思ったことを書く。
梅咲いた。人わらはせる芸つらし 堀本吟
つらい。他人はなかなか笑ってくれない。これでもかと笑わせにかかって、ようやく笑ってくれたとしても、今度は「自分、どうしてこんなことをしているのだろう」と情けなくなって、つらい。芸をする人はみんなそうだ。この国で初めて芸をしたひともそうだった。古事記に登場する海彦のことである。永六輔の本から引く。
「海彦・山彦の話はご存じでしょう。山彦は海彦から借りた釣針を無くしてしまい、もとの釣針を返せと迫られて困りはてる。そうしたら、海の神さまが山彦に同情して釣針を探し出し、それだけじゃなくて、傲慢な海彦を懲らしめるために、山彦に不思議な力を授けるんですね。それで山彦が勝者になる。/それ以来、海彦の一族はその負けたときのありさまを、山彦の一族のまえでずっと演技しなければならなくなるんです。/神話ですが、これが「芸人」のはじまりということになっているんです。」(永六輔『芸人』岩波新書・一九九七年)
海彦、つらかったろう。人を笑わせることはもともと罰だったのか。
ところで古事記はこの海彦を「わざおぎの民」と呼んでいる。わざおぎ、「俳優」と書く。俳人としてはここで一気に彼に親近感がわく。俳優も俳句も、同じ「俳」の字を持った仲間だからである。同じ字である以上、どこかしらで繋がっているのだと思う。ただそれは、また別の話になる気がするので、置いておく。ここでは無邪気な連想ゲームにとどめておいたほうが、気楽だ。
俳優といえば、劇。俳句を読んでいるとときどき、俳句と劇は似ている、と思う。まず第一に、見せられたものしか知ることができない。
宝舟すこしはなれて宝船 堀田季何
宝舟と宝船がありました。それだけしか教えてくれない。どうしてふたつあるの。どうしてすこしはなれてるの。どうして舟は種類が違うの。明快で親切な小説なら、このあと地の文でいきさつを書いてくれるかもしれない。けれどもここでは、舟がふたつあるところを見せて、それっきり。
コミュニケーションが成り立たない。舞台上にある大道具、あるいは意味ありげに発せられた科白。舞台の構成物でありながら、その目的は、向こうが説明しない限り、分からない。この一方向性においてまず、俳句と劇は似ている。
夏芝居後姿の泣いてゐる 小沢麻結
芝居を見ていて、役者の後姿が泣いているように見えた。理由があるのかもしれないが、聞くことはできない。後姿が泣いているように見えた時点で、俳句にしてしまったから。こっちから話しかけることができないのは、ものすごく一方的で、ちょっと理不尽である。
おしぼりが正位置にある福寿草 上田信治
どうして正位置なの。どうしておしぼりなの。おしぼりが正位置にあることしか、わからない。もっと言うと、どうして福寿草なの。この問題は、取り合わせの俳句を読むときに、ずっとついて回る。どう考えてもこの季語以外にありえないのだが、なぜそうなるのか、見当がつかない。やはり、理不尽。
劇が面白いのは、劇場で見るからだろう。劇場に入ることで、仕切りが生まれる。
一時間前ははうれん草畑 依光陽子
一時間前、ほうれんそうと土の色に囲まれていた。いまはどこにもないが、あのあおあおとした感じが、まだ体のどこかに残っている。「まだ」と思うのは、ここがほうれん草畑ではないからだ。どこまでも仕切りなくほうれん草畑だったら、なんとも思わない。
鳴りやんで涼夜や耳鳴りだったのか 池田澄子
耳鳴りが止まって初めて耳鳴りだったと気づく。仕切りがあるから気づく。もちろん、耳鳴りなんてしないほうがいいけれど、それでもびっくりするのは楽しい。
劇場は仕切りだ。そしてそのなかに、舞台という仕切りがある。
我を指す人差指や師走の街 林雅樹
包丁ら青々として芒種の町 小野裕三
この仕切りは、劇作家が作る。ここから先は師走の街である、芒種の町である、そう決めました、と。一方的な仕切り。見る人間は、従う。その人々はたいがい好意的なので、従うのが楽しくて来る。小説家が、師走の街をいかに読者に歩いてもらうか、必死になるところを、劇作家は、俳人は、「師走の街」と言えば、とりあえず信じてもらえる。つくづく変な形式だと思う。
信じてもらえるのは、このあと何かが起こるという、信頼関係があるからだ。「劇的な」という形容詞があるように、劇は、何かが起こる前提にある。「劇的な」という言葉の「劇」を「激しい」くらいの意味で思っている人が多いけれど(じじつ「劇」の第一義は「激しい」である)、「劇的な」というときには、劇に出てくるようなありさまを言う。
北窓を開きそのまま海のひと 近恵
窓を開けるという物理的な行動によって、春を呼ぶ。開けたら見える海に、そのまま同化してしまう。快感。そして劇的。書いた後に思った。この言葉、少し便利すぎるかもしれない。短い俳句のことだから、起承転結の「転」を持ってきたくなる。
新涼の神父三角座りだが 岡村知昭
神父が三角座りの時点で、かなりどきっとする。秋は寂しくなりやすい季節であるにしても、神父ともあろう者が、三角座り。しかも話はここで終わらない。「だが」って、まだ何かあるのか。二転三転、ドラマチック。
ドラマチックになるという信頼感は、ときに先走る。
電話機を見れば鳴りさう秋の昼 林雅樹
電話なんて一日のほとんどを沈黙しているのに、鳴りそうに見える。電話が鳴るわずかな瞬間こそが、電話の本領だから。あの電話、鳴るぞ。鳴っていないうちから思う。
幽霊の飛び出しさうな冷蔵庫 小久保佳世子
冷蔵庫は幽霊が飛び出してくるもの……ではない。死体が入っていることはあっても、幽霊が出てくるなんて話、ちょっと聞かない。「幽霊の飛び出しさうな(状況下にわたしの目の前にある)冷蔵庫」と言えば、少しは理屈で説明できそうだ。怖い話を聞いたあと、トイレに行けないのと同じ。幽霊が出るにちがいない、という期待。
盆の家みんな眼鏡をかけてゐる 仲寒蝉
そこにいる人みんな眼鏡。もしかしたら気づかないだけで、日常にそんなケースはたくさんあるかもしれないが、ここはわざわざ区切られた舞台だ。みんな眼鏡をかけていることが、意味めく。
劇に必要なものもう一つ、演技。
頬被りして笑い皺深うせり 後藤貴子
鬼灯の赤を呪ひの道具とす 中山奈々
何かを身につけたり、使ったりすることで生まれる仕切り。劇作家の平田オリザが、書いていた。「プライベートな空間では、演劇は成立しにくい」(平田オリザ『演劇入門』講談社現代新書・一九九八年)。頬被りをすること、鬼灯を道具にすること、そんな変化で、劇が始まる。
はつとして今虫売でありにけり 西村麒麟
演じている自分までびっくりするくらい、演じる。なんで自分は虫売なのだろう。何者かになる行為自体が、ドラマチックである。見る方も、見せる方も、劇の中で、だまされる。
松だよとだまされてをる小春かな 山田耕司
だまされていると知りながら、いい気分になっている。ううん、劇も俳句も、不思議な営みだなあ。
【筆者略歴】
1995年北海道生まれ。「里」「群青」同人。俳句甲子園第15、16回出場。
現在、筑波大学に在学中。