまわり、火の色の、つまり女という名の石があると、ふらふらと来て、その上に座る。火の石の上に座るのだから、水の男はたちまち蒸発を始め、だんだん稀薄になり、ついには消えてしまう。それが男の性で女の性だ。そういうことではなかろうか。
「火の色の石」が女であるという観点は、古代より培われてきた女の性を、民話的且つ御伽噺のようなエロティシズムを含み、苑子の句に内包されるものを言い得ているようである。
いずれにしても「火の色の石」は誠に魅力的であり、それを感受し、坐す男もまた繊細で逞しい魂を持ち得ているのであろう。
苑子のもう一人の憧れの俳人、三橋鷹女の「石」の句も記しておく。(『羊歯地獄』所収)
石に花 禁猟地帯石括れ 三橋鷹女